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 「ビッグフィッシュ(2003年)」

 最近、WOWOW等で録りためていた映画を少しずつ鑑賞している。でないとハードディスクがいっぱいになっちゃうからね。

 あらためて確認すると、録ったはいいがそのことさえ忘れてしまっているような映画も結構あって、こうした映画たちはそのほとんどが未鑑賞。今回触れる「ビッグフィッシュ」もそんな映画の一つだ。

 監督のティム・バートンはご存じのように癖の強いクリエイターで、僕は作品によって好き嫌いがはっきり分かれる。「シザー・ハンズ」や「バットマン」、「スリーピー・ホロウ」は好きだが、「チャーリーとチョコレート工場」や一連のアニメーションとなるとどうも興味がわかない。だから「ビッグフィッシュ」も今まで何となく保留していた。だが今回初めて鑑賞して思った。これ、なかなかいい作品じゃないか。自分の過去についておとぎ話のような話しかしない父親と、すでに結婚している息子の、心の葛藤と交流をティム・バートンらしいタッチでまとめあげている。この監督特有の、ちょっとダークで不気味な味わいが父親の語る回想シーンだけに抑えられていて…いや、一瞬例外もあったかな?とにかく話の流れを妨げることはなかった。

 驚いたのは父親を演じているのがアルバート・フィニーだったことだ。年は取れどもさすがは名優。メイクなしで「スクルージ」が演じられそうな貫禄だった(※)。一つだけ難を言えば、恰幅が良すぎてとても死期が迫っているようには見えなかったけど。

 実はこの映画を見ていてある既視感を感じた。それは映画のなかほどでエンディングがわかってしまうほどのもので、具体的に言うとストーリーの骨子が同じ2003年の映画「ウォルター少年と、夏の休日」にそっくりなのだ。この映画では奇想天外で冒険活劇のような過去を語る破天荒(訪問販売員をショットガンで蹴散らすとか)な大叔父たちと、ひと夏彼らに預けられた不遇な少年の心の交流が描かれているのだが、後日談として大叔父たちが事故で亡くなった直後、訃報を聞いて中東からある人物が訪ねてくる。成人したウォルターが出迎えたその人物とは…という流れ。なるほど、金持ってるわけだ。

 パクリだ!と言うつもりはない。僕としてはむしろ大歓迎だ。こういう現代のおとぎ話的なストーリーは大好きだから。「ビッグフィッシュ」が気に入った人は、多分「ウォルター少年と、夏の休日」も楽しめるに違いない。

 もう一つ、亡くなった父親が息子の心象風景の中で、川に住む大物「ビッグフィッシュ」に姿を変えて泳ぎ去るくだりは、僕のベストムービーである「我が谷は緑なりき(1941年)」のラストシーンで語られる「父のような男に死というものはない」というモノローグを思い出させる。また、妻となる女性に思いを伝えるシーンでは一面に咲き誇る黄色い水仙が印象的だったが、「我が谷は緑なりき」の中でも、事故で足のマヒした幼い主人公が牧師と水仙の花を見に行く約束をして、翌年の春に水仙の群生の中を、よろめきながらも自力で歩くシーンがある。偶然と言ってしまえばそれまでだが、制作陣のなかにもあの映画が好きな人がいるのかも、なんて思うと妙に嬉しかったり。そんな楽しみ方もできたので、この映画は好きな部類に入れておくことにしよう。

 余談だが、2001年にS・スピルバーグとT・ハンクスが制作した戦争TVドラマシリーズ、「バンド・オブ・ブラザース」のオープニングにも「我が谷は緑なりき」から持ってきたと思しきシーンがある。それは数人の兵士が草むしたなだらかな丘を降りてくるシーンなのだが、これにそっくりの構図で、主人公の成人した兄弟たちが同じように草むす丘を降りてくるシーンがある。それは映画のラスト、主人公が遠い昔を振り返る回想シーンの中の一場面で、個人的には間違いなく模倣だろうと思っている。多分同じことを感じた人が世界中にたくさんいるはずだ。これは名作の宿命なんだろうな。

 映画を長年たしなんでいると、いろいろな楽しみ方ができる。「ビッグフィッシュ」は久々にそんなことを痛感することができた映画だった…などと言いつつ、「ビッグフィッシュ」についてあんまり語ってねえな。まあいいか。いやー、映画って、ほんとにいいもんですね。それではまた!お会いしましょう。

※ 1970年の、「クリスマス・キャロル」をミュージカルにした映画、「スクルージ」でエイジングのメイクを施し、スクルージを演じている。彼はこの時34歳だった。

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 昔は良かった…

 「昔は良かった…」といえば、「今どきの若いもんは…」と並んで、年寄りの愚痴の典型みたいなことになっている。僕はまだ年寄りではないが、なぜかここ5~6年、「昔は良かった」と思うことが多くなった。でもこれって、いくらなんでも早すぎないか?

