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 「おかあさん」の一周忌 2

 「おかあさん」の体調の変化は9月1日に始まった。まずエサを食べない。あんなに好きだったマグロもほんの少し口をつけるだけ。2日目に病院に連れて行って点滴。         「これで食欲が戻らなければ血液検査しましょう」      と言われ、1日様子を見た。点滴のおかげで多少元気にはなったが、やはり食べない。結果、再び病院へ。血液検査の結果を知って驚いた。腎臓にかなりダメージがあり、尿毒症みたいな状態らしい。先生のつぶやきが聞こえてしまった。        「この状態でよく動けるな・・・。」           ちょっと覚悟しないといけないか。でも本人はいつもと変わらないように見えるのに。 それから一週間は毎日日帰り入院。動物病院の先生は、                     「多少持ち直しましたが、いつ何があってもおかしくない状態です。特に心臓発作が起こりかねない状況なので。」      と説明してくれた。

 「おかあさん」の送り迎えは僕がやった。仕事は時間休をとり、定時に退勤した。「おかあさん」の体温は次第に低下していった。寝るときには必ずバスタオルを掛けてやったが、明け方にははだけてしまっていた。

   9日は仕事が休みだったが、午前中は台風が近くを通過中で、荒天だった。午前9時には雨が止んだので、「おかあさん」を病院に連れて行った。昨日あたりから足がふらふらで、歩くのが辛そうだった。いつものように「おかあさん」を預けて帰った。

 昼過ぎに病院から連絡が入った。状態が良くないのですぐ来て欲しい、とのことだった。                「わかりました。すぐ行きます。」            10分もかからなかったと思うが、ついたときには「おかあさん」は亡くなっていた。いつもの様に横になって休んでいるようにしか見えない。僕は聞いた。              「これってもう・・・?」                 先生は黙って頷いた。                 「そっか。・・・じゃ、おかあさん、帰ろうか。」      バスタオルで体を包み、抱きかかえてやった。       「もつと思ったんですがね・・すみません。」        先生が謝った。それは別にかまわない。十分良くしてもらえたと思う。 火葬が済み、1週間過ぎても喪失感は消えなかった。悲しみは感じなかった。ただ、 「あ、もう薬はいらないんだ。」 とか、 「あ、おかあさんのエサはもういいんだ」 などと手を止める自分に気付き、空虚感を感じた。こんなにも「おかあさん」のために時間を使っていたんだ、と思い、それでいてもっと何かしてやれなかったのだろうか、とも思った。しかし、現実には起こったことが全てだ。考えたって仕方がない。

  パソコンのデータのなかから「おかあさん」の写真を拾い出してみると、若い頃の写真が見つかった。でかい。人相(?)も悪い。こんなだったっけ、と、思わず笑ってしまった。最後にうちに来た頃はずいぶん丸くなっていたんだなあと(性格や表情の話である)思った。頬をケガで失った後の写真も多い。そのうちの一枚を画像処理して頬をもとに戻してやった。ついでに左目の奇形も何とか処理してみた。前から思っていたことだが、結構な美人さんだ。でもこれはやり過ぎだと思い、もとに戻した。

   最後の半年、「おかあさん」はよく膝の上に乗ってきた。そして必ず、僕を見上げた。                 「ここ、いいんですよね?」                と言ってるように思えた。                「うん、いいんだよ。」                  その瞬間が好きだったんだが、もう二度とないんだよなあ。

   そうそう、「おかあさん」が産んだ最後の子猫たち。あの中の一匹、「コチャ」は今ではうちの飼い猫として元気に暮らしている。「コグレ」は時々庭に現れる。美人さんだった顔が、今ではいっぱしのノラ猫のそれになってきた。それから、「おかあさん」がつけた指の傷跡。多分一生消えることはないだろう。

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 「おかあさん」の一周忌 1

 2020年9月9日は「おかあさん」という猫の一周忌だった。

 「おかあさん」との関わりはとても長い。家のある地域は県庁所在地のある都市の駅からほんの2、3㎞しか離れていないにもかかわらず、大きな川の流域にあるために農家が多く、水田や里山が広がっている。そこだけ時間が止まったような地域で、今でも狸やイタチ、キジなどを見かけることがある。大雨の降った後など、車を運転するときに亀やザリガニを轢かないように注意しなければならないほどだ。住む人の気持ちもおおらかで、野良ネコにとっては天国のような地域だ。

  当時我が家も庭先にエサ場を設け、野良ネコを手なづけてペット代わりにしていた。1990年代から現在まで、なじみのネコが3・4匹はいたと思う。その中の一匹が「おかあさん」だった。                        「かわいそうなネコだな。これじゃ拾う人もいないだろう。」 それが第一印象だった。というのも、彼女の左目には奇形があり、瞬膜で眼球の大部分が覆われていて、初めて見たときは僕自身もぎょっとしたぐらいだ。さらに体の模様も地味で、さえない感じだった。哀れに思ってエサを与えた、そんな始まり方だったと思う。

  彼女はしょっちゅうエサをねだりに来るわけではなく、いつも忘れた頃にやってきては、窓越しに家の中をのぞいた。「おっ!元気してたか?」                 なんて言いながら、エサを出してやった。痩せこけて来ることはなく、それなりに自活して元気にやっているようだった。子どもが生まれると、彼女は必ず連れてきた。ここにくれば食べ物があることを子どもたちにも教えているらしかった。そして子どもたちが馴染んだのを見届けると、またしばらくどこかへ姿を消すのだった。そんなわけで、僕たちはいつしか彼女を「おかあさん」と呼ぶようになっていた。

