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 25年目の車検

 下の娘がこの4月で25歳になった。ということは、生まれた年の3月に買ったプジョー406も26年目に入ったわけだ。思えばここ5年ほど、クーペ、ブレーク(ステーションワゴン)、スポーツ(マニュアル)、マイナーチェンジ版も含めて、他の406を見たことは1度も無い。これはもう、一種の希少車だ。

 うちの406(セダンV6 3.0ℓ)は、最近車検を終え、今も元気によく走る。だが勿論不調が無いわけじゃない。持病のパワステオイル漏れは今も続いているし、エンジンフードはつっかえ棒をしないと開いた状態をキープできない。トランクはオートロックが働かなくなったので貴重品は入れておけないし、最後まで押し上げないとフードが勝手に落ちてくるので2度ほど頭をぶつけたことがある(今はもう慣れた)。10年目に全塗装したボディも、また白いムラが浮き出している。そのほか内装パーツの変形や崩壊(プラの劣化)に加えて、最近助手席の窓が開かなくなった。だが走りに支障を来すような故障は今まで1度も無い。平成28年に(買っちゃった♡)というノリで手に入れた406クーペは修理せずに1年過ごせたことなんか無かったし、10年を待たずにミッションが不調になり、以来車検を切ったまま。それに比べれば、なんて良い子なんだろうと思う。スポーツカー並みに切れの良いハンドリングや、よく「猫足」と表現されるサスペンションの挙動は、多少衰えは感じるものの、今も健在だ。

 勿論苦労がないわけではなくて、純正パーツがほぼなくなった今では、中古部品を探したり、それでも無いパーツはでっち上げたり他の車種のものをうまいこと流用したりしている。こうした作業にはプジョーのエンジニア、Nさんの存在が不可欠だ。ぼくに言わせれば、彼は一種の天才で、諦める、ということを知らない。僕は僕で、いつの間にか中古部品やバッタもんまで扱うショップの常連になっていた。ところでNさんと僕には一つ共通の趣味がある。どちらもプラモデルが好き。だから、彼が手に入らないパーツをでっち上げたり流用したりする感覚が、僕にはよくわかる。モデラーの常套手段だからだ。

 今回の車検では、僕が「ここのパーツ、色が少し違うんでタミヤカラーのフラットアルミで塗ってあるんだけど、洗車機、大丈夫かな。」なんて相談したら、「ああ、俺も自分の車、一カ所タミヤカラーで塗ってありますよ。ハイマウントの色が明るすぎて気に入らなかったんで、クリアーのダークレッド吹きました。」この「吹きました」というのはエアブラシで塗った、という意味だ。「洗車機もオッケーだったんで、結構塗膜強いみたいです。タミヤカラー、全然使えますよ。」そーですか。わかりました。

 勿論今後に不安が無いわけではないが、次の車を考えようにも、欲しい車が浮かんでこない。プジョー自体もデザインコンセプトが大分変わってしまい、許せるのは208ぐらい。何しろいまだに505が操作性・デザインともに最も優れたプジョーであった、と考えている人間だからね。あの頃はピニン・ファリーナがデザインを請け負っていたので、エレガントで味のある車が多かったんだけどなあ。

 ネット上のレビューを見ると、406は名車である、という評価と、故障が多いのでお勧めしません、という評価がはっきり二分している。オーナーの価値観の違いや、個体の「当たり外れ」の問題だと思う。特に「当たり外れ」は外国車にはよくあることだ。そう考えると、うちの406は当たりの部類だろう。ということは、つまり名車。

 とりあえず、今の目標はあと5年維持すること。勿論その後も、どこまで一緒に行けるか挑戦するつもりでいる。ということでNさん、これからもよろしくね。

 2020年ごろ撮影。この頃はまだ塗装もきれいだった。

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 袋田に行ってきた

 先週、袋田に行ってきた。そう、日本三大名瀑の一つ、「袋田の滝」がある、あの袋田。自宅から車で1時間半ほどの距離なので、数年に一度は訪れる。というのも、滝の近くに「昔屋」という美味い蕎麦屋があるんです。ちなみに蕎麦はこのあたりの名産品。その店では同じく名産である蒟蒻の刺身や田楽も食べることができる。それともう一つ、「豊年満作」という、ちょっと変わったネーミングの温泉旅館があって、ここで売っている手作りのアップルパイと温泉饅頭も美味しい。

 今回袋田に足が向いたのは、実は夢に蒟蒻の味噌田楽が出てきたことがきっかけだった。よくある話で、一度頭に浮かぶとどうしても食べたい。僕のなかでは、蒟蒻といえば袋田だ。「行くか?」と家族に声をかけたところ、「よし、蕎麦を食べて饅頭を買おう」と返事が返ってきた。名瀑見物は事のついで、というわけだ。まあ、それも良いか。どうせ滝の様子はこの先何百年経っても大して変わらないだろう。

 少し早めに家を出て、新緑が芽吹き始めた山並みを眺めながら、車で走ること1時間半。10時前には滝の近くの町営駐車場に車を止めることができた。近くといっても、滝までは歩いて10分ほどかかる。

