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 水木しげるの偉業

 もはや知らぬ人はいないであろう、漫画界の巨匠、水木しげる。その代表作の一つである「ゲゲゲの鬼太郎」には数多くの妖怪が登場する。一反木綿、子泣きじじい、砂かけ婆・・・。だが、これらの妖怪の中には、そのビジュアル・イメージが水木しげるのオリジナルであるものが多く含まれていることを知る人は少ない。 

 その昔、鳥山石燕(1712~1788)という絵師がいた。妖怪画集「画図百鬼夜行」を著した事で知られている。石燕は古い文献をひもとき、当時姿のわからなかった、あるいは目に見えない現象だけの妖怪にも姿を与え、数多く紹介している。この仕事を現代に引き継いだとも言える存在、それが水木しげるだ。彼は時代の新しい妖怪や石燕が取り上げなかった妖怪にも光を当て、より多くの妖怪を世に紹介してきた。興味深いのは、彼が描く妖怪画は石燕の作品に代表される古い妖怪画を参考にするのみならず、独自の感性をもって、民芸品や道具、欄間の彫刻などもモチーフにしたことだ。例えば、後述する「砂かけ婆」は佐渡島の「鬼太鼓」の面がもとになっていると言われている。

 水木しげるは点描の手法を多用し、細密画と言ってもいい精緻な図版を数多く残している。特に初期の作品は漫画の作品とは一線を画するもので、画集も早い時期から出版されていた。この時期の作品を新しい時代のそれと比較すると、その感覚の違いがよくわかる。というのも、描かれる妖怪の姿がある時期以降、そのまま漫画に登場させてもおかしくないキャラクター性の強いものに変化してきたからだ。その典型的な例を紹介しよう。

 実は別の原稿(まだUPしていない)を書いている時に、「べとべとさん」について調べていて、面白い記事を見つけた。「べとべとさん 本当の姿は」で検索すると見つかるのだが、この質問に対するベストアンサーに「大きな黒いソラ豆のような・・・」と書かれている。僕はこの「べとべとさん」を知っている。30年以上前に古書店で購入した、水木しげるの「ふるさとの妖怪考」という画集に、この「べとべとさん」が掲載されている。それは何か得体の知れない扁平な形の「モノ」で、一部に隙間が空いていて中が少し覗いている。だが中身が何なのかはよくわからない。確かに、ソラ豆に似ていると言えば似ている。

 一方、ご存じの方も多いと思うが、現在流布している「べとべとさん」のビジュアルは、歯を剥き出し、ニヤニヤした口だけの大きな丸い頭から2本の足が直接生え、裸足か、もしくは雪駄を履いている。怖いというよりかわいらしい。しかし実は、もともと「べとべとさん」には姿など無い。目に見えない足音だけの存在なのだ。つまり、こうした不可視の存在にイメージを与えたのが鳥山石燕であり、水木しげるなのだ。

 こうして水木しげるは数多くの、本来姿のない妖怪に具体的なイメージを与え続けてきた。実は「ゲゲゲの鬼太郎」の準レギュラー、砂かけ婆もその一人(一人?)だ。いにしえの伝承によれば、深い森の中や神社の境内などで突然砂が降りかかるのだが、正体については「その姿を見たるものなし」ということになっている。見た人がいないのに「ばばあ」って・・・というわけで、「ばばあ」という言い回しも、元は「ババ(糞便)」ではないかという説もある。

 おそらく、これらのイメージは定番として、今後も多くの人々から認知され続けるだろう。だが安手のビジュアル情報が氾濫する現代においては、水木しげるのような逸材は、もう現れないのではなかろうか。

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 イラストの中の彼女

 以前にもどこかで書いたように、僕はその昔、大学で美術を学んだ。当時、アニメイラストの世界はまだ確立しておらず、作品自体も大人にとってあまり価値観を感じられるようなものではなかった。しかしその後、アニメと並行してライトノベルが一世を風靡すると、その挿絵にかなり凝った作画が見られるようになった。おそらく「吸血鬼ハンターD(1983)」あたりがその先駆けで、さらに近年、作画にデジタル技術が導入されたこともあって、アニメイラストは次第にカテゴリーを拡大しながらその世界を確立させていった。今では本格的なイラスト画集も数多く出版されている。

