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 素人の浅はかさ

 最近TVを見ない人が増えたんだって。特に若い世代にその傾向が強いそうだ。どうも彼らの間ではネットで画像を楽しむことのほうが普通になっているらしいんだよね。勿論アニメやドラマなどのネット配信のことを言っているんだろうと思ったら、Youtubeなんかも含むそうだ。でもねえ、それってどうなんだろうか。確かにTV番組なんかでも、もはややることがない観のあるドラマの世界や、ちっとも笑えないお笑い番組なんかを見ていると、「世も末だな」なんて思うことはある。でもドキュメンタリー番組はまだまだ頑張ってる。

 TVの場合は放送倫理というものがあって、問題のある番組とかとてつもなく馬鹿げた番組とかは最低限淘汰されている。しかも作る側だってプロ集団だから、良い番組もまだまだたくさんある。Youtebeとかは発信者のほとんどは素人だから、そもそも出来を期待するものでもないのだろうけど、なかには奇をてらった内容を流すだけで閲覧回数を稼ごうとするような輩(やから)もいて、犯罪行為に認定されるものまであることはご承知の通りだ。素人の動画には発信前のチェックなんて無いからね。ネットの良さは素人が自由に発信できるところだと言ってしまえば確かにそうなんだけど、だからといってあまりくだらないものばかりに慣れ親しむようでも困るわな。

 同じようなことは写真の世界にも言える。例えば最近よく話題になる自己中な「撮り鉄」の記事なんかを見ると、プロのアプローチとは違ってマナーもへったくれも無い。そもそもプロはホームなんかで写真撮らないもんね。それに、アマチュアだってその列車が走る路線を事前に踏査して、ポイントを見つけておくぐらいのことはするもんだ。だいたい混み合うのがわかっているホームで報道カメラマンみたいに脚立使うなんて、僕に言わせれば愚の骨頂だ。あれではただの野次馬だし、鉄道ファンの印象を悪くするだけだ。さらに鉄道業務に支障を来すような行為を平気でするに至っては、もはや鉄道ファンとは言えないだろう。

 最近では似たようなことが動物園でも起こっていて、脚立を立てて陣取ったカメラマン(じゃないよなあれは。ただの素人だから。)が邪魔で、並んでいた子供が動物見られなくて悲しい顔してた、なんていうニュースが流れていた。お前らそれでも人間か?人間的な行動ができないなら檻の向こう側に行けよ。多分そうやって粘って撮った写真や動画を、これまたネットで発信したいんだろう。「これ撮るのに何人もの人に迷惑掛けました。おまけに子供を泣かせました。最低の作品です」ぐらいのコメントはしてくれるんだよな?

 昔は動画にしろ画像にしろ、アマチュアがそれを発表したり発信したりできる機会は限られていたし、専門誌への投稿やコンテストには必ず審査があったから、人の目に映る作品はそれなりに質の高いものだった。だが今では、誰もがネットを通じて発信できる。そこには他者の「審査」がないから、「自己満足」だけで作品を発表できる。この安易さが、先に挙げたような素人のエスカレーションを招いているんじゃないのかなあ。

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 「赤とんぼ」

 「赤とんぼ」。言うまでもなく、日本人なら誰でも一度は聞いたことがあるであろう、有名な童謡。この歌の歌詞は作詞者である三木露風の幼い頃の記憶によるものだそうだ。

 露風は5歳の時に両親が離婚し、母親と生き別れている。ある日幼稚園から帰ると、すでに母の姿は消えていたんだって。その後は祖父の家に引き取られ、奉公に来ていた「姐や」が面倒を見てくれた。だがその姐やも1年後、歌にもあるように十五で嫁に行ってしまう。幼くして大事な人との別れを2度も経験したわけだ。寂しかったろうなあ。

 背負われて一緒に赤とんぼを見たのは姐やということらしいが、桑の実を摘んだのは、「まぼろし」というぐらいだから母親との記憶かもしれない。ネットには三木露風や曲自体を分析しているブログがたくさんあるから、ここでは詳しくは触れない。今日取り上げたいのは歌詞の「山の畑の桑の実を 小籠につんだはまぼろしか」という部分。

 ある程度の年齢になれば、誰でも「あれは本当にあったことだったのかしら、それとも心が作り出した虚構なのかな」といった曖昧な記憶をもっていることと思う。そしてそんな記憶ほど、いつまでも印象が薄れず、ことあるごとに思い出す。違いますか?かく言う僕も、そんな記憶がいくつかある。なかでも不可解なのが、幼稚園かそれより前、高さ2メートル以上はあろうかという、石碑というか位牌を見た記憶。何かの店舗の一番奥に鎮座していて、天窓から差し込む光がそれを明るく照らし出していた。大きさから「石碑というか位牌」と書いたが、記憶では明らかに位牌のイメージ。というのも、黒の漆塗りで金の文字と装飾が施されているように見えたからだ。でも、仮にその店舗が仏具店だったとしても、徳川家の菩提寺じゃあるまいし、高さ2メートルの位牌はあり得ないだろう。もし宣伝用の張りぼてなら店の外、もっと目立つところに置くはずだ。そして何よりも、クリスチャンであった母が僕を連れて仏具店を訪れる可能性は低い(と言っても、母は宗教に対して強いこだわりを持っていたわけではないので、ゼロではない)。一体どんな思い違いをしているのだろう。 

