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 ロックンロール!

 別に「自動小銃に弾丸を装填しろ!」と言っているわけではない。「ロックンロール・スペシャル」。これはある2枚組のアルバム(もちろんLPレコードの)のタイトルだ。誰がいつ、こんなアルバムを企画したか知らないが、よく見るとジャケットの片隅に1977とあった。多分僕が学生の頃に面白半分で購入したものだ。構成はいわゆるオムニバスで、古いロックンロールの名曲がオリジナル音源で24曲収められている。代表的なものを挙げると、P・アンカの「ダイアナ」とかG・マハリスの「ルート66」、S・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」、「それにB・ヴィトンの「ミスター・ロンリー」などで、全体的にみると50年代の曲が多い。

 装丁はやりたい放題で、ジャケットにはオープンカーでドライブ・インに乗りつけ、瓶入りのコカコーラを飲むリーゼントのお兄ちゃんやらポニーテールのお姉ちゃんやらが、なんちゃってアメリカンスタイルのイラストで描かれている。描いたのはたぶん日本人だろう。バッタもん臭がプンプンする。なんてふざけたアルバムなんだ、と常々思っていたが、なぜか歳を取るにつれて、定期的に引っ張り出してはある期間愛聴するようになった。今年もまたその時期がやってきたらしく、最近ちょくちょく聞いている。これがなんだかとても心地よい。

 僕はこれらの曲が流行った時代を知らないし、本来ならロックンロールを聞くような世代でもない。学生だった頃に浜田省吾を知り、「ハンバーガースタンドで待ち合わせて、彼女の親父の車を夜更けに盗み出し、誰もいない海まで真夜中に走る」という内容の歌詞を聞いて、「いや、ここはアメリカじゃないから」なんて思ったことはある。そう、ここは日本だ。50年代のアメリカとは違う。当時のアメリカはもっと豊かで、単純で、能天気だった。それでやっていけた時代だ。ドン・マクリーンが「音楽は死んだ」と歌う以前、サイモンとガーファンクルが、アメリカを探す旅に出るうつろな若者の姿を歌う以前の時代(※)。

 もちろん70年代の音楽もいいのだけれど、50年代のそれは、たとえるなら「サンタクロースの実在を信じていたころの音楽」とでも言えば、そのニュアンスが伝わるだろうか。だから僕みたいに、今でもサンタクロースの実在を願っているような精神構造の人間にはしっくりくるのだろう。だが60年代半ばになると、そんなアメリカにも陰りが見え始める。が、それはまた別のお話。

 ところで僕がこのアルバムを引っ張り出すのは、もしかしたら複雑かつ雑多になり過ぎた現代の生活に疲れたりうんざりしたり、そんなタイミングかもしれない。先に述べたとおり、僕は現実にはこの時代を知らない。だが洋画や洋楽が好きだった両親の影響で、当時の音楽や映画は山のように見聞きしてきた。それらはある意味、美化された虚構の世界でしかないけれど、現実を知らないからこそ、子供だった僕はより強いあこがれを持ったのだろう。つまり僕が帰って行くのは僕の脳内にだけ存在する「50年代」であって、能天気なロックンロールはその一部だ。そこでは今もツートンカラーのコンパーチブルが走っていて、昼はダイナーでハンバーガー&チップス。ドライブ・インには夜遅くまで煌々と明かりがともり、若者たちはコークを片手に少し尖った青春を謳歌する。もちろんそんな経験をしたことは一度もないが、それでも頭上に広がる空の青さまで、ありありと思い浮かべることができる。そしてその空の色は、この歳になっても少しも色あせていない。

 「ロックンロールスペシャル」ジャケット。右側が表。ドライブ・インの店名は「スターライト」だって。看板には「コーク」と「アイスクリーム」の文字が・・・。
 解説のレイアウトも1曲1曲凝っていて楽しい。イラストもたくさん。昔の新聞みたいだ。ページが捩れてるな。なんかこぼしたか?
 歌詞もちゃんと掲載されている。さすがに和訳は無いが、このころの曲は内容が単純なので、何となく理解できてしまう。それに文字が大きくて読みやすい!

