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 見かけ 

 人を見かけで判断してはいけない、という。でもこれって、絶対的な真理なのだろうか。

 ふた昔ぐらい前・・・いや、もう少し前かな、イギリスでは「袖ボタンが飾りボタンのスーツを着ているような人物は、ビジネスパートナーとして信用できない」という言い方があったらしい。本来スーツの袖はボタンで開閉できるように作られていた。今ではそんなスーツを着ている人はほとんどいない。

 ひと昔前まで、アメリカのビジネス界では「肥満体型の人物は己の体調や健康状態をコントロールできないタイプだから、信用してはいけない」と言われていた。ホントだって。今だったらあっという間に○○ハラスメントなどと叫弾されてしまいそうな事例だが、こういった考え方は今も水面下で脈々と続いているかも知れない。

 身だしなみ、という言葉がある。相手に不快な思いをさせないように外見をきちんと整えること、と考えればいいだろう。一説によれば、そこには言動までもが含まれるそうだ。社会的な場面でこれを実践してきた人は、プライベートな服装でも何となく清潔感が漂っていることが多い。

 若い人がオー・デ・コロンの使い方で失敗することがある。体臭が不快、なんていうのはもってのほかだが、コロンの香りが強すぎるのも、これはこれでやはり不快。そもそも肉食の西洋人がその体臭をごまかすためのものだから、ほとんど無臭の魚食系日本人には強すぎるのだろう。さらに匂いは慣れると感じなくなるものだから、香りがしないと不安になって大量につけてしまうことがあるらしい。この強すぎる香りが、他人に不快な思いをさせる。何しろ洗濯の仕上げ剤の香りが強すぎて(実際にかなり強いものがある)不快、という国民性だから無理もない。

 もう一つ、誤解を恐れずに言うならば、表情自体が判断材料になることもある。くれぐれも顔の造作ではなく、表情、ですからね。皆さんも経験があると思うが、どんなに美人でも、イケメンでも、表情によってはそう見えないことがある。容姿に自信があって、人気があると思い込んでいるような自惚れタイプに多い。上から目線の仏頂面や軽薄すぎる笑顔など、その症状(?)も多岐にわたる。反対に、ごく平凡な顔立ちであっても、笑顔がとってもチャーミングな人もいる。謙虚で、多くを望まず、それが故に己の人生にそこそこ満足している人に多い。こういう人が、いつも笑顔でいられるような人生を送ったら最強だろう。特に歳をとってからは向かうところ敵無し。要するに造作よりも表情の方が重要だということだ。だが、この問題を一概に語るのは難しい。何しろ表情にはその人の人となりや、これまでの人生経験までもが反映するからだ。さすがにこれは、一朝一夕では変わらない。多分変わるには他人の一声が重要な役割を果たすんだろうなあ。この意味、わかります?

 要するに「人を見かけで判断してはいけない」という場合の見かけと、「身だしなみを整える」という場合の見かけは概念としては違うものだと考えた方がいい、ということだ。人は見かけじゃないからといって、無頓着であってはいけないし、身だしなみを整えるからといって、場にそぐわない過剰なお洒落も宜しくない。どちらも見る人を不快にする可能性が高い。総括して言うならば、やはり見かけは大事な判断材料になり得る、ということだろう。

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 たまに聞くラジオも良いもんだ 思いがけない発見がある

 先日、カミさんと二人で買い物に出た。最近、車でよくFM放送を聞く。その日も「Jウェーブ」を聞きながら車を走らせていたのだが、曲の合間に突然、男女の語らいが始まった。「先生、笑ってるのを見られるのって、恥ずかしくないですか?」「面白いことを言いますね・・・思春期ですか」「先生、私もう28です」ここまで読んでわかった人、いるでしょう。そうです。これはCMだったんです。一瞬だけ、商品を匂わせる唐突かつ不自然なセリフ(※1)があるので、それとわかります。

