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 プラモデルとともに

 プラモデルが好きだ。といっても、今流行りのフィギュアやガンプラはこれに含まれていない。僕はスケールモデルが専門だ。スケールモデルとは、実在する、あるいはかつて実在した戦車やら戦闘機やらを正確に縮小したモデルのことである。ところで僕は、そういったモデルを単に作って楽しんでいるわけではなく、それらに関わる諸々の事象にも大変興味がある。例えば昔ながらのたたずまいを維持しているプラモ屋さんを見つけて訪問してみたり、絶版になったプラモデルをネット上で探したりする事もある。言うなればともに歩んできたプラモデルの歴史を検証しているということか。ただし、学術的な興味でそれをしているのではなく、あくまでも情緒的、言い換えれば思い出の地巡りのようなものだと思ってもらえば良いだろう。そんな中で、一番力が入るのがボックスアートの収集だ。同じ気持ちの人が多いらしく、近頃ではボックスアートの画集も何種類か出版されていて、僕としては嬉しい限りだ。ちなみに僕は美術系の大学出身で、美術に関わる仕事をしてきた。そしてそのきっかけになったのも、小学生の時に何気なく始めたボックスアートの模写だったのだ。人間、何がどう影響するかわからない。だから、プラモ屋さんなどで古ーいキットを見つけて、それが記憶に残っているものだったりすると、思わず買い込んでしまって妻を閉口させている。正直、買いためたキットを置く場所もなくなってきた。  

 ちょっと横道にそれるけど、カメラについても同じような嗜好があって、ニコンの名機F2フォトミックAの極上品を見つけて即買いしたことがある。このカメラのTVCMがかっこよくて、今でもカセットテープに録音したものが残っている。使うためというよりは、思い出を収集しているといった感じだ。当時のものを集めることで、その時代がよみがえるような錯覚に陥っているのだろう。もしかするとこれは老いの始まりかもしれない。  

 さて、ボックスアートである。僕には今でも忘れられないボックスアートがいくつかあるのだが、その中でもベストなのが、タミヤの1/21デラックス戦車シリーズの3号戦車(シングル)のボックスアートだ。背景の空の青、わき上がる雲、戦車兵の勇んだ表情、どれをとっても印象的で、後に作者である高荷義之画伯がその画集の中で「自分の最高傑作」と書いているのを知ってとても嬉しかった。デッサンの狂いやマーキングの間違いなども確認できるのだが、一枚の絵画として優れた作品だと思う。子どもだった僕にとって、それが兵器であることなどどうでも良く、ただただそのかっこよさに心を躍らせていた。その頃の僕は、ボックスアートさえかっこよければ中身が多少変でも許せた。しかし、その逆は絶対になかった。そういう意味では、ボックスアートは子どもに夢を見させる魔法ですらあったのだ。  

 あるプラモ雑誌で例の3号戦車等のボックスアートをジオラマで作って撮影するという特集を組んだことがある。キットはオリジナルのものを使っていたが、写真の出来はあまり良くなかった。実はそれに先駆けて、僕はすでに同じ事を試みていた。手前味噌で申し訳ないが、自分の作品の方が雰囲気の再現では勝っていたと思う。なぜなら特集の作品がスタジオ撮りであったのに対し、僕は背景を本物に似せて描き、自然光を使って撮影したからだ。勿論光の来る方向も調節した。戦車本体についても間違ったマーキングを再現し、あり得ない場所に予備転輪を配置するなどしてボックスアートの再現に努めた。この作業の様子を見に来た今は亡き父が、にやにやしながら「人生が楽しくないわけがないな。」とつぶやいたのを今でもよく覚えている。この写真は街のプラモ屋さんのコンテストで銀賞をいただいた。勿論ジオラマも展示した。今はため込んだキットを作る時間もままならないが、そんなこんなを全てひっくるめて、僕はプラモが大好きなのである。

 平野克美 編 「高荷義之 プラモデルパッケージの世界」(大日本絵画)より

 こんな感じ。これは実際に展示したもの。使用したのはタミヤ1/35MMシリーズの3号戦車。マローダー(墜落機)の角度がちょっと・・・。土煙はペイントショップで加筆。 イラストで飛んでいるドイツ機は残念ながら省略。

 ちなみに本文で言及した某プラモ雑誌編集部の作品は大日本絵画社の「タミヤの動く戦車プラモデル大全」(2008年発行)86ページに掲載されている。オリジナルのタミヤ 1/21デラックス戦車シリーズのキットを使用。こちらは高荷義之画伯が後に加筆・修正したものを再現したのかもしれない。この修正後のイラストは徳間書店の「高荷義之 イラストレーション」(1986年発行)等で見ることができる。

