カテゴリー
未分類

 「物語」についてなんか言ってたな。 -映画「スモーク」-

 ネットのMSNサイトの記事で、誰かが「物語はもういらない、押し付けられるようで嫌になる」みたいなことを書いていた。「本」とか「映画」とかに限らず、「物語」そのものについて語っているらしい。妙な違和感を覚えたが、その時は深く考えもせず「ふーん、そんなふうに感じる人もいるんだ」と、軽く読み流して終わった…はずだった。ところがシンクロニシティというのか、翌日「スモーク」という映画のレビューを見ていたら、「私たちは物語無しには生きていけない。物語を通して世界の意味を知ろうとするのだから」という文章を見つけた。「スモーク」の原作である「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を書いたアメリカの作家、ポール・オースターの言葉らしい。

 この「スモーク(1995年)」という映画はよくクリスマス映画の名作として紹介されるが、クリスマスとの関わりは、物語の終盤に主人公のオーギー・レンが語るクリスマスのエピソードだけだ。そのエピソードを聞くもう一人の主人公の名はポール・ベンジャミン。これはポール・オースターの初期のペンネームで、つまりこの物語は作家本人が知り合いから聞いたクリスマス・ストーリーを紹介した、という体裁だ。こういう展開だと、僕のような俗物はどこまでが本当の話なのか気になって仕方がない。だが原作ではポール・ベンジャミンがこの出来過ぎたクリスマス・ストーリーを聞かされたあと、「作り話にも思えたが、私は彼の話を信じることにした。一人でも信じるものがいるなら、それは本当の話なのだ」と語る。なるほど、そうきたか。

 この映画には筋らしい筋は無く、ブルックリンのとある煙草屋に集まる人々と、その取り巻き一人一人の短い物語が語られる。煙草屋の雇われ店主、オーギー・レンは、毎日同じ時刻に店の前の交差点を撮影し続けて10年以上になる。彼はキューバ産の葉巻の密輸をもくろみ、昔の恋人はやさぐれた娘に手を焼いて泣きついてくる。煙草屋の常連である作家のポール・ベンジャミンは妻が強盗事件に巻き込まれて亡くなり、以来仕事が手につかず、些細なことから得体の知れないアフリカ系の少年と関わるようになる。少年の生き別れた父親は郊外の落ちぶれたガソリンスタンドを経営していて、少年は何とか絆を取り戻そうとする。こうしたドラマが細い糸のようにもつれながら時間が過ぎていく。

 物語の終盤、ポールは煙草屋を訪れ、オーギーにこう尋ねる。「クリスマスの短編に、何かいいネタは無いかい?」そこでオーギーは昼食と引き換えに怪しげな、けれど心温まるクリスマスのエピソードを語る。出来過ぎた話にポールは疑いの目を向けるが、オーギーは否定も肯定もしない。ただ微笑むだけだ。そのあと画面がモノクロになり、作家の書いた物語が映し出されて映画は静かに終わる。バックに流れるトム・ウェイツの「夢見る頃はいつも」が秀逸!よくもまあ、この曲を…という感じだ。

 ところで「スモーク」ではもう一つ、意味深なエピソードが紹介されている。冒頭でポールが語る、ウォルター・ローリー卿が女王エリザベス一世の前で煙草の煙の重さを計って見せたという話。煙草を吸い終わった後には灰と吸い殻が残るが、消えていった煙にもちゃんと重さがあるという。この話も真偽は定かではないが、まるで人間の一生を表しているかのようだ。そもそも映画のタイトルをあえて「スモーク」としたあたりも、ね。もしかしたらオーギー・レンは刻々と変わる「煙」の写真を撮っていたのかも。

 この映画を見ていて気付くのは、今ではすっかり悪者扱いの煙草が、人間関係やコミュニケーションの場において重要な「間」というものを見事に演出してくれる、ということ。こうしてみると、人の人生はすべて、一種の物語だ。上手な語り手が一人いるだけでいい。

 冒頭で紹介したネットの記事に感じた違和感は、それが物語の登場人物や、延いては実在する他者の人生まで否定しているように感じたからかもしれない。世間に溢れかえる「物語」を取捨選択するのは受け取る側の問題だ。すべてを否定するのは自由だが、本を読み、映画を鑑賞し、それなりに人とかかわってきた身としては、それが真実であろうが嘘であろうが、やっぱり人生に物語は必要だと思うんだけどね。

カテゴリー
未分類

 そういえば、そんなことがあったっけ

 9月のはじめのある日、娘の仕事の都合で、午前4時に起きて朝食を作る羽目になった時のこと。外は晴れていたがまだ暗く、空気も9月の上旬にしてはひんやりしていたので、2階の広縁のガラス戸を全開にした。何気なく空に目をやると、東の空にはオリオン座があった。そこから天頂に向かって視線を移した瞬間、流星が飛んだ。流星を見るなんて、何年ぶりだろう。それも見上げたとたんにその視野の中を流れるとは。もっと流れないかとしばらく見上げていたが、残念ながらその時はその一つだけしか見ることができなかった。

