カテゴリー
未分類

 小春日和

 人間ドックを受けてきた。人間ドック、わりと好き。何と言っても、あの非日常感がいい。変態かって?そうかもな・・・。それともう一つ。僕の利用しているメディカルセンターの立地なんだけど、○○水源とかΔΔ緑地の他にいくつかの神社を含む緑地帯に隣接していて、センターの目の前が鬱蒼とした里山みたいになっている。その道ばたで吸う検査後の、つまりその日初めての煙草が最高なんだな(※)。

 そんなわけで、その日も検査の後、いつものようにそこで一服した。前日までと打って変わって空は快晴、久しぶりの陽射しが暖かい。こういう日を「小春日和」と言うんだろう。本来ならもっと寒くなってからの用語だろうけど。字面からは意味を理解しにくいけど、言葉にしてみると何ともいい響きで、僕はこの語感、好きだなあ。

 一服した後、そのへんを何気なく歩いていたら、森の外周を成す低い土手で、鮮やかな黄色の花があちこちに咲いているのを見つけた。「えっ!タンポポ!?」そう思って近づいてよく見たら、妙に首が長く、春に見かけるタンポポとは種類が違うようだ。だがその茎を下になぞって確認したら、地に這うように拡がるロゼット(放射状に拡がる葉)は紛れもなくタンポポの類いのそれに見える。これ、もしかしたら、タンポポモドキ(ブタナ)かな?

 これにはさらにおまけがあって、陽射しの暖かさに騙されたのか、その葉の上で真っ赤なナナホシテントウが遊んでいた。僕はある意味単純なので、これだけでもう、「今日は最高の日になった・・・!」なんて思ってしまう。これなら多少肝臓の数値が高くても、まあいいか、なんてね(いやいや、それはダメなやつでしょう)。

 検査の結果、思った通り血圧と肝機能が引っ掛かった。面接で当たったのは初対面の老医師で、何だかすごいことを言われた。「血圧はねえ・・・この数値、嘘っぽいよね。病院とか、ここみたいな場所、嫌いでしょ?だから上がっちゃうんじゃない?家で計ってみた方がいいよ。うん。家で計るのが一番。あ、朝ね、おしっこした後に計るんだよ。おしっこ我慢してるだけで、パーンと跳ね上がるからね。」「肝臓はねえ、お酒やめてもう一度計って、数値が下がればお酒のせいだから。まあ飲むんなら・・・ビールだっけ?1日500㎖以下だな、500㎖。よろしくね。それで、病院行けってなってるんだけど・・・病院行く?なら紹介状書くけど。あの、すごいとこ行かなくていいからね。普通の内科で。」お酒やめてから計るって・・・やめる予定無いんですけど。行きますよ、病院。紹介状ください。

 もうちょっとこう、「病院で見てもらわないとヤバイよ」的なことを言われた方が僕もさっさと決心がつくんだが、ここの老医師たちときたら、「そんなことでいちいち騒ぐんじゃないよー」みたいなことばかり言うから、どうも緊張感に欠ける・・・そうか。このほにゃらかとしたやりとり自体、人間ドックが好きな理由の一つなのかもしれないな。でもそれって人間ドックの機能をないがしろにしているようにも思えるんだけど。こんなことじゃ、もしかしたら僕は早死にするかも・・・?

※ 勿論吸い殻は携帯灰皿や自分の車の灰皿に捨ててます。

カテゴリー
未分類

 銘酒バランタインにまつわる逸話

 前にブレンド珈琲の記事で、ほんのちょっとだけ触れたブレンデッド・ウイスキー。面白い話を思い出したので書いてみる。これはウイスキー好きなら1度はその名を聞いたことがあるであろうイギリスの銘酒、「バランタイン」にまつわるお話。

 まず話を理解するための基本情報だが、「バランタイン」はいわゆるスコッチウイスキー。その中でも「ブレンデッド・ウイスキー」というカテゴリーに属する。スコッチには大別して、大麦から作られるモルト・ウイスキーと、トウモロコシや小麦、ライ麦などから作られるグレーン・ウイスキーがある(※)。これらを混ぜ合わせて作られるのがブレンデッド・ウイスキーだ。実際には数十に及ぶ蒸留所のモルト・ウイスキーとグレーン・ウイスキーを、ブレンダーと呼ばれる専門家が、その感覚を頼りに1滴単位でブレンドして理想的なブレンデッド・ウイスキーを作り出すという、とてつもなく繊細な作業なのだ。だが珈琲同様、スコッチ通はシングルモルト、つまりウイスキーの中でも個々の蒸留所で作られたままの、混じり気なしのウイスキーを好む傾向がある。