※ ドン・マクリーン「アメリカン・パイ(1971年)」 サイモンとガーファンクル「アメリカ(1968年)」

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 秋のSF祭り 「スターウォーズ」と「未知との遭遇」

 1978年は日本のSF映画ファンにとって特別な年だった。それというのも、この年に「スターウォーズ」と「未知との遭遇」が公開されたからだ。どちらも宇宙を題材にしたエポックメイキングな作品だったが、内容的にはまるで違っていて、どちらが好きかでSFファンとしてのタイプが明らかになると言われたほどだった。たとえば「未知との遭遇」は、現実に明日起こるかもしれない地球上でのUFO事件を題材にしているのに対し、「スターウォーズ」は冒頭で説明されるとおり、「遠い昔、遥か彼方の銀河系で」起こったことが描かれていて、そこに地球人は全くかかわらない。これは言い換えれば「未知との遭遇」が文字通りSF(空想科学物語)であるのに対し、「スターウォーズ」はいわゆるスペースオペラ、すなわち宇宙活劇の類であるということだ。

 どちらも当時としては最高の特撮技術が使われているが、時代が時代なのでCGは一切使われていない。参考までに言うと、「未知との遭遇」の特殊効果を担当したのはダグラス・トランブル。「2001年宇宙の旅」を成功に導いた人物だ。彼は1972年に「サイレント・ランニング(※)」というSFの佳作を監督していて、この時一緒に仕事をしたジョン・ダイクストラが「スターウォーズ」の特殊効果を担当することになった。

 前記したとおり、「未知との遭遇」は日常生活の延長上にある脅威を描いていて、過去に報告されたUFO事件のエピソードがふんだんに取り入れられている。特筆すべきは当時UFO研究の第一人者だったアレン・ハイネック博士がカメオ出演していることで、物語の終盤、着陸した母船をよく見ようと前に出てあごひげをひと撫でし、パイプをくわえる老科学者がまさにその人だ。同じく終盤の、音階と光の明滅で宇宙人とコミュニケーションをとるというアイディアは多少ファンタジー寄りではあるが、スピルバーグらしい演出で効果を上げていた。その単純な音階がエンドロールで壮大なメインテーマにつながっていくあたりは、さすがは大御所ジョン・ウィリアムズ。

 「スターウォーズ」は描写や音楽(こちらもジョン・ウィリアムズ!)が派手で見ていて楽しいが、僕にとっては「SFの概念と特殊効果で味付けされた冒険活劇」でしかない。剣や銃で戦い、飯を食い、車に乗るように宇宙船を乗り回す。ここでは脅威となるはずの物事が単なる日常だ。エピソード(話数)が多いので飽きも来る。もうお分かりですね。そうです、僕は「未知との遭遇」派です。「スターウォーズ」はお約束のアラ探しをしようにもアラだらけでその気にもなれない。良くも悪くも荒唐無稽すぎる。

 こうして考えてみると、SFファンによるアラ探しという行為はリアリズムを追求するタイプのSF映画に対する一種の愛情表現なのかもしれない。製作者:「どうです、完璧でしょ?」ファン:「いえいえ、今回も必ず何かしら見つけちゃいますよ?」といった具合だ。だから単純なスペース・オペラでは満足できないんだな、多分。ただ、かの宇宙大元帥(故 野田昌弘氏、SF作家)がいみじくも言っていたように、「SFは絵だ!」というのも事実で、そういった意味では「スターウォーズ」のSF映画界への貢献は大きく、大いに評価できると思う。特に冒頭のスター・デストロイヤーの描写は秀逸で、後々どれだけパクらたかわからない。

 最後に一言、最近のSF映画を見ていて「つまらん」と思うのは僕だけだろうか。内容がやたらと小難しいうえに、ストーリーも見ていると鬱になりそうなものが多く、やりつくしてしまった感がある。だったらいっそのこと、「宇宙戦争」を原作どおりヴィクトリア朝のイギリスを舞台に、再々映画化するぐらいのことをしてくれれば面白いのだが。

※ ちょっと毛色の違った宇宙SFの傑作だと思う。主題歌を歌っているのがジョーン・バエズだと言ったら、興味がわくかも。お勧めします。僕はラストで泣きました。

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 秋のSF祭り 「2001年宇宙の旅」

 前回「宇宙征服」という1950年代のSF映画について書いたが、そういえばプラモデル専門誌「モデルグラフィックス」の10月号が「2001年宇宙の旅」の特集を組んでいたっけな。なぜ今「2001年宇宙の旅」なのかというと、なかなか見つからなかった資料がいろいろと出てきて、正確なディテールのモデルが出そろってきたのが最近の話であること、「宇宙ステーション5」がアメリカのメビウスモデル社から発売されたことなどがその理由らしい。ちなみにメビウスモデル社はSFのプロップを積極的にモデル化しているメーカーで、これらのキットはアマゾンで容易に手に入る。だがしかし、「2001年…」のディスカバリー号や往年のTVドラマの「原潜シービュー号」などは1メートルもあるビッグサイズ(※)。いったいどこに置けというんだ。