 歩き始めて気がついた。この道、音がしない。小鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてくるだけで、人工的な音が全く聞こえない。平日で時間が早いせいか、あたりに人影はなく、車もほとんど通らない。時折聞こえる小鳥のさえずりが静寂を強調しているようにも思える。この「静けさが聞こえる」感じ、滅多に経験できるものじゃない。自ずと歩調もゆっくりになっていく。

 忘れていた何かを思い出させるような、そんな静けさに包まれながら山間(やまあい)の道を歩いて行くと、遠くから川のせせらぎや土産屋が開店の準備をしている音が聞こえてきた。それはそれでなんとなく楽しい。よし、次に来る時もこの時間帯を狙おう。

 さっさと滝を見物し、遊歩道を少し歩いたあと、お目当ての蕎麦屋で少し早めの昼食を摂った。僕は山芋とろろ蕎麦(冷)、カミさんは元祖けんちん蕎麦(温)、娘は奥久慈シャモの地鶏蕎麦(冷)を頼んだ。相変わらずここの蕎麦は美味いなあ。茹で加減が絶妙だ。小諸の名店「草笛」にも負けていないと思う。だが残念なことに鮎の塩焼きは今日は欠品。えー、目の前の川を泳いでるじゃんか。でも鮎の解禁は6月だから、捕まえて食うわけにもいかないな。あ、勿論蒟蒻の味噌田楽は食べましたよ。何せ夢にまで見たからね。

 食事のあと、例の温泉旅館に寄ってアップルパイを買った。このアップルパイはなぜか駐車場の仮設スタンドで売られている。初めて買ったのは10年以上前。それ以前のことはわからないが、息が長く、周辺で同じ袋を持ち歩いている人をよく見かけるので人気商品なのだろう。その後饅頭を買おうと館内の土産物売り場に行ったのだが、これがなぜか品切れ。温泉宿で温泉饅頭を切らしているなんて、そんなことがあるだろうか。フロントで聞いたところによると、近くに同じものを製造販売している本店があるというので、そちらに行ってみることにした。

 朝来た道を5分ほど戻ると、その店があった。「奥久慈屋吉餅(きちべい)」という思いのほか立派な店で、店内には饅頭の他に、常陸大黒(ひたちおおぐろ)という二まわりも大きな黒豆を使った餅菓子が数種類並んでいた。どれも手作り感があって美味しそうだ。もとより和菓子好きなので、余計なものまで色々と買い込んだ。また一つ、旅の理由ができてしまったなあ。

 帰りの時間に余裕があったので、最後に常陸大宮市に新しくできた道の駅に寄ってみた。「かわプラザ」という別名があって、名前のとおり、裏手を久慈川が流れていた。しかも河原まで降りられるようになっている。店内を覗いた後、せっかくだから川のそばまで行ってみることにした。道が整備されているのは途中までで、その先に自然のままの、川石に覆われた河原が広がっている。河原で遊ぶなんて、何十年ぶりだろうか。

 川面(かわも)を眺めていると、不意に娘が「ねえ、水切りできる?」と聞いてきた。「あったりめえよ。昭和生まれだぞ。」早速適当な平石を見つけると、焼きの回ったサイドスローで投げて見せた。2回跳ねた。何十年ぶりにしては悪くない。「どうやるの?教えてよ。私やったこと無い。」「見て真似したほうが早いよ。」そう言ってもう一度投げてみせると、娘は何回かトライしただけで成功させた。誰に似たのか、遊びに関する感覚だけは鋭いな。

 「ところで石選びはな、軽けりゃ良いってものでもないんだ。」僕はそう言いながら、今度は少し大きめの平石を選んで投げた。すると石は3回ほど跳ね、そのあと水面を滑るように進んでから水中に消えていった。それを見て、「あ、今のすごい!」と娘。僕はちょっと良い気分だ。カミさんはそんな僕らの様子を笑顔で眺めていた。薄曇りだった空から、いつの間にか陽が差し始めていて、少し動いただけなのに体が汗ばんでいた。

 始まりは確かに味噌田楽の夢を見たことだったんだけど、終わってみれば思いのほか良い1日になったようだ。近いうちにまた饅頭買いに来ようかな。

今回立ち寄ったお店

・昔屋(蕎麦処)

・滝見の宿 豊年満作(手作りアップルパイ)

・奥久慈屋吉餅(黒糖饅頭 他)

・かわプラザ(道の駅 常陸大宮)

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 軽音、再び

 その昔、僕が高校で軽音楽同好会を創設したことは以前に書いた。3月の末のある日、その創設時のメンバーが集まるので顔を出せ、との通知が、なんと葉書で届いた。僕がメールもラインもやらないものだから、苦肉の策だったのだろう。だが考えてみれば僕の電話番号を知っているヤツだっているのになあ。返事はメールでくれ、と言うので仕方なく、パソコンで「行くぜ」とメールを、多分何年かぶりに送信した。やればできるんだよ、僕だって。集まるのはこれで3度目、場所は高校の所在地で、僕の実家のある土浦市。夜は実家に泊まれば良いので気楽なものだ。

