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 セカイノオワリ

 ネットで読んだ話。原宿だかどこだかで、新しいコンセプトのカフェがお目見えした。なんでも「友達カフェ」とかいって、店員さんが客に対してみんなタメ口(ぐち)で対応するそうだ。それどころか、友達を演じてくれるというんだからびっくりだ。店に入ると店員さんが、「久しぶりじゃん」なんて言ってくれる。これが好評なんだって。

 遙か昔、遠い銀河の彼方のアキバ帝国で、入店すると「お帰りなさいませ、ご主人様!」とか言ってくれるお店がその勢力を広げ、後に「お帰りなさいませ、お嬢様!」なんて言ってくれる店まで現れた。こうした店が大繁盛していると聞いた時は「世も末だな」と思ったもんだが、よく考えてみれば、歴史の古い「スナック」や比較的新しい「ホストクラブ」などもこの部類だろう。基本的に男女の交流をポジティブな形でバーチャル体験している、つまりそういうことだよね?それがいよいよ、お友達までバーチャル体験で間に合わせることができるようになったわけだ。そうか、世も末だと思っていたら、すでに世界は終わっていたのだな。

 この記事を読んで、僕の脳内で一つリンクした話題がある。それは「バカの壁」等の著作で有名な養老孟司氏の主張だ。僕はNHKの「養老先生 ときどきまる」という番組が好きで、いつも「養老先生」という言い方をしているのだが、その先生が、著書の中で特に強調している「身体で学ぶ」という言葉が浮かんできたのだ。

 先生曰く、世の中は「情報」に満ちあふれていて、人間まで「情報」として捉えようとしているという。情報なら脳だけで処理できるからね。でも、人間は単なる情報ではないし、一般論的な「人間とは何か?」という情報を処理できたとしても、一個人となると正確に情報化することは不可能だ。なんとなれば情報量が多すぎるし、人間は刻々と変わっていくからだ。それを手軽だからと言って、変換可能な範囲で情報化して、それを処理しようとしても、そりゃあ無茶ってもんですぜ。そんでもって、処理できない(=わからない)から得体の知れないHow to本なんかが売れまくる。例えば「上司と上手くやる方法」という本があったとしても、その本が想定している上司はあくまで「上司とは何か」という情報であって、読者が対峙している生身の上司とは食い違うこともたくさんあるはずだ。それ以上は現実に上司と相対して、感覚で覚えていく(つまり身体で学ぶ)しかない。勿論ある程度時間もかかる。だけど今の若い人はその時間を辛抱することができず、さっさと転職していくそうだ。

 バーチャルって、確かにお手軽ではある。でも現実と比べればそれを構築するための情報量なんて取るに足らない。何かの判断材料とするにはあまりにも脆弱だ。しかも現実は刻一刻と変化する。人間と同じだ。その書き換えは自分で実地に行うしかない。感覚を駆使して、現実の世界でだ。それを面倒に思ってバーチャルに依存するなら、いつまでたっても「本物」は手に入らないと思った方がいい。

 お友達カフェの店員はすべて演技・演劇の経験者。エンタメ業界の経験者もいるらしい。メニューも凝っていて、「何だっけ、あの丸いお菓子の・・・」という名前のクッキーとかが並んでいる。注文するだけで自然な会話が成立する脚本のようなものだ。遊びに行くのにはいいだろうし、ある意味体験型の演劇と言えないこともない。だが心理的にどっぷり浸かってしまったら・・・これはちょっと怖いよなあ。

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 ヘミングウェイ スタインベック そしてジョーンズ。

 少し前にキンチョーのラジオCMについて書いたが、その後、なんとなく思い出してサントリーの缶コーヒー、BOSSの歴代CMをYoutubeで見た。やっぱり良いなあ、このシリーズは。ただ笑えるだけじゃなくて、そこにはペーソスの要素もある。選曲も素晴らしく、油断していると涙が出てくる。サントリーのセンスはただものじゃない。

 サントリーと言えば、思い出すのが1980年頃のウィスキーのCMだ。特に記憶に残っているのが、ローヤルのヘミングウェイ編とスタインベック編。せっかくなので、ネットサーフィンよろしく続けて検索。久しぶりに聞く小林亜星氏の音楽が絶妙で、またしても涙腺をやられてしまう。たった60秒だよ?なんで?

