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 結局、そうなるんだよ 後編

 (前回からの続き)さて、意を決して、いざ「カメラのキタムラ」へ。今回査定してもらうのは、20年前に清水の舞台から飛び降りるつもりで購入したわりには、一向に出番のなかったライカMPを含む3台。これらを下に出して支払いが70,000円を下回れば、Zfが買えるかも。そんなふうに考えていた。

 30分ほどかけて念入りに査定してもらった結果、提示された金額は僕の予想をはるかに上回っていて、正直驚いた。やっぱりライカは強いなあ。それに聞くところによると、買い取りではなく下取りの場合、査定額がプラスされるらしい。さらにただいまキャンペーン中につき上乗せ分があるということで、要するにすごくいいタイミングだったわけだ。そうなれば話は早い。

 気を良くした僕は、Zfレンズキット(Z40mmF2)にZ24~70mmF4SズームレンズとFマウント用アダプター(手持ちのレンズはほとんどFマウントなので)、さらにバッテリーチャージャーと予備バッテリーまでつけてもらい、支払額は33,430円に落ち着いた。さらに今ならニコンのキャッシュバックキャンペーンで35,000円返ってくるという。ということは、1,570円のプラスになる。これはいい買い物をした。というかほぼ物々交換だ。まるで縄文人になった気分だ。

 というわけで今、目の前にZfがある。せっかくだからF3(アイレベルファインダー)を出してきて、横に並べてみた。数字のデータではなく、印象を比較してみたかったからだ。

 まず横幅はF3のほうがほんの少し長いようだ。高さはボディ自体Zfのほうが高く、そのせいでかなり大きく見える。奥行きは、ボディ上部のカバーはほぼ同じなのだが、裏面はその下が数ミリ張り出しているので、Zfのほうが少し厚めだ。バリアングル液晶モニター部はさらに張り出していて、かなり嵩張っている。各部の作りはF3のほうが手が込んでいて高級感があり、さすがは往年のFシリーズ、といったところだ。

 Zfの全体のイメージは、大まかにコピーされたF3のボディにFM2のペンタ部をリニューアルして乗せた感じ。シンプルかつマッシブで、F3より若干大きめだ。もとになったFM2よりは優に一回り大きい。要するに、Zfは画像で見るイメージより大きいカメラなのだ。これはちょっと意外だった。だが長年F3を愛用してきた僕の手には良くなじむ。ちなみにボディの重さはF3とほぼ同じ。うん、悪くない。

 ちょっと残念なのは、F3やDfのボディに見られるMADE IN JAPANの表記がないこと。タイで作られているんだから当たり前だが、やはりここはこだわりたいところだよなあ。でも前回ララァが教えてくれたように、時代に合わせて人も変わっていかねば。ちなみに、やけにララァが出てくるけど、好きなキャラはセイラさんです、念のため。

 さて、そんなわけで紆余曲折の末、Zfは発売後十か月余りで購入と相成った。少しでも気になったカメラは、つまりそういうことになる運命なのですね。

 Zfはボディの高さがかなりある。写真ではわかりにくいが全高もZfのほうが高い。横幅はF3のほうが数ミリ長い。
 上部カバーからはみ出した裏面のボディと、さらに厚みのある液晶モニター部が見える。上から見ると、かなりゴツいイメージだ。

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 結局、そうなるんだよ 前編

 昨年の10月、ニコンのミラーレスカメラ、Zfが発売された。往年の名機、FM2に寄せたそのデザインが多少気になってはいたけど、その頃の僕はミラーレスカメラには全く興味がなかった。

 僕は光学ファインダーの信奉者なので、現在はニコンDfを愛用している。ミラーレスカメラに搭載されている電子ビューファインダーは、そのファインダー象に違和感があって一向に馴染めない。だからZfが発売された時も、あれは僕が持つべきカメラじゃねえな、といった印象だった(同じくミラーレスのZfcを使ってはいるが、あれは僕の中では別枠で、「ちょっとおっきいけどいろいろと便利なコンパクトカメラ」といった位置づけだ)。

 Zfは発売前から予約が殺到したらしい。一か月待ちは当たり前で、店頭のディスプレイも当初は実物大の写真ボードだけだった。半年ほどたってやっとディスプレイモデルが展示されるようになり、近場の家電量販店で何気なく手に取ってみたとき、僕はあることに気づいた。