 当日、指定された店に着くと、ほとんどのメンバーはすでにそろっていた。早速乾杯をして(よくある話だが誰かが着くたびに即乾杯)、昔話に花が咲いた。僕を下の名前で呼び捨てにするのは、長い人生のなかでもこのメンバーと、その取り巻きだけだ。それがとても心地よい。それにしても、四日市市から来る一番家の遠い男が監事ってどんな人選?土浦在住が何人もいるのに。でもまあ、その辺が軽音らしいところでもある。

 そんな音楽好きの旧友たちが集まって、今の時代にどんな話をするかって?そりゃあ、この歳になればまずは病気自慢でしょう。特に高血圧の話は盛り上がった。いや、上がっちゃいけないんだけど、「オレ、一番高い時の値が190あってさ」「負けた!オレ160」って、何勝負してんだよ。そのあと同じ血圧の薬を僕を含めて3人が服用していることを確認して、やっと「今も演ってるのか?」という話になった。ところがそんな話題のなかでも、「最近ギター弾こうにも、指が動かなくてさ」なんてことを言うヤツがいる。「もう、『BURN』は叩けないな」と、これは僕。あの頃ディープ・パープルの「BURN」という曲の、とんでもなく手数の多いドラムを完コピ(完全コピー)していたのは、近隣では僕だけで、これは当時ちょっとした自慢のネタだった。なぜあれが叩けたのか、今ではさっぱりわからない。イアン・ペイス(ディープ・パープルのドラマー)は75歳になった今でも余裕で叩いているのになあ。何、プロと比較するなってか。

 ところで、僕が最後にバンドとして演奏したのは5年前だから、一番最近まで「演っていた」ことになるようだ。フォーク部門(軽音は境界が曖昧ながらも、ロック部門とフォーク部門に分かれていた)のギタリストだったNは、昔大枚をはたいて買った愛用のギターを修理したら、買った値段以上の修理代がかかった、なんて話をしてたっけ。だって買ったの何十年前だよ。大学生の頃、そのギターを買う時にお茶の水まで一緒について行ったのがついこの間の事のようだ。でもギターは人力で運べるから良いよなあ。ドラムセットは車が無ければ運べないし、しかも普通車なら2往復だ。ドラムを選択した自分を何度呪ったか知れない。でもまあ、ドラムという楽器が好きなんだから致し方ない。

 さて、宴もたけなわ。幸いにも酒癖の悪いメンバーはいないので、楽しく時間が過ぎていく。僕が振った「おでんにジャガイモを入れるか?という話題では、メンバーが二つに分かれて真っ向から対立。馬鹿だねえ。その後誰かがCSNY(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、アメリカのフォーク・ロックバンド)の話を持ち出し、それを他の誰かがNSP(ニュー・サディスティック・ピンク、日本のフォークグループ)と勘違いして、皆に突っ込まれていた。その様子を見ながら僕はCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、アメリカのロックバンド)の話題を出そうか迷っていたが、誰かがいきなりテイラー・スウィフトを持ち出したので、話の流れはあらぬ方向へ。でもそのあとでGFR(グランド・ファンク・レイルロード、アメリカのロックバンド)に触れることができたからまあいいか・・・以前にもあったことだが、どうもこの頃の仲間のことになると、話がややこしくなっていけない。なんかゴメン。でも、仕事が関わらない酒宴は良いなあ。3時間なんてあっという間だ。

 土浦組は頻繁に情報交換しているらしく、メンバーの近況については僕の知らない話題もたくさんあったけれど、そんな事は一向に気にならなかった。わからない事は聞けば良いだけだ。構える必要なんてこれっぽっちも無い。ただ、当時の話題になるとメンバーの記憶違いが露見する事も多く、過ぎた時の長さを痛感させられた。

 ちょっと驚いたのは小学生の時に好きだった女の子(勿論今は女の子ではない)が、土浦に帰ってきているという話が聞けたこと。中学・高校と同じ学校に通ったのだが、最後に消息を聞いたのは何十年も前の事で、埼玉県在住だったはずだ。それが年老いた母親の介護のために単身土浦市に戻り、今も実家を維持するために滞在しているという。その子の友人だったキーボード担当のT(女子)がそれを僕に教えてくれた。死ぬ前に一度会ってみたいと思っていたので、少しだけ心がむずむずした。音楽とはまるで関係ないが、そんな話が聞けるのも軽音の、強いては高校時代の友人の集まりならではだ。ホント、良い時代だった。

 不思議なもので、あれだけ文字によるコミュニケーションを否定していた僕が、今回初めてメールをもう少し活用しようかな、という気になった。この問題については歳を重ねるたびに頑迷になっていくであろうと思っていただけに、自分の事ながらちょっと意外だった。慣れ親しんでいるのはパソコン、つまりキーボードによる入力の方だが、この際スマホのメール機能も使ってみようかな。そうすればこうした集まりの連絡も、少しは楽に行えるようになるだろう。何にせよ、次の会合が楽しみだ。次回はロボの「片思いと僕」を引き合いに出してみるか。