 現代のこうしたイラストには「情景イラストレーション」というカテゴリーがあって、これらの作品は完成度が高く、中には一枚の絵画と言ってもいいものまである。あるときふと手に取ったイラスト画集が素晴らしく、即購入してしまった。タイトルは「美しい情景イラストレーション」。現在第4弾まで発売されている。第2弾以降はサブタイトルが付けられ、「ファンタジー編」「ノスタルジー編」「ダークファンタジー編」と続く。結果的に全て購入した。ファンタジー系は作者の思い入れが満載で、正直なところ少々鼻につく感じだったが、1冊目と3冊目は自分が高校生だった頃を思い出させるような情緒豊かな情景で溢れていた。特に印象的だったのは、真夏の陽射しと木漏れ日のコントラストや、夕暮れの入道雲と踏切の組み合わせ。つまり夏の風景だ。また、線路がモチーフとして多く使われていることにも驚かされた。描かれているキャラクターの大半が青年男女(高校生が多い)ということもあって、まだ見ぬ土地へと続く人生の象徴のような線路は、その心情を表現するのにうってつけのモチーフではある。ただ、そういった概念が今も健在であることは意外に思えた。だがよく考えてみると、描かれているのが高校生であれば、鉄道は「通学」という日常的な生活の一部でもある。高校時代、自転車やバスでの通学しか経験の無い僕には思いもよらないことだったが、こうした鉄道のイメージは、日常の風景としても普遍的なのかも知れない。

 ところで、こうした情景イラストにはよく女子高校生(以下今風にjk)が登場する。男子高校生とは比較にならない出現(?)率だ。もちろん現代におけるサブカルチャー等がそれを要求しているということもあるだろうが、女性の目にはどのように映るのだろうか。僕にしても、確かにアニメ好きではあるが、けっしてオタクではない。いわゆる「二次元キャラ」に心を奪われるような趣味は持ち合わせていない。だが誤解を恐れずに言うならば・・・いや、やっぱり誤解されそうだなあ。上手く伝わると良いのだが、僕の場合、美しい「風景」に一人jkが配置されるだけで、あっという間にノスタルジックな「情景」になる。もしかするとそれは、自分が一番輝いていた(自分で言うとこんなに違和感を感じる表現も無いが)頃の記憶というか憧れが擬人化したものかも知れない。人は大人になるにつれ、人間社会の表裏というものを理解できるようになる。しかし、そのことが僕を幸福にしたかというと、必ずしもそうとは言いきれない。できることなら知らずにいたかった事柄も少なくない。だがここに登場するjkは、僕がそれらを知る前の時代に呼び戻してくれる、そんな気がする。つまり、イラストの中にいる彼女の目を通して、彼女と同じ世代の頃の自分を見ているということだ。 

 こうした作品はよく「ノスタルジーイラスト」というカテゴリーに分類される。ここで言う「ノスタルジー」とは、脳内に「エロス」という概念が入り込む以前の、純粋な恋心のことでもあるだろう。だとすれば、こうしたイラストでは露出過多の表現はNGだ。さもなくば、別のけしからん世界に誘(いざな)われてしまいそうだ。あまりにデッサンの狂った稚拙なものもダメだ。美術の専門教育を受けたものには一目でそれがわかるので、「背景は良いのに、人物のデッサンが・・・」などと、これまた別のアカデミックな世界に誘われ、情緒どころではなくなってしまう。プロはそのへんをちゃんとわきまえてくれているようだが、素人さんの投稿イラストにはこういった「困った作品」が多く、ネット検索ではごちゃ混ぜになってヒットするので厄介だ。じっくり鑑賞するには、やはり画集を手に入れることをおすすめする。

 「思い出」がそうであるように、全てが美化された世界。こうしたイラストを見た人は、それぞれの人生に重ね合わせて共感することができるだろう。今となっては現実離れした雰囲気も何となく心地よい。そこにはある種の詩情すら漂っている。よく言われることだが、そもそも絵画の良いところはその表現の自由度の高さにある。写真ではできない(今はいろいろできちゃうけど)ことが絵画ならできる。今回話題にした「情景イラストレーション」は、その自由度の解釈をさらに一歩進めたところにあると言って良いのではなかろうか。

