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 月のあれこれ

 去る9月17日は「中秋の名月」だった。一時は天気が危ぶまれたけれど、僕の住んでいる地域はうまい具合に夕刻から晴れてくれた。多少雲は残っていたものの、流れる雲が月に照らされ、これはこれで風情があってよろしい。ただ温暖化の影響か、庭に勝手に生えたススキがここ数年お月見に間に合っていない。近隣を歩いてみてもススキ自体が見当たらず、仕方なくお金を払ってススキを購入する羽目に。なんだかなあ。

 当日は東側の出窓にかぼちゃと団子、そこにススキを活けて添え、夕飯には里芋の入ったのっぺい汁を作った。本当は里芋も生のまま供えたかったんだけど、全部汁に使ってしまい、残らなかった。団子は里芋の代わりという説もあるから、まあ良しとするか。

 東の空に昇った満月を眺めていて、ふと思った。あそこにはもう、ウサギはいないんだなあ。月にはすでに何人もの人間が行っているし、表面には地震計やレーザー測距機なんかも設置してあるらしい。月が地球の衛星軌道を回る不毛の天体であることは、もはや万人の知るところだ。にもかかわらず、日本人はなぜか、この時期になると月を眺めては思いを馳せる。いったいどんな感情がそうさせるのだろう。だがそんな情緒のある月も、聞くところによると欧米ではあまり良いイメージを持たれていないらしい。

 ルナティック。英語で狂気を意味する言葉だ。「ルナ」とはラテン語で月のことだ。ご存じのように狼男は満月の夜に変身する。凶悪な犯罪や交通事故は満月の夜に増加するという説もある。調べてみると、どうやらこの説は都市伝説の域を出ないようだが、今もまことしやかにあちこちで囁かれている。何とも不吉なイメージだ。もっともクラシック音楽には「月の光」や「月光」といった名曲もあるから、一概に「不吉」とは言えないか。

 戦前の外交官でニューヨーク在住だった細野軍治は、ある月の美しい夜更けに友人たちと月を眺めに出かけた。しばらくすると警察官に呼び止められ、「良からぬ相談をしていただろう」と問い詰められた。「月が美しいので眺めていただけだ」と説明してもわかってもらえず、警察署まで連行されたそうだ。月を見る習慣のないアメリカの警察官に、一晩かけて日本の月見の風習について説明したという、これは僕の愛読書、「一度は使ってみたい季節の言葉」で紹介されていた話。どうやら月を愛でる習慣は東南アジアに限ってのことのようだ。

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 アラン・ドロン追悼

 8月18日にフランスの名優アラン・ドロンが亡くなった。享年88歳。好きな俳優だったのでとても残念だ。

 僕は映画好きの両親の影響で、TVの「洋画劇場」を見て育った。だから小学校の頃、僕のヒーローはスティーブ・マックィーンで、ヒロインはオードリー・ヘップバーン。勿論仮面ライダーに血道をあげる友人たちとは全く話が合わず、この件に関してはちょっとした変人扱いだった。

 思春期になると少し好みが変わり、豪快なカッコよさよりも陰りのあるキャラクターに目が行くようになった。そんな時にたまたま観たのがアラン・ドロン主演のフランス映画、「サムライ(1967)」だった。僕は寡黙でクールな一匹狼の殺し屋を演じるアラン・ドロンにすっかりやられてしまった(何も言うな、そういう年頃だったんだ)。僕が右利きなのに腕時計を右手首に着けているのも、主人公のジェフが右手首に腕時計を着けていたからだ。それが何十年もの間に習慣化して今に至っている。バカみたい。でもそれぐらいカッコよかったんだよ。実際この頃には世界中で人気を博し、「世紀の二枚目」なんて言われていたもんな。

 1970年になるとレナウン・ダーバンがCMキャラにアラン・ドロンを起用。そしてその4年後には映画「ボルサリーノ2」が封切られた。僕が彼を劇場で見たのはこれが最初だった。このころ僕の勉強部屋には、伯備線のD51三重連のポスターとともにアラン・ドロンのでっかいポスターが貼られていて、これは確か1971年の「レッド・サン」のものだったと思う。この映画はアラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン、三船敏郎が三つ巴の争いを繰り広げる異色西部劇で、三船敏郎は西部を横断する江戸幕府の使節団の警護責任者(だったかな。勿論ストーリーは架空の話)を演じ、いい味を出していた。ちなみにアラン・ドロンは一番の悪役だった。性格の悪い二枚目。嫌だねえ。

