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 異常な夏

 今年の夏、違和感を感じることが多々あった。なかでも、僕の住んでいる地域で、7月の末からミンミンゼミとツクツクボウシに加え、秋の虫までが鳴き出したのには驚いた。昨年も確かにそんな傾向があったが、今年のそれは尋常じゃない。しかも2年連続。3~4年前までは、7月末にミンミンゼミやアブラゼミが鳴き始め、ツクツクボウシが8月の後半に鳴き始めるのを追いかけるように、秋の虫が鳴き始めるのが普通だった。それを考えると、ここ数年の「前倒し」現象はなんとも不吉な感じがする。

 実は今年、例の「夏の遊び」をまたやってみた。これは早朝に庭を巡って蝉の抜け殻を探す遊びで、去年だかおととしには400個超の抜け殻を見つけた。あれはすごかった。今年はおよそその半分、しかも盆前にはほとんど見つからなくなった。これだと8月の末には蝉の声が聞けなくなりそうだな、なんて思っていたら、案の定、ツクツクボウシも含め、8月の27日にはほとんど聞こえなくなってしまった。夏の気候はまだまだ続いているというのに、妙に静まりかえる夏の雑木林は、前記したとおり、なんとも不吉な雰囲気があった。まるで海外のホラー映画を見ているようだ。例年だと9月に入ってからも「まだ鳴いてるよ」というのが普通なのに。一体、何が起こっているのだろうか。

 以前、「そのうち日本の季節は夏と冬だけになってしまうんじゃないか」と書いたことがあるが、今年、誰かが「これでは四季じゃなくて二季だ」と書いているのを見つけて、みんな同じようなことを感じているんだな、と思った。それほど、最近の日本の四季の変化は大雑把なのだ。子供の頃、さらに言うなら教員をしていた頃も、ツクツクボウシが鳴き始めると「ああ、夏休みが終わってしまう」なんて寂しく感じたものだが、このままだと、そういった微妙な季節感の変化はもうなくなってしまうのではなかろうか。蝉の鳴く時期のような小さな変化でも、それが続くようであれば、俳諧の世界でさえ季語が再編されるようなことが起こるかもしれない。

 それにしても、何十年も慣れ親しんできた季節感というものが、こんなにも大切なものだったとは!無意識のうちに享受していたんだなあ。願わくばこの状況が、ここ数年に限った特別な状況でありますようにと祈るばかりだ。

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 夏と言えば怪談・・・なんだけど(3)

 民放の心霊番組を見ていて、あることに気がついた。この手の番組は、以前は不思議なものが映り込んでいる投稿動画がウリだったのだが、最近ではこれらに代わって芸人による現地調査のウエイトが多くなり、現場で起こる超常現象も音響的なものが主流になってきたようだ。突然鳴り響く打音や、走り回る足音、人間のうめき声のような音。天邪鬼な言い方をすれば、音なら大した特殊効果もなしに収録できる。さらに、まことしやかな噂があって、調査の過程であまりにもはっきり霊が映ると、「TV放送にふさわしくない」とか、「やらせと思われてしまう」といった理由で放送できないというのだ。なんて都合のいい話だ。だったら何で調査するんだよ。

 実際6月に放送された「口をそろえた怖い話」では冒頭、「内容を一部変更してお送りしております」という字幕が流れ、番宣では流していた肝心の心霊現象(白い手が映っている動画?)を「(おぞましすぎて)視聴者にお見せすべきではない」という判断で、泣く泣くカットしたという。この番組に関わったオカルト芸人が、放送直後に自分のYoutubeで「実はこういうものが映っていた」と解説したり、ネット上で、放送できなかった理由が暴露されたりしているのを見ると、チラ見せの番宣も含め、これらはすべて仕組まれたマルチメディア的構成ではないのか、とさえ思えてくる。

