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 日和見クリスマス

 さて、今年もクリスマスがやってくる。我が家では11月の末から少しずつその準備を進めている。

 デパートやショッピングモールに出向き、プレゼント用の包装紙やらコレクション用のクリスマスカードやらを探す。だが今年はほとんど手ぶらで帰宅する羽目になった。別に驚きもしないけど。というのも、ここ数年クリスマス用品はかなり低迷していて、包装紙は夢のないものばかりだし、カードは新作がほとんど入ってこない。

 今から20年ほど前、日本は空前のクリスマスブームで、TVでは数多くの特集が組まれ、デパートやショッピングモールでは信じられないほどの面積のクリスマスコーナーが設営された。素敵な包装紙が山のように用意されていて、使いきれないほどの量を買い込んだものだ。だがこのブームは10年足らずで次第に衰退し、今ではクリスマス用品と正月用品の売り場が同じ時期に併設され、その両方を合わせても以前の広さには遠く及ばない。

 包装紙も3~4種類しかなく、気に入ったものを見つけるには店をハシゴしなければならないし、それでも見つからないことのほうが多い。まあ、地方都市だからねえ。

 娘が二人とも成人し、我が家には「子供」がいなくなったが、今でもプレゼントの習慣は残っていて、家族分のプレゼントのほかに飼い猫のためのものも用意する。それでもビジュアルとしては少々寂しいので、ダミーのプレゼントボックスも作る。そのために包装紙は必需品なのだが、これがどうもよろしくない。最近のものはお洒落ではあるが夢がない。

 じゃあ、いったい何が変わったのかというと、まずその絵柄がサンタクロースやモミの木、ヒイラギなどを具象的に表現したものから、雪の結晶などをデザイン化した、冬であればクリスマスでなくても使えるような汎用性の高いものへと変わってきた。再生紙の色合いを生かしたレトロな感覚のものも増えてきたが、これは「古き良き時代のクリスマス」とはちょっと違う気がする。

 クリスマスらしい包装紙がないわけではないが、古き良き時代の面影のあるものは専門店にしかなくて、しかもそのほとんどが50枚単位での販売、なんてものばかりだ。気に入ったものが3種類ほどあったが、全部購入すると150枚。バカみたいな話だ。勿論そんな酔狂はしない。したいけど。

 20年前は単品や2枚組で良い包装紙が買えた。10年前はアマゾンで海外から取り寄せることで何とかしのいだ。今はどこを探しても昔のような包装紙は見つからない。ちょっと寂しい。

 仕方がないのでとってあった昔の包装紙の切れはしを引っ張り出してみた。これは僕の悪い癖で、気に入ったものは何でもため込んでしまう。だが今になってみると、こんな紙切れにもそれぞれに思い出があったりして、なんだかちょっと楽しい。でもこんな包装紙を新品で見ることはもうないかもしれないな。良くも悪くも日本でのクリスマスやハロウインは、本場と違ってどうしても日和見的になりがちだ。まあ仕方ないか。

 なんだかんだ言ってもそれが個人的な価値観でしかないことは重々承知の上だ。でも世の中に「クリスマスマニア」という言葉があるからには、僕のような気持ちの人が一定数いることは確かだろう。

 20年ぐらい前にはサンタやクリスマスツリー、ヒイラギ、ベルなどのモチーフが多く、絵柄も絵画的なものが多かった。これなら子供でもよくわかる。
 10年ぐらい前からのもの。絵柄が抽象的になり、リサイクル紙(下段左)が登場した。文字が主体のものも多かった。
 今年使うもの。と言っても今年購入したのは上のほうのシルバーとゴールドのもののみ。下から2番目は上の写真と同じもの。20枚売りとかで購入したのでまだ残っている。あとは去年とか一昨年の残り。絵柄のものもあるが最近は柄が小さくなった。

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 三菱ミラージュとエリマキトカゲ

 前回書いた常陸太田市の集中曝涼を見に行く途中での出来事。

 その日僕たちは朝9時に家を出て、北に向かう2車線の道路を走っていた。するとある交差点の信号待ちで、見慣れないクーペタイプの車が何台か前に右から合流するのが見えた。しばらく走った後、再び赤信号で停車すると、さっきの車が左車線の斜め前に止まっている。近くで見ても、やはり記憶にない車だ。

 その車体は塗装が少々古ぼけていて、ところどころに小さな傷があった。運転席には白髪に帽子をかぶった女性が座っている。白髪ではあるものの、お年寄りと言うにはまだ早いたたずまいだ。後部のエンブレムを確認すると、どうやら三菱のミラージュらしい。だが僕の知っている時代のミラージュとは、だいぶ趣が違う。

