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 「惑星ソラリス」

 これはあるSF映画のタイトル。1972年、旧ソビエトの映画。監督は「映像の詩人」アンドレイ・タルコフスキー。同年のカンヌ映画祭では審査員特別賞を受賞。数年前にあの名作、「2001年宇宙の旅」が公開されていて、SFマニアの間ではよく比較される。

 さて、「惑星ソラリス」である。僕は好きだが、一般論としてはあまりおすすめしない。アンドレイ・タルコフスキーは長回しを多用する監督で、アメリカ映画に慣れている人にはかったるいと思う。しかも上映時間2時間45分。早送り必至だな。その前にみんな寝ちゃうか(うちの家族はみんな寝た)。タルコフスキー自身も後に「意図的に退屈な表現をした」と言っているそうだが、だとしたらそのねらいは大当たりだ。でもこの記事を書くにあたってもう一度見直してみたら、そんなに長いとも思わずに、一気に見終わってしまった。やっぱり好きなんでしょうね。

 その昔、レーザーディスクでオリジナル版を初めて見たときにびっくりしたのが、未来都市の場面を東京でロケしていること。首都高の高架道路やトンネルが、当時のソビエト人には未来都市のように写ったらしい(本当は1970年の万博会場でロケする予定が、間に合わなかったという話もある)。話には聞いていたけど、実際に見慣れたタクシーとか貨物トラックとかが「キーン(効果音)」なんていって走っているのを見ると、「やれやれ」という感じ。しかもこのシーン、延々と続く。さあ、皆さん、早送りの時間です!

 原作者であるポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムのねらいは「宇宙において人類が遭遇する事象は全て人間にとって理解可能だ、なんて甘いこと考えてんじゃねーぞ!」ということだったらしい。「ソラリス」という惑星には惑星全体を覆う海があって、この海そのものが知性を持った生物らしく、重力場をコントロールして惑星の軌道を変えたりもできる。人類はソラリスの軌道上にステーションを設置、数世紀(!)にわたって理解と意思疎通を試みてきたが、いまだにこれといった成果は得られていない、というのが物語の背景。ハムスターって何考えているかよくわからない、どころの騒ぎではない。85人乗りのステーションは荒れに荒れ、今では駐在するスタッフは3人だけ。あるとき、これ以上の調査を続行するか否かを決定するため、新たに1人のスタッフ(クリス)が派遣される。この人が心理学者であることが興味深い。着いてみると2人の科学者が精神を病みながらも生存。友人であった科学者は到着直前に自殺していて、意味深なビデオメッセージが残されていた。滞在するうちにおかしな事(いないはずの人影が見えたり)が続発し始め、ついには自殺したはずの妻、ハリーが現れる。この存在はソラリスの海が作り出したコピーでありながら、ソラリスの海からは独立した自我を持っていて、厄介なことに自分はハリーであると信じている。その他の人影は、同じように他のスタッフを訪れた訪問者の姿であった。クリスは混乱し、妻のコピーをポッドに載せて射出してしまうが、すぐに次のハリーが現れる。やがてクリスはこの複製された妻を愛するようになっていく。ここからが辛い。

 ハリーは過去のことを覚えていないので、自分が本物のハリーではないことに気付きはじめ、葛藤する。他の科学者達はクリスのふるまいを批判し、「君が愛したのはどのハリーなんだ?最初のコピーか、それとも2番目のか?」と問い詰め、クリスとともに行動するようになったハリーに対しても「君は人間じゃない、ただの複製なんだ」と冷酷に事実を突きつける。それを聞いたハリーはショックを受け、涙ながらに「クリスは私を愛してくれます。でもあなたたちは残酷です。確かに私はただの複製かもしれない、ならば私は人間になります。」と訴える。この決意。ここでいう人間っていったい何なんだろう。この後ハリーは思いあまって自殺を試みるが、肉体の組成が違うために死ぬこともできない(蘇生してしまう)。この間、ソラリスの海はいつものようにただうねっているだけ。その意図はまったく理解不能だ。ただただ、登場人物(ハリーを含む)にとって心理的に辛い状況だけが続く。使われている音楽がバッハの「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」であることも効果的。SF映画なのに、見ている側が「神様、どうかこの人たち(もちろんハリーを含む)を救ってあげてください」と祈りたくなってしまう。しかも人間の定義そのものすら揺らいでくる。人間とは生物としての物理的存在を言うのか、それとも「人間である」という意識としてのそれなのか。  