 以前Dfの記事の中で、そのデザインから想像するに、近々F3に似せたデジタル一眼が出てくるかもしれない、と書いたことがあるが、Zfを手にした時の感触は、なぜかF3にとてもよく似ていた。F3といえば僕が最も長く愛用したフィルムカメラで、当時の金属製カメラとしては珍しく、ボディにグリップ状の出っ張りがあった。よく見るとZfにも同じようなグリップがある。なるほど、それでか。

 Zfのカタログには「FM2から着想を得た外観」と書かれているが、デザイナーが本当にFM2にこだわったのならこのグリップはなかったはずだ。そう考えると、確かにペンタ部(上部の三角形の張り出し)のデザインは違っているものの、全体的なフォルムはF3に似てなくもない。もしかしてこのカメラ、実質的には僕が予想していた「なんちゃってF3デジタル」なのではなかろうか。そう思った途端、急に興味がわいてきた。これはまずい。欲しくなったらどうしよう。

 あらためてカタログデータを調べてみると、センサーはフルサイズでボディは金属製。いいね!…いやよくないぞ。この流れはよくない。だがファインダーが僕の嫌いな電子ビューであることは動かぬ事実だ。ところがここでなぜか突然、僕はジオン公国軍パイロット、ララァ・スン少尉の言葉を思い出した。「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙」のなかで、彼女は確かこう言っていた。「人は変わっていくわ…私たちと同じように。」

 さて、気持ちが前向きになったところで(!!!?)、新たな問題が。そう、予算の問題だ。以前Dfを購入したとき、僕は後先考えずに行動した。だがあの頃と今では状況が違う。どうする?いや、タクシーは呼ばなくていい。

 実は今年、僕は長年にわたってため込んだカメラの断捨離を始めた。今までに4台のカメラを買い取り業者に売り払い、ちょっとした小遣い稼ぎをしてきたが、値段の折り合わなかったカメラがまだまだ残っている。これらを下に出せば、あるいは手持ちの予算でZfが手に入るかもしれない。幸い車で10分ほどのところに「カメラのキタムラ」がある。確か下取りもしていたはずだ。思えばここ10年ほど、「カメラ店」を訪れたことがない。久しぶりに専門店を覗くのも楽しいかもしれない。(つづく)

 右がFM2と同系列のFM3A。比べてみるとZfはかなり大きいイメージだ。
 右がF3。特徴的なペンタプリズムのカバーとグリップの赤いラインが目を引く。ZfはF3と比べてもまだ大きい。グリップの形状はF3のそれを踏襲しているように見える。
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 違う、ビストロじゃない。

 7月のある夜、昔の同僚たちに誘われて、久々にビストロに行った。

 何十年か前、僕には行きつけのビストロがあった。メニューにはもちろんコースもあったが、一品料理が充実していて、地中海風の、ニンニクを利かせた大変美味なるものが多く、それらをアラカルトで注文するのが常だった。なかでも「イワシのガレット」や「アサリの白ワイン蒸し」は僕のお気に入りで、固めのバゲットによく合った。スタッフの人選も素晴らしく、店内はいかにもビストロらしい楽しげな雰囲気に満ちていた。

 今でもよく覚えているのが、友人の結婚式の帰りに立ち寄ったときに、マスターが引き出物のカニの足(そういう時代のお話です)で一品作ってくれたこと。そういえば、学生だった頃は店に行くとマスターが「おなか空いてる?それとも軽く食べる?」とか「今日、いくら持ってるの」「ワインはどうする?」などと聞いてきて、それに見合った料理を作ってくれたっけ。いい店だったなあ。

 その店が無くなってからだいぶ時が経ち、今ではビストロなんていう形態の店自体が近隣ではあまり聞かれなくなった。だから今回会食の誘いが来て、会場はビストロだと聞いたときにはもう期待しかなくて、しかもソムリエがいるということで、当日がすごく楽しみだった。 

 さて、こうして当日を迎えたわけだが、結論から言うと、僕は二度とあの店にはいかないだろう。まず第一にソムリエはとうの昔にやめていた。そりゃそうだ。この店にはワインリストすらないんだから、仕事にならないはずだ。第二に店長は「今はワインの値段の変動が激しいのでリストを作れない」という。ちがーう!そもそもリストが無ければワインが選べない。値段が書けなくてもリストだけは作っておくべきだ。日本では「時価」という便利な言葉があるのに、これではメニューを見せずに料理の注文を聞くようなものだ。そんなこと、どう考えたってあり得ない。