 三菱ミラージュといえばその昔、日本にエリマキトカゲを紹介したCMで有名だ。だが皮肉なことに、当時はエリマキトカゲばかりが有名になって、後々そのCMがミラージュを宣伝するものだったことを覚えている人はほとんどいなかったようだ。

 常陸太田市で1日遊び、家に帰った後もどうにも気になって仕方がない。そこでネットで調べてみたところ、あの車は三菱ミラージュの5代目に当たるバリエーションのなかの、アスティと名付けられたクーペらしい。

 5代目ミラージュは1995年から2000年まで製造され、三菱らしく走りを重視したグレードもあったようだ。1995~2000年といえば、僕はすでに長いことプジョー505に乗っていて、ちょうど406に乗り替えた(1999年)ころだ。当時僕はプジョー一辺倒だったから、国産車の動向を知らないのも無理はない。

 僕は古い車を見かけると、必ず運転者とナンバープレートを見る。分類番号が5であれ3であれ、今どき二桁ならワンオーナーカーの可能性がある。以前書いたとおり、うちのプジョー406も33の二桁ナンバーだ。だからそういった車が走っているのを見かけると、同好の士にあったようでうれしくなる。だが流行りの旧車ブームに乗って最近手に入れたのなら、どうしても分類番号は三桁になる。残念なことに今回、ナンバープレートのその部分を確認することはできなかった。

 運転していた白髪の女性は、もしかしたらアスティが気に入って、30年近くも乗り続けているのかもしれない。あれが最近購入した中古車だとしたら、もう少しきれいにレストアしてあるはずだし、現在の旧車ブームに照らして考えるに、ミラージュ・アスティは少々インパクトに欠けるからだ。だが実際にはDOHCエンジンを積んだり、175馬力(ホントか?)のグレードがあったりするから、斜に構えた好きものにはたまらない車種ではある。ということは…どちらにしても、あの白髪の女性はただもんじゃない気がしてきたな。それならそれで、なんかちょっとうれしい。

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 常陸太田市 集中曝涼

 日帰りのドライブ旅行で茨城県北部の常陸太田市に行ってきた。常陸太田市では年に1度、10月の第3土・日曜に「集中曝涼」と称して、普段非公開の文化財を一斉公開している。「集中曝涼」とは、一種の虫干しのようなものだ。

 予定のコースは、以前にも紹介したことのある東金砂神社(2024年5月の記事参照)で市指定文化財の刀剣を見て、そのあと文化財の公開はないものの、念願だった西金砂神社に回る。昼食は地元名産の秋蕎麦を食べ、午後にもう1~2か所見るつもりだ。

 僕たちが東金砂神社に着いたのは10時を回ったころだった。所定の駐車場(5台分ぐらいしかない)はすでにいっぱいで、仕方なく路肩に駐車した。車がすれ違えるか怪しいほど細く、ろくな舗装もされていない山道を遥々やってくるなんて、とんだ物好きもいたもんだ…と言いたいところだが、僕らも間違いなくその一員なんだから文句も言えない。そんな物好き3人組(僕とカミさんと娘)は傾いだ長い石段を息を切らせながら登り、山頂にある本殿にお参りを済ませてから、刀剣を展示してある社務所へと向かった。

 東金砂神社所管の文化財の日本刀は二振り、加えて長巻(ナギナタの短いやつ、と言えばいいかな?)が1本。だが意外にも、社務所の座敷には短刀や脇差を加えて15振りあまりの刀剣が並んでいた。どうやら近郷近在の愛好家が協力しているらしい。この辺りは大戦中に日立製作所を狙った米軍の艦砲射撃からも遠かったので、こういった文化財が数多く残っているようだ。低い長テーブルに刀掛けを置いただけの展示方法だが、娘が言うにはガラス越しではないので細部までよく見えるとのこと。大分時間をかけて堪能していた。

 刀剣を満喫し、社務所の猫と親睦を深めたあと、駐車場に戻ってみると、なんと駐車している車は先ほどの3倍以上になっていて、駐車待ちの車をよけながら駐車場を抜けるのが大変だった。その後大子町まで足を延ばしてお気に入りの和菓子店、奥久慈屋吉餅で餅菓子と黒糖まんじゅうを買い、西金砂神社へと向かった。

 この神社の開創は東金砂神社と同じ平安時代初期(806年)で、周囲には茨城県の天然記念物である名木が点在している。東西の金砂神社が合同で10日間かけて行う大祭礼は、国と茨城県の無形民俗文化財に指定されているそうだ。そのスパンは72年に1度と長く、851年の第1回から数えて、2003年に行われたそれは第17回ということになる(Youtubeに動画あり)。次は2075年だからそれまでは生きていられないかな…。

