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 25年目の車検

 下の娘がこの4月で25歳になった。ということは、生まれた年の3月に買ったプジョー406も26年目に入ったわけだ。思えばここ5年ほど、クーペ、ブレーク(ステーションワゴン)、スポーツ(マニュアル)、マイナーチェンジ版も含めて、他の406を見たことは1度も無い。これはもう、一種の希少車だ。

 うちの406(セダンV6 3.0ℓ)は、最近車検を終え、今も元気によく走る。だが勿論不調が無いわけじゃない。持病のパワステオイル漏れは今も続いているし、エンジンフードはつっかえ棒をしないと開いた状態をキープできない。トランクはオートロックが働かなくなったので貴重品は入れておけないし、最後まで押し上げないとフードが勝手に落ちてくるので2度ほど頭をぶつけたことがある(今はもう慣れた)。10年目に全塗装したボディも、また白いムラが浮き出している。そのほか内装パーツの変形や崩壊(プラの劣化)に加えて、最近助手席の窓が開かなくなった。だが走りに支障を来すような故障は今まで1度も無い。平成28年に(買っちゃった♡)というノリで手に入れた406クーペは修理せずに1年過ごせたことなんか無かったし、10年を待たずにミッションが不調になり、以来車検を切ったまま。それに比べれば、なんて良い子なんだろうと思う。スポーツカー並みに切れの良いハンドリングや、よく「猫足」と表現されるサスペンションの挙動は、多少衰えは感じるものの、今も健在だ。

 勿論苦労がないわけではなくて、純正パーツがほぼなくなった今では、中古部品を探したり、それでも無いパーツはでっち上げたり他の車種のものをうまいこと流用したりしている。こうした作業にはプジョーのエンジニア、Nさんの存在が不可欠だ。ぼくに言わせれば、彼は一種の天才で、諦める、ということを知らない。僕は僕で、いつの間にか中古部品やバッタもんまで扱うショップの常連になっていた。ところでNさんと僕には一つ共通の趣味がある。どちらもプラモデルが好き。だから、彼が手に入らないパーツをでっち上げたり流用したりする感覚が、僕にはよくわかる。モデラーの常套手段だからだ。

 今回の車検では、僕が「ここのパーツ、色が少し違うんでタミヤカラーのフラットアルミで塗ってあるんだけど、洗車機、大丈夫かな。」なんて相談したら、「ああ、俺も自分の車、一カ所タミヤカラーで塗ってありますよ。ハイマウントの色が明るすぎて気に入らなかったんで、クリアーのダークレッド吹きました。」この「吹きました」というのはエアブラシで塗った、という意味だ。「洗車機もオッケーだったんで、結構塗膜強いみたいです。タミヤカラー、全然使えますよ。」そーですか。わかりました。

 勿論今後に不安が無いわけではないが、次の車を考えようにも、欲しい車が浮かんでこない。プジョー自体もデザインコンセプトが大分変わってしまい、許せるのは208ぐらい。何しろいまだに505が操作性・デザインともに最も優れたプジョーであった、と考えている人間だからね。あの頃はピニン・ファリーナがデザインを請け負っていたので、エレガントで味のある車が多かったんだけどなあ。

 ネット上のレビューを見ると、406は名車である、という評価と、故障が多いのでお勧めしません、という評価がはっきり二分している。オーナーの価値観の違いや、個体の「当たり外れ」の問題だと思う。特に「当たり外れ」は外国車にはよくあることだ。そう考えると、うちの406は当たりの部類だろう。ということは、つまり名車。

 とりあえず、今の目標はあと5年維持すること。勿論その後も、どこまで一緒に行けるか挑戦するつもりでいる。ということでNさん、これからもよろしくね。

 2020年ごろ撮影。この頃はまだ塗装もきれいだった。

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 袋田に行ってきた

 先週、袋田に行ってきた。そう、日本三大名瀑の一つ、「袋田の滝」がある、あの袋田。自宅から車で1時間半ほどの距離なので、数年に一度は訪れる。というのも、滝の近くに「昔屋」という美味い蕎麦屋があるんです。ちなみに蕎麦はこのあたりの名産品。その店では同じく名産である蒟蒻の刺身や田楽も食べることができる。それともう一つ、「豊年満作」という、ちょっと変わったネーミングの温泉旅館があって、ここで売っている手作りのアップルパイと温泉饅頭も美味しい。