注 ロボ「片思いと僕」は1972年に大ヒットしたアメリカンポップス。

 愛用のドラムセット。美術準備室にて。これが場所とるんだ。

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 もうちょっと書きたい。

 土浦市について書いた時に、書き切れなかったことをもう少し書いておく。

 前に僕は、土浦という町に強い思い入れがある、と書いた。この思い入れとは、「かつて慣れ親しんだ場所に対する郷愁」といった類いのもので、例えば土浦の市史や名所・旧跡に興味があるとか、そういったことではない。あくまでも個人的なもので、例えば正月早々の記事に書いた、子供の頃から通っているM模型店や、これも以前に言及した、その昔屋台のおでん屋が出没した亀城公園、チャーハンが美味しいT飯店など、当時の生活と密接に結びついた場所が対象だ。華やかなりしころの土浦の、そういった場所について書く。

 昭和40年頃の庶民にとって、デパートでの買い物は一大イベントで、家族そろって出かけ、買い物の後は大食堂でちょっと贅沢な食事をして帰るのがお決まりのパターンだった。土浦にあった霞百貨店、後の京成百貨店は典型的なデパートで、入り口正面には踊り場から左右に分かれる吹き抜けの大階段があり、他とは一線を画する高級な商品を取り揃えていた。クリスマスが近づくと、店内やショーウインドウはそれらしく装飾され、食品売り場にはローストチキンやローストビーフ、クリスマスケーキなどの「ご馳走」が並んだ。まだ現在のような大型スーパーやコンビニがなかった時代で、この手の「ご馳走」が買えるのはデパートの食品売り場ぐらいのものだった。

 当時の駅前には県内有数のバスターミナルがあり、こうした特別な時期には近隣の市町村からも多くの人が押し寄せた。市内に5軒あったデパート(最盛期には大小合わせて7軒!)や、それらをつなぐアーケードは買い物をする客でごった返し、その賑わいは手をつないでいないと子供があっという間に迷子になるほどだった。

 京成百貨店のすぐ近くには土浦セントラルという映画館があって、子供の頃は斜向かいのパン屋であんパンと牛乳(瓶入りだぜ)を買って持ち込み、それを食べながら映画を見るのが常だった。たばこを吹かしながら鑑賞する人もいて、映画が終わると通路には吸い殻がたくさん落ちていた。トイレからはアンモニア臭が漂ってきたけれど、「映画館の匂い」として認知されていて、文句を言う人などいなかったように思う。この映画館はリニューアルされて今もあるそうだ。

 高校生になると、駅前にある西友のWALK館を利用することが多くなった。若者をターゲットにした新しい経営スタイルで、衣料品の他に大きな書店やレコードショップ、模型店などのテナントが入っていた。開店は1982年。今思えば、現在のショッピングモールに近いカジュアルな雰囲気があった。通学に土浦駅からバスを利用する友人が多かったので、学校帰りによく立ち寄った。休日には兄と二人で出かけ、店舗内にある書店や模型店に足を運んだものだ。この店舗は京成百貨店が1989年に閉店した後も10年近く営業していた。

 長いこと駅舎の正面にあったつかさデパートは、2階建ての観光みやげや特産品を扱う店だ。確かに店内は広いが、デパートとは名ばかりで(だから先の5軒には含まれていない)、売り場は1階のみ。2階は全て食堂になっていたので、つかさ大食堂と呼ぶ人も多かった。それなりに利用客もいたようだが、僕は一度も入ったことが無い。昭和40年代にして、すでに古くさい佇まいの建物で、ネットの土浦市に関わる記事にもあるように、四六時中軍歌を流していた。これは土浦に海軍航空隊(予科練)があったことと関係があるのだろう。誰も書いていないようだが、クリスマスの時期になるとビリー・ヴォーン楽団の「ジングル・ベル」や「ファースト・ノエル」を流していたのを、今でもよく憶えている。

 旧市役所の庁舎が今も残る富士塚山(というか高台?)も忘れがたい場所の一つだ。小学校の写生会で訪れたり、夏休みのラジオ体操の会場になったりもした。庁舎と駐車場のある頂上は見晴らしの良い場所で、遠くに筑波山や霞ヶ浦を望むことができた。少し前までは駐車場まで行けたのだが、最近ではたまにロケ地になったりすることが理由なのか、その独特な建物の保全のために敷地への立ち入りが禁止(封鎖)されてしまったのが何とも残念だ。

 他にも古い大病院にありがちな、おどろおどろしい佇まいの旧国立病院(もとは海軍病院。現霞ヶ浦医療センター)であるとか、おやじギャグ感満載のレコード店「レコー堂」であるとか、SMマガジンをSFマガジンと間違えて手に取り、過激なグラビアに動揺した伊沼書店であるとか、そういった場所が今でも鮮明に記憶に残っている。だがそのほとんどが、今はもうなくなってしまった。

 国土地理院のHPで土浦市の航空写真を調べていた時に、ふと気付いたことがある。写真の年代が新しくなるにつれて、道路がはっきり見えるようになっていく。人家や商店がなくなった更地に駐車場が作られ、建物によって道が隠されたり、道に建物の影が落ちて見えにくかったりする事が少なくなったからだ。

 土浦市が衰退した理由の一つは、市内に駐車場が決定的に足りず、車社会の到来に商都としての対応ができなかった事だった。あれから40年。店が消え、人家も少なくなったかつての中心街に、今になって駐車場が幅をきかせている。何とも皮肉な話ではないか。

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 フィルムカメラの復権なるか?

