カテゴリー
未分類

 「ビッグフィッシュ(2003年)」

 最近、WOWOW等で録りためていた映画を少しずつ鑑賞している。でないとハードディスクがいっぱいになっちゃうからね。

 あらためて確認すると、録ったはいいがそのことさえ忘れてしまっているような映画も結構あって、こうした映画たちはそのほとんどが未鑑賞。今回触れる「ビッグフィッシュ」もそんな映画の一つだ。

 監督のティム・バートンはご存じのように癖の強いクリエイターで、僕は作品によって好き嫌いがはっきり分かれる。「シザー・ハンズ」や「バットマン」、「スリーピー・ホロウ」は好きだが、「チャーリーとチョコレート工場」や一連のアニメーションとなるとどうも興味がわかない。だから「ビッグフィッシュ」も今まで何となく保留していた。だが今回初めて鑑賞して思った。これ、なかなかいい作品じゃないか。自分の過去についておとぎ話のような話しかしない父親と、すでに結婚している息子の、心の葛藤と交流をティム・バートンらしいタッチでまとめあげている。この監督特有の、ちょっとダークで不気味な味わいが父親の語る回想シーンだけに抑えられていて…いや、一瞬例外もあったかな?とにかく話の流れを妨げることはなかった。

 驚いたのは父親を演じているのがアルバート・フィニーだったことだ。年は取れどもさすがは名優。メイクなしで「スクルージ」が演じられそうな貫禄だった(※)。一つだけ難を言えば、恰幅が良すぎてとても死期が迫っているようには見えなかったけど。

 実はこの映画を見ていてある既視感を感じた。それは映画のなかほどでエンディングがわかってしまうほどのもので、具体的に言うとストーリーの骨子が同じ2003年の映画「ウォルター少年と、夏の休日」にそっくりなのだ。この映画では奇想天外で冒険活劇のような過去を語る破天荒(訪問販売員をショットガンで蹴散らすとか)な大叔父たちと、ひと夏彼らに預けられた不遇な少年の心の交流が描かれているのだが、後日談として大叔父たちが事故で亡くなった直後、訃報を聞いて中東からある人物が訪ねてくる。成人したウォルターが出迎えたその人物とは…という流れ。なるほど、金持ってるわけだ。

 パクリだ!と言うつもりはない。僕としてはむしろ大歓迎だ。こういう現代のおとぎ話的なストーリーは大好きだから。「ビッグフィッシュ」が気に入った人は、多分「ウォルター少年と、夏の休日」も楽しめるに違いない。

 もう一つ、亡くなった父親が息子の心象風景の中で、川に住む大物「ビッグフィッシュ」に姿を変えて泳ぎ去るくだりは、僕のベストムービーである「我が谷は緑なりき(1941年)」のラストシーンで語られる「父のような男に死というものはない」というモノローグを思い出させる。また、妻となる女性に思いを伝えるシーンでは一面に咲き誇る黄色い水仙が印象的だったが、「我が谷は緑なりき」の中でも、事故で足のマヒした幼い主人公が牧師と水仙の花を見に行く約束をして、翌年の春に水仙の群生の中を、よろめきながらも自力で歩くシーンがある。偶然と言ってしまえばそれまでだが、制作陣のなかにもあの映画が好きな人がいるのかも、なんて思うと妙に嬉しかったり。そんな楽しみ方もできたので、この映画は好きな部類に入れておくことにしよう。

 余談だが、2001年にS・スピルバーグとT・ハンクスが制作した戦争TVドラマシリーズ、「バンド・オブ・ブラザース」のオープニングにも「我が谷は緑なりき」から持ってきたと思しきシーンがある。それは数人の兵士が草むしたなだらかな丘を降りてくるシーンなのだが、これにそっくりの構図で、主人公の成人した兄弟たちが同じように草むす丘を降りてくるシーンがある。それは映画のラスト、主人公が遠い昔を振り返る回想シーンの中の一場面で、個人的には間違いなく模倣だろうと思っている。多分同じことを感じた人が世界中にたくさんいるはずだ。これは名作の宿命なんだろうな。

 映画を長年たしなんでいると、いろいろな楽しみ方ができる。「ビッグフィッシュ」は久々にそんなことを痛感することができた映画だった…などと言いつつ、「ビッグフィッシュ」についてあんまり語ってねえな。まあいいか。いやー、映画って、ほんとにいいもんですね。それではまた!お会いしましょう。

※ 1970年の、「クリスマス・キャロル」をミュージカルにした映画、「スクルージ」でエイジングのメイクを施し、スクルージを演じている。彼はこの時34歳だった。

カテゴリー
未分類

 昔は良かった…

 「昔は良かった…」といえば、「今どきの若いもんは…」と並んで、年寄りの愚痴の典型みたいなことになっている。僕はまだ年寄りではないが、なぜかここ5~6年、「昔は良かった」と思うことが多くなった。でもこれって、いくらなんでも早すぎないか?