 さて、モデルグラフィックスにはモデルの解説だけでなく、最近わかってきた映画制作上の裏話なども掲載されていて、読んでいるうちにまた「2001年…」が見たくなってきた。先の「宇宙征服」と見比べるのは酷かもしれないが、それも一興と思い、久しぶりにBDを引っ張り出した。

 この映画を見るたびにどうしてもやってしまうのが時代考証。そんなの無粋でしょ、と言われるのは分かっているんだけど、例えば「2001年…」の世界ではだれも携帯電話を持っていないことなどは到底見逃すわけにはいかない。おかげでフロイト博士は宇宙ステーションから公衆電話(TV電話)を使って自宅に電話をする羽目に。監督のキューブリックはTV電話を見せたかったんだろうけど、画面が大きいから個人情報だだ洩れだ。今となっては違和感しかない。携帯端末としてのパッドのようなもの(ただしTV放送のみ対応?全編を通して、ネット環境が整っているようには見えない)は出てくるのに、惜しいなあ。

 ところで今回見直してみて、また新たな問題を見つけてしまった。科学者チームが月面で発見された第2のモノリスを視察するシーンで、月面移動用のムーンバスに物資が入っていると思われる木箱(!?)がたくさん積んであったりする。いくら何でもこの時代に木箱は無いだろう。下手をすると、角で宇宙服が切り裂かれそうだ。さらにその直後、随伴するカメラマンがフィルムを巻き上げているとしか思えない派手なアクションしている。デジタルカメラの出現を予測できなかったのか…いや、ちょっと待て。デジタルカメラの普及って、いつ頃だったかな。でもフィルムカメラだってAF(オートフォーカス)や自動巻き上げ機能はもうあったよね。実際、月面基地での会議の場面ではそれっぽいカメラを使ってる広報担当者がいて、巻き上げやピント調整なしで写真を撮りまくっている。

 ちなみにフィルムカメラの自動化(AF、自動巻き上げ等)は、ミノルタの名機α7000を例にとると1985年あたり。デジタルカメラは2000年ぐらいから普及し始め、それなりの性能の一眼レフが出そろうのは2003~2005年ぐらいからだ。月面でのモノリスの発見は1999年らしいから、あのシーンで使われるとしたら、AFで、なおかつ自動化されたフィルムカメラである可能性が高い。ということは、やはり劇中でのフィルム巻き上げはあり得ない(ただし、ハッセルブラッドを使っているとしたらその限りではない)。

 もう一つ、これは時代考証というより科学的考証の重大なミスで、実は前から気づいていたんだけど、映画の後半で、ハル9000コンピューターによって宇宙空間に放り出されたプールの遺体を回収したボーマンが、ハルにディスカバリー号への帰還を拒まれて、やむなく非常用エアロックを使うシーンがあるじゃないですか。あの時ボーマンはポッドに装備されている左のマニピュレーターでロックを解除し、その後右のマニピュレーターでハンドルをぐるぐる回してドアを開けるんだけど、その時点でディスカバリーとポッドをつないでいるのは右のマニピュレーターだけ。つまりポッド本体を固定せずにその手首の部分を回転させるわけだから、反作用でポッドには多少なりとも回転運動が生じるはずだ。でもポッドは微動だにしない。それどころか、その直後に爆破用ボルトを使うことで爆発の反動と相当量の空気の噴出があったにもかかわらず、ポッドは相対位置を維持してたよね。これは宇宙空間では絶対にあり得ない。誰も話題にしないところなので一応書いておく(ホント、嫌な性格ですね)。

 今は2024年。2001年はすでに過去だが、映画で描かれたような宇宙ステーションも月面基地も有人木星探査も、いまだに実現していない。一説によると、当時のような宇宙に対するあこがれを、人類はとうに失ってしまったらしい。その間にたくさんの戦争や紛争があり、ネットには…「すごい!他人を中傷する記事がいっぱいだ!」スタンリーとアーサーが夢見た人類の輝かしい進化は、まだまだ先の話のようだ。

※ ステーション5とほぼ同時期に、ディスカバリー号の1/350モデル(こちらは40㎝ほど)が発売されたそうだ。シービュー号は以前からオーロラ版(約30㎝)等が販売されている。

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 秋のSF祭り 「宇宙征服」

 「宇宙征服」というSF映画のDVDを買った。聞いたこと無いって?そりゃそうだ。何しろ1955年の映画だからね。僕だって子供の頃にTVで見たのが最初だもんな。で、次に見たのが1994年ごろ発題されたLD。でもLDプレーヤーがまともに動かなくなってからは、長い間ソフトが全く見つからなかった。それが今年、何気なく検索したら、アマゾンでDVDを発見。2022年に発売されていたらしい。うーん、やはりBDにはならないか。今となってはマイナーな映画だからなあ。

