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 一つ明かす。それは土浦市です。

 これまで自身の個人情報は極力伏せてきたが、いろいろと不自由になってきたので一つ明かす。僕の実家は茨城県の土浦市にある。

 年賀状の返信に変えて、古い友人であるSから写真展と写真集の案内が届いた。彼は高校の同級生で、いつぞやどこかで触れた「生徒会会長で文芸部部長で軽音のメンバー」だった男だ。今も土浦市に住んでいて、映像ディレクターをしているそうだ。その彼が「平成土浦百景」という写真集を出したというので購入してみた。

 僕は二十歳を過ぎるまで暮らしていた土浦という街に強い思い入れがある。この街(あえて街と記す)は霞ヶ浦の湖畔にあり、桜川という1級河川の流域でもあって、水際から高台へと続く複雑な地形が独特な風景を作り出している。また、かつては城下町(土浦城、通称亀〔き〕城)だったこともあり、幸いなことに戦災も免れたので、入り組んだ町並みのあちこちに歴史的建築物が点在し、市街地を少し離れると、今でも昭和以前の時代を彷彿とさせる風景が残っている。

 一時は商都として栄えていたが、筑波研究学園都市の完成後、1985年の科学万博を機に直通の高架道路が建設されると、折からのモータリゼーションの普及と相まって、商業の中心がつくば市や郊外の大型店舗に移っていった。その結果、駐車場の少なかった市街地では、5軒あったデパートが相次いで撤退。駅から続く目抜き通りもシャッターが降りたままの店が目立つようになり、時を経た今では人影もまばらな寂れた通りになっている。一方郊外では、現在も広い駐車場をもつ大型店舗の進出が続いていて、市全体としては賑わいを取り戻しつつあるという。だが昔を知るものにとって、慣れ親しんだ商店街が廃れていく様を目の当たりにするのは、やはり寂しいものがあった。

 Sの写真集は手作り感のあるこぢんまりとした体裁のものだが、その内容は充実していて、よくぞこれだけの場所に足を運んだものだと感心させられる労作だった。さらに一般人なら見落としてしまいそうな撮影ポイントまで具(つぶさ)に取り上げられていて驚かされた。例えば桜川の支流に架かる小さな鉄橋など、実はその昔、僕も絵に描いたことがあるのでよく憶えているのだが、当時は幹線道路からは一切視認できない隔絶された場所で、周囲に人家はなく、数日にわたって絵筆を走らせている間、線路の保守要員以外の一般人に出会ったことは一度もなかった(※)。駅東口の開発によって人目に触れるようにはなったが、今も部分的に樹木に隠されていて、それとは気付きにくい場所だ。それから、Sが「巨木のある小径」と記述した薄暗い坂道。この坂には俗称があって、その名も「くらやみ坂」という。小山を切り通して作られたため、道の両側はむき出しの土の壁で、頭上には巨木の枝葉が生い茂り、日中も陽が差すことはほとんどない。だがそんな「くらやみ坂」にも、以前は道の途中に一カ所だけ、建物や木々の合間を縫うようにして西日が差し込む場所があり、夕日に染まる土の壁と木陰のコントラストが美しかった。今はどうなっているかわからないが、そんな光景も、彼の写真集に出会わなければ生涯思い出すことはなかっただろう。

 「平成土浦百景」を見返しているうちに、改めて今の土浦を撮り歩いてみようかな、という気持ちが頭を擡(もた)げてきた。長い月日が過ぎたあとなればこそ、未だに訪れたことのない名所や、昔と変わらない風景を探し歩くのも一興だろう。もう少し暖かくなったら、具体的に計画を立ててみようと思う。

※ ちょっと探したら出てきた。なんて物持ちがいいんだ、オレ。高校3年の頃の作品で、晩夏の午後の風景だったと思う。今見ると力づくで描いている感じだ。画面に上手く収まるように、橋桁を実際の鉄橋よりも若干短く描いている。現在は画面の手前(当時は空き地だった)と、奥に見える鉄橋の向こうにも家が建ち並んでいる。

付記 ふと思い立って、「くらやみ坂」をストリートビューで確認してみたところ、なんと木々が伐採されて格段に明るい道になっていた。驚くことにYoutubeにも動画があって、やはり木々はすでに伐採されていた。おそらく防犯上の問題だろう。

 この坂を登り切る直前で右に折れると、こちらは今でも恐ろしげな人気のない小径が続く。その先には高校野球で有名な土浦日大高校があり、コメントによれば、「くらやみ坂」は生徒たちにとって、土浦駅方面に向かう近道になるので、生徒指導のおりに「注意を要する道」「通ってはいけない道」としてよく話題に上るらしい。つまり日大高校出身者の間では有名な場所だったわけだ。

