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 夏といえば…貞子再び

 古い話で恐縮だが、1998年に公開され、日本の幽霊のイメージをあっという間に塗り換えたホラー映画、「リング」。ビデオ映像として現れ、さらにTV画面を通り抜けて現実世界に出現するという、提灯お岩も真っ青の貞子の登場は、文字通り一世を風靡した。これ以降、インチキ心霊動画に登場する霊は洋の東西を問わず、ほとんどすべてが白いワンピースに長い黒髪という姿に統一されたといってもいいぐらいだ。そんな貞子だが、僕にはいまだに答えが出ない疑問がある。

 映画「リング」の終盤で、貞子がTV画面を抜けて出現するシーンがあるが、その時使われたTVの画面サイズは26インチぐらいだろうか。貞子はもともとビデオ映像の中の存在なので、そのサイズは画面の大きさに比例して大きくなったり小さくなったりするはずだ。そこで問題。もし仮に、身近にワンセグ携帯しかなかった場合、出現する貞子のサイズはどうなるのだろうか。あるいは逆に街頭のパブリックビューを通して出現したら?

 もう一つ、映画で貞子が出現したTV画面はどう見てもスタンダードサイズだ。それがもしビスタサイズやワイド画面に対応したTVから出現すれば、横幅が強調されるだろう。その場合、少し太めの貞子が現れるのだろうか。

 原作によれば貞子は半陰陽(睾丸性女性化症候群?)ながら「見たこともないような美人」で、19歳でこの世を去っているようだから、横幅の強調された太めの姿で出現することを嫌うかもしれない。もしこの憶測が当たっているとすれば、貞子から身を守る一つの方策が得られるのではなかろうか。つまりTVの画面選択を「ワイド」に設定しておけばいい。口裂け女の「ポマード」と3回唱える撃退法よりはるかに現実的だろう。ちなみにレターボックスサイズは無効です(我ながらしょーもないことを論じている気がしてきたぞ)。

 こうした視聴者の心配(?)をよそに、映画を見る限りでは、貞子は今のところ常にリアルサイズで出現しているようだ。現実の世界ではネット環境が整い、TVよりもパソコンやスマホで動画を見る世代が増えてきたこともあって、後発の貞子関連のホラー映画、特に海外版では呪いのビデオ(というか動画)がパソコン等に保存されたり、ネットを通して拡散したりしている。もし貞子がリアルサイズで現れるとしたら、一般のパソコン画面やスマホから出現するのはサイズ的に不可能だろうが、そのあたりは出現シーンを割愛したり出現方法を変更(髪の毛だけとか黒い水だとか)したりしてうまく誤魔化しているようだ。ところで呪いのビデオ(動画)がネットで拡散した場合、その伝達速度や到達範囲を考えると、死の宣告である無言電話をかけるのも大変だろうなあ。AIとか導入するんだろうか。それともいっそのこと、DM一斉送信か?

 こうした世の中の進歩を考えると、もしかしたら呪いを成就させるためにこういったシステムを採用してしまった山村貞子さんは、今になってものすごく後悔しているかもしれない。

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 ニコンZfcとオリンパスOM-4

 最近京都に旅行した折に、今年購入したばかりのニコンZfcを連れて行った。いつもならメイン機のDfを持って行くところだけど、何しろでかくて重い。軽量コンパクトなZfcを正式デビューさせるには良い機会だ。

 ところで僕は普段、中央部重点測光を選択して撮影することが多い。理由は単純で、フィルムカメラ時代に長きにわたって愛用したF3が中央部重点測光だったからだ。慣れればこの測光パターンとAE/AFロックを併用するだけで、ほぼ思い通りの露出が得られる。DfとサブのD300は、メニューを開かなくても背面のスイッチで測光範囲の切り替えができるので、とても重宝している。だがAE/AFロックボタンの位置はちょいと難ありで、特にD300はよほど手の大きな人でないと使いづらい。Zfcについても、こうした点を踏まえて、「道具」としての操作性や即応性を確認しておきたかった。

 余談だがその昔、僕はオリンパスのカメラを愛用していて、マニュアルフォーカスのハイエンド機、OM-4を使っていた時期があった。このカメラは通常の中央部重点測光のほかに「マルチスポット測光」という機能があって、これはファインダー内の最大8か所をスポット測光して平均化し、最適な露出を決定するというものだった。確かに魅力的に聞こえるけど、実際使ってみると、撮影者がどこを何点測光するか自分で判断しなければならず、相応の経験値がなければ使いこなすことは難しかった。「道具」というものはスペックだけでは語れない部分がある。結局このカメラでも中央部重点測光を使うことが多く、あえてOM-4を使う理由がなくなってしまった。こうなるとオリンパスはもう後がない。そこで意を決してニコンF3を購入、以来ニコンのカメラを使い続けている。

 さて、今回のZfcだが、ニコン伝統の若干アンダー気味な露出の傾向は健在で、ボディが小さいので、例のAE/AFボタンもD300に比べてはるかに使いやすい位置にある。測光範囲切り替えスイッチは無いが、プログラムモードでiメニューを開き、前もって設定しておけば、プログラムモードを選択することで切り替えることができる。正直ボディの仕上げはプラスチッキーだし、APS-Cサイズのセンサーも好みじゃないけど、撮れた画像自体は悪くない。白とびや黒つぶれは最小限で、解像度もまあまあだ。なるほど、これがAPS-Cセンサー特有の「レンズの中央だけを使った画像」というやつか。このボディサイズでDfと同じ操作感、しかもこのレベルの画像が得られるのなら言うこと無し。少々難があったグリップの感触も、市販のボディケースを使うことでかなり改善した。残るはZマウントの問題だけだ。

