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 ネットロアって何? その2

 (前回からの続き)こうしたネットロアは、今では数多く紹介されているが、なかでも傑作と言われているのが、あの有名な「くねくね」だ。帰省した子供たちが田んぼの片隅で怪異を目撃する話なのだが、深入りした一人が「(あれが何か)わからない方がいい」と言い残して廃人のようになり、結果的に何が起こったのかは不明のまま。当然くねくねの正体もわからずじまいだ。だが土地の大人たちは何が起こっているのかを知っているらしい・・・。この話は創作であることがわかっているが、おそらく作者はジョン・マーティン・リーイの書いたホラー短編「アムンゼンの天幕(※)」を読んでいるだろう。コンセプトに類似点が多い。だが、両者を比較すると恐怖の度合いは「くねくね」の方が上だ。何しろ「アムンゼンの天幕」の舞台が南極大陸という遠隔地であるのに対し、「くねくね」の怪異は人間が居住する身近な場所で起こっている。

 もう一つ、興味深いのが「かんかんだら」。禁足地に足を踏み入れ、禁忌を犯したヤンキー少年たちが経験する怪異を描く。こぎれいな住宅に住む現代の若者たちが主人公で、入ってはいけないと教えられてきた森の奥、つまり生活圏の近隣に、フェンスと注連縄で囲われたエリアがあり、そこに侵入した少年たちが見たものは・・・という話。怖いのは、なぜか大人たちが対処法を知っていて、早急に対策を講じる場面だ。今回のような事例が少なからず繰り返されてきたらしいことがうかがえるし、地域の大人たちにとって、それが通常の生活の一部、つまり現実であることがわかる。聞き慣れない用語、正体不明の巫女の存在、さらに怪異の始まりは遙か昔に遡るという事実が明かされるなど、まさに現代に息づく伝承といった印象だ。中編と言っていいボリュームなので、是非とも映画化してもらいたいものだ。

※ 「アムンゼンの天幕(1928)」 ハヤカワ文庫「幻想と怪奇2 ポオ蒐集家」に収録。南極探検隊が探検家アムンゼンのものと思われる天幕(テント)を発見する。中を覗いた隊員がそこにいたものを見て発狂し、まだ見ていない隊員を「絶対に見てはいかん!人間が知ってはいけないこともあるんだ!」と死に物狂いで制止する。

 ところで、ネットロアはよく暴走する。これはダークサイド・ミステリーからの受け売りだが、前記した「くねくね」の場合、「知ってます。これってタンモノ様のことですよね。東北の爺様婆様はみんな知ってます」であるとか、「『あんちょに気をつけろ』と祖父母に言われました。『白いうにょうにょした案山子(かかし)みてえなやつだ』と聞いています」などといった書き込みがあったらしい。だが識者が調べてみてもそのような伝承は皆無だそうだ。これが本当なら、現代のネット文化は、本編を補填する民間伝承そのものをも創作していることになる。まさに「民間伝承を装う」といった体(てい)だ。民族学の祖、柳田国男氏が生きていたら、この現状を見てどんな顔をするだろうか。だが、古来の民間伝承がどのようにして生まれたのかを考えると、あるいは今とあまり変わらない状況だったかもしれない。例えば件の柳田国男氏が紹介した「座敷わらし」なども、おそらく元ネタがあったはずで、長い年月の間に民間伝承として定着したと考えるのが自然だろう。だとすれば、僕たちは今まさに、新たな民間伝承の誕生に立ち会っていると言えるのかもしれない。

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 ネットロアって何?