 ユーザーのコメントを読むと、おそらく僕と同じか、それより上の人たちが、小さい頃に感じた大人になることへの憧れについて書いていた。「いつかウィスキーの似合う大人になろうと思った」だの、「頑張った時期もあったけど、今では無名の焼酎です、反省」なんていう味のあるコメントもある。なかでも印象的なのは、そこかしこに散見する「良い時代だった」というコメントだ。

 このCMのメインとなるキャプションは、「男はグラスの中に自分だけの小説を書く事ができる」というもの。取り上げられている二人の作家が男だから、モノローグは勿論男目線だし、モチーフになっている小説の時代背景だって「そういう」時代だから、CM自体が男臭くなるのは当然だ。でも、現代にこのCMを流したら、「女には書けないというのか!」とか、「男女平等の価値観に基づいていない!」だのという人が、それも一人や二人でなく現れるだろう。やだねえ。細かいことは言いっこ無しだよ。女性向けのお酒のCMは別にあるんだしさ。え?そもそもそれが差別だって?そうなんですか。

 正直言って、僕は男らしさとか女らしさは大切だと思っている。女性には重すぎるであろう荷物を持ってあげたり、仕事でミスって落ち込んでいる男性の肩にそっと手を置いたりすること自体を「やってはいけない」という人はいないだろう。もっともするかしないかは当事者の決めることだけど。

 僕は「上級職は男に任せろ」などと言っているわけでは無い。ただ、生物学的に言っても、文明が発達する以前から男性と女性にはいろいろな「差」があるじゃんか、それを社会通念としての「平等」という概念で語ると思わぬ間違いをしかねないよ、と言っているのだ。その点、「ヘミングウェイ編」はよくできている。足を骨折して動けない初老の男性が、ガーデンチェアでグラスを傾けながらヘミングウェイの作品世界に浸り、いつしか眠りに落ちる。それを見た妻が微笑みながら、ブランケットを持ってきてそっと掛けてやる。この二人の関係はこれでいい。誰かがそれをとやかく言う必要なんて無い。もし奥さんがその関係に不満を感じているのなら、たたき起こして「さっさとうちに入りなさい!」と言えばいい。それだけのことだ。それを他人がいろいろと余計なことを言うもんだから、話が複雑になる。おそらく言わずにいられない連中は「本当にあなたはそれで良いの?」なんて言い出すんだろう。だからいいんだって、任せておけば。自分と同じ価値観を持ってもらおうなんて思わなくていいんだよ。みんなそれなりに考えを持って生きているんだから。

 現代は複雑になりすぎた。あるコメントは、「もうこんなCMは作れないだろう。面倒な時代になったものだ」と書いていた。同感だ。これらのCMは昭和の時代に作られた。以前昭和という時代について書いたが、昭和の美徳の一つとして、「細かいことを気にしないおおらかさ」があると思う。ネットという、個人が簡単に意見を述べることのできる環境も無かった。現代では、言いやすくなった分、軽率な意見や間違った意見も多く世間にさらされるようになり、新たな問題を生み出している。 

 現代にも細かいことを気にしない人はまだまだたくさんいる。気にしないからやたらと発信するようなことはしない。目立たないから少数派のように見えるだけだ。「言ったもん勝ち」と言うが、そんなもん、勝ったと思わせておけばいいだけのことだ。

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 他にやることないのかな。

 お馬鹿議員や阿呆なYoutuberが逮捕されたりすると、そのシンパ(サイザー)たちが一斉に擁護の声を上げるらしい。なかには警察署まで押しかけて抗議する者もいると聞く。とりあえず、犯罪者だぜ?こういう人たちは、他にやることはないのだろうか。アメリカで現在のバイデン政権が誕生した時、陰謀論を主張したトランプ氏を擁護して、日本でデモを行った人たち(日本人だよ)がいる。この事例など、僕個人としては全く理解できないんだけど。

 最近こういった「なぜそんなことに時間とエネルギーを使っているの?」と思いたくなるような話が後を絶たない。上記したような例の他にも、「蛙の声がうるさい」とか、「ツアーバスの運転手が休息時間にカレーを食うのはけしからん」だとか、せっせとビラを作り、パウチまでして張り紙をしたり、わざわざバス会社にクレームの電話を入れたり。少し前には「郵便配達員がコンビニで飲み物を飲んでいたぞ、どういうことだ!」などという、ホントに「え?どういうことだ?」と聞き返したくなるようなクレームが郵便局に寄せられたなんて話まであった。確か救急隊員についても同じような事例があったっけ。彼らは別に常識を超える頻度で小休止を取っていたわけではないし、暑い盛りの水分補給はどんな職種であっても今や必須事項だろう。

 こういうことを言うのはポリシーに反するのであまり言いたくはないのだけれど、僕の感覚からすると、こういった行動にうつつを抜かす人たちとは、より生産的なことをする手立てや意識がない人たちなのかな、なんて思ってしまう。あるいは今までの人生が不幸続きで、ネガティブな思考の、負の連鎖に陥っている人たち。僕はそこそこ楽しい人生を送っているし、趣味も多いので、そういったことが目につき、仮にそれがクレームに値するとしても、よほど実害がない限り行動に移すことはほとんどない。そんな時間も労力も惜しいからだ。時間と労力は、もっと楽しめることのために使いたい。この記事も、そうしたポリシーに反することになるから「あまり言いたくない」わけだ。でも近頃のこの傾向は目に余るものがある。よく考えもせず、一時の感情で行動しているとしか思えない。だが本人は理論整然と、僕らなどには理解すらできないような大義のもとで正義を行っているつもりらしい。こうした人たちの心理については、専門家があちらこちらで意見を述べているので、分析は彼らにお任せするが、あまりいい話でないことは確かだ。

