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 夏の終わり

 僕のように、生徒としての学校生活が終わった後も、教師として学校という場所で生活し続けた経験のある者にとっては、8月の末は大人になっても特別な意味を持っている。つまるところ、8月の終わりは夏休みの終わりでもあるわけで、子供だった頃に誰もが抱いた「ああ、学校が始まってしまう」というあの切なさが、「ああ、定時で帰れて、しかも有休を取りやすかった期間が終わってしまう」という形でよみがえってくるのだ。

 そんな僕にとっては、温暖化によって9月になってもまだ夏、というような昨今の状況があっても、やっぱり夏休み(の期間)の終わりはイコール夏の終わり。でも考えてみると、夏休みの話は別としても、この時期にセンチメンタルな気持ちになるのは誰でも同じらしくて、その証拠に巷に流れるJポップを聞いていても、夏の終わりの感傷的な感情を歌った楽曲って結構多い。

 そんな夏の終わりに、今年は台風10号が日本列島付近を1週間近くもうろうろしたりなんかして、この大事な期間を台無しにしてしまった。まったくもって忌々しい。いつもなら次第に少なくなっていくツクツクボウシの声を聴きながら、入れ替わるようにして鳴き始める秋の虫たちの声に耳を傾け、季節の移ろいを感じたりするところだが(と言っても最近は7月からミンミンゼミもツクツクボウシも秋の虫も同時に鳴いていたりするんだが)、これでは行く夏を惜しんで感傷に浸ることもできないではないか!と、台風の進路予想図をにらみながらそんなことを考えていた時、ふとあることに気づいた。

 「夏の終わり」。この言葉は普段の生活の中でも、「もう夏が終わっちゃうね」であるとか、「今年の夏は何もせずに終わってしまったな」などというように、あまり意識せずに使っているけれど、よく考えてみると季節の中で「終わる」のは夏だけかもしれない。例えば「春が終わる」「秋が終わる」といった表現はあまり使わないような気がする。

 春や秋は大抵の場合、終わるというより、次の季節がやってきて徐々に取って代わられるイメージだ。冬については「長く厳しい冬が終わり…」などと言う場合もあるけど、「夏の終わり」ほど一般的ではなくて、むしろ冬の厳しい地域限定という気がする。つまり四季のなかで夏だけが、日ごろから季節の終わりを妙に意識されているということだ。なぜ夏は、こうも特別なんだろうか。

 これは誰でも思うことだろうが、その理由はまず第一に、夏に感じる強い生命力。ことに植物が猛暑、酷暑と表現されるような強い日差しの中で生い茂るさまは、人間の領域さえ凌駕しかねない力強さを感じさせる。さらにそれをたたえるかのように響き渡る蝉の声、そして輝きながら湧き上がる入道雲。自然のそんな様子を見ていれば、人間の意識も少なからず高揚するだろう。こうした高揚感は、他の季節にはないものだ。そして盛夏を過ぎると、それは目に見えて衰えていく。

 もう一つ、これは僕の個人的な考えだが、夏休みの記憶というものが、人にとっての夏を特別なものにしているのではなかろうか。おそらく日本人で夏休みを経験したことのない人はいないだろう。しかもその始まりと終わりは暦の上で明確に線引きされた、言うなれば日常と非日常の境目みたいなもので、実際夏休み中には、お盆がらみの家族旅行などのほかに、夏祭りや花火大会といった催しも目白押しだ。盆や祭りといえば先祖の霊や神様とかかわる機会でもある。まさに非日常。

 考えてみると、子供にとっては夏休み自体が非日常的なイベントみたいなものだ。そしてイベントには必ず終わりがあり、子供たちは日常に戻っていく。この特別なイベントの終わりを惜しんだ少年時代の記憶が、夏の終わりを特別なものにしているとは考えられないだろうか。

 今年も夏が終わる。今は心寂しい限りだが、夏は来年もやってくる。夏っていいよな。最近ではあまりの猛暑に外出するのも億劫だし、エアコンの電気代も馬鹿にならないけど、それでもやっぱり夏はいい。僕はあと何回、体験できるだろうか。台風一過の青空を眺めながら、ふとそんなことを考えてしまった。

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 夏と言えば… 実録?田中河内介

 今回はその筋では有名な田中河内介(たなかかわちのすけ)にまつわる話。

 田中河内介とは幕末の勤王家の一人で、薩摩藩の内紛でもある池田谷事件の折に過激派の一味として拘束され、己の目的のために藩士を欺くなどの所業が暴露されたこともあって、鹿児島に移送される船上で斬殺された。事の詳細は薩摩藩の暗部として秘匿されたため、田中河内介の最後については時代を超えて多くの逸話が生まれた。次に紹介する怪談もその一つ。

 時代が大正に変わって間もないある夜、物好きな面々が集まり、怪談を語る会が開かれた。するとある男がふらりと現れ、「田中河内介の最後について語りましょう」と言う。聞けばこの話は他言を固く禁じられ、「今では詳細を知っているのは私だけになってしまったので、語り継いでおきたい」とのこと。

 河内介の最後は無残かつ理不尽なものだったというが、大正の世になっても聞こえてくるのは憶測めいた話ばかり。ぜひとも真相を聞いてみたいとかたずをのんで待ったが、「とうにご一新(明治維新)も過ぎましたので…」つまり、もう時効のようなものだから、語ってもいいでしょう、といった類の前置きが堂々巡りするばかりで、一向に本題に入らない。あきれた会員たちが一人、二人とタバコを吸いに帳場に降り、「一体あの男は何なんだ」などと話していると、2回の会場となっている部屋から突然「医者を呼べ!」と叫ぶ声が聞こえた。急いで部屋にあがってみると、例の男が突っ伏してこと切れていた。こうして河内介の最後を知るものは誰もいなくなってしまった。