 そもそもアラン・ドロンは、コメディからサスペンス、シリアスドラマまで何でもこなせる実力派の俳優で、それゆえアイドル的な二枚目スターとして扱われることに強い抵抗を感じていたようだ。実際、作中の彼は映画によってイメージが大きく異なる。だから僕も「『サムライ』の時のアラン・ドロンに憧れるんだよね」などと、作品名を付け加えて話す習慣が身についてしまった。これが「『アラン・ドロンのゾロ(1975)』のアラン・ドロン」だったら僕だって憧れたりはしない。だってほぼコメディだもんね。この映画でのアラン・ドロンは、のちにメキシコとなるスペイン領のおバカな総督で(ホント、バカなんだこれが)、その実体は正義の剣士、怪傑ゾロ。正反対のキャラを見事に(というか楽し気に)演じ分けていた。

 そんなわけで、アラン・ドロンは僕にとって一時憧れの人であった。だが本当のことを言うと、どんな映画よりもダーバンのCMが一番好きだった気がする。勿論CMとしての演出や演技はしていただろうけど、もっとも素に近いアラン・ドロンを見ることができる唯一の情報ソースだったからね。

 これらのCMは、マニアがコレクションしてYoutubeに動画を上げているので、今でもシリーズ全編を見ることができる。時々閲覧して、古き良き時代を懐かしんだりしているが、時代が時代だから、多分今の人にはわかってもらえないだろうなあ。

 というわけでムッシュ・ドロン、いろいろとありがとう。そしてお疲れさま。どうか、安らかに眠ってください。

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 秋といえば…検証?

 夏になると毎年、あちこちから拾い集めた不可思議な話を書いているが、今年の夏はあまり面白い話題がなかった。そうこうしているうちに、今はもう9月。だがここに来て、Youtubeでちょっと面白い動画を見つけた。

 ここ数年「暗夜」というホラーイベント団体が、曰く付きの事故物件を購入あるいは借入し、ホラー体験希望者を宿泊させて収入を得るという商売(?)をしているらしい。それらの物件は心霊系TV番組でも取り上げられ、その筋では結構有名だ。「曰く」に関しては、女子高校生が自殺したとか、監禁殺人があったとか、女性の霊が窓からのぞくとか、とにかくおどろおどろしいものばかり。でも今どきの話だから、ネット上には当然「あれはヤラセだ」なんていう否定的なコメントも上がってくるわけで。

 そこで今回見つけたYoutubeチャンネルの話なんだけど、これは「インチキバスターズ」というグループが配信しているチャンネルで、実際に心霊スポット等に行って、うわさや曰くの真偽を検証する動画などをUPしている。彼らは初回から暗夜の所有する物件に目をつけ、監禁や殺人があったという一軒家を検証すべく現地調査を敢行。近隣住人に聞き込み調査を行った。すると興味深いことに、「俺はここで育ったけど、(殺人なんて)そんな話聞いたことがない」という答えが返ってきた。中には「(前に住んでた人は知り合いだけど)事件なんか何もなかったぞ」「(TVで言ってた)血の塊だとか、そんなの嘘っぱちだよ」などと言う人たちもいる。あらあら。

 勿論地域住民の方々にはモザイクがかけられているので、こちらもヤラセの可能性が無いわけではないが、もっとも有名な物件の一つである「I県のS邸」について語っていた地域住人たちは、その訛りから察するに本物だろう。というのも、S邸は僕の自宅から車で2時間ほどの山の中にあり、そのあたりの老人だったらこうしゃべるであろうというような、僕もよく知っているI県北部独特の訛りだったからね。あれを真似できる人なんて、そうはいないだろう。

 聞くところによると、この動画の配信後、暗夜側は当然のように抗議。いろいろと理由をつけて、「動画を削除しろ、と迫ったそうだ。なんでも「訴える」とまで言ったとか。一方インチキバスターズ側は、「法廷でお会いできるなんて夢のようだ!」と喜んで見せる。こちらもなかなかに癖の強いキャラのようで、両者の争いが今後、どのように発展していくかが楽しみだ。何せ、ネット民のなかには「実際に一泊した。怪現象が起きたから、間違いなく本物だ!」なんて言う暗夜派の人も相当数いるし、そうかと思えば、別の曰くつき物件(こちらはT県)の隣に住んでいる人(インチキバスターズ派?)からは「うちの防犯カメラに、客が入ったあと建物の壁に物を投げて音を立てる(つまり怪奇現象を演出する)スタッフの姿が写っていた」なんていう話まで出てくる。この人はその物件の大家さんと知り合いで、「(ネットで紹介された)血痕なんかなかったはずだ、と言ってましたよ」とも話していた。もしそれが本当なら、その血痕とやらも後付けの「仕込み」である可能性がある。ちなみにこの隣人が言うには「暗夜の主催者が敷地内に無断で車を止めていたので警察を呼んだ」こともあるそうで、この問題は単に暗夜とインチキバスターズだけの問題ではなくなりつつあるようだ。