 前回の記事で紹介した「ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ」というコンサート、これは1981年に催されたんだけど、この時ダニー・ケイはすでに70歳。老骨に鞭打って指揮者を演じ(?)、素晴らしいパフォーマンスを披露してくれた。これぞエンターティナーとでも言うべき芸達者ぶりだった。そして彼はこの抱腹絶倒のコンサートをささやかなスピーチで締めくくっている。

 「皆さんは今日、素晴らしいことをしたのです。」彼はこう切り出し、人生のすべてを音楽にささげた楽士たちと、その楽士たちの演奏に耳を傾け、惜しみない拍手を送る観客が、互いに支えあってこのコンサートを素晴らしいものにしたのだと語った。それは一流の芸人として生きてきた彼自身の感謝の言葉でもあったと思う。そして彼はこう続ける。

 「私たちは奇跡に満ちた愛すべき国に生きています。」アメリカはあらゆる国籍、人種、宗教の人々に扉を開いている。そして基本的な自由がある。だから人々はアメリカに魅了されるのだ、と。このコメントはユダヤ系移民の子供として生まれ、その才能を認められて成功した彼の実感だったに違いない。だがもちろん、アメリカはすべての人々に寛容だったわけじゃない。

 当時のアメリカも、水面下では人種差別や紛争など、多くの問題を抱えていた。それでも理想を捨てなかったから、そこに夢や希望が生まれたのだろう。ダニー・ケイは長年にわたってそんな夢を支えてきたエンターティナーの一人だった。

 彼の没年は1987年。あれから40年近くが過ぎ、世界にその名を知られるようなエンターティナーの話題は聞かなくなった。古き良きエンターティンメントは滅びてしまったんだろうか。実際のところ、今のアメリカにはささやかな夢すら生き残れそうにない排他的な雰囲気が蔓延している。一部の人々にとって、今後さらに住みにくい国になるであろうことは火を見るよりも明らかだ。アメリカにとって、「昔は良かった」という言い回しは単なる年寄りの常套句ではなく、現実の問題になりつつある。日本はどうだろう。世界は?

 そのうち、僕も年寄りと言われる時代が来るだろう。そんな僕が「昔は良かった」とつぶやいたときに、「また爺さんの『昔は良かった』が始まったよ」なんて言われるような世の中だといいんだけど。今を生きる若者から、「ホント、その通りですね」なんて言われるようじゃ、それこそ後がないもんな。

カテゴリー
未分類

 引きこもりなのかな。 (R50指定?)

 最近ちょっと気になっている。僕は昭和という時代に引きこもっているのではないだろうか。

 なぜそんなことを考えるようになったのか。事の起こりは新年あけてすぐにYoutubeで見つけたある動画だった。それは1990年の2月(だったかな)に行われた、アメリカのエンターティナー、サミー・デイヴィスJr.の芸歴60周年記念アニバーサリーの動画だった。このアニバーサリー・イベントに集まった顔ぶれがすごい。フランク・シナトラ、グレゴリー・ペック、クリント・イーストウッド、グレゴリー・ハインズ、ボブ・ホープ、シャーリー・マクレーン、ステイビー・ワンダー、リチャード・プライヤー、ディーン・マーチン、マイケル・ジャクソン、ディオンヌ・ワーウィック等々。そして総合司会はエディ・マーフィー。いずれ劣らぬ名優・エンターティナーたちだ。僕が子供の頃、両親とTVで親しんだ人たちも多い。このころはみんな生きていたんだなあ。

 勢いにのって検索を続けると、次に見つけたのは「ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ」というコンサートの動画(※)。あー、これ子供の頃にTVでやってたよ。確か「世界のショー」とかいう枠だった。コンサートとは言うものの、俳優でコメディアンのダニー・ケイが面白おかしく指揮をして観客を笑わせる、まさしくこれはショーだ。あの頃のNHKはレベルの高い海外のエンターティンメント番組をよく流していた。有名なミュージシャンのワンマンショーや、大道芸人のパフォーマンスを特集した番組もあったっけ。楽しかったなあ。今のNHKからは想像もつかない。

 何度も書いているように、僕は子供のころから1950~60年代の洋画や洋楽に慣れ親しんできた。そんな僕がこういった動画を見ていると、もの悲しい気分に陥ることがある。というのも、動画で見たスターたちのほとんどが、今はもういないことをあらためて実感してしまうからだ。例えば先ほどのサミー・デイヴィスJr.だが、実はアニバーサリー・イベントの3か月後に亡くなっている。他の出演者たちも、前記したメンバーのうち、司会のエディ・マーフィーを除けば今は4人しか残っていない。しかもそのうち二人は90歳を超えている。生涯にわたって多くの観客を楽しませてきたあのダニー・ケイも、1987年に76歳で亡くなり、今はもういない。