  2017年の春に、彼女はまた子猫を2匹つれてやってきた。灰色のブチと茶色のブチで、灰色の方はなかなかの美人さんだったが、茶色の方は目の上の毛が長く、そのせいで般若のような顔をしていた。                    「もうだいぶ歳なのに、頑張るなあ、おかあさん。」     そんなことを言いながら、子猫たちにはそれぞれ「コグレ」「コチャ」と呼び名をつけた。「グレコ」と「チャコ」では普通すぎてつまらん、というのが長女の見解だ。こうして2匹はめでたくうちの庭の常連となったのだった。そして「おかあさん」はいつものように姿をくらました。

  7月も終わろうという時に、夕方庭いじりをしていると、庭の南側の門のところに小さなネコが現れた。黙って見ていると、何のためらいもなく近づいてくる。近くへ来て驚いた。   「おかあ・・・さん?」                  あの左目は紛れもなく「おかあさん」。しかし見る影もなくやせ細り、しかも左の頬は大きなかさぶたで覆われていた。   「おかあさん、どうした!」                いつものようにエサが欲しくてきたに違いない。慌ててエサと水を出してやったが、この頬の傷では食べることもままならないだろう。案の定、匂いは嗅ぐが食べようとしない。あの痩せ方だと、食べたくても食べられない状態なのだろう。水だけ飲んで、いつものように帰ろうとするのを抱き上げ、部屋に入れた。こんな状態では帰すわけにはいかない。「おかあさん」は床の上でうずくまったまま、僕がケージの準備をするのを静かに待っていた。この頃にはうちでもネコを飼っていたので、行きつけの動物病院があった。電話を入れて事情を話すと、時間外だが看てくれるという。僕はお母さんをケージごと車に乗せ、すぐに病院に向かった。

  獣医の○○先生は頬の傷について、           「ケンカかなんかでケガをしたところからばい菌が入って、組織が壊死してしまったんでしょうねえ。もとには戻らないかも・・・。」                      「いや、とりあえず元気になりさえすればいいので。」    と答え、抗生剤やらなんやらの処置をしてもらい、薬ももらって帰宅した。うちはネコを多頭飼いしているので、予備のケージがあった。タオルやらトイレやらをしつらえてお母さんを入れた。エサは固形物を食べられそうにないので、しばらくはチュールとかポタージュでいくことにした。その方が薬も飲ませやすい。次々と帰ってくる家族は新しいケージが組み立ててあることに驚き、その中に「おかあさん」がいるのを見て驚き、その頬のキズを見てまた驚いていた。                 「もうあんな思いはしたくないからさ。」          と言うと、家族の誰もが頷いた。我が家には以前、助けられたかもしれないネコを1日遅れで助けられなかった、という悔やんでも悔やみきれない経験があったのだ。

 さて、「おかあさん」は2度目の通院の頃には体重が少しもどり、多少なりとも元気になってきた。おかげでパニックになった「おかあさん」に左手のくすり指をいやというほどかまれた。久々の大流血。見ると指の腹の部分が1.5㎝ほど裂けている。動物病院の先生も慌てて、                「人間の医者に診てもらってください。」          当たり前だ。これは縫わないとダメだなあ、と思っていたが、このキズをすごい方法で治してしまう外科医に出会うことになる。(この時のことについてはまた今度。)。 なにはともあれ、こうして「おかあさん」は、我が家の8匹目の飼い猫となったのだった。

 その後の通院の時に、かなりの年齢であることを話し、去勢手術はあきらめた。家猫として飼えば問題はなかろう。増設したケージはそのまま「おかあさん」の住まいとなり、家の中がニュースでよく見かけるような様相を呈してきた。やばいぞー。病院ではこんな会話をした。               「おかあさん、そろそろ名前をつけてあげたらどうですか?カルテのこともありますし。」                「だから、名前がおかあさん。」            「!?名前だったんだすか?」              「そう。」                        こうして「おかあさん」(仮)は正式に「おかあさん」になった。病院でもらう薬の袋には、常に「おかあさんちゃん」と書かれていた。なんだそりゃ。 ペットショップでは娘とこんな会話もあった。                       「そうだ、おかあさんのご飯も買わないと。」       「そうだな。ネコ缶とチュールを買って・・・」       そこまで言って気付いた。となりにいたお客さんがびっくりしてこっちを見ている。                   「言い方を考えた方が良いかも。」            「どうして?」                     「お母さんのご飯(=ネコのエサ)。」       「あっ・・・。」                    「お母さんのエサ、はもっとまずいな。」         「そうだね。」                      いろいろ学ぶことが多い(?)。

 それからしばらくして、顔のかさぶたは綺麗に落ちたが、左の頬の大部分はなくなっていた。しかし、体重が増え、体力もかなり戻った。そんなお母さんが正月に脱走した。ほんの少し開けてあったサッシを無理矢理こじ開けたらしい。あの老猫の、どこのそんな力が残っていたのかとあきれてしまった。だいぶ元気になったし、元々ノラなのでさほど心配はしなかったが、お母さんは3日後に帰ってきた。おしりにキズができて、血がにじんでいる。                          「んなあ。」                      「んなあじゃないよ、全く。病院!」            胴衣(包帯のかわり)を着せられ、エリザベスカラー(傷を舐めないように首に巻く、漏斗上のカラー)をつけられて帰ってきた。この頃から家の中でかまわず大声で鳴くようになった。さかりの時期だ。去勢していないので、本能のおもむくままに鳴くのだろう。うるさい。他の猫も大変そうだ。なでてやったり抱き上げてやったりすると静まるが、やめるとまた始まる。まあ、我慢するしかないか。「おかあさん」は春が終わる頃にはおとなしくなった。いよいよ猫又になるかな、なんて下の娘が言っていた。

 2019年には、「おかあさん」はだいぶ家に馴染んでいた。他の若い猫には体力ではかなわないと知ってか、はたまた新入りとしての自覚がそうさせるのか、皆がけんか腰になると、いつも我慢したり身をひいたりしていた。それでいていつも一番高い場所を独占するのだった。

