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 やっちゃえ、タミヤ!

 プラモデルの老舗メーカーである田宮模型(以後タミヤ)が、なんだか面白いことをやっていたらしい。このところ絶版プラモの収集という沼にはまっていた僕は、このことに全く気付かなかった。不覚だった・・・!

 タミヤが2000年に、エンジン音、主砲や車載機銃の発射音、主砲のリコイルなどを再現した1/16RC(ラジオコントロール=ラジコン)戦車を発表した時は、正直ここまでやるか、と驚いたものだが、今回の企画はもっと気軽に楽しめて、おまけにちょっぴり懐かしい。

 タミヤはここ20年ほどの間に、1/16RC戦車で培ったノウハウを生かし、往年の1/25キットにRCユニットを載せて復活させたり、主力である1/35戦車キットをRC化したりして、動く戦車プラモを拡充させてきた。タミヤは戦車プラモのラインナップが充実していることで有名だが、調べてみると、こうした動く戦車プラモの歴史は1962年までさかのぼることができる。実はこの時発売した最初の戦車プラモが当時存続の危機に直面していたタミヤを救ったという過去があり、以来タミヤは戦車プラモとともに歩んできた、と言っても過言ではない。

 1950年代の末、模型業界は木製模型からプラモデルへの転換期を迎えていたが、この動きに出遅れたタミヤは1962年、社の命運をかけて「パンサータンク」というモーターで動くプラモデルを発売した。するとこれが大当たり。危機を脱したタミヤはこれを1/35スケールとしてシリーズ化、次々に新製品を世に送り出した。

 1968年、タミヤは1/35ミリタリー・ミニチュア(MM)シリーズと称して、新たにディスプレイ専用のシリーズを発表。もとより模型といえばディスプレイモデルが主流だった海外の事情も視野に入れ、より精密かつ正確な再現度のキットを目指した。その後タミヤオリジナルの工具等も続々とラインナップ。こうしてプラモデルは「子供のおもちゃ」から「大人のホビー」へと変遷していった。

 1980年代になると、ガンダムなどのキャラクター商品の台頭と時を同じくして戦車模型離れの時代が訪れたが、1989年、タミヤは渾身の名キット「タイガーⅠ型後期生産型」で、離れかけたモデラーの心を繋ぎ止めることに成功。その後新たなブームが訪れ、戦車模型専門誌まで発刊されるなか、動く戦車プラモの集大成として、2000年にⅠ/16RC戦車シリーズが発表されたことは先に述べた通りだ。そして2012年。

 この年タミヤは、MMシリーズのクオリティを維持しつつ、新設計のギヤボックスを搭載した「1/35戦車シリーズ(シングル)」を発表し、ファンを驚かせた。62年前の「パンサータンク」の遺伝子を正しく継承した、「動く戦車プラモ」だ。しかもその第一弾となったキットの一つはパンサーG型。つまり62年前にタミヤを救ったあの「パンサータンク」なのだ。

 そもそもパンサー戦車の足回りは、1/35程度のスケールでは自重で弛む履帯(キャタピラ)の再現が難しく(実際ポリキャタピラではいまだに再現されていない)、動く戦車には向かない。それをあえて第一弾にもってきたとなれば、何らかのこだわりがあったとしか思えない。おそらく企画する側にとっても、「パンサーG型」は原点回帰を狙ってのアイテム選択だったのだろう。ちなみに「シングル」とは、本体についているスイッチで前進のみ(キットによっては後進も)が可能なキットのことで、初代「パンサータンク」もこの方式だった。

 僕がこのシリーズを知るきっかけになったのは、2014年の「イギリス戦車マークⅣ(シングル)」の発売で、実際にシリーズ化されていることを知ったのは、さらに10年後の今年に入ってからだった。この新しいシリーズはスキルレベルがそれなりに高く、往年のキットのように子供が気軽に楽しめるものではないが、1960~1980年代のタミヤを知るものにとっては懐かしく、楽しいキットであることは間違いない。でも僕個人としてはあまりこのシリーズを拡充されると困るなあ。なぜかって?言わなくたってわかるでしょう、そんなこと。

左 イギリス戦車マークⅣ(2014年発売)  右 アメリカ軍M4A3シャーマン戦車(2012年発売、買ったのは今年)どちらもまだ汚しはかけていない(マークⅣは勝手に汚れていた)。ギヤボックスが工夫されていて、それぞれスケールに見合ったスピードで走る。楽しい。次はパンサーGか。

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 鉄道という魔法

 列車に乗って旅をしたい。普段は車を使うことが多いが、車での移動はなぜか旅のイメージがわいてこない。旅をするには、多分一種の手続きが必要なんだと思う。切符を買うことに始まり、旅の入り口である駅まで赴く。そうすることによって、初めて日常から切り離される気がする。車の移動ではこうはいかない。家の駐車場で車に乗り、いつものように運転し、目的地で降りる。風景が変わっても、そこは日常の延長でしかない。そう考えると、駅の役割は大きい。それは旅の始まりと終わりを象徴するだけでなく、かつては新たな人生の始まりや慣れ親しんだものとの別れをも意味する、特別な場所だった。

 今、手元に「ふるさとの駅」という写真集がある。まだJRが国有鉄道、いわゆる「国鉄」だった1973年の出版で、地方の駅を撮影した写真にはSLに牽引された列車が写っていたりする。古びた駅舎は当たり前のように古びていて、まだ「保存」という動きが始まる以前の姿だ。写真に添えられた短文も趣があってなかなか良い。それから42年後の2015年、「青春18きっぷ ポスター紀行」という写真集が出版された。これはJRが1982年から販売している「青春18きっぷ」のポスターに使われた写真を集めたものだ。今年の春からは「鉄道ポスターの旅」と題して、それらの写真が撮影された場所を訪れる紀行番組も放送されている。道理をわきまえない不届きな撮り鉄は置いておくとして、時代が変わっても鉄道の持つ魅力は、ファンの心を魅了して止まないようだ。