 境内はところどころ傾いた急な石段や地上根の露出した坂があるので、革靴やハイヒールはやめたほうがいい。本殿までは東金砂神社同様、息の切れる行程だが、それでも山頂にある本殿からの眺めは、苦労しただけのことはあった。

 ちなみにこの一帯は金砂郷(かなさごう)地区と言い、古い地名は金砂(かなさ)。なんでも昔は砂金が取れたらしく、現在も東金砂神社と西金砂神社がある山をそれぞれ東金砂山、西金砂山と呼んでいる。

 そのあと僕たちは神社から南に下ったところにある「西金砂そばの里(蕎麦工房)」で昼食をとった。地元の主婦の方たちが切り盛りする店で、使われる蕎麦粉は、もちろん全国的に評価の高い「常陸秋蕎麦」。そういえばこのあたり、道路の周囲は蕎麦畑だらけだ。営業は10時~15時まで。水曜日と年末年始は休みだそうだ。

 3人が3人とも天ざるを頼んだのだが、これが正解で、蕎麦の茹で加減もさることながら、天ぷらの揚げ具合がまことに結構で、カミさんも娘も絶賛していたっけ。蕎麦好きの僕でさえ、天ぷらのほうが印象に残ったぐらいだ。

 昼食の後、再び蕎麦畑のなかを走り、帰路の途中に当たる「菊蓮寺」に向かった。ここでは県指定文化財の木造千手観音像を見た。鎌倉時代の作という。寺の開創自体は平安初期(807年)と古いが、一時期廃寺となり、のちに再建。その後改築が繰り返され、今に至るとのこと。残念ながら、平安時代の面影は微塵もない。

 菊蓮寺をあとにする頃、秋の陽は傾き始めていて、山あいにカラスの声が響いていた。もう一か所寄れば寄れたのだが、前半の東金砂神社と西金砂神社で急な石段を登り降り(数えなかったけど、多分東西で三百段以上)したので、今日はもういいや、ということになった。文科系の家族はこれだから困る。来年来る機会があれば、もう少し下調べをして、なるべく平らな土地をうろうろしたいと思う。

 西金砂神社の入り口。鳥居にかかっている大木は天然記念物のサワラ。
 鳥居の向こうに恐ろし気な石段が…。右側には迂回路のスロープと社務所がある。もちろん石段を上った。
 拝殿。きれいに保たれている。縁の下の狛犬に注目。本殿はここからさらに石段を百段以上登ったところにある。
 西金砂山山頂の本殿。
 軒には見事な木彫の装飾が…。
 山頂から南側を望む。中央左寄りの遠くにキラキラしているのが常陸太田の市街地だろうか。常陸太田市は茨城県内一の面積を誇るというが…。
 菊蓮寺の木造千手観音立像(鎌倉時代・県指定文化財)。その高さは3メートルを超える。もとの本尊(平安時代)は1180年の「金砂城の合戦」で焼失、燃え残った背面部と伝えられるものが右奥に置かれている(この写真には写っていない)。脇侍は向かって右が不動明王、左が多聞天。これらは平安時代のものらしい。県指定文化財。

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 池波正太郎のエッセイ

 現在、池波正太郎の著作を読んでいる。といっても、エッセイばかりなんだけどね。きっかけは最近、池波正太郎が食についての著作を数多く残していることを知ったことだった。

 僕は料理をするのが好きで、ただ作るだけではなく、個々の料理についての四方山話や、その文化的・歴史的背景を調べることなんかも好きだ。そんなわけで今回、今まで一度も読んだことのない池波正太郎のエッセイをちょっと覗いてみよう、と思い立った。

 ご存じのように、池波正太郎は大正12年から平成2年まで三つの時代を生きた、時代小説を中心とする作家で、TVドラマで有名な「鬼平犯科帳」や「剣客商売」はその代表作だ。今読んでいるエッセイは昭和50年代頃に出版されたもので、内容的にはかなり古い。さらに著者が少年だった頃のエピソードもあるから、そうなると時代は戦前までさかのぼり、聞いたこともないような食べ物が数多く出てくる。

 なかでも池波少年が心酔したという屋台の「どんどん焼き」は、どうもお好み焼きの派生形らしいのだが、「パンカツ(食パンに小麦粉を溶いた衣をつけて鉄板で焼く)」とか、「オムレツ(小麦粉のタネを薄く焼き、卵を落として包む)」などというメニューがあって、その味や食感が想像できない。書物や映画のなかの食べ物で、再現してみたい、と思わなかったのはこれが初めてかもしれない。