 しかし、あの時代にしてこの問題提起というのは凄いと思う。今だったら、例えば近い将来人格を持った(あるいは人格を持ったように見える)AIが開発されるかもしれない。それを人類はどう扱うのか?AIの人格を認めるのか?本当に人格を持っているのかどうかを確認する方法はあるのか?実際、「2001年宇宙の旅」では「ハル(HAL、コンピューターの呼称)に人格があるかどうかは、誰にもわからないだろう」というセリフがある。そのハル自身は矛盾した指示のために神経症のような状態に陥り、強制切断の際には「怖いんだ、やめてくれ」と懇願する。この問題はもうSFとは言えない。すぐそこに迫った現実だろう(※1)。

 最終的には、ある方法(※2)によって訪問者達は消滅するのだが、それは悩み苦しむクリスを見かねたハリーの望みでもあった。また、このことによって海にも変化が起こり、陸地(島)が出現する。そして有名な、様々に解釈されているあのシーンで物語は終わる。あらすじを長々と書いてしまったが、この記事を書こうと思った理由が実はもう一つある。それは登場人物の一人が言った言葉。                      「人間の心の問題が解決されなければ、科学など何の意味もない。」         (ウィキペディアより引用)  最近のBDの字幕では「こんな状況にあっては科学もクソもありゃしない」という表現なっているけど、とにかく1972年の映画が、現在のネット社会が内包する問題を予言しているというか、科学技術の進歩の裏にある「使う人間の側の問題(※3)」が強く意識されているというか、さりげないセリフなのだが、よく考えるととてつもなく重い気がする。この人物は続けて、がむしゃらに宇宙に出て行ったって仕方ない、地球だけで十分だ、人間に必要なのは人間なんだ、と語っている。「2001年宇宙の旅」では科学技術の発展に伴う人類の新たな進化が「ツァラトゥストラはかく語りき」にのせて高らかに謳い上げられていたが、「惑星ソラリス」ではむしろ進歩する科学技術を背景に、人間とは何か、どうあるべきなのかという命題を「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」にのせて投げかけているように思える。そしてそこには、ある種の宗教観さえ感じ取れるのだ。科学技術は人間を救えない、この科学万能と言われる時代にあってなお、人間の救済は人間もしくは宗教(=神)のなにしか存在しないという、これこそが深い精神性と人類の救済を目指したタルコフスキー監督の描きたかったことなのだという気がする。

※1 僕たちはすでに「鉄腕アトム」や2001年宇宙の旅の「HAL9000」、「チャッピー」などのAIの人格を無意識のうちに認め、感情移入までしてしまうという体験をしていると思う。

※2 ソラリスの海は睡眠中の人間の「潜在意識」から情報を得ているので、当事者の予想しない「訪問者」を送り込んでくると考えられていた。そこで覚醒中の、つまり能動的に思考しているときの脳波を変調し、X線にのせて照射することで、こちらの考えを正しく伝えようとする試みが実行された。

※3 人類は科学技術の進歩に見合った「精神の成熟度」に達しているか、という問題。有名なところでは冷戦時代の「核の危機」。 身近なところでは、ネット一つとっても人はそれをうまく使いこなせていない気がする。

〈参照〉BD「惑星ソラリス」(アイ・ヴィー・シー)

