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 夏と言えば怪談(その2)

 前回触れた不思議な体験について。まず断っておくが、僕は「見える人」ではない。ホラー映画や心霊番組は好きだけど、実のところほぼ信じていないタイプだ。そこんとこ、よろしく。

 それは8年前、僕がまだ中学校の教員をしていた頃のことだ。その時僕は、3年生を引率して京都に修学旅行に来ていた。僕たちが宿泊したのは、京都御所の西側にあるそこそこ立派なホテルだった。通りに面する窓からは京都御所の木立が目の前に見え、交通の便を考えてもなかなかいい立地だった。ただ、ホテル内は全館禁煙だったので、喫煙者の僕はその都度正面玄関脇の喫煙コーナー(屋外)まで足を運ばなければならなかった。

 その夜、生徒を就寝させ、1回目の巡視を終わったところで、僕は一服するために喫煙コーナーまで下りていった。時刻は11時を過ぎていたと思う。煙草に火をつけてすぐ、目の前の堀川通りに目を向けると、歩道の右手、ずっと先の方に、こちらに向かって歩いてくる、夜目にも白い半袖のワンピースを着た女性が目に入った。別に不穏な感じはなく、こんな夜更けに若い女性が歩いているなんて、さすがは京都、などと脈絡のないことを考えていた。その女性、歳の頃は20代半ばぐらいか。ショルダーバッグを肩からさげ、ワンピースはベルテッドで、裾が膝丈ぐらいの上品ななりだったのを覚えている。となりの男性(その時は漠然とそう思った)と話をしながら歩いているようだが、暗い色の服を着ているのか、この距離ではよく見えなかった。だが彼女が目の前を通り過ぎる頃になって気付いた。一人だ。その女性は一人で歩いている。だが顔を右方向斜め上(僕から見て向こう側)に向け、両手で身振りを加えながら楽しそうに話し続けている。一瞬「スマホに話しかけているのかな?」とも思ったが、その顔はまるで身長180センチの男性が右どなりにいるかのように中空に向けられていて、両手を動かしながら話しているので、例えイヤホンを使っていたとしてもスマホはあり得ない。一番近い正面に来たときには、女性と僕の間には車寄せの植え込みと、喫煙所の格子状の目隠しがあったので、見間違いかもしれない。そう思った僕は女性が通り過ぎた後、何食わぬ顔で歩道まで出てみた。すると左手にすぐ交差点があり、信号待ちしている女性が僕からほんの10メートル足らずのところに立っていた。間違いなく生身の人間だ。街灯に照らされて、歩道に影も落ちている。だが、今度は真後ろから見ているにも関わらず、やはりとなりには誰もいなかった。それでもその女性は、相変わらず会話し続けている。中空に向かって、楽しげに。これっていったい何?僕には見えない誰かがそこにいるのか?それとも、この女性がそういう人なのか?それはそれで怖いぞ。やがて信号が青になると、女性はそのまま遠くの闇の中に消えていった。

 その後は何事もなく、無事に修学旅行を終えて帰ってきたのだが、不思議なことは自宅へ戻ってからも続いた。まず寝室の雰囲気が不穏になったこと。先に述べたように、僕はあまり信じない人なので、うちの奥さんのドレッサー(当然大きな鏡つき)があっても、よせば良いのに持ち込んだフランス人形があっても、怖いと思ったことは1度もなかった。それが修学旅行以来、何とも不思議な気配を感じるのだ。こんなことは初めてだった。それだけではない。当時まだ同居していた長女が「パパ、なんか変なもの連れて帰ってきたでしょう」と言いだした。自室の空気が変わったというのだ。僕が京都であったことを話すと、「あー、それだ、多分。」

 さらにある晩、リビングでテレビを見ていたときに、次女が突然僕を振り返って「止めてよ!」と言いだした。だが言った本人が僕の座っている場所と姿勢を見て、えっ!という顔をした。「なんだよ」と聞くと、「今・・・背中をつつかなかった?」と聞くので、「この体勢で手が届くわけ無いだろう」と言うと「だよね・・・えっ!じゃ今の誰?」と、軽いパニック状態に。すると長女が「ほらァ。やっぱり何か連れてきてるよ。」と笑った。この間、うちの奥さんはうたた寝をしていて何も気付いていない。一番幸せなタイプ。不思議に思うかもしれないが、うちはいつもこの程度の反応で終わる。脳内のどこかで、常に「まさかね」という思考が働いているからだろう。 

