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 ボックスアートの価値

 僕がプラモ好きなことは以前からお伝えしていると思うが、最近Youtubeでだったかな、同じくプラモ好きの中年男性がこんなことを言っていた。「ボックスアートがカッコよければ、キットの出来が悪くてもあまり気にならない。そうなんですよ。キットよりボックスアートなんです。」

 これは僕にとってすごく共感できる話だ。もしかすると同年代のプラモマニアは、そのほとんどが同意するかもしれない。ちなみにここで言うボックスアートとは、プラモデルの箱絵のことだ。

 僕が子供のころは、完成品の形が実物とまるで違うようないいかげんなキットが数多く存在した。いわゆる子供だましの「オモチャ」的なもので、かといって大人向けの「模型」であっても、そのままではまともに組みあがらないキットもあり、ちょっと油断すると接着面がずれたり隙間が空いたりすることはしょっちゅうで、ひどいときには爆撃機の機体がねじれていて、どうあがいても左右のパーツが接着できない、なんてこともあった。

 今だったら大炎上ものだが、当時は取り換えてもらうか泣き寝入りするしかなくて、それが当たり前みたいに思っていた。それでもかっこいいボックスアートが手に入れば、絵の部分を丁寧に切り取り、壁に飾ったりして、それで6割がた満足していたような気がする。

 逆にボックスアートの出来が悪いと、キットの良し悪しにかかわらず購買意欲がわかないことが多く、こうしてみると、買う側はもちろん売る側にとっても、ボックスアートの出来は売り上げを左右する重要な要素だったに違いない。

 有名なプラモデルの箱絵師に、戦車プラモのボックスアートで有名な高荷義之という人がいる。彼の描く作品はたくさんの脇役(軍用車両や兵士たち)によるドラマチックな演出が特徴だったんだけど、アメリカではキットに入っていないものをボックスアートに描くとクレームがつくということで、日本製プラモデルの輸出が盛んになると、発売当初は戦車とともに描かれていた機関銃を構える兵士や随伴するサイドカーがいつの間にか消え(※)、同じキットに細部の異なる2種類のボックスアートが存在することになった。

 さらに価格改定時にボックスアートそのものが変更されることもあり、中古プラモ市場では、状態さえよければ古いボックスアートのキットのほうが高値がつくことが多い。

 例えば僕が5年ほど前に手に入れたタミヤの1/35パンサー戦車のリモコン版(初版・後期)だが、これはボックスアートが大西将美という、これまた有名な箱絵師の初期の作品で、発売当時(1968年)850円だったものを2万円ほどで購入した。今、同じものをネットで探すと6万円以上の値がついている。一方同じキットでありながら、1974年発売のボックスアートが新規のもの(当時1,300円)は今も2万円ぐらいで手に入れることができる。

 ところでこのキット、箱を開けてみると、パーツやランナーが緩衝材で包まれていて、一見何がなんだかわからない。輸送時に部品を保護するために梱包したんだろうけど、売り手側の「貴重なものなんですよ」という気持ちは伝わってくるものの、この感覚は子供の頃の、プラモの箱を開けた時の心躍る気持ちとは全く別のものだ。いくら希少性が高いとは言っても、これはちょっとやりすぎじゃないの?という気がする。「間違っても作ってはいけません。末永く大事に保管すること、それがあなたに与えられた使命なんですから。」そんな声が聞こえてきそうだ。こんなことされたら作れないよなあ。でもさっき書いたように、ボックスアートが手に入っただけでほぼ満足だから、別に作らなくてもいいっちゃいいんだけどね。

 僕にとってプラモはあくまでもプラモでしかない。そしてボックスアートは間違いなくその価値の大部分を占めている。それは子供の頃の思い出や憧れを買い集めるようなもので、投資などという大人の都合が入り込む隙は微塵もないように思うが、世間の見方は少し違うようだ。

 もし仮に、今手元にある中古プラモのコレクションをすべて売り払ったら、おそらく買い取り値でも20~30万円ぐらいにはなるだろう。20年もすれば50万円を超えるかもしれない。だからと言って、遺書に「困ったときにはこのプラモデルをお金に換えて、生活費の足しにしなさい」なんて書くのは、なんか違う気がするなあ。

※ パソコンなど無い時代だから、箱絵師が絵の具で上描きして修正していた。よく見るともとの絵柄がうっすら見える、なんていう例もある。

 タミヤのパンサー戦車。初版の大箱(大西将美 画)。現在6万円ぐらい。この独特な色使いが何とも言えない雰囲気を醸し出している。
 改訂版の小箱(高荷義之 画)。こちらは現在2万円前後。中身は同じものなんだけど、このリアリズムに徹したボックスアートも欲しくて、結局両方とも購入した。僕が買ったときはどちらももっと低価格だった。
 左が初版(大箱)、右が改訂版(小箱)。左の箱の緩衝材は業者が気を利かせて(?)入れたものらしい。見てのとおり、大箱の頃はブリスター・パッケージを使った豪華版だった。

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 庭に新しい客が…。

 5月に入ったある日、庭でやたらに技巧的(?)な鳥の鳴き声がした。今までに聞いたことがない声色で、定型があるというよりは思いつくまま、気ままに鳴いているという感じだ。いい声だがやたらと大音量で、聞きようによってはやかましい気もする。以来庭や近所でよく鳴いているのだが、なかなか姿を見ることができない。

 ある朝その鳥が、スズメのために庭に撒いた冷蔵庫のご飯を食べに降りてきて、やっとその姿を見ることができた。全身赤茶色で嘴は黄色。目の周りに白い縁があり、それが目じりから尾を引くように伸びている。真っ先に連想したのはツタンカーメンの黄金のマスク。あの目の周りにある青いライン、あれを白くしたような感じだ。それ以外にはこれといった特徴がない。なんにせよ初めて見る鳥だ。