 勿論Youtubeの動画を見ただけなので何とも言えないが、仮にインチキバスターズの言い分が正しければ、この事案は詐欺罪が成立するかもしれんなあ。だって料金を取ってるわけだし。この件が裁判になったら、暗夜側は「心霊現象が現実に起きている」なんてことを法廷で主張するんだろうか。もしそうなれば前代未聞だ。いろいろと興味津々だな。えっ、ところでお前はどっち派かって?僕は「楽しめればどっちでもいい」派。一番たちが悪い?まあ、そうですね。よく言われます。

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 夏の終わり

 僕のように、生徒としての学校生活が終わった後も、教師として学校という場所で生活し続けた経験のある者にとっては、8月の末は大人になっても特別な意味を持っている。つまるところ、8月の終わりは夏休みの終わりでもあるわけで、子供だった頃に誰もが抱いた「ああ、学校が始まってしまう」というあの切なさが、「ああ、定時で帰れて、しかも有休を取りやすかった期間が終わってしまう」という形でよみがえってくるのだ。

 そんな僕にとっては、温暖化によって9月になってもまだ夏、というような昨今の状況があっても、やっぱり夏休み(の期間)の終わりはイコール夏の終わり。でも考えてみると、夏休みの話は別としても、この時期にセンチメンタルな気持ちになるのは誰でも同じらしくて、その証拠に巷に流れるJポップを聞いていても、夏の終わりの感傷的な感情を歌った楽曲って結構多い。

 そんな夏の終わりに、今年は台風10号が日本列島付近を1週間近くもうろうろしたりなんかして、この大事な期間を台無しにしてしまった。まったくもって忌々しい。いつもなら次第に少なくなっていくツクツクボウシの声を聴きながら、入れ替わるようにして鳴き始める秋の虫たちの声に耳を傾け、季節の移ろいを感じたりするところだが(と言っても最近は7月からミンミンゼミもツクツクボウシも秋の虫も同時に鳴いていたりするんだが)、これでは行く夏を惜しんで感傷に浸ることもできないではないか!と、台風の進路予想図をにらみながらそんなことを考えていた時、ふとあることに気づいた。

 「夏の終わり」。この言葉は普段の生活の中でも、「もう夏が終わっちゃうね」であるとか、「今年の夏は何もせずに終わってしまったな」などというように、あまり意識せずに使っているけれど、よく考えてみると季節の中で「終わる」のは夏だけかもしれない。例えば「春が終わる」「秋が終わる」といった表現はあまり使わないような気がする。

 春や秋は大抵の場合、終わるというより、次の季節がやってきて徐々に取って代わられるイメージだ。冬については「長く厳しい冬が終わり…」などと言う場合もあるけど、「夏の終わり」ほど一般的ではなくて、むしろ冬の厳しい地域限定という気がする。つまり四季のなかで夏だけが、日ごろから季節の終わりを妙に意識されているということだ。なぜ夏は、こうも特別なんだろうか。

 これは誰でも思うことだろうが、その理由はまず第一に、夏に感じる強い生命力。ことに植物が猛暑、酷暑と表現されるような強い日差しの中で生い茂るさまは、人間の領域さえ凌駕しかねない力強さを感じさせる。さらにそれをたたえるかのように響き渡る蝉の声、そして輝きながら湧き上がる入道雲。自然のそんな様子を見ていれば、人間の意識も少なからず高揚するだろう。こうした高揚感は、他の季節にはないものだ。そして盛夏を過ぎると、それは目に見えて衰えていく。

 もう一つ、これは僕の個人的な考えだが、夏休みの記憶というものが、人にとっての夏を特別なものにしているのではなかろうか。おそらく日本人で夏休みを経験したことのない人はいないだろう。しかもその始まりと終わりは暦の上で明確に線引きされた、言うなれば日常と非日常の境目みたいなもので、実際夏休み中には、お盆がらみの家族旅行などのほかに、夏祭りや花火大会といった催しも目白押しだ。盆や祭りといえば先祖の霊や神様とかかわる機会でもある。まさに非日常。

 考えてみると、子供にとっては夏休み自体が非日常的なイベントみたいなものだ。そしてイベントには必ず終わりがあり、子供たちは日常に戻っていく。この特別なイベントの終わりを惜しんだ少年時代の記憶が、夏の終わりを特別なものにしているとは考えられないだろうか。

 今年も夏が終わる。今は心寂しい限りだが、夏は来年もやってくる。夏っていいよな。最近ではあまりの猛暑に外出するのも億劫だし、エアコンの電気代も馬鹿にならないけど、それでもやっぱり夏はいい。僕はあと何回、体験できるだろうか。台風一過の青空を眺めながら、ふとそんなことを考えてしまった。

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 夏と言えば… 実録?田中河内介

 今回はその筋では有名な田中河内介(たなかかわちのすけ)にまつわる話。

 田中河内介とは幕末の勤王家の一人で、薩摩藩の内紛でもある池田谷事件の折に過激派の一味として拘束され、己の目的のために藩士を欺くなどの所業が暴露されたこともあって、鹿児島に移送される船上で斬殺された。事の詳細は薩摩藩の暗部として秘匿されたため、田中河内介の最後については時代を超えて多くの逸話が生まれた。次に紹介する怪談もその一つ。