 その一方で天ぷらや鮨、蕎麦などの名店や、粋な食べ方を紹介したりもしているのだが、ここで紹介されている店のなかには、当然もう存在していないものもある。

 そんなわけで、一概にここへ行ってみよう、あそこで食べてみようというわけにはいかないけれど、当時の風俗や風潮を読み解くにはなかなかに面白く、一気に2冊を読破し、現在3冊目を読み進めている。

 その中の1冊、「むかしの味」のなかで、僕はちょっと気になる文章を発見した。あるレストランの味に、よき時代の豊かな生活が温存されている、というのだ。続けて、それは物質的な豊かさではなく、心の豊かさである、と説明している。

 この本(単行本)の出版は昭和59年、と巻末にある。ということは、僕がよく「昔は良かった」と言うときの「昔」にあたる時代に近い。ところが池波氏はその時代に、すでに「昔は良かった、人の心が豊かだった」と書いている。つまり、僕が「良かった」と思っている時代よりも、もっと昔はさらに良い時代だった、というのだ。氏はどうやら戦前の東京を念頭に置いているらしい。これは困った。これじゃあきりがない。逆に言えば、時代が進むにつれて、人の心は荒んでいくばかり、ということじゃないか。で、僕はこう考えてみた。

 人というものは長く生きていると、善悪を問わずいろいろなものが見えてくる。子供の頃や若いうちはそれが見えないので、世の中が多少美化されて見える。つまり、ここで言う昔とは、自分の人生における「昔」なのであって、歴史上の昔ではない、ということだ。…うん、やっぱり多少無理があるな。どうしよう。

 池波正太郎は平成2年に67歳で亡くなった。携帯電話やインターネットが普及し始めるころだ。つまり、ネットでの誹謗中傷や迷惑系ユーチューバーの存在を知らずにこの世を去ったわけだ。もし、氏が今も健在だったら、いったいどんなことを書くんだろうか。大いに興味があるが、もしかしたら現代社会の問題点にはあえて言及せず、ただ淡々と「人の心が豊かだった時代」について記述し続けるのかもしれんなあ。

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 時には昔の話を

 カミさんが加藤登紀子の「for peace」というCDを買った。60周年企画アルバムと聞いてもしやと思い、すぐさま曲目をチェックしたところ…あった。「時には昔の話を」という曲。「ちょっと、これを真っ先に聞かせてくれんかな」と頼み込んで、かけてもらったところ、「おお、こっちのアレンジのほうが映画に近いんじゃないか?」

 何の話かというと、この曲はジブリのアニメ映画、「紅の豚」で使われていて、今回買ったCDに収録されたバージョンが、初めて収録されたアルバム「百万本のバラ」のそれとは違って映画寄りの、僕好みにアレンジだったのですよ。

 「紅の豚」は、僕がジブリ作品のなかで最も好きな作品だ。飛行艇時代といっても過言ではない1930年代、あるいは世界恐慌前夜といった時代の話で、それがエピローグで現代(公開は1992年)まで繋がるのはちょいと無理がある。なぜなら、映画のなかで36歳という設定の主人公ポルコ・ロッソは、1992年には100歳近いはずだからだ。だが本編はそんなツッコミが野暮に思えるほど気持ちのいい話だ。

 最後のシーンで、ヒロインであるフィオが操縦する近代的な自家用ジェット飛行艇が登場するが、コクピットから俯瞰する「現在」のホテル・アドリアーノの駐機スペースには、ポルコの愛機サヴォイアS.21が見えるし、話の流れからすれば登場人物の皆さんは今もご存命であると。これはもう、運転免許返納どころの騒ぎじゃねえぞ。だがしかし、宿敵カーチスの映画ポスターは1950~60年代の雰囲気だ。まあ根幹からして、人を豚に変える魔法が出てくるわけだから、これは一種のおとぎ話なのだ。そう考えて開き直るしかあるまい。そしてそのエンドロールに流れるのがこの「時には昔の話を」なんですねえ。

 セピア色に変色した古ぼけた写真(のイラスト)とともに流れるこの曲は、若かったころの仲間たちと昔を懐かしむ歌なんだが、音楽に劣らずその写真もいいんだよ。人類がやっと空を飛べるようになった頃の、古き良き時代の雰囲気が出ててさ。ここに写っている人物のほとんどがブタなのは、時代に翻弄されるなかで、その生き方を貫こうとする愚直な男たち(見る限り女の豚はいない)、というふうに僕はとらえているんだけど、果たして当たっているかどうか。