 この手の番組を見ていると、今でも非電化区間が多く残っていることに驚かされる。電化されていない路線には、当然のことながら気動車(エンジンで走る車両)やディーゼル機関車しか入れない。反面、電力を供給する架線や電柱がないので、空が広く、美しい鉄道写真を撮ることができる(添付写真参照)。こうした路線には無人駅が多いが、タブレット(単線で列車が鉢合わせしないための手形のようなもの)交換のために有人のまま残っている駅もある。多くの場合、列車の本数も少ないので、旅客のいない空白の時間帯には駅が静寂に包まれる。

 そういえば20年ほど前、職場の同僚と奈良県の室生寺を訪れたときに、近鉄大阪線の「室生口大野」という小さな駅で、僕らはちょっとした非日常を体験した。室生寺という名刹(さつ)の玄関口であるにもかかわらず、駅前は人影もなく閑散としていて、驚くことに、一軒しかない商店が荷物預かり所(!)を兼ねていた。5時に閉店するからそれまでに戻るように、と言われたのだが、20年前といえば2004年。都市部では午後5時に閉店なんてあり得ない話だ。だがここではそれが「日常」だった。

 室生寺を拝観したあと、日が傾き始める頃に駅に戻ったのだが、次の列車を待つ15分ほどの間、聞こえてくるのは折から降り始めた雨の音だけ。僕たち以外ホームに人影はなく、周囲の山並みも雨に煙って見えた。「幽玄」と呼ぶにふさわしい佇まいで、僕たちも自ずと言葉少なになっていった。到着した列車に乗り込んだ時、やっと現実に戻れた気がした。

 学生時代には、友人がどこからか見つけてきた資料をもとに、一駅分の切符でどこまで行けるかチャレンジしたことがある。ある駅から横にそれ、延々と遠回りをして次の駅に到着するという、東は千葉県から西は神奈川県までを網羅するルートだ。

 そんな行程のなか、もう場所も定かではないが、春ののどかな風景に魅せられて途中下車した、千葉県中央部の野中の無人駅では、野生のリスがホームの上で遊んでいるのを眺めながら次の列車を待った。その間人の姿を見ることは無く、僕たちは風の音だけを聞いて過ごした。他の区間のことはほとんど憶えていないのに、なぜかこの無人駅だけは今でも鮮明に記憶に残っている。

 こうした非日常性こそが旅の醍醐味だと僕は思う。そこに至るためのツールが切符であり、入り口が駅なのだ。これはもう、一種の魔法みたいなものだろう。自家用車が普及してからこの魔法にあやかることはめっきり少なくなったが、今でも時々、改札口をくぐって日常を断ち切りたくなるのだ。

 一度掲載した画像で恐縮だが、こちらは非電化区画の例で、電柱や架線が無い。2024年現在もこの路線は電化されていない(水郡線)。
 こちらは電化されて架線のある路線。架線がうっとうしいだけでなく、それを支える電柱やビーム(電線を支える梁)も撮影の邪魔をする(中央西線)。 

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 アニメ「葬送のフリーレン」 褒める、ということ

 (前回からの続き)そういえばこの物語には褒めるシーンが度々出てくる。「偉いぞ」といって褒めたり、頭を撫でたりするのだが、それがなんとも言えない肯定的な雰囲気を醸し出す。年老いた僧侶ハイターをねぎらって頭を撫でるフリーレン。彼女は見かけは世間知らずの少女だが、年齢は千歳を超えている。ハイターは微笑みながら、悪くないですね、と呟く。だがフリーレン自身は頭を撫でられるのが嫌いらしい。本編でも「頭撫でんなよ」と声に出して拒絶するシーンがある。子供扱いされたくないというよりは、褒められ慣れていないので戸惑っているように見える。確かに魔法の技を褒められて得意げになるシーンはいくつかあるが、人格自体を褒められても無感動に聞き流すことが多い。僕としては、物語の最後でより人間的になったフリーレンが、撫でてほしくて頭を自ら差し出すようなシーンを期待しているのだが、果たしてこの読みは当たるだろうか。それとも深読みしすぎかな。

 このアニメのメインとなるストーリーは、魔王討伐の旅から80年後の話だ。何も知らないまま逝かせたことを後悔しているのなら、もう一度会ってヒンメルと話すべきだ、という戦士アイゼンの勧めもあって、フリーレンは新しい仲間(魔法使いフェルン、戦士シュタルク)とともに「魂の眠る地」オレオールを目指す。かつて大魔法使いフランメが「死者と対話した」と記述したその場所は、大陸の北の果て、フリーレン一行が80年前に魔王を倒したエンデにあるという。前回とほぼ同じルートを辿る旅は、そのままかつての仲間たちとの記憶を辿る旅でもあった。フリーレンは新たな出会いを重ねながら、少しずつ人間を理解できるようになっていく。

 TVアニメは28話で終了(中断?)している。マンガは今も連載中なので、この先どうなるかはわからないが、その真意は劇中で言うところの「取り返しのつかない年月」を生きた者にしか理解できないだろう。だがこうした優れた作品がアニメという形態をとれば、馴染みのない「いい大人」は敬遠するに違いない。だとしたらなんとももったいない話だ。大人が見るべきアニメは数多く存在しているというのに。