 ところでストリートビューの日付は2022年7月、Youtubeの動画は2020年1月。「平成土浦百景」は2017年発行だから、Sがこの場所を撮影したのはおそらくその数年前あたりか。その頃にはまだその名にふさわしい面影があったようだが、現在の様子からは「くらやみ」という文言は逆立ちしても出てこないだろう。「くらやみ坂」の名は、文字通り歴史の闇の中に消えていくのだろうか。それとも道の俗称として存続するのかな。

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 新年、明けはしたんだが・・・

 昨年最後の記事で「穏やかな良い年になりますように」とは書いたものの、明けてみれば元日から大地震に飛行機事故と、とんでもないニュースの連続。「おめでとう」という言葉を使うことが憚られる正月って、いったい何なんだろう?日本は大丈夫なんだろうか?

 さて、今年はいろいろと事情があって、3日に日帰りで帰省した。帰省と言っても、車で1時間ほどの距離だ。帰省する時に必ずすることがある。まず午前中のうちに家族で実家の近場にあるショッピングモールに寄り道し、アンティークショップを覗く。さらに駄菓子屋コーナーを経て食品売り場に行き、毎年恒例の駅弁大会を覗く。今年は娘の希望で、いつも混み合っている洋菓子店にも寄った。こうしていろいろと買い込んだあと、実家に赴(おもむ)くのがいつものパターンだ。

 兄夫婦が「正月料理に飽きたから、うちの分も駅弁を買ってきてくれ」と言うので、昼食は実家で駅弁パーティーと相成った。午後からは兄と僕だけで、老舗の模型店に行く。この店はその昔、まだサンタクロースが我が家を訪問していた頃からの付き合いで、当時工作材料として一般的だったバルサ材や、ゴム動力で飛ぶ、角材や竹ひご、ニューム管(知らないでしょう。「アルミニューム管」の略です。「アルミ管」で良さそうなもんだが、何でニューム管?)などで作る模型飛行機のキットも扱っていた。東日本大震災を機に移転して、旧店舗がなくなってしまったのは残念だが、残っていた古いキットや中古プラモがいまだに並んでいてちょっと楽しい。2代目(多分)が一人で切り盛りしているのだが、高齢なので最近は客が来た時だけ、奥から出てくる。その筋では割と有名な店で、タミヤ模型の会長である田宮俊作氏も訪れたことがあるらしい。

 今年はレベル(プラモデルのメーカー)の1/174 B52戦略爆撃機のキットを見つけた。組み立て説明図によれば1977年のもののようだ。箱の角は擦れて白くなり、一部破れたところをセロハンテープで止めてある。同梱のアンケート葉書には「20円切手を貼ってください」とある。まさしく当時もの。しかも箱絵に見覚えがある。というわけで即買い。兄も何やら見つけて購入したようだ。これが兄と僕の、盆と正月における恒例行事なのだ。だが今年は例年と違って、ちょっと気になることがあった。

 店主は以前から足が悪かったのだが、今回は店に出てくるのにも苦労していた。接客のために立っているのが気の毒なぐらいだ。以前に比べて口数も少なくなり、それにならうように商品の数も少なくなった。そうか、仕入れもままならないのか・・・。

 帰り道、僕らは車の中でこんな会話をした。「あの店が無くなったら、俺たちはどこへ行ったらいいんだろうね。」「昔から、子供が遊びに行けるような楽しい店だったからな。あんな店、他にないよ。」「今のプラモデルは大人の趣味というか、子供が小遣い握りしめて買いに来るような代物じゃなくなっちゃったよなあ。」「だからほら、とうに潰れたA店もB店も、子供の姿なんてなかったじゃんか。大人志向でさ。あの頃から何かがおかしくなったような気がする。」

 勿論子供向けのプラモデルは今も存在する。ただしそれはゼンマイやモーターで動くおもちゃ的なものではなく、あくまでもディスプレイモデルで、大人でも満足できる完成度だ。しかもスナップキットという接着剤を使わないはめ込み式のものが多い。当時のプラモデルと現代のそれとでは、概念からして違うのだ。

 僕らにしてみても、今ではプラモデルは「作るために買う」というよりも、「所有して安心する」あるいは「思い出を蒐集する」といった、本来とは全く違う目的で買い求めることが多い。まあ、大人になっちゃったからね。でも、だからといって周りを見回してみても、僕たちが昔そうであったような子供はもういないような気がする。不謹慎を承知で紹介するが、今回の能登地震で被災した小学生が、始業式が遅れることについて「授業が遅れることが不安です」なんて言っていた。僕たちの頃はそんな心配は親任せだったけどなあ。だって、小学生だよ?当然、「やった!休みが増えた!」という反応だろう。

 いずれにしても、あの老舗模型店は僕らにとって最後の砦だ。今しばらくは存続してくれることを願ってやまない。