 以前レコードの復権について書いたことがあるが、今度はフィルム。TVで聞いた話によると、最近の若者が昔のレンズの描写に憧れて往年のフィルムカメラ、しかもそれほど性能の良くないコンパクトカメラを購入することが増えてきたという。描写の安っぽさが良いんだって。勿論その手のカメラは中古でしか手に入らないのだが、なかでも人気なのがオリンパスのμ(ミュー)シリーズなんだとか。これが僕にはちょっと解せない。だって、オリンパスμシリーズといえば、その筋では有名な名機のひとつだからね。

 実を言うと、オリンパスμは僕の手元にも1台ある。レンズが描写力に優れていて、使い勝手も良く、デザインもカッコいいので、処分できずにいる。当時はこのカメラだけで撮ることにこだわるプロの写真家がいたぐらいで、かなり評判が良かった。ただ、当然プロ仕様ではないので機械としての耐久性に欠け、その写真家は個展を開くたびにμシリーズを何台もダメにしたそうだ。

 このカメラはレンズの描写は悪くないが、確かに素人が使うとその性能を十分に発揮できない可能性はある。例えばボディが小さいのでホールド感が悪く、露出もオートのみだから、撮る側の人間が状況を判断して対処しなければ、露出で失敗したり手ブレしまくったりしただろうからね。つまり今の若い人が言う「昔風の描写」は、決してレンズが古いせいばかりではなくて、むしろユーザー側の知識や技能の欠如の結果と考えた方がいい、ということだ。何しろ今のカメラ(スマホ含む)は状況を自分で判断できる上に、センサーの感度はISOに関しては化け物だし、レンズのコーティング技術も格段に進歩している。おまけに手ぶれ防止機能まで備わっていて、素人にも扱いやすい。だから誰が撮っても同じように無難な写真が撮れる。逆に言えば個性の無い写真しか撮れない。そのつまらなさに若い人たちが気付き始めた、ということだろう。まあ、それはそれで良いことだ。

 考えてみると、古いレンズの描写を楽しむだけなら、今でも歴代の交換レンズが使えるニコンFマウントカメラやライカMシリーズなどの方が適していると言える。大昔のレンズが現行のデジカメでも使えるんだからね。ただしべらぼうに金がかかるから、お勧めはしないけど。

 一方、古いレンズに加えてフィルムという記憶媒体の描写を手軽に楽しもうというのなら、今の若い人がやっていることも、まあ間違いではないだろう。というかカメラごとの個性というのもあるから、いろいろな機種を試してみるとかえって面白いかもしれない。何しろ、中古のコンパクトフィルムカメラを10台買ったとしても、ニコンのFマウントやライカのデジカメを買うより遙かに安い。

 さて、若者が念願叶ってフィルムカメラで写真を撮ったとする。その後どうするかというと、写真店で現像してもらったネガをデータにして保存、ネガそのものは「捨ててください」というパターンが多いそうだ。笑えたのはフィルムが入ったままのカメラをお店に持ち込んで、店員さんの前で取り出そうとして、巻き戻しもせずに裏蓋を開けるパターン。撮影済みのフィルムを現像前に過度に感光させたら全てがおじゃんになる(カメラ側に巻き取られたフィルムの内側の方は助かる場合もある)。だから必ずフィルムをパトローネ(フィルムの容器の部分)に巻き取ったことを確認してから裏蓋を開ける。これは基本中の基本だ。フィルムカメラを使ったことが無いなら、事前に詳しい人に聞くなり、ネットで調べるなりしておけば良いのに。

 もう一つ、ネガはとっておいた方が良いと思う。例えばデータをディスクにした場合、ディスクの寿命は通説で10~20年と言われている。僕が昔撮った写真のネガは(保存状態にもよるけど)40年以上たっても何の問題も無い状態だ。もっと言うなら、父や祖父の撮ったネガもまだ使える状態で残っていたりする。

 まあ、写真に対する思い入れの違いもあるだろうけど、僕の経験からすれば、写真(ネガ)は半永久的に残すべきものだ。背景に何十年も前の状況がわかるものが写っていたりすれば、それは一種の歴史的資料になり得るからね。

追記 コンパクトデジカメまで続いたオリンパスのμシリーズには、初代μの改良型で1997年に発売されたμⅡ(ミュウツー?)と言うモデルがある。なんかどっかで聞いたような・・・。逆襲されたらどうしよう?

 オリンパスμパノラマ。offの状態。大きさは縦・横が約60㎜×115㎜。ボディの厚みが45㎜ぐらいか。何せフィルムを入れなきゃならんから、このサイズが限界だろう。

 カバーを開けてon。リチウムバッテリーが入っていれば、レンズがもう少しせり出してくる。オートフォーカス、レンズは35㎜F3.5。

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 コンビニエンス・ストア

 コンビニエンス・ストア。直訳すると「便利なお店」。何が便利かというと、朝早くから夜遅くまで開いていること、品揃えが広範囲であることなどが挙げられる。

 スイス・アーミーナイフ。知ってます?1本のハンドルに、ナイフのみならずドライバー、はさみ、ヤスリなどが収納されている。1本あるととても便利。本当だろうか。

 スイス・アーミーナイフは使ったことがあるけれど、こんな使いにくい道具ってあるだろうか、と思った。何をするにも、使い勝手の良さは、例えばドライバーならドライバー、ヤスリならヤスリにはかなわない。まあ、当たり前と言えば当たり前。

 昼食にコンビニでカレーライスを買ったことが何度かあるが、その味に満足したことは一度も無い。「美味しくない」を通り越して「不味い」と思ったこともある。ここで「そんなの当たり前。コンビニなんだから。文句を言う方がおかしい!」と思った人。おっしゃる通り。それが当たり前です。だが今回僕が言おうとしているのはまさにそのことだ。それを当たり前にして良いのだろうか?