 そういえば最近読んだ、いかにも「いい大人」が読みそうな本には、面白いものが一つもなかった。とかく理屈をこねくり回し、論点を必要以上に難しくとらえているように思える。だがよくできたマンガやアニメを見ていると、物事の本質はもっと単純なものだ、という気がしてくる。もし「人生はそんなに単純じゃない」と言う人がいたら、「複雑にしているのは、あなた自身かもしれないよ?」と言ってあげたい。

付 録   感動したアニメ

  「葬送のフリーレン」

  「夏目友人帳」

  「バーテンダー」(旧作)

おまけ   最近気に入っているマンガ 

  「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」   ビッグガンガンコミックス(続刊)

  「シェパードハウスホテル」      ヤングジャンプコミックス・ウルトラ(続刊)

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 アニメ「葬送のフリーレン」 独特な死生観

 最近話題になったアニメに「葬送のフリーレン」というのがある。これがなかなか良かった。アニメとしても勿論面白いが、それに加えて妙に人生を考えさせられてしまう、異世界もののアニメだ。原作はマンガで、いくつかの賞を受賞している。

 そもそも僕は異世界アニメがあまり好きじゃない。異世界アニメはゲームから発展した過去があり、設定がワンパターンながら、小技は何でもありという(僕に言わせれば)安易なストーリーが多い。今回もPVで主人公のとがったエルフ耳を見て、「どうせいつものパターンだろう」と、ハードディスクに録画することさえしなかった。それが今回、娘が言った「『夏目友人帳』みたいなところがある」という言葉を聞いてちょっと興味がわいてきた。「夏目友人帳」は何の変哲もない(ように見える)日常のなかでの人間と妖怪の交流を描いたアニメで、大の大人を感動させるようなエピソードが多い。2008年に放送が開始されてから、現在までに第6期までがオンエアされ、今秋には第7期が放送予定という、希に見る長寿アニメだ。それだけ多くの人に愛され続けている証と言って良いだろう。

 さて、本題の「葬送のフリーレン」だが、そんなわけで僕は見もせず、録りもせずにいたのだが、カミさんがリビングのTVでディスクに録りためていたので、休日に見てみることにした。まず気付いたのは、設定が独特だということ。何しろ物語は、主人公たちのパーティー(グループ)が、普通ならメインのストーリーになるであろう魔王討伐の旅を終えた直後から始まるのだ。本編がないのに後日譚が始まるようなものだ。しかも第2話の前半までで80年が過ぎ、主人公たちのうち二人がこの世を去っている。でもこの二人、その後もことあるごとに回想シーンに登場し、物語を動かしていく。こんなアニメ、今まで見たことがない。さらにキャラクター設定や台詞回しが絶妙で、十分大人の鑑賞に堪える出来だ。むしろ子供には少々難しいかもしれない。

 パーティーの一員であるエルフのフリーレン(魔法使い)は、人間に比べると遙かに長寿で、それが人間との意思疎通の妨げになっている。10年にわたる魔王討伐の旅から50年を経て、二人の人間の仲間(勇者ヒンメル、僧侶ハイター)は次々とこの世を去るが、勇者ヒンメルの死に遭遇した時、この人のことをなぜもっと知ろうとしなかったのか、と後悔の涙を流す。もう一人の仲間はドワーフ(戦士アイゼン)で、エルフほどではないにしても人間よりは長寿で、フリーレンは今も年老いた彼のもとを訪ねることがある。この生きる時間の差が、独特の価値観や死生観を生み出している。

 勇者ヒンメルは生前、あちこちに自分の銅像を建てさせた。その理由を聞かれると、自分たちの成し遂げたことを忘れてほしくないんだ、と答える。そしてもう一つ、自分たちがこの世を去ったあと、フリーレンがひとりぼっちにならないように。うーん。なんか優しいぞ、ヒンメル。

 フリーレンはフリーレンで「みんなの記憶は私が未来まで連れていってあげるからね」なんてことを言う。みんなのことは忘れない、必ず語り継ぐ。だから私が生きているあいだは、みんなが生きた証が消えてしまうことはない、という意味だろう。劇中で何度か出てくる台詞だが、とても印象深い。

 もう一人のメンバー、僧侶ハイターは、天国にいる女神様の存在を信じているという。生きているあいだ頑張ったことを天国で褒めてくれる、そんな存在を信じることで安心できる、というのがその理由だ。80年後、新たな旅で出会ったエルフの僧侶も同じようなことを言っていた。懸命に生きた人生が死によって無に帰するなんておかしい、死んだ後も「お前の人生は素晴らしいものだった」と褒めてくれる女神様が必要なんだ、と。まるで宗教哲学の講義を聴いているようだ。その後の彼とフリーレンの会話も印象的だ。自分を褒めてくれた友人を大切にしろ、という僧侶に対して、フリーレンはその人はもう天国にいる、と答える。「そうか、ならいずれ会えるな」「そうだね」          (つづく)

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 いろいろと、天国に一番近い場所

 ゴールデンウィーク明けに茨城県常陸太田市にある竜神峡に行ってきた。日本最大級(全長375メートル)の吊り橋が売りで、5月にはそれに並行して貼られたワイヤーにたくさんの鯉のぼりが掲げられる。カミさんがそれを見たいというので、ドライブがてらに行ってみた。

 この吊り橋は龍神大吊橋といって、龍神川がせき止められてできたダム湖の上に架かっている。歩行者専用で、水面からは約100メートルの高さがあり、バンジージャンプの名所でもある。僕はここで生まれて初めての感覚を体験した。僕はもしかしたら、高所恐怖症なのかもしれない。