 実は同じ場所で別の日に撮られたYoutubeのチャンネルにも揺れ動く白い手が映りまくっている動画がある。ただ、それらのチャンネルでは、あまりにも長く見えていて、「私はここよ」と言わんばかりにアピールしたり、ライトを向けるとそれを避けるように引っ込んだりするなど、なんともわざとらしい。さらに根本的な疑問というか、僕にとってはこちらの方が重要な問題なんだけど、あちらの住人がせっかくこちらの世界に出現するというのに、手だけを物質化(光が反射したり、影ができたりする)してひらひらさせるなんて、そんなことがあるだろうか。本物かどうかはともかく、動機の面から考えれば、たとえば僕だったら、自分が誰かわかってもらえるようにもっとわかりやすく出ると思う。だって、もう一度会いたい人と再会するにせよ、相手に恨みを伝えるにせよ、「ところで今の、誰?」では出る意味がないでしょう。手だけ出して、「おーい、オレだよオレ」なんてアプローチしたって誰だかわからんがね。そもそもこの霊がやっていることは平安時代の鬼や物の怪(もののけ)レベル(※)だ。面白がって悪戯しているようにしか見えない。それって、幽霊出現の理由にはなり得ない気がするんだけどなあ。

 まあそんなわけで、最近では比較的安全な「異音」を中心に収録あるいは編集された番組が多いらしい。7月に放送された「日本で一番怖い夜」では、廃ホテルの調査で「怖い」より「うるさい」と思えるほど異音が鳴りまくってたしなあ。でもねえ、あちらの住人がそうそうこちらの世界の都合に合わせてくれるなんて、そんなことある?それとも一時期「長い黒髪に四つん這い」モードが流行ったように、あちらの世界では、音で攻めるのが最近のトレンドだったりするのだろうか。

※ 今昔物語 巻二十七第三話「桃園の柱の穴から幼児の手が出てきて人を呼ぶ話」参照。参考までに、平安時代には人を取って食う鬼(伊勢物語 第六段 他)や、死体の良い部分をつなぎ合わせて美女を作る鬼(長谷雄草子)の話もある。

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 夏といえば怪談 2023 「ヘタレの見たもの」 

 それは地域の清掃ボランティアがあった、とある日曜日の朝のこと。「今日は暑くなりそうだな」などと思いつつ、出かける準備をしていたのだが、ふと気づくと、うちの飼い猫である「ヘタレ」の様子がおかしい。微動だにせず、斜め上方の一点を見つめている。その視線の先には天井しかない。しばらく見ていると、急に動き出してソファーの後ろに入ってしまった。変だ。ヘタレは何かに驚いてもそこに行くことはほとんどない。しかもその位置から、先ほど凝視していた方向を警戒しているように見える。「おい、ヘタレ、どうした。誰か来てるのか?」これは猫どもがおかしな行動をとった時に家人が放つ常套句で、亡くなった親類の霊でも来てるのか、という意味の、いわばジョークだ。だがこんな天気の良い日曜日の朝に、わざわざ出てくる霊なんぞいないだろう。時間になったので、あまり気にもせず、僕は清掃ボランティアに向かった。

 1時間ほどの清掃作業の後、汗だくになって帰宅したのだが、やはりヘタレはソファーの後ろに退避したままだ。ヘタレは持病を持っているので、ちょっと心配になってきた。「おい、ヘタレ、大丈夫か?」ソファーの背もたれ越しに上から覗いた時、あることに気づいた。ヘタレの尻尾が総毛立って太くなっていたのだ。1時間以上もその状態でいたのだろうか。かわいそうな気もしたが、その場所から追い出してみた。するとヘタレは部屋の反対側にあるダイニングテーブルの下まで一目散に走って行き、そこでうずくまった。みるみるうちに尻尾がもとの太さに戻ったところを見ると、彼を驚かせた脅威はもう去ったらしい。だがいまだにどことなく落ち着かない様子で、結局いつものヘタレに戻ったのは、昼を過ぎてからだった。