 第三にそのメニューだが、なぜかイタリア料理(ピザやパスタ)や和風の料理が多い。なんだよそれ。ここはビストロじゃないのかよ。ビストロとは、気軽にフランスの家庭料理や田舎料理などを楽しめる居酒屋もしくは小料理屋、という意味だったはずだ。だがここのメニューにそれらしいものはほとんど見当たらない。

 唯一これは、と思われたパテ・ド・カンパーニュ(本来はミンチ肉とレバーなどをテリーヌ仕立てにしたもの)も、出てきたのはほぼペースト状のレバーのみ。火の入り方も不十分で血生臭い。レバ刺しが好きな人向けならそれでもいいだろうが、少なくともこれをパテ・ド・カンパーニュと呼ぶのはかなり抵抗がある。

 結局ワインはシャルドネ(白ワインの原料になる葡萄の品種)で5,000円以内、と注文したが、出てきたのはイタリアのワインだった。もちろんイタリアにもシャルドネで作られたワインはあるので、これは大きな問題ではないけれど、チリワインならもっと安くて美味しいものがある。僕の知ってるラインナップなら、3,000円で客に出しても十分儲けの出るものがいくつもある。ワイン界隈では有名な話だから、一時(いっとき)とはいえソムリエを擁していた店なら、そのくらいは勉強してしているはずなんだがなあ。

 というわけで、少なくとも本来のビストロがどんなものかを知っている人は、こういったビストロとは名ばかりの店に行ったら絶対失望するであろう。もう一度言うが、僕は二度と行かない。

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 夏といえば怪談 NHKのご乱心

 以前にちょっと紹介した話だが、あのお堅いNHKが、2009年あたりから妙に心霊系の番組に力を入れるようになった。局内で、いったい何が起きていたのかはわからない。だがその番組数は、僕の知っているものだけでも民放の比じゃない。ざっくり一覧にしてみると…。

2009年  「最恐怪談夜話」「日本怪談百物語」

2010年  「最恐怪談夜話2010」「フロンティア 異界百物語国際版(国際共同制作)」「日本怪談百物語2」「COOL JAPAN お化け」「妖しき文豪怪談(4回シリーズ)」

2011年  「日本怪談物語」「新日本風土記スペシャル 妖怪」

2013年  「幻解!超常ファイル(現ダークサイドミステリー)」放送開始 「超常現象(3回シリーズ)」「BS歴史館 大江戸妖怪ブーム」「BS歴史館 日本最強の怨霊 平将門」

2015年  「日曜美術館 あやしおどろし妖怪絵巻」 「新日本風土記 お化け屋敷」

2017年  「真夏の夜の異界への旅(3回シリーズ)」「スーパープレミアム 京都異界中継(4時間にわたって京都から百物語を生中継)」「COOL JAPAN 怪談~KAIDAN」

2018年  「異界百名山 体験者が語る不思議な話」「新日本風土記 あの世 この世」

2019年  「こわでん 怖い伝説(3回シリーズ)」「オープンマインド 小泉八雲が愛した日本の原風景」「趣味どきっ!京都・江戸 魔界巡り(全8回)」「プレミアムドラマ 怪談牡丹灯籠」

2020年  「大江戸繁盛記 四谷怪談」「新日本風土記 妖怪の国 精霊の森」「業界怪談シーズン1」「怖い絵本(現在も断続的に放送中)」

2021年  「劇画怪談(3回シリーズ)」「関口宏のそもそも 妖怪」「業界怪談スペシャル(再編集)」

2022年  「ホラー短歌の世界へようこそ(全6話)」「歴史探偵 妖怪大国ニッポン」「業界怪談シーズン2」「水木しげるの妖怪バンザイ!」

2023年  「NHK WORLD YOUKAI(国際放送、外国人向け番組 全?話)」「業界怪談シーズン3」「業界怪談シーズン4」

2024年  「新日本風土記 入らずの森 畏れの杜」

 どうです、この威容。いやむしろ異様と言うべきか。毎年のように、何やら怪しげな番組を放送しているじゃないですか。僕が知らない番組や再放送を含めると、のべ放送回数はさらに増える。さすがの僕もあきれてものが言えない。