 橋を渡り始めてすぐ、なぜか僕は言いようのない不安に襲われた。頭上には五月晴れの空が広がり、爽やかな風が吹いている。橋は道幅もあり、ほとんど板材で覆われた手すりが両側をがっちり固めている。にもかかわらず、足がむずむずする。恐怖と言うよりは不安と言った方が当たっている。景色を眺める余裕がない。なんだこれ。僕は飛行機にも乗るし、東京タワーなども問題なく楽しむことができる。だが考えてみると、それらは密閉された空間だ。周囲が解放されていると、こんなにも不安を感じるものなのだろうか。見ればカミさんも同じような感覚にさいなまれている様子。早く終われ、と念じながら早足で歩き、ようやく対岸にたどり着いた。だが安心してはいられない。この吊り橋は観光用で、こちら側には道路がつながっていないから、駐車場に戻るにはもう一度橋を渡る以外に方法はない。どーすんだこれ。

 行きで多少慣れたのか、僕らの懸念をよそに帰りは思ったほどのことはなく、改めて周囲を見渡すと山々は新緑に覆われ、航路の下に当たるのか、飛行機雲もがいつもより間近に幾筋も見えていた。仰々しいハーネスをつけたグループはバンジージャンプの客だろう。思ったよりも多い。ビックリだ。駐車場に戻り、売店で聞いたところによると、橋の中央部の端から橋桁にあるプラットフォームに降りるそうで、その光景を想像するとまたもや足がむずむずした。今回自分の身に何が起こったのかはよくわからない。こんなことは今まで一度もなかったんだけどなあ。

 帰り道の途中で、来る時に看板を見た東金砂神社にも寄ってみた。一見ひなびた神社だが、実は対をなす西金砂神社とともに、創建806年という由緒正しい神社だ。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折に立ち寄り、多宝塔を建立したとか、ここって一体どういう地域?さらに72年に一度、東西の金砂神社をあわせて10日にわたる大祭礼(500人を超える行列が、神輿を中心として日立市水木浜までの道のりを往復する)が行われるという。西金砂神社から始まり、東金砂神社が三日遅れて出発するこの神事は、最近では2003年に行われた。72年に1度というと、前回は昭和6年(1931年)、次回は2075年。何ともすごい話だ。ちなみに第1回は851年、2003年の催事は17回目だそうだ。

 僕らが訪れた時にはそんな大それた雰囲気は一切なく、人気のない、小砂利を敷いただけの小さな駐車場をスズメバチが飛び回っていた。境内に関係者の姿はなく、参拝者もほとんどいなかったので、山のなかの古寺といった感じ。古寺、と書いたのは誤記ではなくて、神仏習合の影響か、境内に梵鐘や仁王門があったからだ。そのほかに小さな神社には珍しい田楽堂などもある。それらを古びた急な石段が繋いでいて、参拝者は木漏れ日のなかを息を切らせながら登る。この神社が2市町村にまたがる大祭礼の源だなんて、にわかには信じがたい。だが来てみて良かった感は大いにある。お気に入りのポイントが、また一つ増えてしまったな。

 この神社がある常陸太田市は袋田の滝がある大子町のお隣なので、せっかくだから袋田にまわって前回訪れた蕎麦屋で昼食を摂り、例の和菓子屋でお土産を買って帰った。次は西金砂神社に行ってみようかな。龍神大吊橋はもういいや。

 広角で撮っているので実感がないが、脚柱の高さは35メートル、鯉のぼりは一つ一つがフルサイズの大きさ。中央下やや右寄りに写っているカラフルな点々は100メートル下の湖面に浮かぶボート。
 橋の上は舗装されていて何ら不安を感じない・・・はずなんだけどなあ。途中、何カ所か下をのぞける窓がある。
 東金砂神社。駐車場から見た入り口。鳥居をくぐってすぐ右に折れ、この黒々とした山を登る。
 仁王門。急な階段を上ったところにある。次の階段が見えている。写っているのはうちのカミさんです(以下同様)。
 仁王門から田楽堂へと続く階段。
 三つ目の階段を上ったところにある拝殿。この奥に本殿がある。一般人はここまでのようだ。
 本殿裏からの眺望。山の向こうはおそらく高萩市あたり。その向こうは太平洋。

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 まだ使える

 最近昭和が何かと話題になる。昭和という時代に憧れる若い世代の話もよく耳にする。なぜだろう。

 昭和はある意味、今よりも豊かな時代だった。優れた製品がどんどん開発され、「メイド・イン・ジャパン」は高品質の代名詞となった。こういった製品はそれなりに高価で、かといって手が届かないほどではなく、手に入れば大きな満足感があった。だから当然大事に扱う。頑丈で、たとえ壊れたとしても当たり前のように修理がきいたから、長く使うし、愛着もわく。愛着のあるものに囲まれて過ごす人生は心豊かである、というのは、これまで生きてきて実感するところだ。今はどうか。いや、今に限定しなくても、家電量販店の「修理するより買い換えた方が早い、安い」という常套句はいつの間にか当たり前になった。壊れたものはすぐ買い換える。修理の依頼は可能だが、割高で時間もかかるから、一般的ではなくなった。これでは愛着も何もあったもんじゃない。さらに今の製品が長期にわたって使える品質かどうか、という問題もある。要するに作る側の事情だ。

