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 ボックスアートの価値

 僕がプラモ好きなことは以前からお伝えしていると思うが、最近Youtubeでだったかな、同じくプラモ好きの中年男性がこんなことを言っていた。「ボックスアートがカッコよければ、キットの出来が悪くてもあまり気にならない。そうなんですよ。キットよりボックスアートなんです。」

 これは僕にとってすごく共感できる話だ。もしかすると同年代のプラモマニアは、そのほとんどが同意するかもしれない。ちなみにここで言うボックスアートとは、プラモデルの箱絵のことだ。

 僕が子供のころは、完成品の形が実物とまるで違うようないいかげんなキットが数多く存在した。いわゆる子供だましの「オモチャ」的なもので、かといって大人向けの「模型」であっても、そのままではまともに組みあがらないキットもあり、ちょっと油断すると接着面がずれたり隙間が空いたりすることはしょっちゅうで、ひどいときには爆撃機の機体がねじれていて、どうあがいても左右のパーツが接着できない、なんてこともあった。

 今だったら大炎上ものだが、当時は取り換えてもらうか泣き寝入りするしかなくて、それが当たり前みたいに思っていた。それでもかっこいいボックスアートが手に入れば、絵の部分を丁寧に切り取り、壁に飾ったりして、それで6割がた満足していたような気がする。

 逆にボックスアートの出来が悪いと、キットの良し悪しにかかわらず購買意欲がわかないことが多く、こうしてみると、買う側はもちろん売る側にとっても、ボックスアートの出来は売り上げを左右する重要な要素だったに違いない。

 有名なプラモデルの箱絵師に、戦車プラモのボックスアートで有名な高荷義之という人がいる。彼の描く作品はたくさんの脇役(軍用車両や兵士たち)によるドラマチックな演出が特徴だったんだけど、アメリカではキットに入っていないものをボックスアートに描くとクレームがつくということで、日本製プラモデルの輸出が盛んになると、発売当初は戦車とともに描かれていた機関銃を構える兵士や随伴するサイドカーがいつの間にか消え(※)、同じキットに細部の異なる2種類のボックスアートが存在することになった。

 さらに価格改定時にボックスアートそのものが変更されることもあり、中古プラモ市場では、状態さえよければ古いボックスアートのキットのほうが高値がつくことが多い。

 例えば僕が5年ほど前に手に入れたタミヤの1/35パンサー戦車のリモコン版(初版・後期)だが、これはボックスアートが大西将美という、これまた有名な箱絵師の初期の作品で、発売当時(1968年)850円だったものを2万円ほどで購入した。今、同じものをネットで探すと6万円以上の値がついている。一方同じキットでありながら、1974年発売のボックスアートが新規のもの(当時1,300円)は今も2万円ぐらいで手に入れることができる。

 ところでこのキット、箱を開けてみると、パーツやランナーが緩衝材で包まれていて、一見何がなんだかわからない。輸送時に部品を保護するために梱包したんだろうけど、売り手側の「貴重なものなんですよ」という気持ちは伝わってくるものの、この感覚は子供の頃の、プラモの箱を開けた時の心躍る気持ちとは全く別のものだ。いくら希少性が高いとは言っても、これはちょっとやりすぎじゃないの?という気がする。「間違っても作ってはいけません。末永く大事に保管すること、それがあなたに与えられた使命なんですから。」そんな声が聞こえてきそうだ。こんなことされたら作れないよなあ。でもさっき書いたように、ボックスアートが手に入っただけでほぼ満足だから、別に作らなくてもいいっちゃいいんだけどね。

 僕にとってプラモはあくまでもプラモでしかない。そしてボックスアートは間違いなくその価値の大部分を占めている。それは子供の頃の思い出や憧れを買い集めるようなもので、投資などという大人の都合が入り込む隙は微塵もないように思うが、世間の見方は少し違うようだ。