 もちろん天下のNHKだから、内容が高度な教養番組めいたものが多いが、なかには「この番組、ホントに作る必要あったのか?」と疑問に思うようなものもある。「劇画怪談」や「ホラー短歌の世界…」などはその良い例で、いったい誰がこんなアイディアを思いつき、なぜそれを採用したのか、理解に苦しむ。

 そんな中で昨年は、一覧にもあるように心霊にかかわる番組は、僕が知る限り「新日本風土記」1本だけ。それも地域の伝承を紹介するスタイルのおとなしめの演出だ。そういえば長寿番組「ダークサイドミステリー」も数年前から心霊やUFO・UMAといったキワモノは取り上げていない。NHKの心霊熱、少し下火になってきたか?

 さて、ホラーマニアの僕は、今年も7月の初めに心霊番組の放送予定を調べてみた。これは僕にとって恒例行事みたいなもので、きちんと調べて紹介してくれるブログが複数存在するので重宝している。だがしかし、今年の心霊番組は…あらあら、ほぼ全滅じゃないですか。何しろお約束の「本当にあった怖い話」までもが「放送されると思うが現時点で情報なし」というありさまだ。

 確かにここ数年、民放の心霊番組はヤラセ疑惑などで叩かれ、放送自粛かなんか知らんけど、見る影もないありさまだ。NHKについてもその時点で確認できた心霊系は皆無。ようやく我に返ったか?

 ところが7月の下旬になって、(僕にとっては)いきなりTBSが「口を揃えた怖い話」を放送。改めて調べてみたところ、情報が更新されていて、8月14日にはテレ東が「真夏の怪奇ファイル」を、同じく16日にはフジTVが「本当にあった怖い話 夏の特別編」を放送予定であることが判明。NHKでも8月3日に「業界怪談スペシャル(再)」と「こわでん 怖い伝説3(再)」をBDレコーダーの番組表で初めて確認した。さらに同じ日に、「業界怪談シーズン5」が放送を開始するというので、慌てて録画予約。今回も3回構成らしい。新規ということは、事前の情報がなかっただけで虎視眈々と制作を進めていたということだ。NHK、我に返ったと思った僕がバカだった。まったく反省の色がない。けしからん!

 だがそんなことを言いつつも、もちろんホントはうれしくて仕方ない。特に「業界怪談」シリーズは「友人のいとこの姉」とか「リアクションの大きい芸人」とか「すぐ体調を崩すアイドル」とかではなく、その業界の、当時者本人が顔出しで登場するのでリアリティが半端じゃない。仮にこれがヤラセだとしても、ここまでこだわれば文句はない。そういえば「異界百名山」も同じような構成だったっけ。さすがはNHK、腐っても鯛。

 というわけで日本放送協会様、僕は受信料をきちんと払っています。だからこれからも民放がまねできないような良質(?)の、けしからん心霊番組をたくさん放送してくださいね。

 

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 移ろい

 先週、カミさんが飲み会だというので車で送る機会があった。場所は昔僕が根城にしていたカフェバーがあるあたりだ。そういえば10年近く顔を出していない。昔は毎日のように通ったものだったんだが。

 このまま行くと少し早く着きすぎるので、ちょっと遠回りをして、その店の前を通ってみることにした。40年からの歴史のある店で、やり手のオーナーが世間の流行りを積極的に取り入れるので、週末の夜更けになると、店内はいつも若い世代で満席だった。残念ながら僕が親しかったそのオーナーは、7年ほど前に後継者に店を譲って引退したらしい。だが店の名前は変わっていないはずだ。

 店が見えてくると、ある異変に気付いた。遠くからでもわかる店のシンボル、大きな弧を描くネオン管の矢印が見当たらない。角を曲がって店の正面に回ると、店内は暗く、ドアにはシャッターが降りていた。大きなガラスにプリントされていたはずの店名も見当たらない。「中、何もないみたいだよ…」とカミさんが言う。えっ、潰れた…?