 その後も会話は続く。「先生、マスク後の世界はどうなるのでしょう」「28歳ですか・・・いいなあ・・・マスク、取ってみませんか?」「・・・良い匂い・・・先生、私本当は29なんです、ふふふふ・・・」「知ってます はははは・・・」これが何と、キンチョーの蚊取り線香のCM。何を今更、という人もいるだろうが、ラジオを聞く習慣がなかったものだから、今までその存在すら知らなかった。

 ネットで調べてみたら、このCMは「マスクを外して」というシリーズ。他にもいろいろなパターンがあって、しかも何年も前から続いているらしい。それをまとめた動画(勿論画面は静止画)もあって、キンチョーのCMはその筋では有名なのだそうだ。以前「よくできたいにしえのTVCMは一種の名画(映画)であった」などと書いたことのある僕だが、ラジオCMの世界は盲点だった。こんなにも楽しい世界があったとは。

 こうしてみると、ラジオCMにはラジオCMならではの味がある。たとえば「思春期ですね」「私もう28です」というやりとりの面白さは、登場人物の容姿が視覚的に確認できないから成立するものだ。これがTVだったら、冒頭から視覚的な多くの情報を認識できてしまう。仮に「思春期の女の子に見えなくもない28歳の女性」を具現化したとしても、セリフの前に視覚情報が提供されているわけだから、セリフのインパクトは弱くなる。女子生徒と教師の会話かと思いきや、実は(多分)相談者とカウンセラー(※2)でした、というどんでん返しについても、ビジュアルはものすごい情報量を持っているから、意図的かつ部分的にそれを操作しようとすれば、要らぬ演出ばかりが増えてしまうだろう。やはりこの筋書きは、視覚情報が無いために、聞く側が勝手に想像を膨らませてくれるラジオの世界でなければ実現できないものだと思う。そんなわけで今回、ラジオCMの奥深さをあらためて認識したのであった。

※1 このまったりとした会話のなかで唐突に「蚊取り線香をつけましょう、蚊がいる」という「先生」のセリフがある。女性の「良い匂い」というセリフは、蚊取り線香の香りのことだ。

※2 僕はカウンセリングの講習を受けたことがあるのだが、この「先生」の受け答えは典型的なカウンセラーのそれに近い。カウンセラーは通常、自分の意見や相手に対する指示は口にせず、聞き手に徹する。この会話にはもう一つ、カウンセリングの手法が使われているが、説明が面倒なので割愛する。とにかく、このCMが、おそらくはカウンセリングのパロディであろう事が、わかる人にはわかるのだ。そう考えれば、この会話のもつ不思議な違和感もそれなりに納得がいく。

付記 キンチョーのCMにはきわどすぎて大炎上したものもある。下ネタぎりぎりのTVCMなのだが、このCMの場合、逆に視覚情報があるから安心できる。何について話しているのかが画面からの情報で理解できるからだ。仮に音声だけを聞くと、もう大変。ネットに動画があるので、商品名だけお伝えしておく。「キンチョー太巻」。後は自分で調べてください。

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 ワン。ワンワン。

 以前「ピーピー。」について書いた。今回は「ワン、ワンワン。」これは何かというと、僕のスマホの着信音だ。どんなときにも人があまり違和感を感じないようにと、(僕としては)考えに考えて設定した。音量も遠くで犬が吠えている、といった体(てい)のレベルにしてある。おかげさまで多くの場合、僕のもくろみは当たったと言っていい。着信しても誰も気付かない。だが、ある特定のシチュエーションでは逆効果になる場合もある。

 以前からお伝えしているとおり、うちでは五匹の猫を飼っている。そのうちの3匹が10歳を超えていて、持病をもっているものもいるので、動物病院に行くことが多い。そのタイミングで誰かが僕に電話をかけてくると、待合室で「ワン、ワンワン」という着信音が鳴る。猫をつれている飼い主の近傍で犬の鳴き声がするわけだ。いくら音量が絶妙とは言っても、そりゃあ、みんなこっち見るわなあ。仕方がないから駐車場の車で待つ。すると今度は動物病院の近所で飼われている犬が吠える。これがまたよく吠える。しかも吠え声や吠え方が着信音にそっくりなのだ。さらに夕方の診療時間は、娘が仕事の帰りに、買い出しの内容を確認するために電話してくる時間に当たっている(※)。さらにさらに僕は、これも前からお伝えしているとおり、メールやラインが大嫌い、ときている。というわけで、動物病院ではしょっちゅう、周囲の人々を翻弄したり、自分が翻弄されたりしている。そして困ったことに、こういったシチュエーションを、僕はわりと楽しんでいる。