 もし仮に、今手元にある中古プラモのコレクションをすべて売り払ったら、おそらく買い取り値でも20~30万円ぐらいにはなるだろう。20年もすれば50万円を超えるかもしれない。だからと言って、遺書に「困ったときにはこのプラモデルをお金に換えて、生活費の足しにしなさい」なんて書くのは、なんか違う気がするなあ。

※ パソコンなど無い時代だから、箱絵師が絵の具で上描きして修正していた。よく見るともとの絵柄がうっすら見える、なんていう例もある。

 タミヤのパンサー戦車。初版の大箱(大西将美 画)。現在6万円ぐらい。この独特な色使いが何とも言えない雰囲気を醸し出している。
 改訂版の小箱(高荷義之 画)。こちらは現在2万円前後。中身は同じものなんだけど、このリアリズムに徹したボックスアートも欲しくて、結局両方とも購入した。僕が買ったときはどちらももっと低価格だった。
 左が初版(大箱)、右が改訂版(小箱)。左の箱の緩衝材は業者が気を利かせて(?)入れたものらしい。見てのとおり、大箱の頃はブリスター・パッケージを使った豪華版だった。

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 庭に新しい客が…。

 5月に入ったある日、庭でやたらに技巧的(?)な鳥の鳴き声がした。今までに聞いたことがない声色で、定型があるというよりは思いつくまま、気ままに鳴いているという感じだ。いい声だがやたらと大音量で、聞きようによってはやかましい気もする。以来庭や近所でよく鳴いているのだが、なかなか姿を見ることができない。

 ある朝その鳥が、スズメのために庭に撒いた冷蔵庫のご飯を食べに降りてきて、やっとその姿を見ることができた。全身赤茶色で嘴は黄色。目の周りに白い縁があり、それが目じりから尾を引くように伸びている。真っ先に連想したのはツタンカーメンの黄金のマスク。あの目の周りにある青いライン、あれを白くしたような感じだ。それ以外にはこれといった特徴がない。なんにせよ初めて見る鳥だ。

 声ばかりでなかなか姿を見せず、写真が撮れなかったので、記憶を頼りにネットで調べてみると、どうもガビチョウという鳥らしい。漢字で書くと眉美鳥。なるほど。眼の縁の白い部分を眉になぞらえたのか。さえずりが美しい、とも書いてあるな。1970年ごろの鳥ブームの時に、その鳴き声を鑑賞するために中国から輸入されたもので、籠から逃げた個体が野生化して繁殖したという。でも僕が思うに、あの声量では室内で飼うにはうるさすぎるし、体色が地味で姿を鑑賞するのには向いていないから、故意に放たれたものも多いんじゃないかい?ブームが去った後、始末に困った業者が放鳥した、なんて話もあるぐらいだから。

 現在日本では特定外来種に指定されていて、農作物の食害や、その大音量のさえずりが騒音ととらえられたことで、害鳥とされているんだって。ほら、やっぱりうるさいんだよ、誰が聞いても。実際、50mほど離れた林の中で鳴いている分には「おお、美しいさえずりじゃないか」などと吞気なことを言っていられるが、これを庭の植え込みでやられると、確かに騒音に近い。しかも1度鳴き始めると、結構長い時間鳴き続ける。他でやってくれと言いたい。でももとはと言えば日本人が金銭目当てで輸入したんだから、ガビチョウに非はない。勝手に連れてこられて、知らないうちに害鳥に指定されるなんて、ガビチョウにしてみればいい迷惑だろうなあ。

 写真が撮れなかったのでスケッチにしてみた。最近あんまり描かないのでありあわせの画材しかなくて、ネットの画像をもとに水彩画用紙に水性色鉛筆で描いた。水はあえて使っていない。
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 もしかして、それって○○かも…?