 彼らが活躍した時代は僕の時代よりも20~30年ほど前だ。音楽に例えるなら、「70年代のハード・ロックやヘビメタを聞いて育ったが、親がよく聞いていたので50年代のジャズにも詳しい」といったところか。ただ僕の場合、自分の世代より古い文化のほうが影響が大きかったようだ。楽しく、幸福感に満ちたエンターティンメントの世界は、年端もいかない昭和の子供にとって強烈な印象を残した。その後遺症とでもいうのか、僕は今もいにしえの洋画を鑑賞したり、50~60年代の洋楽をレコードで聞いたりすることが多い。

 そういった外国文化に長年慣れ親しんできたおかげで、平成や令和の日本文化には今一つ馴染めないところがある。勿論普段の生活に支障があるわけではなく、90年代以降の映画や音楽も楽しんできた。でも精神的に頼るなら、こうした外国文化が盛んに紹介されていた昭和の頃のおおらかさのほうが安心する。だから時に当時の映画やエンターティナーたちの動画をさがしまくったりするわけだが、よく考えてみるとこれは一種の逃避ともとれるし、もっと言うなら懐古趣味という名の引きこもりではないのか?そんな気がしてきたんだよ、最近。いやいやどうも、困ったもんだ。

※ 「世界のショー ダニー・ケイ」で検索すると、TV放送したソースをそのまま字幕入りで鑑賞できる。ただしビデオ録画に起因する映像の乱れあり。

カテゴリー
未分類

 メイド・イン・ジャパンの話

 最近どうも筆が進まなくて困った。話題がないわけでもないのに、こんなことではいかんよなあ。そんなわけでしばらく間が空いたので、とりあえず今回は近況から。

 クリスマスはいつものように、うちに3家族(実家の兄夫婦、カミさんの実家、そして我が家)が集まり、大々的に祝った。12月28日にはカミさんの実家で餅つき、これも3家族。ここ数年で据付けの古いかまどが壊れてきたので、今年は簡易かまどを購入した。長女は餅つきに合わせて帰省していて、なんか知らんけど旦那の実家(同市内にある)ではなくうちで寝泊まりしていた。そのほうが先方も気が楽らしい。今はそんなふうなのかねえ。

 元日は次女の仕事の都合もあって出かけることはせず、自宅でゆっくり過ごした。年末年始の特番を録りためて、内容によってはディスクに落としたり…まあ、いつも通りの流れですね。

 そういえば年末に、ある家電量販店にディスクを買いに行ったとき、面白い話を聞いた。いつも買っていた名の知れたブランドの製品が、最近どうも調子が悪く、今回は25枚中5枚(!)が録画不能で、仕方がないからちょっとお高いがソニーの製品をあらためて購入。こちらはすべてのディスクが問題なく使えた。どちらも海外製造品なのに、なんでやねん。

 不思議に思い、店員さんにその辺の事情を聴いてみた。すると「製品管理のチェック項目の数が違うらしいですよ」との答え。「ちなみに国産のディスクはもうないんですかね?」と尋ねると、メディアコーナーの一番端に連れていかれた。「このコーナーが国産のディスクですね」そこには2~3種類の国産ディスクが並んでいて、なかには「○○工場製」と、製造している工場名まで明記しているものもあった。価格は海外製造品の倍以上だ。ひええ。「どうしてこうも品質に差が出るんでしょうねえ」と聞くと、微妙な表情とともに「作る人の意気込みの違い、じゃないでしょうか」という答えが返ってきた。

 僕が愛用しているカメラのブランド、ニコンについても、昔同じような話を聞いたことがある。「レンズにしろぼデイにしろ、『メイド・イン・ジャパン』と表記のある製品を買ったほうがいいですよ」と教えられたが、当時はそんな表記があることすら知らなかった。ニコンの製品は当然日本製だと思っていたからね。

 あれから20年が過ぎ、今やニコンの製品はそのほとんどが海外で製造されている。ニコンといえばその旧社名は「日本光学工業」。「日本」と謳いながら、国内で製造されているデジタル一眼はD5とDfの2機種のみ。ミラーレスのZシリーズに至ってはそのすべてがメイド・イン・タイランドだ。偏見は良くない、とは思うんだけど、前出の店員さんの話を聞くと、やはりメイド・イン・ジャパンは信頼の代名詞…いや、ちょっと待て。一つ思い出した。

 陸上自衛隊の使用する自動小銃は1964年に初の国産品、つまりメイド・イン・ジャパンが採用された。ところがこの64式小銃、訓練中にやたらと部品が脱落したんだそうだ。だから隊員はみな黒いビニールテープを携行して、あっちこっち止めていたらしい。おいおい、国家の存亡が懸かってんだけど。次の89式小銃はさすがにそんなことは(ほとんど)無かったようだが、不安に駆られた隊員たちはビニールテープを携行する習慣が捨てられなかったそうだ。

 現在は2020年採用の20式小銃の配備が進められているが、何かの書籍でその紹介記事を読んだときに、開口一番「もう部品は落ちません!」と書いてあったのを見て失笑した記憶がある。まあ、これもメイド・イン・ジャパンに関する逸話(?)ではある。

