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 三菱ミラージュとエリマキトカゲ

 前回書いた常陸太田市の集中曝涼を見に行く途中での出来事。

 その日僕たちは朝9時に家を出て、北に向かう2車線の道路を走っていた。するとある交差点の信号待ちで、見慣れないクーペタイプの車が何台か前に右から合流するのが見えた。しばらく走った後、再び赤信号で停車すると、さっきの車が左車線の斜め前に止まっている。近くで見ても、やはり記憶にない車だ。

 その車体は塗装が少々古ぼけていて、ところどころに小さな傷があった。運転席には白髪に帽子をかぶった女性が座っている。白髪ではあるものの、お年寄りと言うにはまだ早いたたずまいだ。後部のエンブレムを確認すると、どうやら三菱のミラージュらしい。だが僕の知っている時代のミラージュとは、だいぶ趣が違う。

 三菱ミラージュといえばその昔、日本にエリマキトカゲを紹介したCMで有名だ。だが皮肉なことに、当時はエリマキトカゲばかりが有名になって、後々そのCMがミラージュを宣伝するものだったことを覚えている人はほとんどいなかったようだ。

 常陸太田市で1日遊び、家に帰った後もどうにも気になって仕方がない。そこでネットで調べてみたところ、あの車は三菱ミラージュの5代目に当たるバリエーションのなかの、アスティと名付けられたクーペらしい。

 5代目ミラージュは1995年から2000年まで製造され、三菱らしく走りを重視したグレードもあったようだ。1995~2000年といえば、僕はすでに長いことプジョー505に乗っていて、ちょうど406に乗り替えた(1999年)ころだ。当時僕はプジョー一辺倒だったから、国産車の動向を知らないのも無理はない。

 僕は古い車を見かけると、必ず運転者とナンバープレートを見る。分類番号が5であれ3であれ、今どき二桁ならワンオーナーカーの可能性がある。以前書いたとおり、うちのプジョー406も33の二桁ナンバーだ。だからそういった車が走っているのを見かけると、同好の士にあったようでうれしくなる。だが流行りの旧車ブームに乗って最近手に入れたのなら、どうしても分類番号は三桁になる。残念なことに今回、ナンバープレートのその部分を確認することはできなかった。

 運転していた白髪の女性は、もしかしたらアスティが気に入って、30年近くも乗り続けているのかもしれない。あれが最近購入した中古車だとしたら、もう少しきれいにレストアしてあるはずだし、現在の旧車ブームに照らして考えるに、ミラージュ・アスティは少々インパクトに欠けるからだ。だが実際にはDOHCエンジンを積んだり、175馬力(ホントか?)のグレードがあったりするから、斜に構えた好きものにはたまらない車種ではある。ということは…どちらにしても、あの白髪の女性はただもんじゃない気がしてきたな。それならそれで、なんかちょっとうれしい。

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 常陸太田市 集中曝涼

 日帰りのドライブ旅行で茨城県北部の常陸太田市に行ってきた。常陸太田市では年に1度、10月の第3土・日曜に「集中曝涼」と称して、普段非公開の文化財を一斉公開している。「集中曝涼」とは、一種の虫干しのようなものだ。

 予定のコースは、以前にも紹介したことのある東金砂神社(2024年5月の記事参照)で市指定文化財の刀剣を見て、そのあと文化財の公開はないものの、念願だった西金砂神社に回る。昼食は地元名産の秋蕎麦を食べ、午後にもう1~2か所見るつもりだ。

 僕たちが東金砂神社に着いたのは10時を回ったころだった。所定の駐車場(5台分ぐらいしかない)はすでにいっぱいで、仕方なく路肩に駐車した。車がすれ違えるか怪しいほど細く、ろくな舗装もされていない山道を遥々やってくるなんて、とんだ物好きもいたもんだ…と言いたいところだが、僕らも間違いなくその一員なんだから文句も言えない。そんな物好き3人組(僕とカミさんと娘)は傾いだ長い石段を息を切らせながら登り、山頂にある本殿にお参りを済ませてから、刀剣を展示してある社務所へと向かった。