「美しい情景イラストレーション」1~4(パイ インターナショナル)  

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 劇場版 高木さん

 劇場版「からかい上手の高木さん」を見てきた(前回参照)。封切りからかなり経っていることもあって席は半分も埋まっていなかったが、僕と同じぐらいの年齢とおぼしき男性客がいっぱいいて、びっくりするとともにちょっと安心した。映画そのものは、はっきり言って思っていたのとちょっと違う印象。もっと盛り上げてくるかと思ったが、シリーズを通して初めて見せる高木さんの涙のシーンも含めて、さらりと流していた気がする。監督曰く、「大風呂敷を広げるのではなく、夏の間の小さな物語が描けたら・・・(パンフレットより)」ということだから、ねらいとしては当たっている。ただ、TVシリーズ第3期の後半からラストにかけてが感動的だった故に、ストーリー自体が霞んでしまった気がする。最近のアニメでは、よくエンドクレジットの後に後日談のようなパートがあるじゃないですか。この劇場版は第3期の最終話の後にそれを70分見せられたような感じ。やっと気持ちの通じ合った二人がその後、どんな日常を送っているか、といったような、ね。

 じゃあダメ映画だったかというとそんなことはなくて、これはこれでまた別の魅力がある。中3になった二人が一緒に「グリコ」しながら下校するシーンでは「お前らなあ。」なんてあきれながらもつい微笑んでしまうし、ゴール直前で高木さんが「チョキで負けたらキスして?」なんてセリフをごく自然に言うので、勿論西方君にはそんなことできるわけないと思っているからこそのセリフだとわかっているんだけど、以前とはちょっと違う、あまりにも自然なその言い方にドキッとさせられたり(おっさんが中学生のセリフにドキドキしてどうするんだよ)。他にも二人の関係が、今ではちゃんと成立していることを匂わせるシーンが散在していて、見守り組としてはまことに喜ばしい限りだ。さらに夏休み中も毎日会うための口実として(口実を探すところが良いよね)、高木さんが「一緒にラジオ体操しよう!」と、らしくもない提案をして笑いを誘ったり、夜のバス停のシーンでは、もう少しで手を繋げるのに、というタイミングでバスが来て、「空気の読めねえバスだな」と思わされたり。うん。バスに空気は読めないな。

 もう一つ言っておきたいのが、これは綺麗な映画だ、ということ。舞台となっている小豆島の自然や棚田の風景、そして伝統行事「虫送り」の情景とその上に広がる満天の星空。加えて今回のキーパーソン?である子猫の描写がリアルでありながらとても美しい。それに、ペットショップ店員の太田さんをはじめ、ちょっと出の脇役でさえもいい人たちばかりだ。考えてみると、TVシリーズではこんなに大人が絡むことはなかった。これも二人が少し大人になった証しか。純粋無垢な少年・少女もいつしか大人になってしまうんだなあ、なんて寂しく思いながらも、周りの大人たちがみんな優しいから、僕自身もその一人になったような気持ちで受け入れることができた。ここでは詳しくは書かないが、特に終盤の太田さんの「よかった、元気そうで・・・。」というセリフは、映像では描かれていない多くのストーリーを一言で物語っている気がする。太田さんの二人に対する気持ちを想像すると、嬉しくて泣けてくる(比喩です)。

 こうして考えてみると、一番温かい気持ちで二人を見守ってきたのは、実は制作スタッフなのかも知れない。そもそもTVシリーズ第3期の中盤あたりから、「どんだけ二人の幸せを願ってるんだよ」という感じはあった。今回も、監督は脚本家たちに「ストレスはできるだけ小さく・・・」と指示していたそうだ。この「ストレス」とは、見る側のストレスであると同時に主人公たちのそれも意味していて、ドラマを盛り上げるために二人を深く傷つけるようなことはしたくない、という気持ちが伝わってくる。優しいなあ。そんなスタッフたちの思いが、あの中坊ラブコメアニメをここまでの作品にするんだね。ホントに不思議なアニメだよな。