カテゴリー
未分類

 「物語」についてなんか言ってたな。 -映画「スモーク」-

 ネットのMSNサイトの記事で、誰かが「物語はもういらない、押し付けられるようで嫌になる」みたいなことを書いていた。「本」とか「映画」とかに限らず、「物語」そのものについて語っているらしい。妙な違和感を覚えたが、その時は深く考えもせず「ふーん、そんなふうに感じる人もいるんだ」と、軽く読み流して終わった…はずだった。ところがシンクロニシティというのか、翌日「スモーク」という映画のレビューを見ていたら、「私たちは物語無しには生きていけない。物語を通して世界の意味を知ろうとするのだから」という文章を見つけた。「スモーク」の原作である「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を書いたアメリカの作家、ポール・オースターの言葉らしい。

 この「スモーク(1995年)」という映画はよくクリスマス映画の名作として紹介されるが、クリスマスとの関わりは、物語の終盤に主人公のオーギー・レンが語るクリスマスのエピソードだけだ。そのエピソードを聞くもう一人の主人公の名はポール・ベンジャミン。これはポール・オースターの初期のペンネームで、つまりこの物語は作家本人が知り合いから聞いたクリスマス・ストーリーを紹介した、という体裁だ。こういう展開だと、僕のような俗物はどこまでが本当の話なのか気になって仕方がない。だが原作ではポール・ベンジャミンがこの出来過ぎたクリスマス・ストーリーを聞かされたあと、「作り話にも思えたが、私は彼の話を信じることにした。一人でも信じるものがいるなら、それは本当の話なのだ」と語る。なるほど、そうきたか。

 この映画には筋らしい筋は無く、ブルックリンのとある煙草屋に集まる人々と、その取り巻き一人一人の短い物語が語られる。煙草屋の雇われ店主、オーギー・レンは、毎日同じ時刻に店の前の交差点を撮影し続けて10年以上になる。彼はキューバ産の葉巻の密輸をもくろみ、昔の恋人はやさぐれた娘に手を焼いて泣きついてくる。煙草屋の常連である作家のポール・ベンジャミンは妻が強盗事件に巻き込まれて亡くなり、以来仕事が手につかず、些細なことから得体の知れないアフリカ系の少年と関わるようになる。少年の生き別れた父親は郊外の落ちぶれたガソリンスタンドを経営していて、少年は何とか絆を取り戻そうとする。こうしたドラマが細い糸のようにもつれながら時間が過ぎていく。

 物語の終盤、ポールは煙草屋を訪れ、オーギーにこう尋ねる。「クリスマスの短編に、何かいいネタは無いかい?」そこでオーギーは昼食と引き換えに怪しげな、けれど心温まるクリスマスのエピソードを語る。出来過ぎた話にポールは疑いの目を向けるが、オーギーは否定も肯定もしない。ただ微笑むだけだ。そのあと画面がモノクロになり、作家の書いた物語が映し出されて映画は静かに終わる。バックに流れるトム・ウェイツの「夢見る頃はいつも」が秀逸!よくもまあ、この曲を…という感じだ。

 ところで「スモーク」ではもう一つ、意味深なエピソードが紹介されている。冒頭でポールが語る、ウォルター・ローリー卿が女王エリザベス一世の前で煙草の煙の重さを計って見せたという話。煙草を吸い終わった後には灰と吸い殻が残るが、消えていった煙にもちゃんと重さがあるという。この話も真偽は定かではないが、まるで人間の一生を表しているかのようだ。そもそも映画のタイトルをあえて「スモーク」としたあたりも、ね。もしかしたらオーギー・レンは刻々と変わる「煙」の写真を撮っていたのかも。

 この映画を見ていて気付くのは、今ではすっかり悪者扱いの煙草が、人間関係やコミュニケーションの場において重要な「間」というものを見事に演出してくれる、ということ。こうしてみると、人の人生はすべて、一種の物語だ。上手な語り手が一人いるだけでいい。

 冒頭で紹介したネットの記事に感じた違和感は、それが物語の登場人物や、延いては実在する他者の人生まで否定しているように感じたからかもしれない。世間に溢れかえる「物語」を取捨選択するのは受け取る側の問題だ。すべてを否定するのは自由だが、本を読み、映画を鑑賞し、それなりに人とかかわってきた身としては、それが真実であろうが嘘であろうが、やっぱり人生に物語は必要だと思うんだけどね。

カテゴリー
未分類

 そういえば、そんなことがあったっけ

 9月のはじめのある日、娘の仕事の都合で、午前4時に起きて朝食を作る羽目になった時のこと。外は晴れていたがまだ暗く、空気も9月の上旬にしてはひんやりしていたので、2階の広縁のガラス戸を全開にした。何気なく空に目をやると、東の空にはオリオン座があった。そこから天頂に向かって視線を移した瞬間、流星が飛んだ。流星を見るなんて、何年ぶりだろう。それも見上げたとたんにその視野の中を流れるとは。もっと流れないかとしばらく見上げていたが、残念ながらその時はその一つだけしか見ることができなかった。

