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 移ろい

 先週、カミさんが飲み会だというので車で送る機会があった。場所は昔僕が根城にしていたカフェバーがあるあたりだ。そういえば10年近く顔を出していない。昔は毎日のように通ったものだったんだが。

 このまま行くと少し早く着きすぎるので、ちょっと遠回りをして、その店の前を通ってみることにした。40年からの歴史のある店で、やり手のオーナーが世間の流行りを積極的に取り入れるので、週末の夜更けになると、店内はいつも若い世代で満席だった。残念ながら僕が親しかったそのオーナーは、7年ほど前に後継者に店を譲って引退したらしい。だが店の名前は変わっていないはずだ。

 店が見えてくると、ある異変に気付いた。遠くからでもわかる店のシンボル、大きな弧を描くネオン管の矢印が見当たらない。角を曲がって店の正面に回ると、店内は暗く、ドアにはシャッターが降りていた。大きなガラスにプリントされていたはずの店名も見当たらない。「中、何もないみたいだよ…」とカミさんが言う。えっ、潰れた…?

 大学時代に常連だった喫茶店はとうの昔に無くなった。足しげく通ったビストロは20年ほど前に次第に勢いが衰え、今はもう無い。そして今、昔からのなじみだったカフェバーまでもが無くなるのか。ネットで見る限り、まだ閉店していないみたいなんだけど、今回店の前を通ったのは営業日の営業時間。オーナーが変わってしまったから電話してみるのも何となく気まずいし…。後でもう一度、行ってみるしかないか。

 自分はちっとも変っていないつもりでいるのに、世の中はどんどん変わっていく、そんなことを実感させられた出来事だった。案外他人から見れば、僕も相当変化して見えるのかもしれない。いずれにしても、こうして自分が慣れ親しんできた場所が消えていくのを目のあたりにするのは、なんとも寂しい限りだ。

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 音楽に合う酒

 さて、夏。休日の真昼間、何となく聞きたくなるのが、僕の場合ボサノバだ。ド定番の「イパネマの娘」や「ブラジル」なんかを聞いていると、庭に出てキンキンに冷えたカクテルを飲みたくなる(出ないけど)。それもマティーニとかではなくて、少しソフトなマルガリータあたりがいい。フローズン・スタイルのダイキリもいいな。変化球としてはグリーン・アイズなんてのもある。ちなみにこれらのベースはいずれもラムかテキーラいったラテン系の酒。僕はあまり聞かないけど、ハワイアンなんぞを聞きながら、「ブルー・ハワイ」や「マイタイ」などのトロピカル・カクテルだったら、これはこれでドンピシャだろう。

 夜は夜でオーソドックスにジャズでも聞きながら、それこそマティーニか、それともバーボン・オンザロックか?ジン・トニックも悪くはないが、これはどちらかというと、演奏が始まる前の前哨戦というイメージだな。あるいは音楽をコンチネンタル・タンゴに変えて、もう一度ラテン系のカクテルでいく手もある。

 ついでに言うと、秋にシャンソンを聞きながら…というのならワインもいい。でも今は価格が高騰してるからなあ。同じぐらいの品質だからといって、シャンソンにチリワインではシャレにならないし…。あるいは百歩譲って、同じラテン系だから別にいいじゃんか、という考え方もあるけれど。

 これが季節感皆無のブリティッシュ・ハードロックとかなら気軽にビールとかスコッチでもいいんだけど、こうしてあらためて考えてみると、結構難しい。というか、そもそもシャンソンのレコードなんてうちにあったか?もし手元にそれがあるなら、キールもしくはキール・ロワイヤルもアリだな。でもベースとなる白ワインやシャンパンを一晩で使い切るのは、酒豪でもない限り難しいだろうし(開栓したら1日で味が劣化する)、かといってハーフボトルだと、カミさんと二人ではちょっと物足りない。そして悲しいかな、ここでも当然価格の問題がついて回る。高いよお、まともなシャンパンは。

 さて、今マイブームになっているロックンロール。実はこれが一番悩ましい。ポニーテールの女の子なんかを思い浮かべると、なぜかクリームソーダしか出てこない。リーゼントのお兄ちゃんでやっとバド(ワイザー)の瓶ビールか。でもバドはあまり好きじゃないんだよな。それにボトルをさがすのが面倒そうだ。これもコロナビール(メキシコのビール。多くが瓶で流通)じゃさまにならんし。いや、ワンチャンありか?ということで調べてみたら、コロナビールの国際的な流通が始まったのは1970年代。あ、だめだ。やっぱり1950年代のロックンロールにはそぐわない。