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 ウスターソースの進化

 このところ話題が料理づいているけれど、今日はウスターソースについて。だが、イギリスはウスターシャー州出で生まれたからウスターという名前なのだとか、ある主婦が野菜くずその他をポット(容器)に入れたのを忘れてほっといたら勝手にできあがっていたとか、そんな話をしようというのではない。日本のウスターソースは、発売以来格段の進化を遂げているようだ、というお話。ただし、あくまでも「個人の感想です」から、何の信憑性もありません。そこんとこ、よろしく。

   そもそも僕は、ウスターソースなる物があまり好きではなかった。その昔、カレーにかけたのは醤油だったし、トンカツも醤油マヨ(僕はマヨラーでもある)で食べるのが好きだった。あるとき、「トンカツソース」というものが存在するのを知り、それ以降はかなりの割合でこれを使うようになった。現在ではかなりの種類の「ソース」なる物が存在し、我が家にもほぼ3種類のソースが常備されている。ウィキペディアによれば、その粘度によって、「ウスターソース」「中濃ソース」「濃厚ソース(トンカツソースはこれに含まれる)」の三種類に分類されるそうだ。

   僕がウスターソースを敬遠したわけは、当時のウスターソースに含まれていたヨード臭が嫌いだったからだ。これは今でも苦手で、例えば僕はウイスキーだとスコッチ、それもモルトウイスキーを好むのだが、それでいて「ボウモア」のような、海藻由来のヨード臭があるものは苦手だ。いくら「通好み」と言われても、いまだに飲む気になれない。そんなわけで、僕のソース歴(?)はほとんど「トンカツソース歴」であった。

 あるとき、あるカクテルを作るためにウスターソースを購入する機会があった。そのカクテルとは、「レッド・アイ」。ビールをトマトジュースで割っただけの簡単なカクテルなのだが、そのレシピには、仕上げとして「レモンを搾り、お好みでウスターソースやタバスコを加える」とある。このカクテルは、もともと二日酔いの朝(目が充血して真っ赤=レッド・アイ)に迎え酒として飲むもの。だからビタミンを加えたり、刺激物を加えたりするらしい。それをやってみたくて、何十年かぶりにウスターソースを購入したのだ。そして発見した。今のウスターソースにはきついヨード臭がないことを。ためしに自家製コロッケにかけてみた。美味しい。次にトンカツに、辛子を添えて使ってみた。美味しい!いったいいつからこの味だったのだろう。僕はいったいどれぐらいの時間を無駄にしたのであろうか(大げさな)。 ここからが個人的な見解になるのだが、けっして僕の味覚が変化したわけでは無いと思う。確かに格段に美味しくなっている気がする。特にパン粉を使った揚げ物との相性は抜群だ。一気にトンカツソースの消費量が減ったぐらいだ。しかも特別な、本格的な商品を買っているわけではない。そのへんで普通に売られている、一般的なメーカーのものだ。あえて言うなら、あの、かみつかれそうなヤツだ。

 以前から何度も書いているように、僕は料理が趣味だ。だが、いつもこだわりを持って料理しているわけではない。現在市販されている調味料はとてもよくできていて、うまく利用すれば十分納得のいく味を作り出すことができる。例えば、ポークソテーやハンバーグのソースとして、トンカツソースとケチャップを半々に合わせ、肉などを焼いたときに出た肉汁や焦げ付き(と言っても、真っ黒になった物はのぞく)をフライパンの中でこそげ取りながら混ぜ、赤ワインと、隠し味に醤油を垂らして加熱するだけで、なかなか良い感じのソースができあがる。粒マスタードを加えたり、生クリームを加えたりすることによって、バリエーションも楽しめる。勿論、市販のデミグラスソースを少量加えても良い。これは使うソースやケチャップがよくできているからできることなのだと思う。 そんなわけで、今のウスターソースもとてもよくできている。日々改良が加えられてきたに違いない。そういった、企業としては当たり前の努力にあらためて気付かされたのであった。そして今では、我が家の「食」における必須アイテムの一つとなっている。イギリスに美味いものなし、というが、このウスターソースと、もう一つ、これも英国人の発明である「カレー粉」に関してはとても感謝している。