 僕が持っている交換レンズはすべてFマウント。Zマウントのカメラには使えない。じゃあ、なんでZfcを購入したのか。それは単にデザインが気に入ったからで、つい魔がさしたというか…(笑)。でもレンズキットに同梱されていたDX16-50mm、これはフルサイズに換算すると、ほぼ24-75mmにあたる。使いやすい焦点域だ。沈胴式なので嵩張ることもない。気軽に撮影するには十分で、今回の旅行でも不自由を感じたことはほとんどなかった。しばらくはこれ1本でもいけそうだ。それに、いざとなればマウントアダプターを使う手もある(純正品あり)。

 Zfc+DX16-50mmは気軽に持ち歩くのにはもってこいの組み合わせだ。必要十分なパフォーマンスを持っていると思う。ただ一つ不満なのはデジタルビューファインダーの見え方だ。あの人工光源の下でのギラギラした感じはいまだに馴染めない。まあ、これは慣れるしかないかな。

 OM-4のシャッターボタンまわり。小さな丸いボタンがスポット測光ボタン。四角の小さなボタンは白を白く、黒を黒く描写するための露出補正ボタン。それぞれプラス・マイナス1.5EVの補正をワンタッチで行えるが、使ったことは無い。シャッター速度はレンズマウントのリング(青と白の数字が見える)で操作する。
 OM-4とZfc。ZfcにはTPオリジナルのボディケースとF-Fotoのフードを取り付けている。OM-4のサイズを考えると、よくもまあ、あれだけ複雑な露出機構を組み込んだものだ。執念としか思えない。確かによくできたカメラではある。

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 15年ぶりの「魚三楼」

 前回も書いたように、京都に行ってきた。今回の旅にはいくつかこだわりがあって、そのうちのひとつが「魚三楼の弁当を食べること」だった。

 2009年の5月初旬、まだ教師だった僕は修学旅行の引率で京都に来ていた。生徒たちが二日目の班別活動をしている間、学年主任の僕は本部(宿)で待機。外回りの先生たちはチェックポイントを巡回しながら、昼食は好きな店で好きなものを食べることができるが、本部待機は出前をとるぐらいしか術(すべ)がない。それが面白くなかった僕は、添乗員にちょっとした「お使い」をお願いすることにした。宿は京都駅のすぐ近くで、JR京都伊勢丹の地下には料亭の京弁当を扱うコーナーがある。そこで弁当を買ってきてもらおうというのだ。

 僕は「5,000円までなら出す!」なんてことを言ったと思う。するとその熱意に負けたのか、3人の添乗員のなかで一番の若手が、この「お使い」を快く引き受けてくれた。彼は「伊勢丹の地下は行ったことがないので、後学のために見学を・・・」などと呟きながら出かけて行き、しばらくして「魚三楼」という料亭の弁当が届いた。3,500円ぐらいだったか、二段構えの立派なもので、これがとても美味しかった。今まで食べてきた弁当の中でもトップクラスだろう。

 その味が忘れられなかった僕は、8年後の修学旅行で再び駅近の宿に当たった時に、今度は自分で伊勢丹まで出向き、昼食用に魚三楼の弁当を探した。ところがこの時は早々と売り切れていて、次に入荷するのは3時過ぎだという。仕方なく他の店の弁当を買って帰ったが、この弁当は全く記憶に残っていない。

 そんなわけで、今回の旅では再度「魚三楼攻略」に挑戦した。一日目の夕食に弁当を食べる計画を立て、念のために宿に持ち込みの許可ももらった。弁当自体も予約が可能ということなので、伊勢丹のショップガイドで調べてみたところ・・・なんと、(当日の)火曜日は魚三楼の弁当の入荷が無いではないか!もしかして、僕は嫌われてるのか?一度ならず二度までも、夢は潰えるのか・・・いやいや、諦めてなるものか。そういう事ならこっちにも考えがある。最終日の昼食に弁当を買い、帰りの「のぞみ」のなかで食べればいい。そうすれば京都での活動時間も増える。一石二鳥だ。

 ということで最終日の昼、最後の望みをかけて伊勢丹のB2Fに赴く。予約する余裕がなかったことに加えて、もう1時近いので売り切れてやしないかと不安だったが、店に着くと、レジの後ろに掲げられたパネルに「魚三楼」と書かれた木札が掛かっていた。在庫がある印だ。よし、間に合った!こうして僕は、念願だった魚三楼の弁当をやっと手に入れることができた。実に15年ぶりのことだ。お値段は2,970円と、以前よりお安くなっている。それがちょっと気になるが、まあ良しとしよう。

 「のぞみ」の座席に座るやいなや、弁当を取り出し、包みを解く。おお、見覚えのある料理があるぞ。だし巻き卵、小芋を炊いたもの、鳥松風・・・久しぶりだね。元気だったかい?おっ、こっちは新顔か。海老彩りあられ揚げ?またまた、手の込んだことを。それにこの御飯。君にはいつも驚かされるよ。今回は新生姜御飯か。そこに鱧の鞍馬煮が添えてある。前回は上品な味つけの豆御飯と鱧寿司、それにおこわも入っていたっけ。なんだか前より少しやつれて見えるけれど、味わいはあの頃と変わっていないね。