 大学時代に常連だった喫茶店はとうの昔に無くなった。足しげく通ったビストロは20年ほど前に次第に勢いが衰え、今はもう無い。そして今、昔からのなじみだったカフェバーまでもが無くなるのか。ネットで見る限り、まだ閉店していないみたいなんだけど、今回店の前を通ったのは営業日の営業時間。オーナーが変わってしまったから電話してみるのも何となく気まずいし…。後でもう一度、行ってみるしかないか。

 自分はちっとも変っていないつもりでいるのに、世の中はどんどん変わっていく、そんなことを実感させられた出来事だった。案外他人から見れば、僕も相当変化して見えるのかもしれない。いずれにしても、こうして自分が慣れ親しんできた場所が消えていくのを目のあたりにするのは、なんとも寂しい限りだ。

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 音楽に合う酒

 さて、夏。休日の真昼間、何となく聞きたくなるのが、僕の場合ボサノバだ。ド定番の「イパネマの娘」や「ブラジル」なんかを聞いていると、庭に出てキンキンに冷えたカクテルを飲みたくなる(出ないけど)。それもマティーニとかではなくて、少しソフトなマルガリータあたりがいい。フローズン・スタイルのダイキリもいいな。変化球としてはグリーン・アイズなんてのもある。ちなみにこれらのベースはいずれもラムかテキーラいったラテン系の酒。僕はあまり聞かないけど、ハワイアンなんぞを聞きながら、「ブルー・ハワイ」や「マイタイ」などのトロピカル・カクテルだったら、これはこれでドンピシャだろう。

 夜は夜でオーソドックスにジャズでも聞きながら、それこそマティーニか、それともバーボン・オンザロックか?ジン・トニックも悪くはないが、これはどちらかというと、演奏が始まる前の前哨戦というイメージだな。あるいは音楽をコンチネンタル・タンゴに変えて、もう一度ラテン系のカクテルでいく手もある。

 ついでに言うと、秋にシャンソンを聞きながら…というのならワインもいい。でも今は価格が高騰してるからなあ。同じぐらいの品質だからといって、シャンソンにチリワインではシャレにならないし…。あるいは百歩譲って、同じラテン系だから別にいいじゃんか、という考え方もあるけれど。

 これが季節感皆無のブリティッシュ・ハードロックとかなら気軽にビールとかスコッチでもいいんだけど、こうしてあらためて考えてみると、結構難しい。というか、そもそもシャンソンのレコードなんてうちにあったか?もし手元にそれがあるなら、キールもしくはキール・ロワイヤルもアリだな。でもベースとなる白ワインやシャンパンを一晩で使い切るのは、酒豪でもない限り難しいだろうし(開栓したら1日で味が劣化する)、かといってハーフボトルだと、カミさんと二人ではちょっと物足りない。そして悲しいかな、ここでも当然価格の問題がついて回る。高いよお、まともなシャンパンは。

 さて、今マイブームになっているロックンロール。実はこれが一番悩ましい。ポニーテールの女の子なんかを思い浮かべると、なぜかクリームソーダしか出てこない。リーゼントのお兄ちゃんでやっとバド(ワイザー)の瓶ビールか。でもバドはあまり好きじゃないんだよな。それにボトルをさがすのが面倒そうだ。これもコロナビール(メキシコのビール。多くが瓶で流通)じゃさまにならんし。いや、ワンチャンありか?ということで調べてみたら、コロナビールの国際的な流通が始まったのは1970年代。あ、だめだ。やっぱり1950年代のロックンロールにはそぐわない。

 いろいろ書いたので鼻持ちならない奴だ、と思われたかもしれないけれど、酒を飲むにあたって、こういった文化的な楽しみ方を目指すのもまた一興であろうと、そう言いたかったわけで。でも正直、僕はあまり量のいかない人なので、マティーニなんかをちゃっちゃと飲んだら2~3杯で足がふらつく。かといって、ああいった冷たさが身上のショートカクテル(氷が入っていないので短時間で飲まないと温度が上がる)をじっくり時間をかけて飲むのは邪道だろう。何しろ、「15分以内に三口で飲め」なんて物言いがあるぐらいだもんな。ああ悲しい。けどやっぱり飲みたい。ということで、なんだかんだ言いながら、結局度数の低いマルガリータとかジン・トニックあたりに落ち着くのであった。今まで書いてきたのは、いったい何だったん?