 僕はスイス・アーミーナイフを持っていない。あんな使いにくいものを持つぐらいなら、多少かさばっても工具セットを買う。同じように美味しいカレーが食べたければ、コンビニでは買わずに専門店に行くか自分で作る。たが当座しのぎにコンビニを利用することは、正直言ってよくある。要するに、どちらも「とりあえずの間に合わせ」なのだ。僕が恐れているのは安くて便利な「間に合わせ」のものが「当たり前」になっていくことだ。そういった生き方に慣れてしまうと、手軽さを重んずるあまり、時間と手間をかける方法論に価値観が見いだせなくなって、「本物」が廃れ、伝統的な技術は失われ、文化や人の生き様そのものまで「間に合わせ」になってしまうかもしれない。現にIT時代のスイス・アーミーナイフ、スマートフォンのおかげで、本来対面して会話すべき人間関係が文字だけの「間に合わせ」になっているじゃないですか。しかもすでに「当たり前」になりつつある。それによって生じる不愉快な状況は人の心を傷つけ、場合によっては死をもたらすこともある。何、大げさだって?でもこうしたことは現実に起こっているし、時々誰かが騒いでおかないと、人間はゆっくり進行する変化をなかなか認識しないじゃないですか。長い時間をかければ筍だってアスファルトを突き破ることを忘れちゃいけない。さらにもう一つ、心配なことがある。「便利」は人を「馬鹿」にするかもしれない。

 昔のSFに登場する未来人や、科学技術の進んだ宇宙人は、みんな体が小さくて頭が大きかった。機械化が進み、働かなくていいから体が退化し、頭脳が発達するから頭は大きくなる、というわけだ。しかし現実には、考えることをコンピューターに任せ、自動車を運転するための判断すら機械任せの時代もすぐそこまで来ている。パソコン(ワープロ機能)が普及したために漢字を書けなくなったという話は僕の周りでもよく聞くが、この分じゃ次は、せっかく覚えた運転を忘れるかもしれない。そんなことで、いざという時に危機回避のための判断や行動ができるんだろうか。これでは頭脳まで退化してしまいそうだ。

 昨今の事件や事故のニュースを見て、「人間、少しお馬鹿になってきたかな?」と感じるのは僕だけではないだろう。何しろ肉体労働はともかく、頭まで使わなくてすむ時代の到来を誰も予想しなかったから。そもそも体が退化し、頭脳も退化するとしたら、その先に待っているのは滅亡しかないだろう。もし一般大衆が考えるのを止めたら、今流行りの陰謀論者が言うように、頭のいい一握りの人間がスマホを通して大衆をコントロールするなんて簡単だろうなあ。実際にそれに近い事例も増えつつあるし。

 便利な社会は僕も大歓迎だ。コンビニにしたって、いまだにカレーライスを買って自分の愚かさを呪うことがあるぐらいだ。だから頭から否定するつもりはない。ただ、「便利な社会」が内包する危険性を常に意識して、賢く利用することを心がける必要はあるだろう。

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 偽善

 時々、「オレはとんでもない偽善者だな」と思うことがある。それはどんな時かというと、TVなどで食肉に関する番組を見ている時だ。

 歳をとったせいか、最近食肉用の家畜を出荷するシーンを見ていられない。業者の人は「愛情を込めて育てた」と言うが、家畜たちは最後には食肉になる運命だ。勿論それは立派な職業だし、社会の仕組みの一部でもあって、今更どうこう言う問題ではない。理屈ではちゃんと理解しているつもりだ。それでも目をそらしたり、早送りしたりしてしまうのだ。それでいて、食肉になってしまえば、何も考えずに「この肉は柔らかくて美味そうだ」なんてことを平気で言う。矛盾している。

 大分前のことだが、「豚のいる教室」という映画があった。ある小学校で子供に豚を育てさせ、最後にはその豚を食肉センターに送る。勿論、子供たちはその豚がどうなるか理解している。子供たちはその豚をPちゃんと名付け、とても大事に育てた。豚は賢い動物だから、子供たちによく懐いた。1年後、そのPちゃんを子供たちは泣きながら見送った。この映画は実話をもとに、ほぼ実話通りに制作された。実際に行われた授業については賛否両論あったそうだが、僕個人としては「なんて授業だ!」と腹が立ったのを憶えている。だが僕が豚肉を食べるのをやめたかといえば、そういう事はなかった。

 こうした問題は一種のタブーであって、誰もが知っているにもかかわらず目をつぶり、口に出して言わないことで社会が上手く回る。それをあえて、しかも教育現場でここまでする必要があったのだろうか。これは授業の一環だったから、当然参加を拒否することなどできない。多くの子供たちがトラウマを抱えたであろう事は想像に難くない。