※ うちでは夕食は僕の担当なので、どんな食材を使うかは僕が決める。

付記 そういえば昔、僕の知り合いで同じようなことをやっている人がいた。まだスマホが一般化する前のことだ。彼の携帯の着信音は「ホー ホケキョ」。なかなかにリアルで、僕はまんまと騙されたことがある。今思えば、特に初夏から夏にかけては、彼も今の僕と同じように混乱することがあったに違いない。面白いヤツだったが、今はどこでどうしているのやら。

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 今日の空

 梅雨の合間に、久しぶりに青空が顔を出したので、育てていた朝顔とひまわりの苗の植え付けをした。

 朝顔については、一昨年まいた種が綺麗なライトブルーの花をつけ、10月頃まで咲き誇っていたのを見て種を取っておいたのだが、去年は何の加減か失敗。今年は新しい種を買ってきて再挑戦している。ひまわりは「夏といったらこれでしょう」という子どもっぽい発想で、3年ぶりに苗を育てた。ただ、発芽してすぐ日照が少ない時期があって、苗がひょろひょろなのが気がかりだ。

 昼前に作業を終えてふと顔を上げると、そこには理想的な夏空が拡がっていた。気温が上がるにつれて、先ほどはなかった見事な積雲が育っている。しばらくはただ眺めていたのだが、そうしているうちにある事を思い出した。

 このブログのタイトルは「あの時と同じ空」。我ながら青くさいと思う。しかし一方では、これほど的確な表現はないとも思っている。ここで言う「あの時」とは、僕が思春期を過ごした時代のことだ。

 人は成長するにつれ、良いことも悪いことも身についていく。いわゆる「世間の垢にまみれる」というやつだ。そうして人は変わっていく。文明が自然を駆逐していく話もよく聞く。以前書いた、墓地の横にあったケヤキの大木や、NHKのドキュメンタリーで見た、送電線を通すために丸裸にされた山林などはその良い例だ。最近では神宮外苑の木々までもが伐採の対象になっているという。こうしたことは、実はたくさんの人々の思い出をも破壊しているのだということに気付いているのだろうか。いったい人は、どこまでやれば気が済むのだろう。

 世の中が変化していくのは仕方の無いことだ。人間の成長だって同じだ。無垢な子どもも、いつかは薄汚れた大人になっていく。人の心が時代とともに移ろうことも、歴史が証明している。だが、そんななかでも変わらないもの、変わってはいけないものがあると思う。あの頃と変わらない空がそのことを僕に思い出させてくれる。

 先ほど僕が「理想的な夏空」と表現した空、それは僕がまだ若かった頃に見た空を思い出させてくれるような空のことだ。友人と見上げた空や一人自転車を走らせながら見た空、幼い頃、実家の八畳間で兄とプラモデルを作りながら、ふと窓越しに見上げた空。どれもほんの一瞬の記憶なのだが、いまだに鮮明に覚えている。空が変わらずにいてくれるおかげで、僕は今も、そしていつでも、そこに帰って行くことができる。

 あの頃何を見、何を感じ、何を思ったかを、記憶の中で追体験することは誰にでも可能だ。そのことが世間の垢を洗い流し、生きていく上で大きな力となることもある。昔あるCMで聞いたセリフのように、「時は流れない それは積み重なる」と思う。流れると考え、失ったと思っていたものは、今も僕の中にある。普段は忘れているだけだ。ただ思い出すだけで良い。きっかけさえあれば、あなたにもそれができる。

 あの時と同じ空。そうだ、僕は今も、青くさい自分を心のどこかに持ち続けている。しかも自分が思っているよりも遥かに近い場所に。今度買い物に出たら、もう少し夏の花の種を買ってこよう。花の手入れのために外に出る機会が増えれば、また今日のような空に出会えるかも知れない。