 例によって今年の夏も大した心霊番組はなかった。仕方がないからネットで怖そうな話を検索する。僕がよく覗くのは「死ぬほど洒落にならない怖い話」だ。「洒落恐(しゃれこわ)」という言い方で通っている。なかでも僕が好むのが地方に纏わる話だ。これがいわゆるネットロア(インターネット・フォークロア、ネット上の民間伝承。都市伝説もこれに含まれる)と言われるもので、その多くはネット上で生み出された創作だ。

 この記事を書くきっかけとなったのは、NHKのマニアックな番組、「ダークサイド・ミステリー」。そのネット怪談を特集した回で、ネットロア発生の過程を説明する大学教授が発した「ネット怪談は民俗学を装いたがる」という言葉だった。

 現代の若者の間でも「地方に纏わる怖い話」は人気が高いらしいが、確かにこうした怪異譚にはいわゆる都市怪談とはひと味違う民俗学的な魅力がある。ロケーションから言っても、田舎といえば、古い大きな旧家には必ずと言って良いほど普段使わない奥座敷や昼なお暗い納戸(なんど=収納スペース)があるし、時間を遡ると風呂場や厠(かわや=トイレ)が母屋とは別棟にあったりする。つまり、日常生活の中に子供が恐怖を覚えそうな場所や状況が当たり前のように存在しているわけだ。さらに地方の共同体には昔からのしきたりや行事・祭りがあり、中には謂(いわ)れが忘れられてしまったような得体の知れないものもある。怪異譚が生まれる条件は十分満たされていると言えるだろう。

 ホラー作家であり、岡山県出身である岩井志麻子氏のある対談(双葉文庫刊「ホラージャパネスク読本」に収録)では、「ナメラスジ」という言葉が頻繁に出てくる。これは岡山県のある地方で言う「『魔』の通り道」のことで、その地方ではごく普通に日常会話の中で使われている。例えば「あの場所はナメラスジにあたるから、コンビニができてもすぐ潰れる」といった具合だ。これは民間伝承イコール日常となっている良い例だろう。こういった例は地方ではよく見られるもので、都会の住人を戸惑わせる一要素となっている。

 参考までに紹介するが、岡山県では1938年に、横溝正史氏の代表作の一つである「八つ墓村」のもとになった「津山三十人殺し」と言われる大量殺人事件があって、その犯人である都井睦雄(事件直後に自殺)の家はナメラスジにあたっていた、という話がある。映画化された「八つ墓村」の冒頭、鬼のような形相の男が懐中電灯を角のようにはやし、日本刀と猟銃で武装して疾走するシーンがあるが、あれは誇張でも演出でもなくて、都井睦雄は現実にあのような格好で集落内を疾走し、2時間ほどの間に30人を殺害した。まさにナメラスジを走り抜ける「魔」。現場は山間の集落で、夜這いの風習が残っていたという。当時は今以上に地方と都市部との文化的な差異が大きかったに違いない。だが男尊女卑の風習が廃れた現代においても、女人禁制のしきたりを固持している聖域が、地方には今だに存在している。現代文明の影響力が及ばない、こうした「場所」の持つ都会人の理解を超えた異世界感も、「民俗学を装うネットロア」の魅力の一つと言えるだろう。(つづく)

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 コロナ・・・かな?

 次女が8月の25日に熱を出した。頭痛に加え、身体の節々も痛いという。発熱外来で検査の結果、「疑いようもなくコロナですね」と言われて帰ってきた。「若いからこれでしのげると思うよ」というわけで、処方されたのは解熱・鎮痛剤のみ。へえ。今はこんなふうなんだ。だがちょっと待て。僕たちはその直前に家族旅行をしている。その際に、「そのケーキ、ちょっと味見させてよ」なんていうことが何度かあったし、何しろ往復の行程では当然1台の車の中で3人が長時間過ごしている。これはヤバい。

 次女は薬のおかげか3日ほどで熱も引き、その後5日間の自宅療養。すると案の定、ちょうど娘の療養期間が終わるその頃にカミさんが発熱し、夏風邪のような症状を発症。家にあった市販薬「イヴ・クイック」で対応。その3日後に僕が発熱。一計を講じ、娘の飲み残した処方薬を使ってみた(よい子の皆さんは真似しないようにね)。その結果、カミさんも僕も2~3日で熱が下がった。結局病院には行かなかった。かなり乱暴な対処に思えるだろうが、コロナと診断された娘が解熱・鎮痛剤しか処方されなかったわけだから、とりあえずこれで様子を見よう、という判断だった。勿論、万が一の急変には即応できるようにしていたけどね。