 東金砂神社所管の文化財の日本刀は二振り、加えて長巻(ナギナタの短いやつ、と言えばいいかな?)が1本。だが意外にも、社務所の座敷には短刀や脇差を加えて15振りあまりの刀剣が並んでいた。どうやら近郷近在の愛好家が協力しているらしい。この辺りは大戦中に日立製作所を狙った米軍の艦砲射撃からも遠かったので、こういった文化財が数多く残っているようだ。低い長テーブルに刀掛けを置いただけの展示方法だが、娘が言うにはガラス越しではないので細部までよく見えるとのこと。大分時間をかけて堪能していた。

 刀剣を満喫し、社務所の猫と親睦を深めたあと、駐車場に戻ってみると、なんと駐車している車は先ほどの3倍以上になっていて、駐車待ちの車をよけながら駐車場を抜けるのが大変だった。その後大子町まで足を延ばしてお気に入りの和菓子店、奥久慈屋吉餅で餅菓子と黒糖まんじゅうを買い、西金砂神社へと向かった。

 この神社の開創は東金砂神社と同じ平安時代初期(806年)で、周囲には茨城県の天然記念物である名木が点在している。東西の金砂神社が合同で10日間かけて行う大祭礼は、国と茨城県の無形民俗文化財に指定されているそうだ。そのスパンは72年に1度と長く、851年の第1回から数えて、2003年に行われたそれは第17回ということになる(Youtubeに動画あり)。次は2075年だからそれまでは生きていられないかな…。

 境内はところどころ傾いた急な石段や地上根の露出した坂があるので、革靴やハイヒールはやめたほうがいい。本殿までは東金砂神社同様、息の切れる行程だが、それでも山頂にある本殿からの眺めは、苦労しただけのことはあった。

 ちなみにこの一帯は金砂郷(かなさごう)地区と言い、古い地名は金砂(かなさ)。なんでも昔は砂金が取れたらしく、現在も東金砂神社と西金砂神社がある山をそれぞれ東金砂山、西金砂山と呼んでいる。

 そのあと僕たちは神社から南に下ったところにある「西金砂そばの里(蕎麦工房)」で昼食をとった。地元の主婦の方たちが切り盛りする店で、使われる蕎麦粉は、もちろん全国的に評価の高い「常陸秋蕎麦」。そういえばこのあたり、道路の周囲は蕎麦畑だらけだ。営業は10時~15時まで。水曜日と年末年始は休みだそうだ。

 3人が3人とも天ざるを頼んだのだが、これが正解で、蕎麦の茹で加減もさることながら、天ぷらの揚げ具合がまことに結構で、カミさんも娘も絶賛していたっけ。蕎麦好きの僕でさえ、天ぷらのほうが印象に残ったぐらいだ。

 昼食の後、再び蕎麦畑のなかを走り、帰路の途中に当たる「菊蓮寺」に向かった。ここでは県指定文化財の木造千手観音像を見た。鎌倉時代の作という。寺の開創自体は平安初期(807年)と古いが、一時期廃寺となり、のちに再建。その後改築が繰り返され、今に至るとのこと。残念ながら、平安時代の面影は微塵もない。

 菊蓮寺をあとにする頃、秋の陽は傾き始めていて、山あいにカラスの声が響いていた。もう一か所寄れば寄れたのだが、前半の東金砂神社と西金砂神社で急な石段を登り降り(数えなかったけど、多分東西で三百段以上)したので、今日はもういいや、ということになった。文科系の家族はこれだから困る。来年来る機会があれば、もう少し下調べをして、なるべく平らな土地をうろうろしたいと思う。