 最近聞いていてイライラする宣伝文句がある。「もしかして、それって○○かも」というやつだ。○○の部分には病気の症状や名称が入る。そして「だったらこれ!」と、医薬品やサプリメントを紹介する。

 この「もしかして○○かも」という文言には二つの含みがあって、「効果があるかもしれないから、とりあえず買って使ってみては?」というお誘いと、「効かなかった?じゃあ○○じゃなかったということですね。でも断言はしなかったでしょ?」という言い訳が隠れているように感じる。どちらも売る側には好都合だ。

 もう一つ、使用者の「喜びの声」を伝えながら、「個人の感想で、効果を保証するものではありません」と、ことわりの言葉を添える、というパターンもある。すげー違和感。だったら個人の感想なんか伝えなければいいのに。

 考えてみると、一般的な医薬品の宣伝文句は、昔から効能について断言するスタイルのものが多かった。特に印象深い総合感冒薬のCMに、「かぜの諸症状によく効きます」という決まり文句があった。「かぜに効きます」ではなく「かぜの諸症状に…」と言っているところがミソで、抗生物質が含まれていないから、事実かぜそのものを治す効能はない。だから思わせぶりなことは言わず、「咳、発熱、頭痛などの症状を抑える」という事実だけを伝えているわけだ。これになぞらえて考えると、先ほどの「個人の感想」は「気の持ちようが変わります」ということになるのかな?うーん、さすがに使えないか。

 冒頭で紹介したようなあいまいな表現は、特にサプリメントのCMに多い。これらの商品のなかには、それなりの機関が検査した結果、CMで謳っている効能に何の根拠もなかったり、ひどい例では健康被害事件にまで発展したものもある。そんな時代に商品を売る側が、CMであいまいな表現をするのはどうかと思う。それが医薬品やサプリメントのCMならなおさらだ。少なくとも僕は「それって○○かも」なんてことを言われたら、「売る側がよくわからないんじゃ効果を期待しろと言われてもなあ…」なんて気持ちになってしまう。だから買わない。ほかの人たちはどう感じているのだろうか。

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 なぜか忘れられない

 最近また思い出した。取るに足らない、でもなぜか忘れられない記憶。思い出すたびに微笑んでしまう。あの二人は、今頃どうしているだろうか。

 それは20年以上前、カミさんと僕が新婚旅行に行った帰りの飛行機でのことだった。僕たちが乗っていたのはDC-10というかなり大型の機体で、座席は横が2ー5-2列の配置だった。僕たちは機首に向かって右側の2列席に座っていた。

 カミさんは当時から乗り物に乗るとすぐに眠ってしまう人で、このフライトでも、僕がタイガを眺めたり映画を見たりしている間、ずっと眠っていた。少々あきれ始めた僕がふと機内に目をやると、同じ列の5列席の中ほどに欧州人と思しき若いカップルが座っていて、やはり女性が眠りこけている。男性が立ち上がって彼女の毛布を直そうとした時、それとは無しに眺めていた僕と目が合った。僕が眠っているカミさんに目をやり、軽く肩をすくめて見せると、彼もそれに応えるように肩をすくめ、(まったく、困ったもんだよね)とでも言うかのように苦笑いをした。

 不思議なことに、その後の彼らの記憶は全くない。同じ成田で降りたはずだが、降りる準備をする様子も、最後にあいさつを交わしたかどうかも覚えていない。ただ、肩をすくめた彼の姿だけが記憶に残っている。

 それだけのことなのだが、どういうわけか何年かに一度、何の前触れもなく思い出す。そしてそんな些細なことでさえ、自分の人生の一部であることに驚く。

 あれから長い年月が過ぎた。彼は今、どこで何をしているのだろう。時折、僕のことを思い出したりするだろうか。元気でいるといいが。

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 続「ロッホ・ローモンド」

 さて、「ロッホ・ローモンド」。この勇壮かつ哀愁漂うスコットランド民謡は歌詞が複数ある。その辺りの事情は識者の方がブログで詳しく説明されているようなので、ここでは日本の歌曲「五番街のマリーへ」の原型ではないかと言われている、ということだけを紹介しておく。