 この怪談を知ったのはだいぶ昔のことで、池田弥三郎(※1)の著書「日本の怪談」に紹介されているのを読んだのが最初だった。よくできた怪談話だと思っていたのだが、最近購入したある書物(※2)によると、この話はまごうこと無き事実らしい。曰く、この怪談会があったのは大正3年の7月12日の夜で、場所は京橋にあった画廊「画博堂」。ここで開かれた幽霊画展に合わせて催されたものだった。参加していたのは文豪泉鏡花に谷崎潤一郎、画家黒田清輝、歌舞伎役者市川猿之助など、そうそうたる顔ぶれだ。亡くなった語り手は「萬(よろず)朝報」という新聞社の営業部員、石河光治という人で、実際には現場で意識を失い、2週間後(26日)に死亡したという。ネットで調べてみると、2007~2008年にはすでにこれらの事柄を検証した書籍やブログの記事が確認できるので、おおむね間違いなさそうだ(※3)。

 石河光治は薩摩の旧家の出身で、それゆえ河内介斬殺の内情について伝え聞いていたようだが、薩摩藩内の内紛や謀略が絡む話なので、明治政府樹立後も政治的なタブーになっていたらしい。倒れる直前はろれつが回らなかったというから、死因は脳梗塞あるいは脳溢血だったのではないか、とこの書物の著者は推測している。

 実は前出の池田弥三郎の父である池田金太郎が件(くだん)の怪談会に参加しており、昭和になって息子の弥三郎が「父から聞いた話」としてこの騒動を紹介した時には、すでに政治的タブーが祟りというニュアンスに置き換えられていて、「話せばよくないことが起こる」という、より怪談めいた話になっていたらしい。ちなみに池田弥三郎の著作では語りの前口上は「この文明開化の世の中に祟りなどは無いだろうから…」というもので、こうした変更はおそらく聞く側の心理的バイアスによるものだろう。明治期にささやかれた数多くの祟り話を考えれば無理もない話だ。ただ、石河光治が亡くなったタイミングはあまりにも出来過ぎで、こうした一見ありそうもない「偶然」という要素が加わると、怪談は一気に説得力を持ち、聞く者は「あるいはもしかして…」と思い始める。逆を言えば、もし仮に石河光治の死が1年後だったら、この怪談は成立しなかっただろう。

※1 池田弥三郎 国文学者・民俗学者。「日本の幽霊」は1959年の著書。

※2 「教養としての最恐怪談」 吉田悠軌 著

※3 実際には怪談会の様子はもとになる証言や記述が多様なため、細部は様々な描写が見られる(「画博堂の怪談会」等で検索)。ここでは主に「日本の幽霊」「教養としての最恐怪談」に倣って記述していることをおことわりしておく。 

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 夏と言えば…心霊は真夜中が好き?

 一昔前までは、夏といえば怪しい心霊ドキュメンタリー(と言うより、あれはバラエティーだな)が目白押しだったんだけれど、ヤラセや仕込みがバレたとかで、ここ数年は各局が自粛モード。脳内に今も中学生が住んでいる僕にとっては心寂しい限りだ。不思議なことに、今ではNHKがこの分野を牽引していたりするのだが、さすがはNHKというか、謎解きめいた内容でちっともロマンを感じない。唯一これは、と思った「業界怪談」という番組も、今年はすっかり鳴りを潜めているしなあ。

 そんなわけで、仕方なくYoutubeの心霊チャンネルを覗いたりするのだが、これがまた夜中に心霊スポットを訪れてリポートするだけで、どうも釈然としない。前にもどこかで書いたが、「音がした!」「声が聞こえた!」なんていう現象だけなら現場で何とでもなるし、たまたま撮れたという画像も説得力のあるものはほとんど無い。それに見ていていつも思うんだけど、なんで真夜中限定?確かにまともな人間は歩いていないだろうし、静かだからかすかな音声でも記録できるだろう。そんな業務上の利点以外に、「丑三つ時が一番出やすい」という話もあるけど、これって本当なのか?だって人を目指す幽霊ならいざ知らず、場所に出る幽霊はこんな時間に化けて出ても、見てくれる人なんかいないじゃんか。

 僕が好きな実話怪談でこういうのがある。ある日踏み切り待ちをしていると、線路の反対側にも女の子が一人、踏切が開くのを待っている。よく見るとなんだか向こう側が透けて見えるような…。えっ、これってもしかして…。やがて踏切が開き、恐る恐る歩き始める。そしてその女の子とまさにすれ違おうとした時、その子が自分を見上げて言う。「なんでわかったの?」思わず振り返ってみたが、女の子はもうどこにもいなかった…。これは真昼間の出来事だ。こういう話を聞くと、もしかすると普段何気なくすれ違っている見知らぬ人々の中にも、そういった存在が紛れ込んでいる可能性はあるよな、なんて思ってしまう。

 仮に心霊現象が実際にあるとして、僕がその立場になったら好き好んで廃ホテルや人里離れたダムなんかに、しかも真夜中に佇んだりはしないだろうなあ。だって怖いもん。心霊番組ではこういう場所は霊が集まりやすいとか言うけれど、本人たちに確認でもしたのだろうか?僕なら我が家や生前慣れ親しんだ場所をフラフラして、家族や知人を見守るに違いない。できれば気持ちよく晴れた空の下がいい。多分あなただってそうするだろう。もちろん地縛霊というものもあるが、それは現世で生きている我々が考え出した出現の形態であって、「そうなんです、僕、ここを離れられないんですよ」と霊が自己申告した、なんて話はあまり聞かないなあ。