 その2日後、同じ理由で4時起きし、同じようにガラス戸を開け、空を見上げた。この日も満天の星空だったが、さすがに流星は流れなかった。でもこの日は別のものが見えた。直線的にゆっくり移動する星のような光点。でも瞬かない。僕はもと天文ファンだから、「UFOだ!」なんてことは言わない。その動きからすると、これは人工衛星(※)に違いない。2日前の流星と同じあたりを、南西から北東へと横切っていく。いやあ、近々で2回、流星と人工衛星を同じ時間帯に、しかも同じ視野の中で見るなんて。こうした偶然が重なると、人はちょっと幸福感を感じたりする。

 僕の特技の一つにマティーニを目分量でカクテルグラスきっちりの量に仕上げる、というのがある。僕はシェイクするタイプが好きなのだが、シェイカーの中の氷の量によっても注ぐジンの目分量は毎回変わる。少々加えるベルモットも目分量。だが10回に7~8回はグラスきっちりの量で仕上がる。とてもいい気分だ。最近ではうまくいかなかったときなど、何か悪いことが起こるのではないかと、夜も眠れないぐらいだ(ウソです)。

 反対にほとんどうまくいかない、ということもある。それはペペロンチーノを作るときの塩加減。ちょっと多めかな、と思ってもほとんどの場合、味が薄くなってしまう。ペペロンチーノが好きで、休日の昼食などに数えきれないほど作ってきたが、味がピタリと決まったことは2~3回しかない。たまにベーコンや玉ねぎを加えてアレンジすることがあるが、これだと難なく味がまとまる。だが正統派のスタイルは塩の量だけで味が決まる。この塩梅が難しい。僕も今更塩の量をきっちり計ろうなどとは思わないので、毎回そんなことで一喜一憂する。まるで人生について教えられているような気分だ。最近ではあきらめの境地に達しかけている。人生を、ではない。ペペロンチーノの味付けの話だ。

 これからも幾杯ものマティーニを作り、ペペロンチーノを作るだろう。そのたびにちょっといい気分になったりがっかりしたりしながら生きていく。まあ、それも人生ということで。そうだ、最近とんとご無沙汰だったが、たまには昔のように、夜空を見上げることもしようかな。今回のように、ちょっといい気分になれることがあるかもしれない。

※ 国際宇宙ステーションなど、主だった人工衛星は日本上空の通過予定時刻や見える方位をネットで知ることができる。

カテゴリー
未分類

 ボジョレー・ヌーボーの謎

 今年も11月の第3木曜日にボジョレー・ヌーボーが解禁された。結論から言うと、今年は僕好みの味じゃなかったかな。ただしこれは美味しくない、ということではなくて、単にヌーボーらしくなかったという意味で、実はここ10年ほど、毎年うっすらと感じていることだ。

 温暖化が現実の問題となってから、ボジョレー・ヌーボーはほとんどハズレの年がない。ワインの原料となる葡萄の出来はその年の夏の気温と雨量に左右され、夏が高温で、雨量が少ないほうがワイン造りに適した葡萄ができるので、温暖化によって夏の気温が毎年のように高い昨今の状況は、高品質のワインを作るのには好都合というわけだ。何とも皮肉な話だ。

 ボジョレー・ヌーボーはその年にとれた葡萄で造られた新酒で、一般のワインとは醸造法も少し違うらしい。その醸造法と、ボジョレーの原料である「ガメイ」という葡萄の特性が相まって、あの渋みの少ないフルーティーな味わいが生まれる。ところが最近のヌーボーは葡萄の出来が良すぎて渋みが多く、重い感じで、もう2~3年寝かせたくなるような味わいだ。要するに、ヌーボー本来の若々しさが感じられない。冒頭で「僕好みじゃない」と書いたのはそういう意味だ。

 ヌーボーの解禁日が近づいてくると、日本でもそれに向けてまことしやかなキャッチコピーが流布し始めるが、これが傑作というかなんというか、過去の例を挙げると、「50年に一度の出来」「100年に一度の出来」「ここ10年で最高の年」「今世紀最高の年」等々。5年ほどの間に2回「この10年で最高の出来」と評されたこともある。まあ前回を超えた、ということなんだろうけど、これでは何がなんだかわからんではないか。

 実はこのキャッチコピー、どうやら日本独自のものらしい。本家フランスの食品振興会やボジョレーワイン委員会でも評価は発表するが、「○○年に一度の…」なんてことは言わない。ネットでもよく見受けられる例なんだけど、2003年の出来に関するフランスでの公式見解は「並外れて素晴らしい年」。それが日本では「100年ぶりの当たり年」となる。このキャッチコピー、いったい誰が書いているんだろう?そもそも「100年ぶり」の根拠って何?あれもこれも、謎だらけ。けど何となく楽しいっちゃ楽しい。

 そんなこんなで数十年にわたり、ボジョレー・ヌーボーをいろいろな意味で楽しんできたわけだが、僕の感覚では最もよくできたヌーボーはおそらく2009年のもの。いちいち記録なんかしていないから保証の限りではないが、2009年は「50年に一度の出来」と評価され、その翌年、翌々年はそれぞれ前年と「同等」「匹敵」とはいうものの、「そこまでじゃねえな」と思った覚えがある。このパターンが当てはまるのは2009年しかないから、多分間違いないだろう。以来これを超えるヌーボーには出会っていない。