 前回書いたように、イギリスは四つの国からなる連合王国だが、それが成立するまでには多くの争いがあった。1600年代末~1700年代のジャコバイトの反乱もその一つで、調べてみると近隣諸国を巻き込む複雑な構図が見えてくる。そのすべてをここには書けないが、簡単に言うと、当時のイングランド王室に反感を持つ「ジャコバイト」と呼ばれる勢力が政変をもくろみ、最大の支持基盤だったスコットランドの人々を中心に、数回にわたって反乱を起こすも大敗。1746年のカロデン・ムア(ムア=湿原)における最後の戦いでは、イギリス政府軍の司令官カンバーランド公によって、ジャコバイトの捕虜や傷ついて動けない兵士たちが、戦闘終了後に皆殺しにされるという事件が起こった。このカロデン・ムアでの虐殺事件は、今もスコットランド人の心に暗い影を落としているという。なぜこんなことを書いたかというと、「ロッホ・ローモンド」の歌詞に、ジャコバイトの反乱で政府軍に捕らえられた二人のスコットランド兵が描かれているからだ。

 歌詞の中に「君は高みの道を行け 僕は下る道を行く 目指すは同じスコットランド いつかまた語り合おう 懐かしのローモンド湖」というくだりがある。これは「釈放された君は生者が通る上の道を、処刑される僕は死者の魂が通る下の道を通ってスコットランドに帰る」という意味で、「遠隔地で亡くなったスコットランド人は、故郷に帰るために魂の通る近道を見出すことができる」というケルトの言い伝えに基づいている。

 こうした歴史があることで、スコットランド人とイングランド人は今でも互いに敵愾心を持っていて、そのことを如実に表すこんなジョークがある。

 スコットランド人とイングランド人が辞書の編纂をしていた。オートミールの原料である「オート麦」の項目で、イングランド人が皮肉たっぷりに「麦の一種。スコットランドでは人が食べるが、イングランドでは馬の餌にする。」と書き込んだ。するとスコットランド人は涼しい顔でこう書き加えた。「ゆえにイングランドでは馬が優秀で、スコットランドでは人が優秀である。」

 確かにオートミールはお世辞にもおいしいとは言えないが、ロンドンの名物料理だった「ウナギのゼリー寄せ」の悪評を考えれば、イングランド人だって相当な味覚音痴だろう。それこそ、「どの口が言ってんの?」という感じで…おっといけない、これでは前回の二の舞だ。

 そんなわけで、スコットランド民謡のなかにはその土地の血塗られた悲しい歴史を歌ったものがいくつかある。それらはスコットランドの伝統と誇りを今に伝えていて、政治の世界では今も「独立推進派」が存在する。2014年には独立するか否かを問う住民投票が行われ、僅差で反対派が勝利したことは記憶に新しいところだ。でもそう考えてみると、日本人はなんておおらかなんだろう。例えば「平将門の乱」にしても、祟りばかりが有名で、関東人があの一件を今も根に持ち、京都人に敵愾心を抱いている、などという話はあまり聞かない。食い物が美味いせいかな。

おまけ 前回画像を出し惜しみした「スター・ゲイジー・パイ」。訳して「星を見上げるパイ」のイラストを公開。

「いや、これはちょっと…」という感じ。どうです、なんだか切ないでしょう?

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 「ロッホ・ローモンド」…のはずが…。

 ロッホ・ローモンドとはイギリスのスコットランドにある湖、「ローモンド湖」のことだ。そこそこ有名な観光地の一つだが、スコッチ・ウイスキーやスコットランド民謡にも同じ名前のものがあるので少々ややこしい。ちなみに「ロッホ」というのはスコットランドの方言で湖を意味する言葉で、例えばあの有名なネス湖なら「ロッホ・ネス」となる。

 イギリスは不思議な国だ。正式には四つの国(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)からなる連合王国(ユナイテッド・キングダム=UK)で、妖精や幽霊がいるのは当たり前。怪獣が住む湖があり、味わい深いウィスキーを産し、古代の巨石があちこちに屹立する。きわめて保守的な国民性かと思えば、いきなり前衛的な文化が芽生え、そして何よりも、王国であり、貴族層が存在するにもかかわらず、固有の美味しい料理が全くと言っていいほど存在しない。その証拠に、大きな書店の料理本コーナーで探してみても「イギリス料理」に関する書物はまず見つからない。

