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 「物語」についてなんか言ってたな。 -映画「スモーク」-

 ネットのMSNサイトの記事で、誰かが「物語はもういらない、押し付けられるようで嫌になる」みたいなことを書いていた。「本」とか「映画」とかに限らず、「物語」そのものについて語っているらしい。妙な違和感を覚えたが、その時は深く考えもせず「ふーん、そんなふうに感じる人もいるんだ」と、軽く読み流して終わった…はずだった。ところがシンクロニシティというのか、翌日「スモーク」という映画のレビューを見ていたら、「私たちは物語無しには生きていけない。物語を通して世界の意味を知ろうとするのだから」という文章を見つけた。「スモーク」の原作である「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を書いたアメリカの作家、ポール・オースターの言葉らしい。

 この「スモーク(1995年)」という映画はよくクリスマス映画の名作として紹介されるが、クリスマスとの関わりは、物語の終盤に主人公のオーギー・レンが語るクリスマスのエピソードだけだ。そのエピソードを聞くもう一人の主人公の名はポール・ベンジャミン。これはポール・オースターの初期のペンネームで、つまりこの物語は作家本人が知り合いから聞いたクリスマス・ストーリーを紹介した、という体裁だ。こういう展開だと、僕のような俗物はどこまでが本当の話なのか気になって仕方がない。だが原作ではポール・ベンジャミンがこの出来過ぎたクリスマス・ストーリーを聞かされたあと、「作り話にも思えたが、私は彼の話を信じることにした。一人でも信じるものがいるなら、それは本当の話なのだ」と語る。なるほど、そうきたか。

 この映画には筋らしい筋は無く、ブルックリンのとある煙草屋に集まる人々と、その取り巻き一人一人の短い物語が語られる。煙草屋の雇われ店主、オーギー・レンは、毎日同じ時刻に店の前の交差点を撮影し続けて10年以上になる。彼はキューバ産の葉巻の密輸をもくろみ、昔の恋人はやさぐれた娘に手を焼いて泣きついてくる。煙草屋の常連である作家のポール・ベンジャミンは妻が強盗事件に巻き込まれて亡くなり、以来仕事が手につかず、些細なことから得体の知れないアフリカ系の少年と関わるようになる。少年の生き別れた父親は郊外の落ちぶれたガソリンスタンドを経営していて、少年は何とか絆を取り戻そうとする。こうしたドラマが細い糸のようにもつれながら時間が過ぎていく。

 物語の終盤、ポールは煙草屋を訪れ、オーギーにこう尋ねる。「クリスマスの短編に、何かいいネタは無いかい?」そこでオーギーは昼食と引き換えに怪しげな、けれど心温まるクリスマスのエピソードを語る。出来過ぎた話にポールは疑いの目を向けるが、オーギーは否定も肯定もしない。ただ微笑むだけだ。そのあと画面がモノクロになり、作家の書いた物語が映し出されて映画は静かに終わる。バックに流れるトム・ウェイツの「夢見る頃はいつも」が秀逸!よくもまあ、この曲を…という感じだ。

 ところで「スモーク」ではもう一つ、意味深なエピソードが紹介されている。冒頭でポールが語る、ウォルター・ローリー卿が女王エリザベス一世の前で煙草の煙の重さを計って見せたという話。煙草を吸い終わった後には灰と吸い殻が残るが、消えていった煙にもちゃんと重さがあるという。この話も真偽は定かではないが、まるで人間の一生を表しているかのようだ。そもそも映画のタイトルをあえて「スモーク」としたあたりも、ね。もしかしたらオーギー・レンは刻々と変わる「煙」の写真を撮っていたのかも。

 この映画を見ていて気付くのは、今ではすっかり悪者扱いの煙草が、人間関係やコミュニケーションの場において重要な「間」というものを見事に演出してくれる、ということ。こうしてみると、人の人生はすべて、一種の物語だ。上手な語り手が一人いるだけでいい。

 冒頭で紹介したネットの記事に感じた違和感は、それが物語の登場人物や、延いては実在する他者の人生まで否定しているように感じたからかもしれない。世間に溢れかえる「物語」を取捨選択するのは受け取る側の問題だ。すべてを否定するのは自由だが、本を読み、映画を鑑賞し、それなりに人とかかわってきた身としては、それが真実であろうが嘘であろうが、やっぱり人生に物語は必要だと思うんだけどね。

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 そういえば、そんなことがあったっけ

 9月のはじめのある日、娘の仕事の都合で、午前4時に起きて朝食を作る羽目になった時のこと。外は晴れていたがまだ暗く、空気も9月の上旬にしてはひんやりしていたので、2階の広縁のガラス戸を全開にした。何気なく空に目をやると、東の空にはオリオン座があった。そこから天頂に向かって視線を移した瞬間、流星が飛んだ。流星を見るなんて、何年ぶりだろう。それも見上げたとたんにその視野の中を流れるとは。もっと流れないかとしばらく見上げていたが、残念ながらその時はその一つだけしか見ることができなかった。

 その2日後、同じ理由で4時起きし、同じようにガラス戸を開け、空を見上げた。この日も満天の星空だったが、さすがに流星は流れなかった。でもこの日は別のものが見えた。直線的にゆっくり移動する星のような光点。でも瞬かない。僕はもと天文ファンだから、「UFOだ!」なんてことは言わない。その動きからすると、これは人工衛星(※)に違いない。2日前の流星と同じあたりを、南西から北東へと横切っていく。いやあ、近々で2回、流星と人工衛星を同じ時間帯に、しかも同じ視野の中で見るなんて。こうした偶然が重なると、人はちょっと幸福感を感じたりする。

 僕の特技の一つにマティーニを目分量でカクテルグラスきっちりの量に仕上げる、というのがある。僕はシェイクするタイプが好きなのだが、シェイカーの中の氷の量によっても注ぐジンの目分量は毎回変わる。少々加えるベルモットも目分量。だが10回に7~8回はグラスきっちりの量で仕上がる。とてもいい気分だ。最近ではうまくいかなかったときなど、何か悪いことが起こるのではないかと、夜も眠れないぐらいだ(ウソです)。

 反対にほとんどうまくいかない、ということもある。それはペペロンチーノを作るときの塩加減。ちょっと多めかな、と思ってもほとんどの場合、味が薄くなってしまう。ペペロンチーノが好きで、休日の昼食などに数えきれないほど作ってきたが、味がピタリと決まったことは2~3回しかない。たまにベーコンや玉ねぎを加えてアレンジすることがあるが、これだと難なく味がまとまる。だが正統派のスタイルは塩の量だけで味が決まる。この塩梅が難しい。僕も今更塩の量をきっちり計ろうなどとは思わないので、毎回そんなことで一喜一憂する。まるで人生について教えられているような気分だ。最近ではあきらめの境地に達しかけている。人生を、ではない。ペペロンチーノの味付けの話だ。

 これからも幾杯ものマティーニを作り、ペペロンチーノを作るだろう。そのたびにちょっといい気分になったりがっかりしたりしながら生きていく。まあ、それも人生ということで。そうだ、最近とんとご無沙汰だったが、たまには昔のように、夜空を見上げることもしようかな。今回のように、ちょっといい気分になれることがあるかもしれない。

※ 国際宇宙ステーションなど、主だった人工衛星は日本上空の通過予定時刻や見える方位をネットで知ることができる。