 そうこうするうちに温暖化が進み、ヌーボーの味わいはだいぶ変わってしまった感がある。僕のお気に入りはルイ・ジャドとジョルジュ・デュブッフという作り手のボジョレー・ヴィラージュ(※)・ヌーボーだったのだが、ここ数年は味わいが重くなり過ぎたルイ・ジャドの代わりに普通のボジョレー・ヌーボー(ジョルジュ・デュブッフ)を購入している。こっちのほうがよりフルーティーで、質も向上しているからだ。

 さて、そんなボジョレー・ヌーボーの、気になる今年の出来はというと、夏前に雨が多く降ってしまい、生産者にとっては厳しい年になったようだ。でも厳しい年だったからこそ、以前のように軽やかな味わいになるだろう、という逆説的な評価をどこかで読んだ気がする。それほど最近のヌーボーは「出来過ぎ」だったということだ。実際には、今年のヌーボーは軽やかな味わいなのに渋みが強く、バランスが悪かったように思う。もっともこれはジョルジュ・デュブッフに限ってのことなので、他の作り手についてはわからない。

 日本でのヌーボー文化はすっかり定着した感があるが、温暖化の影響も無視出来ないレベルになってきた。近年ヌーボー文化に手を染めた世代は、おそらく本来のボジョレー・ヌーボーの味を知ることはもうないだろう。何とも気の毒な話だ。

※ ボジョレー地区の中でも特に良質の葡萄が育つ地域の葡萄だけで造られたワイン。一般的なボジョレーよりも格上で、味わいも濃厚。

カテゴリー
未分類

 誰か、ミスター・ボージャングルスを知らないか?

 「ミスター・ボージャングルス」とは、アメリカのカントリーシンガー、ジェリー・ジェフ・ウォーカーが1968年にリリースした曲のタイトルだ。

 飲み過ぎてぶち込まれた留置所で、年老いた旅回りの芸人に出会ったんだ。彼はボー・ジャングルスと名乗った。白髪混じりでよれよれのシャツ、くたびれた靴を履いていた。

 彼は優しい目で自分の人生について語り、膝を叩いて笑った。「昔はショーのステージや郡のフェスティバルに出たこともあったんだぜ。南部は一通り回ったな」

 そのあと彼は、15年一緒に旅した犬のことを、目に涙を浮かべながら語った。その犬が死んでもう20年もたつのに、彼は今でも悲しんでいた。

 場が暗くなったのを察してか、誰かが彼にダンスをせがんだ。すると彼は見事なソフトシュー・ダンス(※1)を披露してくれた。高く、高くジャンプしてはふわりと着地するんだ。

 「チャンスさえあればいつだって踊るよ、でも日銭を稼いではほんのちょっと飲み過ぎて、酒場を追い出されちまうんだ。今じゃ留置所にいる時間のほうが長いくらいさ」そう言って彼は、やれやれと首を振った。すると、誰かがこう言う声が聞こえたんだ。

 ミスター・ボージャングルス、踊ってくれよ、もう一度…。

 この曲はJ・J・ウォーカーが体験した実話がもとになっているそうだ。上の文章は歌詞と実話を織り交ぜているので、本来の歌詞とは少し違うが、だいたいこんなところだ。

 「ボージャングルス」とは留置所にいた旅芸人が実名を隠すために名乗った偽名で、実は全く別の人物のニックネームでもあった。その人物とは1920年代に活躍したアフリカ系アメリカ人のダンサーでタップダンスの名手、ビル・ロビンソンという人。おそらくその旅芸人はビル・ロビンソンに憧れていたのだろう。あるいは、俺にだってあれぐらいのことはできるのに…という自負があったのかもしれない。

 「ミスター・ボージャングルス」は1970年にニッティ・グリッティ・ダート・バンドがカヴァーしたバージョンが大ヒット。71年にはビルボードの9位まで上り詰め、日本のラジオでもよく流れていた。僕が初めて聞いたのもこのバージョンだ。

 アメリカの有名なエンターティナー、サミー・デイヴィスJr.もこの曲をステージに取り入れ、思い入れたっぷりに歌い、踊った。先に紹介したビル・(ボージャングル・)ロビンソン、すなわちミスター・ボージャングル(※2)がタップの大先輩だったことも理由の一つだろうが、人種差別が当たり前だった当時のアメリカで、アフリカ系とユダヤ人のハーフである自分が、一旗揚げるために並々ならぬ苦労を強いられたことや、いつか自分の時代も終わる時が来て、落ちぶれていくのかもしれないという不安、そんな思いをあの年老いた旅芸人の姿に重ね合わせていたと証言する人もいる。確かに、晩年のコメントの端々にはそんな心情が読み取れる。