 今回袋田に足が向いたのは、実は夢に蒟蒻の味噌田楽が出てきたことがきっかけだった。よくある話で、一度頭に浮かぶとどうしても食べたい。僕のなかでは、蒟蒻といえば袋田だ。「行くか?」と家族に声をかけたところ、「よし、蕎麦を食べて饅頭を買おう」と返事が返ってきた。名瀑見物は事のついで、というわけだ。まあ、それも良いか。どうせ滝の様子はこの先何百年経っても大して変わらないだろう。

 少し早めに家を出て、新緑が芽吹き始めた山並みを眺めながら、車で走ること1時間半。10時前には滝の近くの町営駐車場に車を止めることができた。近くといっても、滝までは歩いて10分ほどかかる。

 歩き始めて気がついた。この道、音がしない。小鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてくるだけで、人工的な音が全く聞こえない。平日で時間が早いせいか、あたりに人影はなく、車もほとんど通らない。時折聞こえる小鳥のさえずりが静寂を強調しているようにも思える。この「静けさが聞こえる」感じ、滅多に経験できるものじゃない。自ずと歩調もゆっくりになっていく。

 忘れていた何かを思い出させるような、そんな静けさに包まれながら山間(やまあい)の道を歩いて行くと、遠くから川のせせらぎや土産屋が開店の準備をしている音が聞こえてきた。それはそれでなんとなく楽しい。よし、次に来る時もこの時間帯を狙おう。

 さっさと滝を見物し、遊歩道を少し歩いたあと、お目当ての蕎麦屋で少し早めの昼食を摂った。僕は山芋とろろ蕎麦(冷)、カミさんは元祖けんちん蕎麦(温)、娘は奥久慈シャモの地鶏蕎麦(冷)を頼んだ。相変わらずここの蕎麦は美味いなあ。茹で加減が絶妙だ。小諸の名店「草笛」にも負けていないと思う。だが残念なことに鮎の塩焼きは今日は欠品。えー、目の前の川を泳いでるじゃんか。でも鮎の解禁は6月だから、捕まえて食うわけにもいかないな。あ、勿論蒟蒻の味噌田楽は食べましたよ。何せ夢にまで見たからね。

 食事のあと、例の温泉旅館に寄ってアップルパイを買った。このアップルパイはなぜか駐車場の仮設スタンドで売られている。初めて買ったのは10年以上前。それ以前のことはわからないが、息が長く、周辺で同じ袋を持ち歩いている人をよく見かけるので人気商品なのだろう。その後饅頭を買おうと館内の土産物売り場に行ったのだが、これがなぜか品切れ。温泉宿で温泉饅頭を切らしているなんて、そんなことがあるだろうか。フロントで聞いたところによると、近くに同じものを製造販売している本店があるというので、そちらに行ってみることにした。

 朝来た道を5分ほど戻ると、その店があった。「奥久慈屋吉餅(きちべい)」という思いのほか立派な店で、店内には饅頭の他に、常陸大黒(ひたちおおぐろ)という二まわりも大きな黒豆を使った餅菓子が数種類並んでいた。どれも手作り感があって美味しそうだ。もとより和菓子好きなので、余計なものまで色々と買い込んだ。また一つ、旅の理由ができてしまったなあ。

 帰りの時間に余裕があったので、最後に常陸大宮市に新しくできた道の駅に寄ってみた。「かわプラザ」という別名があって、名前のとおり、裏手を久慈川が流れていた。しかも河原まで降りられるようになっている。店内を覗いた後、せっかくだから川のそばまで行ってみることにした。道が整備されているのは途中までで、その先に自然のままの、川石に覆われた河原が広がっている。河原で遊ぶなんて、何十年ぶりだろうか。

 川面(かわも)を眺めていると、不意に娘が「ねえ、水切りできる?」と聞いてきた。「あったりめえよ。昭和生まれだぞ。」早速適当な平石を見つけると、焼きの回ったサイドスローで投げて見せた。2回跳ねた。何十年ぶりにしては悪くない。「どうやるの?教えてよ。私やったこと無い。」「見て真似したほうが早いよ。」そう言ってもう一度投げてみせると、娘は何回かトライしただけで成功させた。誰に似たのか、遊びに関する感覚だけは鋭いな。