 こういったペットの不可解な行動は、一般的によく報告されているものだ。5匹の猫がいる我が家も例外ではない。家人も慣れたもので、「また誰か来てる?」などと声をかけるのが常だ。だが、今回のヘタレの様子は今までとは明らかに違っていた。これまでヘタレが尻尾を太くしたといえば、仲間猫との小競り合いや、ガラス戸越しに野良猫と対峙した時ぐらいだ。だが今回は周りに猫はいなかった。別の何かを見て怖じ気づいたとしか思えない。それはまるで、ホラー映画の1シーンのようだった。

 あのときヘタレは、一体何を見たのだろうか。

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 戦争とは

 毎年夏になると、たくさんの戦争に関する番組が放送される。僕は軍事マニアでもあるので、そのほとんどを視聴するのだが、いつも心を動かされる共通の話題というかシーンがある。現在生存している当時の日本兵や、亡くなった日本兵の妻が、涙ながらに「戦争は2度としてはいけない」と訴える姿だ。その主張はもちろんのことだが、僕が驚くのは、年老いた男性が70年以上も前に亡くなった戦友や兄弟を思い、男泣きに泣き崩れる姿。彼らが心に負った傷は、70年以上経った今も癒えることはなく、夏が来るたびに、不用意にかさぶたを剥がしたかのように再び血を流す。なかには今でも生き残ったことを恥じている人もいる。亡くなった戦友たちに申し訳ない、というのだ。こうした感情は戦勝国であるはずのアメリカでも同じ事で、「原爆投下は正当だった」と豪語する世論の影で、「戦争は2度とあってはならない」と涙を流す人も少なくない。彼らにとっては、勝敗など何の意味も無いのだ。

 ここ数年、日本が核兵器禁止条約を批准していないことが話題になり続けている。日本の総理大臣はアメリカの「核の傘」、つまりアメリカの核戦力に守られている立場を理由に批准を拒否してきた。それに対し、唯一核攻撃を受けた国家として、真っ先に批准すべきであろう、と言う人々もいる。あの夏広島と長崎で起こった出来事を、日本は無差別大量殺戮だと言い、アメリカはそれによって終戦が早まり、結果的に多くの人命を救ったと言う。どちらも「事実」だ。だがどちらの言い分が「正しい」かを断言できる人はおそらくいないだろう。こういった問題は知識が増えれば増えるほど、判断が難しくなる。そもそも戦争では、何が正しいかを判断すること自体が難しい。太平洋戦争では、日本には日本の、アメリカにはアメリカの理屈や言い分がある。それらはどうあがいても折り合いのつくものではない。ただ一つ共通して言えることは、多かれ少なかれ、国家がその正当性を主張するために国民をも欺くということだ。このことが混乱をさらに拡大させ、それによって割を食うのも一般国民。だからこそ、勝っても負けても、末端の兵士たちには共通の意識が生まれるのだろう。言論でごまかそうとしても、個人には理解すらできない大義名分のために、命が理不尽に奪われていく事に変わりは無い。

 「命より大事なものはない」という。だがひとたび戦争になれば、大衆の意思にかかわらず事は進み、多くの国民が軍人・民間人の別もなく命を落とし、国家は戦争継続のためには国民さえ欺く。矛盾だらけではないか。ならば、国家は何のために戦争をするのか。命をないがしろにし、国民を欺いてまで守らなければならない大義名分とは一体何なのだろう。

 実は毎年、夏になると戦争に関する文章を書く。ところが、不思議なことに何度書いてもまとまらない。いつの間にか文脈が本意から逸脱してしまう。あるいは書けども書けども書くべき事が尽きず、それらが次第に矛盾してくる。どうしても結論にたどり着けない。そんなわけで毎年、ブログにUPすることを見送ってきた。だが今年、あることに気付いた。こうした文脈の混乱や矛盾、それこそが戦争の実態ではないのか。

