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 12月8日

 12月8日。何の日か知っているだろうか。サンタクロースの起源と言われているセント・ニコラウスの日?それは12月6日だ。じゃ、真珠湾攻撃の日?そう、確かにそれも正解。だけど僕が今日紹介したいのは、もっと新しい話だ。

 ジョン・レノン。言わずと知れたビートルズのメンバーの一人だ。彼はビートルズが1970年に解散する以前から積極的にソロ活動を行っていて、平行して1955年から続くベトナム戦争への反戦運動にも参加し、1968年にはシングル「平和を我らに」を発表している。さらに1971年にはあの伝説的なアルバム「イマジン」を発表。美しいメロディーに乗せて「いつか君も仲間になってくれたら 世界は一つになるだろう」と語りかける歌声を、多くの人々が今でも記憶しているはずだ。その年の12月にはシングル「ハッピークリスマス」を発表し、ここでも「君が望みさえすれば 戦争は終わる」と歌っている。彼とその仲間のもとには多くの若者がはせ参じ、声高に戦争反対を訴えた。だが南北ベトナムが事実上の終戦を迎えるには1976年まで待たなければならなかった。

 ジョン・レノンはその後5年近く音楽活動を休止し、1975年に生まれた子供の育児に専念。1980年11月に満を持してアルバム「ダブル・ファンタジー」を発表する。このアルバムは今までのような思想的な色合いはなく、ジョンが初めて純粋に、自分自身に目を向けた内容の曲が多かった。英・米・日で第1位を記録し、このアルバムから「スターティング・オーヴァー」など多くの名曲が生まれた。「翼を広げ もう一度最初から始めよう」・・・だが彼が新しい何かを始めることはなかった。翌月の12月8日22時50分、ジョン・レノンは自宅アパートメント前の路上で、ファンを自称するマーク・チャップマンの放った凶弾に倒れ、30分後に死亡が確認された。40歳だった。僕にとって12月8日とはそういう日だ。

 今東欧ではウクライナとロシアの戦争で多くの人命が奪われている。パレスチナ・ガザ地区でのイスラエルとの紛争も同様だ。だが平和を訴えるカリスマはもういない。あの時ジョン・レノンの呼びかけに共鳴した世代は老人になりつつある。「イマジン」の持つメッセージが生き続けたとしても、人の記憶はいつしか思い出にすり変わっていく。しかも今の若者たちには、当時のような連帯感など微塵も感じられない。それは彼らの責任ではなく、時代が人の心を変えたのだ。もしジョン・レノンが生きていたら、この世界を見て何と言うだろうか。もっとも、「ダブル・ファンタジー」以降の彼に何かを期待するのは酷というものかもしれないが。

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 食通と食道楽

 「ここのシェフほどの料理人が、鴨肉のロティにオレンジではなく、あえてブルーベリーのソースを添えるというのなら、我々としては黙ってそれを味わうべきだ。」

 これはある書物(※)に登場する、架空のワイン通の言葉だ。スノッブで厭な性格だが豊富な知識と経験を誇り、誰も彼を論破できない、というキャラクター。彼のこの一言で、「鴨にはオレンジソースが常識だろう」と不平たらたらだったワイン仲間が瞬時に押し黙る、という場面だ。この文章を読んで、「食通も大変だなあ」と思った。僕は食べるのも作るのも好きだが食通ではない。いわゆる「食道楽」というやつだ。あの店の味がわからなければ食通とは言えない、なんて縛りはない。どんなに有名な店であろうが、「ここの味付けは甘すぎる」だの、「このカニで金を取るのか」だのと、心の中では言いたい放題である。で、どうせならもっと自分好みのものが食べたい、ということで、「実技」にも手を出す。勿論一流の料理店と同じ食材が手に入るわけもなく、見よう見まねでは店の味にかなうはずもないのだが、そこは食道楽、楽しく料理して美味しいと思えるものができあがればそれでよい。そんなふうだから僕はなんちゃって料理も得意である。「この味は多分こんなふうにして出してるんだろうな」という、かのケンタロウ氏(早く良くなってくださいね)が得意の妄想料理。これがまた楽しい。もう遊びですよ、遊び。例えばうちで鴨をローストした時に添えるのは定番のオレンジソース。材料はフォンドボー(市販のもの)、赤ワイン、蜂蜜、コーンスターチ、鴨の肉汁(余分な油を取り除いたもの)、そしてオレンジの絞り汁。これがなかなかイケるのだが、実を言うとこれは想像で作ったオリジナルで、本当の作り方を僕はいまだに知らない。それでもみんなが美味しいと言ってくれるので、僕としては大満足だ。もう一つ良い例がある。