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 最近の心霊現象

 また馬鹿なことを・・・と思われるかもしれないが、日本では夏と言えば怪談。お盆には先祖の霊が帰ってくるから、そこかしこに霊があふれていてもおかしくはない。TVでは心霊ものの番組が放送され、毎年の定番番組もある。年甲斐もなく、これが大好き。最近ではNHKまでもが毎年のように心霊番組を組んでいる。NHK,どうしちゃったんだろう?でもさすがにNHKだけあって、質は高い。古いものでは2009と2010年の2回に渡って放送された「最恐!怪談夜話」。数名のゲストが順に現代怪談(実話?)を語る番組。ファンも多いらしく、いまだにネットで話題に上る。僕も大好きで、毎年夏になると、録画したディスクを引っ張り出してくる。2017年には「京都異界中継」と銘打って、4時間にわたる生中継番組を放送。百物語になぞらえて、京都にまつわる百話の怪異譚を紹介した。好評だったらしく、2時間の「濃縮版」を複数回再放送していた。NHKではこのほかに「ダークサイド・ミステリー」という定番(現在も放送中)もあって、これはどちらかといえば検証番組。心霊現象に限らず、UFOやUMA,さらには未解決の事件や歴史ミステリーまで扱うので、幅が広くて楽しめる。ただし、検証番組であるから、気をつけないと夢やロマンを微塵にぶちこわされることがある。その点については容赦なし。民放でも「世界の怖い夜」「本当にあった怖い話」等の他に、単発のスペシャルもある。中でもお気に入りなのが、フジテレビ系列の「世界のなんだコレ!ミステリー」。厳密には、その中の不定期コーナー「ハッピーゴーストハンティング」。リッチ・ニューマンというそこそこ有名(らしい)な心霊研究家が紹介する世界のゴースト物件(ホテルが多い)を、日本の取材チームが同行してレポートするコーナー。中身はたいしたことは無いが、必ず何か起こるのが良い。リッチさんの心霊研究家らしくない軽ーいキャラも好きだ。さて、前置きはこれぐらいにして、本題に入ろう。  

 こうしていろいろな心霊番組をほぼ全てにわたってチェックしている僕が、この十数年不思議に思っていることがある。それは心霊のスタイルについてだ。スタイルと言っても勿論体型のことではなく、「写り方」のことである。            

 ご存じのように、最近の日本のホラー映画は世界的に評価されており、アメリカでは相当数のジャパネスク・ホラー・ムービーがリメイクされているほどだ。中でも有名なのが「リング」と「呪怨」。さて、ここからが問題。それ以前の動画に写る霊は移動する時にスーッと平行移動するというか、宙に浮いているというか、そういうのが定番だった。ところが「リング」「呪怨」以降、四つん這いで移動する霊が多く写るようになった。それだけではない。欧米で撮影された動画であるにもかかわらず、長い黒髪で顔を隠した霊(貞子!?)がやたら多いのだ。金髪とかあまり見たことがない。しかも、白いワンピースも共通。これってどういうことだ?

 例えば、死後の世界も現世とほぼ同じで、テレビや映画館があるとしよう。霊たちが現世で最近流行りのプログラムを見て、「あたし、次出る時このパターンでいってみようかな」「良いんじゃない?髪も黒く染めてさ。最近のトレンドらしいし」などと会話を弾ませているとしたら・・・なんだかちっとも怖くねーぞ。いや、違う意味で怖いか。  

 もう一つ。これは欧米の動画に多いんだけど、あっちの霊ってやたらに脅してくる。急に曇りガラスにくっついて姿を現してみたり、いきなり近くに来てびっくりさせたり。しかも、脅す気満々の表情してるし。そんな彼等、彼女らはいったい何が目的で出現してくるのだろうか。さらに、これは日本の幽霊も同じだが、なぜか霊たちはおどろおどろしい顔をしている。幽霊画の掛け軸を見るとよくわかる。穏やかな、生前と変わらない表情をしているのは、江戸時代の有名な絵師、円山応挙の描いた「幽霊図」ぐらいだ。 知っている人もいるだろうが、「四谷怪談」のお岩さんが醜い顔をしているのは、夫である田宮伊右衛門に、副作用で皮膚のただれる遅効性の毒を飲まされたからだ。つまり、お岩さんは生きているうちにあの崩れた面相になったわけで、お岩さんの幽霊はある意味、生前の姿で現れてくるのである。ところがこの「四谷怪談」以降、幽霊と言えば片側の頭髪が脱毛し、まぶたが腫れて垂れ下がった「お岩モード」が当たり前になってしまった。掛け軸にも多く見られるし、新しいところでは昭和の漫画「墓場の鬼太郎(ゲゲゲの鬼太郎の発端となる話)」で、鬼太郎の母親である「幽霊女」がこのモードを取り入れている。(ついでに言うと、父親はミイラ男。死んで腐った体から、子どもを見守りたい一心で死にきれない片目が抜け落ち、現在の「目玉のおやじ」になる。)ただし、お岩モードではないにもかかわらず、恐ろしい形相の幽霊も少なくない。これは当時、疫病で亡くなった人の遺体や、飢餓や老衰で衰弱して亡くなった人の遺体を参考にしたためではないかという説が有力だ。つまり死後の姿だ。目が白く濁っていたり、歯が妙に長かったりするのは、つまりそういうことなのだろう。そう言えば「古事記」においてもそういう場面がある。

 黄泉の国へ行った(亡くなった)妻のイザナミに会いたくて、出向いたイザナギが見たものは、腐れ果てて「ウミワキウジタカ」ったイザナミの亡骸であった、というくだり。日本の昔話って、妙にリアルというかエグい表現が多い。「因幡の白ウサギ」だって、よく考えるとがまの穂ぐらいでよく治ったなっていうぐらいの大けがだし、「かちかち山」の狸がおばあさんにした事なんて、ちょっとここに書けないぐらいすさまじい。肉食じゃない日本人の記述とは思えない。いや、肉食してたでしょう、多分。

 またまた話がそれてしまった。要は、「動画に写る霊のほとんどは、必要以上に恐ろしい姿をしてますよね」ということが言いたかったのだ。特に四つん這いなんて意味不明。まさか、今更「足がないから・・・」というわけでもあるまい。実際、足あるし。

 最後は撮影者の根性について。彼等は絶対撮り逃がさない。何があっても決定的瞬間はものにするし、ここでビデオ回してんのおかしいだろ、という瞬間にもカメラを止めることなど絶対に無い。まさに「カメラを止めるな!」状態だ。すごいっ!