 これもよく言われることだが、突然の事故で命を奪われた場合、自分が死んだことに気づかない霊がその現場に佇んでいるという説。これだって、もとは人間なんだから、1~2週間もすれば大概気づきそうなもんだ。だが海外に目を向けると、「幽霊は実態としての脳を持たないために、記憶力が極めて乏しい」などと豪語するホラー小説もあって、油断も隙もありゃしない(※)。

 Youtubeには悪戯に恐怖をあおるような動画も多いが、そもそも必要以上に恐ろしい姿で出現する意味が僕にはどうしてもわからない。死因が凄惨な事故であったとか、心を病んで瘦せ衰えていたとかいうのならまだわかるが、果たしてどれほどの人間がそんな状況に陥るだろうか。一方で、死んだはずの祖父が庭先から穏やかな優しい表情でこちらを見ていた、なんていう話もある。要するに死者の魂をこの世に繋ぎ止める要因は、恨みつらみばかりではないということだ。本来であればどちらの場合も、出現したのが誰の霊なのかわからなければ、出現する意味がない。ただし踏切の女の子のように、偶然第三者が目撃する例もないではない。その場合は後日譚として幽霊の出自が明らかになることが多い。前出の「業界怪談」という番組は、体験者への(真面目な)インタビューも交えながら、こうした死者と生者のかかわりを巧みに描いていた。NHK、早く新シーズンを制作してくれないかな。

※「わたしが幽霊だった時」ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著 現在は絶版のようだが古書はそれなりに出回っている。  

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 エルキュール・ポワロって誰だ?

 エルキュール・ポワロを知っている人は比較的多いのではないだろうか。イギリスの推理小説家、アガサ・クリスティーが創造したベルギー人の探偵だ。彼は小太りの小男で、おしゃれで美食家でちょっと自意識過剰。その武器といえば「灰色の脳細胞」だけだ。タフでもアクティブでもない。心理分析等の手法を好み、芝居がかった語りで推理を披露する。

 この特徴的な人物を、今までに数多くの俳優たちが演じてきた。アルバート・フィニー、ピーター・ユスティノフ、ケネス・プラナー…。だが何といっても「オリエント急行殺人事件(1974)」のアルバート・フィニーが、よく作りこまれていて原作のイメージに最も近いと思う。ピーター・ユスティノフはこれまでに6本の映画(TV映画を含む)でポワロを演じたが、原作にある「ちょっと己惚れたベルギー人の小男」というイメージとは少し違う気がする。

 ケネス・プラナーは2017年以降、2本の映画でポワロを演じている。自身で監督も兼任していて、ポワロの人物像はかなり変更されている。ここでのポワロは行動的でアクションもこなし、挙句の果てに「オリエント急行殺人事件(2017)」ではコルト・オフィシャルポリス(警官用拳銃)、「ナイル殺人事件(2022)」ではコルトM1911(軍用大型拳銃)まで持ち出してくる。ミス・マープルは別として、ポワロほど拳銃が似合わない探偵はいないよ?そりゃあ、ブリュッセル警察の署長まで務めた人だから、昔は拳銃ぐらい使っただろうけど…。

 キャラ設定も凝り過ぎで、原作にない過去が次から次へと明かされる。第一次世界大戦で顔に傷を負い、それを隠すために髭を生やしたとか、いったい誰の話?ポワロは戦火を避けてイギリスに亡命してるんだけど。ここまで設定を変えてしまうと、同時代に同姓同名の、行動的で性格の歪んだ探偵がもう一人いたと考えたほうがいいぐらいだ。僕に言わせれば、これは前回紹介した、時代設定ごと「改変」されたフィリップ・マーロウとは違い、なんとも中途半端な気がする。だがケネス・プラナーのポワロは「変革」を容認する層には人気があるらしく、一定の評価を得ているのも事実だ。

 TVドラマに目を移すと、1989年から放送されたイギリス発の「アガサ・クリスティーズ・ポワロ」がすこぶる評判が良い。不定期ながら2013年まで続いたこのTVドラマでポワロを演じたのは、イギリス人俳優のディビッド・スーシェ。ポワロのイメージを決定づけたとされる名演技を見せた。容貌や背格好もまさにエルキュール・ポワロ。そして何よりも、頭が原作通り卵型。(笑)

 このTVドラマのもう一つの魅力は、時代考証を含め、かなり丁寧に制作されていることで、当時の蒸気機関車や客車、乗用車や航空機などがこれでもかという勢いで登場し、ファッションや小物も視る者の目を楽しませてくれる。加えてオリジナルメンバーのヘイスティングス大尉やスコットランドヤードのジャップ警部、秘書のミス・レモンが魅力的かつ個性的に描かれていて、その掛け合いも楽しい。

 日本ではNHKが1990年から2014年まで「名探偵ポワロ」というタイトルで放送し、その後も現在に至るまで複数の局で何度も再放送されているので、見たことのある人も多いだろう。これ以外にもTVドラマやTV映画はいくつかあるのだが、どれも語り継がれるほどの出来ではなかったようだ。

 ということで、個人的な見解としては、映画ではアルバート・フィニー、TVドラマでは文句なしにディビッド・スーシェということになる。どうしても一人に絞れ、と言われれば、ここはディビッド・スーシェで決まりかな。

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 フィリップ・マーロウって誰だ?