 結果的に大事には至らず、僕たちは娘がもらってきたマニュアル通りに、熱が下がったあと5日間自宅に籠もってすべて終了。僕に関して言えば、発熱以外の症状はほとんど無かった。ただ、旅行から帰ってすぐにカミさん共々おなかを壊したのは、もしかしたらコロナの初期症状だったのかもしれない。

 結局病院にも行かず、検査もせずに済んでしまったので、あれがなんだったのかは正式にはわからずじまい。もしかしたらインフルエンザだったかもしれないし、ヘルパンギーナだったかもしれない。でも、状況からすればやっぱりコロナだったんだろうなあ。だとすると、症状的にはかなりの軽症。運が良かった。ネットで見る限り、いまだに重症だったり、薬を飲んでも1週間以上酷い頭痛が続き、その間熱も下がらなかった、なんていう例も多いようだから。

 面白いことに、事後にこの話をすると、コロナに罹った事のない人のなかには「ただの夏風邪だったんじゃない?」なんて言う人もいる。ところが、すでにコロナに罹ったことのある人は口をそろえて「それは絶対コロナだよ」と言う。まるで仲間を増やそうとしているかのようだ。何だろう、この摩訶不思議な同調圧力は。

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 「異常」も慣れれば「普通」になる?

 もう何回も触れてきたことだけど、このところ昭和生まれの僕には異常としか思えない事件が増えている。まず第一に殺人が多い。しかも動機は「そんなことで・・・?」と首をかしげたくなるようなものだ。虐待で子供を死なせるのも、昭和の常識からすれば異常としか思えない。以前に比べて万引きも増えたような気がする。しかも盗んだ側がそれをとがめられて逆ギレし、暴行に及ぶような事件もある。これも僕から見たら明らかに異常。

 別れた相手とよりを戻すために暴力に訴える事件も増えた。これについては、命に関わる例も多い。それを愛情と思っているのかどうかは知らないが、もしそうだとしても歪んでいる。強制された愛情なんて存在するわけがない。それがわからないのは、やはり異常だろう。

 気のせいかもしれないが、原因がなんだかよくわからない交通事故も増えたように思う。ひき逃げも以前に比べて多い。ついでに言うならあおり運転が増えたことも異常。ドライブレコーダーが普及し、厳罰化されたことも知っているはずなのに。

 最近ネットでよく見かける理不尽な批判も尋常じゃない。自分が一番正しいと思い込んでいるとしか思えない。迎合しないものは徹底的に攻撃する。明らかに社会性が欠落している。要するに、他者を批判することで自己を正当化しているつもりなのだろうが、実は異常なのは書き込んだ側であることを証明してしまっているパターンだ。この傾向は、弱者に詰め寄るクレイマーや、やたらとマウントを取りたがるママ友ボス、職場のパワハラ上司にも見られる。さらに新手の事例として最近注目されている迷惑系Youtuberや、飲食店の迷惑行為など、あれだけ騒がれてもまだやるか、という感じ。なぜこれほどまでに自己肯定感が失われてしまったのか。社会のゆがみが原因と言ってしまえばそれまでだが、何はともあれ、どう考えても異常。だって、僕やあなたのような普通の人は、やれと言われてもできないでしょう。そこの線引きははっきりさせておかないとね。

 こうした傾向を持つ人は、勿論昭和の時代にも存在した。だが、その数は限定的だ。今では、こうした事例は掃いて捨てるほどある。そこで問題になるのが、実際に増えているのか、それともネットの普及のせいで目につくことが多くなっただけなのか、ということだ。前者だとすれば勿論大問題だが、後者でも別の問題を生む可能性がある。「一般化」というやつだ。「慣れ」と言ってもいい。

 TVしかなかった時代には、こうした問題は「事件」として取り上げられるだけだったが、今はネットがあるから、警察沙汰にならなくても、一般人が投稿する「事例」として数多く目に入る。こうなると、見る側が気付かないうちに、意識の中で一般化して(慣れて)しまう恐れがある。「世の中はそんなもの」「それが普通」という意識が知らず知らずのうちに芽生え、何気なく黙認してしまう懸念がある、ということだ。付け加えて言うと、ここ十数年に生まれた世代にとっては、そんな現状が「標準」になる。何しろ彼らは比較できる時代を知らない。昭和を知る世代は、それと比較して現代がいかに異常かに気付くことができるが、彼らにはそれができない。これって怖くないですか?

