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 東風吹かば・・・

 「どこかで春が」という唱歌がある。僕ぐらいの年齢の人なら小学校で習っているだろう。「どこかで春が生まれてる どこかで水が流れ出す」と続く。サビの部分は、「山の三月 そよ風吹いて・・・」という歌詞だが、現代の言葉に置き換えられる前の原曲では「そよ風」ではなく「東風(こち)」だった。菅原道真の和歌「東風(こち)吹かば にほひをこせよ梅の花 主人(あるじ)なしとて春な忘れそ」の「東風(こち)」のことだ。「東風(こち)」とは、春を運んでくる暖かい東風のことだ。

 今日の昼下がり、柔らかな陽射しに誘われて、飼い猫とともに庭に出てみると、片隅にオオイヌノフグリが2,3輪咲いていた。道の向こうの畦にはホトケノザが濃いピンクの花を咲かせ始めていて、すでに盛りを迎えているロウバイの、あの独特の黄色と良いコントラストを紡ぎ出している。こうして花々が一斉に咲き始めるのを見ていると、ああ、やっぱり春は始まりの季節なんだな、なんて今更ながらに思う。

 古い唱歌に「冬の夜」というのがあって、これはさすがに僕の時代では教科書(音楽の)には載っていなかったが、「灯火(ともしび)近く衣(きぬ)縫う母は 春の遊びの楽しさ語る」という歌詞からは、当時の雪国の、冬の厳しさを容易に想像することができる。冬の間雪に閉ざされ、遊ぶ場所もない。春になって雪解けを迎えれば、いろいろな遊びができるよ、おそらくそんな話をしているのだろう。遊びったって当時のことだから、野遊び、山遊びの類いだろうけど。今の子どもは暖かくなっても、外に出て遊んだりはしないんだろうなあ。

 皆さんご存じのクリスマス。キリストの誕生を祝う日だ。ただし「祝う日」であって「誕生した日」ではない。キリストがいつ生まれたかは、今もよくわかっていない。ではなぜこの日、12月25日を「誕生を祝う日」にしたのか。それは当時のヨーロッパですでに定着していた「冬至祭」と重ね合わせたかったからだ。要するに、手っ取り早く、多くの人々に祝ってもらうための手段だったんだね。

 冬至祭というのは、次第に弱まる太陽の輝きが、一転して勢いを増し始める、その「太陽の復活」を祝う祭りだ。冬至を過ぎれば、程なくして春が訪れ、世界は活気を取り戻す。長い冬をしのぎ、春を待ちわびる気持ちは万国共通ということだろう。農業に関する技術が未熟だった昔であればなおさらのことだ。あの頃はまだ、人間もかろうじて自然の一部だった、と言っても間違いじゃないかも知れないね。

 ところで、猫と一緒に庭をうろうろしていて気付いたことがある。ある方向に歩くと寒さを感じるのだ。逆に進むと陽射しが暖かい。どうやら微風が吹いているらしい。それに逆らうように歩くと風がより強くあったって寒さを感じる。何度か試すと、風は東から吹いていることがわかった。それで思い出したのですよ、「東風(こち)」という言葉を。そこから「どこかで春が」を連想したという次第。「山の三月」は訪れが遅いだろうから、平野部に置き換えたら今日のこのぐらいの感じなのかな、なんて考えながら、小一時間ほど猫と戯れていた。まあそんなわけで、他愛もない話です。

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 大寒ってホントに寒いんだよね

 前回ちょこっと触れた二十四節季。それによると、ついこのあいだ「大寒」という時期に入った。1年で最も寒いとされる、今がまさにその時期。今年は1月20日から2月4日だって。これがホントに寒くなるんだよなあ。

 そもそも二十四節気というのは、四季、すなわち季節をさらにそれぞれ六つに分けたもの。今でも「春分」とか「冬至」とか言う、あれのことだ。これが24あるわけだ。「立秋」なんてのもあって、「もう秋ですぜ」という意味だが、カレンダーの上ではだいたい8月上旬。一番暑い盛りで、「ふざけたこと言ってんじゃないよ」となっちゃう。でもこれ以降はどんなに暑くても残暑であって、もう暑中見舞いは書けない。つまり、立秋以降は残暑見舞いということになる。 

 この「立秋」を旧暦で見ると、なるほど、今で言う9月上旬になってるなあ。じゃ「大寒」はどうかというと、2月中旬以降。こちらは新暦のほうが当たっている気がする。参考までに言うと、旧暦の「七夕(たなばた 7月7日)」は新暦では8月に入ってからの時期になるから、梅雨時で織姫と彦星がなかなか会えない、ということもないわけだ。

 そこでもう一つ、この時期に気になってくるのが「節分」。節分って、年に4回あるの知ってた?これは文字通り季節を分ける、という意味で、立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日を指す。だから4回。それがなぜか今では、立春の前のものだけがもてはやされている。一説によると、江戸時代以降のことだそうだ。この「節分」は「雑節」と言われるものの一つで、「節分」の他に「入梅」とか「八十八夜」とか「彼岸」とかがある。