 スコーンに添えるクリームといえばクロテッドクリームが定番だが、初めてうちでスコーンを焼いた時、僕は自前で、しかもイメージだけでそれを作ってみたことがある。主な材料はサワークリームとバター(有塩)、そして少量の砂糖。勿論、クロテッドクリームとは似ても似つかない味だ。だがなぜかこれが家族にウケた。後に本物のクロテッドクリームを試す機会もあったのだが、「甘すぎる」という理由で余らせてしまった。家族は今もこの「なんちゃってクリーム」の方がお好みのようだ。

 要するに、僕にとっては趣味の料理イコール食道楽、もっと言えば遊びなのである。せっかくだから、ここでとっておきの超Z級オリジナルグルメを紹介する。ただしチーズ嫌いの人はダメ。

 まず味噌汁を作る。ナスか長ネギがいい。どちらの場合も具が軟らかくなるまで煮る。味噌は僕の好みで言うと、ここは麹味噌でいきたい。次にチーズを用意する。普通のプロセスチーズ。あのバターみたいなサイズで売ってってるやつだ。なければベビーチーズか丸いパッケージの「6P」とかでもまあいいでしょう。色気を出してとろけるチーズとかモッツァレラとかを使ってはいけない。チーズは1センチ角ぐらいに刻んでおく。量はまあ適当で。

 味噌汁ができたら、チーズを好きなだけ入れてしばらく置く。すると熱でチーズが柔らかくなってくる。ここでもしとろけるチーズなんて使ったらどうなるかわかるでしょ?チーズはあくまでも食感が残っていなければならない(そんな大した料理か?)。

 チーズが柔らかくなったら熱々のご飯にこれを味噌汁ごとかけて食す。猫舌の人や夏場だったら冷や飯にかけてもよい。この料理(?)を教師時代に中学生に教えたら、親も含めてほぼ100パーセント「おいしい!」という反応だった。苦笑してしまったのは、親に「そんなはしたない食べ方よしなさい」と止められたという生徒が結構いて、なんだかかわいそうになってしまった。汁かけ飯は日本の伝統食だぞ!冷や汁の立場はどうなる!だがそんな親でも多分、深皿に盛りつけて「ナスとチーズの和風リゾット味噌仕立て」とか名前をつけて出したら、何も考えずに普通に食べるんだろうな、なんて思った。ついでに言うと、「冷や汁」のトッピングとしてもチーズはよく合う。この場合、面倒だがより小さく刻んだ方が良い。熱で柔らかくなる過程がないから、大きいとチーズが主張しすぎる。

 ちなみに僕は、ご飯の上にコロッケを載せて味噌汁を注ぎ、崩しながら食べるのも好きだ。コロッケは甘みの少ないポテトとタマネギと挽肉(できれば豚100パーセント)だけのシンプルなものがいい。ここ、結構大事です。

※ 「ワイン通が嫌われる理由(わけ)」 レナード・バーンスタイン著(バーンスタインといっても音楽家とは別人)時事通信社 1996年

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 食の東西対決

 僕は関東に住んでいる。だけどすき焼きは関西風が好きだ。ザラメと醤油のみで味付けする。ある時TVでその調理法を知り、試してみたのだが、すっかり気に入ってしまい、以来関東風には戻れなくなってしまった。関東風は割り下を使うので、「すき焼き」とは言うものの、むしろ「鍋」に近い。これは多分、「牛鍋」の存在が影響しているのだろう。

 ウナギの蒲焼き、これも関西風の方が好きだ。蒸しの工程を含まず、しっかりと小骨まで焼き上げるスタイルだ。柔らかすぎない食感がいい。京都に行った時に、錦市場にある店でお土産に買い込んでくるのだが、地元ではなかなか手に入らないので、普段は関東風を食しているというのが現状だ。だが正直なところ、すき焼きほどのこだわりはない。どちらかと言えば、という程度のものだ。