 ところでこの曲を聞くと思い出す曲がもう1曲ある。それは森田童子という得体の知れない(本当に今もよくわかっていない)シンガー・ソングライターが1976年にリリースした「僕たちの失敗」という曲だ。1993年に「高校教師」というドラマで使われ、リバイバルヒットしたので、知っている人も多いだろう。ただしこの曲はそれほど長いスパンを振り返っているわけではなく、(おそらく)当時の学生運動にかかわっていた若者が、にっちもさっちもいかなくなって、失意のうちに自分の生きざまを振り返る歌だ。容赦なく過ぎていく時代の流れに乗り切れず、変われなかった「僕たち」。よござんすか。変わなかったポルコたちと変わなかった「僕たち」。たった一文字の違いだが、この差は大きい。

 タイトルの「失敗」という言葉のニュアンスも相まって、「時には昔の話を」と比べると、「僕たちの失敗」は少し閉鎖的で悲しげだ。おそらく「過去」が「思い出」に変わるには、それなりの時間が必要なんだろう。だが僕はどちらも好きだ。

追記 「時には昔の話を」にはその場にいない仲間に「君もどこかで走り続けているよね」と語りかける歌詞があるんだけど、それが僕のなかでは、以前紹介した中島みゆきの初期の曲である「傷ついた翼」の「飛んでいてね あなたの空で」という歌詞と妙にリンクする。こういう言い回しって、なんかいいよな。

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 夏の総括

 この夏はやることが多くて、あまり原稿を書けなかった。例えば積極的に自分好みの夏を演出しようと庭に大輪のひまわりやタチアオイを植えたり、例年より多くの夏野菜を栽培してみたり。おかげでナス、ピーマン、キュウリは一度も買わずに済んだ。ただし収穫量が多すぎて、食事が単調になりがちで、冷やし中華(キュウリ)と野菜天ざる(ナス、ピーマン)とチンジャオロースー(ピーマン)ばかり食べていた気がする。

 その他にも大葉やモロヘイヤ、長ネギなども作って食べたが、「今日の夕飯は何にする?」どころの騒ぎではなく、「今日はナスとピーマンを減らそう」などという会話を毎日のようにしていた。おまけに娘はナスもピーマンも苦手で、結局おかずを2品作らなければならず、食費は大分浮いたものの、手間は倍増した気がする。

 今年、僕の住んでいる地域はそれほど猛暑に見舞われることもなく、「今日は昭和の夏みたいだな」というセリフを何度も使った。例年の猛暑に慣れた体には、湿度さえ低ければ「気温30度、やや風あり」といった環境はむしろ快適だった。ところが8月の後半、長野への旅の途中で立ち寄った「富岡製糸場跡」ではいきなり35度超の炎天下を歩かされ(屋外の移動が多い)、どうやら軽い熱中症になったらしい。何しろ富岡を後にする頃には、車の示す外気温が38度を超えていたもんなあ。幸い大事には至らなかったが、完全に体調が戻ったのは9月に入ってからだった。

 この夏、ちょっと残念だったのがスイカ。今年は美味しいスイカに当たらなかった。特に夏の終わりに食べる東北産のスイカは絶品なんだけど、今年はそもそも東北産に出会うことがなかった。むしろ北海道産のスイカのほうが目について、1度食べてみたがどうも感心しない味だった。東北産のスイカはが入ってこないのには何か理由でもあるんだろうか。

 そういえば、夏前からうちの庭に飛来していた30羽ほどのスズメたちは、7月の末には子育ても終わり、稲の穂に実が入る頃には3~4羽ぐらいになって、それも「今日は餌が少なかったのでちょっと寄ってみました」といった様子で来る程度になった。ただ、今年は9月に入って新たな親子連れが数組来たのでちょっと驚いた。調べてみると、春から夏にかけて2回ほど繁殖期があるらしいから、これらは後発組の雛だろう。10月に入った今も、独り立ちが十分できていないスズメが3~4羽庭に来ている。例によって餌を食べるのが下手くそで、見ていてハラハラしてしまう。去年もこんなふうだったんだろうか。全然気づかなかったなあ。

 昨年猛威(?)を振るった西洋種の朝顔は、今年勝手にこぼれた種から発芽して、花は小ぶりながら今も東側のフェンスの半分を占拠している。来年はもう少し日本の朝顔を増やそうと思う。花の色もさることながら、切れ込みのない葉(西洋種は葉が三つに分かれない)が茂るのを見ていても、なんだか物足りない。葉の形がこれほどまでに朝顔のイメージを決定づけているとは夢にも思わなかった。

 夏の後半から原稿をさぼっていたら、あっという間に10月になってしまった。今日は16日。そろそろ枝払いの準備を始めようか。

 フェンスから立木へと侵食。写ってはいないが、この左側も西洋朝顔だらけ。花の色が安っぽく、葉の形も朝顔独特の切れ込みが見られない(写真で分かるかな)。別の植物みたい。

