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 ロックンロール!

 別に「自動小銃に弾丸を装填しろ!」と言っているわけではない。「ロックンロール・スペシャル」。これはある2枚組のアルバム(もちろんLPレコードの)のタイトルだ。誰がいつ、こんなアルバムを企画したか知らないが、よく見るとジャケットの片隅に1977とあった。多分僕が学生の頃に面白半分で購入したものだ。構成はいわゆるオムニバスで、古いロックンロールの名曲がオリジナル音源で24曲収められている。代表的なものを挙げると、P・アンカの「ダイアナ」とかG・マハリスの「ルート66」、S・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」、「それにB・ヴィトンの「ミスター・ロンリー」などで、全体的にみると50年代の曲が多い。

 装丁はやりたい放題で、ジャケットにはオープンカーでドライブ・インに乗りつけ、瓶入りのコカコーラを飲むリーゼントのお兄ちゃんやらポニーテールのお姉ちゃんやらが、なんちゃってアメリカンスタイルのイラストで描かれている。描いたのはたぶん日本人だろう。バッタもん臭がプンプンする。なんてふざけたアルバムなんだ、と常々思っていたが、なぜか歳を取るにつれて、定期的に引っ張り出してはある期間愛聴するようになった。今年もまたその時期がやってきたらしく、最近ちょくちょく聞いている。これがなんだかとても心地よい。

 僕はこれらの曲が流行った時代を知らないし、本来ならロックンロールを聞くような世代でもない。学生だった頃に浜田省吾を知り、「ハンバーガースタンドで待ち合わせて、彼女の親父の車を夜更けに盗み出し、誰もいない海まで真夜中に走る」という内容の歌詞を聞いて、「いや、ここはアメリカじゃないから」なんて思ったことはある。そう、ここは日本だ。50年代のアメリカとは違う。当時のアメリカはもっと豊かで、単純で、能天気だった。それでやっていけた時代だ。ドン・マクリーンが「音楽は死んだ」と歌う以前、サイモンとガーファンクルが、アメリカを探す旅に出るうつろな若者の姿を歌う以前の時代(※)。

 もちろん70年代の音楽もいいのだけれど、50年代のそれは、たとえるなら「サンタクロースの実在を信じていたころの音楽」とでも言えば、そのニュアンスが伝わるだろうか。だから僕みたいに、今でもサンタクロースの実在を願っているような精神構造の人間にはしっくりくるのだろう。だが60年代半ばになると、そんなアメリカにも陰りが見え始める。が、それはまた別のお話。

 ところで僕がこのアルバムを引っ張り出すのは、もしかしたら複雑かつ雑多になり過ぎた現代の生活に疲れたりうんざりしたり、そんなタイミングかもしれない。先に述べたとおり、僕は現実にはこの時代を知らない。だが洋画や洋楽が好きだった両親の影響で、当時の音楽や映画は山のように見聞きしてきた。それらはある意味、美化された虚構の世界でしかないけれど、現実を知らないからこそ、子供だった僕はより強いあこがれを持ったのだろう。つまり僕が帰って行くのは僕の脳内にだけ存在する「50年代」であって、能天気なロックンロールはその一部だ。そこでは今もツートンカラーのコンパーチブルが走っていて、昼はダイナーでハンバーガー&チップス。ドライブ・インには夜遅くまで煌々と明かりがともり、若者たちはコークを片手に少し尖った青春を謳歌する。もちろんそんな経験をしたことは一度もないが、それでも頭上に広がる空の青さまで、ありありと思い浮かべることができる。そしてその空の色は、この歳になっても少しも色あせていない。

 「ロックンロールスペシャル」ジャケット。右側が表。ドライブ・インの店名は「スターライト」だって。看板には「コーク」と「アイスクリーム」の文字が・・・。
 解説のレイアウトも1曲1曲凝っていて楽しい。イラストもたくさん。昔の新聞みたいだ。ページが捩れてるな。なんかこぼしたか?
 歌詞もちゃんと掲載されている。さすがに和訳は無いが、このころの曲は内容が単純なので、何となく理解できてしまう。それに文字が大きくて読みやすい!

※ ドン・マクリーン「アメリカン・パイ(1971年)」 サイモンとガーファンクル「アメリカ(1968年)」

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 秋のSF祭り 「スターウォーズ」と「未知との遭遇」

 1978年は日本のSF映画ファンにとって特別な年だった。それというのも、この年に「スターウォーズ」と「未知との遭遇」が公開されたからだ。どちらも宇宙を題材にしたエポックメイキングな作品だったが、内容的にはまるで違っていて、どちらが好きかでSFファンとしてのタイプが明らかになると言われたほどだった。たとえば「未知との遭遇」は、現実に明日起こるかもしれない地球上でのUFO事件を題材にしているのに対し、「スターウォーズ」は冒頭で説明されるとおり、「遠い昔、遥か彼方の銀河系で」起こったことが描かれていて、そこに地球人は全くかかわらない。これは言い換えれば「未知との遭遇」が文字通りSF(空想科学物語)であるのに対し、「スターウォーズ」はいわゆるスペースオペラ、すなわち宇宙活劇の類であるということだ。