 私立探偵フィリップ・マーロウ。若い人は知らないかもしれないが、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーが書いたハードボイルド(※)小説(シリーズ)の主人公だ。クールかつタフでありながら、やさしさを心の奥底に秘めているという人物像で、映画の世界では数多くの俳優が彼を演じてきた。有名どころではハンフリー・ボガードやロバート・ミッチャム、最近では2022年の「探偵マーロウ」でリーアム・ニーソンが演じている。

 原作者のレイモンド・チャンドラーが活躍したのは1930~1950年代なので、探偵のイメージはトレンチコートにソフト帽といったところだろう。僕が思うに、そのイメージに最も合っているのは「さらば愛しき人よ(1975)」のロバート・ミッチャムだ。「三つ数えろ(1946)」のハンフリー・ボガードも悪くないが、ハリウッド俳優としては体が小さく(身長173㎝)、画面からタフというイメージを汲み取るのはちょいと難しい。それに比べてロバート・ミッチャムは183㎝、体重は90kg。原作の設定に近く、ちょっとやそっとでは参らない風体だ。あまり表情の変わらないクールな面構えも私立探偵らしくていい。だが誰が一番好みのマーロウかと問われれば、話はちょっと違ってくる。

 数あるフィリップ・マーロウ物の中でも傑作と言われている「ザ・ロング・グッドバイ」。この小説が映画化されたのはだいぶ遅く、アメリカン・ニューシネマ全盛の1973年だ。物語の舞台も1970年代に置き換えて制作され、エリオット・グールドがフィリップ・マーロウを演じた。この映画では、マーロウは普段はぶつぶつと愚痴をこぼしながらも、大抵のことは「どうでもいいけど」「大したことじゃないし」とスルーする適当な男だが、「どうでもよくない」ことには徹底的にこだわる。彼は好き嫌いの激しい猫を飼っていて、映画の冒頭では深夜に餌が切れていることに気づき、お気に入りのキャットフードを探してスーパーをさまよったりもする(わざわざくたびれたネクタイを締めて出かけるんだぜ)。この導入部は映画のオリジナルで、エリオット・グールドはこういうちょっととぼけた人物を演らせるとピタリとはまる。

 肝心のストーリー(ネタバレあり)は不倫がらみの殺人事件を描いている。マーロウは友人と思っていた男にいいように利用され、最終的に3人の人死にが出るが男は意に介さない。原作では終盤、自殺を装いメキシコで優雅に暮らしていたその男がやってきて、何食わぬ顔でまた飲もうぜと誘うが、マーロウはそれを断り、別れを告げる。だが映画のエンディングは原作と大きく異なっている。

 マーロウは彼がメキシコに潜伏していることを突き止め、男のもとを訪れる。二言三言会話を交わし、確証を得ると、表情一つ変えずに拳銃を抜き、1発でケリをつけて唾を吐く。普段の飄々とした態度と打って変わって、問答無用で引き金を引く姿に見るものは唖然とさせられるが、彼は何事もなかったかのようにハーモニカを吹きながら、男の家を後にする。

 確かに原作のイメージからはかけ離れているが、時代に合わせた改変はかなり成功していると思う。そう、世の中にはどうでもいいことって結構多いのだ。いちいち取り合うほど人生は長くない。だが見過ごせない物事については容赦しない。これぞ70年代版ハードボイルド。ということで、僕にとってはこのエリオット・グールド版が一番性に合う。

 映画自体、主人公が人一人殺しておいて、事後処理とかどうするんだろうと心配になるが、それこそ「ま、どうでもいいか」と思わせてくれる、名匠ロバート・アルトマン監督による快作だった。カルトムービーとして令和の今でも、いや、令和のこんなご時世だからこそ、支持され続けているのも頷ける。音楽はかのジョン・ウィリアムス。たった1曲を多彩なアレンジで使いまわしている。挿入歌の「ハリウッド万歳」も効果的に使われていて、聞きごたえあり。

※ ハードボイルドとは元来固ゆでにした卵などのことで、中身が固まって流れないことから「感情に流されない」ことを意味する(諸説あり)という。主に文学の表現方法を指す言葉で、客観的かつ簡素な文体で、感情表現を交えず、写実的に表現する手法のこと。アーネスト・ヘミングウェイに始まり、レイモンド・チャンドラーらが確立したと言われている。内容的にも情に流されず、感情を表に出さない主人公が多く描かれてきたので、今ではそうした生き方を表現する言葉としても使われている。

追記 映画「三つ数えろ」の原作は「大いなる眠り」。同じく映画「探偵マーロウ」の原作はベンジャミン・ブラックが書いた「黒い瞳のブロンド」。「ロンググッドバイ」の続編として公認されている。 

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 夏といえば…貞子再び

 古い話で恐縮だが、1998年に公開され、日本の幽霊のイメージをあっという間に塗り換えたホラー映画、「リング」。ビデオ映像として現れ、さらにTV画面を通り抜けて現実世界に出現するという、提灯お岩も真っ青の貞子の登場は、文字通り一世を風靡した。これ以降、インチキ心霊動画に登場する霊は洋の東西を問わず、ほとんどすべてが白いワンピースに長い黒髪という姿に統一されたといってもいいぐらいだ。そんな貞子だが、僕にはいまだに答えが出ない疑問がある。

 映画「リング」の終盤で、貞子がTV画面を抜けて出現するシーンがあるが、その時使われたTVの画面サイズは26インチぐらいだろうか。貞子はもともとビデオ映像の中の存在なので、そのサイズは画面の大きさに比例して大きくなったり小さくなったりするはずだ。そこで問題。もし仮に、身近にワンセグ携帯しかなかった場合、出現する貞子のサイズはどうなるのだろうか。あるいは逆に街頭のパブリックビューを通して出現したら?