 その2日後、同じ理由で4時起きし、同じようにガラス戸を開け、空を見上げた。この日も満天の星空だったが、さすがに流星は流れなかった。でもこの日は別のものが見えた。直線的にゆっくり移動する星のような光点。でも瞬かない。僕はもと天文ファンだから、「UFOだ!」なんてことは言わない。その動きからすると、これは人工衛星(※)に違いない。2日前の流星と同じあたりを、南西から北東へと横切っていく。いやあ、近々で2回、流星と人工衛星を同じ時間帯に、しかも同じ視野の中で見るなんて。こうした偶然が重なると、人はちょっと幸福感を感じたりする。

 僕の特技の一つにマティーニを目分量でカクテルグラスきっちりの量に仕上げる、というのがある。僕はシェイクするタイプが好きなのだが、シェイカーの中の氷の量によっても注ぐジンの目分量は毎回変わる。少々加えるベルモットも目分量。だが10回に7~8回はグラスきっちりの量で仕上がる。とてもいい気分だ。最近ではうまくいかなかったときなど、何か悪いことが起こるのではないかと、夜も眠れないぐらいだ(ウソです)。

 反対にほとんどうまくいかない、ということもある。それはペペロンチーノを作るときの塩加減。ちょっと多めかな、と思ってもほとんどの場合、味が薄くなってしまう。ペペロンチーノが好きで、休日の昼食などに数えきれないほど作ってきたが、味がピタリと決まったことは2~3回しかない。たまにベーコンや玉ねぎを加えてアレンジすることがあるが、これだと難なく味がまとまる。だが正統派のスタイルは塩の量だけで味が決まる。この塩梅が難しい。僕も今更塩の量をきっちり計ろうなどとは思わないので、毎回そんなことで一喜一憂する。まるで人生について教えられているような気分だ。最近ではあきらめの境地に達しかけている。人生を、ではない。ペペロンチーノの味付けの話だ。

 これからも幾杯ものマティーニを作り、ペペロンチーノを作るだろう。そのたびにちょっといい気分になったりがっかりしたりしながら生きていく。まあ、それも人生ということで。そうだ、最近とんとご無沙汰だったが、たまには昔のように、夜空を見上げることもしようかな。今回のように、ちょっといい気分になれることがあるかもしれない。

※ 国際宇宙ステーションなど、主だった人工衛星は日本上空の通過予定時刻や見える方位をネットで知ることができる。

カテゴリー
未分類

 ボジョレー・ヌーボーの謎

 今年も11月の第3木曜日にボジョレー・ヌーボーが解禁された。結論から言うと、今年は僕好みの味じゃなかったかな。ただしこれは美味しくない、ということではなくて、単にヌーボーらしくなかったという意味で、実はここ10年ほど、毎年うっすらと感じていることだ。

 温暖化が現実の問題となってから、ボジョレー・ヌーボーはほとんどハズレの年がない。ワインの原料となる葡萄の出来はその年の夏の気温と雨量に左右され、夏が高温で、雨量が少ないほうがワイン造りに適した葡萄ができるので、温暖化によって夏の気温が毎年のように高い昨今の状況は、高品質のワインを作るのには好都合というわけだ。何とも皮肉な話だ。

 ボジョレー・ヌーボーはその年にとれた葡萄で造られた新酒で、一般のワインとは醸造法も少し違うらしい。その醸造法と、ボジョレーの原料である「ガメイ」という葡萄の特性が相まって、あの渋みの少ないフルーティーな味わいが生まれる。ところが最近のヌーボーは葡萄の出来が良すぎて渋みが多く、重い感じで、もう2~3年寝かせたくなるような味わいだ。要するに、ヌーボー本来の若々しさが感じられない。冒頭で「僕好みじゃない」と書いたのはそういう意味だ。

 ヌーボーの解禁日が近づいてくると、日本でもそれに向けてまことしやかなキャッチコピーが流布し始めるが、これが傑作というかなんというか、過去の例を挙げると、「50年に一度の出来」「100年に一度の出来」「ここ10年で最高の年」「今世紀最高の年」等々。5年ほどの間に2回「この10年で最高の出来」と評されたこともある。まあ前回を超えた、ということなんだろうけど、これでは何がなんだかわからんではないか。

 実はこのキャッチコピー、どうやら日本独自のものらしい。本家フランスの食品振興会やボジョレーワイン委員会でも評価は発表するが、「○○年に一度の…」なんてことは言わない。ネットでもよく見受けられる例なんだけど、2003年の出来に関するフランスでの公式見解は「並外れて素晴らしい年」。それが日本では「100年ぶりの当たり年」となる。このキャッチコピー、いったい誰が書いているんだろう?そもそも「100年ぶり」の根拠って何?あれもこれも、謎だらけ。けど何となく楽しいっちゃ楽しい。