 僕はこの10年ほどの間にやっと2冊見つけたが、そのうちの1冊は「ロンドン おいしいものを探す旅」、つまり旅行者向けの食べ歩きガイドのようなものだ。もう1冊は「ホントはおいしいイギリス料理(※1)」。こちらはレシピも載せた正真正銘の料理本。ただねえ、帯の文言が…。「あの(あの、だよ?)イギリス料理をおいしく食べる」って、もう認めたようなもんじゃんか。しかも日本人の著者が「はじめに」として「日本人の口に合うように考えたレシピ」と言っている以上、もとは日本人の口に合わなかった、ということだろう。

 驚くことに、この本ではマッシュポテトやキュウリのサンドイッチまでもがいち料理としてそのレシピを紹介されていて、キュウリのサンドイッチなんて、塩をしたキュウリの薄切りをバターを塗ったパンで挟むだけ。たった1行でレシピが書ける。アフタヌーン・ティーの定番なんだそうだが、何も知らずにこれを出されたら嫌われたと思うぞ。

 料理の名前も独特だ。「穴の中のヒキガエル」だとか「馬に乗った悪魔」だとか。ちなみに前者は小麦粉の生地にソーセージを入れてオーブンで焼いたもの、後者はプルーンにアップルチャツネを塗ったベーコンを巻き、オーブンで焼いたもの。それがどうしてこんな名前になるのか、全く理解できない。名前をつけたヤツのセンスもどうかと思うが、それが定着して今も残っているあたりがすごい。「めんどくさいからいいよ、もうこれで」なんて声が聞こえてきそうだ。

 断っておくが、僕はこの本自体をけなすつもりはない。むしろこうしたイギリス料理を紹介しようとする著者の姿勢は大歓迎だ。だがイギリスの食文化や食のセンスに関しては、日本人には理解しがたいものがあることもまた事実だ。

 そんな英国食料品界隈で、唯一素晴らしいと思う業績(※2)がある。それは汎用カレー粉を発明したことだ。インドがイギリスの植民地だった時代に、カレーを本国で手軽に食べるために開発したらしいが、これは我が家のキッチンでも大いに役立っている。でもこういうことができるのなら、まずてめえっちの料理を何とかしろよ、と言いたい。

 なんだか話がとんでもない方向に進んでしまった。本当は「ロッホ・ローモンド」というスコットランド民謡とジャコバイトの反乱について書こうと思っていたのに、いつの間にかカレー粉の話をしている。これはきっとカレーの妖精が(いないいない)僕を惑わせたに違いない。やはりイギリスは侮りがたい不思議の国なのだ。仕方がないから「ロッホ・ローモンド」については続編として書くことにして、最後に僕が最も驚いたイギリス料理を紹介する。

 その料理とは、「スター・ゲイジー・パイ」、直訳すると「星を見上げるパイ」。でも「星を見上げる…」というロマンティックな語感からは想像もつかない見てくれだ。初めて見たとき、これは何の冗談だ?と思ったもんな。あえて画像は載せずにおくので、ぜひとも自分で検索してみてほしい。きっとあなたも「あ、ホントだ、見上げてる…」と思うだろう。そしてほんの少し、切なくなるに違いない。

※1 一般的な家庭料理に主眼を置き、ハギスやウナギのゼリー寄せといったトンデモ料理は除外されている。

※2 ウスターソースという逸品もあるが、伝承によればあれは偶然の産物だから、ここでは「業績」とはしない。

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 匂いにまつわるあれこれ

 この冬、あるCMを見てちょっとあきれてしまった。同じ感想を持った人もいるかもしれない。

 それは洗濯洗剤(か何か)のCMだったんだけど、冬場に暖かい衣服を着ているがゆえに満員電車等で汗をかいても大丈夫、その汗臭さを解消しますよ、という内容だった。なんだかなあ。「夏場の汗臭さに対処する」というのはわからんでもないが、そもそも冬は寒いのが当たり前。通常なら大汗をかく機会などそうそうないが、現代人は寒さ対策として貼るカイロや、「〇-ト△ック」などの防寒衣料を利用することが多い。すると今度はそのせいで汗をかくからその匂いを何とかしたい、と。これ、際限ない感じだな。世論として実際にあるのかな。