 もう一つ、映画で貞子が出現したTV画面はどう見てもスタンダードサイズだ。それがもしビスタサイズやワイド画面に対応したTVから出現すれば、横幅が強調されるだろう。その場合、少し太めの貞子が現れるのだろうか。

 原作によれば貞子は半陰陽(睾丸性女性化症候群?)ながら「見たこともないような美人」で、19歳でこの世を去っているようだから、横幅の強調された太めの姿で出現することを嫌うかもしれない。もしこの憶測が当たっているとすれば、貞子から身を守る一つの方策が得られるのではなかろうか。つまりTVの画面選択を「ワイド」に設定しておけばいい。口裂け女の「ポマード」と3回唱える撃退法よりはるかに現実的だろう。ちなみにレターボックスサイズは無効です(我ながらしょーもないことを論じている気がしてきたぞ)。

 こうした視聴者の心配(?)をよそに、映画を見る限りでは、貞子は今のところ常にリアルサイズで出現しているようだ。現実の世界ではネット環境が整い、TVよりもパソコンやスマホで動画を見る世代が増えてきたこともあって、後発の貞子関連のホラー映画、特に海外版では呪いのビデオ(というか動画)がパソコン等に保存されたり、ネットを通して拡散したりしている。もし貞子がリアルサイズで現れるとしたら、一般のパソコン画面やスマホから出現するのはサイズ的に不可能だろうが、そのあたりは出現シーンを割愛したり出現方法を変更(髪の毛だけとか黒い水だとか)したりしてうまく誤魔化しているようだ。ところで呪いのビデオ(動画)がネットで拡散した場合、その伝達速度や到達範囲を考えると、死の宣告である無言電話をかけるのも大変だろうなあ。AIとか導入するんだろうか。それともいっそのこと、DM一斉送信か?

 こうした世の中の進歩を考えると、もしかしたら呪いを成就させるためにこういったシステムを採用してしまった山村貞子さんは、今になってものすごく後悔しているかもしれない。

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 ニコンZfcとオリンパスOM-4

 最近京都に旅行した折に、今年購入したばかりのニコンZfcを連れて行った。いつもならメイン機のDfを持って行くところだけど、何しろでかくて重い。軽量コンパクトなZfcを正式デビューさせるには良い機会だ。

 ところで僕は普段、中央部重点測光を選択して撮影することが多い。理由は単純で、フィルムカメラ時代に長きにわたって愛用したF3が中央部重点測光だったからだ。慣れればこの測光パターンとAE/AFロックを併用するだけで、ほぼ思い通りの露出が得られる。DfとサブのD300は、メニューを開かなくても背面のスイッチで測光範囲の切り替えができるので、とても重宝している。だがAE/AFロックボタンの位置はちょいと難ありで、特にD300はよほど手の大きな人でないと使いづらい。Zfcについても、こうした点を踏まえて、「道具」としての操作性や即応性を確認しておきたかった。

 余談だがその昔、僕はオリンパスのカメラを愛用していて、マニュアルフォーカスのハイエンド機、OM-4を使っていた時期があった。このカメラは通常の中央部重点測光のほかに「マルチスポット測光」という機能があって、これはファインダー内の最大8か所をスポット測光して平均化し、最適な露出を決定するというものだった。確かに魅力的に聞こえるけど、実際使ってみると、撮影者がどこを何点測光するか自分で判断しなければならず、相応の経験値がなければ使いこなすことは難しかった。「道具」というものはスペックだけでは語れない部分がある。結局このカメラでも中央部重点測光を使うことが多く、あえてOM-4を使う理由がなくなってしまった。こうなるとオリンパスはもう後がない。そこで意を決してニコンF3を購入、以来ニコンのカメラを使い続けている。

 さて、今回のZfcだが、ニコン伝統の若干アンダー気味な露出の傾向は健在で、ボディが小さいので、例のAE/AFボタンもD300に比べてはるかに使いやすい位置にある。測光範囲切り替えスイッチは無いが、プログラムモードでiメニューを開き、前もって設定しておけば、プログラムモードを選択することで切り替えることができる。正直ボディの仕上げはプラスチッキーだし、APS-Cサイズのセンサーも好みじゃないけど、撮れた画像自体は悪くない。白とびや黒つぶれは最小限で、解像度もまあまあだ。なるほど、これがAPS-Cセンサー特有の「レンズの中央だけを使った画像」というやつか。このボディサイズでDfと同じ操作感、しかもこのレベルの画像が得られるのなら言うこと無し。少々難があったグリップの感触も、市販のボディケースを使うことでかなり改善した。残るはZマウントの問題だけだ。

 僕が持っている交換レンズはすべてFマウント。Zマウントのカメラには使えない。じゃあ、なんでZfcを購入したのか。それは単にデザインが気に入ったからで、つい魔がさしたというか…(笑)。でもレンズキットに同梱されていたDX16-50mm、これはフルサイズに換算すると、ほぼ24-75mmにあたる。使いやすい焦点域だ。沈胴式なので嵩張ることもない。気軽に撮影するには十分で、今回の旅行でも不自由を感じたことはほとんどなかった。しばらくはこれ1本でもいけそうだ。それに、いざとなればマウントアダプターを使う手もある(純正品あり)。

 Zfc+DX16-50mmは気軽に持ち歩くのにはもってこいの組み合わせだ。必要十分なパフォーマンスを持っていると思う。ただ一つ不満なのはデジタルビューファインダーの見え方だ。あの人工光源の下でのギラギラした感じはいまだに馴染めない。まあ、これは慣れるしかないかな。