 さて、このブレンデッド・ウイスキーの「材料」の一つであるモルト・ウイスキーだが、その味と香りを決める要素がいくつかある。まずはピート、つまり泥炭だ。これはウイスキーを作る過程で麦芽を乾燥させる際の燃料として使用され、この時の煙香がそのウイスキーのフレーバーを決める大きな要素の一つとなる。次にこれに酵母と湯を加え、発酵させるのだが、水は現地の地下水や清流の水が使われ、その含有成分や硬水・軟水の違いなども味わいの重要なポイントとなる。発酵後は蒸留器にかけて蒸留し、木の樽で貯蔵して熟成させるが、この時に樽の木材に含まれる成分が溶け出し、最終的な色と香りが決まるので、その年数や、使用する樽の種類によっても味わいが変わる。ここまで宜しいですか?では、いよいよ本題。

 「バランタイン」社に勤める著名なブレンダー、ジャック・ガウディーが、ある日、いつものようにブレンドの作業を始めたところ、その日使っていたモルト・ウイスキーの一つに違和感がある事に気付いた。いつもと微妙に香りが違うのだ。自分の感覚を信じるなら、微かにある種のサクラソウの香りが混じっているように思えた。しかし、そんなはずはない。その蒸留所の製品管理はきわめて厳重だし、その種のサクラソウは言わば絶滅危惧種で、見つけることすら難しく、たやすく混入するとは考えられなかったからだ。かといって、ブレンダーとしてはこの問題を放置するわけにはいかない。そこでジャックは、当時社長だったトム・スコットに相談し、その結果、直ちに調査チームが現地に派遣されることになった。しかし、思った通り蒸留所の周辺ではそのサクラソウを発見することはできなかった。そこでチームは調査範囲を蒸留所からその水源となっている湖まで広げることにした。すると、驚いたことその湖から蒸留所に到る水路の岸に、今では希少種となったそのサクラソウの新たな群生が発見されたのだ。

 この話は「ザ・スコッチ バランタイン17年物語」という書物の冒頭で紹介されている。何ともすごい話ではありませんか。だって使われた水に含まれていたであろうサクラソウの香りを、幾多の工程を経て完成したモルト・ウイスキーの、つまりピートの煙や樽の成分などの入り交じった香りの中から嗅ぎ分けたってことですよ?(そもそも岸辺に咲くサクラソウの香りって、嗅ぎ分けられるほど水に含まれるものなのか?)これってもはや人間業じゃないと思う。さらにたった一人のブレンダーの、もしかしたら気のせいで片付けられたかも知れない疑問を解消するために、調査チームを派遣する会社の姿勢。いかにブレンダーを信頼し、重要視しているかがわかる逸話だ。

 珈琲にせよスコッチ・ウイスキーにせよ、「ブレンド」と聞くとなぜか1ランク下のイメージがつきまとうけれど、実はこうした超人的なプロフェッショナルたちの努力によって成り立っている奥深い世界なのだ。けっして舐めてかかってはいけない。

※ モルト・ウイスキーは個々の蒸留所が一般向けに出荷しており、シングルモルト・ウイスキーと呼ばれている。個性が際立っていて、それぞれが多くのファンを獲得している。グレーン・ウイスキーは主にブレンド用に製造されており、ブレンデッド・ウイスキーに使用されるモルト・ウイスキーの個性を引き立て、さらに独特の香味を加えるといった役割を果たす。モルト・ウイスキーと違って、単品で市販されることはほとんど無い。

カテゴリー
未分類

 畦道の花

 このあいだ、昼間に時間ができたので買い出しに出た。例によって大通りを避け、農道や生活道路を縫うようにして車を走らせた。河川敷に広がる、すでに刈り取りの済んだ水田地帯を抜け、ちょっとした坂を上がって台地の上に出る。道の両側には、もとは農家だったであろう敷地の広い家々が点在し、そのあいだを畑や草地が埋めている。このあたりは夏に2回ほど、車を止めてアオダイショウ(蛇です)が横断するのを待ってやったことがある、そんな道だ。

 買い物を済ませ、同じ道を逆にたどって帰る。夏の盛りに百日紅の花が咲いていたのはどの家だったかな・・・そんなことを考えながら坂を下り、直線の農道に入ったとき、左手になにやら鮮やかな色が見えた。車が近づくと、道路から一段下がった水田の畦に沿って、1区画、鮮やかな朱色の花をつけた植物が毛足の長い絨毯のように群生していた。段差に隠れていたので、行きには気がつかなかったらしい。そこかしこに咲くセイタカアワダチソウの黄色と鮮やかなコントラストを成していて、紅葉のようにも見える。あれは何の花だろう。農道なのでスピードは出ていなかったが、道が細いので後続車を考えると止まることもできず、細部を確認することはできなかった。ただ鮮やかな色彩だけが目に焼きついた。