 次女の一件以来、家の中はもと通りになったようだ。その間、2週間ぐらいかな。実際に何か見たわけでもないし、おかしな事が続くこともなかったので、全部「気のせい」ということで一件落着。しかし、僕が京都で見たあの女性のふるまいは謎のままだ。女性自体は間違いなく生身の人間に見えた。そもそも、「見えない人」である僕に見えたのだから人間のはずだ。だが、あるいはもしかして・・・。 

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 夏と言えば怪談(その1)

 教員をしてた頃、学校出入りの旅行業者に聞いてみた。「あのさあ、仕事柄答えにくいかもしれないけど、ここだけの話、出る宿って本当にあるのかい?」僕としてはかなり気を使ったつもりだった。だって旅行代理店が特定のホテル等の営業の妨げになる話をするのはまずいだろうと思ったから。しかし彼はにっこり笑うと、こちらの気遣いも顧みず、めいっぱい明るい声で「ああ、ありますよ!」                      まるで「ご希望のホテルには、まだ空きがありますよ!」みたいな感じだった。どういう感覚してんだ、この人。

 彼が言うには、大きな温泉地などには必ず1軒や2軒はそういう類いの宿泊施設があるという。「そんなの当たり前じゃないですか」といった体(てい)だ。さらにこう付け加えた。「霊感の強いスタッフが添乗員としてそういう宿に入ると大変なんです。大騒ぎされて、こっちも眠れませんからねえ。」ホントかよ。そして彼は興味深い話を聞かせてくれた。「ヤバイ部屋の見分け方があるんですよ。部屋番号を見るとだいたいわかるんです。」彼の話はこうだ。

 通常部屋番号はきちんと並んでつけられているが、宿によっては「4(し=死)」を嫌ってとばすことがある。例えば 302-303-305 といった具合で、これは良くある事だ。ところが希に、もっと不自然なならびの部屋番号があるというのだ。 305-306-リネン室-308。「リネン室」は「プライベート」の場合もある。普通なら 306-リネン室-307-308 と続くはずだが、この場合はもともとあったはずの「307号室」が何らかの理由で「リネン室」等に変更されたことになる。しかもほとんどの場合、そこはリネン室などではなく、室内は通常の客室のままであるという。つまり、「リネン室」の表記は何らかの理由で一般客に提供できなくなった客室のカモフラージュ、というわけだ。ここまで来れば、もうおわかりですね。

 彼が言うには、「一番困るのは修学旅行などの大所帯の添乗の場合、部屋が足りなくて添乗員がそういった部屋をあてがわれることがあるんです。僕なんかはあっても金縛り程度なんですが、霊感の強い女性スタッフなんかはもうパニックですね。次の日は仕事にならないこともあります」とのことだ。「こういう『リネン室』の両隣や向かいの部屋は、できることなら避けた方が良いです。」だから業者顔で普通に言うなってば。

 他にも、飾りロープでうやうやしく人止めのしてある階段などは近づかない方が無難だそうだ。そう言えば、僕も一度だけそういう階段を見たことがある。立派な作りの階段なのに人止めがしてあって、照明まで落としてある。不思議に思ったので良く覚えている。当時はどこか壊れかけているのかなと思ったのだが、あるいはそういうことだったのかもしれない。

 彼は仕事のできる男だし、顧客からもかなり信頼されている。そんな彼が、いつもの打合せと変わらない笑顔で、口調で、こんな話をするのだ。しかもリアルだ。なんだか聞くんじゃなかったな、という感じ。だけど、実を言うとある修学旅行の引率で、僕も不思議な体験をしたことがある。(つづく)

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 ホラーには外連味の効いた演出が欲しい

 ホラー映画には「外連味(けれんみ)」が欠かせない。前にもちょっと書いたが、本当に幽霊というものが存在するとしたら、普通に考えて、相手が誰かを認識できるようにわかりやすく、生前の姿で現れるだろう。それは状況によっては少しも怖くない。映画はエンタティンメントである以上、そこには怖さの演出が必要になる。つまり「外連味」だ。ただし、ここで僕が言いたいのは、「エクソシスト」のリーガンや各種ゾンビのような「人体破壊」的な演出ではない。いわゆる「様式美」的な演出のことだ。良い例がある。ジョン・カーペンター監督の「ザ・フォッグ(1980)」だ。