 「魚三楼」は伏見にある老舗の料亭で、創業は1764年。格子戸には鳥羽伏見の戦いでできた弾痕が残っているそうだ。料理の方は伏見港で揚がる鮮魚と京野菜を中心に、伏見の名水を使って調理してある。ランチメニューは諸々込みで6,000円、弁当なら2,970円で食べられる。勿論お店で食べるのとは内容が大分違うが、それでも「魚三楼」を味わうことはできる。ちなみに夜の会席コースは10,000円~40,000円。一度お店にも行ってみたいものだが、食事のために伏見に宿を取り、数万円の旅費をかけるというのは、贅沢に過ぎるような気がする。やはり「事のついでに弁当」あたりが分相応ということか。

 2009年に食べた、確かこれは「母の日弁当」だったかな。箱は木箱だった。おかずは絢爛豪華、御飯も凝っていた。豆御飯の左にあるのは鯛の笹寿司。
 今回の「行楽弁当」。正直なところ、料理の格が少し下がったか。箱もスチロール製。このご時世に値を下げていることを考えれば、それも致し方ない。海老とトコブシが消えたのが寂しい。

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 古都京都は一体どこへ行くのだろう

 家族で京都へ行ってきた。多分6年ぶりぐらいか。教員だった頃は修学旅行で何度も訪れたものだが、何しろ仕事だから、そうそう行きたいところへ行けるというものでもない。プライベートでも3~4回は行っているはずだが、何しろ京都は見るべきものが多すぎる。そんなわけで、今回は各人が今まで行ったことのないところをカバーするコースを組んでみた。それともう一つ、外国人でごった返していそうなところはできる限り避けた。例えば清水寺とか。だがカミさんや下の娘が希望している伏見稲荷と貴船神社については、これはまあ、致し方ない。それから、僕が行ったことのない上賀茂神社と下鴨神社。これも同様。さて、どうなることやら。

 まず一日目の伏見稲荷だが、ここはもう最悪だった。千本鳥居なんてそれでなくても行列ができているのに、韓国人だか中国人だかの観光客が所々で立ち止まってはポーズをとり、同じ国籍とおぼしき随伴のカメラマンがそれを撮影。そのたびに行列が停滞するという、何とも腹立たしい光景が随所で見られた。ポーズのみならず、ナルシシスティックな表情まで作るので、見ていてイライラすることこの上ない。おそらくある種のツアーなんだろうけど、それにしたってあんな写真、何に使うんだ?そもそもカメラマンはちゃんと許可を取って商売しているんだろうか。ちなみにそこから少し南に下った、あじさいで有名な藤森神社は、参拝者もさほど多くなくて、そのほとんどが日本人。外国人観光客も気圧(けお)されるのか、普通に神社らしい佇まいだった。

 今回僕たちは、娘の希望で純和風旅館に宿泊した。八坂神社から歩いて5分ほどのところにある「き乃ゑ」という宿で、僕たちの他に日本人の客はもう一組だけ。他は全て外国人らしい。なるほど、館内で日本人に会わないわけだ。

 翌朝、明るくなるのを待って朝の散歩に出かけた。八坂神社の境内を一回りした後、八坂の塔まで路地を歩き、7時過ぎには戻って朝食をとった。宿の立地が良かったので、次の日も朝のうちに建仁寺、安井金比羅堂、六道珍皇寺を見て回ることができた。そんな道すがら、街が動き始めるのを見るのも好きだ。6時を回ると、出勤前のサラリーマンが境内の自販機で缶コーヒーを飲んでいたり、地元のおばあちゃんが朝の散歩がてらにお参りしていたりする。そういった光景もまた一興だ。京都本来の姿を垣間見たような気になる。

 二日目の下鴨神社と上賀茂神社はなぜか人出が少なくて、思ったより楽しめた。下鴨神社の大炊殿や、葵祭で使う唐車(牛車。中が思いのほか狭くてビックリだ)はちょっとした見ものだし、古代の姿をそのままに伝えるという糺(ただす)の森も、6月の強い日差しを避けるのにちょうど良い。上賀茂神社にも涉渓園という木々に囲まれた広い庭園があり、ここも快適だった。神馬(しんめ)にも会いたかったけど、残念ながら平日には出社(そう言うらしい)しないそうだ。

 昼食を兼ねて向かった貴船神社周辺は、タトゥーの入った男性や露出の多いヘソ出しファッションの女性がやたらと多かった。話している言葉を聞く限り、この手の女性はほとんどが韓国人。神域でヘソ出しとか、違和感しか感じない。一方タトゥー男子は圧倒的に欧米人が多い。これも不敬といえば不敬。隠す努力ぐらいしろよ、と言いたい(言ってもわからんだろうけど)。本宮はこういった輩で混雑していて、正直お参りどころではなかったけれど、そこからさらに登った奥宮は思ったより人が少なかったので、心静かに参拝できた。

 川床で昼食をとり、午後は北野天満宮に、今回は参拝というより宝物殿の刀剣を見に行った。ここには100振りの刀剣が納められていて、現在その一部、20振りほどが公開されている(~6/30)。境内の西側を占める「御土居(おどい)のもみじ苑」も同時公開中で、今が盛りの青もみじを堪能できた。「御土居」とは豊臣秀吉が作った洛中を囲む土塁のことで、境内に残る遺構には350本のもみじが植えてある。