 秋の花と言えば、コスモスや菊の類いを思い出すが、この花は見たことがない。かといって、直ぐさま植物図鑑で調べるのも野暮な気がした。だいいち、この手の雑草(だと思う)が並みの図鑑に載っているとも思えない。この道を利用しているほかの人たちはこの花に気づいているのかな、それとも、とっくに日常の光景になっているだろうか。何はともあれ、日々の生活のなかでの新しい発見に、僕は何とも楽しい気持ちになった。この場所を憶えておこう、そうすれば来年また見られるかも知れない。この水田の持ち主が、雑草と嫌って抜いてしまわなければいいのだけれど。

カテゴリー
未分類

 進化のスピード

 少し前の話になるが、SNSニュースを見ていたら興味深い記事があった。内容は「あり得ないようなヒューマンエラー」について。労働安全衛生総合研究所(って何?)の特任研究員である高木元也氏のコメントで、話の発端はバスに置き去りにされて亡くなった園児の一件だった。

 あらためて考えてみると、確かに近年「えっ?なんでそんなことが起こるの?」と思うような事件をよく耳にする。例えばこの9月から10月にかけて、トラックの荷崩れだけでも4件発生している。鉄板、果物、鶏(!?)、石膏ボード。以前はごく希にしか起こらなかったような事件だ。他にも、普通にやるべきことをきちんとやっていれば起こりえないような事件・事故が多くなった。なぜこのような「あり得ない」と思われるようなヒューマンエラーが起こるのか。彼はその原因について分析し、独自の見解を述べていた。

 高木氏は講演活動を行ったり著作を著したりもしているので、知っている人も多いだろう。その彼が言うには、最近あり得ないようなヒューマンエラーが増えているのは当然のことなんだそうだ。要約すると、人間の進化のスピードが文明の発達のスピードに追いついていない、ということらしい。人間の進化の歴史はたったの500万年で、しかもその身体的・感覚的能力は500万年前とさほど変わっていない。それがこの数百年で発達し続ける科学技術に順応することを余儀なくされているわけで、そこに無理があるのだという。そして恒常的に無理を強いられている状況下では当然エラーは増える、という理屈だ。ところで皆さん知ってます?今のサメがどれぐらいサメをやってるか。2億年ですぜ。しかもその間、生態はほとんど変わっていない。つまり、たったの500万年で人間がそう都合良く進化できるわけがないのだ。にもかかわらず外的要因が人間に変化を強要していて、しかもその要因を人間自らが次々と作り出している、そういうことですよね。

 若い頃、愛車の限界を試してみたことがある。その時どれぐらいのスピードを出したかは差しさわりがあるので明記しないが、ある時点で「これ以上のスピードは普通の人間の感覚ではカバーできないな」と感じた。例えば自動車教習所で「スピードが上がると視認できる範囲が狭くなる」という話を聞いたことがあるでしょう。つまり視覚がついて行けなくなるんですよ。それと同じ事が全ての感覚で起こっているような気がした。細胞レベルで軽くパニくっているような感じ。仮にあのスピードで走り続けることを強要されたら、ものすごいストレスだろう。

 車のスピードは自覚しやすい例だが、現代社会には自覚しにくく、それでいて、実は人間の身体的・感覚的能力を超えている状況は山ほどある。例えば、ネット通販などで今日注文したものが翌日に届くのは今では当たり前だが、その裏には夜を徹して輸送等の作業に携わるドライバーやスタッフの尽力がある。彼らは通常睡眠をとっているはずの時間に活動していて、今では誰もそれが異常なこととは思わない。だが本来昼行性である人間にとって、このことがストレスとなるであろうことは想像に難くない。昔よく「夜中に恋文を書くな」なんて言いませんでしたか?これって、明らかに昼間と夜間では感覚に違いが出るってことだ。変に感情的になって、いらぬことまで書いてしまうからヤバイよ、そういうことだよね?手紙ぐらいならまだしも、その状況で高速とかを運転するのって、どうなんだろう。こうした小さな「異常な状況」が積もり積もって過剰な負担となることもあるんじゃなかろうか。

 大量の荷物や郵便物を負担に感じ、故意に投げ出す配達員の話もたまに聞く。そこに到るまでに何が起こっているのか。しかも今では「○○時までにお届け」なんていう縛りもある。配達員の人間性の問題じゃないか、という人もいるだろう。だが本当の問題は、なぜそんなタイプの人間が増えてきたのか、ということであって、これは現代人のほとんどが知らず知らずのうちに「無理が祟る」状況に置かれていることの現れだろう。そう考えれば、確かに「なんで?」と首をかしげたくなるようなヒューマンエラーが増えてもおかしくはない。おかしくはないが、「なるほど」と納得して済むようなことでもない。命に関わる場合はなおさらだ。じゃ、どうする?そこが問題だ。2億年待つか?いやいや、サメは2億年経っても変わらなかった。そもそも人類は2億年もたないような気もするし。ねえ、どうするよ?