 実を言うと、高木さんが泣きじゃくるシーンでウルッと来そうだな、なんて覚悟していたのだが、意外にも難なくパス。というのも、涙のわけも取り返しがつかないほど決定的なものではなかったし(脚本家の皆さん、ありがとね)、西方君の前で涙を流せるようになった高木さん、という二人の関係が逆に微笑ましく、むしろ安心感を覚えたからだ。先に述べたように、監督がこのシーンを「日常の中で起きた一つの事件」としてさらりと描いているというのも理由の一つだろう。その証拠に、このシーンはけっしてクライマックスという扱いではなく、さりげなく次のエピソードへと繋がっていく。だが意外にも、例の三人娘の、いつまでも友達でいたいという気持ちが溢れるシーンでは、不意を突かれて思わずウルッと来てしまった。不覚。ついでに言うと(ついでは失礼かな)、例の木村君は今回も男気を炸裂させていた。お前ってホント、良いヤツだよ。

 二人はこれからも、学校の友人たちは勿論、さらに地域の人々や、果ては小豆島の大自然にも見守られながら「素敵な日常」を積み重ねていくのだろう。TVシリーズでは限定的に描かれていた二人の世界が、多くの人々に見守られていることを実感できたことで、「変わっていくこと」に否定的だった僕も、二人の未来について「よかったね」と言えるようになったかな。パンフを買うのはすげー恥ずかしかったけど、意を決して見に行って良かった。

 最後に一言。この映画が描く幼い恋と、それを見守る大人たちの眼差しや背景の描写に、古き良き原風景のようなものを感じるのは僕だけだろうか。

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 高木さん

 この春に第3期が放送され、現在劇場版が公開中の「からかい上手の高木さん」というアニメがある。これが好き。(何笑ってんだよ。)原作は少年向けのコミックで、主人公は中学生の西方(にしかた)君と高木さん。言ってしまえばいわゆる「ラブコメ」なんだけど、実はこれ、大人が見ると何とも郷愁を誘うノスタルジック・ストーリーなのですよ。

 中学生というのは子どもが大人への第一歩を踏み出す時期で、身体がどんどん大人になっていくのに心がそれについていけなくて、とてもアンバランスな状態なのだよね。そんでもって、そんなアンバランスな状態であるが故に、いろいろなことが起こる。それは日常に埋もれてしまうような些細なことであるにもかかわらず、当事者にとっては人生の一大事だったりする。そんな日常を日々を追って描き綴ったのが「からかい上手の高木さん」の原作コミック。アニメでは少し毛色が違って、第1期から3期に進むにつれて、アニメ用のオリジナルストーリーが増えていき、もどかしいほどゆっくりではあるが、主人公二人の関係が進展していく様が描かれる。はじめはちょっとおませな高木さん(実は西方のことが好き)に意味深な言葉かけでからかわれ、顔を真っ赤にしている西方、という鉄板の関係性が、第3期に至って、お互いの親密な関係をミニマムに描写する場面が多くなり、最終話では西方が高木さんの本当の気持ちに気づき、それに答えようとする。このラストシーンはちょっと感動的。そして二人の恋の行方は、怒濤の劇場版へ!・・・と書くと普通のラブコメなんだけど、このアニメは他と一線を画するポイントがいくつかある。まず主人公が中学生であること。ラブコメではあまりない設定だ。普通、この手のアニメは高校生以上が主人公で、特に女子はお洒落な服を着て、体型もセクシーに描かれていたりする。それも売りの一つだからだ。だが高木さんは文字通り「女の子」。確かにキャラデザインはかわいいのだが、胸なんかツルペタで、運動はできるが華奢な体型。服装も、そのへんでよく見かける中学生とあまり変わらない。一方西方も、なんでこいつが・・・と思うほど普通の男の子で、恋愛沙汰にはまったく耐性がなく、夏休みには野球帽を被って友人と釣りに行ったりしている。そんな二人の行動は無邪気としか言いようがなく、邪念が入り込む余地がない・・・ことも無いが、中坊がどきどきする程度。二人の感情を追っても「好き」からせいぜい「恋」どまり。だから印象としては「ラブコメ」というより「思春期の成長譚」と言った方がしっくりくる。でも、逆にそれが僕の世代にはノスタルジーを抱かせるんだよな。何しろ「思春期あるある」満載だからね。二人乗りしたがるし。えへへ。そもそも高木さんのからかい自体が照れ隠しだったりもするわけで。ほらほら、何となく心当たりがあるでしょうが。