 そんなこんなで数十年にわたり、ボジョレー・ヌーボーをいろいろな意味で楽しんできたわけだが、僕の感覚では最もよくできたヌーボーはおそらく2009年のもの。いちいち記録なんかしていないから保証の限りではないが、2009年は「50年に一度の出来」と評価され、その翌年、翌々年はそれぞれ前年と「同等」「匹敵」とはいうものの、「そこまでじゃねえな」と思った覚えがある。このパターンが当てはまるのは2009年しかないから、多分間違いないだろう。以来これを超えるヌーボーには出会っていない。

 そうこうするうちに温暖化が進み、ヌーボーの味わいはだいぶ変わってしまった感がある。僕のお気に入りはルイ・ジャドとジョルジュ・デュブッフという作り手のボジョレー・ヴィラージュ(※)・ヌーボーだったのだが、ここ数年は味わいが重くなり過ぎたルイ・ジャドの代わりに普通のボジョレー・ヌーボー(ジョルジュ・デュブッフ)を購入している。こっちのほうがよりフルーティーで、質も向上しているからだ。

 さて、そんなボジョレー・ヌーボーの、気になる今年の出来はというと、夏前に雨が多く降ってしまい、生産者にとっては厳しい年になったようだ。でも厳しい年だったからこそ、以前のように軽やかな味わいになるだろう、という逆説的な評価をどこかで読んだ気がする。それほど最近のヌーボーは「出来過ぎ」だったということだ。実際には、今年のヌーボーは軽やかな味わいなのに渋みが強く、バランスが悪かったように思う。もっともこれはジョルジュ・デュブッフに限ってのことなので、他の作り手についてはわからない。

 日本でのヌーボー文化はすっかり定着した感があるが、温暖化の影響も無視出来ないレベルになってきた。近年ヌーボー文化に手を染めた世代は、おそらく本来のボジョレー・ヌーボーの味を知ることはもうないだろう。何とも気の毒な話だ。

※ ボジョレー地区の中でも特に良質の葡萄が育つ地域の葡萄だけで造られたワイン。一般的なボジョレーよりも格上で、味わいも濃厚。

カテゴリー
未分類

 誰か、ミスター・ボージャングルスを知らないか?

 「ミスター・ボージャングルス」とは、アメリカのカントリーシンガー、ジェリー・ジェフ・ウォーカーが1968年にリリースした曲のタイトルだ。

 飲み過ぎてぶち込まれた留置所で、年老いた旅回りの芸人に出会ったんだ。彼はボー・ジャングルスと名乗った。白髪混じりでよれよれのシャツ、くたびれた靴を履いていた。

 彼は優しい目で自分の人生について語り、膝を叩いて笑った。「昔はショーのステージや郡のフェスティバルに出たこともあったんだぜ。南部は一通り回ったな」

 そのあと彼は、15年一緒に旅した犬のことを、目に涙を浮かべながら語った。その犬が死んでもう20年もたつのに、彼は今でも悲しんでいた。

 場が暗くなったのを察してか、誰かが彼にダンスをせがんだ。すると彼は見事なソフトシュー・ダンス(※1)を披露してくれた。高く、高くジャンプしてはふわりと着地するんだ。

 「チャンスさえあればいつだって踊るよ、でも日銭を稼いではほんのちょっと飲み過ぎて、酒場を追い出されちまうんだ。今じゃ留置所にいる時間のほうが長いくらいさ」そう言って彼は、やれやれと首を振った。すると、誰かがこう言う声が聞こえたんだ。

 ミスター・ボージャングルス、踊ってくれよ、もう一度…。

 この曲はJ・J・ウォーカーが体験した実話がもとになっているそうだ。上の文章は歌詞と実話を織り交ぜているので、本来の歌詞とは少し違うが、だいたいこんなところだ。

 「ボージャングルス」とは留置所にいた旅芸人が実名を隠すために名乗った偽名で、実は全く別の人物のニックネームでもあった。その人物とは1920年代に活躍したアフリカ系アメリカ人のダンサーでタップダンスの名手、ビル・ロビンソンという人。おそらくその旅芸人はビル・ロビンソンに憧れていたのだろう。あるいは、俺にだってあれぐらいのことはできるのに…という自負があったのかもしれない。

 「ミスター・ボージャングルス」は1970年にニッティ・グリッティ・ダート・バンドがカヴァーしたバージョンが大ヒット。71年にはビルボードの9位まで上り詰め、日本のラジオでもよく流れていた。僕が初めて聞いたのもこのバージョンだ。