カテゴリー
未分類

 忘れられない二人の女性

 今までに出会った女性の中で、恋に落ちたわけでもないのに、どうしても忘れられない人が二人いる。

 一人はその昔、行きつけのカフェ・バーで出会った。当時20代後半の僕は、仕事帰りに必ずと言っていいほどこの店に立ち寄っていた。雰囲気も良く、ちゃんとしたカクテルを出す店なので、それなりの人々が一人ずつ集まってきてはカウンターを埋め、趣味の話や酒へのこだわりの話などで毎晩のように盛り上がっていた。そんな常連客のなかに彼女がいた。なかなかにチャーミングで、お酒が好きという彼女は、やはりお店の雰囲気に惹かれて常連になったという。

 その年の2月14日。僕は独身で、付き合っている女性もいなかったから、バレンタイン・デーなんて関係ない、といった体(てい)で、その日もマスターと車の話で盛り上がっていた。するとそこへ彼女がやってきた。「こんなところでアブラを売っていて良いんですか?バレンタイン・デーなのに。」「大きなお世話。そっちこそどうなの。」「こっちは大忙しです。これから義理チョコ配りだから。でもその前に・・・」彼女は抱えていた大きな紙袋から綺麗にラッピングされた箱を取り出した。「ガトーショコラ焼いたんです。これ、○○さん(僕の名前)に。一番綺麗に焼けたやつ。」「あ・・・ありがとう・・・?」「いつもお世話になってしまって。駐車場に○○さんの車があると、安心してお店に寄れるんです。じゃ、他にも寄るところがあるので、今日はこれで。また今度。」「あ、ああ、気をつけてね。」

 あまりお世話した記憶など無いのだが、彼女曰く、僕の隣で飲んでいると誰も言い寄ってこないので、安心してお酒が楽しめるのだそうだ。ここで皆さんに聞きたい。これって、喜んで良いのだろうか。マスターは「すごいじゃないですか!」とか言っていたが、あれはどう考えてもからかい半分だ。何がどうすごいのか説明してみろ、と言いたい。でも僕自身、ちょっとふわふわした気持ちになったことは白状しておく。

 もう一人はゲレンデで出会った。これも20代後半の頃だったと思う。出会ったとは言っても、話したのはほんの10分ほど。長い人生の中で、たったの「10分ほど」だ。

 その日、男同士で日帰りスキーに来ていた僕は、平日で空いていることもあって、1日リフト券の元を取ることを目標に、集合時間と場所だけを打ち合わせて個別に滑ることにしていた。何本目かを滑り終えた僕が再びリフトに乗ろうとしたとき、その人はどこからともなく現れ、ペアリフトの僕のとなりに何気なく座ったのだった。

 いかにも「滑りに来ているんです」といった雰囲気に気圧されながら、でもよく見ると綺麗な人だった。間違ってもウブな男ではなかったが、不意を突かれた僕はちょっと動揺していた。リフトってこんなに遅かったっけ。相手は嫌がるかも知れなかったが、何とか間を持たせたかった僕は、煙草を1本取り出して火をつけようとした。ところが、ご存じのようにリフトの上は吹きさらし。愛用のジッポをもってしても、なかなか火をつけることができない。すると隣に座っていた彼女が何も言わずに両手を伸ばし、グローブをはめた掌をかざして風を遮ってくれたのだ。これも不意打ちだった。いや、むしろ反則技だろう。その時の僕の気持ちを表現する言葉がいまだに見つからない。

 無事に煙草に火がつくと、僕は礼を言い、それをきっかけに僕らはリフトを降りるまでのつかの間、他愛もない会話をした。「煙草、嫌じゃないですか?」「大丈夫。平気です。」「どちらから?」「○○です。」「僕はΔΔから。」「わりと近くですね。」名前は聞かなかった。すごく聞きたかったけど。

 リフトを降りるとすぐ、僕は言った。「先に行ってください。僕は人に見せるほど上手じゃない・・・。」彼女はすぐに察したようで、アハハと笑い、わかりました、と言ってくれた。僕は最後にもう一度、お礼を言った。「煙草の火、ありがとう。」「なんとか火がついて良かったです。・・・それじゃ。」笑顔でそう言い残すと、彼女は颯爽と滑り出し、現れたときと同じように、あっという間に視界から消えていった。思った通り、彼女の滑りは、僕なんかより遥かに上手だった。