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 走馬灯じゃないんだから。

 別に死にかけたとか、そういった類いの話ではない。先週、夏の庭に何か咲かせようと、久しぶりに近くの「花木センター」に行ってきた。25年ほど前に家を建てたとき、庭に植えた木々はほとんどここで購入した。その時お世話になったHさんは、あれ以来20数年会っていなかった。

 花木センターには、最近でもたまに草花の種や球根を買いに行ったりするのだが、庭木のコーナーに足を伸ばしてもHさんを見かけることはなかった。もしかしたらもうここにはいないのかも知れないな、などと思いながら育苗のためのポットなどを買い込み、今回もダメ元で庭木のコーナーに行ってみたが、やはりそれらしい人影は見当たらない。買ったものを車に積み込んで、最後にもう一回りだけ、と庭木のコーナーにとって返した。すると先ほどは気付かなかったある看板が目に入った。あれ、この店の名前、Hさんと同じだ。以前はHさん、どこぞのお店の店員だったよな。でもあれからすでに20数年。もしかして・・・?

 この庭木のコーナーには複数の業者が出店していて、当時Hさんはそのなかの一店で働いていた。今日、気がついてみると、今ある店舗の一つがHさんの名字と同じ店名になっている。あの頃にはなかった店だ。ものは試しと思い、そのコーナーに入っていくと、奥の方で年老いた店員さんが木々の手入れをしていた。声をかけられても面倒だと思い、距離を取りながらハウスの中を覗いたが、他には誰もいないようだ。その時、その店員さんがこちらを振り向いた。屋外なので、彼はマスクをつけていなかった。何と、それはHさんその人だった。年老いて見えたのは白髪の混じり始めた頭髪と、彼独特の猫背のせいだったのだ。「Hさん・・・ですよね?」「はい・・・?」おっと、マスクをつけたままだった。マスクを外して名を告げると、彼もすぐに思い出してくれた。「いやあ、懐かしいなあ。あれから何年になります?」「多分20年以上ですね。」「ちっとも変わらないじゃないですか。」「いやいや、そんなことは。Hさん、独立したんですね。」「まあ、いろいろありまして・・・。」そんな会話から始まって、かれこれ1時間近く立ち話をしただろうか。話の内容は省くが、最後に僕は「いるとわかったから、またちょくちょく遊びに来ますよ。」と告げてその場をあとにした。

 その日の午後、かねて懸案となっていた電話を1本かけた。下の娘が京都に一人旅をしたい、というので、僕が以前懇意にしていた旅行代理店のプランナー、Tさんを紹介すると約束していたのだ。こちらは多分10年ぶりぐらいか。僕が持っている名刺の携帯番号は営業用なので、今も当人に繋がるかどうかはわからない、という不安があったが、とりあえずかけてみた。出ない。だが10分と待たずに折り返しの着信があった。Tさんだった。「先生、お久しぶりです。」そうか、あの頃僕はまだ教員をしていたんだった。「ご無沙汰です。元気?」「おかげさまで。先生もお変わりなく?」「うん。教員は辞めたけどね。」「そうなんだ。先生と修学旅行に行ったの、懐かしいですね。」ああ、そんなこともあったなあ。彼女が添乗員を務めてくれたんだっけ。彼女の中では、僕はまだ先生なんだな。それにしても相変わらずの姉御肌というか、女性にしては珍しいしゃきしゃきしたしゃべり方が懐かしい。

 ひとしきり思い出話に花が咲いた後、僕は娘の立てた旅行計画の概要を説明し、「娘の勤務予定が確定したらまた連絡するよ。」と伝えた。「わかりました。連絡、お待ちしています。」

 今日1日で、10年以上連絡を取っていなかった二人の人物と、久しぶりに話すことができた。人の関わりとは不思議なもので、こうして話してみれば、過ぎた時間など存在しなかったかのようだ。おかげであの頃の記憶が幾つも思い出されてきた。今日は良い日になったなあ。

 意味合いは少し違うが、僕が「走馬灯」という言葉を使ったわけは、つまりそういうことだったのですよ。