 老舗の和菓子処「老松」で夏季限定の和菓子、「夏柑糖」を購入した後、平安京を守る四神獣のひとつ、「玄武」が住むという船岡山へ。ここには信長ゆかりの建勲神社があり、中腹からは京都の市街を一望できる。階段は多いが、人が少ないのでゆっくり参拝できた。「夏柑糖」は宿で冷やしてもらい、夕食後のデザートとして美味しくいただいた。

 最終日は、まず馴染みの和菓子司「塩芳軒」で土産を発送する手配をした。その後、僕の趣味で鉄道博物館へ。ここには現在、16形式17両(と聞いている)のSLが動態保存されていて、その昔SLファンだった僕にとっては天国のような場所だ。最後は女性陣の希望でJR京都伊勢丹B1Fへ。ここで買いそびれた土産を探す。大抵のものは揃うので、とても便利。

 というわけで、今回訪れたなかではなんといっても伏見稲荷と貴船界隈が混雑していたかな。北野天満宮も人は多かったけど、僕たちは早々に宝物殿やもみじ苑に回ったのでそれほど影響はなかった。その他の場所は6年前のイメージとさほど変わらなかったように思う。

 ところで今回の旅、京都に来たという実感があまりなかった。外国人ばかりが目につき、聞こえてくるのも大方が外国語。これは事前に聞いていたことだし、ある程度覚悟もしていた。だがもう一つ、気になることがあった。それは街角の看板だ。英文の他に韓国語や中国語が併記されるようになり、文字も大きく、やたらと目立つ。特にハングル文字はデザインが単純なこともあって、遠くから見てもその印象は強烈だ。これじゃコンビニの外装や信号機の色を考慮してもあまり意味がない。「国際観光都市」と言えば聞こえはいいが、「古都京都」の存在意義を考えると、どこまで客のニーズに歩み寄るかは改めてよく考えた方が良いような気がする。

 以前の京都は訪れる側が知らず知らずのうちに包み込まれ、感化されていく、そんな魅力を感じたものだけれど、今回見た京都は侘びも寂びも感じられない国籍不明の大都市だった。景観としての大量の人間のイメージが、こうまで都市の印象を変えてしまうとはね。これで雨でも降っていれば、まるで「ブレードランナー」だ。これから先、京都はどうなってしまうんだろうか。

 伏見稲荷で撮った1枚。人の写らない場所を探すのに苦労した。
 これも伏見稲荷の一角。キツネ・・・じゃないよな、どう見ても。
 北野天満宮、御土居のもみじ苑。閉園間際(15:40受付終了)ということもあって、人がほとんどいなかった。
 旅館「き乃ゑ」の入り口。純和風とは言うものの、中はエレベーターに加えて絨毯敷きのロビーがあったり、客室の窓枠が白木を模したアルミサッシだったりで、外観よりは現代的。

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 やっちゃえ、タミヤ!

 プラモデルの老舗メーカーである田宮模型(以後タミヤ)が、なんだか面白いことをやっていたらしい。このところ絶版プラモの収集という沼にはまっていた僕は、このことに全く気付かなかった。不覚だった・・・!

 タミヤが2000年に、エンジン音、主砲や車載機銃の発射音、主砲のリコイルなどを再現した1/16RC(ラジオコントロール=ラジコン)戦車を発表した時は、正直ここまでやるか、と驚いたものだが、今回の企画はもっと気軽に楽しめて、おまけにちょっぴり懐かしい。

 タミヤはここ20年ほどの間に、1/16RC戦車で培ったノウハウを生かし、往年の1/25キットにRCユニットを載せて復活させたり、主力である1/35戦車キットをRC化したりして、動く戦車プラモを拡充させてきた。タミヤは戦車プラモのラインナップが充実していることで有名だが、調べてみると、こうした動く戦車プラモの歴史は1962年までさかのぼることができる。実はこの時発売した最初の戦車プラモが当時存続の危機に直面していたタミヤを救ったという過去があり、以来タミヤは戦車プラモとともに歩んできた、と言っても過言ではない。

 1950年代の末、模型業界は木製模型からプラモデルへの転換期を迎えていたが、この動きに出遅れたタミヤは1962年、社の命運をかけて「パンサータンク」というモーターで動くプラモデルを発売した。するとこれが大当たり。危機を脱したタミヤはこれを1/35スケールとしてシリーズ化、次々に新製品を世に送り出した。

 1968年、タミヤは1/35ミリタリー・ミニチュア(MM)シリーズと称して、新たにディスプレイ専用のシリーズを発表。もとより模型といえばディスプレイモデルが主流だった海外の事情も視野に入れ、より精密かつ正確な再現度のキットを目指した。その後タミヤオリジナルの工具等も続々とラインナップ。こうしてプラモデルは「子供のおもちゃ」から「大人のホビー」へと変遷していった。

 1980年代になると、ガンダムなどのキャラクター商品の台頭と時を同じくして戦車模型離れの時代が訪れたが、1989年、タミヤは渾身の名キット「タイガーⅠ型後期生産型」で、離れかけたモデラーの心を繋ぎ止めることに成功。その後新たなブームが訪れ、戦車模型専門誌まで発刊されるなか、動く戦車プラモの集大成として、2000年にⅠ/16RC戦車シリーズが発表されたことは先に述べた通りだ。そして2012年。