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 スイカの話

 つい最近、金色(こんじき)何とかというスイカをTVで紹介していた。常識では考えられない糖度をもつというレポーターのコメントを聞いて、思わず画面に目を向けると、大きさは大玉だが果肉が黄色い。「えっ、黄色…?」あっという間に興味が失せた。

 実を言うと僕は子供のころ、果肉の黄色い小玉スイカ(今は赤い果肉のものもある)に対してネガティブな先入観を持っていた。親が小玉スイカを買ってくると、なんだか騙されたような気持になるのだ。親としてはその価格や冷蔵庫の空き容量を考えて選んでいるのだろうが、子供にとって、そんな大人の都合は二の次だ。スイカは大きくて重く、皮が厚いのがえらいのだ。そして果肉はきれいな赤色でなければならない。それを丸のまま、ビニールひもで編んだ手提げに入れて持ち帰るのが定番だった。

 今でもそうだと思うが、当時の小玉スイカは形が縦に長く、切ってみると皮が薄かった。そして何よりも違和感なのが、その黄色い果肉。僕の中ではあくまでもこれはスイカとは似て非なるものであって、僕が納得するスイカではなかったわけだ。そしてその価値判断は主に「色彩」という視覚情報によってなされていた。だから今回の金色なんとかも、果肉が黄色いことを確認した時点で興味が一気に失せてしまったのだ。これは昭和生まれの世代にとって、クリームソーダが緑色でなければならないのと同じことで、青色のクリームソーダなんてもってのほか…えっ、そんなふうに思ってるのって僕だけですか?

 そんなわけで果肉の黄色いスイカは、それがどれほど美味しいとしても、そもそも食指が動かない。「三つ子の魂百まで」と言うが、確かに幼いころ植え付けられたイメージを払拭するのは並大抵のことではない。今回知ったスイカの銘品も、結局味わうことなく一生を終えるような気がする。

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 なぜ今、オールディーズなのか

 なぜ今、と言っても単に僕の中でだけのことであって、これはいわゆる「マイブーム」の話だ。ちなみにここで言うオールディーズとは1950~60年代に流行ったアメリカン・ポップスのことだ。

 今までにずいぶんといろいろな音楽に親しんできたけれど、この先は僕なんかには到底ついていけないような音楽がどんどん作り出されていくらしい。特に「ボカロ」で作られた音楽なんて、僕にはあまりにもせわしなくて、「音楽鑑賞」どころではない。歌自体も早口で、何を言っているのかよくわからない。これについては「ラップ」も同じことで、今の若者はよくあれが聞き取れるなあ、なんて思っていたら、彼らも聞き取れないことがあるんだってさ。だから歌詞は歌詞カードやネットで理解するらしいんだが、そもそも歌詞が聞き取れないんじゃ歌を聞く意味がないな、なんて思ってしまう。おそらく今の若い人たちは音楽に関して、僕らの世代とは全く違った価値観を持っているのだろう。

 こうした新しいタイプの音楽に比べると、オールディーズは単純明快だ。特に50年代なんて、歌詞なんかどうせ色恋沙汰でしょ、という感じだし、英語の表現自体も簡単だから、英語をきちんと勉強していれば(してないけど)だいたい意味は分かる。単純明快なだけに、何も考えずに聞けるのも良い。では僕がお気に入りの、1970~80年代についてはどうか。

 このころの音楽にも名曲はたくさんあるが、今思うと内容はかなりヘビーだった。すべてとは言わないが、政治的だったり思想的だったりで、それこそ歌詞カードの和訳を読んで連帯感を感じてしまうような、メッセージ性の高いものもあった。そういった意味では、当時の僕たちもそれまでとは違う価値観で音楽を聴いていたと言えなくもない。それはそれで意味のあることだったと思うけれど、そうしたメッセージも、今では人々の口の端にも上らない。やはりあの時代の音楽はあの時代を生きた者にしかわからない。もっと言うならあの時代に聞いてなんぼの世界だ。それを思えば、オールディーズは歌詞の内容が普遍的な男女の恋愛だったりするから、場合によっては70年たった今でも何の抵抗もなく聞けてしまう。

 良い例として、今ではスタンダードと言ってもいい名曲「アンチェインド・メロディ」は、1955年にリリースされて大ヒットし、1965年にはライチャス・ブラザースのカヴァー・バージョンが再ヒット。さらに1990年にはこのバージョンが映画「ゴースト/ニューヨークの幻」の主題歌に使われて再々ヒットとなった。現在そのカヴァー・バージョンは、新旧合わせて500を超える。普遍的な音楽は時代を超えて愛され続ける、ということだ。