 よく「記憶の風化」という言い方がされるが、今や太平洋戦争を知っているものはほとんどいない。興味深い話がある。第一次世界大戦の時に各国の若い兵士たちの士気が異常に高かったのは、それ以前の戦争について、具体的な記録が残っていなかったからだという説だ。当時の若者は、戦争のなんたるかを知る術がなく、政府のプロバガンダを鵜呑みにしたという。逆に言えば、第一次世界大戦は初めて映像で記録された戦争だった。だがその悲惨な映像記録をもってしても、次の戦争は防げなかった。二つの世界大戦の間は21年しかなく、当時の政府による隠蔽もあって、学びが足りなかったということも考えられる。

 日本は幸いにも、大戦後戦争を経験することはなかった。だがそれは同時に、80年近い空白があることを意味する。若い世代には「太平洋戦争」という文言を知らない者も多い。戦争体験者のほとんどが他界してしまった今、その実態を次の世代にどのように伝えていくかが大きな課題となるだろう。

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 夏といえば怪談 2023「おかえり。」

 シャミという名の、うちで飼っている猫どもの女ボスは、僕がベッドに入るとおなかの上に乗ってくる。読書などしようものなら、「私がここに居るのに、なんで本なんか読んでるのよ?」と言わんばかりに猫パンチを浴びせてくる。もちろん本に、だけど。でも君ねえ、もういい歳のおばさんだろ・・・いやいや、そういう話ではなかった。実はおなかの上にシャミが乗っていると、時には乗っていなくても、近頃もう一匹が足のあたりに跳び乗ってくるのだ。以前は身体を起こして確かめたりもしてみたのだが、そこには何も乗っていなかった。

 最も多いとき、うちには8匹の猫がいた。みんなもとはノラで、4匹はうちの敷地で生まれた。この何年かで3匹を失い、今は5匹。亡くなった1匹は老衰による腎不全、あとの2匹はうちで生まれた兄妹(多分)で、遺伝的に身体が弱かったらしく、1匹はやはり腎不全、もう1匹は何とかいう血栓のできる病気で亡くなった。シャミはこの2匹を含む4匹を産んだ母猫だ。

 昨日の夜もシャミは僕のおなかの上で眠り、夜半過ぎに、足もとにもう1匹が跳び乗った感触で目が覚めた。タオルケットの上に着地したときの、「ぽふ」という音まで聞こえたような気がした。今では身体を起こして確かめることはしない。ただ小さな声で「おかえり。」と呟く。

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 夏と言えば怪談 2023「ツンデレカイセイの視線」

 うちで飼っている猫のなかに、押しかけの「カイセイ」というサビ猫がいる。ある日突然庭の片隅に現れ、散々鳴き散らして家人の気を惹き、その日のうちに我が家の猫になったという顛末は以前にも紹介したと思う。先住猫たちとケンカをすることは無いものの、常にお高くとまって一定の距離を置き、モデルウォークのような足さばきでリビングを闊歩する。そのくせ2階の階段の手すりで居眠りをして、吹き抜けを落下してしてきたりするので(幸いけがをしたことはない。猫ってすげぇ)、今では2階に上がることは禁止されているという間抜けな一面もある。そんなカイセイは、夕食が終わった頃を見計らって、くつろいでいる僕の膝の上に乗ってくる。可愛いと言えば可愛い。それに一応メスだしな(そこにこだわってどうする)。

 カイセイはツンデレなので、ひとたび膝に乗るとじっと僕を見つめ、サイレントニャー(※)でもって僕を誘惑してくる。僕も思わず見つめ返してしまうのだが、経験豊かな僕としては、どんなに喉を鳴らされても、僕の腕にそっと手(というか前足)を添えてきても、そんなことでこの僕が堕ちると思ったら大間違いで・・・えっと、何の話だったかな。そうだ、カイセイの視線の話だった。

