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 虫の声

 異常気象というのか、今年の夏も何だか変だった。梅雨の前に猛暑日が続いたり、梅雨そのものがあっという間に明けてしまったり。これでは動植物もたまったもんじゃないだろう。かく言う人間の社会においても、熱中症の話題が後を絶たず、各種メディアが「できるだけ外出を避け、寝るときもエアコンは付けたままで・・・」などと警告を流し続けた。30~40年前には「寝るときにはエアコンを切り、扇風機も風が直接当たらないように・・・」というのが普通だったのに。昭和の時代には全盛を極めた虫取りの少年たちも、今では絶滅危惧種だ。地球温暖化って、こんなにも急激な変化をもたらすんだねえ。

 そういえば日々の生活の中でも如実にそれを感じることがあった。例えば蝉の声。盛夏にはアブラゼミやミンミンゼミがやかましいほどに鳴くのだけれど、盆が過ぎ、8月も下旬になるとツクツクボーシがそれにとって変わるのが例年だった。それを聞いて「やべえ、宿題終わってねえ」なんて焦った記憶がいまだにあるぐらいだ。さらに、これまた夏の終わりを告げる、一般的に「秋の虫」として認知されているコオロギなどの声。今年はこれらが全部ひとまとめになって、盆前から聞こえている。なんだこれ。情緒も季節感もあったもんじゃない。今に思えば、昨年もそんなふうだったような・・・。

 最近、南洋の魚が日本近海で網に掛かったり、サンマが日本近海から居なくなったり、という話をよく聞く。つまり伝統的な食材が手に入りにくくなっているということだ。このまま温暖化が進めば、野山の植生までもが影響を被りかねない。これは日本の風景が変わることを意味する。これでは日本が日本でなくなってしまいそうだ。 

 日本の文化、特にその精神性においては季節感に負うところが大きい。俳句の世界には季語というものがあるし、日本料理や和菓子の佇まい、服飾のモードにも四季の変化が大きく影響している。ところが最近では季節の変わり目一つとっても、春や秋といった季節があったのか無かったのか、あっという間に夏や冬になってしまうような気がする。近年衣替えで悩んだ人も多いと思う。京都の町屋なども、「夏のしつらえ」などと言っている場合ではなくなってきているはずだ。このまま行くと、日本の文化そのものの存続すら危ういんじゃないか。海水面の上昇や異常気象に比べたら些細なことと言われてしまいそうだが、こんなところにも、温暖化を止めるべき理由がある。

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 夏といえば怪談 2022 偶然って怖い?

 この夏、あのNHKがまた変な番組を放送した。「ホラー短歌の世界へようこそ」だって。よくもまあ、いろいろと考えるものだ。全6夜構成で、放送時間は10分。毎回テーマが決まっていて、第5夜は「画面の中」。様々なモニター画面に現れる怪異を取り上げている。その中で、ネットのフリマに出品されていた瓶詰めの幽霊の話が紹介されていた※。語り手が面白がって問い合わせてみると、「幽霊は家の中の『隙間』に潜んでいるので、粘着テープでとらえる」のだという。まるで「G」みたいじゃないか。それにしても、発想が奇抜で面白い・・・いやいや、本題はそこじゃない。毎回読んでくれている人はもうお気付きですね。少し前にこのブログで紹介した「こっくりさん」の話にも「隙間」が出てきたということに。僕もこれだけならあまり気にもしなかっただろう。しかし、話はこれだけじゃない。この夏、WOWOWで見たホラー映画のタイトルの一つが「隙間女」だったのだ。文字通り、隙間に潜む幽霊の話。こんなこともあるんだねえ。

 「こっくりさん」が隙間にいるという話は、ひょんな事から20年ぶりぐらいに思い出して、UPしたのは7月8日。映画「隙間女」は2014年の作品をこの8月(多分18日?)にWOWOWが放送した。NHKの「ホラー短歌の世界へようこそ」は今年初お目見えの番組で、第5夜「画面の中(隙間の幽霊の話)」は8月22日放送。つまり、この1ヶ月ほどの期間に、数十年にわたる時間をまたいで「隙間」に関わる怪異譚が三つ揃った、ということだ。これって、偶然という一言で片付けて良いのかなあ。多分良いんだよね?

 話は変わるが、市販されている録画用ブルーレイディスクのほとんどは外国製だって知ってました?国産品は今ではパナソニック製のものだけだと聞いている。僕が普段使っているものも外国製だ。この製品は過去のある時期にやたら不具合があった。おそらく製造ロットにまつわる不具合だろう。録画した映像に突然ブロックノイズが現れ、フリーズしてしまうのだ。最近の製品ではこの症状は改善されているが、ごくたまに同じ症状が出ることがある。ついこの間、このディスクに録画したホラー映画、「シライサン(2020年)」を見ていた時のこと。この映画は僕にとっては久々のヒットで、とくに「シライサン」の姿のおぞましさ(ビジュアル的にはそれほどでもないのに、何だか長く見ていたくない感じ)も良いし、映画では描ききれていない部分(ノベライズあり)まで含めるとわかるのだが、田舎の失われた風習というかタブーが、時を越えて現代社会に生きる人間に災いをもたらすという展開も僕好みだ。実は出てくる化け物が「シライさん」なのではなくて、漢字で書くと「死来山」。化け物はここからやって来るらしい。この化け物が現れるときには鈴の音がどこからともなく聞こえ、絶妙な距離感(10メートルぐらい?)でいつの間にか目前にしゃがみ込んでいる。この「シライサン」を見ていたら突然画面がフリーズした。今までこのディスクがフリーズしたことは1度も無い。しかもそのシーンというのが、薄暗がりの中でしゃがんでいる化け物が、その長い髪の隙間から異様にでかい目でこちらを見ているシーンで、なぜかノイズも皆無。長く見ていたくないのに、よりによってこのシーンでフリーズ・・・まるで自分が次の犠牲者で、化け物に魅入られたような気がしてぞくぞくしてしまった。