 時代が大正に変わって間もないある夜、物好きな面々が集まり、怪談を語る会が開かれた。するとある男がふらりと現れ、「田中河内介の最後について語りましょう」と言う。聞けばこの話は他言を固く禁じられ、「今では詳細を知っているのは私だけになってしまったので、語り継いでおきたい」とのこと。

 河内介の最後は無残かつ理不尽なものだったというが、大正の世になっても聞こえてくるのは憶測めいた話ばかり。ぜひとも真相を聞いてみたいとかたずをのんで待ったが、「とうにご一新(明治維新)も過ぎましたので…」つまり、もう時効のようなものだから、語ってもいいでしょう、といった類の前置きが堂々巡りするばかりで、一向に本題に入らない。あきれた会員たちが一人、二人とタバコを吸いに帳場に降り、「一体あの男は何なんだ」などと話していると、2回の会場となっている部屋から突然「医者を呼べ!」と叫ぶ声が聞こえた。急いで部屋にあがってみると、例の男が突っ伏してこと切れていた。こうして河内介の最後を知るものは誰もいなくなってしまった。

 この怪談を知ったのはだいぶ昔のことで、池田弥三郎(※1)の著書「日本の怪談」に紹介されているのを読んだのが最初だった。よくできた怪談話だと思っていたのだが、最近購入したある書物(※2)によると、この話はまごうこと無き事実らしい。曰く、この怪談会があったのは大正3年の7月12日の夜で、場所は京橋にあった画廊「画博堂」。ここで開かれた幽霊画展に合わせて催されたものだった。参加していたのは文豪泉鏡花に谷崎潤一郎、画家黒田清輝、歌舞伎役者市川猿之助など、そうそうたる顔ぶれだ。亡くなった語り手は「萬(よろず)朝報」という新聞社の営業部員、石河光治という人で、実際には現場で意識を失い、2週間後(26日)に死亡したという。ネットで調べてみると、2007~2008年にはすでにこれらの事柄を検証した書籍やブログの記事が確認できるので、おおむね間違いなさそうだ(※3)。

 石河光治は薩摩の旧家の出身で、それゆえ河内介斬殺の内情について伝え聞いていたようだが、薩摩藩内の内紛や謀略が絡む話なので、明治政府樹立後も政治的なタブーになっていたらしい。倒れる直前はろれつが回らなかったというから、死因は脳梗塞あるいは脳溢血だったのではないか、とこの書物の著者は推測している。

 実は前出の池田弥三郎の父である池田金太郎が件(くだん)の怪談会に参加しており、昭和になって息子の弥三郎が「父から聞いた話」としてこの騒動を紹介した時には、すでに政治的タブーが祟りというニュアンスに置き換えられていて、「話せばよくないことが起こる」という、より怪談めいた話になっていたらしい。ちなみに池田弥三郎の著作では語りの前口上は「この文明開化の世の中に祟りなどは無いだろうから…」というもので、こうした変更はおそらく聞く側の心理的バイアスによるものだろう。明治期にささやかれた数多くの祟り話を考えれば無理もない話だ。ただ、石河光治が亡くなったタイミングはあまりにも出来過ぎで、こうした一見ありそうもない「偶然」という要素が加わると、怪談は一気に説得力を持ち、聞く者は「あるいはもしかして…」と思い始める。逆を言えば、もし仮に石河光治の死が1年後だったら、この怪談は成立しなかっただろう。

※1 池田弥三郎 国文学者・民俗学者。「日本の幽霊」は1959年の著書。

※2 「教養としての最恐怪談」 吉田悠軌 著

※3 実際には怪談会の様子はもとになる証言や記述が多様なため、細部は様々な描写が見られる(「画博堂の怪談会」等で検索)。ここでは主に「日本の幽霊」「教養としての最恐怪談」に倣って記述していることをおことわりしておく。 

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 夏と言えば…心霊は真夜中が好き?

 一昔前までは、夏といえば怪しい心霊ドキュメンタリー(と言うより、あれはバラエティーだな)が目白押しだったんだけれど、ヤラセや仕込みがバレたとかで、ここ数年は各局が自粛モード。脳内に今も中学生が住んでいる僕にとっては心寂しい限りだ。不思議なことに、今ではNHKがこの分野を牽引していたりするのだが、さすがはNHKというか、謎解きめいた内容でちっともロマンを感じない。唯一これは、と思った「業界怪談」という番組も、今年はすっかり鳴りを潜めているしなあ。