 前回の記事で紹介した「ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ」というコンサート、これは1981年に催されたんだけど、この時ダニー・ケイはすでに70歳。老骨に鞭打って指揮者を演じ(?)、素晴らしいパフォーマンスを披露してくれた。これぞエンターティナーとでも言うべき芸達者ぶりだった。そして彼はこの抱腹絶倒のコンサートをささやかなスピーチで締めくくっている。

 「皆さんは今日、素晴らしいことをしたのです。」彼はこう切り出し、人生のすべてを音楽にささげた楽士たちと、その楽士たちの演奏に耳を傾け、惜しみない拍手を送る観客が、互いに支えあってこのコンサートを素晴らしいものにしたのだと語った。それは一流の芸人として生きてきた彼自身の感謝の言葉でもあったと思う。そして彼はこう続ける。

 「私たちは奇跡に満ちた愛すべき国に生きています。」アメリカはあらゆる国籍、人種、宗教の人々に扉を開いている。そして基本的な自由がある。だから人々はアメリカに魅了されるのだ、と。このコメントはユダヤ系移民の子供として生まれ、その才能を認められて成功した彼の実感だったに違いない。だがもちろん、アメリカはすべての人々に寛容だったわけじゃない。

 当時のアメリカも、水面下では人種差別や紛争など、多くの問題を抱えていた。それでも理想を捨てなかったから、そこに夢や希望が生まれたのだろう。ダニー・ケイは長年にわたってそんな夢を支えてきたエンターティナーの一人だった。

 彼の没年は1987年。あれから40年近くが過ぎ、世界にその名を知られるようなエンターティナーの話題は聞かなくなった。古き良きエンターティンメントは滅びてしまったんだろうか。実際のところ、今のアメリカにはささやかな夢すら生き残れそうにない排他的な雰囲気が蔓延している。一部の人々にとって、今後さらに住みにくい国になるであろうことは火を見るよりも明らかだ。アメリカにとって、「昔は良かった」という言い回しは単なる年寄りの常套句ではなく、現実の問題になりつつある。日本はどうだろう。世界は?

 そのうち、僕も年寄りと言われる時代が来るだろう。そんな僕が「昔は良かった」とつぶやいたときに、「また爺さんの『昔は良かった』が始まったよ」なんて言われるような世の中だといいんだけど。今を生きる若者から、「ホント、その通りですね」なんて言われるようじゃ、それこそ後がないもんな。

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 引きこもりなのかな。 (R50指定?)

 最近ちょっと気になっている。僕は昭和という時代に引きこもっているのではないだろうか。

 なぜそんなことを考えるようになったのか。事の起こりは新年あけてすぐにYoutubeで見つけたある動画だった。それは1990年の2月(だったかな)に行われた、アメリカのエンターティナー、サミー・デイヴィスJr.の芸歴60周年記念アニバーサリーの動画だった。このアニバーサリー・イベントに集まった顔ぶれがすごい。フランク・シナトラ、グレゴリー・ペック、クリント・イーストウッド、グレゴリー・ハインズ、ボブ・ホープ、シャーリー・マクレーン、ステイビー・ワンダー、リチャード・プライヤー、ディーン・マーチン、マイケル・ジャクソン、ディオンヌ・ワーウィック等々。そして総合司会はエディ・マーフィー。いずれ劣らぬ名優・エンターティナーたちだ。僕が子供の頃、両親とTVで親しんだ人たちも多い。このころはみんな生きていたんだなあ。

 勢いにのって検索を続けると、次に見つけたのは「ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ」というコンサートの動画(※)。あー、これ子供の頃にTVでやってたよ。確か「世界のショー」とかいう枠だった。コンサートとは言うものの、俳優でコメディアンのダニー・ケイが面白おかしく指揮をして観客を笑わせる、まさしくこれはショーだ。あの頃のNHKはレベルの高い海外のエンターティンメント番組をよく流していた。有名なミュージシャンのワンマンショーや、大道芸人のパフォーマンスを特集した番組もあったっけ。楽しかったなあ。今のNHKからは想像もつかない。

 何度も書いているように、僕は子供のころから1950~60年代の洋画や洋楽に慣れ親しんできた。そんな僕がこういった動画を見ていると、もの悲しい気分に陥ることがある。というのも、動画で見たスターたちのほとんどが、今はもういないことをあらためて実感してしまうからだ。例えば先ほどのサミー・デイヴィスJr.だが、実はアニバーサリー・イベントの3か月後に亡くなっている。他の出演者たちも、前記したメンバーのうち、司会のエディ・マーフィーを除けば今は4人しか残っていない。しかもそのうち二人は90歳を超えている。生涯にわたって多くの観客を楽しませてきたあのダニー・ケイも、1987年に76歳で亡くなり、今はもういない。

