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 町のブラックジャック

 数年前の夏、僕はブラック・ジャックに出会った。といっても、べつに黒いマントは着ていなかったし、顔の半分の色が違ってもいなかった。メスを忍ばせていたりもしなかったな。そもそも道具らしい道具は使わなかった。

  その時僕は、ケガをしたなじみの(?)野良ネコを何とかしてやろうと、動物病院に連れて行った。そしてその治療中、慣れない環境におびえたそのネコが、僕の左薬指を本気で噛んだのだ。かなりざっくりいったので血がしばらく止まらなかった。ぼくの見立てでは3~4針縫うキズだった。獣医さんでキズ絆をもらったが、止血するのに5枚ぐらいは使っただろうか。獣医師は法律上人間の治療はできないので、ネコをうちに連れ帰ったその足で、僕は緊急夜間の外科医を訪ねた。受付で「どうされましたか」と聞くので、僕は事の一部始終を説明した。そして最後に、 「何針か縫う様だと思います。」              と付け加えた。

 しばらくして名前を呼ばれ、診察室に入ると、ちょっとロン毛の白髪の老医師がいた。ケガをした顛末を聞いた後、彼は僕に尋ねた。                         「消毒はしてあるんだね?」               「いえ。ですがあれだけ出血すれば問題ないと思います。」 「ふむ。」                        彼はヨードか何かの液体で傷口をあらためて消毒し、    「ちょっと痛いかもしれんよ?」              と言って、いきなり傷口を左右からつまみ、締め上げた。              「!」                         びっくりしたが、特に痛みは感じなかった。そのまま1分足らずじっとしていた。すると医師がいきなり、         「ほら!テープ巻いて!もたもたしてんじゃない!テープ!」 これは医師から看護士への指示だ。老医師にあるまじき迫力。まるで罵倒しているようだ。               「は、はい!」                      看護士は慌てて傷口をそれ専用らしいテープで巻き、これまた締め上げた。医師が、こんどは僕にむかって、        「痛くないかな?あまりきついと血が止まっちまうからね。」                          「大丈夫なようです。」                 「よし。明日また来て。キズを確認して消毒するから。」 「は、はい。」                    えっ?終わり?つまんでテープを巻いただけなんだけど。でもまあ、縫うよりは時間はかからないな。抜糸の手間もないし。いやいや、そういう問題か?その後、看護士さんに       「結婚指輪はしばらく外しておいてください。もし化膿して腫れ上がると、外れなくなって指が壊死したり、指輪を切り取ることになったりするんで。」                  などと恐ろしいことを言われ、テーピングの上から包帯を巻いてもらって(やっと治療してもらった気分になった)会計をして帰った。

   昔教師をしていた経験上、どう見ても3針以上は縫うだろうと思っていた。(綺麗に治そうとするならもっとかな。)それがつまんで1分、テープを巻いて終わり。翌日も腫れはなく、包帯がキズ絆に変わった。格下げかーい!結局2週間ほどで、わかりにくい傷跡だけを残して治ってしまった。今ではその傷跡も、言わなきゃわからない程度である。近代医学とは何かが問われる出来事であった・・・?

傷跡がわかるように撮影。薬指の先にうっすらと溝が・・・。

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 ベスト・ムービー

 今まで見たなかでベストの映画は?と聞かれたら、迷わず「我が谷は緑なりき」と答える。古い映画で、モノクロ作品である。監督は今は亡きジョン・フォード。出演者で名前がすぐ出てくるのはウォルター・ピジョンとモーリン・オハラぐらいか。といっても、今の若い人には全くわからないだろうなあ。子役としてはのちによく見かけるようになるロディ・マクドウォール。大人になった彼が、73年の有名なホラー映画「ヘルハウス」の主人公の一人をやっていてびっくりしたことがある。

  ジョン・フォードといえば「男を描く西部劇」というイメージだが、この映画は、イギリスはウェールズの炭鉱の村が舞台。そこに住む一家族を中心にストーリーが展開する。そして「男」というよりは「父親」が主役か。母親は名脇役といったところ。言ってしまえば「そのへんの普通の人々」なのだ。 炭鉱で栄えていた頃のふるさとの記憶と、しだいに変わっていく人の心が錯綜し、それを末息子の目を通して語っている。家族の離散や母親の病気、父の死等、翻弄されながらも力強く生きていく姿が何とも美しい。ちなみに題名の「我が谷は緑なりき」とは、「今では人の心も、あのぼた山(捨てられた石炭がらの山)に黒く覆われたふるさとのようになってしまったが、あの頃はまだ、緑に覆われた美しい谷だったんだよ」という意味。

 いつも思うのだが、ジョン・フォードの映画は、モノクロなのに記憶のなかでは総天然色、ということがままあって、この映画でも森の緑や谷に咲く水仙の黄色がすごく印象的。ジョン・フォードには「荒野の決闘」という西部劇の大傑作があるが、ラストのいよいよ決闘の日の朝まだき、指定された場所に向かうワイアット・アープ(演じているのはヘンリー・フォンダ)をあおりで撮った、その背景の空の青さったら(いや、モノクロなんだけど)・・・! 忘れられないシーンのひとつですね。