 亡くなった父の兄弟には、鶏肉を食べられない人がいたそうだ。幼い頃に、飼っていた鶏を潰すところを見てしまったからだ。僕は昔から、旅先などで出される活き作りの刺身がダメで、骨だけになった魚が(あれ、飾る必要があるのか?)口をパクパクしたりするだけで食欲が失せる。だが食べるのをやめたかといえば、これもそんなことはなかった。

 僕が一番見ていられないのが牛の出荷シーン。あの柔らかそうな睫毛に覆われた優しい目を見ていると、何ともやるせない気持ちになる。幸いなことに、子羊(ラム)の出荷シーンというのは見たことがない。さすがに子羊については、例のタブーの原則が働いているのだろうか。

 ご存じのように、僕は料理を趣味にしている。特に肉料理が得意だ。そんな僕が、出荷される牛から目をそらさずにいられない。やっぱりこれって、偽善的だと思う。だから普段は気付かないふりをしながら生きている。

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 雪国

 「雪国」といっても、小説の話じゃない。僕が若い頃からなぜか抱き続けている憧れのことだ。

 雪国へ旅行したい。しかも厳寒の冬のさなかに。結婚してすぐ、京都で年越しをしたことはある。でもその年は暖冬で、雪は残っていたものの、どこへ行ってもぬかるみだらけだった。学生の頃、冬の軽井沢で足止めを食らったこともある。その日、碓氷峠は一夜のうちに降り積もった積雪で、朝から通行止めになっていた。だが勿論僕の言う「雪国」とはこんなレベルのものじゃない。

 忘れられない光景がある。それは今にも軒(のき)まで届こうかという積雪に、屋根から垂れ下がったつららが一体化した、雪国の古びた一軒家の佇まいだ。雪はとうに止んでいて、顔を出した太陽の光がつららに反射していた。小学生だった頃、TVで見た光景だ。番組の内容は憶えていないけれど、なぜかその光景だけが今も脳裏に焼きついている。

 僕の住んでいる地域では雪が降ったとしても年に1~2回、積雪ともなれば年に一度有るか無いかだ。積雪量も最近では10センチを超えることはほとんど無い。庭には毎年のようにふきのとうが顔を出すけれど、一度でいいから、雪をかき分けるようにして顔を出すふきのとうが見てみたい。何だろう、この脈絡のない欲求は。

 そんな僕が、真冬の白川郷に行きたいと言うと、家族は「なんでそんな寒いところへ。一人で行けば」とつれない。普段は仲の良い家族なのに、なぜかこの件に関してはなかなかに手強い。仕方がないので、TVの雪国に関する番組を見て気持ちを紛らわす。そんな中でふと気付いた。どうも僕の頭の中にある「雪国」は、東北から北陸にかけての地域に限定されているようだ。北海道は「雪国」というよりは「北国」で、妙にお洒落なイメージがある。お土産はまんじゅうじゃなくて洋菓子、そんな感じだ。僕が抱く「雪国」のイメージは何というか、もっとベタな生活感を伴うものだ。僕もいい歳なので、雪国に住む人々の苦労は理解している。だから軽い気持ちで言っているわけじゃない。だがそんな雪国の景色が日本の原風景の一つであることは間違いない。それをこの目で見てみたい。

 東北出身の父は生前、「雪国の生活を知らなければ本当の日本を知っているとは言えない」と言っていた。それならば、古びた民宿などに長期滞在して、春の訪れを待つのも良いかもしれない。そうすることによって、囲炉裏の火の温もりや、春を待ちわびる期待感を少しは実感できるに違いない。だが現実的には、そんな旅は不可能だろう。

 こうして考えてみると、僕が雪国への旅に求めているものは、おそらく五感で得られる感覚的なものだけではなく、心理的な経験でもあるのだろう。それは単に観光客として「訪れる」だけでは得られないものかもしれない。それでも心のどこかで雪国探訪を諦めきれない自分がいる。

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 風の音

 最近風の音が気になる。気になると言っても、それは必ずしも不快という意味ではなくて、むしろ心地よいことの方が多い。

 遙か昔、まだ僕が受験生だった頃、勉強に疲れると窓から抜け出して、人通りの途絶えた深夜の通りを散歩した。僕の家は郊外にあったので、あたりを照らす明かりといえば僅かな街灯か、家々の消し忘れた玄関灯ぐらいのものだったけれど、当時の世の中は今よりもずっと治安が良かったから、なんということもなかった。

 周囲に背の高い建物はほとんどなく、広い空き地が隣接していたので、通りからは空を広く見渡すことができた。今でも憶えているのは、星空の下を月明かりに照らし出されたちぎれ雲がかなりの速さで移動していく様だ。そんな夜には、地上に風が吹いていなくても、空の高みからごぉっという風の音が聞こえてきたものだ。その音を聞くと、なぜか心が安らぐ気がした。

 おそらく仕事に就いてからだろうか。長い間風の音など気にもしなかったが、コロナ禍以降、在宅となってからは自分の部屋で一人パソコンに向かうことが増えたので、特に冬場など、風の音を再び認識するようになった。風の音が気になる、と書いたのは、そういう意味だ。