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 なるほど、イタリア料理。

 料理を趣味にしていると、面白いことに気付く。そのお国柄が料理によく現れていることもそのひとつだ。例えばイタリア料理。

 フランス料理や中国料理には、なんでこんなに時間がかかるんだ、みたいな料理がよくあるが、イタリア料理はあまり時間のかからないものが多い。誤解を恐れずに言うならば、「料理人、楽してるなあ」という感じ。イタリア人って、「シェスタ」ていう習慣があるでしょう。要するに「お昼寝タイム」だ。それを大人が、仕事中にとる。そんなことからも、時間節約のために手を抜いてるんじゃないか、などと思いたくなってしまう。しかし、皆さんご存じのようにイタメシは美味しい。僕のレパートリーにもイタリア料理は結構ある。そして実際、作るのは楽だ。自分で作るようになって、その理由がわかった。

 イタリアの有名な食材で、知っているもの、何があります?例えばパスタ、トマト、バジル。その他にも、ああ、言われてみれば、というのがアンチョビ、生ハム、バルサミコ酢。超高級品も存在する。  

 日本では、アンチョビは敬遠されることが多い。子ども連れでアンチョビ入りのピザをオーダーすると、「アンチョビが入っていますが大丈夫ですか?」なんて念を押されることがよくある。しかし、このアンチョビを調味料として使うと実に効果的で、ソースの味に深みが出る。特にトマトとの相性は抜群だ。そんなわけで、うちの冷蔵庫には欠かしたことがない。仮に魚介のトマトソース・パスタを作るとしましょう。まずオリーブオイルでニンニクとタマネギのみじん切りを炒め(ここで例のロースト・オニオンを使うとえらく時短になる)、殻つきのエビ、あさり、イカの切り身などを加えて炒め、塩・黒こしょうを振る。この時にアンチョビのフィレ(瓶詰めで売っている)を、4人前の材料に対して2本ぐらい、細かく刻んで一緒に炒める。これを入れるか入れないかで味が格段に違ってくる。あとはカットトマトの水煮缶とピューレなどを加え、塩・コショウで味を調え(ソースなので塩は強めに)、必要に応じて水を足しながら軽く煮詰める。そこに1分短く茹でたパスタを加え、加熱しながら絡めてできあがり。仕上げにイタリアンパセリを散らし、オリーブオイルを軽く振れば完璧。いや、違うな。炒めた具材をいったん取り出し、パスタを入れる直前に戻した方が良い。そうすることで,エビやアサリに火が通り過ぎるのを防ぐことができる。これで完璧。説明しなければアンチョビが入っていることなど誰も気付かない。

 折角だからもう一つ。イタリアン・ポークソテー。こちらはバルサミコ酢を使う。

 豚ロース(ソテー用)を包丁の背で軽く叩き伸ばしてスジ切りし、塩・コショウして強力粉を軽くまぶす。バターとオリーブオイルを1:1の割合でフライパンに溶かし、肉を両面こんがりと焼く。肉を取り出し、そのフライパンにバルサミコ酢、赤ワイン、醤油を3:3:1(醤油はお好みで増やしても良い)の割合で加えて、軽く煮詰める。焼きつきそうなら水を少量加える。味を見てOKならフライパンに肉を戻して絡める。バターの風味が好きな人は、肉を戻す直前に少量のバターを加え、溶かしてやるとさらに風味が際立つ。大ぶりのフライドポテトを添えていただく。ここで大事なのは、肉を選ぶときにしっかり脂身がついているものを選ぶこと。最近、脂身の部分を削り取ったロース肉をよく見かける。全く、余計なことを。豚の脂身には独特の甘みと香りがあるので、僕としてはそれをしっかりソースに使いたい。嫌いな人は食べるときに残せば良いのだ。

 イタリアにはすごい食材がたくさんある。腕利きの職人がそれらの食材をプロデュースし、料理人はその組み合わせを考え、最大限に生かすことによって、美味しい料理を作りだす。フレンチのシェフがクリエイターだとしたら、イタリアンのシェフはコーディネーターかもしれない。そういう意味では和食に似ている。フレンチ・シェフはフォン(だし)から自分で作るが、和食の料理人は鰹節は作らない。出し昆布も,信頼する業者から手に入れるのが普通だ。そこがイタリアンの構造と似ている気がするからだ。 そこへいくとドイツ料理なんて、質実剛健そのものだ。うちで時々「アイスバイン」(注)を作るが、塩気の強い付け汁につけ込んで一週間待ち、それをただの水と少しのスパイスで2~3時間ゆでるだけ。この素っ気ない料理法で美味いものができあがってしまうからすごい。材料も一般的な物がほとんどだから、家庭でもレストランと同じ味のものを作りやすい。こうしたドイツ気質丸出しの素朴な料理は、悪名高きイギリス料理の「とりあえず食えるように料理してあります」的な物とは一線を画する気がする。