 いろいろ書いたので鼻持ちならない奴だ、と思われたかもしれないけれど、酒を飲むにあたって、こういった文化的な楽しみ方を目指すのもまた一興であろうと、そう言いたかったわけで。でも正直、僕はあまり量のいかない人なので、マティーニなんかをちゃっちゃと飲んだら2~3杯で足がふらつく。かといって、ああいった冷たさが身上のショートカクテル(氷が入っていないので短時間で飲まないと温度が上がる)をじっくり時間をかけて飲むのは邪道だろう。何しろ、「15分以内に三口で飲め」なんて物言いがあるぐらいだもんな。ああ悲しい。けどやっぱり飲みたい。ということで、なんだかんだ言いながら、結局度数の低いマルガリータとかジン・トニックあたりに落ち着くのであった。今まで書いてきたのは、いったい何だったん?

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 スイカの話

 つい最近、金色(こんじき)何とかというスイカをTVで紹介していた。常識では考えられない糖度をもつというレポーターのコメントを聞いて、思わず画面に目を向けると、大きさは大玉だが果肉が黄色い。「えっ、黄色…?」あっという間に興味が失せた。

 実を言うと僕は子供のころ、果肉の黄色い小玉スイカ(今は赤い果肉のものもある)に対してネガティブな先入観を持っていた。親が小玉スイカを買ってくると、なんだか騙されたような気持になるのだ。親としてはその価格や冷蔵庫の空き容量を考えて選んでいるのだろうが、子供にとって、そんな大人の都合は二の次だ。スイカは大きくて重く、皮が厚いのがえらいのだ。そして果肉はきれいな赤色でなければならない。それを丸のまま、ビニールひもで編んだ手提げに入れて持ち帰るのが定番だった。

 今でもそうだと思うが、当時の小玉スイカは形が縦に長く、切ってみると皮が薄かった。そして何よりも違和感なのが、その黄色い果肉。僕の中ではあくまでもこれはスイカとは似て非なるものであって、僕が納得するスイカではなかったわけだ。そしてその価値判断は主に「色彩」という視覚情報によってなされていた。だから今回の金色なんとかも、果肉が黄色いことを確認した時点で興味が一気に失せてしまったのだ。これは昭和生まれの世代にとって、クリームソーダが緑色でなければならないのと同じことで、青色のクリームソーダなんてもってのほか…えっ、そんなふうに思ってるのって僕だけですか?

 そんなわけで果肉の黄色いスイカは、それがどれほど美味しいとしても、そもそも食指が動かない。「三つ子の魂百まで」と言うが、確かに幼いころ植え付けられたイメージを払拭するのは並大抵のことではない。今回知ったスイカの銘品も、結局味わうことなく一生を終えるような気がする。

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 なぜ今、オールディーズなのか

 なぜ今、と言っても単に僕の中でだけのことであって、これはいわゆる「マイブーム」の話だ。ちなみにここで言うオールディーズとは1950~60年代に流行ったアメリカン・ポップスのことだ。

 今までにずいぶんといろいろな音楽に親しんできたけれど、この先は僕なんかには到底ついていけないような音楽がどんどん作り出されていくらしい。特に「ボカロ」で作られた音楽なんて、僕にはあまりにもせわしなくて、「音楽鑑賞」どころではない。歌自体も早口で、何を言っているのかよくわからない。これについては「ラップ」も同じことで、今の若者はよくあれが聞き取れるなあ、なんて思っていたら、彼らも聞き取れないことがあるんだってさ。だから歌詞は歌詞カードやネットで理解するらしいんだが、そもそも歌詞が聞き取れないんじゃ歌を聞く意味がないな、なんて思ってしまう。おそらく今の若い人たちは音楽に関して、僕らの世代とは全く違った価値観を持っているのだろう。

 こうした新しいタイプの音楽に比べると、オールディーズは単純明快だ。特に50年代なんて、歌詞なんかどうせ色恋沙汰でしょ、という感じだし、英語の表現自体も簡単だから、英語をきちんと勉強していれば(してないけど)だいたい意味は分かる。単純明快なだけに、何も考えずに聞けるのも良い。では僕がお気に入りの、1970~80年代についてはどうか。

 このころの音楽にも名曲はたくさんあるが、今思うと内容はかなりヘビーだった。すべてとは言わないが、政治的だったり思想的だったりで、それこそ歌詞カードの和訳を読んで連帯感を感じてしまうような、メッセージ性の高いものもあった。そういった意味では、当時の僕たちもそれまでとは違う価値観で音楽を聴いていたと言えなくもない。それはそれで意味のあることだったと思うけれど、そうしたメッセージも、今では人々の口の端にも上らない。やはりあの時代の音楽はあの時代を生きた者にしかわからない。もっと言うならあの時代に聞いてなんぼの世界だ。それを思えば、オールディーズは歌詞の内容が普遍的な男女の恋愛だったりするから、場合によっては70年たった今でも何の抵抗もなく聞けてしまう。

