常陸太田市 集中曝涼
日帰りのドライブ旅行で茨城県北部の常陸太田市に行ってきた。常陸太田市では年に1度、10月の第3土・日曜に「集中曝涼」と称して、普段非公開の文化財を一斉公開している。「集中曝涼」とは、一種の虫干しのようなものだ。
予定のコースは、以前にも紹介したことのある東金砂神社(2024年5月の記事参照)で市指定文化財の刀剣を見て、そのあと文化財の公開はないものの、念願だった西金砂神社に回る。昼食は地元名産の秋蕎麦を食べ、午後にもう1~2か所見るつもりだ。
僕たちが東金砂神社に着いたのは10時を回ったころだった。所定の駐車場(5台分ぐらいしかない)はすでにいっぱいで、仕方なく路肩に駐車した。車がすれ違えるか怪しいほど細く、ろくな舗装もされていない山道を遥々やってくるなんて、とんだ物好きもいたもんだ…と言いたいところだが、僕らも間違いなくその一員なんだから文句も言えない。そんな物好き3人組(僕とカミさんと娘)は傾いだ長い石段を息を切らせながら登り、山頂にある本殿にお参りを済ませてから、刀剣を展示してある社務所へと向かった。
東金砂神社所管の文化財の日本刀は二振り、加えて長巻(ナギナタの短いやつ、と言えばいいかな?)が1本。だが意外にも、社務所の座敷には短刀や脇差を加えて15振りあまりの刀剣が並んでいた。どうやら近郷近在の愛好家が協力しているらしい。この辺りは大戦中に日立製作所を狙った米軍の艦砲射撃からも遠かったので、こういった文化財が数多く残っているようだ。低い長テーブルに刀掛けを置いただけの展示方法だが、娘が言うにはガラス越しではないので細部までよく見えるとのこと。大分時間をかけて堪能していた。
刀剣を満喫し、社務所の猫と親睦を深めたあと、駐車場に戻ってみると、なんと駐車している車は先ほどの3倍以上になっていて、駐車待ちの車をよけながら駐車場を抜けるのが大変だった。その後大子町まで足を延ばしてお気に入りの和菓子店、奥久慈屋吉餅で餅菓子と黒糖まんじゅうを買い、西金砂神社へと向かった。
この神社の開創は東金砂神社と同じ平安時代初期(806年)で、周囲には茨城県の天然記念物である名木が点在している。東西の金砂神社が合同で10日間かけて行う大祭礼は、国と茨城県の無形民俗文化財に指定されているそうだ。そのスパンは72年に1度と長く、851年の第1回から数えて、2003年に行われたそれは第17回ということになる(Youtubeに動画あり)。次は2075年だからそれまでは生きていられないかな…。
境内はところどころ傾いた急な石段や地上根の露出した坂があるので、革靴やハイヒールはやめたほうがいい。本殿までは東金砂神社同様、息の切れる行程だが、それでも山頂にある本殿からの眺めは、苦労しただけのことはあった。
ちなみにこの一帯は金砂郷(かなさごう)地区と言い、古い地名は金砂(かなさ)。なんでも昔は砂金が取れたらしく、現在も東金砂神社と西金砂神社がある山をそれぞれ東金砂山、西金砂山と呼んでいる。
そのあと僕たちは神社から南に下ったところにある「西金砂そばの里(蕎麦工房)」で昼食をとった。地元の主婦の方たちが切り盛りする店で、使われる蕎麦粉は、もちろん全国的に評価の高い「常陸秋蕎麦」。そういえばこのあたり、道路の周囲は蕎麦畑だらけだ。営業は10時~15時まで。水曜日と年末年始は休みだそうだ。
3人が3人とも天ざるを頼んだのだが、これが正解で、蕎麦の茹で加減もさることながら、天ぷらの揚げ具合がまことに結構で、カミさんも娘も絶賛していたっけ。蕎麦好きの僕でさえ、天ぷらのほうが印象に残ったぐらいだ。
昼食の後、再び蕎麦畑のなかを走り、帰路の途中に当たる「菊蓮寺」に向かった。ここでは県指定文化財の木造千手観音像を見た。鎌倉時代の作という。寺の開創自体は平安初期(807年)と古いが、一時期廃寺となり、のちに再建。その後改築が繰り返され、今に至るとのこと。残念ながら、平安時代の面影は微塵もない。
菊蓮寺をあとにする頃、秋の陽は傾き始めていて、山あいにカラスの声が響いていた。もう一か所寄れば寄れたのだが、前半の東金砂神社と西金砂神社で急な石段を登り降り(数えなかったけど、多分東西で三百段以上)したので、今日はもういいや、ということになった。文科系の家族はこれだから困る。来年来る機会があれば、もう少し下調べをして、なるべく平らな土地をうろうろしたいと思う。