(注)アイスバイン

 塩漬けの豚肉(正式にはバイン=すね肉を使う。)を長時間ゆでた料理。個人的にはモモ肉とかロース肉を使った方が美味しいと思います(すね肉はコラーゲンが豊富で、豚足に近い)。ドイツワインに同じ名称のものがあるが、こちらは「アイスヴァイン(綴りもBとVでちがう)」。冬になるまでブドウの果実を摘まずにおき、糖分が極限まで凝縮した物で作った極甘口のワイン(ヴァイン)のこと。キンキンに冷やして飲むと、美味いんだこれが。ただし、「何かの料理に合わせよう」なんてことは考えないほうが良いと思います。あくまでもデザートワイン、ということで。ちなみ「アイス」とつくのは「ブドウが凍るほど寒い時期まで摘まずに置く」という意味。そうすることで水分はほとんどなくなり、糖分だけが濃縮されて残るというわけだ。このタイプのワインは世界各地で作られており、日本にもある。また、この製造過程でブドウに運良く貴腐菌がつくと、できあがるワインは「貴腐ワイン」という希少価値の高い極甘口の高級ワインになる。

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  年齢不詳

 今日は2021年1月12日。なんとか年は明けたが、新型コロナのおかげでなんだかちっともそんな気がしない。つい先日、2度目の緊急事態宣言なんてものも出てしまったし(幸い僕の住んでいる地域は現在対象外)。この状況は,いったいいつまで続くのだろう。まったく、厭になっちゃうな。

 さて、お気づきの方も多いと思うが、僕はこのブログを立ち上げるにあたって、現在の職業や年齢があえてわかりにくいように書いている。一般的な意味で言うところの匿名性を重視しているわけではなくて(はじめは実名で書こうと思っていた)、具体像が明らかになると、多くの支障があることに気付いたからだ。

   今までの記事を読めば、僕の年齢などは何となくわかってしまう人もいるのではないかと思う。一時期教員をしていたことは明記してきた。美術系の大学に通っていたことも書いたっけ。でも、それ以外のことについては、特に先入観をもたれそうなことは伏せている。その方が読者が読みやすいと考えたからだ。面白い実例を挙げましょうか。

   皆さん、学校に通った経験はあるでしょう?学校には良い先生も、気に入らない先生もいたはずだ。さらに、校長先生、なんていう人もいて。そこで、ちょっと思い出してみてほしい。集会の時、「校長先生のお話」を毎回真剣に聞いていた人、どのくらいいます?あんまりいないんじゃないですか?じゃ、次は、ちょっと考えてみてください。なぜ生徒は「校長先生のお話」を聞かないのか。実は、ほとんどの生徒は「校長先生のお話は、内容が真面目でつまらない、しかも長い」と思っている。今までの人生のどこかでそういうイメージが作られ、それが先入観を持たせてしまうのだ。こうなると、校長先生がどんなに素敵な話をしたところで、生徒の耳にはなかなか入らない。折角の話が無駄になってしまう。実はこの先入観というのがやっかいな代物で、例えば、自衛官が「国防は大事だ」と言うと、「自衛官なら当たり前の意見だ」と思うだろう。「この人なら、こう言うに決まっている」という先入観のなせる技だ。だが自分に近しい、普段国防の話なんてしない人物が同じ事を言うと、聞く側の受け方がまるで違ってくる。「なぜこの人がこんな話を始めたのだろう、この人はどんな考えを持ってこう言ったのだろう。この話、どう発展していくのかな?」というふうに。

 言語によるコミュニケーションでは、これはとても重要な問題で、発信者がどんな人物かによって(その人物についての情報量が多ければ多いほど)、その印象は大きく違ってくる。それならば、語り部はただの語り部でしかない、というのが一番望ましいのではないか。僕にはそう思えてならない。特にブログのような、文字によるメディアではなおさらだ。だから僕は、それぞれの文章について、それがよりわかりやすくなる情報は開示するが、決定的な人物像や「イメージ」を持たれないような工夫もしているわけだ。

 さらにもう一つ。僕のように、例え一時期であっても教員を経験した人間はたくさんの人と接した時期があるから、実名や住んでいる地域が明らかになると色々としがらみが生じて、書きたいことを書きにくくなる。それも避けたかった。そういったわけで、このブログでは最低限のニュートラルさは維持しておきたいと思っている。