 良い例として、今ではスタンダードと言ってもいい名曲「アンチェインド・メロディ」は、1955年にリリースされて大ヒットし、1965年にはライチャス・ブラザースのカヴァー・バージョンが再ヒット。さらに1990年にはこのバージョンが映画「ゴースト/ニューヨークの幻」の主題歌に使われて再々ヒットとなった。現在そのカヴァー・バージョンは、新旧合わせて500を超える。普遍的な音楽は時代を超えて愛され続ける、ということだ。

 つまるところ、オールディーズの魅力はそのシンプルな構成と内容の普遍性にあると言えそうだ。そして時にそのメロディーは、こうした音楽が象徴する古き良き時代、人々が今より楽観的で、未来という言葉に一点の曇りもなかった時代へのノスタルジーを呼び覚ます。僕のような50年代を知らない人間でさえ、憧れを禁じ得ない。これもまた、大きな魅力の一つと言っていいのではなかろうか。それはつまり…えーと…要するに、歳をとったということですね。

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 6月のスズメたち

 ここ数年、6月は庭にやってくるスズメを眺めながら暮らしている。春に生まれた雛が独り立ちする時期に当たっているので、一つの群れの中にいろいろな行動パターンが見られ、特に子育ての様子や、やっと自力で飛べるようになった小さな雛たちが少しずつ成長していく様は見ていて何ともほほえましい。

 この時期はまだ成鳥と雛の見分けがつきやすい。顔の部分の色が薄いのが早い時期に生まれた若鳥で、嘴の端にまだ黄色みが残っていて、ふっくらした体型の個体は遅く生まれた雛だ。冷蔵庫で2日ほどおいて固くなったご飯を庭先に撒いてやると、親子で飛んできて、口移しでご飯粒をもらっている。飛べるようになってもしばらくは親鳥に食べさせてもらうわけだ。加えて今年は、雨の日に成鳥がご飯粒を口いっぱいに咥えて飛び去る様子が何度も見られた。おそらくまだ飛べない雛のために親鳥が巣に運んでいるのだろう。

 興味深いことに、親子連れは他の成鳥の食事が終わった頃を見計らって降りてくることが多く、餌に群がる成鳥の勢いに気おされて(かどうかは本人に聞いてみないとわからないのだが)、時間調整をしているように見える。これが一般的な傾向なのか、この群れの特徴なのかはわからない。

 こうした時期が過ぎると、雛がいくら鳴いても親は餌を運ばなくなる。仕方なく自力で餌を食べるようになるのだが、まだ上手に食べることができず、成鳥が梢に戻った後も地面のあちこちで食べ続けていたりする。雛たちが最も無防備になる瞬間で、後述する理由から見ている側も気が気ではない。

 ところでこの時期の雛は、餌をくれる人間に警戒心を持たなくなるようだ。それどころか、時には近くまで寄ってきて催促したりする。ご飯を撒いてやると手元まで寄ってきて食べることもあり、実に愛らしい。が、これは困ったことでもある。人里で共存しているとはいえ、スズメは自然の一部であると考えるべきだろうし、うちの庭は地域猫の通り道になっているので、あまり警戒心を鈍らせるとスズメたちを危険にさらす恐れがある。加えて今年は、敷地内で体長1メートル近くあるヤマカガシ(蛇の一種)をすでに2度目撃しているので、これも心配の種だ。ネットの動画では、手に乗ったり、手の中で眠りこけたりしているスズメをよく見かけるが、少なくとも我が家の環境ではそこまでやるのは行き過ぎだろう。

 さて、スズメたちだが、盛夏の頃には今年生まれた雛たちも成鳥と見分けがつきにくくなってくる。そうなればもう一人前だ。その頃には庭に咲く夏の花々の手入れや、隣に借りた畑で育てている夏野菜の収穫が忙しくなる。そうなるとスズメどころではない。カラスが収穫前の野菜を狙って集まってくるからだ。

 正直なところ、カラスだって腰を据えてじっくり付き合えば、それほど悪い奴だとは思わない。だが利害が絡む以上甘い顔はしていられない。今年生まれたスズメたちが独り立ちした後は、カラス対策に追われる毎日だ。こんな風にして、僕の夏は過ぎていく。

 リビングの目の前に勝手に生えた野ばらの枝でおねだりするチビ(仮)。ふっくらとした体形で、嘴の端がまだ黄色い。距離は2メートルもない。