 話を戻して、二十四節気はさらに「七十二候」に分けられる。これは節気をそれぞれ初候・次候・末候に分け、短文で表している。例えば、立春の初候は「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」といった具合に。その短文の一つ一つに趣があってなかなか良いのだが、どうやら何度も時代に合わせた改変がなされて今に至っているようだ。オリジナルは古代中国のもので、ウィキペディアによると「雉(きじ)が海に入って大蛤(はまぐり)になる」なんていうものまであったそうだ。古代中国恐るべし。それにしてもよく作ったよなあ。他にやることはなかったのかしら。もっとも、紀元前数千年も前に、西暦2012年まで使えるカレンダーを作った人たちもいた(おわかりですね、一時「人類滅亡か?」と話題になったマヤ文明の暦のことです※)ぐらいだから、農業との関連もあって、暦はとても大切なものだったんだろうね。

 日本では今もこうした季節の節目を大切にしている人が多い。特にお年寄りや俳句に携わる人たちはそうだろう。季節感に関する話題は、まだまだ奥が深そうだなあ。あらためて、詳しく調べてみたくなってきたぞ。

※マヤの暦はとてつもなく長い周期で考えられていて、西暦2012年はそのサイクルが一段落する年に当たっていたらしい。つまりこれ以降は最初に戻って同じ暦をもう一度使えるので、ここで暦が終わっている、という説が有力。

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 思い出の石焼き芋

 コロナウイルスが猛威をふるう中でも、人の所行に関係なく正月はやってくる。当たり前といえば当たり前。今年も七草がゆを食べ、鏡開きも済んだ。何だか歳を重ねるたびに、日本古来の風習(二十四節気とか)に興味が湧いてきたようだ。そんな生活の中で、ふと思い出したことがある。昔よく利用した焼き芋屋さんのことだ。

 あれからもう17~18年にもなるだろうか。毎週土曜日の昼近く、どこからともなく、あの笛のような音が聞こえてくる。窓から外を眺めていると、「石焼き芋」の看板を掲げた軽トラックがやってくるのが見える。当時としてもこうした行商はすでに珍しく、懐かしさも手伝って、僕と下の娘は500円玉を握りしめて外に出、家の前で焼き芋屋さんを待つ。必ずおまけをしてくれるので、500円でも二人で食べるには十分すぎる量が買えた。時にはがっつり残して、仕事から帰ったカミさんに「食べられる分だけにしなさい!」なんて怒られることもあったぐらいだ。言っておくけど、これ、平成の話ですぜ。やってることがまるで昭和。

 この石焼き芋屋さんは60過ぎの人で、正規の職を定年で退いた後、半分趣味のようにして商いをしているとのことだった。隣の県から泊まり込みで、冬場だけやってくる。「出稼ぎですよ、出稼ぎ。」彼はそう言って笑っていた。毎回、「今年も来ましたよー」だとか、「今年は今日が最後です」だとか、そんな挨拶を交わしていたが、ある年姿を見せなかったことがあって、翌年訳を聞いたら「ちょっと病気してしまったもんだから・・・すみませんでしたね。」と謝っていた。娘ともすぐ馴染み、僕も彼とはいろいろと立ち話をしたものだったが、4,5年してぱったり来なくなってしまった。「そう言えば名前も聞いてなかったなあ」なんて言いながら、娘と二人、妙に寂しい思いをしたことを覚えている。

 今ではスーパーで石焼き芋が買える。自宅で作れる家電もある。あれ以来、あの笛の音(昔の石焼き芋屋は遠くからでもやって来たことがわかるように、蒸気で笛を鳴らしながら商売をしていた)も、とんと聞かなくなった。

 最近は近場のショッピングモールに週末にやってくる、これまた隣の県の総菜屋さんと親しい。「梅しそヒジキ」や「イカの塩辛」が逸品で、よく足を運ぶ。支払いはモールと共通のレジなので、彼がたまたま不在でもパックをカートに入れれば商品は買える。だが彼のスタイルである、その場で内容量を増やしてくれるという恩恵にはあずかれない。ある時、彼の留守中に買い物をしたら、会計を済ませた僕を見つけ、わざわざ追いかけてきて「おまけ」を渡してくれたっけ。これだから足が向いちゃうんだよな。そんな彼は新年には帽子を取って深々と頭を下げ、挨拶をしてくれる。もちろん僕も丁寧に挨拶を返す。周りの人がびっくりしてこっちを見ているのがなんだか楽しい。そう言えば今年はまだ挨拶してないな。今週末にでも顔を出そうかな。

 考えてみると、こうしたおつきあいは昭和では当たり前だった。あの頃は「行きつけの店」は店員さんの人柄で決まることも多かった。つまり人間関係の上で商売が成り立っていた。近頃は店員さんにアルバイトやパートが多いせいか、親しくなる前に人が入れ替わってしまったりする。それどころか、「店員と直接かかわらずに買い物ができる店」や「無人の店舗」が頻繁に話題に上るようになった。違うでしょ、と言いたい。もちろんコロナ過のこともあるのだろうが、それが過ぎてももとには戻らないんだろうなあ。

 あの焼き芋屋さんは、今ではもう80歳近いはずだ。元気でいるだろうか。できることなら、もう一度お会いしたいな。