 映画のラストシーン、教会の中で過去の幽霊たちと対峙する主人公たち。幽霊たちは光る霧を背景にシルエットとなって浮かび上がる。その目だけが真っ赤に光っている。これですよ、これ!これぞ様式美。だって、幽霊の目が赤く光るなんて、理屈に合わないもの。必然性も無いし。でもやっちゃうんだよ。これだからカーペンター大好き!なんだよなあ。

 そもそも「外連味」というのは歌舞伎などで言う見た目重視の演出のこと。これが上手くいくと、「怖い!」という感情よりも、「待ってました!」みたいな満足感が湧いてくる。「こういうのって、やっぱり歌舞伎なんだ」とか思う。このパターンは1983年の映画「ザ・キープ」でも使われていて、邪悪な存在の目と口が映像処理で赤く光っていた。ハレーション効果で赤をのせているらしく、シルエットでなくても光っている。こちらは1種の妖怪(悪魔?)だから、理屈も必然性もあったものではない。こういうものなんだ、で納得。ただし、映画の出来は散々だった。前半はすごく好調(実物のドイツ軍のハーフトラックとか出てきちゃうし)だったのに、いったい何があったのだろうか?同名の原作(ポール・ウィルソン著)はナチスドイツの親衛隊と国軍の拮抗とか、ユダヤ人の学者さんとかが絡んでとても面白かっただけに残念でならない。

 そう言えば、最近スティーブン・キングの「IT」が再映画化されて話題になったが、僕は前作(初映画化のもの。TV映画)のほうが好きだ。確かに新作は映像技術も素晴らしいし、キャスティングもなかなかいいのだが、いかんせんペニーワイズが怖すぎる。何しろ普段から怖い。そこへ行くと前作のペニーワイズは、普段は陽気で楽しいピエロそのものなので、そのクレイジーさ加減がより際立っている。特に図書館での悪ノリというか奇行ぶりは必見。

 「外連味」の話だった。さすがに赤く光る目は時代遅れなのか、最近では新しいパターンが採用されている。例えば白目のない真っ黒な眼球。それと、人間離れした歩き方、かな。真っ黒の眼球は、欧米では悪魔が乗り移ったときのイメージとして、昨今よく使われている。変わった例としては「フロム・ヘル」(※)で使われた、切り裂きジャックの真っ黒なキャッチライト(反射光)のない瞳があげられる。あれはあれでかなり邪悪な感じだった。奇異な歩き方は日本のオリジナルと言っていいだろう。ちなみに、ゾンビの歩き方は、あれは死体なので文字通り神経が行き届かない故のものと解釈している。死後硬直もあるだろうし。そういう見方をすれば、伽耶子(呪怨)の四つん這いは生前最後の、傷を負って這いずりまわる姿、と言えなくもない。そうなるとやっぱり貞子(リング)は別格か。いやいや、「回路」に出てきた女性の幽霊の歩く姿もなかなかのものだった(颯爽と歩く、が、途中でよろける。これが妙に怖い)。ただし、これらの例は根源的な違和感を感じさせるもので、すでに歌舞伎を超えたところにあると言えるかもしれない。

(※)「フロム・ヘル」2001年制作 ジョニー・デップ主演(ただしギャグは一切無し)。切り裂きジャックの正体についての新解釈を映画化。厳密にはホラーではないが、十分ホラーっぽい作品。でも根幹はメロドラマかなあ。 

〈追記〉 外連味とはまるで関係ない恐怖描写をひとつだけご紹介。イギリス映画「回転」のワンシーン。舞台となる豪邸の庭園にある東屋(あずまや)から、大きな池の向こうにたたずむ女性の幽霊を目撃するシーン。真っ昼間で、遠い。顔などは判別できない。彼女は黒衣をまとっている。視線をそらしてもそこから消えず、動きもなくたたずみ続ける。実際に幽霊を目撃するときはこんな感じなんだろうな、と思う。何しろ消えてくれないのが怖い。陽の光を浴びて存在し続ける確かな存在感が怖い。このシーンを初めて見たとき、「あれって、幽霊なんじゃ・・・」という困惑から始まって、「やっぱりあれ、幽霊だよ」という確信に至る心境の変化を、知らず知らずのうちに登場人物と共有してしまっていた。「○○、うしろうしろ!」どころの騒ぎではない。監督が上手いんだろうなあ。原作は「ねじの回転」。ヘンリー・ジェームス著。映画は1961年制作、モノクロ作品です。