 考えてみると、桜餅も関西風の方が好きだなあ。小麦粉を焼いた皮よりも、あの「道明寺」のもっちり感が好きだからだ。ちなみに僕は桜の葉は剥がして食べる。葉を一緒に食べるのが通、という説もあるが、どうも怪しい。というのも、店によっては2~3枚の葉で包んであったりするからだ。これでは何を食べているのかわからんではないか。そこはやはり、香りだけを楽しむのが粋なようだ。

 ところで、僕はすべてが関西風好みというわけではない。例えば、雑煮は関東風がいい。醤油仕立てのだしに焼いた角餅を入れ、鶏肉やかまぼこ、三つ葉などを具に使ったあれだ。京都風の、甘めの白味噌仕立てなんて言われると、箱根の山の向こうまで逃げ出したいぐらいだ(近づいてるじゃんか)。

 一番判断が難しいのは蕎麦。江戸前の蕎麦つゆは、それを持って関東風とは言いがたい。じゃあ、どこの蕎麦が関東風かというと、これはこれで釈然としない。間を取って、長野県あたりで食べる蕎麦が一番美味い、ということにしておこう。うどんについては、これは蕎麦とは似て非なるもので、つゆの味は何といっても四国あたりにとどめを刺す。

 話を世界に広げて、今度は洋の東西。ウィーンの銘菓、ホテルザッハのザッハトルテは、我が家では国産の「デメル・ジャパン」のものがお気に入りだ。というか由緒正しいザッハトルテはこの店のものしか手に入らない(※)。

 「デメル」の本店はウィーンにある菓子店で、創業は1786年。その昔、ザッハの子孫から販売権を買い取ったとして、ホテルザッハとどちらが元祖か裁判で争ったこともある。結果はレシピを考案したホテルザッハの勝利。そのホテルザッハのものを現地で食したことがあるが、日本人には少々甘すぎる気がした。だがあえて言うと、デメル・ジャパンのものはアンズジャムの酸味が「元祖」に比べて弱い。それもそのはず、ジャムの層が1層しかないのだ(これがデメル製の特徴の一つ。ホテルザッハのものは2層で、このスタイルがオリジナルと言われている)。

 もう一つ、デメル・ジャパンのものはコーティングのシャリシャリ感もあまり感じない。ウィキペディアによれば、コーティングは純粋なチョコレートではなく、「チョコレート入りのフォンダン(糖衣)」ということだから、もう少しそれらしい食感があっても良さそうだ。要は好みの問題だが、それだけに何とも悩ましいところだ。

 ところでもうお気づきだと思うが、もし日本で売られているデメル・ジャパンのザッハトルテが、日本向けの味ではなくオリジナルレシピで作られているとすれば、「洋の東西対決」は成り立たないことになる。むしろホテルザッハVSデメルと言うべきか。でもまあ、それはそれということで。

※ 実はホテルザッハも通販を行ってはいるのだが、日本向けのページがあるわけでもなく、文面はすべて英文(独文?)で、気軽に購入するにはちょっとハードルが高い。

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 スタンド・バイ・ミー

 「スタンド・バイ・ミー」。好きな映画の一つだ。ある作家が自分の少年時代について回想するシーンから始まり、その後、彼が記憶をたどりながら書き綴る少年時代を描いていく。所々に散りばめられたモノローグが、彼にとって、当時の友人たちとの関わりがいかにかけがえのないものであったかを物語る。僕にとっては、高校時代がそうだった。

 昨年だったか、「二人乗り」という記事を書いていた時、当時付き合っていた彼女のこと以外にも多くの記憶がよみがえってきたのだが、そのなかには、一緒に行動していた仲間たちのことも数多く含まれていた。実を言うと、一番最初にUPした「あの時と同じ空」と高校の軽音楽同好会について書いた「オレが作った」は、「二人乗り」とほぼ同じ頃にあったことを書いている。どちらもその頃の仲間たちについてのエピソードだ。