 今思えば、こうした状況がエスカレートすることは、数年前に「自粛警察」が取り沙汰された段階で気付くべきだったのかもしれない。あのときは「コロナ」という大前提があったが、それが下火になった今では、それに変わるものを積極的に探しているようにすら見える。彼らは時に、悪者を無理矢理作り出して攻撃する。最近よく話題に上る「カスタマー・ハラスメント」などはその良い例だ。勿論そこには「大義」など無い。だから彼らは、自分より強そうな相手に食ってかかるようなことは絶対にしないのだ。

 話は戻って、では先ほど言及したお馬鹿議員や阿呆なYoutuberはどうか。なぜ彼らは、ごく一部とはいえ、大衆から支持されるのだろうか。もしかすると、彼らはアンチ・ヒーローと目されているのか。もしそうだとしたら、勘違いも甚だしい。アンチ・ヒーローというのは、やっていることはめちゃくちゃでも、その意図するところは常に正しい。だからこそ支持される。たとえば、映画のなかのアンチ・ヒーローが戦う相手は、万人がそれと認める体制のひずみであったり、誰が見ても悪人なのに、法の網をかいくぐる術をもっているような連中だ。だからこうした議員やYoutuberをダーティ・ハリーやクールハンド・ルークと一緒にされては困るのだ。むしろ成敗される側だろう。

 もしかしたら、今の日本はあまりにも平和すぎるので、感覚が麻痺してしまって、見るべきものが見えなくなっているのかもしれない。勿論平和であるに越したことはないが、それが理由で正しい判断ができなくなっているとすれば、それはそれで問題だ。何はともあれ、社会的な良識と、個人の感情を混同してはいけない。それともう一つ。個人が誰のシンパになろうと自由だが、その対象が本当にシンパとして支持するに足る人物かどうかは、よーく考えてみた方がいい。

付記 最近亡くなったあるタレント。生前、ネット上でかなり酷く中傷されていたらしい。今日読んだある記事では、それに関わった人の多くは訃報を聞き、死因が自殺らしいと報じられると、慌てて書き込みを削除し始めたそうだ。だが一部の人たちは彼(彼女?)が亡くなった後も誹謗中傷を続けているという。それが彼らの選んだ生き様なのであれば、当然そのために多くの時間を費やすだろう。だがその行為が人を傷つけ、時に命まで奪い、しかもその罪深さに気付いていないとしたら、本当に哀れむべきは書き込みをした当人ではないのか。

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 夏と言えば怪談 2023「あるライフプラン・コンサルタントの場合 3」

(前回からの続き) 若くしてご主人に先立たれたKさんは、最近新しいパートナーに出会った。その男性は一人暮らしで、夕食は近場の飲食店で摂ることが多いのだそうだ。これはKさんがその男性から聞いた話。

 ある夜、その男性がいつものように夕食を摂ろうと、会社帰りにとあるファミリー・レストランに寄った時のこと。店内に入ると、ウエイトレスが声を掛けてきた。「いらっしゃいませ!三名様ですか?」男性は一瞬動きを止め、周りを見回した。客は自分の他には一人もいない。「・・・一人ですけど。」「あっ・・・はい、失礼しました。どうぞこちらへ。ウエイトレスも一瞬戸惑ったようだったが、そのまま男性を席まで案内した。その後ウエイトレスは何事もなかったかのように自分の仕事をてきぱきとこなし、男性も普通に食事をして帰宅した。その間、男性が何らかの違和感を感じたりすることはなかったそうだ。

 あの一瞬、ウエイトレスは一体何を見たのだろうか。あと二人の客というのは、その男性に憑いてきたのだろうか。それともたまたまそこに居合わせた何かだったのか。勿論見間違いの可能性もある。ファミリー・レストランの入り口はガラスが多く使われているから、夜ともなれば店内の人影が映り込んだりする可能性は格段に上がるだろう。ガラス越しに見えた次の客を男性の連れと勘違いすることもあり得る。だがこれについては男性自身が他に客がいなかったことを確認している。ウエイトレスのふるまいも気になる。三人ですか、と言っておいて、一人と訂正されても大きな動揺もない。こうしたことに慣れているように見える。だとすれば、このウエイトレスは「見える人」だということもあり得る。もしかしたら、バックヤードで同僚に「また見ちゃったよー」などと、普通に話しているかもしれない。そしてこの後、話は一層不可解な展開を見せる。