  ・・・今思いついたんだけど、もし霊が生前の姿で現れて、そこにいる人たちが「あっ!おばあちゃんだ!おばあちゃーん!久しぶりー!」なんて言いだして、そこで撮影者が根性出して、「カメラを止めるな!」状態だったら、下手すると2時間枠では収まらない心霊ビデオが撮れてしまったりするんだろうか。「お盆 第2日」とか言って。やっぱり放送枠とか考えると、どんな根性カメラマンでもケツまくって逃げ出すような恐怖演出が必要なのかも。画像が乱れて撮影終了、みたいな。そっかー、なるほど、そういうことだったのか。ちゃんと先方にも考えがあってのことだったのね。

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 ダーティー・ヒーロー前夜

 アメリカン・ニュー・シネマというカテゴリーがある。60年代から70年代にかけてアメリカの若者がヒッピーなんかやっていた頃の、あるいはその直後の時代に作られていた映画だ。体勢に反抗する若者の生き様を描いたものが多く,その中で僕の生き方、考え方に大きく影響した映画が何本かある。

・ バニシング・ポイント                 ・ 暴力脱獄(クールハンド・ルーク)                   (「マーフィーの戦い」というのもあるがイギリス映画なのでアメリカン・ニュー・シネマではない。)

 どの映画も主人公は若者で、正しいと信じた自分の生き方を貫き通し、その為に最後には命を落とすことになる。多分後のダーティー・ハリーに代表される「ダーティー・ヒーロー」の前段階で、「わかるんだけれども、肯定は出来ない」時代だったのだろう。(ダーティー・ハリーの頃には少し時代が進んで、「わかる!オレ支持する!」と言える時代になっていたに違いない。(こっちも面白そうだな。後で別に書こう、ダーティーヒーローについて。)

  あらすじをくどくど書くのもどうかと思うし、そういうコーナーでもないので、興味があったら見てみて欲しい。ちなみに一番好きなのは「バニシング・ポイント」。カルト・ムービーとして知られており、今でもディスクが販売されているようだ。僕も2枚持っている。多分レーザーディスクも。今の若い人知らないでしょう、LD。(DVDの化石のことです。巨大化しすぎて絶滅しました。)

  僕は今でも、多分年に数回は再生する。今思い出しても・・ああ、コワルスキーの最後に見せるあの笑顔、支持しつつも止めようとするDJスーパー・ソウルの盲目ながら鋭い眼差し!おっと、話を進めよう。                    

 20代の頃、父と映画談義をしていたときにこの3本の映画のことを話した。その時父に「おまえは危険すぎる」と言われたことをよく覚えている。危険思想、という意味ではなく「死に急ぎそうで危ない」という意味だったと思う。その後すぐ、「清濁併せ呑む」という言葉を教えてくれたぐらいだから。当時の僕は思い立ったら何でもすぐ実行に移したり、納得のいかないことにはとことん反発したりと、結構やらかしていたので、心配してくれていたのだろうなあ。まあ死んでしまっては元も子もない、ぐらいの考えは僕だって普通に持ってはいたんだが。ただ、そういった生き方へのあこがれは確かにあった。自分にはそこまで出来ないことがわかっているからこそのことだ。          

 「バニシング・ポイント」では、自分の生き様をとことん貫き通した主人公は、微笑みながらバリケードに突っ込んでいく。ラストに流れるキム・カーンの歌がまた良い。「誰も彼を愛さない誰も彼を見ていない」(Seeが使われているので「理解していない」ともとれる)そう、そんなふうだったんだよあの頃は。  

 今でも面白くないことがあったときや、日常に飽き飽きしたときなどに引っ張り出してきて見る。すると何となく元気が出てきて、もういっちょ、やらかすか、てな気分になれる。なんか育ってないな、なんて思いながら、実はそれが嬉しかったりもするのだ。

バニシング・ポイント

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 「お国のために」再び

 時々政府が、日本の学力の平均点が国際的に落ちてきていることを問題にするが、僕に言わせれば大きなお世話だ。国際競争力を向上させるために教育内容を増やし、生徒はもちろん、学校の先生たちも点数を上げるために四苦八苦している。だがこれらの努力は生徒一人一人の幸せとどんな関係があるのだろうか。 平均点とはただのデータであって、その中にはすごくできる子もすごくできない子も含まれている。すごくできない子の中には、貧困が障害になっている子も少なくない。そのへんの手当はできているのか。さらに、教育ということを真剣に考えれば、学力が高ければ良いという問題ではないということは誰にでもわかる。現に学力が高くても、殺人を犯す中学生がいたではないか。平気で弱者をいじめる子どももいるではないか。学力の土台となるもの、そのひとつである公徳心とか人間性を、今の教育はきちんと身につけさせているだろうか。ここで言う教育とは学校教育に限った話ではない。家庭教育についても同じ事だ。僕の経験からすると、家庭にも学校にも、そんな余裕はない。メディアや教育産業が不安を煽るので、生徒や保護者は誰もが塾に通わなければいけないような錯覚に陥っている。ある極端な例では、子どもが帰宅する時刻は午前2時だ。このことに対して学校は何も言えない。営業妨害になる恐れがあるからだ。実際に訴訟問題も起きている。さらに学歴が低いことに対する偏見も根強く残っている。教師や親が子どもの前でうっかり口を滑らせて、学歴が低いとろくな仕事に就けない、などと口走る。ではろくでもない仕事とは?従事者の前で明言できるのだろうか。