 どちらも当時としては最高の特撮技術が使われているが、時代が時代なのでCGは一切使われていない。参考までに言うと、「未知との遭遇」の特殊効果を担当したのはダグラス・トランブル。「2001年宇宙の旅」を成功に導いた人物だ。彼は1972年に「サイレント・ランニング(※)」というSFの佳作を監督していて、この時一緒に仕事をしたジョン・ダイクストラが「スターウォーズ」の特殊効果を担当することになった。

 前記したとおり、「未知との遭遇」は日常生活の延長上にある脅威を描いていて、過去に報告されたUFO事件のエピソードがふんだんに取り入れられている。特筆すべきは当時UFO研究の第一人者だったアレン・ハイネック博士がカメオ出演していることで、物語の終盤、着陸した母船をよく見ようと前に出てあごひげをひと撫でし、パイプをくわえる老科学者がまさにその人だ。同じく終盤の、音階と光の明滅で宇宙人とコミュニケーションをとるというアイディアは多少ファンタジー寄りではあるが、スピルバーグらしい演出で効果を上げていた。その単純な音階がエンドロールで壮大なメインテーマにつながっていくあたりは、さすがは大御所ジョン・ウィリアムズ。

 「スターウォーズ」は描写や音楽(こちらもジョン・ウィリアムズ!)が派手で見ていて楽しいが、僕にとっては「SFの概念と特殊効果で味付けされた冒険活劇」でしかない。剣や銃で戦い、飯を食い、車に乗るように宇宙船を乗り回す。ここでは脅威となるはずの物事が単なる日常だ。エピソード(話数)が多いので飽きも来る。もうお分かりですね。そうです、僕は「未知との遭遇」派です。「スターウォーズ」はお約束のアラ探しをしようにもアラだらけでその気にもなれない。良くも悪くも荒唐無稽すぎる。

 こうして考えてみると、SFファンによるアラ探しという行為はリアリズムを追求するタイプのSF映画に対する一種の愛情表現なのかもしれない。製作者:「どうです、完璧でしょ?」ファン:「いえいえ、今回も必ず何かしら見つけちゃいますよ?」といった具合だ。だから単純なスペース・オペラでは満足できないんだな、多分。ただ、かの宇宙大元帥(故 野田昌弘氏、SF作家)がいみじくも言っていたように、「SFは絵だ!」というのも事実で、そういった意味では「スターウォーズ」のSF映画界への貢献は大きく、大いに評価できると思う。特に冒頭のスター・デストロイヤーの描写は秀逸で、後々どれだけパクらたかわからない。

 最後に一言、最近のSF映画を見ていて「つまらん」と思うのは僕だけだろうか。内容がやたらと小難しいうえに、ストーリーも見ていると鬱になりそうなものが多く、やりつくしてしまった感がある。だったらいっそのこと、「宇宙戦争」を原作どおりヴィクトリア朝のイギリスを舞台に、再々映画化するぐらいのことをしてくれれば面白いのだが。

※ ちょっと毛色の違った宇宙SFの傑作だと思う。主題歌を歌っているのがジョーン・バエズだと言ったら、興味がわくかも。お勧めします。僕はラストで泣きました。

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 秋のSF祭り 「2001年宇宙の旅」

 前回「宇宙征服」という1950年代のSF映画について書いたが、そういえばプラモデル専門誌「モデルグラフィックス」の10月号が「2001年宇宙の旅」の特集を組んでいたっけな。なぜ今「2001年宇宙の旅」なのかというと、なかなか見つからなかった資料がいろいろと出てきて、正確なディテールのモデルが出そろってきたのが最近の話であること、「宇宙ステーション5」がアメリカのメビウスモデル社から発売されたことなどがその理由らしい。ちなみにメビウスモデル社はSFのプロップを積極的にモデル化しているメーカーで、これらのキットはアマゾンで容易に手に入る。だがしかし、「2001年…」のディスカバリー号や往年のTVドラマの「原潜シービュー号」などは1メートルもあるビッグサイズ(※)。いったいどこに置けというんだ。

 さて、モデルグラフィックスにはモデルの解説だけでなく、最近わかってきた映画制作上の裏話なども掲載されていて、読んでいるうちにまた「2001年…」が見たくなってきた。先の「宇宙征服」と見比べるのは酷かもしれないが、それも一興と思い、久しぶりにBDを引っ張り出した。

 この映画を見るたびにどうしてもやってしまうのが時代考証。そんなの無粋でしょ、と言われるのは分かっているんだけど、例えば「2001年…」の世界ではだれも携帯電話を持っていないことなどは到底見逃すわけにはいかない。おかげでフロイト博士は宇宙ステーションから公衆電話(TV電話)を使って自宅に電話をする羽目に。監督のキューブリックはTV電話を見せたかったんだろうけど、画面が大きいから個人情報だだ洩れだ。今となっては違和感しかない。携帯端末としてのパッドのようなもの(ただしTV放送のみ対応?全編を通して、ネット環境が整っているようには見えない)は出てくるのに、惜しいなあ。