 この男性が後日、同じファミリー・レストランに入った。その時は入店時に何か起こるでもなく、無事に席まで案内されたのだが、その後がいけなかった。案内してくれたのとは別のウエイトレスが、水の入ったグラスを三つ、男性の席に運んできたのだ。そのウエイトレスは、一人で座っているKさんを見て、怪訝な顔をしながらそのうちの一つだけをテーブルに置き、その場を離れた。男性がその後を目で追うと、残りのグラスを他のテーブルに運ぶでもなく、首をかしげながら配膳カウンターに戻って行ったという。さて、これをどう解釈したものか。またしても見知らぬ二人が同席していたのだろうか。もしそうなら、その男性に怪異の理由があると考えるべきだろう。だがこの手の怪異譚では、直前に客の友人や家族が亡くなっているパターンがほとんどであるにもかかわらず、男性にはそのような事実はまったく無いそうだ。ところが、僕が後に聞いた話によると、実はこの男性自身がただ者ではなかったのだ。

 Kさんが知り合ったばかりの頃、この男性は県外の賃貸しマンションに住んでいて、ある時その近くの観光地を巡ろうと、子供連れで遊びに行ったことがあった。すると例の長男坊が右腕が痛いと言い出した。「このマンション、変だ。上か隣でなんかあったんじゃない?」これを聞いて男性が言うことには、上の部屋も右隣も、いわゆる「心理的瑕疵(かし)※」に当たる出来事があったそうだ。しかもこの男性、誰もいない自室で就寝中に、女とわかる手に両足首を摑まれて飛び起きたことがあるという。なるほど、Kさんと馬が合うわけだ。

 Kさんのご家族は別にしても、亡くなられた先のご主人は「見える人」で、現在のパートナーの男性も怪異の体験者。勿論、人には言えない体験をしている者同士のシンパシーということはあるだろうが、よくもまあ、これだけの体験談が集まるものだ・・・そこまで考えて、ふとある疑問がわいてきた。集まるって、どこに?僕はKさんに冗談半分でこう聞いてみた。「あのさあ、なんだか現象自体がKさんを中心に起こってるような気がしない?」すると彼女は「いやあ、そんなことないですよ。」と、事もなげに笑った。「だって、多かれ少なかれ、みんな経験してることじゃないですか。」いやいやいや、それは違うと思うぞ。    

※ 心理的瑕疵とは、賃貸し不動産等で、借り主に心理的な抵抗を感じさせるような要因のこと。例として、過去に事件・事故があった、近隣に不快な施設がある等があげられる。特に人が亡くなっている事件・事故に関しては、いわゆる「事故物件」認定の理由になることが多い。

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 夏といえば怪談 2023 「あるライフプラン・コンサルタントの場合 2」

(前回より続く) 保険屋のKさんがまだ若かった頃(と言っても、Kさんはまだ若いんだけどね)、とあるゴルフクラブのレストランでバイトをしたことがあったそうだ。先に言っておくと、僕の住む街(というか市)には、T城址という、TVで紹介されたこともあるそこそこ有名な心霊スポットがある。小高い丘の上にあり、今は公園として整備されていて、ちょっとした観光名所でもある。たいした標高ではないものの、アクセスするにはヘアピンカーブのある坂道を登らなければならない。以前この道でヤンチャなライダーの事故が多発し、現在はバイクの乗り入れは禁止されている。事故を起こしたライダーのなかには、「深夜に白い服を着た女性を見て、動揺してハンドル操作を誤った」と報告する人もいるという。「城址」という割には、落ち武者の霊といった話はあまり聞かないが、今でもこの「白い服を着た女性」や「首のないライダー」の目撃談が後を絶たない。Kさんのバイトしていたレストランは、このT城址に隣接するゴルフクラブの建物の中にあった。

 あるときKさんが勤務中に、バイト仲間が体調を崩したので控え室で休ませた。しばらくすると戻ってきたが、あいかわらず顔色が悪い。Kさんたちが大丈夫か、と聞くと、彼女はこう言ったそうだ。「このゴルフクラブ、従業員用の託児所でもあるんですか?上の階で子供がバタバタ走りまわっていて、うるさくて全然休めませんでした。」Kさんたちは思わず顔を見合わせた。というのも、そのレストランには上の階などなかったからだ。勿論屋上も普段は施錠されているので、子供が走り回れるはずもなかった。体調を崩したバイトの女性はまだ入ったばかりで、そういったことをよくわかっていなかったらしい。

 別のある日、Kさんが同じレストランで勤務していたときのこと。コースを回り終えたとおぼしきゴルフ客が3人、談笑しながら建物の玄関を入ってくるのが見えた。レストランに入るには、ロビーを横切って、もう一つガラスの自動ドアを通る。バイトたちのあいだでは、客が玄関を入ってくるのがガラス越しに見えると、その人数を確認して水のグラスを用意するのが習慣になっていた。