 「ところで石選びはな、軽けりゃ良いってものでもないんだ。」僕はそう言いながら、今度は少し大きめの平石を選んで投げた。すると石は3回ほど跳ね、そのあと水面を滑るように進んでから水中に消えていった。それを見て、「あ、今のすごい!」と娘。僕はちょっと良い気分だ。カミさんはそんな僕らの様子を笑顔で眺めていた。薄曇りだった空から、いつの間にか陽が差し始めていて、少し動いただけなのに体が汗ばんでいた。

 始まりは確かに味噌田楽の夢を見たことだったんだけど、終わってみれば思いのほか良い1日になったようだ。近いうちにまた饅頭買いに来ようかな。

今回立ち寄ったお店

・昔屋(蕎麦処)

・滝見の宿 豊年満作(手作りアップルパイ)

・奥久慈屋吉餅(黒糖饅頭 他)

・かわプラザ(道の駅 常陸大宮)

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 軽音、再び

 その昔、僕が高校で軽音楽同好会を創設したことは以前に書いた。3月の末のある日、その創設時のメンバーが集まるので顔を出せ、との通知が、なんと葉書で届いた。僕がメールもラインもやらないものだから、苦肉の策だったのだろう。だが考えてみれば僕の電話番号を知っているヤツだっているのになあ。返事はメールでくれ、と言うので仕方なく、パソコンで「行くぜ」とメールを、多分何年かぶりに送信した。やればできるんだよ、僕だって。集まるのはこれで3度目、場所は高校の所在地で、僕の実家のある土浦市。夜は実家に泊まれば良いので気楽なものだ。

 当日、指定された店に着くと、ほとんどのメンバーはすでにそろっていた。早速乾杯をして(よくある話だが誰かが着くたびに即乾杯)、昔話に花が咲いた。僕を下の名前で呼び捨てにするのは、長い人生のなかでもこのメンバーと、その取り巻きだけだ。それがとても心地よい。それにしても、四日市市から来る一番家の遠い男が監事ってどんな人選?土浦在住が何人もいるのに。でもまあ、その辺が軽音らしいところでもある。

 そんな音楽好きの旧友たちが集まって、今の時代にどんな話をするかって?そりゃあ、この歳になればまずは病気自慢でしょう。特に高血圧の話は盛り上がった。いや、上がっちゃいけないんだけど、「オレ、一番高い時の値が190あってさ」「負けた!オレ160」って、何勝負してんだよ。そのあと同じ血圧の薬を僕を含めて3人が服用していることを確認して、やっと「今も演ってるのか?」という話になった。ところがそんな話題のなかでも、「最近ギター弾こうにも、指が動かなくてさ」なんてことを言うヤツがいる。「もう、『BURN』は叩けないな」と、これは僕。あの頃ディープ・パープルの「BURN」という曲の、とんでもなく手数の多いドラムを完コピ(完全コピー)していたのは、近隣では僕だけで、これは当時ちょっとした自慢のネタだった。なぜあれが叩けたのか、今ではさっぱりわからない。イアン・ペイス(ディープ・パープルのドラマー)は75歳になった今でも余裕で叩いているのになあ。何、プロと比較するなってか。

 ところで、僕が最後にバンドとして演奏したのは5年前だから、一番最近まで「演っていた」ことになるようだ。フォーク部門(軽音は境界が曖昧ながらも、ロック部門とフォーク部門に分かれていた)のギタリストだったNは、昔大枚をはたいて買った愛用のギターを修理したら、買った値段以上の修理代がかかった、なんて話をしてたっけ。だって買ったの何十年前だよ。大学生の頃、そのギターを買う時にお茶の水まで一緒について行ったのがついこの間の事のようだ。でもギターは人力で運べるから良いよなあ。ドラムセットは車が無ければ運べないし、しかも普通車なら2往復だ。ドラムを選択した自分を何度呪ったか知れない。でもまあ、ドラムという楽器が好きなんだから致し方ない。