 そんなわけで、仕方なくYoutubeの心霊チャンネルを覗いたりするのだが、これがまた夜中に心霊スポットを訪れてリポートするだけで、どうも釈然としない。前にもどこかで書いたが、「音がした!」「声が聞こえた!」なんていう現象だけなら現場で何とでもなるし、たまたま撮れたという画像も説得力のあるものはほとんど無い。それに見ていていつも思うんだけど、なんで真夜中限定?確かにまともな人間は歩いていないだろうし、静かだからかすかな音声でも記録できるだろう。そんな業務上の利点以外に、「丑三つ時が一番出やすい」という話もあるけど、これって本当なのか?だって人を目指す幽霊ならいざ知らず、場所に出る幽霊はこんな時間に化けて出ても、見てくれる人なんかいないじゃんか。

 僕が好きな実話怪談でこういうのがある。ある日踏み切り待ちをしていると、線路の反対側にも女の子が一人、踏切が開くのを待っている。よく見るとなんだか向こう側が透けて見えるような…。えっ、これってもしかして…。やがて踏切が開き、恐る恐る歩き始める。そしてその女の子とまさにすれ違おうとした時、その子が自分を見上げて言う。「なんでわかったの?」思わず振り返ってみたが、女の子はもうどこにもいなかった…。これは真昼間の出来事だ。こういう話を聞くと、もしかすると普段何気なくすれ違っている見知らぬ人々の中にも、そういった存在が紛れ込んでいる可能性はあるよな、なんて思ってしまう。

 仮に心霊現象が実際にあるとして、僕がその立場になったら好き好んで廃ホテルや人里離れたダムなんかに、しかも真夜中に佇んだりはしないだろうなあ。だって怖いもん。心霊番組ではこういう場所は霊が集まりやすいとか言うけれど、本人たちに確認でもしたのだろうか?僕なら我が家や生前慣れ親しんだ場所をフラフラして、家族や知人を見守るに違いない。できれば気持ちよく晴れた空の下がいい。多分あなただってそうするだろう。もちろん地縛霊というものもあるが、それは現世で生きている我々が考え出した出現の形態であって、「そうなんです、僕、ここを離れられないんですよ」と霊が自己申告した、なんて話はあまり聞かないなあ。

 これもよく言われることだが、突然の事故で命を奪われた場合、自分が死んだことに気づかない霊がその現場に佇んでいるという説。これだって、もとは人間なんだから、1~2週間もすれば大概気づきそうなもんだ。だが海外に目を向けると、「幽霊は実態としての脳を持たないために、記憶力が極めて乏しい」などと豪語するホラー小説もあって、油断も隙もありゃしない(※)。

 Youtubeには悪戯に恐怖をあおるような動画も多いが、そもそも必要以上に恐ろしい姿で出現する意味が僕にはどうしてもわからない。死因が凄惨な事故であったとか、心を病んで瘦せ衰えていたとかいうのならまだわかるが、果たしてどれほどの人間がそんな状況に陥るだろうか。一方で、死んだはずの祖父が庭先から穏やかな優しい表情でこちらを見ていた、なんていう話もある。要するに死者の魂をこの世に繋ぎ止める要因は、恨みつらみばかりではないということだ。本来であればどちらの場合も、出現したのが誰の霊なのかわからなければ、出現する意味がない。ただし踏切の女の子のように、偶然第三者が目撃する例もないではない。その場合は後日譚として幽霊の出自が明らかになることが多い。前出の「業界怪談」という番組は、体験者への(真面目な)インタビューも交えながら、こうした死者と生者のかかわりを巧みに描いていた。NHK、早く新シーズンを制作してくれないかな。

※「わたしが幽霊だった時」ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著 現在は絶版のようだが古書はそれなりに出回っている。  

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 エルキュール・ポワロって誰だ?

 エルキュール・ポワロを知っている人は比較的多いのではないだろうか。イギリスの推理小説家、アガサ・クリスティーが創造したベルギー人の探偵だ。彼は小太りの小男で、おしゃれで美食家でちょっと自意識過剰。その武器といえば「灰色の脳細胞」だけだ。タフでもアクティブでもない。心理分析等の手法を好み、芝居がかった語りで推理を披露する。

 この特徴的な人物を、今までに数多くの俳優たちが演じてきた。アルバート・フィニー、ピーター・ユスティノフ、ケネス・プラナー…。だが何といっても「オリエント急行殺人事件(1974)」のアルバート・フィニーが、よく作りこまれていて原作のイメージに最も近いと思う。ピーター・ユスティノフはこれまでに6本の映画(TV映画を含む)でポワロを演じたが、原作にある「ちょっと己惚れたベルギー人の小男」というイメージとは少し違う気がする。