 この年タミヤは、MMシリーズのクオリティを維持しつつ、新設計のギヤボックスを搭載した「1/35戦車シリーズ(シングル)」を発表し、ファンを驚かせた。62年前の「パンサータンク」の遺伝子を正しく継承した、「動く戦車プラモ」だ。しかもその第一弾となったキットの一つはパンサーG型。つまり62年前にタミヤを救ったあの「パンサータンク」なのだ。

 そもそもパンサー戦車の足回りは、1/35程度のスケールでは自重で弛む履帯(キャタピラ)の再現が難しく(実際ポリキャタピラではいまだに再現されていない)、動く戦車には向かない。それをあえて第一弾にもってきたとなれば、何らかのこだわりがあったとしか思えない。おそらく企画する側にとっても、「パンサーG型」は原点回帰を狙ってのアイテム選択だったのだろう。ちなみに「シングル」とは、本体についているスイッチで前進のみ(キットによっては後進も)が可能なキットのことで、初代「パンサータンク」もこの方式だった。

 僕がこのシリーズを知るきっかけになったのは、2014年の「イギリス戦車マークⅣ(シングル)」の発売で、実際にシリーズ化されていることを知ったのは、さらに10年後の今年に入ってからだった。この新しいシリーズはスキルレベルがそれなりに高く、往年のキットのように子供が気軽に楽しめるものではないが、1960~1980年代のタミヤを知るものにとっては懐かしく、楽しいキットであることは間違いない。でも僕個人としてはあまりこのシリーズを拡充されると困るなあ。なぜかって?言わなくたってわかるでしょう、そんなこと。

左 イギリス戦車マークⅣ(2014年発売)  右 アメリカ軍M4A3シャーマン戦車(2012年発売、買ったのは今年)どちらもまだ汚しはかけていない(マークⅣは勝手に汚れていた)。ギヤボックスが工夫されていて、それぞれスケールに見合ったスピードで走る。楽しい。次はパンサーGか。

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 鉄道という魔法

 列車に乗って旅をしたい。普段は車を使うことが多いが、車での移動はなぜか旅のイメージがわいてこない。旅をするには、多分一種の手続きが必要なんだと思う。切符を買うことに始まり、旅の入り口である駅まで赴く。そうすることによって、初めて日常から切り離される気がする。車の移動ではこうはいかない。家の駐車場で車に乗り、いつものように運転し、目的地で降りる。風景が変わっても、そこは日常の延長でしかない。そう考えると、駅の役割は大きい。それは旅の始まりと終わりを象徴するだけでなく、かつては新たな人生の始まりや慣れ親しんだものとの別れをも意味する、特別な場所だった。

 今、手元に「ふるさとの駅」という写真集がある。まだJRが国有鉄道、いわゆる「国鉄」だった1973年の出版で、地方の駅を撮影した写真にはSLに牽引された列車が写っていたりする。古びた駅舎は当たり前のように古びていて、まだ「保存」という動きが始まる以前の姿だ。写真に添えられた短文も趣があってなかなか良い。それから42年後の2015年、「青春18きっぷ ポスター紀行」という写真集が出版された。これはJRが1982年から販売している「青春18きっぷ」のポスターに使われた写真を集めたものだ。今年の春からは「鉄道ポスターの旅」と題して、それらの写真が撮影された場所を訪れる紀行番組も放送されている。道理をわきまえない不届きな撮り鉄は置いておくとして、時代が変わっても鉄道の持つ魅力は、ファンの心を魅了して止まないようだ。

 この手の番組を見ていると、今でも非電化区間が多く残っていることに驚かされる。電化されていない路線には、当然のことながら気動車(エンジンで走る車両)やディーゼル機関車しか入れない。反面、電力を供給する架線や電柱がないので、空が広く、美しい鉄道写真を撮ることができる(添付写真参照)。こうした路線には無人駅が多いが、タブレット(単線で列車が鉢合わせしないための手形のようなもの)交換のために有人のまま残っている駅もある。多くの場合、列車の本数も少ないので、旅客のいない空白の時間帯には駅が静寂に包まれる。

 そういえば20年ほど前、職場の同僚と奈良県の室生寺を訪れたときに、近鉄大阪線の「室生口大野」という小さな駅で、僕らはちょっとした非日常を体験した。室生寺という名刹(さつ)の玄関口であるにもかかわらず、駅前は人影もなく閑散としていて、驚くことに、一軒しかない商店が荷物預かり所(!)を兼ねていた。5時に閉店するからそれまでに戻るように、と言われたのだが、20年前といえば2004年。都市部では午後5時に閉店なんてあり得ない話だ。だがここではそれが「日常」だった。

 室生寺を拝観したあと、日が傾き始める頃に駅に戻ったのだが、次の列車を待つ15分ほどの間、聞こえてくるのは折から降り始めた雨の音だけ。僕たち以外ホームに人影はなく、周囲の山並みも雨に煙って見えた。「幽玄」と呼ぶにふさわしい佇まいで、僕たちも自ずと言葉少なになっていった。到着した列車に乗り込んだ時、やっと現実に戻れた気がした。

 学生時代には、友人がどこからか見つけてきた資料をもとに、一駅分の切符でどこまで行けるかチャレンジしたことがある。ある駅から横にそれ、延々と遠回りをして次の駅に到着するという、東は千葉県から西は神奈川県までを網羅するルートだ。