 いずれにせよ、もうこのような歌が作られることは無いだろう。もとになった出来事も、それを歌にしたソングライターの感性も、あの時代ならではのものだ。だが不思議なことに、この歌は21世紀を迎えた今も、日本人を含む数多くのミュージシャンが取り上げている。これまでにこの曲をカヴァーした主なアーティストを挙げると、ボブ・ディラン、ジョン・デンバー、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、ホイットニー・ヒューストン、ニーナ・シモン、キャット・スティーヴンス、ポール・ウィンターなど。ウィキペディアに記載された最新のものは、クリスチャン・マクブライドが2017年にリリースしたアルバムに収録されている。

 50年以上の長きにわたって愛されてきた名曲、「ミスター・ボージャングルス」。これからもあと20年や30年は間違いなく歌い継がれていくだろう。

※1 柔らかな靴で音を立てずに、しなやかに踊るダンスのこと。

※2 曲名には末尾にsが付くが、ビル・ロビンソンのニックネームにはそれがない。

カテゴリー
未分類

 ロックンロール!

 別に「自動小銃に弾丸を装填しろ!」と言っているわけではない。「ロックンロール・スペシャル」。これはある2枚組のアルバム(もちろんLPレコードの)のタイトルだ。誰がいつ、こんなアルバムを企画したか知らないが、よく見るとジャケットの片隅に1977とあった。多分僕が学生の頃に面白半分で購入したものだ。構成はいわゆるオムニバスで、古いロックンロールの名曲がオリジナル音源で24曲収められている。代表的なものを挙げると、P・アンカの「ダイアナ」とかG・マハリスの「ルート66」、S・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」、「それにB・ヴィトンの「ミスター・ロンリー」などで、全体的にみると50年代の曲が多い。

 装丁はやりたい放題で、ジャケットにはオープンカーでドライブ・インに乗りつけ、瓶入りのコカコーラを飲むリーゼントのお兄ちゃんやらポニーテールのお姉ちゃんやらが、なんちゃってアメリカンスタイルのイラストで描かれている。描いたのはたぶん日本人だろう。バッタもん臭がプンプンする。なんてふざけたアルバムなんだ、と常々思っていたが、なぜか歳を取るにつれて、定期的に引っ張り出してはある期間愛聴するようになった。今年もまたその時期がやってきたらしく、最近ちょくちょく聞いている。これがなんだかとても心地よい。

 僕はこれらの曲が流行った時代を知らないし、本来ならロックンロールを聞くような世代でもない。学生だった頃に浜田省吾を知り、「ハンバーガースタンドで待ち合わせて、彼女の親父の車を夜更けに盗み出し、誰もいない海まで真夜中に走る」という内容の歌詞を聞いて、「いや、ここはアメリカじゃないから」なんて思ったことはある。そう、ここは日本だ。50年代のアメリカとは違う。当時のアメリカはもっと豊かで、単純で、能天気だった。それでやっていけた時代だ。ドン・マクリーンが「音楽は死んだ」と歌う以前、サイモンとガーファンクルが、アメリカを探す旅に出るうつろな若者の姿を歌う以前の時代(※)。

 もちろん70年代の音楽もいいのだけれど、50年代のそれは、たとえるなら「サンタクロースの実在を信じていたころの音楽」とでも言えば、そのニュアンスが伝わるだろうか。だから僕みたいに、今でもサンタクロースの実在を願っているような精神構造の人間にはしっくりくるのだろう。だが60年代半ばになると、そんなアメリカにも陰りが見え始める。が、それはまた別のお話。

 ところで僕がこのアルバムを引っ張り出すのは、もしかしたら複雑かつ雑多になり過ぎた現代の生活に疲れたりうんざりしたり、そんなタイミングかもしれない。先に述べたとおり、僕は現実にはこの時代を知らない。だが洋画や洋楽が好きだった両親の影響で、当時の音楽や映画は山のように見聞きしてきた。それらはある意味、美化された虚構の世界でしかないけれど、現実を知らないからこそ、子供だった僕はより強いあこがれを持ったのだろう。つまり僕が帰って行くのは僕の脳内にだけ存在する「50年代」であって、能天気なロックンロールはその一部だ。そこでは今もツートンカラーのコンパーチブルが走っていて、昼はダイナーでハンバーガー&チップス。ドライブ・インには夜遅くまで煌々と明かりがともり、若者たちはコークを片手に少し尖った青春を謳歌する。もちろんそんな経験をしたことは一度もないが、それでも頭上に広がる空の青さまで、ありありと思い浮かべることができる。そしてその空の色は、この歳になっても少しも色あせていない。

 「ロックンロールスペシャル」ジャケット。右側が表。ドライブ・インの店名は「スターライト」だって。看板には「コーク」と「アイスクリーム」の文字が・・・。
 解説のレイアウトも1曲1曲凝っていて楽しい。イラストもたくさん。昔の新聞みたいだ。ページが捩れてるな。なんかこぼしたか?
 歌詞もちゃんと掲載されている。さすがに和訳は無いが、このころの曲は内容が単純なので、何となく理解できてしまう。それに文字が大きくて読みやすい!