 もう一つは薄曇りの空の下、どこまでも続くトウモロコシ畑の脇の道を歩いている記憶。これについては「あそこかな?」と思える場所があるのだが、前後の記憶は全くなくて、ただただトウモロコシ畑だけの記憶。誰かに「ここは天国かい?」と聞いたら、「いいや、アイオワだよ」なんて言われそう・・・(※)。たまに、夢の内容がしっかり記憶として定着することがあるじゃないですか。その類いなのかなあ。

 三木露風が母親と別れたのは5歳の時。一緒に桑の実を摘んだのが母親だとすれば、それ以前のことのはずだから、記憶が曖昧なのも無理はない。でも、「あれはまぼろしだったのか」という言い方からすると、「曖昧な記憶」というより「はかない記憶」と表現した方が、露風の心情としては正しいかもしれない。今はもう確かめようが無い、でも本当のことであってほしい母の記憶。これがもし夢の記憶だったらちょっと悲しすぎる。

 後年、露風は生き別れになっていた母親の通夜に現れると、遺族に「母の亡骸のそばで眠りたい」と頼み、同じ部屋で就寝した。67年ぶりのことだったそうだ。

※ 映画「フィールドオブドリームス」の亡くなった父親と主人公の会話。広大なトウモロコシ畑の片隅で交わされる。

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 狂い咲きかな・・・?

 今日は10月23日。晴れ。最高気温21度。うちの敷地を囲むフェンスの一角で、朝顔が咲き誇っている・・・って、今、秋真っ盛りですぜ。何なんだこれ?

 見ての通り、この品種はちょっと変わっていて、お値打ちものではないものの、なかなかおしゃれな花を咲かせてくれている。しかも真っ昼間になっても萎むことがなく、太陽を追って咲き続ける。実は8月から蔓は伸びるものの一向に花が咲かず、不思議に思っていたのだが、他にも植えてあったごく普通の品種が盛りを終えてしばらくの後、9月中旬あたりからやおら咲き始めたのであった。よく見ると葉の形も普通の朝顔とはちょっと違っている。品種名、なんて言うんだったかな。種の袋を取っておくんだった。

 そういえば前にもこんなことがあった。青空のような色の朝顔が大量に花をつけ、9月の末まで咲き誇っていた。あまりに見事に咲くもんだから、通りすがりの人によく褒められた。おそらく今年門扉に絡まって咲いたもう一つの株がそれで、こんなところに植えた覚えはないから、勝手にこぼれた種から芽を出したのだろう。しかし、これって異常気象の影響なのかな。それともある種の狂い咲きなんだろうか。もしかしてそういう品種なのかも?でも説明書きにはそんなこと書いてなかったけどなあ。

今年植えた株。斑入りの花で、所々にピンクも混じっている。色の濃淡も様々。これ、一つの株から咲いているんですよ。
手前の鮮やかなブルーの花が、おそらくこぼれ落ちた種から芽を出したもの。門扉の向こう側にもいくつか咲いている。個人的にはこっちの方が好き。遠くに見える青空と同じ色だ。2枚とも10月23日の正午に撮影した。ちなみに庭のヤマボウシは赤く色づき始めている。晩メシは栗とキノコの炊き込みご飯の予定。

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 おでんの具

 おでんにソーセージを入れるか入れないか。この論争はその筋では有名な話で、僕自身は入れない派。だからカミさんの実家のおでんにソーセージが入っているのを見た時に、「えーっ!」と思った。昭和の、少なくとも僕の知っているおでんではあり得ないことだったからだ。逆に僕が自分の思うおでんを披露した時に家族が一番驚いたのは、僕がおでんの具としてジャガイモを入れたことだった。

 前回書いた屋台のおでんにはジャガイモは必ずと言って良いほど入っていた。出しがほどよくしみ込み、それでいて煮崩れしないように炊いたジャガイモはとっても美味。だから僕の中ではおでんにジャガイモが入っているのは当たり前のことだったし、調べてみればジャガイモを入れているおでん屋は結構あるものの、幼少時にカミさんの実家で世話になっていた娘たちにとっては、ソーセージ入り・ジャガイモなしのおでんが定番になっていたらしい。