 西金砂神社の入り口。鳥居にかかっている大木は天然記念物のサワラ。
 鳥居の向こうに恐ろし気な石段が…。右側には迂回路のスロープと社務所がある。もちろん石段を上った。
 拝殿。きれいに保たれている。縁の下の狛犬に注目。本殿はここからさらに石段を百段以上登ったところにある。
 西金砂山山頂の本殿。
 軒には見事な木彫の装飾が…。
 山頂から南側を望む。中央左寄りの遠くにキラキラしているのが常陸太田の市街地だろうか。常陸太田市は茨城県内一の面積を誇るというが…。
 菊蓮寺の木造千手観音立像(鎌倉時代・県指定文化財)。その高さは3メートルを超える。もとの本尊(平安時代)は1180年の「金砂城の合戦」で焼失、燃え残った背面部と伝えられるものが右奥に置かれている(この写真には写っていない)。脇侍は向かって右が不動明王、左が多聞天。これらは平安時代のものらしい。県指定文化財。

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 池波正太郎のエッセイ

 現在、池波正太郎の著作を読んでいる。といっても、エッセイばかりなんだけどね。きっかけは最近、池波正太郎が食についての著作を数多く残していることを知ったことだった。

 僕は料理をするのが好きで、ただ作るだけではなく、個々の料理についての四方山話や、その文化的・歴史的背景を調べることなんかも好きだ。そんなわけで今回、今まで一度も読んだことのない池波正太郎のエッセイをちょっと覗いてみよう、と思い立った。

 ご存じのように、池波正太郎は大正12年から平成2年まで三つの時代を生きた、時代小説を中心とする作家で、TVドラマで有名な「鬼平犯科帳」や「剣客商売」はその代表作だ。今読んでいるエッセイは昭和50年代頃に出版されたもので、内容的にはかなり古い。さらに著者が少年だった頃のエピソードもあるから、そうなると時代は戦前までさかのぼり、聞いたこともないような食べ物が数多く出てくる。

 なかでも池波少年が心酔したという屋台の「どんどん焼き」は、どうもお好み焼きの派生形らしいのだが、「パンカツ(食パンに小麦粉を溶いた衣をつけて鉄板で焼く)」とか、「オムレツ(小麦粉のタネを薄く焼き、卵を落として包む)」などというメニューがあって、その味や食感が想像できない。書物や映画のなかの食べ物で、再現してみたい、と思わなかったのはこれが初めてかもしれない。

 その一方で天ぷらや鮨、蕎麦などの名店や、粋な食べ方を紹介したりもしているのだが、ここで紹介されている店のなかには、当然もう存在していないものもある。

 そんなわけで、一概にここへ行ってみよう、あそこで食べてみようというわけにはいかないけれど、当時の風俗や風潮を読み解くにはなかなかに面白く、一気に2冊を読破し、現在3冊目を読み進めている。

 その中の1冊、「むかしの味」のなかで、僕はちょっと気になる文章を発見した。あるレストランの味に、よき時代の豊かな生活が温存されている、というのだ。続けて、それは物質的な豊かさではなく、心の豊かさである、と説明している。

 この本(単行本)の出版は昭和59年、と巻末にある。ということは、僕がよく「昔は良かった」と言うときの「昔」にあたる時代に近い。ところが池波氏はその時代に、すでに「昔は良かった、人の心が豊かだった」と書いている。つまり、僕が「良かった」と思っている時代よりも、もっと昔はさらに良い時代だった、というのだ。氏はどうやら戦前の東京を念頭に置いているらしい。これは困った。これじゃあきりがない。逆に言えば、時代が進むにつれて、人の心は荒んでいくばかり、ということじゃないか。で、僕はこう考えてみた。

 人というものは長く生きていると、善悪を問わずいろいろなものが見えてくる。子供の頃や若いうちはそれが見えないので、世の中が多少美化されて見える。つまり、ここで言う昔とは、自分の人生における「昔」なのであって、歴史上の昔ではない、ということだ。…うん、やっぱり多少無理があるな。どうしよう。