  ある時、テレビで「今の若者は鶏肉がどんな鳥の肉か知らない」事を話題にしていた。下の娘(大学生)が       「なんであんな事がわからないんだろう?」         と言うので、僕はこう答えた。              「学校で教わらないからさ。」

 今の子どもたちは学校で授業を受け、部活動の後は塾へ行く。勿論全員ではないが、それが主流になっている。塾は部活動が終わる前に授業が始まる場合があって、当然生徒は部活動を休むか、中途で切り上げて、いそいそとお迎えの車の中へ消えていく。帰宅時刻はかなり遅い。帰宅した時には疲れ果てている。つまり、学力をアップさせるために、1日のほとんどの時間を費やしている。他の活動で知識を広げる余裕など無い。つまり、鶏肉がにわとりの肉であることや、鮭は切り身で泳いでいるわけではないことを教えてもらう機会も無いということだ。こんな常識的なことは、もちろんテストには出ないから、そんなこと誰も気にしていない。文科省、わかっているのかなあ。これが中学生の現状なんだよ。そういった問題に気づきもせず、学力の国際競争力を問題にする。「お国のために」、今度は人間形成に最も大事な時期を捧げろというのだろうか?もう一度言うが、学力という分野における国際的な競争に勝とうが負けようが、騒いでいるのは政府であって、子どもたち一人ひとりの人生にはたいした影響はない。やるべき事はもっと他にある。

 うちの娘たちと僕はとても仲が良い。だから話す機会も一緒に行動する機会も多かった。そんななかで娘たちは色々なことを覚えていった。もちろん鶏肉が何の肉かも知っている。僕は娘たちを塾へは行かせず、勉強も教えなかった。かわりに何のために勉強するのかを考えさせ、勉強の仕方を教えた。良い本を紹介し、素敵な映画を見せたりもした。そのことによって特に人より劣ることもなく、楽しく生活できているようだ。それで良いではないか。

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 僕らの夏を返せ!

 以前海外のメーカーが、プロペラのない扇風機(プロペラがないのだからこの表現は本当は間違いだ)を開発した。初めのうちは、 「へー、どんな原理なんだろう」 と、興味津津だったが、やがてある重大な欠陥があることに気がついた。そして、この欠陥は夏の少年少女たちの夢を壊しかねないものだった。僕らの夏を返せ!

 説明しよう。 僕も、そして貴方も多分、子どもの頃に一度はやったことがあるはずだ。プロペラ式扇風機のスイッチを入れ、その前に座る。そして、おもむろに、 「あーーーーーーーーー。」                と声を出す。もうおわかりだろう。その声はプロペラが空気を叩く衝撃波に影響され、                 「あ あ あ あ あ あ。」 と細切れになって聞こえる。誰に教わるでもなく、経験的に覚えていく遊びだ。だがプロペラがないと、この現象は起きない。もしこの海外メーカーの新型扇風機が、エアコンと相まって擡頭(たいとう)することになった暁には、あの遊びは子どもたちの夏から永遠に駆逐されてしまうことだろう。

 誰もめったに口にしないが、誰もが知っている、あの夏の風物詩がこうしてまた一つ消えてしまうのだろうか。断じてそんなことがあってはならない。今こそ我々は立ち上がる時なのだ。声を大にして、もう一度言おう。 「僕らの夏を返せ!」

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 シャミという名の猫

 シャミという猫とのつきあいは、「おかあさん」(うちに居着いたノラ猫の名前)に次いで長い。そして「おかあさん」が亡くなった(このことについては、後ほど別に書く)今、シャミは我が家と最もつきあいの長い猫となった。多分11歳。それなりにおばさんであるが、なかなか元気である。シャミは2011年、震災の年の6月に家の中で4匹の子どもを産んだ。これは家猫として飼っている。シャミの母親は、とっくに亡くなった(らしい)ノラの「クロ」か、あるいは「おかあさん」で、シャミ自身はその頃庭で遊んでいた子猫のなかでは一番臆病でなつかなかった。他の3匹が遊んでいるあいだ、シャミはいつも物陰から様子をうかがっているのだった。やがて子猫たちは一匹、また一匹と巣立って(?)いき、最終的にはシャミだけが残った。その頃にはさすがにシャミもなつき、家の中にまで上がり込んでくるようになっていた。2011年3月、東日本大震災の後、良くある例にもれず、パニックになって、どこかに姿をくらましてしまった。だが、そろそろ一ヶ月、というときになって、シャミは帰ってきた。初めは警戒して遠くから様子をうかがっていたが、僕の姿を見て一目散に走ってきた。そしてその6月に、シャミはあろう事か、家の中で4匹の子を産んだのだった。その子どもたちも、だからもう8歳になる。かわいこぶってる割にオジン・オバンである。

 シャミは子育てを終えると、家に居着いて外飼いのペットのようになった。シャミは三毛のけっこうな美人猫で、家の中に泊まることも多くなった。時には僕のベッドにまで上がってきたが、美人なのでつい許してしまった。当時は職場でよく、 「昨日は妙齢の美人がベッドに上がってきてさ・・・」 なんてつまらんジョークを飛ばしたものだ。

 そんなシャミとはよく散歩をする。僕の住んでいる地域は地方都市の一角だが、時の流れにおいて行かれたんじゃないかと思うくらいに農地が多い。近くには神社(人のいない小さなもの)もあって、この環境がここに家を建てた理由の一つだった。

 夏の夕暮れ時など、僕は娘とよく散歩に出かける。その神社までの農道を娘たちと一緒に歩き、賽銭をあげて帰ってくるのがおきまりのコースだ。すると待っていたようにシャミがどこからともなく現れ、尻尾をまっすぐに立てながら僕たちのお伴をするのだ。 