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 「勝利への賛歌」

 前回書いた記事でちょっと触れた「勝利への賛歌」という歌。「死刑台のメロディー」という、1920年にアメリカのマサチューセッツ州で起こった、有名な冤罪事件をモチーフにしたイタリア映画の主題歌であったことはすでに書いた。「サッコ・ヴァンゼッティ事件」。調べてみました?強盗殺人の疑いをかけられた二人のイタリア移民、サッコとヴァンゼッティはアナキスト(無政府主義者)で、第一次世界大戦ではアメリカでの徴兵を拒否している。つまり移民であるだけでなく、当局からは政治思想についても目をつけられていたということだ。

 二人の裁判は確固たる物的証拠も無いまま、当局の筋書きどおりに進んでいく。雇われた目撃者に偽証させた、という話もある。真犯人に繋がる物的証拠を当局が隠蔽した、という話もある。要するに、マイノリティやコミュニストに対する見せしめのための裁判だった、ということらしい。弁護側の主張はことごとく退けられ、市民の大々的な抗議活動も、国際的な世論も状況を変えることはできず、結果、二人は逮捕から7年後に死刑に処せられた。これが1920年から1927年にかけて起こったこと。この時代は「狂騒の20年代」と言われており、アメリカでは自動車やラジオが普及し、ニューヨークなどの大都市では摩天楼の建設が急ピッチで進められた。「富めるアメリカ」。そんななかで起きたサッコ・ヴァンゼッティ事件は,まさにアメリカの暗部と言っていいだろう。

 事件から50年後、1971年にはイタリア映画「死刑台のメロディー」が製作された。そう、イタリア映画。おわかり?そしてこの映画の主題歌が「勝利への賛歌」だったわけだ。

 「勝利への賛歌」はエンニオ・モリコーネが作曲し、当時の反戦フォークシンガー(反戦ったって、ベトナム戦争だけど)、ジョーン・バエズが作詞して歌った。たった4行の、二人を追悼し,たたえる詩。それが印象的なメロディに乗って延々と繰り返される。当時日本でもそこそこヒットし、ラジオ等で流れていたのを僕も覚えている。そして二人の処刑(1927年)から50年を経て、1977年にマサチューセッツ州が当時の裁判の違法性を認め、二人の無実を宣言したという。何ともやりきれない話だ。

 これとは別に、1950年代になると、同じくアメリカで共和党のマッカーシー議員の告発に端を発し、共産主義者であるという疑いだけで多くの有名人や軍人までもが攻撃された。詳しくは触れないが、ほとんど狂気。どんだけ共産主義怖いんだ、と思う。1954年6月に開かれた陸軍に関する公聴会はTV中継され、このなかであまりにも侮蔑的なふるまいをするマッカーシー議員に対して、陸軍側の弁護人が「君、ちょっと話を止めて良いかね?・・・もうたくさんだ。君には品位というものが無いのかね?」と戒める映像が残っている。最近NHKのドキュメンタリー番組で使われていたので、見た人もいるだろう。

 この歳の暮れに、上院で「上院の品位を損ね、批判を生む行動をした」との決議が採択され、マッカーシーは事実上失脚するのだけれど、その後も彼の支持率は50%前後を維持し続けたという。なんか、どっかで聞いたような話だな。

 言うまでもなく、アメリカは民主国家である。だが、やっていることを見ると、スターリンやヒトラーとあまり変わらないところがある。保守派という言葉があるが、その一部はほぼ極右。下手をすると国粋主義やファシズムに近いふるまいをすることもある。民主主義を謳いながら、共産主義を恐れるあまり、結果としてスターリン政権下のソヴィエトみたいなことが起こる。権力を手に入れたらみんな同じ、ということなのだろうか?だとしたら、イデオロギーっていったい何なんだろう。

 今年(2021年)アメリカの新大統領が誕生したが、政権交代の前後にも似たような状況があった。「学ばねえ国だな」と思ったが、すぐ考え直した。もしかしたら、これこそがアメリカなのかもしれない。

〈参考 ウィキペディア「マッカーシズム」「ジョセフ・マッカーシー」〉