 この二人のことは今も忘れることができない。あれからだいぶ経ったから、とうに結婚して、大きな子どももいるはずだ。どこかで幸せな人生を送っていてくれたら良いんだけどな・・・。そんなことを考えながら、スタインベックの短編「朝めし」の冒頭の部分を思い出した。

 「こうしたことが、私を、楽しさでいっぱいにしてくれるのである。どういうわけか、小さなこまごまとしたことまでが目の前に浮かび上がってくる。ひとりでに、いくどとなく思い出されてきて、そのたびごとに、埋もれた記憶の中から、さらにこまかなことが引き出され、不思議なほど心のあたたまる楽しさがわきあがってくるのだ。」

     (新潮文庫「スタインベック短編集」より抜粋)

カテゴリー
未分類

 世界の料理ショー

 かなり昔のことになるが、「世界の料理ショー」という番組があった。何を思ったか、2012年に再放送されたので見た人もいると思う。グラハム・カーというイギリス系(?)の料理研究家が出演していた。前半は世界の有名なレストランの食レポと、ちょっとした小咄。後半はスタジオで、レポした料理を、時にアレンジを加えながら観客の前で調理してみせるのだが、この調理がすさまじい。あれで料理が本当に美味しく出来上がるのか、不安でたまらない。そんなふうだから失敗することもある。だがグラハムはいっこうに動じない。カットもされずに放送されている。もしかしたら、オリジナルは生放送だったのかもしれないが、大胆としか言いようがない。まあ、良い時代だったのだろう。時代といえば、グラハムは調理しながらワインを飲んでいたが、放送で「ワイン」という言葉を聞いたことがない。全て「葡萄酒」という言葉が使われていた。時代がわかろうってもんだ。加えてグラハムの語りがすごい。今制作しようとしたら、多分「ピー」だらけで何を言っているのかわからなくなってしまうんじゃないかな。いや、むしろ同じ内容では制作の許可すら下りないかも。何しろ品のないジョークの連発なのである。先ほど「何を思ったか、再放送された」と書いたが、どんな形態で再放送されたのかは確認していない。その理由は後述するが、おそらく例の、「制作者の意図を重んじて・・・」などというテロップが入ったに違いない。

 その再放送の少し前に、職場でこの番組のことが話題になった。同年代の中には覚えている人もいて、大いに盛り上がったものだ。あまりに懐かしくて、うちに帰るとすぐ、ダメもとで検索してみた。するとどうだ。DVDのBOXがヒットしたではないか!いったいどんな大馬鹿者がこの企画を立ち上げたのだろうか。それを考える前にカートに入れていた。ここにも一人いた、大馬鹿者が。

 届いたBOXは作りもしっかりしていて、立派な解説書まで付いている。大馬鹿者が作ったようには見えない。その解説書を読んで驚いた。あの料理研究家、ケンタロウ氏が文章を寄せているではないか!当時声を当てていた有名な声優(故人)のコメントも紹介されている。そして、あのグラハムの下品な語りが日本独自の脚本である事が説明されていた。何と、大馬鹿者は日本人だったのか!声優も、「僕は当時二枚目の声を専門に当てていたので、この仕事はある意味ショックだった。」とコメントしていた。ちなみにケンタロウ氏は「当時、こんな料理番組があったのかと驚くと同時に、とても感動した。」と語っている。ケンタロウ氏といえば、交通事故に遭遇し、残念ながら今は療養中だが、あの「男子ご飯」をやっていた人である。実はこちらも欠かさず見ていたのだが、こんなところに原点があったとは・・・!考えてみると、構成や語りぐさが似ている。勿論、ずっと上品だけど。

 さて、本編を見て驚いた。記憶以上にいい加減だ。スタジオでタオルが燃えたり、フランベのために温めていたブランデーが温めすぎて吹き出したりしている。よく放送したな、と思う。水の量を量るのに手のひらを使ったり、ワインの分量を、鍋に直接注ぎながら「1、2、3・・・6オンス!」なんて数えて計ったり。塩コショウの量に至っては目分量そのもの。「ちょっと塩が足りない」なんて言いながら、仕上げ直前に足したりしている。「ああ、あんなんで良いんだ」と思ったことを今でもよく覚えている。

 他にも、整髪料でセットしたであろう髪の毛を手でなでつけ、その手で肉を触ったり(その逆も)は当たり前。今では絶対苦情が来ること間違いなし。さらに番組では、「スティーブ」というディレクターがいろいろといじられて笑いを取るのだが、この「スティーブ」というキャラは、日本語版のオリジナルとのこと。勿論画像にもそれらしい人物は登場するのだが、それをうまく利用して作り出したらしい。これはこれでなかなかのアイディアだった。さらにカメラワークなどを見ると、ある意味この番組は傑作かも知れない。下品な傑作。ちなみに再放送をチェックしなかった理由はもうおわかりだろう。僕は事前にディスクで全部見てしまっていたので、その必要が無かったのだ。だがあのタイミングからすると、DVDの発売と再放送の時期はわりと近かったのかも知れない。つまり、DVDの発売を記念して再放送が企画されたのではないかと、今ではそう考えている。