 花粉症が当たり前になった今、花粉の飛散が多い季節に洗濯物を部屋干しする、これはわかる。もちろん防犯上の意味もあるだろう。だから部屋干しに適した抗菌成分の多い洗剤が開発されるのも頷ける。でも汗臭さに関しては、普通に洗濯していれば問題ないんじゃないのか?逆に汗臭さの消えない洗剤なんて今どき有り得ないだろう。

 最近、「男の体臭は勘弁してほしい」なんてセクハラまがいの意見がネットに書き込まれ、大炎上したことがあった。しかしその一方で時間が惜しい、疲れる、といった理由で風呂に入らない若者が、男女を問わず増えているという。シャワーで済ませるという意味かと思ったら、シャワーも浴びないというから驚きだ。ネット上では「風呂キャンセル界隈(※)」という「見出し」がつくほど有名な話だが、体臭がどうのと言う以前に不衛生だろう。

 そういえば数年前、柔軟剤などの香料が強すぎると問題になったことがあった。それと前後して、若い人がつけるオーデコロンの量が多すぎて不快、なんて話もあった。こうしてみると、匂いの問題は体臭に限ったことじゃなさそうだ。ことに芳香剤の類が「良い香り」を追求するあまり、度が過ぎて不快感の原因になるなんて、まさに本末転倒だ。

 CMの話題に戻ろう。要するに僕が言いたかったのは、洗剤なんて、汎用性の高いものが一つあればそれでいいんじゃね?ということだ。確かに体臭は自分では気づきにくいデリケートな問題ではある。だがそこにつけ込んだコマーシャリズムに乗せられ、不快な体臭がない人まで暗示にかかって神経質になったり、何かにつけてそれ専用の洗剤を買いそろえたりするのはどうなんだろう。そこには消費者の切実な要望があるのか、はたまた企業側の「大きなお世話」なのか。みなさん、どう思います?

※ うつ病などが原因で、そういった日常的なルーティンに苦痛を感じるために入浴できない人もいるので、言及には注意が必要。

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 People Get Ready

 「ピープル・ゲット・レディ」という曲があって、これがなかなかいい。しばらく忘れていたが、1週間ほど前、どうしても聞きたくなって古いCDを引っ張り出した。

 僕が初めてこの曲を聞いたのは、1993年にリリースされたロッド・スチュアートのアルバム、「アンプラグド(※)」に収録されたカヴァーバージョンだった。宗教がかった内容のゴスペル調の曲で、初出は1965年。インプレッションズというR&Bグループのオリジナル・ナンバーだ。当時アメリカで盛んだった公民権運動を意識して作られたという。

 さあ、準備して 列車がやってくる 

 切符はいらない 信じる心があれば

 だから さあ、準備するんだ 

 ヨルダン行きの列車に乗るために

 海岸線を列車は走る 新たな旅人を乗せながら

 けれど 私利私欲に囚われた 罪深き者の席はない

 彼らを憐れもう 王座の前では  

 隠れる場所など ありはしないのだから

 ここで言う「ヨルダン」とは単なる地名ではなく、旧約聖書の「出エジプト記」でイスラエルの民が目指した「約束の地」のことだ。

 僕は宗教的な人間ではないが、母がクリスチャンだったこともあり、一番親しんだ宗教といえばキリスト教。そのせいかどうかはわからないが、好きなジャンルにはゴスペル調の曲も多い。ついでに言うと、R&Bやカントリー&ウエスタン寄りのロックも好きで、例えばかの有名なザ・バンドやキム・カーンなんかもよく聞いた。実際、この数週間は「ザ・ウェイト(ザ・バンドの曲)」を聞いていた。この曲にも聖書の中の固有名詞がいくつも使われていて、その流れで久々に聞きたくなったのが「ピープル・ゲット・レディ」だったというわけだ。