 ところで今回見直してみて、また新たな問題を見つけてしまった。科学者チームが月面で発見された第2のモノリスを視察するシーンで、月面移動用のムーンバスに物資が入っていると思われる木箱(!?)がたくさん積んであったりする。いくら何でもこの時代に木箱は無いだろう。下手をすると、角で宇宙服が切り裂かれそうだ。さらにその直後、随伴するカメラマンがフィルムを巻き上げているとしか思えない派手なアクションしている。デジタルカメラの出現を予測できなかったのか…いや、ちょっと待て。デジタルカメラの普及って、いつ頃だったかな。でもフィルムカメラだってAF(オートフォーカス)や自動巻き上げ機能はもうあったよね。実際、月面基地での会議の場面ではそれっぽいカメラを使ってる広報担当者がいて、巻き上げやピント調整なしで写真を撮りまくっている。

 ちなみにフィルムカメラの自動化(AF、自動巻き上げ等)は、ミノルタの名機α7000を例にとると1985年あたり。デジタルカメラは2000年ぐらいから普及し始め、それなりの性能の一眼レフが出そろうのは2003~2005年ぐらいからだ。月面でのモノリスの発見は1999年らしいから、あのシーンで使われるとしたら、AFで、なおかつ自動化されたフィルムカメラである可能性が高い。ということは、やはり劇中でのフィルム巻き上げはあり得ない(ただし、ハッセルブラッドを使っているとしたらその限りではない)。

 もう一つ、これは時代考証というより科学的考証の重大なミスで、実は前から気づいていたんだけど、映画の後半で、ハル9000コンピューターによって宇宙空間に放り出されたプールの遺体を回収したボーマンが、ハルにディスカバリー号への帰還を拒まれて、やむなく非常用エアロックを使うシーンがあるじゃないですか。あの時ボーマンはポッドに装備されている左のマニピュレーターでロックを解除し、その後右のマニピュレーターでハンドルをぐるぐる回してドアを開けるんだけど、その時点でディスカバリーとポッドをつないでいるのは右のマニピュレーターだけ。つまりポッド本体を固定せずにその手首の部分を回転させるわけだから、反作用でポッドには多少なりとも回転運動が生じるはずだ。でもポッドは微動だにしない。それどころか、その直後に爆破用ボルトを使うことで爆発の反動と相当量の空気の噴出があったにもかかわらず、ポッドは相対位置を維持してたよね。これは宇宙空間では絶対にあり得ない。誰も話題にしないところなので一応書いておく(ホント、嫌な性格ですね)。

 今は2024年。2001年はすでに過去だが、映画で描かれたような宇宙ステーションも月面基地も有人木星探査も、いまだに実現していない。一説によると、当時のような宇宙に対するあこがれを、人類はとうに失ってしまったらしい。その間にたくさんの戦争や紛争があり、ネットには…「すごい!他人を中傷する記事がいっぱいだ!」スタンリーとアーサーが夢見た人類の輝かしい進化は、まだまだ先の話のようだ。

※ ステーション5とほぼ同時期に、ディスカバリー号の1/350モデル(こちらは40㎝ほど)が発売されたそうだ。シービュー号は以前からオーロラ版(約30㎝)等が販売されている。

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 秋のSF祭り 「宇宙征服」

 「宇宙征服」というSF映画のDVDを買った。聞いたこと無いって?そりゃそうだ。何しろ1955年の映画だからね。僕だって子供の頃にTVで見たのが最初だもんな。で、次に見たのが1994年ごろ発題されたLD。でもLDプレーヤーがまともに動かなくなってからは、長い間ソフトが全く見つからなかった。それが今年、何気なく検索したら、アマゾンでDVDを発見。2022年に発売されていたらしい。うーん、やはりBDにはならないか。今となってはマイナーな映画だからなあ。

 さてこの映画、近未来に人類が火星探査をする、というだけの筋書きなのだが、当時としてはかなり現実的なデザインの宇宙船が登場することは、以前宇宙船のデザインについて書いたときに触れた。これは原作が小説ではなく、当時の科学解説者ウィリー・レイが書いた「宇宙の征服」という科学啓蒙書だったからだろう。目的地も宇宙征服と言いながら、実はお隣の火星だったりする。だから宇宙船には火星の薄い大気中で滑空するための巨大な翼がついている。さらに往路の加速のために使ったバカでかい燃料タンクは、本体の総質量を減らすために途中で切り離し(加速・減速時の燃料効率が上がる)、火星大気に突っ込ませて焼却するなど、描写もかなりリアルで、今までのちゃちな1段式ロケットとは一線を画していた。そんなわけで宇宙船の秀逸なデザインばかりが印象に残っていたのだが、今回あらためてDVDを鑑賞してみると、そのストーリーは何とも言いようのない矛盾だらけの代物だった。