 こうしたノスタルジックな魅力は、逆に歳を重ねた大人にしかわからないものだ。やたらと伏線が多く、それが何話も後で回収されたりするのも特徴的で、丁寧に作っているなあ、と思わずにはいられない。特に第3期の「クリスマス」回(9話)など、1本の短編映画を見ているようで、制作陣の並々ならぬ思い入れを感じる。別れ際の手の振り方とか、「あー!ある!」なんて、思わず声に出しそうになってしまった。

 このアニメでもう一つ、忘れてならないのが脇役たちだ。みんな主人公二人の関係が「あやしい」と思っていて、時に探りを入れてみたり、時に背中を押してやったり。状況がわかっていないのはただ一人、西方だけ、という構図だ。主人公たち以外にも2組のカップルがあって、おつきあいが成立しているものもあれば、事実上成立していながらまだ告白がすんでいなかったり・・・。「お前ら、いい加減にしろよ」なんて思いながら、つい見守りたくなってしまう。そう。感情移入するというより見守っていたくなる。その意味では劇場版の「見守りたい初恋が、ここにある」というキャッチコピーは秀逸。そしてごく平均的でありながら個性豊かな3人組の女の子たち。彼女たちはもう一組の主人公と言ってもいいぐらいの働きをしていて、ファンも多い(原作者が同じ「明日は土曜日」というマンガの主人公でもある)。さらに特筆すべきなのが西方の友人である木村。いがぐり頭の大食漢でありながら、人の気持ちがわかる気の利くヤツで、ここぞという場面で二人の恋路をサポートする。第2期最終話など、助演男優賞間違いなし。

 こうした仲間たちとの群像劇は、古くさいとも思えるほど純朴で、同じような中学時代を過ごしてきた人にはぐっとくるだろう。そんなわけで、このアニメには、大人の心を掴む不思議な力がある。もしかすると制作スタッフも、後半は現代の中学生というより、自分たちの思い出や当時抱いていた憧れを描いていたんじゃないのかなあ。

 ところで、劇場版のエンディングでは公式スピンオフ作品「からかい上手の(元)高木さん」という、結婚後子どもが一人いる二人の関係を描いた場面が流れるそうだ。そのこともあって、劇場版では二人の関係性にもそれに繋がるそれなりの結論が出るらしいが、これについては少し複雑な気持ちだ。結婚して子どもがいるということで、劇場版で謳われている「中学最後の夏」が、ただの「過去」になってしまうような気がするからだ。二人が将来ゴールインするのは、それはそれでめでたい(?)し、アニメとしては良い終わり方なんだけど、僕としては「いつまでも終わらない永遠の夏の日」としておいて欲しかった気がする。僕の世代は人生というものがその後どんなふうに進んでいくのかをもう知ってしまっているわけだし、綺麗なものは綺麗なままにしておきたいというか・・・。四の五の言っても始まらないから、劇場版、見てくっかな。

 そんなことを考えているうちに、もう7月も下旬に入る。まだミンミンゼミの声は聞いていないけど、今年の夏は何だか例年と違う、いい夏になる・・・のか?これ。

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 夏といえば怪談 2022 こっくりさん

 これは昔兄から聞いた話だ。あまりにも古い話なのですっかり忘れていたが、久々にうちに戻っていた上の娘と話をしていて思い出した。他愛もない話なのだが、上の娘はこの話を初めて聞いた時、えらく怖い思いをしたんだそうだ。