 さて、宴もたけなわ。幸いにも酒癖の悪いメンバーはいないので、楽しく時間が過ぎていく。僕が振った「おでんにジャガイモを入れるか?という話題では、メンバーが二つに分かれて真っ向から対立。馬鹿だねえ。その後誰かがCSNY(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、アメリカのフォーク・ロックバンド)の話を持ち出し、それを他の誰かがNSP(ニュー・サディスティック・ピンク、日本のフォークグループ)と勘違いして、皆に突っ込まれていた。その様子を見ながら僕はCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、アメリカのロックバンド)の話題を出そうか迷っていたが、誰かがいきなりテイラー・スウィフトを持ち出したので、話の流れはあらぬ方向へ。でもそのあとでGFR(グランド・ファンク・レイルロード、アメリカのロックバンド)に触れることができたからまあいいか・・・以前にもあったことだが、どうもこの頃の仲間のことになると、話がややこしくなっていけない。なんかゴメン。でも、仕事が関わらない酒宴は良いなあ。3時間なんてあっという間だ。

 土浦組は頻繁に情報交換しているらしく、メンバーの近況については僕の知らない話題もたくさんあったけれど、そんな事は一向に気にならなかった。わからない事は聞けば良いだけだ。構える必要なんてこれっぽっちも無い。ただ、当時の話題になるとメンバーの記憶違いが露見する事も多く、過ぎた時の長さを痛感させられた。

 ちょっと驚いたのは小学生の時に好きだった女の子(勿論今は女の子ではない)が、土浦に帰ってきているという話が聞けたこと。中学・高校と同じ学校に通ったのだが、最後に消息を聞いたのは何十年も前の事で、埼玉県在住だったはずだ。それが年老いた母親の介護のために単身土浦市に戻り、今も実家を維持するために滞在しているという。その子の友人だったキーボード担当のT(女子)がそれを僕に教えてくれた。死ぬ前に一度会ってみたいと思っていたので、少しだけ心がむずむずした。音楽とはまるで関係ないが、そんな話が聞けるのも軽音の、強いては高校時代の友人の集まりならではだ。ホント、良い時代だった。

 不思議なもので、あれだけ文字によるコミュニケーションを否定していた僕が、今回初めてメールをもう少し活用しようかな、という気になった。この問題については歳を重ねるたびに頑迷になっていくであろうと思っていただけに、自分の事ながらちょっと意外だった。慣れ親しんでいるのはパソコン、つまりキーボードによる入力の方だが、この際スマホのメール機能も使ってみようかな。そうすればこうした集まりの連絡も、少しは楽に行えるようになるだろう。何にせよ、次の会合が楽しみだ。次回はロボの「片思いと僕」を引き合いに出してみるか。

注 ロボ「片思いと僕」は1972年に大ヒットしたアメリカンポップス。

 愛用のドラムセット。美術準備室にて。これが場所とるんだ。

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 もうちょっと書きたい。

 土浦市について書いた時に、書き切れなかったことをもう少し書いておく。

 前に僕は、土浦という町に強い思い入れがある、と書いた。この思い入れとは、「かつて慣れ親しんだ場所に対する郷愁」といった類いのもので、例えば土浦の市史や名所・旧跡に興味があるとか、そういったことではない。あくまでも個人的なもので、例えば正月早々の記事に書いた、子供の頃から通っているM模型店や、これも以前に言及した、その昔屋台のおでん屋が出没した亀城公園、チャーハンが美味しいT飯店など、当時の生活と密接に結びついた場所が対象だ。華やかなりしころの土浦の、そういった場所について書く。

 昭和40年頃の庶民にとって、デパートでの買い物は一大イベントで、家族そろって出かけ、買い物の後は大食堂でちょっと贅沢な食事をして帰るのがお決まりのパターンだった。土浦にあった霞百貨店、後の京成百貨店は典型的なデパートで、入り口正面には踊り場から左右に分かれる吹き抜けの大階段があり、他とは一線を画する高級な商品を取り揃えていた。クリスマスが近づくと、店内やショーウインドウはそれらしく装飾され、食品売り場にはローストチキンやローストビーフ、クリスマスケーキなどの「ご馳走」が並んだ。まだ現在のような大型スーパーやコンビニがなかった時代で、この手の「ご馳走」が買えるのはデパートの食品売り場ぐらいのものだった。