 まず第一に、探検隊のメンバー。こんな連中じゃ間違いなく計画は失敗する。何しろ隊長(将軍ですね)が途中で精神を病み、「神が与えたもうた地球を飛び出して、他の惑星の資源まで手に入れようとするのは神への冒涜だ」なんて言い出す。勿論いろいろやらかしてドラマを盛り上げてくれますぜ。その隊長に長年連れ添った鬼軍曹も、メンバーじゃないのに密航してついてくるし、将軍の息子は大尉の身分でありながら「新婚なのに…早く地球に戻りたい」なんて愚痴ばかり言っている。メンバーの中で一番まともに見える日本人隊員のイモトは「日本人は紙と木でできた家に住み、木の箸を使う。それは日本に資源が乏しいからだ。金属のスプーンやフォークを使いたくても使えなかったんだ。だからよりよい生活のために資源を求めることは間違っていない」と、火星探検の意義を説く。えっ、そうだったの?知らなかった…同じ日本人として泣けてくる。

 そして何よりも(今回あらためて鑑賞するまですっかり忘れていたが)、この計画はもともと月旅行だったものが、急遽火星旅行に変更されるんだよ?そんなの絶対にムリ…と思いきや、そもそも宇宙船のデザインが先に述べたとおり、どう見たって月旅行用じゃない。つまり火星旅行が可能な宇宙船を作り、その試験飛行として月へ行く、そういうことだったらしい。それをぶっつけ本番で火星旅行に変更。あり得ねー。

 というわけでこの映画、宇宙船のデザインはよかったものの、肝心の脚本がポンコツで、映画としては失敗作となってしまった。陳腐なドラマを省いて、もっとドキュメンタリータッチに寄せたほうが受けが良かったような気がする。でも特撮や科学的考証に関しては、当時としては画期的な映画だったことは確かだ。

 ところでこの映画の功労者と言えば、何といっても宇宙画家チェスリー・ボーンステルだろう。往年のSFマニアなら彼の名を知らない人はいない…いや、いるかもしれないけど、とにかくその筋では有名な人。彼は映画の原作本である「宇宙の征服」にも数多くのイラストを提供していて、それらを参考に映画が製作されたことはまず間違いない。「火星探査」という別の書籍には映画に登場したものとほぼ同じデザインの有翼火星探査船も描かれている。彼の作品はSF映画のみならず、アメリカの宇宙開発計画そのものにも多くの影響を与えていて、個人的にもリアルな、それでいてロマンあふれる宇宙画を数多く制作している。1976年には長年のSF界への貢献が認められ、ヒューゴー賞(※)特別賞を受賞した。1986年没。

※ 前年度のSF・ファンタジー小説から選考によって選ばれた作品や関連する人物に贈られる賞。2015年には初めてアジアの作家(中国人)による作品「三体」が選ばれ、話題になった。 

 ボーンステル「タイタンから見た土星」。1944初出。初期の傑作と言われている。
 ボーンステル「火星探査」のためのイラスト。有翼の火星探検船が軌道上で建造されている。1956年初出。 いずれも河出書房新書「宇宙画の150年史」より。
 「宇宙画の150年史」河出書房新書刊、ロン・ミラー著。タイトルのとおり、古くは19世紀末の挿絵から現代のデジタルアートまでを網羅している。印刷なども高品質。SF好きにはたまらない1冊だろう。

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 月のあれこれ

 去る9月17日は「中秋の名月」だった。一時は天気が危ぶまれたけれど、僕の住んでいる地域はうまい具合に夕刻から晴れてくれた。多少雲は残っていたものの、流れる雲が月に照らされ、これはこれで風情があってよろしい。ただ温暖化の影響か、庭に勝手に生えたススキがここ数年お月見に間に合っていない。近隣を歩いてみてもススキ自体が見当たらず、仕方なくお金を払ってススキを購入する羽目に。なんだかなあ。

 当日は東側の出窓にかぼちゃと団子、そこにススキを活けて添え、夕飯には里芋の入ったのっぺい汁を作った。本当は里芋も生のまま供えたかったんだけど、全部汁に使ってしまい、残らなかった。団子は里芋の代わりという説もあるから、まあ良しとするか。

 東の空に昇った満月を眺めていて、ふと思った。あそこにはもう、ウサギはいないんだなあ。月にはすでに何人もの人間が行っているし、表面には地震計やレーザー測距機なんかも設置してあるらしい。月が地球の衛星軌道を回る不毛の天体であることは、もはや万人の知るところだ。にもかかわらず、日本人はなぜか、この時期になると月を眺めては思いを馳せる。いったいどんな感情がそうさせるのだろう。だがそんな情緒のある月も、聞くところによると欧米ではあまり良いイメージを持たれていないらしい。

 ルナティック。英語で狂気を意味する言葉だ。「ルナ」とはラテン語で月のことだ。ご存じのように狼男は満月の夜に変身する。凶悪な犯罪や交通事故は満月の夜に増加するという説もある。調べてみると、どうやらこの説は都市伝説の域を出ないようだが、今もまことしやかにあちこちで囁かれている。何とも不吉なイメージだ。もっともクラシック音楽には「月の光」や「月光」といった名曲もあるから、一概に「不吉」とは言えないか。

 戦前の外交官でニューヨーク在住だった細野軍治は、ある月の美しい夜更けに友人たちと月を眺めに出かけた。しばらくすると警察官に呼び止められ、「良からぬ相談をしていただろう」と問い詰められた。「月が美しいので眺めていただけだ」と説明してもわかってもらえず、警察署まで連行されたそうだ。月を見る習慣のないアメリカの警察官に、一晩かけて日本の月見の風習について説明したという、これは僕の愛読書、「一度は使ってみたい季節の言葉」で紹介されていた話。どうやら月を愛でる習慣は東南アジアに限ってのことのようだ。