 OM-4のシャッターボタンまわり。小さな丸いボタンがスポット測光ボタン。四角の小さなボタンは白を白く、黒を黒く描写するための露出補正ボタン。それぞれプラス・マイナス1.5EVの補正をワンタッチで行えるが、使ったことは無い。シャッター速度はレンズマウントのリング(青と白の数字が見える)で操作する。
 OM-4とZfc。ZfcにはTPオリジナルのボディケースとF-Fotoのフードを取り付けている。OM-4のサイズを考えると、よくもまあ、あれだけ複雑な露出機構を組み込んだものだ。執念としか思えない。確かによくできたカメラではある。

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 15年ぶりの「魚三楼」

 前回も書いたように、京都に行ってきた。今回の旅にはいくつかこだわりがあって、そのうちのひとつが「魚三楼の弁当を食べること」だった。

 2009年の5月初旬、まだ教師だった僕は修学旅行の引率で京都に来ていた。生徒たちが二日目の班別活動をしている間、学年主任の僕は本部(宿)で待機。外回りの先生たちはチェックポイントを巡回しながら、昼食は好きな店で好きなものを食べることができるが、本部待機は出前をとるぐらいしか術(すべ)がない。それが面白くなかった僕は、添乗員にちょっとした「お使い」をお願いすることにした。宿は京都駅のすぐ近くで、JR京都伊勢丹の地下には料亭の京弁当を扱うコーナーがある。そこで弁当を買ってきてもらおうというのだ。

 僕は「5,000円までなら出す!」なんてことを言ったと思う。するとその熱意に負けたのか、3人の添乗員のなかで一番の若手が、この「お使い」を快く引き受けてくれた。彼は「伊勢丹の地下は行ったことがないので、後学のために見学を・・・」などと呟きながら出かけて行き、しばらくして「魚三楼」という料亭の弁当が届いた。3,500円ぐらいだったか、二段構えの立派なもので、これがとても美味しかった。今まで食べてきた弁当の中でもトップクラスだろう。

 その味が忘れられなかった僕は、8年後の修学旅行で再び駅近の宿に当たった時に、今度は自分で伊勢丹まで出向き、昼食用に魚三楼の弁当を探した。ところがこの時は早々と売り切れていて、次に入荷するのは3時過ぎだという。仕方なく他の店の弁当を買って帰ったが、この弁当は全く記憶に残っていない。

 そんなわけで、今回の旅では再度「魚三楼攻略」に挑戦した。一日目の夕食に弁当を食べる計画を立て、念のために宿に持ち込みの許可ももらった。弁当自体も予約が可能ということなので、伊勢丹のショップガイドで調べてみたところ・・・なんと、(当日の)火曜日は魚三楼の弁当の入荷が無いではないか!もしかして、僕は嫌われてるのか?一度ならず二度までも、夢は潰えるのか・・・いやいや、諦めてなるものか。そういう事ならこっちにも考えがある。最終日の昼食に弁当を買い、帰りの「のぞみ」のなかで食べればいい。そうすれば京都での活動時間も増える。一石二鳥だ。

 ということで最終日の昼、最後の望みをかけて伊勢丹のB2Fに赴く。予約する余裕がなかったことに加えて、もう1時近いので売り切れてやしないかと不安だったが、店に着くと、レジの後ろに掲げられたパネルに「魚三楼」と書かれた木札が掛かっていた。在庫がある印だ。よし、間に合った!こうして僕は、念願だった魚三楼の弁当をやっと手に入れることができた。実に15年ぶりのことだ。お値段は2,970円と、以前よりお安くなっている。それがちょっと気になるが、まあ良しとしよう。

 「のぞみ」の座席に座るやいなや、弁当を取り出し、包みを解く。おお、見覚えのある料理があるぞ。だし巻き卵、小芋を炊いたもの、鳥松風・・・久しぶりだね。元気だったかい?おっ、こっちは新顔か。海老彩りあられ揚げ?またまた、手の込んだことを。それにこの御飯。君にはいつも驚かされるよ。今回は新生姜御飯か。そこに鱧の鞍馬煮が添えてある。前回は上品な味つけの豆御飯と鱧寿司、それにおこわも入っていたっけ。なんだか前より少しやつれて見えるけれど、味わいはあの頃と変わっていないね。

 「魚三楼」は伏見にある老舗の料亭で、創業は1764年。格子戸には鳥羽伏見の戦いでできた弾痕が残っているそうだ。料理の方は伏見港で揚がる鮮魚と京野菜を中心に、伏見の名水を使って調理してある。ランチメニューは諸々込みで6,000円、弁当なら2,970円で食べられる。勿論お店で食べるのとは内容が大分違うが、それでも「魚三楼」を味わうことはできる。ちなみに夜の会席コースは10,000円~40,000円。一度お店にも行ってみたいものだが、食事のために伏見に宿を取り、数万円の旅費をかけるというのは、贅沢に過ぎるような気がする。やはり「事のついでに弁当」あたりが分相応ということか。

 2009年に食べた、確かこれは「母の日弁当」だったかな。箱は木箱だった。おかずは絢爛豪華、御飯も凝っていた。豆御飯の左にあるのは鯛の笹寿司。
 今回の「行楽弁当」。正直なところ、料理の格が少し下がったか。箱もスチロール製。このご時世に値を下げていることを考えれば、それも致し方ない。海老とトコブシが消えたのが寂しい。