 三つのゲラスに水を注ぎ終えて顔を上げると、さっき見た3人の人影がどこにもない。不思議に思って店内を見回してみても、3人が入ってきた形跡はない。そういえば自動ドアが開く音を聞いていない。ロビーに出てみても、玄関の外まで出てみても、3人の姿はどこにもなかった。周辺には隠れられるような場所はないし、そもそも客が隠れる理由も思いあたらない。トイレにでも行ったのかとしばらく待ってみたが、結局その3人の客が再び現れることはなかった。Kさんは言う。「確かに見たんですよ。バイト仲間も見たって言ってましたし。でも考えてみると、私は基本的に「見えない人」なんで、何かしら誤解してる可能性はあるんですけどね。」ところでこの話には姉妹編がある。      (つづく)

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 夏といえば怪談 2023 「あるライフプラン・コンサルタントの場合」

 今回のタイトルになっている「ライフプラン・コンサルタント」とは、うちに来ている例の保険屋さんのことだ。そうです、あの熊の肉をくれたり、黒いボルボに乗っていたりする、あの保険屋さんです。何で言い方を変えたかって?だって、カタカナの方がかっこいいじゃないですか。

 実は前回紹介した、息子さんが変なものを見るという話も、この保険屋さんの話なんですね。ただし、彼女自身は「見える人」ではなくて、亡くなったご主人が「見える人」だったらしい。だからその血を継いだ息子さんも「見える人」。仮に見えなくても、何かあると右腕が痛くなるとか。

 話題が話題なので、なんとなくぼやかして書いていたんだけど、本人曰く、「いいですよ、普通に書いちゃっても」ということなので少し書きやすくなった・・・のかな?そんなわけで、今後は単に「Kさん」と表記することにします。何しろ家族ぐるみでいろいろな経験をしている人なので、話題には事欠かない。そこで、今日はKさんのおばあさんのエピソードを一つ紹介したい。

 今回Kさんに来てもらったのは、次女のために条件のいい保険を紹介してもらおうと思ってのことだ。前回その話をして、今回は書類を作る段取りだ。Kさんはこう切り出した。「実は前回説明した内容に訂正があるんです。」前回の内容?それは僕の入っている保険のことかな。それとも娘が入る新規のほうのことか?「あれ、寺でも神社でもありませんでした。」「は?」「昔祖母が取り憑かれたときにお世話になったのって、近所の拝(おが)みやさんでした。」そっちの話かよ!ホントにこの人は、うちに何しに来てるんだか。そういえばKさんのおばあさんって、墓場から他の家の霊を連れて帰ったことがある、なんて言ってたっけな。

 そもそもこのおばあさんが、その昔、例の出先で亡くなったおじいさんの霊を慰めた人で、ある知人に言わせると、「優しいから霊が憑きやすい」特性を持っているという。この知人というのが、そういった事柄を生業とする盲目の老婆だったそうで、当時、Kさんの家では何か異変が起こるたびに、この人に相談していたらしい。Kさんのおばあさんがまだ若い頃、この老婆に「あなたは優しいから、墓参りのときに隣の墓の人(というか霊)がついてきている。戻してあげた方がいい」と言われて、祓ってもらったことがあるんだそうだ。

 ところで、Kさんが住んでいるのが割と近場だったということはもう話しただろうか?直線距離なら1キロと離れていない場所に、Kさんの実家があるのだ。だから話に出てくる場所も僕の家から近いエリア内がほとんどだ。例えば例の盲目の老婆が住んでいた場所は、聞いてみればうちの近所だったりする。散歩がてらに歩いて往復できる距離だ。おお恐。ただし、そういった人物が住んでいたという話に聞き覚えはない。僕が今の場所に住み始めたのは25年ほど前だから、おばあさんのエピソードはそれより大分前のことだろう。

 Kさんの家では、2階の向かって右側の部屋でいろいろと起こる、という話も聞いた。Kさんの家は僕がよく買い物に行くスーパーまでの道のりの途中にある。その道から右にそれて3軒目、周囲には畑が多いので車からもよく見える。この話を聞いた後、家の前を通るたびに2階の右側の部屋に目が行くようになってしまった。普段はあまり使われていないらしいが、窓に誰か(というか何か)いたらどうしよう、なんて思う。だったら見なきゃいいのに、ねえ。 (つづく)

付記 そういえば、息子さんに見えていた人物は、あれ以来見える頻度がだんだん少なくなってきているそうだ。おかげであまり気にならなくなった、とのことだ。

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 夏といえば怪談 2023 「見える人」

 少し前に、ある知人から聞いた話。今年中学生になった息子さんが、突然「脳外科か眼科に連れて行って欲しい」と言いだしたんだそうだ。息子さんは小さいころから影のようなものをよく見るそうで、最近それが人間であるとわかるほどはっきりしてきたとのこと。毎日のようにその人物が視界の片隅に現れて、何をするにも気が散って仕方がない、という。勿論、現実にそこに人が居るわけではない。ということは、つまりアレか?