 彼らが活躍した時代は僕の時代よりも20~30年ほど前だ。音楽に例えるなら、「70年代のハード・ロックやヘビメタを聞いて育ったが、親がよく聞いていたので50年代のジャズにも詳しい」といったところか。ただ僕の場合、自分の世代より古い文化のほうが影響が大きかったようだ。楽しく、幸福感に満ちたエンターティンメントの世界は、年端もいかない昭和の子供にとって強烈な印象を残した。その後遺症とでもいうのか、僕は今もいにしえの洋画を鑑賞したり、50~60年代の洋楽をレコードで聞いたりすることが多い。

 そういった外国文化に長年慣れ親しんできたおかげで、平成や令和の日本文化には今一つ馴染めないところがある。勿論普段の生活に支障があるわけではなく、90年代以降の映画や音楽も楽しんできた。でも精神的に頼るなら、こうした外国文化が盛んに紹介されていた昭和の頃のおおらかさのほうが安心する。だから時に当時の映画やエンターティナーたちの動画をさがしまくったりするわけだが、よく考えてみるとこれは一種の逃避ともとれるし、もっと言うなら懐古趣味という名の引きこもりではないのか?そんな気がしてきたんだよ、最近。いやいやどうも、困ったもんだ。

※ 「世界のショー ダニー・ケイ」で検索すると、TV放送したソースをそのまま字幕入りで鑑賞できる。ただしビデオ録画に起因する映像の乱れあり。

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 メイド・イン・ジャパンの話

 最近どうも筆が進まなくて困った。話題がないわけでもないのに、こんなことではいかんよなあ。そんなわけでしばらく間が空いたので、とりあえず今回は近況から。

 クリスマスはいつものように、うちに3家族(実家の兄夫婦、カミさんの実家、そして我が家)が集まり、大々的に祝った。12月28日にはカミさんの実家で餅つき、これも3家族。ここ数年で据付けの古いかまどが壊れてきたので、今年は簡易かまどを購入した。長女は餅つきに合わせて帰省していて、なんか知らんけど旦那の実家(同市内にある)ではなくうちで寝泊まりしていた。そのほうが先方も気が楽らしい。今はそんなふうなのかねえ。

 元日は次女の仕事の都合もあって出かけることはせず、自宅でゆっくり過ごした。年末年始の特番を録りためて、内容によってはディスクに落としたり…まあ、いつも通りの流れですね。

 そういえば年末に、ある家電量販店にディスクを買いに行ったとき、面白い話を聞いた。いつも買っていた名の知れたブランドの製品が、最近どうも調子が悪く、今回は25枚中5枚(!)が録画不能で、仕方がないからちょっとお高いがソニーの製品をあらためて購入。こちらはすべてのディスクが問題なく使えた。どちらも海外製造品なのに、なんでやねん。

 不思議に思い、店員さんにその辺の事情を聴いてみた。すると「製品管理のチェック項目の数が違うらしいですよ」との答え。「ちなみに国産のディスクはもうないんですかね?」と尋ねると、メディアコーナーの一番端に連れていかれた。「このコーナーが国産のディスクですね」そこには2~3種類の国産ディスクが並んでいて、なかには「○○工場製」と、製造している工場名まで明記しているものもあった。価格は海外製造品の倍以上だ。ひええ。「どうしてこうも品質に差が出るんでしょうねえ」と聞くと、微妙な表情とともに「作る人の意気込みの違い、じゃないでしょうか」という答えが返ってきた。

 僕が愛用しているカメラのブランド、ニコンについても、昔同じような話を聞いたことがある。「レンズにしろぼデイにしろ、『メイド・イン・ジャパン』と表記のある製品を買ったほうがいいですよ」と教えられたが、当時はそんな表記があることすら知らなかった。ニコンの製品は当然日本製だと思っていたからね。

 あれから20年が過ぎ、今やニコンの製品はそのほとんどが海外で製造されている。ニコンといえばその旧社名は「日本光学工業」。「日本」と謳いながら、国内で製造されているデジタル一眼はD5とDfの2機種のみ。ミラーレスのZシリーズに至ってはそのすべてがメイド・イン・タイランドだ。偏見は良くない、とは思うんだけど、前出の店員さんの話を聞くと、やはりメイド・イン・ジャパンは信頼の代名詞…いや、ちょっと待て。一つ思い出した。

 陸上自衛隊の使用する自動小銃は1964年に初の国産品、つまりメイド・イン・ジャパンが採用された。ところがこの64式小銃、訓練中にやたらと部品が脱落したんだそうだ。だから隊員はみな黒いビニールテープを携行して、あっちこっち止めていたらしい。おいおい、国家の存亡が懸かってんだけど。次の89式小銃はさすがにそんなことは(ほとんど)無かったようだが、不安に駆られた隊員たちはビニールテープを携行する習慣が捨てられなかったそうだ。

 現在は2020年採用の20式小銃の配備が進められているが、何かの書籍でその紹介記事を読んだときに、開口一番「もう部品は落ちません!」と書いてあったのを見て失笑した記憶がある。まあ、これもメイド・イン・ジャパンに関する逸話(?)ではある。