※ ドン・マクリーン「アメリカン・パイ(1971年)」 サイモンとガーファンクル「アメリカ(1968年)」

カテゴリー
未分類

 秋のSF祭り 「スターウォーズ」と「未知との遭遇」

 1978年は日本のSF映画ファンにとって特別な年だった。それというのも、この年に「スターウォーズ」と「未知との遭遇」が公開されたからだ。どちらも宇宙を題材にしたエポックメイキングな作品だったが、内容的にはまるで違っていて、どちらが好きかでSFファンとしてのタイプが明らかになると言われたほどだった。たとえば「未知との遭遇」は、現実に明日起こるかもしれない地球上でのUFO事件を題材にしているのに対し、「スターウォーズ」は冒頭で説明されるとおり、「遠い昔、遥か彼方の銀河系で」起こったことが描かれていて、そこに地球人は全くかかわらない。これは言い換えれば「未知との遭遇」が文字通りSF(空想科学物語)であるのに対し、「スターウォーズ」はいわゆるスペースオペラ、すなわち宇宙活劇の類であるということだ。

 どちらも当時としては最高の特撮技術が使われているが、時代が時代なのでCGは一切使われていない。参考までに言うと、「未知との遭遇」の特殊効果を担当したのはダグラス・トランブル。「2001年宇宙の旅」を成功に導いた人物だ。彼は1972年に「サイレント・ランニング(※)」というSFの佳作を監督していて、この時一緒に仕事をしたジョン・ダイクストラが「スターウォーズ」の特殊効果を担当することになった。

 前記したとおり、「未知との遭遇」は日常生活の延長上にある脅威を描いていて、過去に報告されたUFO事件のエピソードがふんだんに取り入れられている。特筆すべきは当時UFO研究の第一人者だったアレン・ハイネック博士がカメオ出演していることで、物語の終盤、着陸した母船をよく見ようと前に出てあごひげをひと撫でし、パイプをくわえる老科学者がまさにその人だ。同じく終盤の、音階と光の明滅で宇宙人とコミュニケーションをとるというアイディアは多少ファンタジー寄りではあるが、スピルバーグらしい演出で効果を上げていた。その単純な音階がエンドロールで壮大なメインテーマにつながっていくあたりは、さすがは大御所ジョン・ウィリアムズ。

 「スターウォーズ」は描写や音楽(こちらもジョン・ウィリアムズ!)が派手で見ていて楽しいが、僕にとっては「SFの概念と特殊効果で味付けされた冒険活劇」でしかない。剣や銃で戦い、飯を食い、車に乗るように宇宙船を乗り回す。ここでは脅威となるはずの物事が単なる日常だ。エピソード(話数)が多いので飽きも来る。もうお分かりですね。そうです、僕は「未知との遭遇」派です。「スターウォーズ」はお約束のアラ探しをしようにもアラだらけでその気にもなれない。良くも悪くも荒唐無稽すぎる。

 こうして考えてみると、SFファンによるアラ探しという行為はリアリズムを追求するタイプのSF映画に対する一種の愛情表現なのかもしれない。製作者:「どうです、完璧でしょ?」ファン:「いえいえ、今回も必ず何かしら見つけちゃいますよ?」といった具合だ。だから単純なスペース・オペラでは満足できないんだな、多分。ただ、かの宇宙大元帥(故 野田昌弘氏、SF作家)がいみじくも言っていたように、「SFは絵だ!」というのも事実で、そういった意味では「スターウォーズ」のSF映画界への貢献は大きく、大いに評価できると思う。特に冒頭のスター・デストロイヤーの描写は秀逸で、後々どれだけパクらたかわからない。

 最後に一言、最近のSF映画を見ていて「つまらん」と思うのは僕だけだろうか。内容がやたらと小難しいうえに、ストーリーも見ていると鬱になりそうなものが多く、やりつくしてしまった感がある。だったらいっそのこと、「宇宙戦争」を原作どおりヴィクトリア朝のイギリスを舞台に、再々映画化するぐらいのことをしてくれれば面白いのだが。

※ ちょっと毛色の違った宇宙SFの傑作だと思う。主題歌を歌っているのがジョーン・バエズだと言ったら、興味がわくかも。お勧めします。僕はラストで泣きました。

カテゴリー
未分類

 秋のSF祭り 「2001年宇宙の旅」

 前回「宇宙征服」という1950年代のSF映画について書いたが、そういえばプラモデル専門誌「モデルグラフィックス」の10月号が「2001年宇宙の旅」の特集を組んでいたっけな。なぜ今「2001年宇宙の旅」なのかというと、なかなか見つからなかった資料がいろいろと出てきて、正確なディテールのモデルが出そろってきたのが最近の話であること、「宇宙ステーション5」がアメリカのメビウスモデル社から発売されたことなどがその理由らしい。ちなみにメビウスモデル社はSFのプロップを積極的にモデル化しているメーカーで、これらのキットはアマゾンで容易に手に入る。だがしかし、「2001年…」のディスカバリー号や往年のTVドラマの「原潜シービュー号」などは1メートルもあるビッグサイズ(※)。いったいどこに置けというんだ。