 僕は高校時代、自分が創設した「軽音楽同好会」の運営に明け暮れ、美術部と文芸部にも在籍し、3年生になる頃には、そのほかに居心地の良い「仲間」のグループがあった。「軽音」とこの「仲間」は境界が曖昧で、一緒に行動することもよくあった。「あの時と同じ空」に登場するKは、そんな「仲間」の一人だ。「続 二人乗り」で僕と彼女を「安心して見ていられる」と言ってくれたのも、こうした「仲間」の一人であるSだった。この二人は当時、同じ一人の女子生徒に好意を持っていた。その女子生徒は僕の彼女の友人で、「仲間」の一人でもあったから、その関係は傍目にはなかなかにスリリングではあったが、不思議ともめたことはなかった。僕の彼女は勿論「仲間」の一員で、僕と同様に美術部と文芸部に所属し、「軽音」のメンバーとも仲が良かった。Kは卓球部に所属していたが、なぜか部活動の友人より僕たちといることの方が多かった。僕は美術部の部長と文芸部の副部長を兼任し、最も親しかった「仲間」の一人は生徒会会長をしていた。彼は文芸部の部長でもあり、「軽音」にも所属していた。その「軽音」の初代会長がこの僕である。もう一回言おうか?

 僕と彼女は、いつも二人だけで帰っていたわけではなくて、こうした連中と一緒に帰ることの方が多かった。ことに部活を引退してからは、母校が県下で一、二を争う進学校であったにもかかわらず、僕らだけは「受験勉強って何?」というノリで、時には喫茶店にしけ込み、レコード店や書店で暇を潰し、時には当時よくあった軽食屋で、流行り始めたばかりのピザを夕食代わりに食べて帰ることもあった。僕が見つけた駅までの気持ちの良い裏道を、土曜日の放課後(当時は週6日制で午前中に授業があった)などに皆で長い時間を掛けて歩いたことも何度かある。会えばいつも取り留めのない話で盛り上がり、恋の悩みを打ち明けたり打ち明けられたり・・・。まるで絵に描いたような青春時代だった。

 僕は大学の同窓会には一度も出たことがないが、数年おきに開かれる高校の同窓会にはほぼ毎回出席している。「オレが作った」の後半のエピソードはそんな中で起こったことだ。ある時、その同窓会で久しぶりに会ったSに、「お前が変わってなくて、俺は嬉しいよ」と言われたことがあった。確かに60~70年代のロックを信奉し、反体制のスタンスだった僕が社会に飲み込まれてただの人になっていたら、当時の仲間を失望させたかもしれない。これは驕(おご)りではなくて、実際に周りを見回すと、男どもの多くは規格品のように同じ顔をしていたし、早々と髪の毛を失い、人相が変わってしまった者も一人や二人ではなかったからだ。女性はというと・・・これは言わずにおく方が無難かな・・・?僕は比較的好き勝手に生きてこれた部類だから、自分を見失うこともなく、体型も相変わらず痩せ型だったから、それほど老けては見えなかったのかもしれない。だが、実際にはその場にいた当時の「仲間」たちの誰もが若く見えた気がする。僕らは当時から、人生を楽しむことには積極的だったから。

 現在はコロナウィルスのこともあって、同窓会はしばらく開かれていないが、あの頃の「仲間」たちと個人的に連絡を取ることはしていない。今ではみんな、お互いが知らない人々に囲まれて、あの頃とは別の人生を送っているだろうからだ。だがルーツがあの時期にあるという共通認識からすれば、みんなそこそこ元気にやっているんだろうと思う。ただ残念なことに、今までの同窓会で「二人乗り」の彼女に会えたことは一度もない。

 「スタンド・バイ・ミー」では、最後のモノローグで当時の仲間が今どうしているかが語られ、その中で10年以上会っていなかった親友が、つい最近その正義感のために命を落としたことが伝えられる。その後映画は主人公の作家が執筆を終え、子供たちと出かけるために書斎を出て行くシーンで終わるのだが、その直前、今書いたばかりの最後の一文が映し出される。そこには「その後の人生で、あの12歳の頃のような友人を持つことは二度となかった」と書かれていた。執筆していたパソコンの電源を切り、作家は現実へと戻っていく。人生とはそういうものだ。