 そんな行程のなか、もう場所も定かではないが、春ののどかな風景に魅せられて途中下車した、千葉県中央部の野中の無人駅では、野生のリスがホームの上で遊んでいるのを眺めながら次の列車を待った。その間人の姿を見ることは無く、僕たちは風の音だけを聞いて過ごした。他の区間のことはほとんど憶えていないのに、なぜかこの無人駅だけは今でも鮮明に記憶に残っている。

 こうした非日常性こそが旅の醍醐味だと僕は思う。そこに至るためのツールが切符であり、入り口が駅なのだ。これはもう、一種の魔法みたいなものだろう。自家用車が普及してからこの魔法にあやかることはめっきり少なくなったが、今でも時々、改札口をくぐって日常を断ち切りたくなるのだ。

 一度掲載した画像で恐縮だが、こちらは非電化区画の例で、電柱や架線が無い。2024年現在もこの路線は電化されていない(水郡線)。
 こちらは電化されて架線のある路線。架線がうっとうしいだけでなく、それを支える電柱やビーム(電線を支える梁)も撮影の邪魔をする(中央西線)。 

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 アニメ「葬送のフリーレン」 褒める、ということ

 (前回からの続き)そういえばこの物語には褒めるシーンが度々出てくる。「偉いぞ」といって褒めたり、頭を撫でたりするのだが、それがなんとも言えない肯定的な雰囲気を醸し出す。年老いた僧侶ハイターをねぎらって頭を撫でるフリーレン。彼女は見かけは世間知らずの少女だが、年齢は千歳を超えている。ハイターは微笑みながら、悪くないですね、と呟く。だがフリーレン自身は頭を撫でられるのが嫌いらしい。本編でも「頭撫でんなよ」と声に出して拒絶するシーンがある。子供扱いされたくないというよりは、褒められ慣れていないので戸惑っているように見える。確かに魔法の技を褒められて得意げになるシーンはいくつかあるが、人格自体を褒められても無感動に聞き流すことが多い。僕としては、物語の最後でより人間的になったフリーレンが、撫でてほしくて頭を自ら差し出すようなシーンを期待しているのだが、果たしてこの読みは当たるだろうか。それとも深読みしすぎかな。

 このアニメのメインとなるストーリーは、魔王討伐の旅から80年後の話だ。何も知らないまま逝かせたことを後悔しているのなら、もう一度会ってヒンメルと話すべきだ、という戦士アイゼンの勧めもあって、フリーレンは新しい仲間(魔法使いフェルン、戦士シュタルク)とともに「魂の眠る地」オレオールを目指す。かつて大魔法使いフランメが「死者と対話した」と記述したその場所は、大陸の北の果て、フリーレン一行が80年前に魔王を倒したエンデにあるという。前回とほぼ同じルートを辿る旅は、そのままかつての仲間たちとの記憶を辿る旅でもあった。フリーレンは新たな出会いを重ねながら、少しずつ人間を理解できるようになっていく。

 TVアニメは28話で終了(中断?)している。マンガは今も連載中なので、この先どうなるかはわからないが、その真意は劇中で言うところの「取り返しのつかない年月」を生きた者にしか理解できないだろう。だがこうした優れた作品がアニメという形態をとれば、馴染みのない「いい大人」は敬遠するに違いない。だとしたらなんとももったいない話だ。大人が見るべきアニメは数多く存在しているというのに。

 そういえば最近読んだ、いかにも「いい大人」が読みそうな本には、面白いものが一つもなかった。とかく理屈をこねくり回し、論点を必要以上に難しくとらえているように思える。だがよくできたマンガやアニメを見ていると、物事の本質はもっと単純なものだ、という気がしてくる。もし「人生はそんなに単純じゃない」と言う人がいたら、「複雑にしているのは、あなた自身かもしれないよ?」と言ってあげたい。

付 録   感動したアニメ

  「葬送のフリーレン」

  「夏目友人帳」

  「バーテンダー」(旧作)

おまけ   最近気に入っているマンガ 

  「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」   ビッグガンガンコミックス(続刊)

  「シェパードハウスホテル」      ヤングジャンプコミックス・ウルトラ(続刊)

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 アニメ「葬送のフリーレン」 独特な死生観

 最近話題になったアニメに「葬送のフリーレン」というのがある。これがなかなか良かった。アニメとしても勿論面白いが、それに加えて妙に人生を考えさせられてしまう、異世界もののアニメだ。原作はマンガで、いくつかの賞を受賞している。

 そもそも僕は異世界アニメがあまり好きじゃない。異世界アニメはゲームから発展した過去があり、設定がワンパターンながら、小技は何でもありという(僕に言わせれば)安易なストーリーが多い。今回もPVで主人公のとがったエルフ耳を見て、「どうせいつものパターンだろう」と、ハードディスクに録画することさえしなかった。それが今回、娘が言った「『夏目友人帳』みたいなところがある」という言葉を聞いてちょっと興味がわいてきた。「夏目友人帳」は何の変哲もない(ように見える)日常のなかでの人間と妖怪の交流を描いたアニメで、大の大人を感動させるようなエピソードが多い。2008年に放送が開始されてから、現在までに第6期までがオンエアされ、今秋には第7期が放送予定という、希に見る長寿アニメだ。それだけ多くの人に愛され続けている証と言って良いだろう。