 僕は料理を趣味の一つにしていて、暇さえ有れば料理をしていると言っても過言ではないが、今思えば、小さい頃に見たこの番組の影響は大きいと思う。そんなこんなで、今も僕はビールを片手に料理にいそしんでいる。最近人間ドックで肝臓の数値が引っ掛かったので、多少控えめにはしているけど。だから娘たちにもよく言われる。「パパの料理は美味しいんだけど、見ていても作り方がまるでわからない。分量で教えてよ!」そう言われても計ったことがないのだから、教えようがない。さらに厳密に言えば、二度と同じ料理は作れない道理だ。僕のせいではない。全てグラハムが悪い。

 グラハム・カーは今も存命で、BOXでは解説書と映像で日本のファンに向けて挨拶している。その後しばらくして新たな映像が発見され、BOX2が出たのでそれも買ってしまった。「世界の料理ショー」を知っている知り合いが、「確かにあの番組はすごかった。でも、DVDBOXを二つとも買い込んじまうお前もすごいよ。」と言っていた。そうかな?・・・そうかも。

youtubeでも見られます、多分。

カテゴリー
未分類

 カリスマの危険性

 カリスマ。最近あまり聞かなくなった言葉。一般大衆を魅了するような資質を持った人のことを言うそうだ。

 こういった人たちは今でも存在していて、特に価値観が確立していない世代から絶大な支持を得ている。だがどんなにカリスマ性を発揮している人でも、人間である事に変わりは無い。だから、長いこともてはやされているうちにボロが出てくることがある。特にたちが悪いのはうぬぼれというやつだ。

 うぬぼれ(自惚れ)とは、文字通り自分に惚れることだ。惚れた相手の欠点が見えなくなるというのはよくある話だ。自信を持つのはいい。自分を信じるのは大切なことだ。僕の知っている「自分を信じている」人たちは間違いを犯すと素直にそれを認めることができる。そんな自分も含めて客観的に自己評価をしているからだ。しかも価値観を自分の外に置いている。常識というやつだ。良識と言ってもいい。それが「自信」の裏付けにもなっている。だがひとたびうぬぼれの状態に陥ると、価値観は自分の中でだけ成長するようになる。つまり独断だ。この手の人たちは大抵常識に反発しようとするから、始めは格好良く見える。だが長続きはしない。ほとんどの人はついて行けなくなるからだ。ネットの記事などでよく目にする○○氏やΔΔ氏などはこのパターンだろう。始めは的を得たコメントを言っていたのかも知れないが、今では「何を言っても支持される」という傲慢さがにじみ出ている気がする。困ったことにこうした人たちには、常に一定の支持者がいてもてはやすので、本人たちも何がおかしいのかわからなくなってしまっているのだろう。支持者も支持者で、違和感を感じた人は早々に離れていくので、ほとんどの場合、少しずつ入れ替わっている。

 支持する側には選択の自由があるからまだ良い。だがカリスマの側はそう簡単に主張を覆せない。支持者に対する見栄があるからだ。さらに自分が正しいとうぬぼれていれば、その必要性すら感じないだろう。こうした人たちが対立すると面白いよ。まるで子どものケンカだ。声ばかり大きくて、中身は有るんだか無いんだか。大人は見向きもしないだろう。

 良識のあるカリスマは、自分の主張が単なる「一個人の見解」に過ぎないことをよく知っているから、常識を踏まえた上で意見を言う。そもそも「常識」とは、本来そう簡単には揺るがないものであって、易々と論破されるようなら、それは始めから「常識」などではなく、何か別のものだったということだ。彼らはそのへんをよくわきまえている。だから主張に無理がない。目立ちはしないが、じんわりと浸透する。そもそも本当のカリスマはカリスマに見えないというのが僕の持論だ。先のお二人には、是非ともナサニエル・ホーソーンの短編「人面の大岩」をご一読いただきたい。

カテゴリー
未分類

 映像を早送りで鑑賞する人たち

 最近映像を早送りで鑑賞する人が増えているという。単に鑑賞時間の短縮に留まらず、なんでも、時間はかけたくないが、友人との(映画の)話題にはついて行けるようにしておきたい、というのも理由の一つなんだそうだ。