 ニコンといえば、日本を代表するカメラメーカーの一つであることは、誰もが知るところだろう。だが今や、その製品のほとんどは「メイド・イン・タイランド」。10年ほど前、現在の愛機であるニコンDfを購入した時に店員が言った「このカメラは国内生産ですから信頼できます」という台詞を今でも思い出す。タイや中国の技術力にケチをつけるわけではないが、自国、あるいは自社の名に恥じない製品を作ろうとする精神性においては、差が生じるのは必至だろう。つまり「メイド・イン・ジャパン」は、一般的な製品においてはもはや神話でしかない、ということだ。加えて最近当たり前になってきたプラスチック・ボディのカメラなんて、昭和生まれの僕には到底納得できない。実際にその手のカメラを壊したことがあるが、金属ボディだったらあり得ないような状況での破損だった。確かに生産性は良いようだが、強度や精度、耐熱性といった点ではまだまだ金属製ボディにはかなわない。熱や経年劣化による変形の問題もあって、カメラのような精密機械には向かない、という話も聞く。新製品の開発スピードと相まって、買い換えが前提であるとしか思えない。

 今になれば一つのものを長く使い続けることの楽しさがよくわかる。確かに修理に出している間は不便を余儀なくされるが、それと引き換えにちょっとした満足感や心の豊かさを手に入れることができるような気がする。30年使い続けている腕時計、中学生の時に買ってもらった一眼レフ、何度も修理に出した40年前のジッポ・ライター・・・。これらの品々は人生をともにする相棒であるとともに、記憶の蓄積でもある。修理やメンテナンスに対応してくれるメーカーの存在もありがたい。彼らなしにはこの充実感はあり得ない。だが修理に携わる人材も今では大分少なくなったと聞く。

 誰かがこう言ったとする。「令和に買い換えた方が早いし、便利ですよ。」だが僕は慣れ親しんだ昭和という時代を修理しながら、今後も可能な限り使い続けるだろう。そうすることによって、人の心はもっと豊かになるかもしれない、なんて最近よく思うのだ。

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 25年目の車検

 下の娘がこの4月で25歳になった。ということは、生まれた年の3月に買ったプジョー406も26年目に入ったわけだ。思えばここ5年ほど、クーペ、ブレーク(ステーションワゴン)、スポーツ(マニュアル)、マイナーチェンジ版も含めて、他の406を見たことは1度も無い。これはもう、一種の希少車だ。

 うちの406(セダンV6 3.0ℓ)は、最近車検を終え、今も元気によく走る。だが勿論不調が無いわけじゃない。持病のパワステオイル漏れは今も続いているし、エンジンフードはつっかえ棒をしないと開いた状態をキープできない。トランクはオートロックが働かなくなったので貴重品は入れておけないし、最後まで押し上げないとフードが勝手に落ちてくるので2度ほど頭をぶつけたことがある(今はもう慣れた)。10年目に全塗装したボディも、また白いムラが浮き出している。そのほか内装パーツの変形や崩壊(プラの劣化)に加えて、最近助手席の窓が開かなくなった。だが走りに支障を来すような故障は今まで1度も無い。平成28年に(買っちゃった♡)というノリで手に入れた406クーペは修理せずに1年過ごせたことなんか無かったし、10年を待たずにミッションが不調になり、以来車検を切ったまま。それに比べれば、なんて良い子なんだろうと思う。スポーツカー並みに切れの良いハンドリングや、よく「猫足」と表現されるサスペンションの挙動は、多少衰えは感じるものの、今も健在だ。

 勿論苦労がないわけではなくて、純正パーツがほぼなくなった今では、中古部品を探したり、それでも無いパーツはでっち上げたり他の車種のものをうまいこと流用したりしている。こうした作業にはプジョーのエンジニア、Nさんの存在が不可欠だ。ぼくに言わせれば、彼は一種の天才で、諦める、ということを知らない。僕は僕で、いつの間にか中古部品やバッタもんまで扱うショップの常連になっていた。ところでNさんと僕には一つ共通の趣味がある。どちらもプラモデルが好き。だから、彼が手に入らないパーツをでっち上げたり流用したりする感覚が、僕にはよくわかる。モデラーの常套手段だからだ。

 今回の車検では、僕が「ここのパーツ、色が少し違うんでタミヤカラーのフラットアルミで塗ってあるんだけど、洗車機、大丈夫かな。」なんて相談したら、「ああ、俺も自分の車、一カ所タミヤカラーで塗ってありますよ。ハイマウントの色が明るすぎて気に入らなかったんで、クリアーのダークレッド吹きました。」この「吹きました」というのはエアブラシで塗った、という意味だ。「洗車機もオッケーだったんで、結構塗膜強いみたいです。タミヤカラー、全然使えますよ。」そーですか。わかりました。

 勿論今後に不安が無いわけではないが、次の車を考えようにも、欲しい車が浮かんでこない。プジョー自体もデザインコンセプトが大分変わってしまい、許せるのは208ぐらい。何しろいまだに505が操作性・デザインともに最も優れたプジョーであった、と考えている人間だからね。あの頃はピニン・ファリーナがデザインを請け負っていたので、エレガントで味のある車が多かったんだけどなあ。

 ネット上のレビューを見ると、406は名車である、という評価と、故障が多いのでお勧めしません、という評価がはっきり二分している。オーナーの価値観の違いや、個体の「当たり外れ」の問題だと思う。特に「当たり外れ」は外国車にはよくあることだ。そう考えると、うちの406は当たりの部類だろう。ということは、つまり名車。