 声ばかりでなかなか姿を見せず、写真が撮れなかったので、記憶を頼りにネットで調べてみると、どうもガビチョウという鳥らしい。漢字で書くと眉美鳥。なるほど。眼の縁の白い部分を眉になぞらえたのか。さえずりが美しい、とも書いてあるな。1970年ごろの鳥ブームの時に、その鳴き声を鑑賞するために中国から輸入されたもので、籠から逃げた個体が野生化して繁殖したという。でも僕が思うに、あの声量では室内で飼うにはうるさすぎるし、体色が地味で姿を鑑賞するのには向いていないから、故意に放たれたものも多いんじゃないかい?ブームが去った後、始末に困った業者が放鳥した、なんて話もあるぐらいだから。

 現在日本では特定外来種に指定されていて、農作物の食害や、その大音量のさえずりが騒音ととらえられたことで、害鳥とされているんだって。ほら、やっぱりうるさいんだよ、誰が聞いても。実際、50mほど離れた林の中で鳴いている分には「おお、美しいさえずりじゃないか」などと吞気なことを言っていられるが、これを庭の植え込みでやられると、確かに騒音に近い。しかも1度鳴き始めると、結構長い時間鳴き続ける。他でやってくれと言いたい。でももとはと言えば日本人が金銭目当てで輸入したんだから、ガビチョウに非はない。勝手に連れてこられて、知らないうちに害鳥に指定されるなんて、ガビチョウにしてみればいい迷惑だろうなあ。

 写真が撮れなかったのでスケッチにしてみた。最近あんまり描かないのでありあわせの画材しかなくて、ネットの画像をもとに水彩画用紙に水性色鉛筆で描いた。水はあえて使っていない。
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 もしかして、それって○○かも…?

 最近聞いていてイライラする宣伝文句がある。「もしかして、それって○○かも」というやつだ。○○の部分には病気の症状や名称が入る。そして「だったらこれ!」と、医薬品やサプリメントを紹介する。

 この「もしかして○○かも」という文言には二つの含みがあって、「効果があるかもしれないから、とりあえず買って使ってみては?」というお誘いと、「効かなかった?じゃあ○○じゃなかったということですね。でも断言はしなかったでしょ?」という言い訳が隠れているように感じる。どちらも売る側には好都合だ。

 もう一つ、使用者の「喜びの声」を伝えながら、「個人の感想で、効果を保証するものではありません」と、ことわりの言葉を添える、というパターンもある。すげー違和感。だったら個人の感想なんか伝えなければいいのに。

 考えてみると、一般的な医薬品の宣伝文句は、昔から効能について断言するスタイルのものが多かった。特に印象深い総合感冒薬のCMに、「かぜの諸症状によく効きます」という決まり文句があった。「かぜに効きます」ではなく「かぜの諸症状に…」と言っているところがミソで、抗生物質が含まれていないから、事実かぜそのものを治す効能はない。だから思わせぶりなことは言わず、「咳、発熱、頭痛などの症状を抑える」という事実だけを伝えているわけだ。これになぞらえて考えると、先ほどの「個人の感想」は「気の持ちようが変わります」ということになるのかな?うーん、さすがに使えないか。

 冒頭で紹介したようなあいまいな表現は、特にサプリメントのCMに多い。これらの商品のなかには、それなりの機関が検査した結果、CMで謳っている効能に何の根拠もなかったり、ひどい例では健康被害事件にまで発展したものもある。そんな時代に商品を売る側が、CMであいまいな表現をするのはどうかと思う。それが医薬品やサプリメントのCMならなおさらだ。少なくとも僕は「それって○○かも」なんてことを言われたら、「売る側がよくわからないんじゃ効果を期待しろと言われてもなあ…」なんて気持ちになってしまう。だから買わない。ほかの人たちはどう感じているのだろうか。

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 なぜか忘れられない

 最近また思い出した。取るに足らない、でもなぜか忘れられない記憶。思い出すたびに微笑んでしまう。あの二人は、今頃どうしているだろうか。

 それは20年以上前、カミさんと僕が新婚旅行に行った帰りの飛行機でのことだった。僕たちが乗っていたのはDC-10というかなり大型の機体で、座席は横が2ー5-2列の配置だった。僕たちは機首に向かって右側の2列席に座っていた。

 カミさんは当時から乗り物に乗るとすぐに眠ってしまう人で、このフライトでも、僕がタイガを眺めたり映画を見たりしている間、ずっと眠っていた。少々あきれ始めた僕がふと機内に目をやると、同じ列の5列席の中ほどに欧州人と思しき若いカップルが座っていて、やはり女性が眠りこけている。男性が立ち上がって彼女の毛布を直そうとした時、それとは無しに眺めていた僕と目が合った。僕が眠っているカミさんに目をやり、軽く肩をすくめて見せると、彼もそれに応えるように肩をすくめ、(まったく、困ったもんだよね)とでも言うかのように苦笑いをした。

 不思議なことに、その後の彼らの記憶は全くない。同じ成田で降りたはずだが、降りる準備をする様子も、最後にあいさつを交わしたかどうかも覚えていない。ただ、肩をすくめた彼の姿だけが記憶に残っている。

 それだけのことなのだが、どういうわけか何年かに一度、何の前触れもなく思い出す。そしてそんな些細なことでさえ、自分の人生の一部であることに驚く。

 あれから長い年月が過ぎた。彼は今、どこで何をしているのだろう。時折、僕のことを思い出したりするだろうか。元気でいるといいが。