 アメリカの有名なエンターティナー、サミー・デイヴィスJr.もこの曲をステージに取り入れ、思い入れたっぷりに歌い、踊った。先に紹介したビル・(ボージャングル・)ロビンソン、すなわちミスター・ボージャングル(※2)がタップの大先輩だったことも理由の一つだろうが、人種差別が当たり前だった当時のアメリカで、アフリカ系とユダヤ人のハーフである自分が、一旗揚げるために並々ならぬ苦労を強いられたことや、いつか自分の時代も終わる時が来て、落ちぶれていくのかもしれないという不安、そんな思いをあの年老いた旅芸人の姿に重ね合わせていたと証言する人もいる。確かに、晩年のコメントの端々にはそんな心情が読み取れる。

 いずれにせよ、もうこのような歌が作られることは無いだろう。もとになった出来事も、それを歌にしたソングライターの感性も、あの時代ならではのものだ。だが不思議なことに、この歌は21世紀を迎えた今も、日本人を含む数多くのミュージシャンが取り上げている。これまでにこの曲をカヴァーした主なアーティストを挙げると、ボブ・ディラン、ジョン・デンバー、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、ホイットニー・ヒューストン、ニーナ・シモン、キャット・スティーヴンス、ポール・ウィンターなど。ウィキペディアに記載された最新のものは、クリスチャン・マクブライドが2017年にリリースしたアルバムに収録されている。

 50年以上の長きにわたって愛されてきた名曲、「ミスター・ボージャングルス」。これからもあと20年や30年は間違いなく歌い継がれていくだろう。

※1 柔らかな靴で音を立てずに、しなやかに踊るダンスのこと。

※2 曲名には末尾にsが付くが、ビル・ロビンソンのニックネームにはそれがない。

カテゴリー
未分類

 ロックンロール!

 別に「自動小銃に弾丸を装填しろ!」と言っているわけではない。「ロックンロール・スペシャル」。これはある2枚組のアルバム(もちろんLPレコードの)のタイトルだ。誰がいつ、こんなアルバムを企画したか知らないが、よく見るとジャケットの片隅に1977とあった。多分僕が学生の頃に面白半分で購入したものだ。構成はいわゆるオムニバスで、古いロックンロールの名曲がオリジナル音源で24曲収められている。代表的なものを挙げると、P・アンカの「ダイアナ」とかG・マハリスの「ルート66」、S・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」、「それにB・ヴィトンの「ミスター・ロンリー」などで、全体的にみると50年代の曲が多い。

 装丁はやりたい放題で、ジャケットにはオープンカーでドライブ・インに乗りつけ、瓶入りのコカコーラを飲むリーゼントのお兄ちゃんやらポニーテールのお姉ちゃんやらが、なんちゃってアメリカンスタイルのイラストで描かれている。描いたのはたぶん日本人だろう。バッタもん臭がプンプンする。なんてふざけたアルバムなんだ、と常々思っていたが、なぜか歳を取るにつれて、定期的に引っ張り出してはある期間愛聴するようになった。今年もまたその時期がやってきたらしく、最近ちょくちょく聞いている。これがなんだかとても心地よい。

 僕はこれらの曲が流行った時代を知らないし、本来ならロックンロールを聞くような世代でもない。学生だった頃に浜田省吾を知り、「ハンバーガースタンドで待ち合わせて、彼女の親父の車を夜更けに盗み出し、誰もいない海まで真夜中に走る」という内容の歌詞を聞いて、「いや、ここはアメリカじゃないから」なんて思ったことはある。そう、ここは日本だ。50年代のアメリカとは違う。当時のアメリカはもっと豊かで、単純で、能天気だった。それでやっていけた時代だ。ドン・マクリーンが「音楽は死んだ」と歌う以前、サイモンとガーファンクルが、アメリカを探す旅に出るうつろな若者の姿を歌う以前の時代(※)。

 もちろん70年代の音楽もいいのだけれど、50年代のそれは、たとえるなら「サンタクロースの実在を信じていたころの音楽」とでも言えば、そのニュアンスが伝わるだろうか。だから僕みたいに、今でもサンタクロースの実在を願っているような精神構造の人間にはしっくりくるのだろう。だが60年代半ばになると、そんなアメリカにも陰りが見え始める。が、それはまた別のお話。

 ところで僕がこのアルバムを引っ張り出すのは、もしかしたら複雑かつ雑多になり過ぎた現代の生活に疲れたりうんざりしたり、そんなタイミングかもしれない。先に述べたとおり、僕は現実にはこの時代を知らない。だが洋画や洋楽が好きだった両親の影響で、当時の音楽や映画は山のように見聞きしてきた。それらはある意味、美化された虚構の世界でしかないけれど、現実を知らないからこそ、子供だった僕はより強いあこがれを持ったのだろう。つまり僕が帰って行くのは僕の脳内にだけ存在する「50年代」であって、能天気なロックンロールはその一部だ。そこでは今もツートンカラーのコンパーチブルが走っていて、昼はダイナーでハンバーガー&チップス。ドライブ・インには夜遅くまで煌々と明かりがともり、若者たちはコークを片手に少し尖った青春を謳歌する。もちろんそんな経験をしたことは一度もないが、それでも頭上に広がる空の青さまで、ありありと思い浮かべることができる。そしてその空の色は、この歳になっても少しも色あせていない。

 「ロックンロールスペシャル」ジャケット。右側が表。ドライブ・インの店名は「スターライト」だって。看板には「コーク」と「アイスクリーム」の文字が・・・。
 解説のレイアウトも1曲1曲凝っていて楽しい。イラストもたくさん。昔の新聞みたいだ。ページが捩れてるな。なんかこぼしたか?
 歌詞もちゃんと掲載されている。さすがに和訳は無いが、このころの曲は内容が単純なので、何となく理解できてしまう。それに文字が大きくて読みやすい!