 僕は気に入った映画は必ずソフトを購入するかディスクに落として保存している。いつでも見られるようにしておきたいからだ。そんなふうにして20年以上にわたって親しんできた映画でも、今更ながらに新たな発見がある事も少なくない。「あいつ、後ろでこんなことやってたんだ」とか、「あ、ここで伏線しいてたじゃないか!」とか。こうしてみると、早送りでは気付かない演出も多く、逆に言えば、早送りで作品を鑑賞するのは、こうした監督の意図や俳優の表現をないがしろにすることにもなるだろう。それは絶対にやるべきではないと思う。とは言っても、何度も見てきた映画の一部を飛ばすことはたまにある。タルコフスキー監督の旧ソヴィエト映画、「惑星ソラリス」が良い例だ。冒頭の未来都市を延々と映し出すシーンは、さすがの僕も早送りする。なぜかって?だって、東京でロケしたシーンだもん。制作当時(1972)のソヴィエト人には、立体的に交差する首都高速は未来の交通機関に見えたかも知れないが、日本人には日常の風景。「あー、赤坂だこれ」なんて言いながら日本語の看板や個人タクシーなんぞを見ている必要は無いだろう。いやいやもしかして、ストーリーを左右する重大な伏線が潜んでいたりして・・・(無い無い)。

 そういえば、実はもう一つ気になっていることがある。ネットについては素人である僕は、このブログを立ち上げる時にいろいろとわからないことがあって、あちこちのサイトを調べてみた。ドメインはどの会社で取るのが良いか、読んでもらうためにはどんな工夫をすれば良いか、等々、懇切丁寧な解説がたくさんあったのだが、その中にこんな記事があった。「今の人は長い文章を読むことに慣れていないので、文章はできるだけ短く、文面は密にならないように・・・」というのだ。確かに、初めて僕のブログを読んだ人が、「こりゃ小説だァ!」と言っていた。これは勿論比喩だろうが、なるほど、それでスカスカのブログが多いのか、と合点がいった。あなたも見たことがあるでしょう、不自然に行間の広いブログのページを。そういえば娘たちの読んでいる「ライトノベル」も、昔の岩波文庫なんかと比べるとページがやけに白っぽい。もしかすると、「今の人」はツイートとブログの区別なんてどうでも良いのかも知れんなあ。もしこの状況が事実だとするならば、相当本離れが進んでいるということだ。いいのかねえ、こんなことで。

 こんな時代だからこそ、せめて映画ぐらいはじっくり鑑賞して欲しいものだ。よくできた映画は人生を変えるほどの力を持っている。前にどこかで書いた気がするが、それは財産になり得る。ホントだって。

カテゴリー
未分類

 イラッ・・・ムカッ・・・???・・・はぁー・・・。

 最近ちょっと不満に思っていること。

 某TV局が、ドキュメンタリー番組の再放送を何度もしながら、番組表に一切再放送の表記をしないこと。それでいて1ヶ月のあいだに2回も3回も同じ番組を放送している。ちゃんと仕事しろよ!ちなみにNHKでは「再」もしくは「選」という表示を付けているのでわかりやすい。

 文房具。昔ながらの金属製の画鋲の、針の部分が取れやすくなったこと。画鋲をとろうとすると、頭が外れて針だけが残る。これって結構厄介な状況。もう一つ、輪ゴムの質が悪くなって、すぐに劣化するので伸びたり切れやすかったりすること。文房具には、最近こうした「質の低下」がよくある。皆さん、気がついてます?

 買ったばかりのキュウリの断面が白っぽくて、みずみずしさが感じられないことが、想定外に多くなってきたこと。一昔前なら商品にならないレベルだが、今ではそんなキュウリが普通に販売されている。仕方なくこれを使うと、サンドイッチやサラダが美味しくできない。店舗に苦情を言うべきなんだろうか。

 普通に売っているベーコンの脂身がほとんど無いこと。これじゃ、いくら焼いても揚げ焼き状態にならない。良いベーコンは焼いていると脂がしみ出してきて、その油で揚げ焼きの状態になるので、余分な油が取り除かれるとともにカリッとした仕上がりになる。油は捨てても良いが、僕はこの油にトーストを浸して食べるのが好きだ。

 行きつけのでっかい書店の、マニアックなコーナーが縮小したこと。このパターンはこれまでにも度々経験している。「すげー品揃え!」なんて喜んでいると、いつの間にかそういったコーナーがなくなり、ただの「でっかい書店」になってしまう。近頃ではその空いたスペースにビューティーサロンやブティックが入ることも。・・・書店だよね!?