 こうした一般化(あるいは慣れ)の問題は、一つ一つの事例よりも危険だ。気付かないうちに進行することだからね。その上、こうした事例はネット上で規制される類いのものではないから、見る側が何が異常で、何が異常で無いかをしっかり判断するしかない。ということになると、前提として判断する側が何らかの基準を持っていることが必要だ。一般的には、その基準を構築する機会を与えるのが「教育」ということになるのだろうが、果たして現代の教育現場にその余裕があるだろうか。最近の事件や事例を見ていると、不安を禁じ得ない。何しろ学校は、今や名うてのブラック企業だからねえ。考えれば考えるほど、なんとも面倒くさい時代になったものだ。

 人間は社会的な動物だ。「社会性」という言葉を調べると、必ずと言って良いほど「他者との関係性を重視し、円滑に維持しようとする性質、またその能力」といった類いのセンテンスが出てくる。しかもそれは、「人間の持つ特性」だという。だがいつの時代にもそれができない人が一定数存在した。そういう人を昔は「人でなし」と言った。なるほど、実に上手い表現だ。つーか、まんまだな。

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 異常な夏

 今年の夏、違和感を感じることが多々あった。なかでも、僕の住んでいる地域で、7月の末からミンミンゼミとツクツクボウシに加え、秋の虫までが鳴き出したのには驚いた。昨年も確かにそんな傾向があったが、今年のそれは尋常じゃない。しかも2年連続。3~4年前までは、7月末にミンミンゼミやアブラゼミが鳴き始め、ツクツクボウシが8月の後半に鳴き始めるのを追いかけるように、秋の虫が鳴き始めるのが普通だった。それを考えると、ここ数年の「前倒し」現象はなんとも不吉な感じがする。

 実は今年、例の「夏の遊び」をまたやってみた。これは早朝に庭を巡って蝉の抜け殻を探す遊びで、去年だかおととしには400個超の抜け殻を見つけた。あれはすごかった。今年はおよそその半分、しかも盆前にはほとんど見つからなくなった。これだと8月の末には蝉の声が聞けなくなりそうだな、なんて思っていたら、案の定、ツクツクボウシも含め、8月の27日にはほとんど聞こえなくなってしまった。夏の気候はまだまだ続いているというのに、妙に静まりかえる夏の雑木林は、前記したとおり、なんとも不吉な雰囲気があった。まるで海外のホラー映画を見ているようだ。例年だと9月に入ってからも「まだ鳴いてるよ」というのが普通なのに。一体、何が起こっているのだろうか。

 以前、「そのうち日本の季節は夏と冬だけになってしまうんじゃないか」と書いたことがあるが、今年、誰かが「これでは四季じゃなくて二季だ」と書いているのを見つけて、みんな同じようなことを感じているんだな、と思った。それほど、最近の日本の四季の変化は大雑把なのだ。子供の頃、さらに言うなら教員をしていた頃も、ツクツクボウシが鳴き始めると「ああ、夏休みが終わってしまう」なんて寂しく感じたものだが、このままだと、そういった微妙な季節感の変化はもうなくなってしまうのではなかろうか。蝉の鳴く時期のような小さな変化でも、それが続くようであれば、俳諧の世界でさえ季語が再編されるようなことが起こるかもしれない。

 それにしても、何十年も慣れ親しんできた季節感というものが、こんなにも大切なものだったとは!無意識のうちに享受していたんだなあ。願わくばこの状況が、ここ数年に限った特別な状況でありますようにと祈るばかりだ。