 そもそもソーセージおでんの出現は、ある時期にポトフとおでんのイメージが混在したことに原因があるようだ。だが、よくよく調べてみると、確かにポトフを「洋風おでん」と称することはあるものの、実はこちらもソーセージは入らない。欧米では煮込み料理の風味付けに燻蒸した保存肉(ベーコンやソーセージ)を加えることが多いので、そうしたアレンジをされたポトフのイメージがおでんにも伝播したのかもしれない。何しろ数多くのポトフレシピを紹介しているネット記事でも、材料として必ずと言って良いほどソーセージが含まれている。オリジナルのポトフにわざわざ「牛かたまり肉を使ったポトフ」なんて見出しがついているのを見ると、やれやれ、なんて思ってしまうのだが、まあ「時代」なんでしょうかねえ。

 確かによくできたソーセージは美味しいし、僕の好きな食材の一つでもある。焼くか揚げるか、温める程度にゆでて食べることが多い(※)。良い出しが出るのも事実だ。だからポトフの具材として定着するのはわかる。だがおでんに入れるとなると、ソーセージの薫香は強すぎて、繊細なおでんの関西風出しの香りを台無しにしてしまうような気がする。勿論ソーセージの入ったおでんを否定するわけではないのだが、どうも「別もの」感が拭いきれない。結局二鍋作ることになってしまう。馬鹿だねえ。こだわりすぎだよ。

※ レタスを一緒に湯がき、ソーセージの皿に残ったゆで汁に粒マスタードを溶かし、ちょっとクタクタになったレタスを浸して食べるのがなんとも美味しいのですよ。

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 ご無沙汰しました。何せ、7月に買い換えたばかりのパソコンの液晶モニターが調子悪くて、修理に出していたものだから(勿論無償でパーツ交換)、間が開いてしまいました。さて、そうこうしているうちに秋も深まり、そろそろおでんの恋しい季節。というわけで・・・

 屋台のおでん

 屋台のおでん、と言っても、夜に福岡の中州や東京の路上などで見かけるものとはちょっと違う。僕が今から書こうとしているのは、昭和の時代に学校の運動会などに店を出していた、あの懐かしいおでん屋のことだ。

 全国的なことだったのかどうかはわからないので一応説明すると、昔僕が住んでいた地域では、学校の運動会にアイスキャンディー(ゴムの袋に入っている)や卵アイス(これもゴムの袋に入っている)のお店と並んで、おでん屋の屋台が店を出すのが普通だった。時代が進むにつれていろいろと差し障りが出てきたのか、今ではすっかり鳴りを潜めてしまったが、当時はこのおでん屋が重宝した。

 小学校の運動会といえば、昼食は応援席に陣取った親と一緒に食べるのが常だが、当時はおにぎりやいなり寿司などの主食に簡単なおかず、そして温かいおでんを買い足すという人も多かった。高学年になると、食事が終わった後におやつとして買い食いすることもあって(昼食時はそれが許されていた)、なんともおおらかな時代だった。

 今でもよく憶えているのだが、具材はすべて串に刺されていて、注文したものを経木でできた舟形の皿に盛って渡してくれた。一般的な具材は10円、高いものでも20~30円ほどだったと思う。定番の練り物よりも高級な「玉子」と「肉」があって、練り物の2~3倍の値段だった。「肉」というのは、実は鳥の皮で、ある意味肉ではないのだけれど、いつまでも口の中に残るので変に得した気分になったものだ。

 これらの店は昨今東京の路上などで見られる屋台とは別物で、おそらく「テキ屋」と言われる部類の店だったのだろう。休みの日に近くの公園に行くと、同じ業者かどうかはわからないが、似たような内容で商売をしているおでん屋の屋台をよく見かけた。当時の子供にとっては、駄菓子と並んで格好のおやつだった。

 今ではこうした屋台は祭りの縁日などでしかお目にかかれなくなった。しかも「おでん屋」を目にすることはほとんどない。家であの味を再現しようとしたこともあるが、市販の出しではどうも違う気がしてならない。おそらく思い出の中の味とは、いろいろな要素が絡み合った特別なものなのだろう。

付記 おでんと言えばもう一つ思い出すのが、漫画「おそ松くん」に登場するキャラクター、チビ太がいつも持っていたおでん。三つの具が1本の串に刺さったもので、原作者である赤塚不二夫氏の少年時代(昭和20年代?)に屋台で1本5円で売られていたものがモデルだそうだ。ちなみに具は上からこんにゃく、がんもどき、ナルト(諸説あり)。場面によっては他の組み合わせも見られる。味付けは関西風という設定だ。今では「マンガ肉」と同様に、「チビ太のおでん」を提供する店もあるそうだが、当時の僕はついぞお目にかかったことがなかったなあ。