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 今日の空

 梅雨の合間に、久しぶりに青空が顔を出したので、育てていた朝顔とひまわりの苗の植え付けをした。

 朝顔については、一昨年まいた種が綺麗なライトブルーの花をつけ、10月頃まで咲き誇っていたのを見て種を取っておいたのだが、去年は何の加減か失敗。今年は新しい種を買ってきて再挑戦している。ひまわりは「夏といったらこれでしょう」という子どもっぽい発想で、3年ぶりに苗を育てた。ただ、発芽してすぐ日照が少ない時期があって、苗がひょろひょろなのが気がかりだ。

 昼前に作業を終えてふと顔を上げると、そこには理想的な夏空が拡がっていた。気温が上がるにつれて、先ほどはなかった見事な積雲が育っている。しばらくはただ眺めていたのだが、そうしているうちにある事を思い出した。

 このブログのタイトルは「あの時と同じ空」。我ながら青くさいと思う。しかし一方では、これほど的確な表現はないとも思っている。ここで言う「あの時」とは、僕が思春期を過ごした時代のことだ。

 人は成長するにつれ、良いことも悪いことも身についていく。いわゆる「世間の垢にまみれる」というやつだ。そうして人は変わっていく。文明が自然を駆逐していく話もよく聞く。以前書いた、墓地の横にあったケヤキの大木や、NHKのドキュメンタリーで見た、送電線を通すために丸裸にされた山林などはその良い例だ。最近では神宮外苑の木々までもが伐採の対象になっているという。こうしたことは、実はたくさんの人々の思い出をも破壊しているのだということに気付いているのだろうか。いったい人は、どこまでやれば気が済むのだろう。

 世の中が変化していくのは仕方の無いことだ。人間の成長だって同じだ。無垢な子どもも、いつかは薄汚れた大人になっていく。人の心が時代とともに移ろうことも、歴史が証明している。だが、そんななかでも変わらないもの、変わってはいけないものがあると思う。あの頃と変わらない空がそのことを僕に思い出させてくれる。

 先ほど僕が「理想的な夏空」と表現した空、それは僕がまだ若かった頃に見た空を思い出させてくれるような空のことだ。友人と見上げた空や一人自転車を走らせながら見た空、幼い頃、実家の八畳間で兄とプラモデルを作りながら、ふと窓越しに見上げた空。どれもほんの一瞬の記憶なのだが、いまだに鮮明に覚えている。空が変わらずにいてくれるおかげで、僕は今も、そしていつでも、そこに帰って行くことができる。

 あの頃何を見、何を感じ、何を思ったかを、記憶の中で追体験することは誰にでも可能だ。そのことが世間の垢を洗い流し、生きていく上で大きな力となることもある。昔あるCMで聞いたセリフのように、「時は流れない それは積み重なる」と思う。流れると考え、失ったと思っていたものは、今も僕の中にある。普段は忘れているだけだ。ただ思い出すだけで良い。きっかけさえあれば、あなたにもそれができる。

 あの時と同じ空。そうだ、僕は今も、青くさい自分を心のどこかに持ち続けている。しかも自分が思っているよりも遥かに近い場所に。今度買い物に出たら、もう少し夏の花の種を買ってこよう。花の手入れのために外に出る機会が増えれば、また今日のような空に出会えるかも知れない。

作成者: 835776t4

こんにちは。好事家の中年(?)男性です。「文化人」と言われるようになりたいなあ。

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