 兄がまだ大学生だった頃、合宿と称して、サークルの友人たちと群馬県に遊びに行ったことがあった。宿は貸別荘で、夜になると従業員は管理棟に数人いるだけ。酒も入って、好き勝手に騒いでいたのだが、夜も更けた頃、ある友人が「こっくりさん」をやろうと言いだした。当時、こっくりさんは全国的に流行っていて、女子高校生が教室で「こっくりさん」に興じ、自己暗示にかかってパニックになった、などという事件が新聞に載ったこともあった。そんな時代のことだから、「こっくりさん」を呼び出す盤面なんて、誰でもその場で作ることができた。早速準備を整え、誰が彼を好き、などと他愛もないことを質問しながら時間が過ぎていった。質問を考えるのにも飽きてきた頃、友人の一人が面白い質問を思いついた。それは「あなたは今、どこにいますか?」という、こっくりさん自身に関する質問だった。本人のことを聞いても答えるのかな、などと疑問を投げかける者もいたが、とりあえずやってみよう、ということになった。

 「こっくりさん、こっくりさん。あなたは今、どこにいるのですか?」しばらくは何の動きもなかったが、やがて指を置いた10円玉が少しずつ動き出し、ある文字の上で止まった。「へ」。10円玉はゆっくり動き続け、次に「や」で止まった。しばらく待ってみたが、もう動く気配はない。「へや?」「我々が呼び出したんだから、この部屋に来てるってことだよ。」と誰かが言った。それを聞いてみんなが頷く。ところが、よせば良いのにまた質問した者がいたのだ。「部屋のどこにいますか?」すると10円玉は再びゆっくりと動き出し、三つの文字を指し示した。まずはじめに「す」。次に「き」。そして最後に「ま」。皆は顔を見合わせた。「すきま?」

 隙間はどこにでもある。クローゼットの扉の隙間、畳の隙間、となりの部屋とを隔てる扉の隙間・・・。皆がそれぞれに部屋の中を見回した。すきま。何となく気持ちが悪い。皆さんも経験がおありだろう。疲れ果ててベッドに入ったが、ふと気付いてしまう。クローゼットの扉が少し開いている。カーテンが少し開いている。あるいは寝室のドアが少し開いている。そんな些細なことがなぜか気になる。仕方なく起き出して、きちんと閉める・・・そんな経験が。この、ちょっとした隙間が、なぜか人を不安にする。

 「・・・お帰りいただこうか。」と誰かが言い出し、皆も同意したので、「こっくりさん」にお帰りいただく手順をいつもより丁寧に、ぬかりなく行った。特に何があったわけでもないのに、全員口数が少なくなっていたという。兄の脳裏には、「本当に何かが来ていたのだろうか」「ちゃんと帰ってもらえたのだろうか」などという考えが浮かび、その夜はなかなか寝付けなかったらしい。

 もともと兄は、心霊とか呪いとかを信じるタイプではない。その兄が「あれは何とも薄気味悪かった」というのだから、その場の雰囲気はただ事ではなかったのだろう。そもそも、心霊現象の類いは100%あり得ない、と言いきれる人はいないのではなかろうか。例え口ではそう言っても、そこは人間だから、心の中では(でも、もしかしたら・・・)と考えている人も多いのではないか。そんな「意識の隙間」にも、恐怖心は静かに入り込んでくるものなのかも知れない。かくいう僕自身、心霊現象には否定的だが、不可解な体験の一つや二つはある。僕の場合、そういうことに遭遇した時には判断を保留することにしている。要するに、深く考えないということだ。

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 よせば良いのに・・・続 二人乗り

 よせば良いのに、この前「二人乗り」で書いた「未熟で美化された人生の縮図みたいなもの」について、あらためて考えてみた。というのも、あの原稿を書いているうちにいろいろなことを思い出してしまって・・・。例えば彼女の言葉とか、表情とか、仕草とか。まったく、いい歳してなにやってんだろうなあ。でも「いい歳」になったから、もう書いても良いんじゃないかな、なんて思ったりもする。何しろ、ときめいたり、切なかったり、そういうのって最近無かったから(あったら困るよ)、ちょっと・・・ね。それに夏って、何となくセンチメンタルになってしまうことがあるじゃないですか。えっ?ない?あるんだよっ!