 ケネス・プラナーは2017年以降、2本の映画でポワロを演じている。自身で監督も兼任していて、ポワロの人物像はかなり変更されている。ここでのポワロは行動的でアクションもこなし、挙句の果てに「オリエント急行殺人事件(2017)」ではコルト・オフィシャルポリス(警官用拳銃)、「ナイル殺人事件(2022)」ではコルトM1911(軍用大型拳銃)まで持ち出してくる。ミス・マープルは別として、ポワロほど拳銃が似合わない探偵はいないよ?そりゃあ、ブリュッセル警察の署長まで務めた人だから、昔は拳銃ぐらい使っただろうけど…。

 キャラ設定も凝り過ぎで、原作にない過去が次から次へと明かされる。第一次世界大戦で顔に傷を負い、それを隠すために髭を生やしたとか、いったい誰の話?ポワロは戦火を避けてイギリスに亡命してるんだけど。ここまで設定を変えてしまうと、同時代に同姓同名の、行動的で性格の歪んだ探偵がもう一人いたと考えたほうがいいぐらいだ。僕に言わせれば、これは前回紹介した、時代設定ごと「改変」されたフィリップ・マーロウとは違い、なんとも中途半端な気がする。だがケネス・プラナーのポワロは「変革」を容認する層には人気があるらしく、一定の評価を得ているのも事実だ。

 TVドラマに目を移すと、1989年から放送されたイギリス発の「アガサ・クリスティーズ・ポワロ」がすこぶる評判が良い。不定期ながら2013年まで続いたこのTVドラマでポワロを演じたのは、イギリス人俳優のディビッド・スーシェ。ポワロのイメージを決定づけたとされる名演技を見せた。容貌や背格好もまさにエルキュール・ポワロ。そして何よりも、頭が原作通り卵型。(笑)

 このTVドラマのもう一つの魅力は、時代考証を含め、かなり丁寧に制作されていることで、当時の蒸気機関車や客車、乗用車や航空機などがこれでもかという勢いで登場し、ファッションや小物も視る者の目を楽しませてくれる。加えてオリジナルメンバーのヘイスティングス大尉やスコットランドヤードのジャップ警部、秘書のミス・レモンが魅力的かつ個性的に描かれていて、その掛け合いも楽しい。

 日本ではNHKが1990年から2014年まで「名探偵ポワロ」というタイトルで放送し、その後も現在に至るまで複数の局で何度も再放送されているので、見たことのある人も多いだろう。これ以外にもTVドラマやTV映画はいくつかあるのだが、どれも語り継がれるほどの出来ではなかったようだ。

 ということで、個人的な見解としては、映画ではアルバート・フィニー、TVドラマでは文句なしにディビッド・スーシェということになる。どうしても一人に絞れ、と言われれば、ここはディビッド・スーシェで決まりかな。

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 フィリップ・マーロウって誰だ?

 私立探偵フィリップ・マーロウ。若い人は知らないかもしれないが、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーが書いたハードボイルド(※)小説(シリーズ)の主人公だ。クールかつタフでありながら、やさしさを心の奥底に秘めているという人物像で、映画の世界では数多くの俳優が彼を演じてきた。有名どころではハンフリー・ボガードやロバート・ミッチャム、最近では2022年の「探偵マーロウ」でリーアム・ニーソンが演じている。

 原作者のレイモンド・チャンドラーが活躍したのは1930~1950年代なので、探偵のイメージはトレンチコートにソフト帽といったところだろう。僕が思うに、そのイメージに最も合っているのは「さらば愛しき人よ(1975)」のロバート・ミッチャムだ。「三つ数えろ(1946)」のハンフリー・ボガードも悪くないが、ハリウッド俳優としては体が小さく(身長173㎝)、画面からタフというイメージを汲み取るのはちょいと難しい。それに比べてロバート・ミッチャムは183㎝、体重は90kg。原作の設定に近く、ちょっとやそっとでは参らない風体だ。あまり表情の変わらないクールな面構えも私立探偵らしくていい。だが誰が一番好みのマーロウかと問われれば、話はちょっと違ってくる。

 数あるフィリップ・マーロウ物の中でも傑作と言われている「ザ・ロング・グッドバイ」。この小説が映画化されたのはだいぶ遅く、アメリカン・ニューシネマ全盛の1973年だ。物語の舞台も1970年代に置き換えて制作され、エリオット・グールドがフィリップ・マーロウを演じた。この映画では、マーロウは普段はぶつぶつと愚痴をこぼしながらも、大抵のことは「どうでもいいけど」「大したことじゃないし」とスルーする適当な男だが、「どうでもよくない」ことには徹底的にこだわる。彼は好き嫌いの激しい猫を飼っていて、映画の冒頭では深夜に餌が切れていることに気づき、お気に入りのキャットフードを探してスーパーをさまよったりもする(わざわざくたびれたネクタイを締めて出かけるんだぜ)。この導入部は映画のオリジナルで、エリオット・グールドはこういうちょっととぼけた人物を演らせるとピタリとはまる。

