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 コンビニエンス・ストア

 コンビニエンス・ストア。直訳すると「便利なお店」。何が便利かというと、朝早くから夜遅くまで開いていること、品揃えが広範囲であることなどが挙げられる。

 スイス・アーミーナイフ。知ってます?1本のハンドルに、ナイフのみならずドライバー、はさみ、ヤスリなどが収納されている。1本あるととても便利。本当だろうか。

 スイス・アーミーナイフは使ったことがあるけれど、こんな使いにくい道具ってあるだろうか、と思った。何をするにも、使い勝手の良さは、例えばドライバーならドライバー、ヤスリならヤスリにはかなわない。まあ、当たり前と言えば当たり前。

 昼食にコンビニでカレーライスを買ったことが何度かあるが、その味に満足したことは一度も無い。「美味しくない」を通り越して「不味い」と思ったこともある。ここで「そんなの当たり前。コンビニなんだから。文句を言う方がおかしい!」と思った人。おっしゃる通り。それが当たり前です。だが今回僕が言おうとしているのはまさにそのことだ。それを当たり前にして良いのだろうか?

 僕はスイス・アーミーナイフを持っていない。あんな使いにくいものを持つぐらいなら、多少かさばっても工具セットを買う。同じように美味しいカレーが食べたければ、コンビニでは買わずに専門店に行くか自分で作る。たが当座しのぎにコンビニを利用することは、正直言ってよくある。要するに、どちらも「とりあえずの間に合わせ」なのだ。僕が恐れているのは安くて便利な「間に合わせ」のものが「当たり前」になっていくことだ。そういった生き方に慣れてしまうと、手軽さを重んずるあまり、時間と手間をかける方法論に価値観が見いだせなくなって、「本物」が廃れ、伝統的な技術は失われ、文化や人の生き様そのものまで「間に合わせ」になってしまうかもしれない。現にIT時代のスイス・アーミーナイフ、スマートフォンのおかげで、本来対面して会話すべき人間関係が文字だけの「間に合わせ」になっているじゃないですか。しかもすでに「当たり前」になりつつある。それによって生じる不愉快な状況は人の心を傷つけ、場合によっては死をもたらすこともある。何、大げさだって?でもこうしたことは現実に起こっているし、時々誰かが騒いでおかないと、人間はゆっくり進行する変化をなかなか認識しないじゃないですか。長い時間をかければ筍だってアスファルトを突き破ることを忘れちゃいけない。さらにもう一つ、心配なことがある。「便利」は人を「馬鹿」にするかもしれない。

 昔のSFに登場する未来人や、科学技術の進んだ宇宙人は、みんな体が小さくて頭が大きかった。機械化が進み、働かなくていいから体が退化し、頭脳が発達するから頭は大きくなる、というわけだ。しかし現実には、考えることをコンピューターに任せ、自動車を運転するための判断すら機械任せの時代もすぐそこまで来ている。パソコン(ワープロ機能)が普及したために漢字を書けなくなったという話は僕の周りでもよく聞くが、この分じゃ次は、せっかく覚えた運転を忘れるかもしれない。そんなことで、いざという時に危機回避のための判断や行動ができるんだろうか。これでは頭脳まで退化してしまいそうだ。

 昨今の事件や事故のニュースを見て、「人間、少しお馬鹿になってきたかな?」と感じるのは僕だけではないだろう。何しろ肉体労働はともかく、頭まで使わなくてすむ時代の到来を誰も予想しなかったから。そもそも体が退化し、頭脳も退化するとしたら、その先に待っているのは滅亡しかないだろう。もし一般大衆が考えるのを止めたら、今流行りの陰謀論者が言うように、頭のいい一握りの人間がスマホを通して大衆をコントロールするなんて簡単だろうなあ。実際にそれに近い事例も増えつつあるし。

 便利な社会は僕も大歓迎だ。コンビニにしたって、いまだにカレーライスを買って自分の愚かさを呪うことがあるぐらいだ。だから頭から否定するつもりはない。ただ、「便利な社会」が内包する危険性を常に意識して、賢く利用することを心がける必要はあるだろう。

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 偽善

 時々、「オレはとんでもない偽善者だな」と思うことがある。それはどんな時かというと、TVなどで食肉に関する番組を見ている時だ。

 歳をとったせいか、最近食肉用の家畜を出荷するシーンを見ていられない。業者の人は「愛情を込めて育てた」と言うが、家畜たちは最後には食肉になる運命だ。勿論それは立派な職業だし、社会の仕組みの一部でもあって、今更どうこう言う問題ではない。理屈ではちゃんと理解しているつもりだ。それでも目をそらしたり、早送りしたりしてしまうのだ。それでいて、食肉になってしまえば、何も考えずに「この肉は柔らかくて美味そうだ」なんてことを平気で言う。矛盾している。