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 アラン・ドロン追悼

 8月18日にフランスの名優アラン・ドロンが亡くなった。享年88歳。好きな俳優だったのでとても残念だ。

 僕は映画好きの両親の影響で、TVの「洋画劇場」を見て育った。だから小学校の頃、僕のヒーローはスティーブ・マックィーンで、ヒロインはオードリー・ヘップバーン。勿論仮面ライダーに血道をあげる友人たちとは全く話が合わず、この件に関してはちょっとした変人扱いだった。

 思春期になると少し好みが変わり、豪快なカッコよさよりも陰りのあるキャラクターに目が行くようになった。そんな時にたまたま観たのがアラン・ドロン主演のフランス映画、「サムライ(1967)」だった。僕は寡黙でクールな一匹狼の殺し屋を演じるアラン・ドロンにすっかりやられてしまった(何も言うな、そういう年頃だったんだ)。僕が右利きなのに腕時計を右手首に着けているのも、主人公のジェフが右手首に腕時計を着けていたからだ。それが何十年もの間に習慣化して今に至っている。バカみたい。でもそれぐらいカッコよかったんだよ。実際この頃には世界中で人気を博し、「世紀の二枚目」なんて言われていたもんな。

 1970年になるとレナウン・ダーバンがCMキャラにアラン・ドロンを起用。そしてその4年後には映画「ボルサリーノ2」が封切られた。僕が彼を劇場で見たのはこれが最初だった。このころ僕の勉強部屋には、伯備線のD51三重連のポスターとともにアラン・ドロンのでっかいポスターが貼られていて、これは確か1971年の「レッド・サン」のものだったと思う。この映画はアラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン、三船敏郎が三つ巴の争いを繰り広げる異色西部劇で、三船敏郎は西部を横断する江戸幕府の使節団の警護責任者(だったかな。勿論ストーリーは架空の話)を演じ、いい味を出していた。ちなみにアラン・ドロンは一番の悪役だった。性格の悪い二枚目。嫌だねえ。

 そもそもアラン・ドロンは、コメディからサスペンス、シリアスドラマまで何でもこなせる実力派の俳優で、それゆえアイドル的な二枚目スターとして扱われることに強い抵抗を感じていたようだ。実際、作中の彼は映画によってイメージが大きく異なる。だから僕も「『サムライ』の時のアラン・ドロンに憧れるんだよね」などと、作品名を付け加えて話す習慣が身についてしまった。これが「『アラン・ドロンのゾロ(1975)』のアラン・ドロン」だったら僕だって憧れたりはしない。だってほぼコメディだもんね。この映画でのアラン・ドロンは、のちにメキシコとなるスペイン領のおバカな総督で(ホント、バカなんだこれが)、その実体は正義の剣士、怪傑ゾロ。正反対のキャラを見事に(というか楽し気に)演じ分けていた。

 そんなわけで、アラン・ドロンは僕にとって一時憧れの人であった。だが本当のことを言うと、どんな映画よりもダーバンのCMが一番好きだった気がする。勿論CMとしての演出や演技はしていただろうけど、もっとも素に近いアラン・ドロンを見ることができる唯一の情報ソースだったからね。

 これらのCMは、マニアがコレクションしてYoutubeに動画を上げているので、今でもシリーズ全編を見ることができる。時々閲覧して、古き良き時代を懐かしんだりしているが、時代が時代だから、多分今の人にはわかってもらえないだろうなあ。

 というわけでムッシュ・ドロン、いろいろとありがとう。そしてお疲れさま。どうか、安らかに眠ってください。

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 秋といえば…検証?

 夏になると毎年、あちこちから拾い集めた不可思議な話を書いているが、今年の夏はあまり面白い話題がなかった。そうこうしているうちに、今はもう9月。だがここに来て、Youtubeでちょっと面白い動画を見つけた。

 ここ数年「暗夜」というホラーイベント団体が、曰く付きの事故物件を購入あるいは借入し、ホラー体験希望者を宿泊させて収入を得るという商売(?)をしているらしい。それらの物件は心霊系TV番組でも取り上げられ、その筋では結構有名だ。「曰く」に関しては、女子高校生が自殺したとか、監禁殺人があったとか、女性の霊が窓からのぞくとか、とにかくおどろおどろしいものばかり。でも今どきの話だから、ネット上には当然「あれはヤラセだ」なんていう否定的なコメントも上がってくるわけで。

 そこで今回見つけたYoutubeチャンネルの話なんだけど、これは「インチキバスターズ」というグループが配信しているチャンネルで、実際に心霊スポット等に行って、うわさや曰くの真偽を検証する動画などをUPしている。彼らは初回から暗夜の所有する物件に目をつけ、監禁や殺人があったという一軒家を検証すべく現地調査を敢行。近隣住人に聞き込み調査を行った。すると興味深いことに、「俺はここで育ったけど、(殺人なんて)そんな話聞いたことがない」という答えが返ってきた。中には「(前に住んでた人は知り合いだけど)事件なんか何もなかったぞ」「(TVで言ってた)血の塊だとか、そんなの嘘っぱちだよ」などと言う人たちもいる。あらあら。