 スーパーで売られている生麺タイプのラーメンは「昔ながらの・・・」などと謳いながら、一番一般的な鶏ガラスープ味が見当たらないこと。必ずと言っていいほど魚介の出しが含まれている。僕が求めているのは、昔、デパートの「大食堂」で提供されていた類いのラーメンの味なんだけどなあ。

 「新しくなりました!」と言いつつ、頼んでもいないのに味が変わるビール。今年とうとう、長年慣れ親しんできた銘柄に別れを告げることになった。「別れましょう、あなたは変わってしまった・・・」そんな感じ。ビールのTVCMでは、よく出演者が「美味しい!」と言うシーンがあるが、是非とも「個人の感想です」というテロップを入れていただきたい。

 最後は少しマニアックな話題。中国製の、ある戦車プラモ。内部も全部再現されている。が、部品が多く、それ故設計図も絵が込み入りすぎていて、何をどこに接着するのかよくわからない。さらに、内部を設計図どおりに組み立てると、あちこち干渉して車体が組み上げられない。どうなってんだこれ。つくづく、日本のプラモデルメーカーの偉大さを実感する。

 以上、最近ちょっと不満に思っていること、でした。

カテゴリー
未分類

 大洗の月

 井上靖の小説に「大洗の月」という短編がある。これが好きだ。書かれたのは昭和28年というから、当然僕の知らない時代だ。ましてや現代の若い人には想像もできないだろう。主人公である佐川が常磐線の水戸駅から大洗まで利用したタクシーは、悪路を予想して「車体の良さそうなの」を選んでいるし、15㎞ほどの行程の途中でラジエーターの水を補給している。どちらも今ではあり得ないことだ。さらに特急とおぼしき列車が、上野から水戸まで2時間近くかかっている(今だと最短で1時間あまり)。  

 40代の主人公、佐川は東京で小さな会社を経営しているが、最近会社にも自分の人生にも「滅びの予感」を感じ始めていた。そんなある日、今日が「中秋の名月」の日である事に気付いた彼は、ふと思い立って、月を見るためにひとり茨城県の大洗を訪れる。そこでの出来事や出会いが静かに、淡々と語られていく。

 初めて読んだのは大分前、まだ若かった頃だが、中年と言われる世代に足を踏み入れてから、ここで語られる「滅びの予感」という言葉が頻繁に思い出されるようになった。40代と言えば、普通は就職し、結婚し、子どもをもうけて、人生の要素をある程度成し終えたあたり。自ずと先も見えてくる。勿論時代も違うし、そもそも僕はそう簡単に滅びるようなタイプじゃないが、なぜかこの作品には不思議と共感を覚えたものだ。そういえば作中、佐川も「滅多なことではくたばらない」と形容されていたから、「滅びの予感」とは誰にでも訪れる老いの兆し、もしくは最盛期を過ぎた者の感じる憂いのようなものなのかも知れない。

 前半、列車が進み、車窓の風景が田舎のそれに変わっていくにつれて、主人公のモノローグが内省的になっていく文章構成が印象的で、さらに後半の登場人物をモブキャラ(その他大勢)を含めて切り詰めることで、一人一人の登場人物が際立っている。何しろ大洗では、主人公が行動するのは夜が更けてからで、街灯に照らし出された通りには人っ子一人見当たらない。今でこそガルパン(「ガールズ&パンツァー」、大洗を舞台にしたアニメ)の聖地として全国区となったが、昭和20年代の大洗と言えば、夏は海水浴客で賑わうものの、普段は小さな漁師町に過ぎなかったのだから無理もない。

 井上靖とその近親者には遁(とん)世(世を捨てる、世間から逃れる)的な心情をもつ者が多かったらしい。その影響か、彼の作品にそのような境遇の人物が登場するものも多い。「大洗の月」の後半で主人公が出会う、年老いた日本画家もまさにそれで、彼は世をすねているようでいながらある種の充足感を感じていて、けっして俗福とは言えない今の境遇に、納得して身をゆだねているように見える。それは本文中の「会った瞬間から、否応なしに好感を感じさせられていた。ふしぎに厭なところがなかった。」という文章からも伝わってくる。こうした印象は、常に競争心や焦燥感をもち、それを充足させようと躍起になっている人間からはなかなか感じ取ることができないものだ。その後に続く「灰汁がすっかり抜けてしまって」という表現も、人生の酸いも甘いも早々に経験し終えた者だけが達する達観した境地を表しているとも考えられる。ここに至って雲間に隠れていた月がやっと顔を出すのも象徴的だ。そこには全てが肯定されたかのような、静かなカタルシスがある。

 井上靖本人は新聞記者時代、競争心旺盛な同業者になじめず、本人曰く「麻雀で言えばおり」た経験をもつ。「おり」るのが少々早すぎた感もあるが、その後の華々しい経歴を見るととても遁世的には見えない。しかし作家として成功しながらも、本心ではこの、隠遁生活送る老画家のような境遇に憧れ続けていたのかも知れない。

           (引用は全て新潮文庫「姥捨」による)