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 夏といえば怪談 祟る神

 世に祟る話は数あれど、仏様の祟りというのはあまり聞いたことがない。ところが日本古来の宗教である神道においては、祟る神の話が目白押しだ。こうした神々のなかには、元が人間だったものも多い。

 その代表格で、北野天満宮として知られる菅原道真は、謀略によって太宰府に左遷されたことを恨み、死後に怨霊となって平安京を襲う。祀られて神になったのはその後のことだ。これには「御霊(ごりょう)信仰」という背景がある。平安時代に確立したもので、恨みを持つ「怨霊」を祀りごとによって「御霊」に昇華させ、さらに神社に奉って神格化することで、難を逃れ守護を得ようとする考え方だ。だが困ったことに、祟るのは怨霊や神々だけとは限らない。

 日本の宗教は古来、すべてのものに魂が宿るという考え方だから、特定の土地や巨石、巨木なども人を祟ることがある。特に神様の息のかかった「御神木」は、下手に伐採などしようものならとんでもない災いが降りかかったりする。

 日本の神格は本来祟るもので、祟ることで顕現するのが一般的だったらしい。当時の人々は疫病や飢饉、天災など、何かしら悪いことが起こると神の祟りだと恐れおののくのが常で、識者は占いによってどの神がなぜ怒ったのかを明らかにし、それを祀ることによって事を鎮めてきた。現在行われている神社の祭祀もこういった習わしがもとになっているという。

 考えてみると日本の宗教はキリスト教などとは違い、悪魔のような「絶対悪」が存在しない。そのかわりに、神々はそのおのおのが善と悪の両面を担っている。それがゆえに、時には人を救い、またある時は祟る。そして面白いことに、その両面を兼ね備えることで、やることが人間に似てくる。だから取るに足らないことでも怒る(※)し、時にはなぜ怒っているのかよくわからないこともあって、扱いにくいことこの上ない。それでいて力は神様のレベルだから、人は祈り、奉って機嫌を取るしかない。

 山梨県の中央本線甲斐大和駅のそばにある初鹿野諏訪神社には、御神木の朴ノ木がある。明治38年、付近にあった集落の住人が、端午の節句に柏の代わりにその朴ノ木の葉で餅を包んで食べたところ、時を待たずして住人のほとんどが病死し、さらにその2年後にはその地域で大水害が発生して、集落そのものが滅んだ。

 昭和28年には、神職による神事を行ったうえで鉄道の架線にかかる枝を払ったが、その作業に携わった5人が数年のうちに事故死または病死し、残る1人(2人という説も)も事故で重傷を負った。

 今では誰一人として枝払いを請け負う者はなく、伸び放題の枝葉から神社の本殿や、隣接する線路を守るための構造物を築くことでしのいでいる。近隣には、この神社に初詣に行くことを禁止している学校もあるというから驚きだ。まさに「触らぬ神に祟りなし」を地でいくような話で、新聞等のメディアでも何度も取り上げられている。

 それが本当に祟りなのか、それとも単なる偶然なのかは、評価する側の人生観・宗教観にもよるが、いずれにせよ、日本人がこうした超自然的な力を畏れ、祀ることで、その機嫌をとりつつ歴史を刻んできたことは間違いなさそうだ。

 21世紀に祟りを畏れるなんてナンセンスとも思えるが、科学的に否定も肯定もできない以上、「でも、もしかしたら…」と考えるのは人情というものだろう。日本人が諸外国の人々に比べてつつましく見えるのは、そうした畏敬の念を抱きつつ日常生活を送ることが、無意識のうちに習慣化しているからなのかもしれない。

※ 平安貴族の藤原実方は、道祖神の前を通りかかった際に落馬して死亡した。このことから、道祖神の前で下馬しなかったために神罰が下ったという伝説が生まれた。

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 結局、そうなるんだよ 後編

 (前回からの続き)さて、意を決して、いざ「カメラのキタムラ」へ。今回査定してもらうのは、20年前に清水の舞台から飛び降りるつもりで購入したわりには、一向に出番のなかったライカMPを含む3台。これらを下に出して支払いが70,000円を下回れば、Zfが買えるかも。そんなふうに考えていた。

 30分ほどかけて念入りに査定してもらった結果、提示された金額は僕の予想をはるかに上回っていて、正直驚いた。やっぱりライカは強いなあ。それに聞くところによると、買い取りではなく下取りの場合、査定額がプラスされるらしい。さらにただいまキャンペーン中につき上乗せ分があるということで、要するにすごくいいタイミングだったわけだ。そうなれば話は早い。