 肝心のストーリー(ネタバレあり)は不倫がらみの殺人事件を描いている。マーロウは友人と思っていた男にいいように利用され、最終的に3人の人死にが出るが男は意に介さない。原作では終盤、自殺を装いメキシコで優雅に暮らしていたその男がやってきて、何食わぬ顔でまた飲もうぜと誘うが、マーロウはそれを断り、別れを告げる。だが映画のエンディングは原作と大きく異なっている。

 マーロウは彼がメキシコに潜伏していることを突き止め、男のもとを訪れる。二言三言会話を交わし、確証を得ると、表情一つ変えずに拳銃を抜き、1発でケリをつけて唾を吐く。普段の飄々とした態度と打って変わって、問答無用で引き金を引く姿に見るものは唖然とさせられるが、彼は何事もなかったかのようにハーモニカを吹きながら、男の家を後にする。

 確かに原作のイメージからはかけ離れているが、時代に合わせた改変はかなり成功していると思う。そう、世の中にはどうでもいいことって結構多いのだ。いちいち取り合うほど人生は長くない。だが見過ごせない物事については容赦しない。これぞ70年代版ハードボイルド。ということで、僕にとってはこのエリオット・グールド版が一番性に合う。

 映画自体、主人公が人一人殺しておいて、事後処理とかどうするんだろうと心配になるが、それこそ「ま、どうでもいいか」と思わせてくれる、名匠ロバート・アルトマン監督による快作だった。カルトムービーとして令和の今でも、いや、令和のこんなご時世だからこそ、支持され続けているのも頷ける。音楽はかのジョン・ウィリアムス。たった1曲を多彩なアレンジで使いまわしている。挿入歌の「ハリウッド万歳」も効果的に使われていて、聞きごたえあり。

※ ハードボイルドとは元来固ゆでにした卵などのことで、中身が固まって流れないことから「感情に流されない」ことを意味する(諸説あり)という。主に文学の表現方法を指す言葉で、客観的かつ簡素な文体で、感情表現を交えず、写実的に表現する手法のこと。アーネスト・ヘミングウェイに始まり、レイモンド・チャンドラーらが確立したと言われている。内容的にも情に流されず、感情を表に出さない主人公が多く描かれてきたので、今ではそうした生き方を表現する言葉としても使われている。

追記 映画「三つ数えろ」の原作は「大いなる眠り」。同じく映画「探偵マーロウ」の原作はベンジャミン・ブラックが書いた「黒い瞳のブロンド」。「ロンググッドバイ」の続編として公認されている。 

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 夏といえば…貞子再び

 古い話で恐縮だが、1998年に公開され、日本の幽霊のイメージをあっという間に塗り換えたホラー映画、「リング」。ビデオ映像として現れ、さらにTV画面を通り抜けて現実世界に出現するという、提灯お岩も真っ青の貞子の登場は、文字通り一世を風靡した。これ以降、インチキ心霊動画に登場する霊は洋の東西を問わず、ほとんどすべてが白いワンピースに長い黒髪という姿に統一されたといってもいいぐらいだ。そんな貞子だが、僕にはいまだに答えが出ない疑問がある。

 映画「リング」の終盤で、貞子がTV画面を抜けて出現するシーンがあるが、その時使われたTVの画面サイズは26インチぐらいだろうか。貞子はもともとビデオ映像の中の存在なので、そのサイズは画面の大きさに比例して大きくなったり小さくなったりするはずだ。そこで問題。もし仮に、身近にワンセグ携帯しかなかった場合、出現する貞子のサイズはどうなるのだろうか。あるいは逆に街頭のパブリックビューを通して出現したら?

 もう一つ、映画で貞子が出現したTV画面はどう見てもスタンダードサイズだ。それがもしビスタサイズやワイド画面に対応したTVから出現すれば、横幅が強調されるだろう。その場合、少し太めの貞子が現れるのだろうか。

 原作によれば貞子は半陰陽(睾丸性女性化症候群?)ながら「見たこともないような美人」で、19歳でこの世を去っているようだから、横幅の強調された太めの姿で出現することを嫌うかもしれない。もしこの憶測が当たっているとすれば、貞子から身を守る一つの方策が得られるのではなかろうか。つまりTVの画面選択を「ワイド」に設定しておけばいい。口裂け女の「ポマード」と3回唱える撃退法よりはるかに現実的だろう。ちなみにレターボックスサイズは無効です(我ながらしょーもないことを論じている気がしてきたぞ)。

 こうした視聴者の心配(?)をよそに、映画を見る限りでは、貞子は今のところ常にリアルサイズで出現しているようだ。現実の世界ではネット環境が整い、TVよりもパソコンやスマホで動画を見る世代が増えてきたこともあって、後発の貞子関連のホラー映画、特に海外版では呪いのビデオ(というか動画)がパソコン等に保存されたり、ネットを通して拡散したりしている。もし貞子がリアルサイズで現れるとしたら、一般のパソコン画面やスマホから出現するのはサイズ的に不可能だろうが、そのあたりは出現シーンを割愛したり出現方法を変更(髪の毛だけとか黒い水だとか)したりしてうまく誤魔化しているようだ。ところで呪いのビデオ(動画)がネットで拡散した場合、その伝達速度や到達範囲を考えると、死の宣告である無言電話をかけるのも大変だろうなあ。AIとか導入するんだろうか。それともいっそのこと、DM一斉送信か?