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 古都京都は一体どこへ行くのだろう

 家族で京都へ行ってきた。多分6年ぶりぐらいか。教員だった頃は修学旅行で何度も訪れたものだが、何しろ仕事だから、そうそう行きたいところへ行けるというものでもない。プライベートでも3~4回は行っているはずだが、何しろ京都は見るべきものが多すぎる。そんなわけで、今回は各人が今まで行ったことのないところをカバーするコースを組んでみた。それともう一つ、外国人でごった返していそうなところはできる限り避けた。例えば清水寺とか。だがカミさんや下の娘が希望している伏見稲荷と貴船神社については、これはまあ、致し方ない。それから、僕が行ったことのない上賀茂神社と下鴨神社。これも同様。さて、どうなることやら。

 まず一日目の伏見稲荷だが、ここはもう最悪だった。千本鳥居なんてそれでなくても行列ができているのに、韓国人だか中国人だかの観光客が所々で立ち止まってはポーズをとり、同じ国籍とおぼしき随伴のカメラマンがそれを撮影。そのたびに行列が停滞するという、何とも腹立たしい光景が随所で見られた。ポーズのみならず、ナルシシスティックな表情まで作るので、見ていてイライラすることこの上ない。おそらくある種のツアーなんだろうけど、それにしたってあんな写真、何に使うんだ?そもそもカメラマンはちゃんと許可を取って商売しているんだろうか。ちなみにそこから少し南に下った、あじさいで有名な藤森神社は、参拝者もさほど多くなくて、そのほとんどが日本人。外国人観光客も気圧(けお)されるのか、普通に神社らしい佇まいだった。

 今回僕たちは、娘の希望で純和風旅館に宿泊した。八坂神社から歩いて5分ほどのところにある「き乃ゑ」という宿で、僕たちの他に日本人の客はもう一組だけ。他は全て外国人らしい。なるほど、館内で日本人に会わないわけだ。

 翌朝、明るくなるのを待って朝の散歩に出かけた。八坂神社の境内を一回りした後、八坂の塔まで路地を歩き、7時過ぎには戻って朝食をとった。宿の立地が良かったので、次の日も朝のうちに建仁寺、安井金比羅堂、六道珍皇寺を見て回ることができた。そんな道すがら、街が動き始めるのを見るのも好きだ。6時を回ると、出勤前のサラリーマンが境内の自販機で缶コーヒーを飲んでいたり、地元のおばあちゃんが朝の散歩がてらにお参りしていたりする。そういった光景もまた一興だ。京都本来の姿を垣間見たような気になる。

 二日目の下鴨神社と上賀茂神社はなぜか人出が少なくて、思ったより楽しめた。下鴨神社の大炊殿や、葵祭で使う唐車(牛車。中が思いのほか狭くてビックリだ)はちょっとした見ものだし、古代の姿をそのままに伝えるという糺(ただす)の森も、6月の強い日差しを避けるのにちょうど良い。上賀茂神社にも涉渓園という木々に囲まれた広い庭園があり、ここも快適だった。神馬(しんめ)にも会いたかったけど、残念ながら平日には出社(そう言うらしい)しないそうだ。

 昼食を兼ねて向かった貴船神社周辺は、タトゥーの入った男性や露出の多いヘソ出しファッションの女性がやたらと多かった。話している言葉を聞く限り、この手の女性はほとんどが韓国人。神域でヘソ出しとか、違和感しか感じない。一方タトゥー男子は圧倒的に欧米人が多い。これも不敬といえば不敬。隠す努力ぐらいしろよ、と言いたい(言ってもわからんだろうけど)。本宮はこういった輩で混雑していて、正直お参りどころではなかったけれど、そこからさらに登った奥宮は思ったより人が少なかったので、心静かに参拝できた。

 川床で昼食をとり、午後は北野天満宮に、今回は参拝というより宝物殿の刀剣を見に行った。ここには100振りの刀剣が納められていて、現在その一部、20振りほどが公開されている(~6/30)。境内の西側を占める「御土居(おどい)のもみじ苑」も同時公開中で、今が盛りの青もみじを堪能できた。「御土居」とは豊臣秀吉が作った洛中を囲む土塁のことで、境内に残る遺構には350本のもみじが植えてある。

 老舗の和菓子処「老松」で夏季限定の和菓子、「夏柑糖」を購入した後、平安京を守る四神獣のひとつ、「玄武」が住むという船岡山へ。ここには信長ゆかりの建勲神社があり、中腹からは京都の市街を一望できる。階段は多いが、人が少ないのでゆっくり参拝できた。「夏柑糖」は宿で冷やしてもらい、夕食後のデザートとして美味しくいただいた。

 最終日は、まず馴染みの和菓子司「塩芳軒」で土産を発送する手配をした。その後、僕の趣味で鉄道博物館へ。ここには現在、16形式17両(と聞いている)のSLが動態保存されていて、その昔SLファンだった僕にとっては天国のような場所だ。最後は女性陣の希望でJR京都伊勢丹B1Fへ。ここで買いそびれた土産を探す。大抵のものは揃うので、とても便利。

 というわけで、今回訪れたなかではなんといっても伏見稲荷と貴船界隈が混雑していたかな。北野天満宮も人は多かったけど、僕たちは早々に宝物殿やもみじ苑に回ったのでそれほど影響はなかった。その他の場所は6年前のイメージとさほど変わらなかったように思う。

 ところで今回の旅、京都に来たという実感があまりなかった。外国人ばかりが目につき、聞こえてくるのも大方が外国語。これは事前に聞いていたことだし、ある程度覚悟もしていた。だがもう一つ、気になることがあった。それは街角の看板だ。英文の他に韓国語や中国語が併記されるようになり、文字も大きく、やたらと目立つ。特にハングル文字はデザインが単純なこともあって、遠くから見てもその印象は強烈だ。これじゃコンビニの外装や信号機の色を考慮してもあまり意味がない。「国際観光都市」と言えば聞こえはいいが、「古都京都」の存在意義を考えると、どこまで客のニーズに歩み寄るかは改めてよく考えた方が良いような気がする。