 つまるところ、オールディーズの魅力はそのシンプルな構成と内容の普遍性にあると言えそうだ。そして時にそのメロディーは、こうした音楽が象徴する古き良き時代、人々が今より楽観的で、未来という言葉に一点の曇りもなかった時代へのノスタルジーを呼び覚ます。僕のような50年代を知らない人間でさえ、憧れを禁じ得ない。これもまた、大きな魅力の一つと言っていいのではなかろうか。それはつまり…えーと…要するに、歳をとったということですね。

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 6月のスズメたち

 ここ数年、6月は庭にやってくるスズメを眺めながら暮らしている。春に生まれた雛が独り立ちする時期に当たっているので、一つの群れの中にいろいろな行動パターンが見られ、特に子育ての様子や、やっと自力で飛べるようになった小さな雛たちが少しずつ成長していく様は見ていて何ともほほえましい。

 この時期はまだ成鳥と雛の見分けがつきやすい。顔の部分の色が薄いのが早い時期に生まれた若鳥で、嘴の端にまだ黄色みが残っていて、ふっくらした体型の個体は遅く生まれた雛だ。冷蔵庫で2日ほどおいて固くなったご飯を庭先に撒いてやると、親子で飛んできて、口移しでご飯粒をもらっている。飛べるようになってもしばらくは親鳥に食べさせてもらうわけだ。加えて今年は、雨の日に成鳥がご飯粒を口いっぱいに咥えて飛び去る様子が何度も見られた。おそらくまだ飛べない雛のために親鳥が巣に運んでいるのだろう。

 興味深いことに、親子連れは他の成鳥の食事が終わった頃を見計らって降りてくることが多く、餌に群がる成鳥の勢いに気おされて(かどうかは本人に聞いてみないとわからないのだが)、時間調整をしているように見える。これが一般的な傾向なのか、この群れの特徴なのかはわからない。

 こうした時期が過ぎると、雛がいくら鳴いても親は餌を運ばなくなる。仕方なく自力で餌を食べるようになるのだが、まだ上手に食べることができず、成鳥が梢に戻った後も地面のあちこちで食べ続けていたりする。雛たちが最も無防備になる瞬間で、後述する理由から見ている側も気が気ではない。

 ところでこの時期の雛は、餌をくれる人間に警戒心を持たなくなるようだ。それどころか、時には近くまで寄ってきて催促したりする。ご飯を撒いてやると手元まで寄ってきて食べることもあり、実に愛らしい。が、これは困ったことでもある。人里で共存しているとはいえ、スズメは自然の一部であると考えるべきだろうし、うちの庭は地域猫の通り道になっているので、あまり警戒心を鈍らせるとスズメたちを危険にさらす恐れがある。加えて今年は、敷地内で体長1メートル近くあるヤマカガシ(蛇の一種)をすでに2度目撃しているので、これも心配の種だ。ネットの動画では、手に乗ったり、手の中で眠りこけたりしているスズメをよく見かけるが、少なくとも我が家の環境ではそこまでやるのは行き過ぎだろう。

 さて、スズメたちだが、盛夏の頃には今年生まれた雛たちも成鳥と見分けがつきにくくなってくる。そうなればもう一人前だ。その頃には庭に咲く夏の花々の手入れや、隣に借りた畑で育てている夏野菜の収穫が忙しくなる。そうなるとスズメどころではない。カラスが収穫前の野菜を狙って集まってくるからだ。

 正直なところ、カラスだって腰を据えてじっくり付き合えば、それほど悪い奴だとは思わない。だが利害が絡む以上甘い顔はしていられない。今年生まれたスズメたちが独り立ちした後は、カラス対策に追われる毎日だ。こんな風にして、僕の夏は過ぎていく。

 リビングの目の前に勝手に生えた野ばらの枝でおねだりするチビ(仮)。ふっくらとした体形で、嘴の端がまだ黄色い。距離は2メートルもない。

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 ボックスアートの価値

 僕がプラモ好きなことは以前からお伝えしていると思うが、最近Youtubeでだったかな、同じくプラモ好きの中年男性がこんなことを言っていた。「ボックスアートがカッコよければ、キットの出来が悪くてもあまり気にならない。そうなんですよ。キットよりボックスアートなんです。」

 これは僕にとってすごく共感できる話だ。もしかすると同年代のプラモマニアは、そのほとんどが同意するかもしれない。ちなみにここで言うボックスアートとは、プラモデルの箱絵のことだ。