 神社に着くと、シャミは境内の大木によじ登ったり(いいのかなあ)、賽銭箱の前でごろごろ転がったり(本人としては砂浴びのつもりなのだろう、家族はこれを「奉納の舞」と呼んでいる)して、気が済むと僕たちと一緒に家まで帰ってくる。このとき一緒に家に入ればお泊まりコースになる。入らないときは翌朝まで夜遊びコースだ。 そして夜明けとともに入れろと騒ぐ。こんな生活を8年も続けているわけだ。近頃では、年齢のせいかシャミも気むずかしくなり、尿路の病気もあって扱いにくくなってきた。が、「おかあさん」がそうであったように、この関係はお迎えが来るまで続くだろう。ちなみに、シャミという名前は三味線に由来している。つきあいが始まった頃に、家の中のそこかしこで爪研ぎしているのを見て、 「こら!馬鹿やってると三味線にするぞ!」 と叱ったのがきっかけだった。我ながらすさまじい名前をつけたものだ。今ではすっかり慣れっこになってしまい、家の中にはシャミの爪研ぎ場が4~5カ所ある。

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 プジョー505という車

 僕はプジョー乗りである。初めて乗ったのは80年代の505GTIだった。406のページでも書いているが、ピニンファリーナによる流麗なデザインが第一の動機だった。504から受け継いだ吊り目の異形ヘッドライトにも魅力を感じていた。つまり、形で選んだのだ。

 資金難ではあったが、無理を承知で中古車を購入し、実際に乗ってみて驚いた。何この車。まず足回りが良い。まあプジョーのことだからこれは当然と言えば当然か。次にハンドリング。遊びがほとんどない。にもかかわらずスムーズに操舵する。絶妙なフィーリングだ。形から入ったので乗るまで知らなかったことが山ほどあった。調べていくうちに色色なことがわかってきて、惚れ直してしまった。特にタコ足の配管(マフラー)やノンスリップデフなど、説明書には何の記述もなく、ディーラーも知らなかったぐらいだ。

 当時、車の評価に関しては辛口の部類(と思われる)のCGにも記事が載っていて、その中に次のようなことが書いてあった。

 「レストランでオリーブの実が皿にのって出てきた。何の変哲もないオリーブの実である。しかし、食べてみてその真価がわかった。」

  そしてその後に、そのオリーブの実がどれほど手間を掛けて調理されたものかが説明されている。505はそんな車だ、というのである。そういえば僕の乗っていた505もオリーブグリーンのメタリックだった。関係ないか。

 こんな記事も読んだ。「もう少しで家に着くというときに、もう一回り走ってこようかな、と、そんな気分にさせてくれる。」つまり運転していることが心地よい、というのである。これは僕自身、何度も経験した。そして極めつけは、あるワインに関する本に書かれていた一文。ちなみに本の題名は「ワイン通が嫌われるわけ」。

 これは面白い本で、架空のワインスノッブたちが蘊蓄(うんちく)を語り合うなかで、ワインの知識が読者に紹介されていくという凝ったスタイルなのだが、このスノッブたちがフレンチレストランに集まり、「もっとも味のある車は何か?」というテーマで議論するくだりがある。ベンツだ、いやジャガーだろう、サーブも捨てたもんじゃない、などと話が尽きない。そしでこう書かれている。「ようやく話がプジョーの505だろう、というところに落ち着いた。」 ほーう!ここに出してくるわけね。

 これだけワインスノッブを集めて会話させているのだから、そこに505を出してくるからには、筆者はよほどのこだわりがあったに違いない。しかし、残念なことにこの本の主役はワイン。従って、それ以上505に関する記述はない。だが何か嬉しい気がする。もっとも、この話にはオチがある。この場面の最後に、一番のスノッブ、嫌われ者だが誰もこの男を論破できないので一目置かれている、という人物が遅れて店にやってくる。メンバーの一人がすかさず彼に聞く。「ところで、君はいったいどんな車に乗っているんだい?聞かせてくれないか?」すると、彼が答えて曰く「うん?ロールス・ロイスさ」

 ちなみに505GTIを12年乗ったあと、406を20年乗り続けている僕は、今でも505について調べることがある。あるとき、ネットでこんな書き込みを見つけた。彼は酔った勢いで,ネットオークションに出ていた505を落札したのだが、僕と同じように乗ってみて惚れ込んでしまったらしい。特に彼が納車後友人を乗せて帰宅する時に、「おい、おまえちょっと運転してみてくれ。」「なんで」「いや、この車なんかすごいんだ。」みたいな会話があって、これが僕にはすごくよくわかるのだ。

 505に惚れ込んだ彼は、この後しばらくこの車に乗り続けるのだが、次第にあちこち不具合が出てきて手放すことになったらしい。(ちなみに僕の505は205オーナーの友人が怒りだすほどノントラブルだった。)505と別れるときに「ごめんね、505」と書き込まれていて、この気持ちもすごくよくわかった。実は、2016年に406クーペを購入するまで505はうちにあったのだ。つまり、406セダンに乗っている20年間のうち、18年間は505を維持していたわけだ。ナンバーはすでになかったが、エンジンは動かし続けていた。今でも4カ国語の取扱説明書だけは大事に所有している。ちなみにストリートビューでは駐車スペースに今も505が映っている。 さすがに3台を維持するのは無理だし、第一もう部品もないということで、結構悩んだ末のことだった。今でも機会があったら、もう一度所有したいと思う。特にネットで綺麗な車体を見つけたりすると「おー!」とか思う。そして「SOLD OUT」の記事を見て「くそっ!」とか思うのだ。僕が乗っていたのは505GTIの前期型だ。時代に合わせて変な装飾を付け加えた後期型より遥かにエレガントな車体(室内も)だった。もうあの感覚は二度と味わえないのだろうか。ちなみに、505はプジョー最後のFR車であった。