 僕の仕事部屋は2階にある北向きの三畳間で、窓からは順光に照らされた田園風景が見渡せる。近くには小さな神社の森と竹林があり、風が吹けば視覚的にもそれとわかるのだが、部屋には喫煙のための換気扇が設置されているので、パソコンに向かってキーボードを叩いている時などは、むしろ換気扇の開口部を通して聞こえてくる音で、風が吹いているのを知ることが多い。家の周囲には水田が多く、吹きさらしの地域なので、時には換気扇を逆転させるほどの強風に驚かされることもある。そんなとき、ふと「人間も、理解できない物音に怯える野生動物と大差ないな」なんて思う。

 今でも実家に帰ると、家の周りを散歩することがある。かつての空き地には12階建ての大きなマンションが建ち、空を見渡すことはできなくなった。さすがに深夜出歩くことはないが、多分治安も昔ほどよくはないだろう。そうした環境の変化も相まって、今の若い人たちは空を眺めたり風の音を聞いたりするよりも、ネット動画などに費やす時間の方が多いに違いない。だがそれは仕事を終え、自宅に戻った後も社会とのつながりを断ち切れずにいるということでもある。あの夜、僕が風の音を聞いて安らぎを感じたわけは、僕の意識がほんのひととき、文明や社会のしがらみから切り離されて、本来在るべき場所に戻っていたからではないか。そんな気がしてならない。

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 オージービーフの実力

 以前にも書いたことだが、牛肉は赤身が好きだ。霜降り肉の魅力もわかるのだが、初めのうちは良くても、だんだんと脂が鼻につくようになってくる。結果的にたらふく食べることができない。なんだか騙された気分になる。だがほとんどの和牛は、典型的な赤身の部位であるはずのフィレ肉にまで、しっかりサシが入っている。僕に言わせれば、これではフィレを食べる意味がない。和牛の純粋な赤身!この要求を伝えると、行きつけの精肉店のスタッフも困った顔をする。実際サシの少ない和牛を探すのは至難の業だ。考えた末に、そのスタッフはランプ肉を勧めてきた。これは僕の要求を八割方満たしてくれた。しかもお買い得感がある。と言っても和牛は和牛。まあ、安くはない。

 ある時、昼食用に安い牛肉の赤身肉を買ってきて、ステーキにして食べた。米国産のサーロインで、独特の臭みがあった。しかも容易に噛み切れない。何しろステーキナイフで切り分けるのに苦労するぐらいだから無理もない。そして最後に繊維の塊が口に残った。くそ、二度と買わねーぞ。

 さて、オージービーフ。オージービーフとは、要するにオーストラリア産の牛肉だ。これがなかなか良い。臭みがなく、厚切り肉をステーキにしてもそこそこ柔らかい。おそらく飼料に工夫がされているのだろう。そこでスキヤキにも挑戦してみた。我が家のスキヤキは割り下を使わない関西風。おお!これ、ベストマッチかも。別にもらった牛脂(加工してないやつ)で焼けば、脂の香りがまとわりついて、それでも味わいはしっかり赤身肉。しかも薄切りだからなおのこと柔らかい。何しろ箸でほどけてしまうぐらいだ。これなら何枚でもいけるぞ。

 日本人の脂信仰は今に始まったことではないけれど、最近では盲信とでも呼ぶべき域に達している気がする。見事なサシの入った断面を見て「美しい!」と言う人がいる一方で、「うえぇ、見ただけで胃がもたれる」なんて言う人もいることを忘れちゃいけない。

 脂が美味しいから脂の多い肉牛を育てる。その発想はフランス人のフォアグラに対する考え方と似ている気がする。だが海外には、赤身をいかに美味しく食べるか、という問題を追及する業者も多い。実際アメリカにも、和牛ほどではないものの、柔らかな美味しい牛肉は存在していて、これは牧場主の努力によるところが大きい。しかもサシなど一切入らない赤身肉だ。勿論高価で、スーパーなどに並ぶことはない。フランスには牛肉を熟成させることによって、いかに味わい深い赤身を作るかということに心血を注ぐ精肉業者がいる。彼の手がけた赤身肉は小豆色で、えもいわれぬ熟成香があるという。これも高価で、どちらも限られた店でしか食べることができないそうだ。

 話が大きくなりすぎた。オージービーフの話だった。今回確信したのは、スキヤキや牛丼の具だったら、オージービーフで必要十分だということだ。ことに牛丼の具など長いこと煮込むので、和牛で作ったら(そんな酔狂な人いないと思うけど)、脂が溶け出して肉のかさが減り、ツユは浮き脂だらけになってしまうだろう。なお、スキヤキに関しては脂が少ない分、牛脂を適宜補うことをお勧めする。ステーキは和牛よりは多少堅いけど、まあ、そのために歯があるわけだからね。あるでしょ?歯。

 工夫次第で美味しい牛肉が食べられる、そんな可能性を秘めたオージービーフ。こいつはちょっと侮れない。しかも安い!そういえばあまり見かけないけど、オージービーフのフィレって一般には出回ってないのかな。でもアマゾンならフィレブロックが手に入りそうだから、今度試してみよう。