 勿論地域住民の方々にはモザイクがかけられているので、こちらもヤラセの可能性が無いわけではないが、もっとも有名な物件の一つである「I県のS邸」について語っていた地域住人たちは、その訛りから察するに本物だろう。というのも、S邸は僕の自宅から車で2時間ほどの山の中にあり、そのあたりの老人だったらこうしゃべるであろうというような、僕もよく知っているI県北部独特の訛りだったからね。あれを真似できる人なんて、そうはいないだろう。

 聞くところによると、この動画の配信後、暗夜側は当然のように抗議。いろいろと理由をつけて、「動画を削除しろ、と迫ったそうだ。なんでも「訴える」とまで言ったとか。一方インチキバスターズ側は、「法廷でお会いできるなんて夢のようだ!」と喜んで見せる。こちらもなかなかに癖の強いキャラのようで、両者の争いが今後、どのように発展していくかが楽しみだ。何せ、ネット民のなかには「実際に一泊した。怪現象が起きたから、間違いなく本物だ!」なんて言う暗夜派の人も相当数いるし、そうかと思えば、別の曰くつき物件(こちらはT県)の隣に住んでいる人(インチキバスターズ派?)からは「うちの防犯カメラに、客が入ったあと建物の壁に物を投げて音を立てる(つまり怪奇現象を演出する)スタッフの姿が写っていた」なんていう話まで出てくる。この人はその物件の大家さんと知り合いで、「(ネットで紹介された)血痕なんかなかったはずだ、と言ってましたよ」とも話していた。もしそれが本当なら、その血痕とやらも後付けの「仕込み」である可能性がある。ちなみにこの隣人が言うには「暗夜の主催者が敷地内に無断で車を止めていたので警察を呼んだ」こともあるそうで、この問題は単に暗夜とインチキバスターズだけの問題ではなくなりつつあるようだ。

 勿論Youtubeの動画を見ただけなので何とも言えないが、仮にインチキバスターズの言い分が正しければ、この事案は詐欺罪が成立するかもしれんなあ。だって料金を取ってるわけだし。この件が裁判になったら、暗夜側は「心霊現象が現実に起きている」なんてことを法廷で主張するんだろうか。もしそうなれば前代未聞だ。いろいろと興味津々だな。えっ、ところでお前はどっち派かって?僕は「楽しめればどっちでもいい」派。一番たちが悪い?まあ、そうですね。よく言われます。

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 夏の終わり

 僕のように、生徒としての学校生活が終わった後も、教師として学校という場所で生活し続けた経験のある者にとっては、8月の末は大人になっても特別な意味を持っている。つまるところ、8月の終わりは夏休みの終わりでもあるわけで、子供だった頃に誰もが抱いた「ああ、学校が始まってしまう」というあの切なさが、「ああ、定時で帰れて、しかも有休を取りやすかった期間が終わってしまう」という形でよみがえってくるのだ。

 そんな僕にとっては、温暖化によって9月になってもまだ夏、というような昨今の状況があっても、やっぱり夏休み(の期間)の終わりはイコール夏の終わり。でも考えてみると、夏休みの話は別としても、この時期にセンチメンタルな気持ちになるのは誰でも同じらしくて、その証拠に巷に流れるJポップを聞いていても、夏の終わりの感傷的な感情を歌った楽曲って結構多い。

 そんな夏の終わりに、今年は台風10号が日本列島付近を1週間近くもうろうろしたりなんかして、この大事な期間を台無しにしてしまった。まったくもって忌々しい。いつもなら次第に少なくなっていくツクツクボウシの声を聴きながら、入れ替わるようにして鳴き始める秋の虫たちの声に耳を傾け、季節の移ろいを感じたりするところだが(と言っても最近は7月からミンミンゼミもツクツクボウシも秋の虫も同時に鳴いていたりするんだが)、これでは行く夏を惜しんで感傷に浸ることもできないではないか!と、台風の進路予想図をにらみながらそんなことを考えていた時、ふとあることに気づいた。

 「夏の終わり」。この言葉は普段の生活の中でも、「もう夏が終わっちゃうね」であるとか、「今年の夏は何もせずに終わってしまったな」などというように、あまり意識せずに使っているけれど、よく考えてみると季節の中で「終わる」のは夏だけかもしれない。例えば「春が終わる」「秋が終わる」といった表現はあまり使わないような気がする。

 春や秋は大抵の場合、終わるというより、次の季節がやってきて徐々に取って代わられるイメージだ。冬については「長く厳しい冬が終わり…」などと言う場合もあるけど、「夏の終わり」ほど一般的ではなくて、むしろ冬の厳しい地域限定という気がする。つまり四季のなかで夏だけが、日ごろから季節の終わりを妙に意識されているということだ。なぜ夏は、こうも特別なんだろうか。