 気を良くした僕は、Zfレンズキット(Z40mmF2)にZ24~70mmF4SズームレンズとFマウント用アダプター(手持ちのレンズはほとんどFマウントなので)、さらにバッテリーチャージャーと予備バッテリーまでつけてもらい、支払額は33,430円に落ち着いた。さらに今ならニコンのキャッシュバックキャンペーンで35,000円返ってくるという。ということは、1,570円のプラスになる。これはいい買い物をした。というかほぼ物々交換だ。まるで縄文人になった気分だ。

 というわけで今、目の前にZfがある。せっかくだからF3(アイレベルファインダー)を出してきて、横に並べてみた。数字のデータではなく、印象を比較してみたかったからだ。

 まず横幅はF3のほうがほんの少し長いようだ。高さはボディ自体Zfのほうが高く、そのせいでかなり大きく見える。奥行きは、ボディ上部のカバーはほぼ同じなのだが、裏面はその下が数ミリ張り出しているので、Zfのほうが少し厚めだ。バリアングル液晶モニター部はさらに張り出していて、かなり嵩張っている。各部の作りはF3のほうが手が込んでいて高級感があり、さすがは往年のFシリーズ、といったところだ。

 Zfの全体のイメージは、大まかにコピーされたF3のボディにFM2のペンタ部をリニューアルして乗せた感じ。シンプルかつマッシブで、F3より若干大きめだ。もとになったFM2よりは優に一回り大きい。要するに、Zfは画像で見るイメージより大きいカメラなのだ。これはちょっと意外だった。だが長年F3を愛用してきた僕の手には良くなじむ。ちなみにボディの重さはF3とほぼ同じ。うん、悪くない。

 ちょっと残念なのは、F3やDfのボディに見られるMADE IN JAPANの表記がないこと。タイで作られているんだから当たり前だが、やはりここはこだわりたいところだよなあ。でも前回ララァが教えてくれたように、時代に合わせて人も変わっていかねば。ちなみに、やけにララァが出てくるけど、好きなキャラはセイラさんです、念のため。

 さて、そんなわけで紆余曲折の末、Zfは発売後十か月余りで購入と相成った。少しでも気になったカメラは、つまりそういうことになる運命なのですね。

 Zfはボディの高さがかなりある。写真ではわかりにくいが全高もZfのほうが高い。横幅はF3のほうが数ミリ長い。
 上部カバーからはみ出した裏面のボディと、さらに厚みのある液晶モニター部が見える。上から見ると、かなりゴツいイメージだ。

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 結局、そうなるんだよ 前編

 昨年の10月、ニコンのミラーレスカメラ、Zfが発売された。往年の名機、FM2に寄せたそのデザインが多少気になってはいたけど、その頃の僕はミラーレスカメラには全く興味がなかった。

 僕は光学ファインダーの信奉者なので、現在はニコンDfを愛用している。ミラーレスカメラに搭載されている電子ビューファインダーは、そのファインダー象に違和感があって一向に馴染めない。だからZfが発売された時も、あれは僕が持つべきカメラじゃねえな、といった印象だった(同じくミラーレスのZfcを使ってはいるが、あれは僕の中では別枠で、「ちょっとおっきいけどいろいろと便利なコンパクトカメラ」といった位置づけだ)。

 Zfは発売前から予約が殺到したらしい。一か月待ちは当たり前で、店頭のディスプレイも当初は実物大の写真ボードだけだった。半年ほどたってやっとディスプレイモデルが展示されるようになり、近場の家電量販店で何気なく手に取ってみたとき、僕はあることに気づいた。

 以前Dfの記事の中で、そのデザインから想像するに、近々F3に似せたデジタル一眼が出てくるかもしれない、と書いたことがあるが、Zfを手にした時の感触は、なぜかF3にとてもよく似ていた。F3といえば僕が最も長く愛用したフィルムカメラで、当時の金属製カメラとしては珍しく、ボディにグリップ状の出っ張りがあった。よく見るとZfにも同じようなグリップがある。なるほど、それでか。

 Zfのカタログには「FM2から着想を得た外観」と書かれているが、デザイナーが本当にFM2にこだわったのならこのグリップはなかったはずだ。そう考えると、確かにペンタ部(上部の三角形の張り出し)のデザインは違っているものの、全体的なフォルムはF3に似てなくもない。もしかしてこのカメラ、実質的には僕が予想していた「なんちゃってF3デジタル」なのではなかろうか。そう思った途端、急に興味がわいてきた。これはまずい。欲しくなったらどうしよう。

 あらためてカタログデータを調べてみると、センサーはフルサイズでボディは金属製。いいね!…いやよくないぞ。この流れはよくない。だがファインダーが僕の嫌いな電子ビューであることは動かぬ事実だ。ところがここでなぜか突然、僕はジオン公国軍パイロット、ララァ・スン少尉の言葉を思い出した。「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙」のなかで、彼女は確かこう言っていた。「人は変わっていくわ…私たちと同じように。」