 さて、モデルグラフィックスにはモデルの解説だけでなく、最近わかってきた映画制作上の裏話なども掲載されていて、読んでいるうちにまた「2001年…」が見たくなってきた。先の「宇宙征服」と見比べるのは酷かもしれないが、それも一興と思い、久しぶりにBDを引っ張り出した。

 この映画を見るたびにどうしてもやってしまうのが時代考証。そんなの無粋でしょ、と言われるのは分かっているんだけど、例えば「2001年…」の世界ではだれも携帯電話を持っていないことなどは到底見逃すわけにはいかない。おかげでフロイト博士は宇宙ステーションから公衆電話(TV電話)を使って自宅に電話をする羽目に。監督のキューブリックはTV電話を見せたかったんだろうけど、画面が大きいから個人情報だだ洩れだ。今となっては違和感しかない。携帯端末としてのパッドのようなもの(ただしTV放送のみ対応?全編を通して、ネット環境が整っているようには見えない)は出てくるのに、惜しいなあ。

 ところで今回見直してみて、また新たな問題を見つけてしまった。科学者チームが月面で発見された第2のモノリスを視察するシーンで、月面移動用のムーンバスに物資が入っていると思われる木箱(!?)がたくさん積んであったりする。いくら何でもこの時代に木箱は無いだろう。下手をすると、角で宇宙服が切り裂かれそうだ。さらにその直後、随伴するカメラマンがフィルムを巻き上げているとしか思えない派手なアクションしている。デジタルカメラの出現を予測できなかったのか…いや、ちょっと待て。デジタルカメラの普及って、いつ頃だったかな。でもフィルムカメラだってAF(オートフォーカス)や自動巻き上げ機能はもうあったよね。実際、月面基地での会議の場面ではそれっぽいカメラを使ってる広報担当者がいて、巻き上げやピント調整なしで写真を撮りまくっている。

 ちなみにフィルムカメラの自動化(AF、自動巻き上げ等)は、ミノルタの名機α7000を例にとると1985年あたり。デジタルカメラは2000年ぐらいから普及し始め、それなりの性能の一眼レフが出そろうのは2003~2005年ぐらいからだ。月面でのモノリスの発見は1999年らしいから、あのシーンで使われるとしたら、AFで、なおかつ自動化されたフィルムカメラである可能性が高い。ということは、やはり劇中でのフィルム巻き上げはあり得ない(ただし、ハッセルブラッドを使っているとしたらその限りではない)。

 もう一つ、これは時代考証というより科学的考証の重大なミスで、実は前から気づいていたんだけど、映画の後半で、ハル9000コンピューターによって宇宙空間に放り出されたプールの遺体を回収したボーマンが、ハルにディスカバリー号への帰還を拒まれて、やむなく非常用エアロックを使うシーンがあるじゃないですか。あの時ボーマンはポッドに装備されている左のマニピュレーターでロックを解除し、その後右のマニピュレーターでハンドルをぐるぐる回してドアを開けるんだけど、その時点でディスカバリーとポッドをつないでいるのは右のマニピュレーターだけ。つまりポッド本体を固定せずにその手首の部分を回転させるわけだから、反作用でポッドには多少なりとも回転運動が生じるはずだ。でもポッドは微動だにしない。それどころか、その直後に爆破用ボルトを使うことで爆発の反動と相当量の空気の噴出があったにもかかわらず、ポッドは相対位置を維持してたよね。これは宇宙空間では絶対にあり得ない。誰も話題にしないところなので一応書いておく(ホント、嫌な性格ですね)。

 今は2024年。2001年はすでに過去だが、映画で描かれたような宇宙ステーションも月面基地も有人木星探査も、いまだに実現していない。一説によると、当時のような宇宙に対するあこがれを、人類はとうに失ってしまったらしい。その間にたくさんの戦争や紛争があり、ネットには…「すごい!他人を中傷する記事がいっぱいだ!」スタンリーとアーサーが夢見た人類の輝かしい進化は、まだまだ先の話のようだ。

※ ステーション5とほぼ同時期に、ディスカバリー号の1/350モデル(こちらは40㎝ほど)が発売されたそうだ。シービュー号は以前からオーロラ版(約30㎝)等が販売されている。

カテゴリー
未分類

 秋のSF祭り 「宇宙征服」

 「宇宙征服」というSF映画のDVDを買った。聞いたこと無いって?そりゃそうだ。何しろ1955年の映画だからね。僕だって子供の頃にTVで見たのが最初だもんな。で、次に見たのが1994年ごろ発題されたLD。でもLDプレーヤーがまともに動かなくなってからは、長い間ソフトが全く見つからなかった。それが今年、何気なく検索したら、アマゾンでDVDを発見。2022年に発売されていたらしい。うーん、やはりBDにはならないか。今となってはマイナーな映画だからなあ。