 僕が子供のころは、完成品の形が実物とまるで違うようないいかげんなキットが数多く存在した。いわゆる子供だましの「オモチャ」的なもので、かといって大人向けの「模型」であっても、そのままではまともに組みあがらないキットもあり、ちょっと油断すると接着面がずれたり隙間が空いたりすることはしょっちゅうで、ひどいときには爆撃機の機体がねじれていて、どうあがいても左右のパーツが接着できない、なんてこともあった。

 今だったら大炎上ものだが、当時は取り換えてもらうか泣き寝入りするしかなくて、それが当たり前みたいに思っていた。それでもかっこいいボックスアートが手に入れば、絵の部分を丁寧に切り取り、壁に飾ったりして、それで6割がた満足していたような気がする。

 逆にボックスアートの出来が悪いと、キットの良し悪しにかかわらず購買意欲がわかないことが多く、こうしてみると、買う側はもちろん売る側にとっても、ボックスアートの出来は売り上げを左右する重要な要素だったに違いない。

 有名なプラモデルの箱絵師に、戦車プラモのボックスアートで有名な高荷義之という人がいる。彼の描く作品はたくさんの脇役(軍用車両や兵士たち)によるドラマチックな演出が特徴だったんだけど、アメリカではキットに入っていないものをボックスアートに描くとクレームがつくということで、日本製プラモデルの輸出が盛んになると、発売当初は戦車とともに描かれていた機関銃を構える兵士や随伴するサイドカーがいつの間にか消え(※)、同じキットに細部の異なる2種類のボックスアートが存在することになった。

 さらに価格改定時にボックスアートそのものが変更されることもあり、中古プラモ市場では、状態さえよければ古いボックスアートのキットのほうが高値がつくことが多い。

 例えば僕が5年ほど前に手に入れたタミヤの1/35パンサー戦車のリモコン版(初版・後期)だが、これはボックスアートが大西将美という、これまた有名な箱絵師の初期の作品で、発売当時(1968年)850円だったものを2万円ほどで購入した。今、同じものをネットで探すと6万円以上の値がついている。一方同じキットでありながら、1974年発売のボックスアートが新規のもの(当時1,300円)は今も2万円ぐらいで手に入れることができる。

 ところでこのキット、箱を開けてみると、パーツやランナーが緩衝材で包まれていて、一見何がなんだかわからない。輸送時に部品を保護するために梱包したんだろうけど、売り手側の「貴重なものなんですよ」という気持ちは伝わってくるものの、この感覚は子供の頃の、プラモの箱を開けた時の心躍る気持ちとは全く別のものだ。いくら希少性が高いとは言っても、これはちょっとやりすぎじゃないの?という気がする。「間違っても作ってはいけません。末永く大事に保管すること、それがあなたに与えられた使命なんですから。」そんな声が聞こえてきそうだ。こんなことされたら作れないよなあ。でもさっき書いたように、ボックスアートが手に入っただけでほぼ満足だから、別に作らなくてもいいっちゃいいんだけどね。

 僕にとってプラモはあくまでもプラモでしかない。そしてボックスアートは間違いなくその価値の大部分を占めている。それは子供の頃の思い出や憧れを買い集めるようなもので、投資などという大人の都合が入り込む隙は微塵もないように思うが、世間の見方は少し違うようだ。

 もし仮に、今手元にある中古プラモのコレクションをすべて売り払ったら、おそらく買い取り値でも20~30万円ぐらいにはなるだろう。20年もすれば50万円を超えるかもしれない。だからと言って、遺書に「困ったときにはこのプラモデルをお金に換えて、生活費の足しにしなさい」なんて書くのは、なんか違う気がするなあ。

※ パソコンなど無い時代だから、箱絵師が絵の具で上描きして修正していた。よく見るともとの絵柄がうっすら見える、なんていう例もある。

 タミヤのパンサー戦車。初版の大箱(大西将美 画)。現在6万円ぐらい。この独特な色使いが何とも言えない雰囲気を醸し出している。
 改訂版の小箱(高荷義之 画)。こちらは現在2万円前後。中身は同じものなんだけど、このリアリズムに徹したボックスアートも欲しくて、結局両方とも購入した。僕が買ったときはどちらももっと低価格だった。
 左が初版(大箱)、右が改訂版(小箱)。左の箱の緩衝材は業者が気を利かせて(?)入れたものらしい。見てのとおり、大箱の頃はブリスター・パッケージを使った豪華版だった。