 こうした世の中の進歩を考えると、もしかしたら呪いを成就させるためにこういったシステムを採用してしまった山村貞子さんは、今になってものすごく後悔しているかもしれない。

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 ニコンZfcとオリンパスOM-4

 最近京都に旅行した折に、今年購入したばかりのニコンZfcを連れて行った。いつもならメイン機のDfを持って行くところだけど、何しろでかくて重い。軽量コンパクトなZfcを正式デビューさせるには良い機会だ。

 ところで僕は普段、中央部重点測光を選択して撮影することが多い。理由は単純で、フィルムカメラ時代に長きにわたって愛用したF3が中央部重点測光だったからだ。慣れればこの測光パターンとAE/AFロックを併用するだけで、ほぼ思い通りの露出が得られる。DfとサブのD300は、メニューを開かなくても背面のスイッチで測光範囲の切り替えができるので、とても重宝している。だがAE/AFロックボタンの位置はちょいと難ありで、特にD300はよほど手の大きな人でないと使いづらい。Zfcについても、こうした点を踏まえて、「道具」としての操作性や即応性を確認しておきたかった。

 余談だがその昔、僕はオリンパスのカメラを愛用していて、マニュアルフォーカスのハイエンド機、OM-4を使っていた時期があった。このカメラは通常の中央部重点測光のほかに「マルチスポット測光」という機能があって、これはファインダー内の最大8か所をスポット測光して平均化し、最適な露出を決定するというものだった。確かに魅力的に聞こえるけど、実際使ってみると、撮影者がどこを何点測光するか自分で判断しなければならず、相応の経験値がなければ使いこなすことは難しかった。「道具」というものはスペックだけでは語れない部分がある。結局このカメラでも中央部重点測光を使うことが多く、あえてOM-4を使う理由がなくなってしまった。こうなるとオリンパスはもう後がない。そこで意を決してニコンF3を購入、以来ニコンのカメラを使い続けている。

 さて、今回のZfcだが、ニコン伝統の若干アンダー気味な露出の傾向は健在で、ボディが小さいので、例のAE/AFボタンもD300に比べてはるかに使いやすい位置にある。測光範囲切り替えスイッチは無いが、プログラムモードでiメニューを開き、前もって設定しておけば、プログラムモードを選択することで切り替えることができる。正直ボディの仕上げはプラスチッキーだし、APS-Cサイズのセンサーも好みじゃないけど、撮れた画像自体は悪くない。白とびや黒つぶれは最小限で、解像度もまあまあだ。なるほど、これがAPS-Cセンサー特有の「レンズの中央だけを使った画像」というやつか。このボディサイズでDfと同じ操作感、しかもこのレベルの画像が得られるのなら言うこと無し。少々難があったグリップの感触も、市販のボディケースを使うことでかなり改善した。残るはZマウントの問題だけだ。

 僕が持っている交換レンズはすべてFマウント。Zマウントのカメラには使えない。じゃあ、なんでZfcを購入したのか。それは単にデザインが気に入ったからで、つい魔がさしたというか…(笑)。でもレンズキットに同梱されていたDX16-50mm、これはフルサイズに換算すると、ほぼ24-75mmにあたる。使いやすい焦点域だ。沈胴式なので嵩張ることもない。気軽に撮影するには十分で、今回の旅行でも不自由を感じたことはほとんどなかった。しばらくはこれ1本でもいけそうだ。それに、いざとなればマウントアダプターを使う手もある(純正品あり)。

 Zfc+DX16-50mmは気軽に持ち歩くのにはもってこいの組み合わせだ。必要十分なパフォーマンスを持っていると思う。ただ一つ不満なのはデジタルビューファインダーの見え方だ。あの人工光源の下でのギラギラした感じはいまだに馴染めない。まあ、これは慣れるしかないかな。

 OM-4のシャッターボタンまわり。小さな丸いボタンがスポット測光ボタン。四角の小さなボタンは白を白く、黒を黒く描写するための露出補正ボタン。それぞれプラス・マイナス1.5EVの補正をワンタッチで行えるが、使ったことは無い。シャッター速度はレンズマウントのリング(青と白の数字が見える)で操作する。
 OM-4とZfc。ZfcにはTPオリジナルのボディケースとF-Fotoのフードを取り付けている。OM-4のサイズを考えると、よくもまあ、あれだけ複雑な露出機構を組み込んだものだ。執念としか思えない。確かによくできたカメラではある。