 そんなわけで僕とカイセイはよく見つめ合ったりするのだが、実はこれが恐怖の序章だったりする。たとえば、膝の上のカイセイと「あ、目が合ったな」と思う瞬間があったとする。僕が悪戯心を出して、静かに少しずつ頭を動かすと、カイセイの視線は固定したまま、先ほどまで僕の頭があったあたりを凝視している。お前、一体何を見ているんだ?ある時など、次の瞬間ゆっくりと僕の方に目を向け始めたかと思ったら、視線はそのまま僕の顔があるところを通り過ぎて止まり、左肩越しに僕の背後を凝視していた。「えっ!」と思って後ろを見ても、そこにはカーテンがあるだけで、虫が飛んでいたりした気配もない。カイセイ、やめてくれない?そういうの。

 確かに、犬や猫が誰もいない部屋をじっと見つめたり、赤ん坊が誰もいない空間に笑いかけたりする話はよく聞く。だが今回のような場合、あたかも人間には感知できない存在が、僕のすぐ後ろを横切って止まり、そこに佇んでいるみたいではないか。思わず鳥肌が立ちましたよ。

 こうしたことは、犬や猫を飼っている人なら多かれ少なかれ経験しているだろう。インコが目に見えない誰かと楽しく会話していた、なんて話はあまり聞かないけど。僕にしても、いつもだったら「(亡くなった親族の)誰かが来てるみたいだな」なんて軽口を叩くのだが、この時はなぜかそんな余裕もなかった。何かが来ているとすれば、今回のそれは自分にとって縁もゆかりもない存在だと感じたからだ。そんな感覚を気安く受け入れられるわけないじゃないですか。

 幸いその後、我が家に何か不都合なことが頻発した、などということも無く、気のせいということでこの件は終わっている。だが、動物には、人間が文明と引き換えに失ってしまった第六感的な能力が備わっているというのは間違いなさそうだ。それを認めたところで、何の安心材料にもなりはしないのだけれど。

※ 声は出さないが、口の動きはニャーと言っている鳴き方。人間の耳には聞こえない周波数の音が出ているという説も。気を許した相手に対して行うらしい。

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 見えすぎ。

 タイトル見て変な誤解した人いない?子供が抱く将来の夢の話なんだけど。

 兵庫県の全国学力調査に伴う質問紙調査で、将来の夢や目標をもつ児童・生徒の割合が過去最低の水準だったんだって。ニュース記事ではかなり問題視していたようだけど、考えてみれば至極当然で、今更驚くほどのことでもない。だって、情報化社会と称される現代では、どんな疑問もたちどころに答えが得られるし、子供がまだ知らなくてもいい情報で溢れかえっているからね。

 最近の子供たちって、将来どんな仕事に就きたいかを聞くと、会社員、なんて言う。業務内容はさておき、とりあえず「会社員」。定期的な収入が保証されるから、というのがその大きな理由で、一昔前の「公務員」と同義らしい。ところが、ネット上では「ブラック企業に関するニュース」であるとか、個人のUPした「パワハラで鬱病になった話」とかのネガティヴな情報が蔓延しているわけで、それを見た子供たちが「世の中って、こうなんだ」なんて思い込んだら、夢をもてなくなるのも無理はない。要するに、行く末が見えすぎるんだね。しかも歪んだ形で。というのも、もっといい話だってたくさんあるのに、困ったことにそっちの方はなかなか話題に上らない。そりゃそうだ。自分の境遇に満足している人たちは愚痴らないし、当然ニュースにもならない。まあ、世の常ってやつだ。

 将来なりたい職業で、会社員と双璧をなすのがYoutuber。長いことこの状況を「困ったもんだ」と思っていたんだけど、今になって思えば、子供にとってこんなに夢のある職業はないかもしれない。自分にそれをするだけの知識と技能があれば、誰でもすぐになれるし、スポンサーがつけばそこそこ収入も期待できる。実際にその道で高収入を実現している人もいて、なるほど、これは現代のサクセスストーリーと言えなくもない。個人で番組を運営する分にはパワハラ上司もいないし、客の顔色をうかがう必要もない。メディアを扱う上での倫理観と、経済観念さえしっかりしていればなんとかなりそうだ。しかも職業(?)としての歴史が浅いので、ネガティヴな情報も少ない。Youtuberとして一生を送った人はまだいないからね。要するに、先が見えない分夢見る余地がある、ということだ。ただし、現状では昇給もボーナスも、退職金も期待できない。保険やローンなどについてもまだまだ立場的には弱者だろう。そういう意味では一種の自営業。確定申告も大変そうだ。子供はそのへんを認識していないから、「将来の夢」として確固たる地位を維持しているんだろう(あー、言っちゃったよ)。