 505 GTI 1984年式 2.2Lモスグリーン・メタリック 2012年の写真。タイヤの空気が抜けてしまっている。この車にタコ足とノンスリップ・デフだなんて、信じられます?

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 プジョー歴

 プジョー406V6という車に乗っている。セダンタイプの前期型だが、故障らしい故障もなく、乗り始めてもう21年になる。9年前に、一度オールペンしてドアの内張を貼り替えた。ついでに曇っていたヘッドライトも交換した。その他にもいろいろやって、80万円ぐらいかかった。でも当時出たばかりの407に乗り換えるより遥かに安かった。そんなわけで、知っている人が僕の車を見ると、 「綺麗な車体ですねえ。」 と、褒めてくれる。まあ、当たり前だ。  

 この全面改修は、そもそも10年目で買い換えようかと思っていた僕に、二人の娘が抗議の声を上げたのがきっかけだった。慣れ親しんだ車を、まだ十分走るのに買い換えるのは嫌だというのである。407シリーズのラインナップにグリーンのボデイカラーがないことも大きかった。僕の406は綺麗なグリーンで、娘たちはそのグリーンがとても気に入っていたのだ。先にも書いたように、この車を購入したのは21年前。初めて新車で購入した車だった。もうほとんど見かけないが、逆に目立っているかもしれない。なにしろ、今どき33(2桁ですぜ、2桁!)ナンバーである。ささやかな自慢のネタだ。この車が齢19歳を迎える頃、ふと考えた。あと10年は乗りたいな。だとしたら、セカンドカーが必要かな?妻に了承を得てディーラーに相談に行き、退職間際のKさんという販売員に406クーペを探して欲しいと頼んだ。実を言うと、もともと考えていたのは、次の世代の407クーペだった。セカンドカーなら新しい車体の方が適当と思われたからだ。しかし、発売してすぐに実車を見た時、デザインがあまり気に入らなかったことを思い出した。気に入らないデザインの車に、義理で乗るというのはいかがなものか。お互いに辛いものがあるのではないか。そこで、思い切って406クーペ。こいつはもとよりピニンファリーナによる素晴らしいデザインだ。だがしかし、馬鹿かお前は。21年車のセカンドカーに、どんなに新しくても14年オチの車?うーん、確かにそうだよなあ。税金だって高いし、修理だって大変だし。しかし、実は根底に、それを補って余りあるほどの大きなモチベーションが働いていたのだった。 そもそもメインとなるセダンを買う時に、クーペのことはすでに知っていた。カタログも手に入れ、そのサイドビューを眺めてはうっとりしていたものだった。ブレーキにはブレンボ、シートにはレカロが標準装備され、何よりも車体側面とダッシュボードにはピニンファリーナのバッジが(製造もピニンの工房だから)・・・。おかげで車体価格はセダンに上乗せ100万円。おまけに子ども二人のファミリーユースを考えるとどうしたって4ドアの方が使い勝手が良い。誤解されないように言っておくが、セダンはセダンでとても気に入っている。かの505から受け継がれたウエストラインの処理など、見事なものだ。下の娘なんか、クーペより美しいと言っているぐらいだ。だから、セダンはセダンでもう10年を目標に考えている。それぐらい気に入っているのだ。問題はその車齢と部品の供給だ。

 プジョーというのはフランスの自動車メーカーで、平凡な車を作ってチューニングで魔法をかけてくる。チューニングが限界なら装備で性能アップ。良い実例がある。そもそも僕のプジョー歴は34年。最初に乗ったのは505GTI。デザインはピニンファリーナが担当していた。エレガントだが、504から受け継いだ吊り目のヘッドライト以外、これといった特徴の無いセダンだ。しかし、この車がすごい。詳しくは別のところで書くので割愛するが、ヨーロッパではかなりの評価を得ていて、タコ足とノンスリップ・デフが標準装備されていた。これは日本のディーラーも知らなかったことだった。何しろカタログデータには何も記載が無いのだから仕方が無い。そういうことを何食わぬ顔で普通にやってしまうのがプジョーなのだ。505シリーズはプジョー最後のFR車だったこともあって、ドライブフィーリングは群を抜いていた。カミさんの車を含めるとかなりの車種に乗ってきたが、505GTIを超える車には出会ったことがない。(家族の所有していたベンツやジャガーを含めても、だ。)ああ、今からでももう一度乗りたいなあ。

 話がそれた。406である。クーペのデザインを手がけたのは、ダビデ・アルカンジェリというデザイナーで、ピニンファリーナでは若手の新進気鋭だったそうだ。残念なことに彼は406クーペを仕上げた後しばらくして急性白血病で急逝してしまった。彼は406クーペを最後まで妥協せずに、しかもほぼ一人で完成させた。当時ピニンで一緒に働いていた奥山さん(著書「フェラーリと鉄瓶」参照)に言わせると、「だからデザインにブレがない」のだそうだ。どうせ手に入れるなら、そんな曰くのある406を、と思ってブルーライオンのKさんにお願いしたのだ。何しろ希少な車で、総輸入台数で1,000台ぐらい(という記述をどこかで見た)、それが販売終了から14年たっているのだから、状態の良い車体はそう簡単には見つからないだろう。そう考えた僕は、「1年待つ覚悟で」とKさんにお願いした。すると、Kさんが言うには、たまたま紹介できる車体が今2台あるというのだ。なんというタイミングだろうか。しかも2台。しかし現実はそう甘くない。こちらの条件は前期型の 左ハンドル。ところが紹介してもらったのは前期型の右ハンドル(60,000㎞)と後期型の左ハンドル(90,000㎞)。 僕は505の時から数えると34年間左ハンドルに乗っている。今更右では左の間隔が危うい。さらに後期型はフロントのエアインテークの形状がマイナーチェンジで少々下品になっている。もっと言うと、ブレンボのブレーキシステムは前期型のみ。結論から言いましょう。両方買ってしまった。だって安かったんだもん。30万と60万。そういったわけで、後期型(こちらの方がコンディションも良かった)に前期型のフロントバンパーとブレンボのキャリパーを移植して、なんちゃって前期型の左ハンドル(程度:良)が完成したのである。しかも部品取り車のおまけ付き。それにしても今回の、このタイミングは奇跡に近いなあ。しかも後期型を購入した時はほんとに嘘みたいな状況で、見せてもらいに行った時に、もとのオーナーさんが「見てると売りたくなくなるかもしれないから、買う気なら今日持って行っちゃって」というので、持ってきてしまった。「1年待つから探して」とお願いしてからわずか1週間後のことであった。ちなみに右ハンドル車はKさん自身のコレクション。だから余計安く買うことができたわけです。  