 僕は言った。「それって、いきなり病院でいいのかなあ。どこか、そういう相談を受ける寺なり神社なりを探した方が良くない?」「それなら知ってるところがあります。前に祖父が・・・」「あるのかよ!」「ええ。前に祖父が遠方で亡くなったときに家族がみんな熱を出して、そのときに相談した神社があるので、そこなら相談できるかも。まあ、発熱は祖母が出向いて供養したのを境におさまったんですけどね。」血筋じゃないか。こりゃあ本物かも。「だったらまずその神社に相談してみた方がいいよ。いきなり病院だと、ろくに話も聞かずに別の科に回されるかもしれない。精神科とか。カルテだって残るだろうし。」「そうですよね。ちょっと考えてみます。」

 僕は「見えない人」だし、心霊現象について確信があるわけじゃない。もしかしたらあるのかも、といった程度のスタンスだ。だが見える人や感じる人にとって、それは日常だろうから、「そんなこと、有るわけ無いじゃないか」とは言わない。そもそも、100パーセント否定できる根拠もない。何しろ今までにも書いてきたように、あれはいったい何だったのだろうか?という経験は、僕も複数回ある。

 自分の体験のみならず、僕の周りには不思議な体験をした人が少なくない。僕が面白がるからか、そうした体験談は自然と僕のもとに集まってくる。勿論その中には気の迷いや思い込みであると判断できるものも多い。僕のように遠近両用メガネを掛けていると、視界の片隅で影が不自然に動くことなどしょっちゅうだ。だがどうしてもそういった説明では納得できないものもある。今回の息子さんのように、それが人の形をしているというのであれば、おそらくそれは、いわゆる「怪異」なのだろう。古来、こうした話題は人の心を魅了し続けてきた。ある意味僕も、その虜になっている一人であることは否定できない。

 これも以前に書いた気がするが、僕はUFOなら見たことがある。ただしそれは単に「あれ、あそこを飛んでいるあれは何だろう?」といった程度の、文字通り未確認の飛行物体を見ただけであって、窓があったとか、それが着陸して小さな灰色の、目がでかい宇宙人が降りてきたとかではない。だがそれらはジグザグに、鋭角的に飛ぶオレンジ色の光であったり、何度も同じ場所に出現を繰り返すまばゆいばかりの光点であったりする。説明がつかない、という意味では同格だが、心霊となると自分の目で見たことが無いからなあ。実際に見れば信じるだろうけど、できれば見たくない。それが本音だ。だから「見える人」の境遇が理解できると言ったら、それは嘘になる。でも、センス・オブ・ワンダーの塊である僕としては、全面的に否定することはしたくない。いや、むしろあったらいいな、と思う。そんなわけで、今度知人に会う機会があったら、その後どうなったかを詳しく聞いてみたい。

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 また夏がやってくる

 僕は中学校教師の職を退いてしばらく経つが、決して教育現場が嫌いだったわけじゃない。僕が現場を退いた理由は、教育現場が僕のようなタイプの人間をもう必要としていないと感じたからだ。僕には暑さや寒さを直に感じさせてくれる教室環境や、季節ごとに巡ってくる学校行事が、日本人としての季節感を感じさせてくれているように思えたし、僕より遙かに若い生徒たちとの語らいのなかで学ぶこともたくさんあった。だが5~6年ほど前、そんな僕の勤める現場にある変化が起こった。

 最初に変わったのは保護者だった。この段階では、生徒との関係は変わらず、あまり気にもしていなかった。ところがその後、変化は生徒にも及ぶようになってきた。始めは1人か2人。周りの生徒たちも変わったやつだな、という目で見ていたが、それが2~3年経つうちにそちらの方が主流になっていった。どういうことかというと、心よりも学力を大事にする生徒が増えてきたのだ。深夜まで学習塾に通い、ネットに時間を奪われ、心の育つ暇がない。人の気持ちがわからないから、陰湿なネットいじめが横行する。それを止めるために、役に立ちそうな話をしようとすると、「学力に響くから話より授業を進めてください」などと言う。「子供じゃない、これではまるでサラリーマン予備軍だ」そう感じた。