 人生には必ずしも知らなくていいこともたくさんある。それが何のフィルターも介さず(端末側のフィルターなんてたかがしれている)、子供の発達段階も考慮せずに提供されているのがいわゆる情報化社会なんだよな。子供は情報を正しく取捨選択することはまだできないし、むしろ好奇心旺盛だから、大人が制限しない限り何でも吸収してしまう。しかも人の悪口だろうが社会に対する愚痴だろうが、1回聞いただけならすぐに忘れるかもしれないことを情報として保存できる。要するに定着しやすい。こうして小さいうちから社会の裏側を見ているわけだから、そりゃあ夢なんかもてませんて。大体最近の大人は自分たちでそういった環境を構築していながら、そんなこと気付きもしないもんね。じゃあ家庭はどうかというと、自分の子供がどんな記事を閲覧しているのかを100パーセント知っている親なんかいないだろうし、下手をすると「それは子供の人権の侵害だ」なんて的外れな理屈を振りかざしたりするから困ってしまう。ここはプロとしてはっきり言わせてもらうが、素人考えもはなはだしい。そもそも「子供の人権」は「発達段階」の問題とは切り離して論ずるべきものだ。そのことが理解できれば、害をなすのはエロ・グロばかりじゃないこともわかるはず。親は法的に「保護者」と言われる存在(親以外の場合もある)だが、なぜ「保護者」なのか、何から保護するのか、そのことをもう一度、よく考えてみるといい。

 何はともあれこの現状、なんとかできる立場の人が早急になんとかしないと、20年後の日本が心配だよなあ。

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 夏と言えば怪談・・・なんだけど(2)

 2014年のNHKの番組(※)で、2013年にイギリスのある古城で行われた、科学者の集団による心霊現象の科学的調査の様子が紹介された。あまり知られていないが、こういった試みは、実はこれまでに何度も行われている。そうしたなかでわかってきたことや、発表された仮説がなかなかに興味深い。

 最近の研究で、幽霊が目撃される場所では電磁波の異常が検出されることが多い、ということがわかってきた。これによって、現象が起こっている時にカメラなどの機器に異常が起こることは説明できそうだ。ただし、幽霊が出現することによって電磁波異常が起こるのか、何らかの要因で発生した電磁波異常によって、心霊現象(に見える何か)が起こるのかはわかっていない。

 怖い体験をしたり、恐怖を感じる場所に行ったりした時に冷気や寒気を感じるのも、現実に起こることらしい。哺乳類は危機に瀕すると、自動的に体温を下げる機能が備わっている。この現象は、熱を感知することによって獲物の位置を特定する、蛇などの天敵から身を守るために備わった機能なのだそうだ。人間では心理的に恐怖を感じた時にも同じ事が起こり、このときに寒気を感じるというのだ。いわゆる「冷や汗をかく」というのも同様の反応のようだ。実験では、金網越しに蛇と対峙したネズミの体温が急激に下がっていく様子を、サーモカメラで撮影して見せた。ただ、この場合気温や室温には変化は起こらないので、真夏なのに吐く息が白くなった、といった現象は説明できない。

 こうした研究の先駆けとして、1882年、イギリスにおいて「心霊現象研究協会(SPR)」が設立された。これは当時の著名な科学者や大学教授が設立した大真面目な組織で、主な会員にはマリー・キュリー(キュリー夫人。ノーベル賞を2度受賞 物理学/化学)、アンリ・ベルクソン(ノーベル文学賞受賞)、マーク・トゥエイン、ルイス・キャロル、カール・ユング、コナン・ドイルなどが名を連ねている。心霊現象を盲信するわけではなく、あくまでも研究のための組織で、インチキ霊媒師のトリックを見破ったりすることもあった。また、あまりに現実的な活動を行ったために、心霊現象を信じる立場の会員が大挙して脱退したこともあったそうだ。