 とりあえず、今の目標はあと5年維持すること。勿論その後も、どこまで一緒に行けるか挑戦するつもりでいる。ということでNさん、これからもよろしくね。

 2020年ごろ撮影。この頃はまだ塗装もきれいだった。

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 袋田に行ってきた

 先週、袋田に行ってきた。そう、日本三大名瀑の一つ、「袋田の滝」がある、あの袋田。自宅から車で1時間半ほどの距離なので、数年に一度は訪れる。というのも、滝の近くに「昔屋」という美味い蕎麦屋があるんです。ちなみに蕎麦はこのあたりの名産品。その店では同じく名産である蒟蒻の刺身や田楽も食べることができる。それともう一つ、「豊年満作」という、ちょっと変わったネーミングの温泉旅館があって、ここで売っている手作りのアップルパイと温泉饅頭も美味しい。

 今回袋田に足が向いたのは、実は夢に蒟蒻の味噌田楽が出てきたことがきっかけだった。よくある話で、一度頭に浮かぶとどうしても食べたい。僕のなかでは、蒟蒻といえば袋田だ。「行くか?」と家族に声をかけたところ、「よし、蕎麦を食べて饅頭を買おう」と返事が返ってきた。名瀑見物は事のついで、というわけだ。まあ、それも良いか。どうせ滝の様子はこの先何百年経っても大して変わらないだろう。

 少し早めに家を出て、新緑が芽吹き始めた山並みを眺めながら、車で走ること1時間半。10時前には滝の近くの町営駐車場に車を止めることができた。近くといっても、滝までは歩いて10分ほどかかる。

 歩き始めて気がついた。この道、音がしない。小鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてくるだけで、人工的な音が全く聞こえない。平日で時間が早いせいか、あたりに人影はなく、車もほとんど通らない。時折聞こえる小鳥のさえずりが静寂を強調しているようにも思える。この「静けさが聞こえる」感じ、滅多に経験できるものじゃない。自ずと歩調もゆっくりになっていく。

 忘れていた何かを思い出させるような、そんな静けさに包まれながら山間(やまあい)の道を歩いて行くと、遠くから川のせせらぎや土産屋が開店の準備をしている音が聞こえてきた。それはそれでなんとなく楽しい。よし、次に来る時もこの時間帯を狙おう。

 さっさと滝を見物し、遊歩道を少し歩いたあと、お目当ての蕎麦屋で少し早めの昼食を摂った。僕は山芋とろろ蕎麦(冷)、カミさんは元祖けんちん蕎麦(温)、娘は奥久慈シャモの地鶏蕎麦(冷)を頼んだ。相変わらずここの蕎麦は美味いなあ。茹で加減が絶妙だ。小諸の名店「草笛」にも負けていないと思う。だが残念なことに鮎の塩焼きは今日は欠品。えー、目の前の川を泳いでるじゃんか。でも鮎の解禁は6月だから、捕まえて食うわけにもいかないな。あ、勿論蒟蒻の味噌田楽は食べましたよ。何せ夢にまで見たからね。

 食事のあと、例の温泉旅館に寄ってアップルパイを買った。このアップルパイはなぜか駐車場の仮設スタンドで売られている。初めて買ったのは10年以上前。それ以前のことはわからないが、息が長く、周辺で同じ袋を持ち歩いている人をよく見かけるので人気商品なのだろう。その後饅頭を買おうと館内の土産物売り場に行ったのだが、これがなぜか品切れ。温泉宿で温泉饅頭を切らしているなんて、そんなことがあるだろうか。フロントで聞いたところによると、近くに同じものを製造販売している本店があるというので、そちらに行ってみることにした。

 朝来た道を5分ほど戻ると、その店があった。「奥久慈屋吉餅(きちべい)」という思いのほか立派な店で、店内には饅頭の他に、常陸大黒(ひたちおおぐろ)という二まわりも大きな黒豆を使った餅菓子が数種類並んでいた。どれも手作り感があって美味しそうだ。もとより和菓子好きなので、余計なものまで色々と買い込んだ。また一つ、旅の理由ができてしまったなあ。

 帰りの時間に余裕があったので、最後に常陸大宮市に新しくできた道の駅に寄ってみた。「かわプラザ」という別名があって、名前のとおり、裏手を久慈川が流れていた。しかも河原まで降りられるようになっている。店内を覗いた後、せっかくだから川のそばまで行ってみることにした。道が整備されているのは途中までで、その先に自然のままの、川石に覆われた河原が広がっている。河原で遊ぶなんて、何十年ぶりだろうか。

 川面(かわも)を眺めていると、不意に娘が「ねえ、水切りできる?」と聞いてきた。「あったりめえよ。昭和生まれだぞ。」早速適当な平石を見つけると、焼きの回ったサイドスローで投げて見せた。2回跳ねた。何十年ぶりにしては悪くない。「どうやるの?教えてよ。私やったこと無い。」「見て真似したほうが早いよ。」そう言ってもう一度投げてみせると、娘は何回かトライしただけで成功させた。誰に似たのか、遊びに関する感覚だけは鋭いな。

 「ところで石選びはな、軽けりゃ良いってものでもないんだ。」僕はそう言いながら、今度は少し大きめの平石を選んで投げた。すると石は3回ほど跳ね、そのあと水面を滑るように進んでから水中に消えていった。それを見て、「あ、今のすごい!」と娘。僕はちょっと良い気分だ。カミさんはそんな僕らの様子を笑顔で眺めていた。薄曇りだった空から、いつの間にか陽が差し始めていて、少し動いただけなのに体が汗ばんでいた。

 始まりは確かに味噌田楽の夢を見たことだったんだけど、終わってみれば思いのほか良い1日になったようだ。近いうちにまた饅頭買いに来ようかな。

今回立ち寄ったお店

・昔屋(蕎麦処)

・滝見の宿 豊年満作(手作りアップルパイ)

・奥久慈屋吉餅(黒糖饅頭 他)