 実を言うと、ロッド・スチュアートのバージョンばかりを聞いてきた僕が、オリジナルが1960年代の曲であることを知ったのは比較的最近のことだった。Youtubeでオリジナルを聞いてみると、アフリカ系アメリカ人のコーラスによるパフォーマンスは、そのままゴスペルといってもいい趣で、実にすんなりと心の中に入ってくる感じだった。

 そもそも宗教というのは、心穏やかに生きるための一種の哲学のようなものだと僕は思っている。世界には様々な宗教が存在するが、仮に神様が存在するとしたら、こんなちっぽけな地球を導くために二人も三人もいらないだろう。それにおそらく、長いこと宗教を後ろ盾に争ってきた人間を見てあきれ果てているに違いない。

 疲れているな、と感じるとき、僕はシンプルに音楽を聴きたくなる。意図的に向き合わずとも自然に耳に入ってくるからだ。それがこうした宗教がかった音楽ならなおのこと、僕のような特定の信仰をもたない者でも穏やかな気持ちになるから不思議だ。それに頼るかどうかは別として、人知を超えた大きな存在をそれとなく感じさせてくれるからだろう。

※「アンプラグド」ロック歌手などが電気を用いる楽器を使わずに歌唱・演奏したアメリカのMTVライブ(TV番組)と、それをCD化したシリーズ。タイトルは「電源プラグを抜いた」という意味。

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 野鳥観察

 以前書いたように、最近暇を見ては庭に出て、野鳥を眺めている。冬の間常連だったお嬢(ジョウビタキのメス)は、遠くからウグイスの声が聞こえ始めたころ、その姿を見なくなった。おそらく渡りの時期が来たんだろう。ちょっと寂しい気もするが、こればっかりは致し方のないことだ。

 ところでつい先だって、珍しい鳥が来ていた。キツツキのように嘴で盛んに樹皮をつついている。背中には波打つ縞模様があり、頭の羽毛が少し立っていた。以前にも見たことがあるが、ごくたまにしか見かけない鳥だ。おそらく年に1~2回程度だろう。もちろん気づかないうちに庭を訪れているということはあり得るけれど。

 カメラを持ち出して写真を撮り、調べてみたところ、これはキツツキの一種であるコゲラという鳥らしい。これまたうちの庭の常連であるシジュウカラと混群(異種で作る群れ)をなしていた。その群れのなかでコゲラは2羽だけ。おそらくつがいだろう。どちらかが死ぬまで添い遂げることが多いという。

 僕の家は森が点在する田園地帯にあり、そのせいか野生動物が多い。さすがに熊やイノシシはいないが、タヌキやイタチは良く見かける。野兎も一度見たことがある。最近では狐もいるらしく、昨年の末、今まで聞いたことのない恐ろし気な鳴き声で、明け方に起こされたことが何度かあった。娘は運転中に近くの農道で実物を目撃したそうで、それは「一見細身の犬のようだが尻尾が太く、普通の犬に比べて耳が大きく鼻先が尖っていた」という。この地域に野犬はいないから、ほぼ間違いないだろう。ただし地域猫がいるので、定住するには問題が多いかもしれない。

 そんな地域だから、庭に来る野鳥の種類も多い。ごくまれにだが、トンビやキジが庭に入ってくることもあるぐらいだ。これまではただ漠然と眺めているだけだったが、せっかくだから今年は少し「観察」してみようかな、なんてことを最近考え始めている。まあ僕のことだから、長続きはしないかもしれんけどね。