 以前の京都は訪れる側が知らず知らずのうちに包み込まれ、感化されていく、そんな魅力を感じたものだけれど、今回見た京都は侘びも寂びも感じられない国籍不明の大都市だった。景観としての大量の人間のイメージが、こうまで都市の印象を変えてしまうとはね。これで雨でも降っていれば、まるで「ブレードランナー」だ。これから先、京都はどうなってしまうんだろうか。

 伏見稲荷で撮った1枚。人の写らない場所を探すのに苦労した。
 これも伏見稲荷の一角。キツネ・・・じゃないよな、どう見ても。
 北野天満宮、御土居のもみじ苑。閉園間際(15:40受付終了)ということもあって、人がほとんどいなかった。
 旅館「き乃ゑ」の入り口。純和風とは言うものの、中はエレベーターに加えて絨毯敷きのロビーがあったり、客室の窓枠が白木を模したアルミサッシだったりで、外観よりは現代的。

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 やっちゃえ、タミヤ!

 プラモデルの老舗メーカーである田宮模型(以後タミヤ)が、なんだか面白いことをやっていたらしい。このところ絶版プラモの収集という沼にはまっていた僕は、このことに全く気付かなかった。不覚だった・・・!

 タミヤが2000年に、エンジン音、主砲や車載機銃の発射音、主砲のリコイルなどを再現した1/16RC(ラジオコントロール=ラジコン)戦車を発表した時は、正直ここまでやるか、と驚いたものだが、今回の企画はもっと気軽に楽しめて、おまけにちょっぴり懐かしい。

 タミヤはここ20年ほどの間に、1/16RC戦車で培ったノウハウを生かし、往年の1/25キットにRCユニットを載せて復活させたり、主力である1/35戦車キットをRC化したりして、動く戦車プラモを拡充させてきた。タミヤは戦車プラモのラインナップが充実していることで有名だが、調べてみると、こうした動く戦車プラモの歴史は1962年までさかのぼることができる。実はこの時発売した最初の戦車プラモが当時存続の危機に直面していたタミヤを救ったという過去があり、以来タミヤは戦車プラモとともに歩んできた、と言っても過言ではない。

 1950年代の末、模型業界は木製模型からプラモデルへの転換期を迎えていたが、この動きに出遅れたタミヤは1962年、社の命運をかけて「パンサータンク」というモーターで動くプラモデルを発売した。するとこれが大当たり。危機を脱したタミヤはこれを1/35スケールとしてシリーズ化、次々に新製品を世に送り出した。

 1968年、タミヤは1/35ミリタリー・ミニチュア(MM)シリーズと称して、新たにディスプレイ専用のシリーズを発表。もとより模型といえばディスプレイモデルが主流だった海外の事情も視野に入れ、より精密かつ正確な再現度のキットを目指した。その後タミヤオリジナルの工具等も続々とラインナップ。こうしてプラモデルは「子供のおもちゃ」から「大人のホビー」へと変遷していった。

 1980年代になると、ガンダムなどのキャラクター商品の台頭と時を同じくして戦車模型離れの時代が訪れたが、1989年、タミヤは渾身の名キット「タイガーⅠ型後期生産型」で、離れかけたモデラーの心を繋ぎ止めることに成功。その後新たなブームが訪れ、戦車模型専門誌まで発刊されるなか、動く戦車プラモの集大成として、2000年にⅠ/16RC戦車シリーズが発表されたことは先に述べた通りだ。そして2012年。

 この年タミヤは、MMシリーズのクオリティを維持しつつ、新設計のギヤボックスを搭載した「1/35戦車シリーズ(シングル)」を発表し、ファンを驚かせた。62年前の「パンサータンク」の遺伝子を正しく継承した、「動く戦車プラモ」だ。しかもその第一弾となったキットの一つはパンサーG型。つまり62年前にタミヤを救ったあの「パンサータンク」なのだ。

 そもそもパンサー戦車の足回りは、1/35程度のスケールでは自重で弛む履帯(キャタピラ)の再現が難しく(実際ポリキャタピラではいまだに再現されていない)、動く戦車には向かない。それをあえて第一弾にもってきたとなれば、何らかのこだわりがあったとしか思えない。おそらく企画する側にとっても、「パンサーG型」は原点回帰を狙ってのアイテム選択だったのだろう。ちなみに「シングル」とは、本体についているスイッチで前進のみ(キットによっては後進も)が可能なキットのことで、初代「パンサータンク」もこの方式だった。

 僕がこのシリーズを知るきっかけになったのは、2014年の「イギリス戦車マークⅣ(シングル)」の発売で、実際にシリーズ化されていることを知ったのは、さらに10年後の今年に入ってからだった。この新しいシリーズはスキルレベルがそれなりに高く、往年のキットのように子供が気軽に楽しめるものではないが、1960~1980年代のタミヤを知るものにとっては懐かしく、楽しいキットであることは間違いない。でも僕個人としてはあまりこのシリーズを拡充されると困るなあ。なぜかって?言わなくたってわかるでしょう、そんなこと。

左 イギリス戦車マークⅣ(2014年発売)  右 アメリカ軍M4A3シャーマン戦車(2012年発売、買ったのは今年)どちらもまだ汚しはかけていない(マークⅣは勝手に汚れていた)。ギヤボックスが工夫されていて、それぞれスケールに見合ったスピードで走る。楽しい。次はパンサーGか。