・かわプラザ(道の駅 常陸大宮)

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 軽音、再び

 その昔、僕が高校で軽音楽同好会を創設したことは以前に書いた。3月の末のある日、その創設時のメンバーが集まるので顔を出せ、との通知が、なんと葉書で届いた。僕がメールもラインもやらないものだから、苦肉の策だったのだろう。だが考えてみれば僕の電話番号を知っているヤツだっているのになあ。返事はメールでくれ、と言うので仕方なく、パソコンで「行くぜ」とメールを、多分何年かぶりに送信した。やればできるんだよ、僕だって。集まるのはこれで3度目、場所は高校の所在地で、僕の実家のある土浦市。夜は実家に泊まれば良いので気楽なものだ。

 当日、指定された店に着くと、ほとんどのメンバーはすでにそろっていた。早速乾杯をして(よくある話だが誰かが着くたびに即乾杯)、昔話に花が咲いた。僕を下の名前で呼び捨てにするのは、長い人生のなかでもこのメンバーと、その取り巻きだけだ。それがとても心地よい。それにしても、四日市市から来る一番家の遠い男が監事ってどんな人選?土浦在住が何人もいるのに。でもまあ、その辺が軽音らしいところでもある。

 そんな音楽好きの旧友たちが集まって、今の時代にどんな話をするかって?そりゃあ、この歳になればまずは病気自慢でしょう。特に高血圧の話は盛り上がった。いや、上がっちゃいけないんだけど、「オレ、一番高い時の値が190あってさ」「負けた!オレ160」って、何勝負してんだよ。そのあと同じ血圧の薬を僕を含めて3人が服用していることを確認して、やっと「今も演ってるのか?」という話になった。ところがそんな話題のなかでも、「最近ギター弾こうにも、指が動かなくてさ」なんてことを言うヤツがいる。「もう、『BURN』は叩けないな」と、これは僕。あの頃ディープ・パープルの「BURN」という曲の、とんでもなく手数の多いドラムを完コピ(完全コピー)していたのは、近隣では僕だけで、これは当時ちょっとした自慢のネタだった。なぜあれが叩けたのか、今ではさっぱりわからない。イアン・ペイス(ディープ・パープルのドラマー)は75歳になった今でも余裕で叩いているのになあ。何、プロと比較するなってか。

 ところで、僕が最後にバンドとして演奏したのは5年前だから、一番最近まで「演っていた」ことになるようだ。フォーク部門(軽音は境界が曖昧ながらも、ロック部門とフォーク部門に分かれていた)のギタリストだったNは、昔大枚をはたいて買った愛用のギターを修理したら、買った値段以上の修理代がかかった、なんて話をしてたっけ。だって買ったの何十年前だよ。大学生の頃、そのギターを買う時にお茶の水まで一緒について行ったのがついこの間の事のようだ。でもギターは人力で運べるから良いよなあ。ドラムセットは車が無ければ運べないし、しかも普通車なら2往復だ。ドラムを選択した自分を何度呪ったか知れない。でもまあ、ドラムという楽器が好きなんだから致し方ない。

 さて、宴もたけなわ。幸いにも酒癖の悪いメンバーはいないので、楽しく時間が過ぎていく。僕が振った「おでんにジャガイモを入れるか?という話題では、メンバーが二つに分かれて真っ向から対立。馬鹿だねえ。その後誰かがCSNY(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、アメリカのフォーク・ロックバンド)の話を持ち出し、それを他の誰かがNSP(ニュー・サディスティック・ピンク、日本のフォークグループ)と勘違いして、皆に突っ込まれていた。その様子を見ながら僕はCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、アメリカのロックバンド)の話題を出そうか迷っていたが、誰かがいきなりテイラー・スウィフトを持ち出したので、話の流れはあらぬ方向へ。でもそのあとでGFR(グランド・ファンク・レイルロード、アメリカのロックバンド)に触れることができたからまあいいか・・・以前にもあったことだが、どうもこの頃の仲間のことになると、話がややこしくなっていけない。なんかゴメン。でも、仕事が関わらない酒宴は良いなあ。3時間なんてあっという間だ。

 土浦組は頻繁に情報交換しているらしく、メンバーの近況については僕の知らない話題もたくさんあったけれど、そんな事は一向に気にならなかった。わからない事は聞けば良いだけだ。構える必要なんてこれっぽっちも無い。ただ、当時の話題になるとメンバーの記憶違いが露見する事も多く、過ぎた時の長さを痛感させられた。

 ちょっと驚いたのは小学生の時に好きだった女の子(勿論今は女の子ではない)が、土浦に帰ってきているという話が聞けたこと。中学・高校と同じ学校に通ったのだが、最後に消息を聞いたのは何十年も前の事で、埼玉県在住だったはずだ。それが年老いた母親の介護のために単身土浦市に戻り、今も実家を維持するために滞在しているという。その子の友人だったキーボード担当のT(女子)がそれを僕に教えてくれた。死ぬ前に一度会ってみたいと思っていたので、少しだけ心がむずむずした。音楽とはまるで関係ないが、そんな話が聞けるのも軽音の、強いては高校時代の友人の集まりならではだ。ホント、良い時代だった。

 不思議なもので、あれだけ文字によるコミュニケーションを否定していた僕が、今回初めてメールをもう少し活用しようかな、という気になった。この問題については歳を重ねるたびに頑迷になっていくであろうと思っていただけに、自分の事ながらちょっと意外だった。慣れ親しんでいるのはパソコン、つまりキーボードによる入力の方だが、この際スマホのメール機能も使ってみようかな。そうすればこうした集まりの連絡も、少しは楽に行えるようになるだろう。何にせよ、次の会合が楽しみだ。次回はロボの「片思いと僕」を引き合いに出してみるか。