 さてこの映画、近未来に人類が火星探査をする、というだけの筋書きなのだが、当時としてはかなり現実的なデザインの宇宙船が登場することは、以前宇宙船のデザインについて書いたときに触れた。これは原作が小説ではなく、当時の科学解説者ウィリー・レイが書いた「宇宙の征服」という科学啓蒙書だったからだろう。目的地も宇宙征服と言いながら、実はお隣の火星だったりする。だから宇宙船には火星の薄い大気中で滑空するための巨大な翼がついている。さらに往路の加速のために使ったバカでかい燃料タンクは、本体の総質量を減らすために途中で切り離し(加速・減速時の燃料効率が上がる)、火星大気に突っ込ませて焼却するなど、描写もかなりリアルで、今までのちゃちな1段式ロケットとは一線を画していた。そんなわけで宇宙船の秀逸なデザインばかりが印象に残っていたのだが、今回あらためてDVDを鑑賞してみると、そのストーリーは何とも言いようのない矛盾だらけの代物だった。

 まず第一に、探検隊のメンバー。こんな連中じゃ間違いなく計画は失敗する。何しろ隊長(将軍ですね)が途中で精神を病み、「神が与えたもうた地球を飛び出して、他の惑星の資源まで手に入れようとするのは神への冒涜だ」なんて言い出す。勿論いろいろやらかしてドラマを盛り上げてくれますぜ。その隊長に長年連れ添った鬼軍曹も、メンバーじゃないのに密航してついてくるし、将軍の息子は大尉の身分でありながら「新婚なのに…早く地球に戻りたい」なんて愚痴ばかり言っている。メンバーの中で一番まともに見える日本人隊員のイモトは「日本人は紙と木でできた家に住み、木の箸を使う。それは日本に資源が乏しいからだ。金属のスプーンやフォークを使いたくても使えなかったんだ。だからよりよい生活のために資源を求めることは間違っていない」と、火星探検の意義を説く。えっ、そうだったの?知らなかった…同じ日本人として泣けてくる。

 そして何よりも(今回あらためて鑑賞するまですっかり忘れていたが)、この計画はもともと月旅行だったものが、急遽火星旅行に変更されるんだよ?そんなの絶対にムリ…と思いきや、そもそも宇宙船のデザインが先に述べたとおり、どう見たって月旅行用じゃない。つまり火星旅行が可能な宇宙船を作り、その試験飛行として月へ行く、そういうことだったらしい。それをぶっつけ本番で火星旅行に変更。あり得ねー。

 というわけでこの映画、宇宙船のデザインはよかったものの、肝心の脚本がポンコツで、映画としては失敗作となってしまった。陳腐なドラマを省いて、もっとドキュメンタリータッチに寄せたほうが受けが良かったような気がする。でも特撮や科学的考証に関しては、当時としては画期的な映画だったことは確かだ。

 ところでこの映画の功労者と言えば、何といっても宇宙画家チェスリー・ボーンステルだろう。往年のSFマニアなら彼の名を知らない人はいない…いや、いるかもしれないけど、とにかくその筋では有名な人。彼は映画の原作本である「宇宙の征服」にも数多くのイラストを提供していて、それらを参考に映画が製作されたことはまず間違いない。「火星探査」という別の書籍には映画に登場したものとほぼ同じデザインの有翼火星探査船も描かれている。彼の作品はSF映画のみならず、アメリカの宇宙開発計画そのものにも多くの影響を与えていて、個人的にもリアルな、それでいてロマンあふれる宇宙画を数多く制作している。1976年には長年のSF界への貢献が認められ、ヒューゴー賞(※)特別賞を受賞した。1986年没。

※ 前年度のSF・ファンタジー小説から選考によって選ばれた作品や関連する人物に贈られる賞。2015年には初めてアジアの作家(中国人)による作品「三体」が選ばれ、話題になった。 

 ボーンステル「タイタンから見た土星」。1944初出。初期の傑作と言われている。
 ボーンステル「火星探査」のためのイラスト。有翼の火星探検船が軌道上で建造されている。1956年初出。 いずれも河出書房新書「宇宙画の150年史」より。
 「宇宙画の150年史」河出書房新書刊、ロン・ミラー著。タイトルのとおり、古くは19世紀末の挿絵から現代のデジタルアートまでを網羅している。印刷なども高品質。SF好きにはたまらない1冊だろう。