 当時の駅前には県内有数のバスターミナルがあり、こうした特別な時期には近隣の市町村からも多くの人が押し寄せた。市内に5軒あったデパート(最盛期には大小合わせて7軒!)や、それらをつなぐアーケードは買い物をする客でごった返し、その賑わいは手をつないでいないと子供があっという間に迷子になるほどだった。

 京成百貨店のすぐ近くには土浦セントラルという映画館があって、子供の頃は斜向かいのパン屋であんパンと牛乳(瓶入りだぜ)を買って持ち込み、それを食べながら映画を見るのが常だった。たばこを吹かしながら鑑賞する人もいて、映画が終わると通路には吸い殻がたくさん落ちていた。トイレからはアンモニア臭が漂ってきたけれど、「映画館の匂い」として認知されていて、文句を言う人などいなかったように思う。この映画館はリニューアルされて今もあるそうだ。

 高校生になると、駅前にある西友のWALK館を利用することが多くなった。若者をターゲットにした新しい経営スタイルで、衣料品の他に大きな書店やレコードショップ、模型店などのテナントが入っていた。開店は1982年。今思えば、現在のショッピングモールに近いカジュアルな雰囲気があった。通学に土浦駅からバスを利用する友人が多かったので、学校帰りによく立ち寄った。休日には兄と二人で出かけ、店舗内にある書店や模型店に足を運んだものだ。この店舗は京成百貨店が1989年に閉店した後も10年近く営業していた。

 長いこと駅舎の正面にあったつかさデパートは、2階建ての観光みやげや特産品を扱う店だ。確かに店内は広いが、デパートとは名ばかりで(だから先の5軒には含まれていない)、売り場は1階のみ。2階は全て食堂になっていたので、つかさ大食堂と呼ぶ人も多かった。それなりに利用客もいたようだが、僕は一度も入ったことが無い。昭和40年代にして、すでに古くさい佇まいの建物で、ネットの土浦市に関わる記事にもあるように、四六時中軍歌を流していた。これは土浦に海軍航空隊(予科練)があったことと関係があるのだろう。誰も書いていないようだが、クリスマスの時期になるとビリー・ヴォーン楽団の「ジングル・ベル」や「ファースト・ノエル」を流していたのを、今でもよく憶えている。

 旧市役所の庁舎が今も残る富士塚山(というか高台?)も忘れがたい場所の一つだ。小学校の写生会で訪れたり、夏休みのラジオ体操の会場になったりもした。庁舎と駐車場のある頂上は見晴らしの良い場所で、遠くに筑波山や霞ヶ浦を望むことができた。少し前までは駐車場まで行けたのだが、最近ではたまにロケ地になったりすることが理由なのか、その独特な建物の保全のために敷地への立ち入りが禁止(封鎖)されてしまったのが何とも残念だ。

 他にも古い大病院にありがちな、おどろおどろしい佇まいの旧国立病院(もとは海軍病院。現霞ヶ浦医療センター)であるとか、おやじギャグ感満載のレコード店「レコー堂」であるとか、SMマガジンをSFマガジンと間違えて手に取り、過激なグラビアに動揺した伊沼書店であるとか、そういった場所が今でも鮮明に記憶に残っている。だがそのほとんどが、今はもうなくなってしまった。

 国土地理院のHPで土浦市の航空写真を調べていた時に、ふと気付いたことがある。写真の年代が新しくなるにつれて、道路がはっきり見えるようになっていく。人家や商店がなくなった更地に駐車場が作られ、建物によって道が隠されたり、道に建物の影が落ちて見えにくかったりする事が少なくなったからだ。

 土浦市が衰退した理由の一つは、市内に駐車場が決定的に足りず、車社会の到来に商都としての対応ができなかった事だった。あれから40年。店が消え、人家も少なくなったかつての中心街に、今になって駐車場が幅をきかせている。何とも皮肉な話ではないか。

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 フィルムカメラの復権なるか?