 さて、気持ちが前向きになったところで(!!!?)、新たな問題が。そう、予算の問題だ。以前Dfを購入したとき、僕は後先考えずに行動した。だがあの頃と今では状況が違う。どうする?いや、タクシーは呼ばなくていい。

 実は今年、僕は長年にわたってため込んだカメラの断捨離を始めた。今までに4台のカメラを買い取り業者に売り払い、ちょっとした小遣い稼ぎをしてきたが、値段の折り合わなかったカメラがまだまだ残っている。これらを下に出せば、あるいは手持ちの予算でZfが手に入るかもしれない。幸い車で10分ほどのところに「カメラのキタムラ」がある。確か下取りもしていたはずだ。思えばここ10年ほど、「カメラ店」を訪れたことがない。久しぶりに専門店を覗くのも楽しいかもしれない。(つづく)

 右がFM2と同系列のFM3A。比べてみるとZfはかなり大きいイメージだ。
 右がF3。特徴的なペンタプリズムのカバーとグリップの赤いラインが目を引く。ZfはF3と比べてもまだ大きい。グリップの形状はF3のそれを踏襲しているように見える。
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 違う、ビストロじゃない。

 7月のある夜、昔の同僚たちに誘われて、久々にビストロに行った。

 何十年か前、僕には行きつけのビストロがあった。メニューにはもちろんコースもあったが、一品料理が充実していて、地中海風の、ニンニクを利かせた大変美味なるものが多く、それらをアラカルトで注文するのが常だった。なかでも「イワシのガレット」や「アサリの白ワイン蒸し」は僕のお気に入りで、固めのバゲットによく合った。スタッフの人選も素晴らしく、店内はいかにもビストロらしい楽しげな雰囲気に満ちていた。

 今でもよく覚えているのが、友人の結婚式の帰りに立ち寄ったときに、マスターが引き出物のカニの足(そういう時代のお話です)で一品作ってくれたこと。そういえば、学生だった頃は店に行くとマスターが「おなか空いてる?それとも軽く食べる?」とか「今日、いくら持ってるの」「ワインはどうする?」などと聞いてきて、それに見合った料理を作ってくれたっけ。いい店だったなあ。

 その店が無くなってからだいぶ時が経ち、今ではビストロなんていう形態の店自体が近隣ではあまり聞かれなくなった。だから今回会食の誘いが来て、会場はビストロだと聞いたときにはもう期待しかなくて、しかもソムリエがいるということで、当日がすごく楽しみだった。 

 さて、こうして当日を迎えたわけだが、結論から言うと、僕は二度とあの店にはいかないだろう。まず第一にソムリエはとうの昔にやめていた。そりゃそうだ。この店にはワインリストすらないんだから、仕事にならないはずだ。第二に店長は「今はワインの値段の変動が激しいのでリストを作れない」という。ちがーう!そもそもリストが無ければワインが選べない。値段が書けなくてもリストだけは作っておくべきだ。日本では「時価」という便利な言葉があるのに、これではメニューを見せずに料理の注文を聞くようなものだ。そんなこと、どう考えたってあり得ない。

 第三にそのメニューだが、なぜかイタリア料理(ピザやパスタ)や和風の料理が多い。なんだよそれ。ここはビストロじゃないのかよ。ビストロとは、気軽にフランスの家庭料理や田舎料理などを楽しめる居酒屋もしくは小料理屋、という意味だったはずだ。だがここのメニューにそれらしいものはほとんど見当たらない。

 唯一これは、と思われたパテ・ド・カンパーニュ(本来はミンチ肉とレバーなどをテリーヌ仕立てにしたもの)も、出てきたのはほぼペースト状のレバーのみ。火の入り方も不十分で血生臭い。レバ刺しが好きな人向けならそれでもいいだろうが、少なくともこれをパテ・ド・カンパーニュと呼ぶのはかなり抵抗がある。

 結局ワインはシャルドネ(白ワインの原料になる葡萄の品種)で5,000円以内、と注文したが、出てきたのはイタリアのワインだった。もちろんイタリアにもシャルドネで作られたワインはあるので、これは大きな問題ではないけれど、チリワインならもっと安くて美味しいものがある。僕の知ってるラインナップなら、3,000円で客に出しても十分儲けの出るものがいくつもある。ワイン界隈では有名な話だから、一時(いっとき)とはいえソムリエを擁していた店なら、そのくらいは勉強してしているはずなんだがなあ。

 というわけで、少なくとも本来のビストロがどんなものかを知っている人は、こういったビストロとは名ばかりの店に行ったら絶対失望するであろう。もう一度言うが、僕は二度と行かない。