 こういった偶然性は時に人を恐怖に陥れることがある。昔読んだマンガの主人公が、友人の「偶然ってホント、怖いなあ。」というセリフに答えて曰く、「偶然なら怖くない。」まあ、そういうことなのだろう。さてさて、時を同じくして僕の前に提示された「隙間」というキーワードといい、「シライサン」の化け物がこっちを見ているシーンでフリーズするディスクの不調といい、これは果たして偶然なのでしょうか?それとも違う理由があるのでしょうか?あったら怖いなあ。

※ そう言えば80年代のTVシリーズ、「ヒッチコック劇場(リメイク版)」にも「瓶詰めの魔物」なんてエピソードがあった。何とも薄気味悪くて、よく覚えている。ちなみに今回調べてみたら、なんと原作はかのレイ・ブラッドベリ、演出はティム・バートン!すげえ。

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 クリスマスが楽しいぞ!

 上の娘が「そろそろ結婚しようかと思って。」と言うので、「良いんじゃね?」と答えた。別に驚きもしない。付き合っている男性がいるのは知っていたし、長いことその事実を知っているのは父親である僕だけ、という状況が続いていたからだ。なに、普通の家庭と逆だって?うん。うち普通じゃないから。最近ではむしろ、「さっさとケリをつけたらどうだ?」などと、結婚を促すことも多かった。それがやっとこさ、重い腰を上げたというわけだ。「大げさな披露宴とかやるつもりはないんだけど、結婚に当たって何かこれだけは、という希望はある?」と聞くので、「子どもは作れ。」と言っておいた。

 上の娘は今年28歳。下の娘は23歳になる。この長い子育て期間の中で僕が心がけたのは、僕が親にしてもらったことは全部してやろう、ということだった。これは口で言うのは簡単だが、時代や性別の違いからいろいろと実現しづらいこともあった。だが今思うに、+αのほうが多かったような気がする。カミさんの実家がもともと兼業農家ということもあって、娘たちは田植えや味噌造りの手伝いなど、僕が経験してこなかったことも経験できたし、畑を手伝っている最中ににわか雨に遭遇した下の娘が、大きな里芋の葉っぱを傘がわりにして帰ってきたこともあった。

 最近毛嫌いする人が増えているようだが、学校の子供会や地域の夏祭りは僕にとっては楽しい経験だった。もし子どもがいなかったら、あれはやらなかっただろう、あ、これも多分ここまで本格的にはやってないだろうな・・・そんなことがたくさんある。正月の餅つきに始まって、節分にお盆、七夕なんていうのもあったな。そして我が家の年末最大の行事であるクリスマス。この行事の醍醐味は子どもがいればこそのものだ。ここ数年は下の娘がケーキ作りにハマって、既製品のケーキを買うことはほとんど無くなった。その娘も今年就職したので、今までみたいには行かなくなるのだろうなあ。

 世間では子どもを虐待し、事もあろうに死に至らしめる親がいると聞く。悲しいことにそういったニュースは年々増えているようだ。だが、これはあくまで例外であると確信している。もう一つ、これは世の男性諸君に伝えたいことだが、父親にとっても子育ては楽しいものだ。子どもがいたおかげで経験できたこともたくさんある。育児を嫌う父親のほとんどは食わず嫌いのようなものだろう。加えて、仕事が忙しすぎて、育児に費やす時間が取れない場合もある。だが、時間とは作り出すものだ。近年ではそれができる環境も整いつつある。事実、以前は娘から「洗濯物を一緒にしないで」とまで言われていた世の父親たちも、大分威信回復してきていると聞く。

 僕自身の子ども時代を振り返ってみると、両親は一緒にいる時間を工夫して作り出し、子どもを楽しませるための努力を惜しまなかった。大事なのは、そんななかで自分たちも楽しんでいたということだ。僕はそんな両親を見ながら育った。今の若い世代は、子どもを作りたがらない人が増えているそうだが、それは親の苦労ばかりを見せられてきたからかも知れない。さらに現代では、個人がスマホ(というかネット)に費やす時間も多い。こういった「自分のための時間」の妨げになる存在はいらない、ということもあるだろう。だがこれについては今後、さらに大きな問題になっていくような気がする。子ども(他者)のために自分の時間を犠牲にすることは子育ての基本だし、延いては人間関係の基本でもあるからだ。子育てはそれを学ぶ機会をくれる。どんなに歳を重ねても、その年齢や状況に応じた成長というものは存在するのだ。だがその機会を嫌い、放棄すれば、結果は「停滞」しかないだろう。娘たちにはそんなつまらない人生を送って欲しくはない。