 池波正太郎は平成2年に67歳で亡くなった。携帯電話やインターネットが普及し始めるころだ。つまり、ネットでの誹謗中傷や迷惑系ユーチューバーの存在を知らずにこの世を去ったわけだ。もし、氏が今も健在だったら、いったいどんなことを書くんだろうか。大いに興味があるが、もしかしたら現代社会の問題点にはあえて言及せず、ただ淡々と「人の心が豊かだった時代」について記述し続けるのかもしれんなあ。

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 時には昔の話を

 カミさんが加藤登紀子の「for peace」というCDを買った。60周年企画アルバムと聞いてもしやと思い、すぐさま曲目をチェックしたところ…あった。「時には昔の話を」という曲。「ちょっと、これを真っ先に聞かせてくれんかな」と頼み込んで、かけてもらったところ、「おお、こっちのアレンジのほうが映画に近いんじゃないか?」

 何の話かというと、この曲はジブリのアニメ映画、「紅の豚」で使われていて、今回買ったCDに収録されたバージョンが、初めて収録されたアルバム「百万本のバラ」のそれとは違って映画寄りの、僕好みにアレンジだったのですよ。

 「紅の豚」は、僕がジブリ作品のなかで最も好きな作品だ。飛行艇時代といっても過言ではない1930年代、あるいは世界恐慌前夜といった時代の話で、それがエピローグで現代(公開は1992年)まで繋がるのはちょいと無理がある。なぜなら、映画のなかで36歳という設定の主人公ポルコ・ロッソは、1992年には100歳近いはずだからだ。だが本編はそんなツッコミが野暮に思えるほど気持ちのいい話だ。

 最後のシーンで、ヒロインであるフィオが操縦する近代的な自家用ジェット飛行艇が登場するが、コクピットから俯瞰する「現在」のホテル・アドリアーノの駐機スペースには、ポルコの愛機サヴォイアS.21が見えるし、話の流れからすれば登場人物の皆さんは今もご存命であると。これはもう、運転免許返納どころの騒ぎじゃねえぞ。だがしかし、宿敵カーチスの映画ポスターは1950~60年代の雰囲気だ。まあ根幹からして、人を豚に変える魔法が出てくるわけだから、これは一種のおとぎ話なのだ。そう考えて開き直るしかあるまい。そしてそのエンドロールに流れるのがこの「時には昔の話を」なんですねえ。

 セピア色に変色した古ぼけた写真(のイラスト)とともに流れるこの曲は、若かったころの仲間たちと昔を懐かしむ歌なんだが、音楽に劣らずその写真もいいんだよ。人類がやっと空を飛べるようになった頃の、古き良き時代の雰囲気が出ててさ。ここに写っている人物のほとんどがブタなのは、時代に翻弄されるなかで、その生き方を貫こうとする愚直な男たち(見る限り女の豚はいない)、というふうに僕はとらえているんだけど、果たして当たっているかどうか。

 ところでこの曲を聞くと思い出す曲がもう1曲ある。それは森田童子という得体の知れない(本当に今もよくわかっていない)シンガー・ソングライターが1976年にリリースした「僕たちの失敗」という曲だ。1993年に「高校教師」というドラマで使われ、リバイバルヒットしたので、知っている人も多いだろう。ただしこの曲はそれほど長いスパンを振り返っているわけではなく、(おそらく)当時の学生運動にかかわっていた若者が、にっちもさっちもいかなくなって、失意のうちに自分の生きざまを振り返る歌だ。容赦なく過ぎていく時代の流れに乗り切れず、変われなかった「僕たち」。よござんすか。変わなかったポルコたちと変わなかった「僕たち」。たった一文字の違いだが、この差は大きい。

 タイトルの「失敗」という言葉のニュアンスも相まって、「時には昔の話を」と比べると、「僕たちの失敗」は少し閉鎖的で悲しげだ。おそらく「過去」が「思い出」に変わるには、それなりの時間が必要なんだろう。だが僕はどちらも好きだ。