※ ドン・マクリーン「アメリカン・パイ(1971年)」 サイモンとガーファンクル「アメリカ(1968年)」

カテゴリー
未分類

 秋のSF祭り 「スターウォーズ」と「未知との遭遇」

 1978年は日本のSF映画ファンにとって特別な年だった。それというのも、この年に「スターウォーズ」と「未知との遭遇」が公開されたからだ。どちらも宇宙を題材にしたエポックメイキングな作品だったが、内容的にはまるで違っていて、どちらが好きかでSFファンとしてのタイプが明らかになると言われたほどだった。たとえば「未知との遭遇」は、現実に明日起こるかもしれない地球上でのUFO事件を題材にしているのに対し、「スターウォーズ」は冒頭で説明されるとおり、「遠い昔、遥か彼方の銀河系で」起こったことが描かれていて、そこに地球人は全くかかわらない。これは言い換えれば「未知との遭遇」が文字通りSF(空想科学物語)であるのに対し、「スターウォーズ」はいわゆるスペースオペラ、すなわち宇宙活劇の類であるということだ。

 どちらも当時としては最高の特撮技術が使われているが、時代が時代なのでCGは一切使われていない。参考までに言うと、「未知との遭遇」の特殊効果を担当したのはダグラス・トランブル。「2001年宇宙の旅」を成功に導いた人物だ。彼は1972年に「サイレント・ランニング(※)」というSFの佳作を監督していて、この時一緒に仕事をしたジョン・ダイクストラが「スターウォーズ」の特殊効果を担当することになった。

 前記したとおり、「未知との遭遇」は日常生活の延長上にある脅威を描いていて、過去に報告されたUFO事件のエピソードがふんだんに取り入れられている。特筆すべきは当時UFO研究の第一人者だったアレン・ハイネック博士がカメオ出演していることで、物語の終盤、着陸した母船をよく見ようと前に出てあごひげをひと撫でし、パイプをくわえる老科学者がまさにその人だ。同じく終盤の、音階と光の明滅で宇宙人とコミュニケーションをとるというアイディアは多少ファンタジー寄りではあるが、スピルバーグらしい演出で効果を上げていた。その単純な音階がエンドロールで壮大なメインテーマにつながっていくあたりは、さすがは大御所ジョン・ウィリアムズ。

 「スターウォーズ」は描写や音楽(こちらもジョン・ウィリアムズ!)が派手で見ていて楽しいが、僕にとっては「SFの概念と特殊効果で味付けされた冒険活劇」でしかない。剣や銃で戦い、飯を食い、車に乗るように宇宙船を乗り回す。ここでは脅威となるはずの物事が単なる日常だ。エピソード(話数)が多いので飽きも来る。もうお分かりですね。そうです、僕は「未知との遭遇」派です。「スターウォーズ」はお約束のアラ探しをしようにもアラだらけでその気にもなれない。良くも悪くも荒唐無稽すぎる。

 こうして考えてみると、SFファンによるアラ探しという行為はリアリズムを追求するタイプのSF映画に対する一種の愛情表現なのかもしれない。製作者:「どうです、完璧でしょ?」ファン:「いえいえ、今回も必ず何かしら見つけちゃいますよ?」といった具合だ。だから単純なスペース・オペラでは満足できないんだな、多分。ただ、かの宇宙大元帥(故 野田昌弘氏、SF作家)がいみじくも言っていたように、「SFは絵だ!」というのも事実で、そういった意味では「スターウォーズ」のSF映画界への貢献は大きく、大いに評価できると思う。特に冒頭のスター・デストロイヤーの描写は秀逸で、後々どれだけパクらたかわからない。

 最後に一言、最近のSF映画を見ていて「つまらん」と思うのは僕だけだろうか。内容がやたらと小難しいうえに、ストーリーも見ていると鬱になりそうなものが多く、やりつくしてしまった感がある。だったらいっそのこと、「宇宙戦争」を原作どおりヴィクトリア朝のイギリスを舞台に、再々映画化するぐらいのことをしてくれれば面白いのだが。

※ ちょっと毛色の違った宇宙SFの傑作だと思う。主題歌を歌っているのがジョーン・バエズだと言ったら、興味がわくかも。お勧めします。僕はラストで泣きました。