注 ロボ「片思いと僕」は1972年に大ヒットしたアメリカンポップス。

 愛用のドラムセット。美術準備室にて。これが場所とるんだ。

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 もうちょっと書きたい。

 土浦市について書いた時に、書き切れなかったことをもう少し書いておく。

 前に僕は、土浦という町に強い思い入れがある、と書いた。この思い入れとは、「かつて慣れ親しんだ場所に対する郷愁」といった類いのもので、例えば土浦の市史や名所・旧跡に興味があるとか、そういったことではない。あくまでも個人的なもので、例えば正月早々の記事に書いた、子供の頃から通っているM模型店や、これも以前に言及した、その昔屋台のおでん屋が出没した亀城公園、チャーハンが美味しいT飯店など、当時の生活と密接に結びついた場所が対象だ。華やかなりしころの土浦の、そういった場所について書く。

 昭和40年頃の庶民にとって、デパートでの買い物は一大イベントで、家族そろって出かけ、買い物の後は大食堂でちょっと贅沢な食事をして帰るのがお決まりのパターンだった。土浦にあった霞百貨店、後の京成百貨店は典型的なデパートで、入り口正面には踊り場から左右に分かれる吹き抜けの大階段があり、他とは一線を画する高級な商品を取り揃えていた。クリスマスが近づくと、店内やショーウインドウはそれらしく装飾され、食品売り場にはローストチキンやローストビーフ、クリスマスケーキなどの「ご馳走」が並んだ。まだ現在のような大型スーパーやコンビニがなかった時代で、この手の「ご馳走」が買えるのはデパートの食品売り場ぐらいのものだった。

 当時の駅前には県内有数のバスターミナルがあり、こうした特別な時期には近隣の市町村からも多くの人が押し寄せた。市内に5軒あったデパート(最盛期には大小合わせて7軒!)や、それらをつなぐアーケードは買い物をする客でごった返し、その賑わいは手をつないでいないと子供があっという間に迷子になるほどだった。

 京成百貨店のすぐ近くには土浦セントラルという映画館があって、子供の頃は斜向かいのパン屋であんパンと牛乳(瓶入りだぜ)を買って持ち込み、それを食べながら映画を見るのが常だった。たばこを吹かしながら鑑賞する人もいて、映画が終わると通路には吸い殻がたくさん落ちていた。トイレからはアンモニア臭が漂ってきたけれど、「映画館の匂い」として認知されていて、文句を言う人などいなかったように思う。この映画館はリニューアルされて今もあるそうだ。

 高校生になると、駅前にある西友のWALK館を利用することが多くなった。若者をターゲットにした新しい経営スタイルで、衣料品の他に大きな書店やレコードショップ、模型店などのテナントが入っていた。開店は1982年。今思えば、現在のショッピングモールに近いカジュアルな雰囲気があった。通学に土浦駅からバスを利用する友人が多かったので、学校帰りによく立ち寄った。休日には兄と二人で出かけ、店舗内にある書店や模型店に足を運んだものだ。この店舗は京成百貨店が1989年に閉店した後も10年近く営業していた。

 長いこと駅舎の正面にあったつかさデパートは、2階建ての観光みやげや特産品を扱う店だ。確かに店内は広いが、デパートとは名ばかりで(だから先の5軒には含まれていない)、売り場は1階のみ。2階は全て食堂になっていたので、つかさ大食堂と呼ぶ人も多かった。それなりに利用客もいたようだが、僕は一度も入ったことが無い。昭和40年代にして、すでに古くさい佇まいの建物で、ネットの土浦市に関わる記事にもあるように、四六時中軍歌を流していた。これは土浦に海軍航空隊(予科練)があったことと関係があるのだろう。誰も書いていないようだが、クリスマスの時期になるとビリー・ヴォーン楽団の「ジングル・ベル」や「ファースト・ノエル」を流していたのを、今でもよく憶えている。

 旧市役所の庁舎が今も残る富士塚山(というか高台?)も忘れがたい場所の一つだ。小学校の写生会で訪れたり、夏休みのラジオ体操の会場になったりもした。庁舎と駐車場のある頂上は見晴らしの良い場所で、遠くに筑波山や霞ヶ浦を望むことができた。少し前までは駐車場まで行けたのだが、最近ではたまにロケ地になったりすることが理由なのか、その独特な建物の保全のために敷地への立ち入りが禁止(封鎖)されてしまったのが何とも残念だ。

 他にも古い大病院にありがちな、おどろおどろしい佇まいの旧国立病院(もとは海軍病院。現霞ヶ浦医療センター)であるとか、おやじギャグ感満載のレコード店「レコー堂」であるとか、SMマガジンをSFマガジンと間違えて手に取り、過激なグラビアに動揺した伊沼書店であるとか、そういった場所が今でも鮮明に記憶に残っている。だがそのほとんどが、今はもうなくなってしまった。

 国土地理院のHPで土浦市の航空写真を調べていた時に、ふと気付いたことがある。写真の年代が新しくなるにつれて、道路がはっきり見えるようになっていく。人家や商店がなくなった更地に駐車場が作られ、建物によって道が隠されたり、道に建物の影が落ちて見えにくかったりする事が少なくなったからだ。

 土浦市が衰退した理由の一つは、市内に駐車場が決定的に足りず、車社会の到来に商都としての対応ができなかった事だった。あれから40年。店が消え、人家も少なくなったかつての中心街に、今になって駐車場が幅をきかせている。何とも皮肉な話ではないか。