  さて、話は戻って、じゃあこの映画の何がそんなに良いのか。それは・・・よくわからない。だがそれが良い。あのシーンが良かったとか、このセリフが良かったとか、それはいくらでもあげられるのだが、この映画の魅力はそういったこまごました美点を超越したところにあるような気がする。見終わった後に残る余韻とか、登場人物への共感とか、たとえると「一緒にあの村で成長したような感じ」とか。

   ある時、僕より10歳は若いアメリカ人(これがまたすごい人で、出身がハイチ、ばあちゃんはブードゥーのまじない師だったとか言っていた。彼も映画が大好きなので、よく二人で盛り上がっていた)に、思うところあってこの映画を見せてみたところ、数日してディスクが帰ってきた。そして「すごい!こんな映画があったなんて知らなかった!間違いなく僕にとってベストワンだと思う!」てなことを英語でまくし立てていた。やっぱり映画好きにはわかるのか。それまでの彼との話題はB級SFやホラー映画ばかりだったから、ちょっと嬉しかった。そういえばこれを見た日本人の知り合いも「見る前と後では世界が違って見える感じ」と、考えようによっては、ちょっと怖くなるようなことを言っていたっけ。

   僕は90年代以降の映画には物足りなさを感じている。こうした映画がなかなか現れてこないのだ。何かこう、物足りないというか、作り物くさいというか。そんな話を長女と話していて気がついた。そうか!文学だ!

 昔の映画には文学とイコールで繋げることのできる作品がたくさんあったのだ。実際、ベスト・ムービー文学の映画化なんてざらだった。もちろんそのその全てが成功したわけではないけれど。そういう観点で見ると、今の映画はいわゆる三文小説どまり、下手をするとパルプ小説やコミックスレベルのものまである。だから、スタインベックの「怒りの葡萄」なんかをジョン・フォードが映画化したりすると、ぜんぜん格の違う名作ができあがるのは当然と言えば当然だろう。勿論人間ドラマもしっかり描かれているので、例えば「我が谷は緑なりき」の主人公たちは十分人生のお手本になり得る。だが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパローは、当然人生のお手本にはならないのである。おわかり?

 日常の延長上にあって、実際に起こりうる出来事。これが大事だ。変にいじくり回して「いやー、無い無い」と思うようなことを「あったら面白い」という観点で描くと、あり得ないけど映画としては面白い作品が出来る。そう、面白いのである。これはこれで良い。僕も娯楽映画は大好きである。だが、所詮はそれだけのことだ。たまには文学的な作品が見たい。いや、見なければいけない気がする。人の心に一生残り続け、時にその人生を左右するほどの影響力を持った映画。だがちょっと待てよ。ここまで書いて気付いた。「文学的な映画」は今でも時折見受けられるが、「映画になる文学」を書く人がそもそももういないのではないか?

 今まではスタインベックやヘミングウエイやトルストイといった文豪の作品が映画化されている。じゃ、今はどうなんだろう? なんだかあやしくなってきたぞ。この続きはまた今度。

       「我が谷は緑なりき」
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  小さな楽しみ

 車での通勤である。遠回りしている。片側2車線の幹線道路があって、距離も幾分近いのだが、どうも風景がつまらない。そこで、水田のなかを通る農道や、用水路沿いの道などを選んで通勤する。すると、季節の移り変わりがとてもよくわかる。あ、山桜が咲いた、とか、稲穂が黄色く色づいたな、とか、ススキが穂を出したな、とか。あぜ道の花などにも気付く。これが楽しい。都市部では絶対に味わえないものだ。

 ちなみに家の庭は結構広いが庭園にはほど遠く、まるで雑木林だ。どこからか飛んできた種が芽を吹き、名も知らぬ花が咲くこともある。これも楽しい。虫なんか、探しに行かなくても、むこうからやってくる。散歩も趣味の一つだが、こういった楽しさを拾い集めながら歩く感じだ。車で走っていては気づけないものも、歩くスピードなら気づくことができる。娘とドングリを拾ったり、土筆(つくし)を摘んだりすることもある。さすがにドングリは食べないが、土筆は毎年天ぷらにして食べる。雑草である「アカザ」もおひたしにして食べたことがある。これがまた美味。京の有名店、摘み草料理「なかひがし」の一品をまねたものだ。こうした小さな楽しさの積み重ねが大きな幸福感に繋がっていく気がする。 だが逆の例もある。いつも見慣れていたものが消えていくのだ。例えば、最近近所の林が一部刈り払われ、カラスウリを見ることがなくなった。緑のなかに映える鮮やかな橙(だいだい)色、それが今は見られない。気がつけば近所の墓地のそばにあった大きなケヤキもいつの間にか見えなくなった。大きな木を見ると、時に宗教的な安心感を覚えることがある。おそらく僕だけではないはずだ。特に日本人は昔から大木を神様の依り代として信仰の対象にしてきた。それが今では何のためらいもなく(いや、ためらいはあったかもしれないが)切り倒される。

 あのケヤキの木があったところは整地され、今では立派な一軒家が建っている。人の土地のことだから何も言えないが、ちょっと残念な気がする。