 これは誰でも思うことだろうが、その理由はまず第一に、夏に感じる強い生命力。ことに植物が猛暑、酷暑と表現されるような強い日差しの中で生い茂るさまは、人間の領域さえ凌駕しかねない力強さを感じさせる。さらにそれをたたえるかのように響き渡る蝉の声、そして輝きながら湧き上がる入道雲。自然のそんな様子を見ていれば、人間の意識も少なからず高揚するだろう。こうした高揚感は、他の季節にはないものだ。そして盛夏を過ぎると、それは目に見えて衰えていく。

 もう一つ、これは僕の個人的な考えだが、夏休みの記憶というものが、人にとっての夏を特別なものにしているのではなかろうか。おそらく日本人で夏休みを経験したことのない人はいないだろう。しかもその始まりと終わりは暦の上で明確に線引きされた、言うなれば日常と非日常の境目みたいなもので、実際夏休み中には、お盆がらみの家族旅行などのほかに、夏祭りや花火大会といった催しも目白押しだ。盆や祭りといえば先祖の霊や神様とかかわる機会でもある。まさに非日常。

 考えてみると、子供にとっては夏休み自体が非日常的なイベントみたいなものだ。そしてイベントには必ず終わりがあり、子供たちは日常に戻っていく。この特別なイベントの終わりを惜しんだ少年時代の記憶が、夏の終わりを特別なものにしているとは考えられないだろうか。

 今年も夏が終わる。今は心寂しい限りだが、夏は来年もやってくる。夏っていいよな。最近ではあまりの猛暑に外出するのも億劫だし、エアコンの電気代も馬鹿にならないけど、それでもやっぱり夏はいい。僕はあと何回、体験できるだろうか。台風一過の青空を眺めながら、ふとそんなことを考えてしまった。

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 夏と言えば… 実録?田中河内介

 今回はその筋では有名な田中河内介(たなかかわちのすけ)にまつわる話。

 田中河内介とは幕末の勤王家の一人で、薩摩藩の内紛でもある池田谷事件の折に過激派の一味として拘束され、己の目的のために藩士を欺くなどの所業が暴露されたこともあって、鹿児島に移送される船上で斬殺された。事の詳細は薩摩藩の暗部として秘匿されたため、田中河内介の最後については時代を超えて多くの逸話が生まれた。次に紹介する怪談もその一つ。

 時代が大正に変わって間もないある夜、物好きな面々が集まり、怪談を語る会が開かれた。するとある男がふらりと現れ、「田中河内介の最後について語りましょう」と言う。聞けばこの話は他言を固く禁じられ、「今では詳細を知っているのは私だけになってしまったので、語り継いでおきたい」とのこと。

 河内介の最後は無残かつ理不尽なものだったというが、大正の世になっても聞こえてくるのは憶測めいた話ばかり。ぜひとも真相を聞いてみたいとかたずをのんで待ったが、「とうにご一新(明治維新)も過ぎましたので…」つまり、もう時効のようなものだから、語ってもいいでしょう、といった類の前置きが堂々巡りするばかりで、一向に本題に入らない。あきれた会員たちが一人、二人とタバコを吸いに帳場に降り、「一体あの男は何なんだ」などと話していると、2回の会場となっている部屋から突然「医者を呼べ!」と叫ぶ声が聞こえた。急いで部屋にあがってみると、例の男が突っ伏してこと切れていた。こうして河内介の最後を知るものは誰もいなくなってしまった。

 この怪談を知ったのはだいぶ昔のことで、池田弥三郎(※1)の著書「日本の怪談」に紹介されているのを読んだのが最初だった。よくできた怪談話だと思っていたのだが、最近購入したある書物(※2)によると、この話はまごうこと無き事実らしい。曰く、この怪談会があったのは大正3年の7月12日の夜で、場所は京橋にあった画廊「画博堂」。ここで開かれた幽霊画展に合わせて催されたものだった。参加していたのは文豪泉鏡花に谷崎潤一郎、画家黒田清輝、歌舞伎役者市川猿之助など、そうそうたる顔ぶれだ。亡くなった語り手は「萬(よろず)朝報」という新聞社の営業部員、石河光治という人で、実際には現場で意識を失い、2週間後(26日)に死亡したという。ネットで調べてみると、2007~2008年にはすでにこれらの事柄を検証した書籍やブログの記事が確認できるので、おおむね間違いなさそうだ(※3)。

 石河光治は薩摩の旧家の出身で、それゆえ河内介斬殺の内情について伝え聞いていたようだが、薩摩藩内の内紛や謀略が絡む話なので、明治政府樹立後も政治的なタブーになっていたらしい。倒れる直前はろれつが回らなかったというから、死因は脳梗塞あるいは脳溢血だったのではないか、とこの書物の著者は推測している。

 実は前出の池田弥三郎の父である池田金太郎が件(くだん)の怪談会に参加しており、昭和になって息子の弥三郎が「父から聞いた話」としてこの騒動を紹介した時には、すでに政治的タブーが祟りというニュアンスに置き換えられていて、「話せばよくないことが起こる」という、より怪談めいた話になっていたらしい。ちなみに池田弥三郎の著作では語りの前口上は「この文明開化の世の中に祟りなどは無いだろうから…」というもので、こうした変更はおそらく聞く側の心理的バイアスによるものだろう。明治期にささやかれた数多くの祟り話を考えれば無理もない話だ。ただ、石河光治が亡くなったタイミングはあまりにも出来過ぎで、こうした一見ありそうもない「偶然」という要素が加わると、怪談は一気に説得力を持ち、聞く者は「あるいはもしかして…」と思い始める。逆を言えば、もし仮に石河光治の死が1年後だったら、この怪談は成立しなかっただろう。