これ、コゲラだよな。
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 本屋に行きたい

 しばらく本屋に行っていない。それには三つの理由がある。一つは最近興味のある著者がいないこと、もう一つは雑誌やコミックスはアマゾンで買うことが多いことだ。じゃあなんで本屋に行きたいのか。答えは単純だ。僕は本屋のもつ独特な雰囲気が好きなのだ。

 本屋って、何となく知的な感じがしません?「知」を(いい意味で)切り売りしているというか、ハイレベルな書物の背表紙や帯の紹介文を読んでいるだけで、なんだか数ミリぐらい賢くなった気がしてくるというか(そんなわけあるかい)。今ではほとんど感じられなくなりつつあるが、紙そのものや印刷インクの匂いも好きだった。古本屋ならなおさらで、ちょっとカビ臭い匂いがそれに加わったりする。そうした匂いを感じることで、さらに数ミリ賢くなれるかもしれない(無い無い)。

 もう一つ、本屋に行くと、新たに面白そうな書物を「発見」するという楽しみがある。通販ではほしい本を検索するだけで、その他の書物はほとんど目に入る機会がない。アマゾンなどでは「あなたにお勧めの本」みたいな提示もあるのだが、たかが知れているし、「キミね、僕のことわかってないんじゃないの?」なんて感じることも多い。その点本屋はジャンル別にかなりの量の書物を己の欲求のままに、しかも手に取って見ることができる。これが楽しい。だが実は、僕にとってはこれが大きな問題でもある。

 冒頭で「しばらく本屋に行っていない」と書いたが、実を言うと、本屋に行くことを家族ぐるみで少し控えている。なぜなら皆がみな、目につく本をやたら買い込む癖があるからだ。例えば僕など、当初は月間のプラモ雑誌を買うつもりで出向いたのに、「あ、このS&G関係の音楽評論面白そう」だの、「パイ皮料理の本だ!そういえば持ってなかったな」だの、「おお、このMOOK本、いつの間にやら続刊が出てるやんけ」などと言いつつ、結局大きな紙袋を下げて店を後にすることになる。この衝動買い癖こそが、まさに三つめの理由なのだ。

 娘は僕より少し賢くて、ほしい本を見つけるとすぐさまスマホを取り出して、アマゾンとどちらが安く買えるかを調べたりする。恐ろしい時代になったもんだ。でもやはりまだ初心者というか、マニアックで図版の多い書物などを見つけるたびに、その値段に目を剥いたりしている。その手の専門書は販売数が少ないから単価が高いことぐらいそろそろ気づけ、と言いたい。カミさんはもっと賢くて、小一時間滞在しても何も買わずに店を出る、という荒業ができる。僕には到底真似できない。まさに「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」といった体(てい)だ(※)。

 うちの家族はよく近場のホームセンターやそれに隣接するモールで日用品やペット用品などを購入するのだが、その駐車場の向かいに大規模書店「蔦屋」があって、帰り道に必ず目に入る。これが見えないふりをするのが苦しい。何年も通い続けているお気に入りの店で、ここができた当時、取り扱うジャンルの豊富さに狂喜したものだ。そこには「こんな本、いったい誰が買うんだよ…そうか、オレが買うのか」といった書物がたくさんあった。なかには「こんな本、いったい誰が買うんだよ…オレでも買わねえぞ」なんて書物もあった。だがここ数年で売り場面積に占める書店の割合が次第に縮小し、新たに衣料品店とゲームソフトのショップ、そしてあろうことかビューティーサロンまでお目見えし、その犠牲になったのが僕(と娘)が好むようなマニアックなジャンルのコーナーだった。まあいつものことだから、もう腹も立たんけど。

 そんなわけで最近、「そろそろ1度ぐらい、蔦屋に行ってもいいんじゃないか?でないと本屋のスペースが無くなっちまいそうだ」なんてことを家族間でよく話す。そういえば、最後に行ったのはいつのことだったろう。ああ、本屋に行きたい。

※ 「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」 1981年 椎名誠 著  内容は短編及びエッセイ。表題作は活字中毒の友人をその治療のために味噌蔵に閉じ込める話。