 さてこの映画、近未来に人類が火星探査をする、というだけの筋書きなのだが、当時としてはかなり現実的なデザインの宇宙船が登場することは、以前宇宙船のデザインについて書いたときに触れた。これは原作が小説ではなく、当時の科学解説者ウィリー・レイが書いた「宇宙の征服」という科学啓蒙書だったからだろう。目的地も宇宙征服と言いながら、実はお隣の火星だったりする。だから宇宙船には火星の薄い大気中で滑空するための巨大な翼がついている。さらに往路の加速のために使ったバカでかい燃料タンクは、本体の総質量を減らすために途中で切り離し(加速・減速時の燃料効率が上がる)、火星大気に突っ込ませて焼却するなど、描写もかなりリアルで、今までのちゃちな1段式ロケットとは一線を画していた。そんなわけで宇宙船の秀逸なデザインばかりが印象に残っていたのだが、今回あらためてDVDを鑑賞してみると、そのストーリーは何とも言いようのない矛盾だらけの代物だった。

 まず第一に、探検隊のメンバー。こんな連中じゃ間違いなく計画は失敗する。何しろ隊長(将軍ですね)が途中で精神を病み、「神が与えたもうた地球を飛び出して、他の惑星の資源まで手に入れようとするのは神への冒涜だ」なんて言い出す。勿論いろいろやらかしてドラマを盛り上げてくれますぜ。その隊長に長年連れ添った鬼軍曹も、メンバーじゃないのに密航してついてくるし、将軍の息子は大尉の身分でありながら「新婚なのに…早く地球に戻りたい」なんて愚痴ばかり言っている。メンバーの中で一番まともに見える日本人隊員のイモトは「日本人は紙と木でできた家に住み、木の箸を使う。それは日本に資源が乏しいからだ。金属のスプーンやフォークを使いたくても使えなかったんだ。だからよりよい生活のために資源を求めることは間違っていない」と、火星探検の意義を説く。えっ、そうだったの?知らなかった…同じ日本人として泣けてくる。

 そして何よりも(今回あらためて鑑賞するまですっかり忘れていたが)、この計画はもともと月旅行だったものが、急遽火星旅行に変更されるんだよ?そんなの絶対にムリ…と思いきや、そもそも宇宙船のデザインが先に述べたとおり、どう見たって月旅行用じゃない。つまり火星旅行が可能な宇宙船を作り、その試験飛行として月へ行く、そういうことだったらしい。それをぶっつけ本番で火星旅行に変更。あり得ねー。

 というわけでこの映画、宇宙船のデザインはよかったものの、肝心の脚本がポンコツで、映画としては失敗作となってしまった。陳腐なドラマを省いて、もっとドキュメンタリータッチに寄せたほうが受けが良かったような気がする。でも特撮や科学的考証に関しては、当時としては画期的な映画だったことは確かだ。

 ところでこの映画の功労者と言えば、何といっても宇宙画家チェスリー・ボーンステルだろう。往年のSFマニアなら彼の名を知らない人はいない…いや、いるかもしれないけど、とにかくその筋では有名な人。彼は映画の原作本である「宇宙の征服」にも数多くのイラストを提供していて、それらを参考に映画が製作されたことはまず間違いない。「火星探査」という別の書籍には映画に登場したものとほぼ同じデザインの有翼火星探査船も描かれている。彼の作品はSF映画のみならず、アメリカの宇宙開発計画そのものにも多くの影響を与えていて、個人的にもリアルな、それでいてロマンあふれる宇宙画を数多く制作している。1976年には長年のSF界への貢献が認められ、ヒューゴー賞(※)特別賞を受賞した。1986年没。

※ 前年度のSF・ファンタジー小説から選考によって選ばれた作品や関連する人物に贈られる賞。2015年には初めてアジアの作家(中国人)による作品「三体」が選ばれ、話題になった。 

 ボーンステル「タイタンから見た土星」。1944初出。初期の傑作と言われている。
 ボーンステル「火星探査」のためのイラスト。有翼の火星探検船が軌道上で建造されている。1956年初出。 いずれも河出書房新書「宇宙画の150年史」より。
 「宇宙画の150年史」河出書房新書刊、ロン・ミラー著。タイトルのとおり、古くは19世紀末の挿絵から現代のデジタルアートまでを網羅している。印刷なども高品質。SF好きにはたまらない1冊だろう。

カテゴリー
未分類

 月のあれこれ

 去る9月17日は「中秋の名月」だった。一時は天気が危ぶまれたけれど、僕の住んでいる地域はうまい具合に夕刻から晴れてくれた。多少雲は残っていたものの、流れる雲が月に照らされ、これはこれで風情があってよろしい。ただ温暖化の影響か、庭に勝手に生えたススキがここ数年お月見に間に合っていない。近隣を歩いてみてもススキ自体が見当たらず、仕方なくお金を払ってススキを購入する羽目に。なんだかなあ。

 当日は東側の出窓にかぼちゃと団子、そこにススキを活けて添え、夕飯には里芋の入ったのっぺい汁を作った。本当は里芋も生のまま供えたかったんだけど、全部汁に使ってしまい、残らなかった。団子は里芋の代わりという説もあるから、まあ良しとするか。