 高校3年の時につきあい始めたその彼女は、どちらかと言えば落ち着いた性格で、自分の気持ちを素直に表現することのできる人だった。自分がそんなふうだからか、僕が強がって見せたり、無理をしたりするとすぐわかるらしく、「無理しなくて良いのに・・・」と、よくそう言われた。初めのうちは「くそ、読まれてる」なんて思っていた僕も、次第に「でもまあ、いいか」と思えるようになり、彼女の前では自然体でいることが多くなった。それは「素(す)」で向き合えるということであって、仮にそれが思い込みだったとしても、お互いに全てわかっているような不思議な安心感があって、一緒にいると居心地が良かった。二人乗りをしている時に、そんなに疲れることでもないのをわかっていながら、彼女はごく自然に「大丈夫?疲れない?」なんて言ってくれることがあって、僕もその会話の意図がわかるから、そんなに疲れるわけないだろ、と思いながらも「うん、平気。本当に疲れたら言うよ」なんて素直に答えることができた。言葉の意味よりもむしろ、他愛もない会話という行為そのものの中で、互いを気遣う気持ちを確認し合っていたんだと思う。

 あの頃の僕たちはまだ本当の大人ではなかったけれど、これ見よがしに大人と同じ事をしようなんて思わなかったし、むしろ大人になることを拒んでいたように思う。ある時、たまたま立ち寄った書店で流れていた「ダンシング・クイーン」の、「Young & Sweet Only Seventeen」という歌詞を耳にした彼女が、「私たち、もう18歳だね。セブンティーン、終わっちゃったな・・・」と寂しそうに言ったのを今でもよく覚えている。彼女は「今」という時間が何も変わらないまま、いつまでも続いて欲しいと本気で願っていて、僕もそれは知っていたけれど、二人ともこの関係がいつかは終わる、あるいは、続いたとしても形が変わっていくことはよくわかっていた。僕たちは「過ぎていく時間」という現実に気付かないふりをしながら、残り少ない高校生活を精一杯楽しみ、その一方で知らず知らずのうちに、世間には通用するはずもない二人だけの人生観を紡いでいったのだと思う。それが僕の言う「未熟で美化された人生の縮図みたいなもの」の意味だ。そこには性的なイメージなど微塵もなかったけれど、体が触れ合うことは心地よかったから、二人乗りしていて、「今日は疲れたー」なんて言いながらもたれかかってくることもよくあった。そんな時には、僕も「いいよ、もたれても」と言って促すのが常だったけれど、だからといって人前で手を繋ぐなんてことはしなかった。

 そんなふうだったから、何気なく寄り添える「二人乗り」がとても大切なものになっていったのだろう。彼女は二人乗りしている時は妙に素直になり、時に「いつまでもこうやって走っていられたらいいのにな・・・」などとつぶやいて僕を困らせることもあった。多分言葉にしてみたかっただけで、その気持ちはよくわかったけれど、僕が困惑気味に「言いたいことはわかるけど、さすがにそれは無理だよ」と言うと、彼女もそんな僕に気付いたのか、「そうだよね、無理だよね・・・」と言って微笑み、最後には大人しくバスに乗って、小さく手を振りながら帰って行くのだった。

 そんな日常を互いに支え合いながら共有していたのが、僕たち二人の関係だったように思う。二人を見守ってくれていた友人たちからは、よく「お前らって、安心して見てられるよな」なんて言われたものだ。彼らは僕たちが心の奥底に「過ぎていく時間」への葛藤を抱えていることは知らなかったから、それ故に互いを気遣う二人の姿が理想のカップルに見えたのかも知れない。

 全ては遠い昔の話だ。だが思い出は今も記憶の中にある。それは言うなれば、あのとき彼女が望んだ、いつまでも変わらずに続く「今」が実現した世界でもある。そこでは今も「ダンシング・クイーン」が流れていて、あの時と変わらない二人が、自転車を二人乗りして走る続けている・・・。こうしていつでもそこに戻っていける僕は、多分恵まれているのだろう。というのも、そういった思い出すら持ち合わせていない人や、持っていてもすっかり忘れてしまっている人も多いからだ。

 彼女には心から感謝している。だって、一生忘れることのできない「青春」という大事な時間を、一緒に歩んでくれたんだからね。