追記 「時には昔の話を」にはその場にいない仲間に「君もどこかで走り続けているよね」と語りかける歌詞があるんだけど、それが僕のなかでは、以前紹介した中島みゆきの初期の曲である「傷ついた翼」の「飛んでいてね あなたの空で」という歌詞と妙にリンクする。こういう言い回しって、なんかいいよな。

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 夏の総括

 この夏はやることが多くて、あまり原稿を書けなかった。例えば積極的に自分好みの夏を演出しようと庭に大輪のひまわりやタチアオイを植えたり、例年より多くの夏野菜を栽培してみたり。おかげでナス、ピーマン、キュウリは一度も買わずに済んだ。ただし収穫量が多すぎて、食事が単調になりがちで、冷やし中華(キュウリ)と野菜天ざる(ナス、ピーマン)とチンジャオロースー(ピーマン)ばかり食べていた気がする。

 その他にも大葉やモロヘイヤ、長ネギなども作って食べたが、「今日の夕飯は何にする?」どころの騒ぎではなく、「今日はナスとピーマンを減らそう」などという会話を毎日のようにしていた。おまけに娘はナスもピーマンも苦手で、結局おかずを2品作らなければならず、食費は大分浮いたものの、手間は倍増した気がする。

 今年、僕の住んでいる地域はそれほど猛暑に見舞われることもなく、「今日は昭和の夏みたいだな」というセリフを何度も使った。例年の猛暑に慣れた体には、湿度さえ低ければ「気温30度、やや風あり」といった環境はむしろ快適だった。ところが8月の後半、長野への旅の途中で立ち寄った「富岡製糸場跡」ではいきなり35度超の炎天下を歩かされ(屋外の移動が多い)、どうやら軽い熱中症になったらしい。何しろ富岡を後にする頃には、車の示す外気温が38度を超えていたもんなあ。幸い大事には至らなかったが、完全に体調が戻ったのは9月に入ってからだった。

 この夏、ちょっと残念だったのがスイカ。今年は美味しいスイカに当たらなかった。特に夏の終わりに食べる東北産のスイカは絶品なんだけど、今年はそもそも東北産に出会うことがなかった。むしろ北海道産のスイカのほうが目について、1度食べてみたがどうも感心しない味だった。東北産のスイカはが入ってこないのには何か理由でもあるんだろうか。

 そういえば、夏前からうちの庭に飛来していた30羽ほどのスズメたちは、7月の末には子育ても終わり、稲の穂に実が入る頃には3~4羽ぐらいになって、それも「今日は餌が少なかったのでちょっと寄ってみました」といった様子で来る程度になった。ただ、今年は9月に入って新たな親子連れが数組来たのでちょっと驚いた。調べてみると、春から夏にかけて2回ほど繁殖期があるらしいから、これらは後発組の雛だろう。10月に入った今も、独り立ちが十分できていないスズメが3~4羽庭に来ている。例によって餌を食べるのが下手くそで、見ていてハラハラしてしまう。去年もこんなふうだったんだろうか。全然気づかなかったなあ。

 昨年猛威(?)を振るった西洋種の朝顔は、今年勝手にこぼれた種から発芽して、花は小ぶりながら今も東側のフェンスの半分を占拠している。来年はもう少し日本の朝顔を増やそうと思う。花の色もさることながら、切れ込みのない葉(西洋種は葉が三つに分かれない)が茂るのを見ていても、なんだか物足りない。葉の形がこれほどまでに朝顔のイメージを決定づけているとは夢にも思わなかった。

 夏の後半から原稿をさぼっていたら、あっという間に10月になってしまった。今日は16日。そろそろ枝払いの準備を始めようか。

 フェンスから立木へと侵食。写ってはいないが、この左側も西洋朝顔だらけ。花の色が安っぽく、葉の形も朝顔独特の切れ込みが見られない(写真で分かるかな)。別の植物みたい。