 

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 ハリエット・ショックのデビューアルバム

 ハリエット・ショックとの出会いは1970年代。アメリカの女性シンガーである。今も活動しているようだが、日本ではあまりその名を聞かない。ネットで調べてみたら、何と音楽活動をしながら、何処ぞの大学で作曲や詩(歌詞?)について教えているという。映画音楽にもちょこっと関わったりしているようだ。ジーンズの上下(しかもベルボトム!)を着て歩道に座っていたレコードジャケットの写真からは想像できない話だ。

 この人の日本デビューは多分1970年代の後半(具体的な情報がほとんど無い)で、デビューアルバムは「ハリウッド・タウン」というタイトルだった。当時の僕の小遣いではアルバムを買うのは至難の業だったが、このアルバムは当時の僕の感覚と何か通じるものがあって、絶対欲しいと思っていた。街の大きなレコードショップで見つけたが、持ち合わせがなかったので、とりあえず一番気に入っていた、アルバムタイトルでもある「ハリウッド・タウン」のシングルを購入し、アルバムは次の小遣いまでお預けということに。ところが、このアルバムは日本ではあまり有名にはならなかったらしく、その店にあった1枚がなくなると、2度と入荷することはなかった。しかもハリエット・ショック自体が日本の音楽シーンではウケなかったのか、以後ハリエット・ショックのアルバムを店頭で見たことがない。

 時が流れ、教職に就いていた頃になると、ネットでいろいろな物が購入できるようになった。だがネットでも「ハリウッド・タウン」は見つからなかった。あきらめかけていた頃、僕の勤めていた中学校のAET(アシスタント・イングリッシュ・ティーチャー、外国の方です)にこの話をすると、「カリフォルニアに住んでいる友人に米国アマゾンで探してもらってみようか?」と言ってくれた。僕は英語が少しできるので(といっても映画や音楽についてのボキャブラリしかないのだが)、AETとはいつも仕事以外の話をしていて、仲良くなることが多かったのだ。

 早速連絡を取ってもらったところ、カリフォルニアの中古レコード店に1枚あることがわかった。しかもそのレコードはデッドストックで、まだ一度も針を落としていないとのこと。なんという幸運!だが話はそう簡単ではなかった。その店は海外発送をしていないというのだ。彼はこう提案してくれた。「友人にそのアルバムを買わせて、僕のところへ送ってもらうよ。君は僕を通じて彼に代金を支払えば良い。これでどうだい?」おお、それは願ったり叶ったり。「よろしく頼むよ。ご友人にもよろしく伝えてよね。」しかしここでまた問題が。全ての手はずが整うか整わないうちに「東日本大震災」が発生したのだ。勤めていた中学校は避難所となり、授業のないAETは出勤の義務がなくなった。最後に聴いたレコードに関する情報は「日本への個人の空輸便は大幅に遅れる」というものだった。そして4月。顔を合わせることもないまま、彼は別の学校に配属となった。震災のどさくさで連絡先も聞けず、万事休す。というより、関東東部に位置する僕の住む地域は、実のところ震災の後始末でそれどころじゃなかった。4月に学校が再開して、初めてレコードのことを思い出したぐらいだ。ああ、僕のあのレコードは今頃何処でどうしているのだろう。

 そんなある日、授業を終えて職員室に戻ると、そこに彼がいた。お世話になった学校に挨拶に来たというのである。日本人の奥さんがご一緒だった。彼は満面の笑みを浮かべながら、手持ちのバッグから薄っぺらな段ボールのパッケージを引っ張り出した。「やっと届いたよ。」

 レコードを受け取りながら、僕はどんな顔をしていただろう。奥さんがにこにこしながら言った。「私たちもネットで聞いてみました。とても良いアルバムですね。特に歌詞が素敵でした。」お世辞とは思わなかった。初めて聞いたFM放送の紹介でも、特に歌詞の内容が注目されている、と紹介していたからだ。彼はささやいた。「本当はこれを届けに来たんだ。挨拶はそのついでさ。」嬉しいなあ。「本当にありがとう。これでまた夢が一つ叶ったよ。それで、いくら払えば良い?」そう聞くと、彼はまたにっこりと笑って、「お金はいらないよ。これは僕からのプレゼント。たくさんお世話になったからね。」