 ウィキペディアによれば、SPRは今も存続していて、2004年までは歴代会長を追跡することができるという。ちなみに2004年当時の会長はロンドン大学の数学および天文学の教授で、バーナード・カーという人物。また、NHKによれば2013年にSPRの科学者グループが、イギリスきっての心霊スポット、マーガム城の調査を行っている。NHKが番組で紹介したのはこのときの調査の様子だ。マーガム城では第2次世界大戦中に駐屯していた兵士の多くが異様な音を聞き、移動する不定形の光を目撃している。冒頭で述べた電磁波異常についての報告は、この調査によってなされたもので、この電磁波が人間の脳、特に視覚野を刺激すると、脳内に光の塊のような幻覚が形成されるという。この仮説なら、特殊な電磁環境に置かれた複数の人間が同じものを目撃したことを説明できる。ただし、電磁波の異常そのものの原因や、それに付随するその他の現象、また兵士たちの目撃談以外の事案(はっきりそれとわかる男性の幽霊を多くの人が目撃している)を説明するには至っていない。

 まだまだ解明にはほど遠いが、胡散臭い心霊番組や特殊効果を駆使したホラー映画をよそに、心霊現象を真剣かつ科学的に解き明かそうとする試みが今も脈々と続けられているという事実は、知っておいても良いだろう。

※ 2014年放送 超常現象第1集「さまよえる魂の行方」(現在NHKオンデマンドで視聴が可能)

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 夏と言えば怪談・・・なんだけど

 一番怖いのは人間だ、という言い方がある。これは半分あたりだろう。ネット環境が充実して以来、平気で他人を中傷し、よせば良いのに、伏せておくべき個人情報を第三者が次々と暴露するような事例が増えているが、この傾向は巷の怪談話についても当てはまる。

 怪異の起こる場所や建物は日本中至る所にあって、なかでも建物に纏わる話は、廃墟ばかりとは限らない。例えばホラー作家の加門七海氏が封印しようとした「三角屋敷」の話とか、「新耳袋」の著者(の一人)で怪異蒐集家の中山市郎氏が、場所を伏せて紹介した京都の「幽霊マンション」のように、現在人が住んでいるものもある。こうした、軽率なマニアなどには知らせない方がいいと思われるような事案も、ネット上で場所や名称まで明らかになっていく。なかにはご丁寧に写真や地図まで掲載されている記事もある。

 「三角屋敷」も「幽霊マンション」も集合住宅であるから、心ない野次馬が押しかけるような事態になれば、そこに住んでいる人たちは心穏やかではないだろう。加えて、もしそこで起こっていることが「本物」だったら、例えば「幽霊マンション」なんて、中山市郎氏曰く、今までに何人も投身自殺者が出ていて、それがすべて住人ではなく、たまたま近くを通りかかった人たちだというのだから穏やかではない。吸い込まれるように上階へ行き、吹き抜けから飛び降りるという。誰がその状況を報告したのか、という疑問は残るが(笑)、下手に拡散させて実害が出たらどうするのだろう。なにしろ「幽霊マンション」は最近外壁を塗り替え、建物の名称まで刷新してイメージチェンジを図っているにもかかわらず、その顛末自体を報告している記事もあって、いまだに易々と特定できる状態なのだ。

 こうした記事をUPする人たちは、そこに住む住人の心情をどう捉えているのだろうか。自宅周辺に見知らぬ人物が大勢押しかけ、住まいを心霊物件呼ばわりされ、ともすれば敷地への不法侵入をも辞さないとしたら、どんなに不快な思いをするか、そのことに思い至らなかったのだろうか。こういった、自分の欲求を何よりも最優先させる精神構造は、一部の非常識な撮り鉄や、考えなしに飲食店テロをしてしまう人たちとあまり変わらない気がする。明確な恨みを持って現れる霊などよりよほど質(たち)が悪い。