 大分前のことだが、「豚のいる教室」という映画があった。ある小学校で子供に豚を育てさせ、最後にはその豚を食肉センターに送る。勿論、子供たちはその豚がどうなるか理解している。子供たちはその豚をPちゃんと名付け、とても大事に育てた。豚は賢い動物だから、子供たちによく懐いた。1年後、そのPちゃんを子供たちは泣きながら見送った。この映画は実話をもとに、ほぼ実話通りに制作された。実際に行われた授業については賛否両論あったそうだが、僕個人としては「なんて授業だ!」と腹が立ったのを憶えている。だが僕が豚肉を食べるのをやめたかといえば、そういう事はなかった。

 こうした問題は一種のタブーであって、誰もが知っているにもかかわらず目をつぶり、口に出して言わないことで社会が上手く回る。それをあえて、しかも教育現場でここまでする必要があったのだろうか。これは授業の一環だったから、当然参加を拒否することなどできない。多くの子供たちがトラウマを抱えたであろう事は想像に難くない。

 亡くなった父の兄弟には、鶏肉を食べられない人がいたそうだ。幼い頃に、飼っていた鶏を潰すところを見てしまったからだ。僕は昔から、旅先などで出される活き作りの刺身がダメで、骨だけになった魚が(あれ、飾る必要があるのか?)口をパクパクしたりするだけで食欲が失せる。だが食べるのをやめたかといえば、これもそんなことはなかった。

 僕が一番見ていられないのが牛の出荷シーン。あの柔らかそうな睫毛に覆われた優しい目を見ていると、何ともやるせない気持ちになる。幸いなことに、子羊(ラム)の出荷シーンというのは見たことがない。さすがに子羊については、例のタブーの原則が働いているのだろうか。

 ご存じのように、僕は料理を趣味にしている。特に肉料理が得意だ。そんな僕が、出荷される牛から目をそらさずにいられない。やっぱりこれって、偽善的だと思う。だから普段は気付かないふりをしながら生きている。

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 雪国

 「雪国」といっても、小説の話じゃない。僕が若い頃からなぜか抱き続けている憧れのことだ。

 雪国へ旅行したい。しかも厳寒の冬のさなかに。結婚してすぐ、京都で年越しをしたことはある。でもその年は暖冬で、雪は残っていたものの、どこへ行ってもぬかるみだらけだった。学生の頃、冬の軽井沢で足止めを食らったこともある。その日、碓氷峠は一夜のうちに降り積もった積雪で、朝から通行止めになっていた。だが勿論僕の言う「雪国」とはこんなレベルのものじゃない。

 忘れられない光景がある。それは今にも軒(のき)まで届こうかという積雪に、屋根から垂れ下がったつららが一体化した、雪国の古びた一軒家の佇まいだ。雪はとうに止んでいて、顔を出した太陽の光がつららに反射していた。小学生だった頃、TVで見た光景だ。番組の内容は憶えていないけれど、なぜかその光景だけが今も脳裏に焼きついている。

 僕の住んでいる地域では雪が降ったとしても年に1~2回、積雪ともなれば年に一度有るか無いかだ。積雪量も最近では10センチを超えることはほとんど無い。庭には毎年のようにふきのとうが顔を出すけれど、一度でいいから、雪をかき分けるようにして顔を出すふきのとうが見てみたい。何だろう、この脈絡のない欲求は。

 そんな僕が、真冬の白川郷に行きたいと言うと、家族は「なんでそんな寒いところへ。一人で行けば」とつれない。普段は仲の良い家族なのに、なぜかこの件に関してはなかなかに手強い。仕方がないので、TVの雪国に関する番組を見て気持ちを紛らわす。そんな中でふと気付いた。どうも僕の頭の中にある「雪国」は、東北から北陸にかけての地域に限定されているようだ。北海道は「雪国」というよりは「北国」で、妙にお洒落なイメージがある。お土産はまんじゅうじゃなくて洋菓子、そんな感じだ。僕が抱く「雪国」のイメージは何というか、もっとベタな生活感を伴うものだ。僕もいい歳なので、雪国に住む人々の苦労は理解している。だから軽い気持ちで言っているわけじゃない。だがそんな雪国の景色が日本の原風景の一つであることは間違いない。それをこの目で見てみたい。

 東北出身の父は生前、「雪国の生活を知らなければ本当の日本を知っているとは言えない」と言っていた。それならば、古びた民宿などに長期滞在して、春の訪れを待つのも良いかもしれない。そうすることによって、囲炉裏の火の温もりや、春を待ちわびる期待感を少しは実感できるに違いない。だが現実的には、そんな旅は不可能だろう。

 こうして考えてみると、僕が雪国への旅に求めているものは、おそらく五感で得られる感覚的なものだけではなく、心理的な経験でもあるのだろう。それは単に観光客として「訪れる」だけでは得られないものかもしれない。それでも心のどこかで雪国探訪を諦めきれない自分がいる。