 以前、僕はよく生徒の前で「オレはな、死神博士なんだ。そんでもって、お前らはショッカーの戦闘員だ。いつか仮面ライダーを倒して、自分たちの世界を作るんだ!」などとうそぶいたものだが、言っていることは半分本気だった。何しろ仮面ライダーの「正義」は、「今ある社会の姿が正しい」ことが前提だからね。当時の生徒たちも何かを感じ取っていたのだろう、僕の話を真剣に聞く生徒が多かった。「先生、世界征服ですか?」「いや、世界は手に余るから、日本征服ぐらいでいいかな。外国語覚えるの面倒だし。何なら関東ぐらいに絞っても・・・」「先生、それならいけるかもしれないですね」そんな会話をして爆笑したこともあった。卒業生の同窓会に顔を出すと、今でも「先生から授業で何か教わった記憶はないけど、聞いた話はなぜかよく憶えてるんですよ」などと言われる。「日本征服、まだ着手しないんですか?」なんて聞いてくるヤツもいる。何でそんなことばかり憶えているんだ。

 今の学校に、ショッカーはもういない。生徒が優先するのは成績を上げること。彼らは大人に反抗する理由すら持っていないように見える。勿論誰もがそういうわけではなかったが、その比率は増える一方だ。時代の流れは一教師の手に余る。ここまで来ると、無理強いしても叩かれるだけだ。もう潮時だろう、そう思った。だが今でも教師として過ごした時間は僕にとってかけがえのないものだ。残暑の熱い日差しの中で体育祭の練習をしたり、冬の朝に凍えながら昇降口の雪かきをしたり。東日本大震災の時には、頼みもしないのに大挙して手伝いに来てくれた生徒たちと給水活動をしたっけ。大変な時期なのに、みんな笑顔だったよなあ。

 今年もまた、夏がやってくる。夏は好きだ。いろいろなことを思い出させてくれる。教員時代、生徒と同様に夏休みのある生活が続いたが、勿論教師は40日も休めるわけではない。それでも、大人になった後も「夏休み」が自分の生活の一部であることが、僕は嬉しかった。生徒とともに夕焼けや虹を眺めたことも何度もある。そして彼らとの語らいのなかで、いつの間にか若い頃に戻っている自分に気付くのだ。そんな経験のできる職場が、他にあるだろうか。けれど、それも今は過去のものになりつつある。

 あれから4年が過ぎようとしている。戦闘員たち、ちゃんとやってるか?そうだ、オレはここにいる。死神博士は今も健在だぞ。

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 夏といえば怪談 2023「貞子の落日 その2」

 (前回からの続き) 「リング」では、貞子の姿を見たものは助からない。逆に呪いを解くことが出来れば、そもそも貞子は現れない。つまり、貞子の行動パターンを報告できる生存者はいないはずだ。しかし「貞子」シリーズではそれらについて詳細に語る都市伝説が存在する。これはどう考えてもおかしい。「呪いのビデオ」の新バージョンが存在するのも変だ。新たな呪いが発動したということなのだろうか。だとすればいつ、どこで念写が行われたのか。こうしたベースとなる設定があやふやだと、ストーリー全体が説得力に欠けるものになってしまう。

 「リング」ではウィルスとの融合という設定は割愛されていたはずなのに、今更原作の設定を引っ張り出してきて、「ウィルスと同様に変異を起こす(能力が変化する)」というのも、ご都合主義としか思えない。しまいにはバッタのような形に変化したり、増殖していっぱい出てきたりする。こんなシーンを要求した監督の意向の方が恐ろしい。前回も触れたように、怨霊の物理攻撃をあからさまに描写して見せたことも、怖さが半減してしまった原因の一つだろう。そこには人間特有の心の動きが大きく影響している。

 ある日突然、高熱を発し、倒れる人が続出する。なかには呼吸困難になって死ぬ人まで出た。いったい何が起こっているのか。これは一種のホラーだ。だが、その原因はコロナウィルスという病原体であることがわかる。こうなると状況が変わらなくても恐怖は半減する。人間は既成概念に同定できるものはそれほど怖がらないのだ。ここはやはり、「何があったのかわからない、説明のつかない恐怖」がキモだ。ベースとなる事柄をきちんと設定して説得力を持たせ、隠すところは隠して恐怖心を煽る。これについては良い例がある。

 日本の怪談には珍しく、凄惨な結末を迎える「吉備津の釜(※)」。ここに登場する磯良(いそら)の怨霊は、物語の終盤で物理攻撃に及んだと思われるのだが、その手口については明らかにされない。さらに犠牲者以外、誰も磯良の姿を見ていない。読者に伝えられるのは、家の周りで聞こえる「ああ憎らしい、こんなところに護符なんか貼って」という磯良の声と、隣人が聞いた犠牲者の悲鳴、そして血にまみれた現場の様子だけだ。そこには死体さえ残っていない。そのことがかえって恐怖心を倍増させている。加えて冒頭の、浮気が発覚した後も夫を信じ、献身的に尽くす磯良の姿が、怨念の強さに説得力を持たせている。執筆された江戸時代には、すでにこうした演出方法があったわけだ。