※1 池田弥三郎 国文学者・民俗学者。「日本の幽霊」は1959年の著書。

※2 「教養としての最恐怪談」 吉田悠軌 著

※3 実際には怪談会の様子はもとになる証言や記述が多様なため、細部は様々な描写が見られる(「画博堂の怪談会」等で検索)。ここでは主に「日本の幽霊」「教養としての最恐怪談」に倣って記述していることをおことわりしておく。 

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 夏と言えば…心霊は真夜中が好き?

 一昔前までは、夏といえば怪しい心霊ドキュメンタリー(と言うより、あれはバラエティーだな)が目白押しだったんだけれど、ヤラセや仕込みがバレたとかで、ここ数年は各局が自粛モード。脳内に今も中学生が住んでいる僕にとっては心寂しい限りだ。不思議なことに、今ではNHKがこの分野を牽引していたりするのだが、さすがはNHKというか、謎解きめいた内容でちっともロマンを感じない。唯一これは、と思った「業界怪談」という番組も、今年はすっかり鳴りを潜めているしなあ。

 そんなわけで、仕方なくYoutubeの心霊チャンネルを覗いたりするのだが、これがまた夜中に心霊スポットを訪れてリポートするだけで、どうも釈然としない。前にもどこかで書いたが、「音がした!」「声が聞こえた!」なんていう現象だけなら現場で何とでもなるし、たまたま撮れたという画像も説得力のあるものはほとんど無い。それに見ていていつも思うんだけど、なんで真夜中限定?確かにまともな人間は歩いていないだろうし、静かだからかすかな音声でも記録できるだろう。そんな業務上の利点以外に、「丑三つ時が一番出やすい」という話もあるけど、これって本当なのか?だって人を目指す幽霊ならいざ知らず、場所に出る幽霊はこんな時間に化けて出ても、見てくれる人なんかいないじゃんか。

 僕が好きな実話怪談でこういうのがある。ある日踏み切り待ちをしていると、線路の反対側にも女の子が一人、踏切が開くのを待っている。よく見るとなんだか向こう側が透けて見えるような…。えっ、これってもしかして…。やがて踏切が開き、恐る恐る歩き始める。そしてその女の子とまさにすれ違おうとした時、その子が自分を見上げて言う。「なんでわかったの?」思わず振り返ってみたが、女の子はもうどこにもいなかった…。これは真昼間の出来事だ。こういう話を聞くと、もしかすると普段何気なくすれ違っている見知らぬ人々の中にも、そういった存在が紛れ込んでいる可能性はあるよな、なんて思ってしまう。

 仮に心霊現象が実際にあるとして、僕がその立場になったら好き好んで廃ホテルや人里離れたダムなんかに、しかも真夜中に佇んだりはしないだろうなあ。だって怖いもん。心霊番組ではこういう場所は霊が集まりやすいとか言うけれど、本人たちに確認でもしたのだろうか?僕なら我が家や生前慣れ親しんだ場所をフラフラして、家族や知人を見守るに違いない。できれば気持ちよく晴れた空の下がいい。多分あなただってそうするだろう。もちろん地縛霊というものもあるが、それは現世で生きている我々が考え出した出現の形態であって、「そうなんです、僕、ここを離れられないんですよ」と霊が自己申告した、なんて話はあまり聞かないなあ。

 これもよく言われることだが、突然の事故で命を奪われた場合、自分が死んだことに気づかない霊がその現場に佇んでいるという説。これだって、もとは人間なんだから、1~2週間もすれば大概気づきそうなもんだ。だが海外に目を向けると、「幽霊は実態としての脳を持たないために、記憶力が極めて乏しい」などと豪語するホラー小説もあって、油断も隙もありゃしない(※)。

 Youtubeには悪戯に恐怖をあおるような動画も多いが、そもそも必要以上に恐ろしい姿で出現する意味が僕にはどうしてもわからない。死因が凄惨な事故であったとか、心を病んで瘦せ衰えていたとかいうのならまだわかるが、果たしてどれほどの人間がそんな状況に陥るだろうか。一方で、死んだはずの祖父が庭先から穏やかな優しい表情でこちらを見ていた、なんていう話もある。要するに死者の魂をこの世に繋ぎ止める要因は、恨みつらみばかりではないということだ。本来であればどちらの場合も、出現したのが誰の霊なのかわからなければ、出現する意味がない。ただし踏切の女の子のように、偶然第三者が目撃する例もないではない。その場合は後日譚として幽霊の出自が明らかになることが多い。前出の「業界怪談」という番組は、体験者への(真面目な)インタビューも交えながら、こうした死者と生者のかかわりを巧みに描いていた。NHK、早く新シーズンを制作してくれないかな。

※「わたしが幽霊だった時」ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著 現在は絶版のようだが古書はそれなりに出回っている。