 さて、本題の「葬送のフリーレン」だが、そんなわけで僕は見もせず、録りもせずにいたのだが、カミさんがリビングのTVでディスクに録りためていたので、休日に見てみることにした。まず気付いたのは、設定が独特だということ。何しろ物語は、主人公たちのパーティー(グループ)が、普通ならメインのストーリーになるであろう魔王討伐の旅を終えた直後から始まるのだ。本編がないのに後日譚が始まるようなものだ。しかも第2話の前半までで80年が過ぎ、主人公たちのうち二人がこの世を去っている。でもこの二人、その後もことあるごとに回想シーンに登場し、物語を動かしていく。こんなアニメ、今まで見たことがない。さらにキャラクター設定や台詞回しが絶妙で、十分大人の鑑賞に堪える出来だ。むしろ子供には少々難しいかもしれない。

 パーティーの一員であるエルフのフリーレン(魔法使い)は、人間に比べると遙かに長寿で、それが人間との意思疎通の妨げになっている。10年にわたる魔王討伐の旅から50年を経て、二人の人間の仲間(勇者ヒンメル、僧侶ハイター)は次々とこの世を去るが、勇者ヒンメルの死に遭遇した時、この人のことをなぜもっと知ろうとしなかったのか、と後悔の涙を流す。もう一人の仲間はドワーフ(戦士アイゼン)で、エルフほどではないにしても人間よりは長寿で、フリーレンは今も年老いた彼のもとを訪ねることがある。この生きる時間の差が、独特の価値観や死生観を生み出している。

 勇者ヒンメルは生前、あちこちに自分の銅像を建てさせた。その理由を聞かれると、自分たちの成し遂げたことを忘れてほしくないんだ、と答える。そしてもう一つ、自分たちがこの世を去ったあと、フリーレンがひとりぼっちにならないように。うーん。なんか優しいぞ、ヒンメル。

 フリーレンはフリーレンで「みんなの記憶は私が未来まで連れていってあげるからね」なんてことを言う。みんなのことは忘れない、必ず語り継ぐ。だから私が生きているあいだは、みんなが生きた証が消えてしまうことはない、という意味だろう。劇中で何度か出てくる台詞だが、とても印象深い。

 もう一人のメンバー、僧侶ハイターは、天国にいる女神様の存在を信じているという。生きているあいだ頑張ったことを天国で褒めてくれる、そんな存在を信じることで安心できる、というのがその理由だ。80年後、新たな旅で出会ったエルフの僧侶も同じようなことを言っていた。懸命に生きた人生が死によって無に帰するなんておかしい、死んだ後も「お前の人生は素晴らしいものだった」と褒めてくれる女神様が必要なんだ、と。まるで宗教哲学の講義を聴いているようだ。その後の彼とフリーレンの会話も印象的だ。自分を褒めてくれた友人を大切にしろ、という僧侶に対して、フリーレンはその人はもう天国にいる、と答える。「そうか、ならいずれ会えるな」「そうだね」          (つづく)

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 いろいろと、天国に一番近い場所

 ゴールデンウィーク明けに茨城県常陸太田市にある竜神峡に行ってきた。日本最大級(全長375メートル)の吊り橋が売りで、5月にはそれに並行して貼られたワイヤーにたくさんの鯉のぼりが掲げられる。カミさんがそれを見たいというので、ドライブがてらに行ってみた。

 この吊り橋は龍神大吊橋といって、龍神川がせき止められてできたダム湖の上に架かっている。歩行者専用で、水面からは約100メートルの高さがあり、バンジージャンプの名所でもある。僕はここで生まれて初めての感覚を体験した。僕はもしかしたら、高所恐怖症なのかもしれない。

 橋を渡り始めてすぐ、なぜか僕は言いようのない不安に襲われた。頭上には五月晴れの空が広がり、爽やかな風が吹いている。橋は道幅もあり、ほとんど板材で覆われた手すりが両側をがっちり固めている。にもかかわらず、足がむずむずする。恐怖と言うよりは不安と言った方が当たっている。景色を眺める余裕がない。なんだこれ。僕は飛行機にも乗るし、東京タワーなども問題なく楽しむことができる。だが考えてみると、それらは密閉された空間だ。周囲が解放されていると、こんなにも不安を感じるものなのだろうか。見ればカミさんも同じような感覚にさいなまれている様子。早く終われ、と念じながら早足で歩き、ようやく対岸にたどり着いた。だが安心してはいられない。この吊り橋は観光用で、こちら側には道路がつながっていないから、駐車場に戻るにはもう一度橋を渡る以外に方法はない。どーすんだこれ。

 行きで多少慣れたのか、僕らの懸念をよそに帰りは思ったほどのことはなく、改めて周囲を見渡すと山々は新緑に覆われ、航路の下に当たるのか、飛行機雲もがいつもより間近に幾筋も見えていた。仰々しいハーネスをつけたグループはバンジージャンプの客だろう。思ったよりも多い。ビックリだ。駐車場に戻り、売店で聞いたところによると、橋の中央部の端から橋桁にあるプラットフォームに降りるそうで、その光景を想像するとまたもや足がむずむずした。今回自分の身に何が起こったのかはよくわからない。こんなことは今まで一度もなかったんだけどなあ。