 東の空に昇った満月を眺めていて、ふと思った。あそこにはもう、ウサギはいないんだなあ。月にはすでに何人もの人間が行っているし、表面には地震計やレーザー測距機なんかも設置してあるらしい。月が地球の衛星軌道を回る不毛の天体であることは、もはや万人の知るところだ。にもかかわらず、日本人はなぜか、この時期になると月を眺めては思いを馳せる。いったいどんな感情がそうさせるのだろう。だがそんな情緒のある月も、聞くところによると欧米ではあまり良いイメージを持たれていないらしい。

 ルナティック。英語で狂気を意味する言葉だ。「ルナ」とはラテン語で月のことだ。ご存じのように狼男は満月の夜に変身する。凶悪な犯罪や交通事故は満月の夜に増加するという説もある。調べてみると、どうやらこの説は都市伝説の域を出ないようだが、今もまことしやかにあちこちで囁かれている。何とも不吉なイメージだ。もっともクラシック音楽には「月の光」や「月光」といった名曲もあるから、一概に「不吉」とは言えないか。

 戦前の外交官でニューヨーク在住だった細野軍治は、ある月の美しい夜更けに友人たちと月を眺めに出かけた。しばらくすると警察官に呼び止められ、「良からぬ相談をしていただろう」と問い詰められた。「月が美しいので眺めていただけだ」と説明してもわかってもらえず、警察署まで連行されたそうだ。月を見る習慣のないアメリカの警察官に、一晩かけて日本の月見の風習について説明したという、これは僕の愛読書、「一度は使ってみたい季節の言葉」で紹介されていた話。どうやら月を愛でる習慣は東南アジアに限ってのことのようだ。

カテゴリー
未分類

 アラン・ドロン追悼

 8月18日にフランスの名優アラン・ドロンが亡くなった。享年88歳。好きな俳優だったのでとても残念だ。

 僕は映画好きの両親の影響で、TVの「洋画劇場」を見て育った。だから小学校の頃、僕のヒーローはスティーブ・マックィーンで、ヒロインはオードリー・ヘップバーン。勿論仮面ライダーに血道をあげる友人たちとは全く話が合わず、この件に関してはちょっとした変人扱いだった。

 思春期になると少し好みが変わり、豪快なカッコよさよりも陰りのあるキャラクターに目が行くようになった。そんな時にたまたま観たのがアラン・ドロン主演のフランス映画、「サムライ(1967)」だった。僕は寡黙でクールな一匹狼の殺し屋を演じるアラン・ドロンにすっかりやられてしまった(何も言うな、そういう年頃だったんだ)。僕が右利きなのに腕時計を右手首に着けているのも、主人公のジェフが右手首に腕時計を着けていたからだ。それが何十年もの間に習慣化して今に至っている。バカみたい。でもそれぐらいカッコよかったんだよ。実際この頃には世界中で人気を博し、「世紀の二枚目」なんて言われていたもんな。

 1970年になるとレナウン・ダーバンがCMキャラにアラン・ドロンを起用。そしてその4年後には映画「ボルサリーノ2」が封切られた。僕が彼を劇場で見たのはこれが最初だった。このころ僕の勉強部屋には、伯備線のD51三重連のポスターとともにアラン・ドロンのでっかいポスターが貼られていて、これは確か1971年の「レッド・サン」のものだったと思う。この映画はアラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン、三船敏郎が三つ巴の争いを繰り広げる異色西部劇で、三船敏郎は西部を横断する江戸幕府の使節団の警護責任者(だったかな。勿論ストーリーは架空の話)を演じ、いい味を出していた。ちなみにアラン・ドロンは一番の悪役だった。性格の悪い二枚目。嫌だねえ。

 そもそもアラン・ドロンは、コメディからサスペンス、シリアスドラマまで何でもこなせる実力派の俳優で、それゆえアイドル的な二枚目スターとして扱われることに強い抵抗を感じていたようだ。実際、作中の彼は映画によってイメージが大きく異なる。だから僕も「『サムライ』の時のアラン・ドロンに憧れるんだよね」などと、作品名を付け加えて話す習慣が身についてしまった。これが「『アラン・ドロンのゾロ(1975)』のアラン・ドロン」だったら僕だって憧れたりはしない。だってほぼコメディだもんね。この映画でのアラン・ドロンは、のちにメキシコとなるスペイン領のおバカな総督で(ホント、バカなんだこれが)、その実体は正義の剣士、怪傑ゾロ。正反対のキャラを見事に(というか楽し気に)演じ分けていた。

 そんなわけで、アラン・ドロンは僕にとって一時憧れの人であった。だが本当のことを言うと、どんな映画よりもダーバンのCMが一番好きだった気がする。勿論CMとしての演出や演技はしていただろうけど、もっとも素に近いアラン・ドロンを見ることができる唯一の情報ソースだったからね。

 これらのCMは、マニアがコレクションしてYoutubeに動画を上げているので、今でもシリーズ全編を見ることができる。時々閲覧して、古き良き時代を懐かしんだりしているが、時代が時代だから、多分今の人にはわかってもらえないだろうなあ。

 というわけでムッシュ・ドロン、いろいろとありがとう。そしてお疲れさま。どうか、安らかに眠ってください。