 「リング」の成功の理由は、正しく怪談の作法に則り、人間の持つ根源的な恐怖心にアクセスできたことだろう。だが「貞子」シリーズはそれを切り捨ててしまったように見える。CG技術の発達を良いことに、ビジュアルに依存しすぎたのだ。

 「貞子」シリーズ、あんなにお金をかけて何本も作ったのに、どの作品も評価は散々だった。いくら基本がしっかりしていても、アレンジで失敗すれば、すべてがダメになる、ということだ。なんとも恨めしい話ではないか。

※ 有名な「雨月物語」の一編。自分を捨てて女と逃げた正太郎を、その妻磯良の怨念が祟る。一読の価値あり。注目すべきは、江戸時代の書物でありながら、磯良が恨めしい言葉を吐くと同時に障子に赤い光が射すなど、現代のホラー映画にも通じるような描写があることだ。そしてもう一つ、磯良は初めて出現した際には正太郎を手にかけていない。予告した後に時間をおき、散々おびえさせた上で取り殺している。「リング」における貞子は、この手順を踏襲している。

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 夏といえば怪談 2023 「貞子の落日 その1」

 そろそろ夏ということで、WOWOWでは「貞子」シリーズを一挙放送した。今回「貞子DX」を見たことで、おそらくすべての「リング」関連作をコンプリート。ただし、あまり意味は無かった。結局どれをとっても「リング」を超える作品には巡り会えなかったからだ。確かに続編が駄作、というのはよくある話だけど、「貞子」シリーズ、ちょっと酷すぎないか?

 今では長い髪に白いワンピース姿で両手をだらりと下げた貞子の姿は、国の内外を問わず定番となっている。でも一つだけ確認しておくと、実は原作では、貞子は一度もその姿を現していない。勿論TV画面から出てくる描写もない。あの姿は映画「リング」のオリジナルだ。

 映画では終盤、映像の中の井戸から現れた貞子が画面を抜けて出現。狂気の眼差しで犠牲者の傍らに立つ。そして絶叫する犠牲者のアップでカット。この演出が上手いな、と思う。この映画、冒頭から一貫して、見る側は結局何があったのかを知ることが出来ない。犠牲者のすさまじい死に顔から、「何か恐ろしいものを見たらしい」という推測だけが語られる。見る側は自分が最も恐ろしいと思うことを勝手に想像して恐怖する、という仕組みだ。

 古来、日本の怨霊は相手の命を奪う際、「取り殺す」という方法をとってきた。「取り殺す」とは、「取り憑いて殺す」「祟って殺す」という意味だ。かなり抽象的。そういった意味で、「リング」における貞子は典型的な日本の幽霊であると言える。たとえば、事後に尋常ではない状態の死体が発見される。人々がつぶやく。「一体何があったんだ?」この得体のしれない死に様こそが、西洋人の震撼するJホラーの怖さなのだ。日本の幽霊は、いくら効率が良いからといって、決してチェーンソーなんか使わない。だってそうでしょう。「貞子に取り殺されたらしい。傷口の状態からすると、凶器はチェーンソーだな。」「警部、血のついたチェーンソーが見つかりました!少し離れた茂みの中に!」いったい何の映画だよ。

 「貞子」シリーズを見ると、あの黒髪が伸びて犠牲者に絡みつくシーンにすごく違和感を感じる。襲い方が具体的に描写されているからだ。しかも、これがあまり怖くない。まるで、貞子がちゃちな妖怪か何かのように見える。ここは是非とも、中川信夫監督の「東海道四谷怪談(1959)」に学んでいただきたい。この映画では、お岩は何もしない。ただ「伊右衛門どの~」と呼びかけながら出現するだけだ。だが演出が際立っているので(?)、伊右衛門はその姿を見て錯乱し、血迷い、自滅していく。

 「四谷怪談」や「リング」では、犠牲者は恐怖のあまり死に至る。つまり「死ぬほど怖い」。それに比べて、欧米のホラーの怖さは痛い怖さだ。「死ぬほど痛い」。その結果、首が飛んだり血がいっぱい出たりして死に至る。そしてその過程をこれでもかと言わんばかりに描写する。これらは恐怖の質という意味では全くの別物だ。心理的か物理的か。この差は大きい。

 近年ベストセラーとなった「山怪」という本に興味深い実話エピソードがある。何人かで山道を歩いていると、道ばたでしゃがみ込んでいる女がいた。一人が声をかけると女が顔を上げ、その男だけがその顔を見たのだが、とたんに男は惚(ほう)けたようになり、高熱を発し、数日後に息を引き取る。その間、男は「あれはものすごい顔だった あんなものすごい顔は見たことがない」とうわごとのようにつぶやいていた、という話。見ただけで死に至る顔なんて、想像がつかない。だからこそ怖い。

                      (つづく)