 AETは知らない人ばかりの学校に配属され、会話は授業に関することばかりで、心細かったり、孤独だったりするのだそうだ。だから日常的な話のできる相手がいるととても安心するらしい。奥さんも笑顔で頷いている。当時から僕のことは聞いていたようだ。僕はアメリカの(音楽や映画などの)文化について本場の人間と話をするのが楽しかったのだが、その日常的な、自分の好きなカテゴリーについての会話が彼を少なからず支えていたというのである。

 こうして数十年の時を超え、新品のアルバム「ハリウッド・タウン」が僕の手元にある。今やこのアルバムは自分が若かった頃の思い出であるだけでなく、AETの彼との思い出の品ともなったのである。

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 メロンパンとバタークリーム

 「メロンパンが食べたい」と言えば「買ってくればよかろう」と言われそうだが、事はそう簡単ではない。まずその種類の多さ。製法も多岐にわたっている。そして僕がここで取り上げようとしているのは、昔の、黄色い、あの表面がベトッとした上あごにくっつくやつなのである。

 現代のメロンパンは文字通りのメロンパンで、食べてみるとサクサクした口当たりで、メロンの味がする(当たり前と言えば当たり前)。中がオレンジ色の夕張メロンパン、なんていうのもあるぐらいだ。だが昔のメロンパンは、実はメロン味ですらなかった。前述したようにベタベタで、なぜか表面は黄色。香りはバナナがもとになっていたと聞いたことがある。ではなぜメロンパンという商品名だったのか。これも又聞きだが、表面の黄色い部分に網目模様が刻んであって、それがメロンのようだったから、という説が有力だ。つまり、「メロン型パン」というわけだ。そして、これがなかなか見つからないのだ。もしかして、もう絶滅してしまったのだろうか。

 もう一つ、大好きなパンがある。これは今でも販売していて、確か○○スイートだか、スイート○○とか言う商品名だったと思う。形は円盤形。細長いデニッシュ生地を直径20センチ程に平らに巻いてあり、シュガーシロップがかけてある。パッケージに「相変わらず売れてます!」なんて書いてあって、もうウン十年になるらしい。今でも良く購入する。渦巻きをほどきながら食べる(♪)。

 ケーキに関して言えば、近頃バタークリームケーキが大分復活してきているようで嬉しい。僕の知っているパティシエなんて、「ケーキはバタークリームのほうが絶対美味しい!」と断言しているぐらいだ。クリスマスケーキといえばバタークリームが主流だった子どもの頃は、生クリームのイチゴショートは高級品だった。当時母は添加物のことばかり気にして(そういう時代だった)、イチゴショートのクリスマスケーキを買ってくれるのだが、バタークリームのケーキはクリームに色がついていて(母はこの着色料を嫌っていた)、バラの花なんぞを型どり、当時は名前も知らなかった銀色の粒(アラザンというらしい)が散らしてあったりして、えらく豪華に見えたものだ。あるときそっちを買ってくれと懇願したら、母は驚いた顔をしていたが、やっと子どもの心理に気付いたのか、それからは色とりどりのクリームで飾られたバタークリームケーキを買ってくれることが多くなった。色つきのバタークリームにしろ、メロンパンにしろ(あの黄色い部分はどのように作っていたのか、考えるだに恐ろしい気もする)、添加物のことを考えると心配も無いではないが、子どもは感性の生き物だから、そんな理屈で納得なんかしないのだ。

 他にもイタリアンパン(「イタリアのパン」ではなく商品名)だの、ラビットパン(今あるものとは別物です)だの、もう一度食べてみたいパンがたくさんある。ものによっては進化した類似品が今もあるようだ。例えば、静岡名物のカニパンは、僕にはとても懐かしい味がする。イタリアンパンってこんな味だったような気が・・・。口当たりはもっとパサパサだったけど。何しろ記憶だけでの評価だから当てにはならないが、一方で黄色いベタベタのメロンパンにはもう20年以上お目にかかっていない気がする。一刻も早い復活を願ってやまない今日、この頃なのである。