 こうして406クーペはめでたくうちの車の仲間入りをした。運命を感じる出会いだったなあ。でもその後は苦労の連続で、結局その後の2年間で90万円ぐらいはかかった計算だ。救われたのは車検が交互に2年おきということ。この古さの輸入車を1年に2台ではさすがに通帳がパンクする。 ついでにエピソードをもう一つ。Kさんから購入した前記型右ハンドル。実は後期型だということがわかった。マイナーチェンジの時にほんの短期間だけ、前期型のブレンボ装備の車体に後期型エンジンを積んだ車体が販売され、希少な存在として中古市場では大人気だった。僕の手に入れたのはこの車体だったのだ。えー、もうバンパーとブレーキばらしちゃったよー。でも右ハンドルだからまあ仕方ない。シートもかなり傷んでたし(後期型のシートはほぼ無傷だった)。ちなみにこのことを知っていたらKさんは売らなかったのではなかろうか。その翌年Kさんは退職し、今は趣味の庭いじりに精を出しながら元気にやっているそうだが、会う機会にはまだ恵まれていない。もし会うことがあっても、このことは内緒にしておこうと思う。

406クーペ(後期) ブレンボとバンパーカバーを中期型から移植。後にいるのがセダン。
406クーペ(中期?希少車)左:コチャ(うちの猫)  右:そのBF
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 シャミとその子どもたちについて

 シャミとは半ノラの猫の名前である。うちと関わるようになって10年になる。半ノラといっても、最近は高齢のためか外に出ている時間がめっきり少なくなった。  東日本大震災の直後、シャミは家の中で4匹の子どもを産んだ。家族で相談し、2匹を残して2匹を里子に出そうということになった。ところが、である。家人一人一人がそれぞれ気に入った猫がバラバラで、話が全く進まない。確かに、どの子猫もそれなりの個性があって、捨てがたいものがあった。そんなこんなでずるずると月日がたち、「かわいー!」と言ってもらうには少々無理がある様相を呈してきた。結果、なし崩し的に4匹を飼うことになってしまった。娘たちが小遣いからエサ代の一部を捻出することが条件だ。その頃には何となく呼び名も決まってきた。しかし正式な命名ではなかった。ゆくゆくは家から出て行くかもしれない猫に名前をつけるのもどうかと思ってのことだった。

 三毛のメスがタイショー(軍人の階級の方だ)。すごく甘ったれで、光の反射や飛んでいる虫を追うのが大好き。 それよりでかいツラをしているいたずら好きの白猫がゲンスイ。オス。白といっても耳と尻尾にうっすらと茶がかかり、「トースト」でも良かったかな、なんて思っている。 いつもグータラなわりにはイケメンのヘタレ。オス。耳のあたりと尻尾に黒い班がある。なぜか異国情緒のある毛並み。 そしてグレイ。オス。小さい頃は掴み所の無い灰色だったが、成長するにつれて上品なグレーの毛並みに。

  さて、飼うと決まれば無責任な飼い方はできないので、早速ワクチンを。獣医に連れて行くのも一度に二匹ずつの2往復。ここで問題が発生した。

「カルテをつくるので猫ちゃんたちのお名前を教えてください。」                           「はい?」                       「猫ちゃんのお名前を・・・。」            「・・・グレイ。」                   「はい。それから?」                   「・・・タイショウ」                  「はい?」                       「タイショウ。軍隊の」                  「・・・はい。それから?」               「ゲンスイ。これも軍隊の」                周りにいる人たちがこっちを見ているのがわかった。    「わかりました。それで、最後の子は?」       「・・・ヘタレ。」                 「・・・ヘタレちゃんですね。・・・ありがとうございました。」                          

 冷や汗ものである。とにかくこうして、書類上の名前がめでたくきまっ(てしまっ)たのだった。後に病気をした時など、薬袋に「ゲンスイちゃん」だの、「タイショウちゃん」だの、部隊が全滅しそうな名前が書かれていて、何とも微妙な気持ちになることもしばしばだった。残念ながらもう亡くなったが、晩年ケガをしていたためにうちで保護した老ノラが、子を産むたびにうちに来て子連れでエサをせがむので、「おかあさん」という名前をつけた時など、薬袋に「おかあさんちゃん」と書いてあって、「これ、誰?」みたいな感じだった。皆さん、ペットの名前は真面目に考えましょう。

 それまで知らなかったのだが、動物病院ではペットにちゃん付けで呼ぶのが習わしのようで、会計の時も、 「ゲンスイちゃーん」 とか 「おかあさんちゃーん」 などと呼ばれる事がある。ああ、他人のふりをしたい。 「おかあさん」のエサを買う時のエピソードは別に書くが、人前で「おかあさんのご飯買わなきゃ」などと言いながらペットフードを買うことは、勿論あれ以来していない。

           ・ゲンスイ
              ・タイショウ ・ヘタレ   
       ・グレ(グレイ)               
     (・・・なぜかヤンキーの記念撮影みたいになってしまった。)