 こういった人たちのなかには、ゆくゆく霊になって現れるようなことがあったら、どこぞの駅前あたりで藪から棒に縁もゆかりもない人を取り殺して、「取り殺してみたかった 相手は誰でもよかった」なんて言うヤツがいるかもしれない・・・言うわけねーか。そもそも幽霊は逮捕できねーし。

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 セカイノオワリ

 ネットで読んだ話。原宿だかどこだかで、新しいコンセプトのカフェがお目見えした。なんでも「友達カフェ」とかいって、店員さんが客に対してみんなタメ口(ぐち)で対応するそうだ。それどころか、友達を演じてくれるというんだからびっくりだ。店に入ると店員さんが、「久しぶりじゃん」なんて言ってくれる。これが好評なんだって。

 遙か昔、遠い銀河の彼方のアキバ帝国で、入店すると「お帰りなさいませ、ご主人様!」とか言ってくれるお店がその勢力を広げ、後に「お帰りなさいませ、お嬢様!」なんて言ってくれる店まで現れた。こうした店が大繁盛していると聞いた時は「世も末だな」と思ったもんだが、よく考えてみれば、歴史の古い「スナック」や比較的新しい「ホストクラブ」などもこの部類だろう。基本的に男女の交流をポジティブな形でバーチャル体験している、つまりそういうことだよね?それがいよいよ、お友達までバーチャル体験で間に合わせることができるようになったわけだ。そうか、世も末だと思っていたら、すでに世界は終わっていたのだな。

 この記事を読んで、僕の脳内で一つリンクした話題がある。それは「バカの壁」等の著作で有名な養老孟司氏の主張だ。僕はNHKの「養老先生 ときどきまる」という番組が好きで、いつも「養老先生」という言い方をしているのだが、その先生が、著書の中で特に強調している「身体で学ぶ」という言葉が浮かんできたのだ。

 先生曰く、世の中は「情報」に満ちあふれていて、人間まで「情報」として捉えようとしているという。情報なら脳だけで処理できるからね。でも、人間は単なる情報ではないし、一般論的な「人間とは何か?」という情報を処理できたとしても、一個人となると正確に情報化することは不可能だ。なんとなれば情報量が多すぎるし、人間は刻々と変わっていくからだ。それを手軽だからと言って、変換可能な範囲で情報化して、それを処理しようとしても、そりゃあ無茶ってもんですぜ。そんでもって、処理できない(=わからない)から得体の知れないHow to本なんかが売れまくる。例えば「上司と上手くやる方法」という本があったとしても、その本が想定している上司はあくまで「上司とは何か」という情報であって、読者が対峙している生身の上司とは食い違うこともたくさんあるはずだ。それ以上は現実に上司と相対して、感覚で覚えていく(つまり身体で学ぶ)しかない。勿論ある程度時間もかかる。だけど今の若い人はその時間を辛抱することができず、さっさと転職していくそうだ。

 バーチャルって、確かにお手軽ではある。でも現実と比べればそれを構築するための情報量なんて取るに足らない。何かの判断材料とするにはあまりにも脆弱だ。しかも現実は刻一刻と変化する。人間と同じだ。その書き換えは自分で実地に行うしかない。感覚を駆使して、現実の世界でだ。それを面倒に思ってバーチャルに依存するなら、いつまでたっても「本物」は手に入らないと思った方がいい。

 お友達カフェの店員はすべて演技・演劇の経験者。エンタメ業界の経験者もいるらしい。メニューも凝っていて、「何だっけ、あの丸いお菓子の・・・」という名前のクッキーとかが並んでいる。注文するだけで自然な会話が成立する脚本のようなものだ。遊びに行くのにはいいだろうし、ある意味体験型の演劇と言えないこともない。だが心理的にどっぷり浸かってしまったら・・・これはちょっと怖いよなあ。