 帰り道の途中で、来る時に看板を見た東金砂神社にも寄ってみた。一見ひなびた神社だが、実は対をなす西金砂神社とともに、創建806年という由緒正しい神社だ。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折に立ち寄り、多宝塔を建立したとか、ここって一体どういう地域?さらに72年に一度、東西の金砂神社をあわせて10日にわたる大祭礼(500人を超える行列が、神輿を中心として日立市水木浜までの道のりを往復する)が行われるという。西金砂神社から始まり、東金砂神社が三日遅れて出発するこの神事は、最近では2003年に行われた。72年に1度というと、前回は昭和6年(1931年)、次回は2075年。何ともすごい話だ。ちなみに第1回は851年、2003年の催事は17回目だそうだ。

 僕らが訪れた時にはそんな大それた雰囲気は一切なく、人気のない、小砂利を敷いただけの小さな駐車場をスズメバチが飛び回っていた。境内に関係者の姿はなく、参拝者もほとんどいなかったので、山のなかの古寺といった感じ。古寺、と書いたのは誤記ではなくて、神仏習合の影響か、境内に梵鐘や仁王門があったからだ。そのほかに小さな神社には珍しい田楽堂などもある。それらを古びた急な石段が繋いでいて、参拝者は木漏れ日のなかを息を切らせながら登る。この神社が2市町村にまたがる大祭礼の源だなんて、にわかには信じがたい。だが来てみて良かった感は大いにある。お気に入りのポイントが、また一つ増えてしまったな。

 この神社がある常陸太田市は袋田の滝がある大子町のお隣なので、せっかくだから袋田にまわって前回訪れた蕎麦屋で昼食を摂り、例の和菓子屋でお土産を買って帰った。次は西金砂神社に行ってみようかな。龍神大吊橋はもういいや。

 広角で撮っているので実感がないが、脚柱の高さは35メートル、鯉のぼりは一つ一つがフルサイズの大きさ。中央下やや右寄りに写っているカラフルな点々は100メートル下の湖面に浮かぶボート。
 橋の上は舗装されていて何ら不安を感じない・・・はずなんだけどなあ。途中、何カ所か下をのぞける窓がある。
 東金砂神社。駐車場から見た入り口。鳥居をくぐってすぐ右に折れ、この黒々とした山を登る。
 仁王門。急な階段を上ったところにある。次の階段が見えている。写っているのはうちのカミさんです(以下同様)。
 仁王門から田楽堂へと続く階段。
 三つ目の階段を上ったところにある拝殿。この奥に本殿がある。一般人はここまでのようだ。
 本殿裏からの眺望。山の向こうはおそらく高萩市あたり。その向こうは太平洋。

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 まだ使える

 最近昭和が何かと話題になる。昭和という時代に憧れる若い世代の話もよく耳にする。なぜだろう。

 昭和はある意味、今よりも豊かな時代だった。優れた製品がどんどん開発され、「メイド・イン・ジャパン」は高品質の代名詞となった。こういった製品はそれなりに高価で、かといって手が届かないほどではなく、手に入れば大きな満足感があった。だから当然大事に扱う。頑丈で、たとえ壊れたとしても当たり前のように修理がきいたから、長く使うし、愛着もわく。愛着のあるものに囲まれて過ごす人生は心豊かである、というのは、これまで生きてきて実感するところだ。今はどうか。いや、今に限定しなくても、家電量販店の「修理するより買い換えた方が早い、安い」という常套句はいつの間にか当たり前になった。壊れたものはすぐ買い換える。修理の依頼は可能だが、割高で時間もかかるから、一般的ではなくなった。これでは愛着も何もあったもんじゃない。さらに今の製品が長期にわたって使える品質かどうか、という問題もある。要するに作る側の事情だ。

 ニコンといえば、日本を代表するカメラメーカーの一つであることは、誰もが知るところだろう。だが今や、その製品のほとんどは「メイド・イン・タイランド」。10年ほど前、現在の愛機であるニコンDfを購入した時に店員が言った「このカメラは国内生産ですから信頼できます」という台詞を今でも思い出す。タイや中国の技術力にケチをつけるわけではないが、自国、あるいは自社の名に恥じない製品を作ろうとする精神性においては、差が生じるのは必至だろう。つまり「メイド・イン・ジャパン」は、一般的な製品においてはもはや神話でしかない、ということだ。加えて最近当たり前になってきたプラスチック・ボディのカメラなんて、昭和生まれの僕には到底納得できない。実際にその手のカメラを壊したことがあるが、金属ボディだったらあり得ないような状況での破損だった。確かに生産性は良いようだが、強度や精度、耐熱性といった点ではまだまだ金属製ボディにはかなわない。熱や経年劣化による変形の問題もあって、カメラのような精密機械には向かない、という話も聞く。新製品の開発スピードと相まって、買い換えが前提であるとしか思えない。

 今になれば一つのものを長く使い続けることの楽しさがよくわかる。確かに修理に出している間は不便を余儀なくされるが、それと引き換えにちょっとした満足感や心の豊かさを手に入れることができるような気がする。30年使い続けている腕時計、中学生の時に買ってもらった一眼レフ、何度も修理に出した40年前のジッポ・ライター・・・。これらの品々は人生をともにする相棒であるとともに、記憶の蓄積でもある。修理やメンテナンスに対応してくれるメーカーの存在もありがたい。彼らなしにはこの充実感はあり得ない。だが修理に携わる人材も今では大分少なくなったと聞く。

 誰かがこう言ったとする。「令和に買い換えた方が早いし、便利ですよ。」だが僕は慣れ親しんだ昭和という時代を修理しながら、今後も可能な限り使い続けるだろう。そうすることによって、人の心はもっと豊かになるかもしれない、なんて最近よく思うのだ。