 以前レコードの復権について書いたことがあるが、今度はフィルム。TVで聞いた話によると、最近の若者が昔のレンズの描写に憧れて往年のフィルムカメラ、しかもそれほど性能の良くないコンパクトカメラを購入することが増えてきたという。描写の安っぽさが良いんだって。勿論その手のカメラは中古でしか手に入らないのだが、なかでも人気なのがオリンパスのμ(ミュー)シリーズなんだとか。これが僕にはちょっと解せない。だって、オリンパスμシリーズといえば、その筋では有名な名機のひとつだからね。

 実を言うと、オリンパスμは僕の手元にも1台ある。レンズが描写力に優れていて、使い勝手も良く、デザインもカッコいいので、処分できずにいる。当時はこのカメラだけで撮ることにこだわるプロの写真家がいたぐらいで、かなり評判が良かった。ただ、当然プロ仕様ではないので機械としての耐久性に欠け、その写真家は個展を開くたびにμシリーズを何台もダメにしたそうだ。

 このカメラはレンズの描写は悪くないが、確かに素人が使うとその性能を十分に発揮できない可能性はある。例えばボディが小さいのでホールド感が悪く、露出もオートのみだから、撮る側の人間が状況を判断して対処しなければ、露出で失敗したり手ブレしまくったりしただろうからね。つまり今の若い人が言う「昔風の描写」は、決してレンズが古いせいばかりではなくて、むしろユーザー側の知識や技能の欠如の結果と考えた方がいい、ということだ。何しろ今のカメラ(スマホ含む)は状況を自分で判断できる上に、センサーの感度はISOに関しては化け物だし、レンズのコーティング技術も格段に進歩している。おまけに手ぶれ防止機能まで備わっていて、素人にも扱いやすい。だから誰が撮っても同じように無難な写真が撮れる。逆に言えば個性の無い写真しか撮れない。そのつまらなさに若い人たちが気付き始めた、ということだろう。まあ、それはそれで良いことだ。

 考えてみると、古いレンズの描写を楽しむだけなら、今でも歴代の交換レンズが使えるニコンFマウントカメラやライカMシリーズなどの方が適していると言える。大昔のレンズが現行のデジカメでも使えるんだからね。ただしべらぼうに金がかかるから、お勧めはしないけど。

 一方、古いレンズに加えてフィルムという記憶媒体の描写を手軽に楽しもうというのなら、今の若い人がやっていることも、まあ間違いではないだろう。というかカメラごとの個性というのもあるから、いろいろな機種を試してみるとかえって面白いかもしれない。何しろ、中古のコンパクトフィルムカメラを10台買ったとしても、ニコンのFマウントやライカのデジカメを買うより遙かに安い。

 さて、若者が念願叶ってフィルムカメラで写真を撮ったとする。その後どうするかというと、写真店で現像してもらったネガをデータにして保存、ネガそのものは「捨ててください」というパターンが多いそうだ。笑えたのはフィルムが入ったままのカメラをお店に持ち込んで、店員さんの前で取り出そうとして、巻き戻しもせずに裏蓋を開けるパターン。撮影済みのフィルムを現像前に過度に感光させたら全てがおじゃんになる(カメラ側に巻き取られたフィルムの内側の方は助かる場合もある)。だから必ずフィルムをパトローネ(フィルムの容器の部分)に巻き取ったことを確認してから裏蓋を開ける。これは基本中の基本だ。フィルムカメラを使ったことが無いなら、事前に詳しい人に聞くなり、ネットで調べるなりしておけば良いのに。

 もう一つ、ネガはとっておいた方が良いと思う。例えばデータをディスクにした場合、ディスクの寿命は通説で10~20年と言われている。僕が昔撮った写真のネガは(保存状態にもよるけど)40年以上たっても何の問題も無い状態だ。もっと言うなら、父や祖父の撮ったネガもまだ使える状態で残っていたりする。

 まあ、写真に対する思い入れの違いもあるだろうけど、僕の経験からすれば、写真(ネガ)は半永久的に残すべきものだ。背景に何十年も前の状況がわかるものが写っていたりすれば、それは一種の歴史的資料になり得るからね。

追記 コンパクトデジカメまで続いたオリンパスのμシリーズには、初代μの改良型で1997年に発売されたμⅡ(ミュウツー?)と言うモデルがある。なんかどっかで聞いたような・・・。逆襲されたらどうしよう?

 オリンパスμパノラマ。offの状態。大きさは縦・横が約60㎜×115㎜。ボディの厚みが45㎜ぐらいか。何せフィルムを入れなきゃならんから、このサイズが限界だろう。

 カバーを開けてon。リチウムバッテリーが入っていれば、レンズがもう少しせり出してくる。オートフォーカス、レンズは35㎜F3.5。