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 替え歌とザ・ドリフターズ

 「誰かさんと誰かさんが麦畑・・・」で始まる歌がある。まんま、「誰かさんと誰かさん」という歌で、ザ・ドリフターズが1970年にヒットさせたコミック・ソング。だが実はそれ以前から「故郷の空」という曲名で、別の歌詞の元歌が存在している。「夕空晴れて秋風吹き・・・」で始まる、故郷の親兄弟を思う歌だ。僕は小さい頃の記憶から、こちらの方が親しみがある。しかし、実はこの歌はさらにさかのぼって原曲がある。スコットランド民謡の「ライ麦畑で出会ったら」という曲だ。「ライ麦畑で出会ったら 二人はきっとキスをする」といった内容なので、ドリフターズの「誰かさんと誰かさん」はより原曲に近いと言える。

 原曲の詩を書いたのはスコットランドの国民的詩人、ロバート・バーンズで、以前にも触れたと思うが、「蛍の光」の原曲、「オールド・ラング・ザイン」の詩を書いた人。「オールド・ラング・ザイン」は、過ぎし日の思い出を友と一緒に懐かしむ歌で、「蛍の光」とメロディーは同じでも、内容が大分違う。

 明治時代、海外の文化が盛んに取り入れられ、日本の欧米化が進んだこの時代には、こうした外国の曲が輸入され、それに日本語の歌詞をつけた歌曲が盛んに作られた。ほぼ直訳のものから「故郷の空」や「蛍の光」のように、全く違う歌にしてしまっているものまであって、後者に至っては、替え歌同然だ。だがそれなりの人が詩をつけているので名曲も数知れない。しかもそのほとんどが文語で書かれている。文語表現の好きな僕にとっては喜ばしいことこの上ない。

 替え歌とは関係ない話だが、「誰かさんと誰かさん」をヒットさせたザ・ドリフターズ(要するにドリフ)。実は1950年代にアメリカでも「ザ・ドリフターズ」というR&B系コーラスグループが結成されており、度重なるメンバー交代を経て現在に至るまで、解散したという話は聞いていない。つまり元歌ならぬ元グループが存在するわけで、アメリカで「ザ・ドリフターズ」を話題にすると、とんでもない食い違いが生じる可能性が高い。日本の、いわゆる「ドリフ」は1956年に結成されたが、元々は純粋にバンド活動をしていて、コミックバンドに趣向替えした後の1966年に「ザ・ビートルズ」の来日公演で前座を務めたのは有名な話。また、2001年にはNHKの紅白にも出場し、松田聖子と対決している。演奏の技術は本物、ということだ。

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 アニメとヘミングウェイ

 久しぶりに「バーテンダー」というアニメのディスクを引っ張り出してきて鑑賞した。同名のマンガを2006年にテレビアニメ化したもので、さすがに作画などには時代の古さを見て取れるものの、演出の面においてはかなりこだわりを感じさせるヒューマンドラマだった。当時このアニメを一緒に見てカクテルの美しさに感動した幼い娘たちが、その年のクリスマスにカクテルを作るための道具をサンタさんにお願いしたことは、酒好きの父親にとってこの上ない幸運だった。 

 中でも好きなエピソードが、第5話「バーの忘れ物」。パワハラ上司に地方支局に左遷されようとしている小心者の若い社員に、主人公であるバーテンダー佐々倉がヘミングウェイの小説「老人と海」の話をする。初出が1952年のこの中編は、小舟で一人海に出た老漁師が3日にわたる死闘の末、巨大なカジキを仕留めるも、血の匂いを嗅ぎつけて集まってきたサメに襲われ、奮戦むなしく獲物をほとんど食いちぎられてしまうというストーリー。佐々倉はこの小説の中で老人が呟く有名な「・・・人間は負けるようには作られちゃいない。叩き潰されることはあっても、負けやしないんだ。」という言葉を引用して若い社員を励ます。彼は辞令を受けることを決意し、佐々倉との再会を約束して新しい任地へと旅立っていく。

 ヘミングウェイ(アーネスト・ヘミングウェイ 1899~1961)はやたらと男気のある人物で、1930年代に起こったスペイン内乱では義勇兵としてファシスト政権に立ち向かったこともあるぐらいだ。「老人と海」においてもヘミングウェイは困難な状況に屈せず立ち向かうという人間としての尊厳(そんなものは今や化石でしか見たことがないという気もするが)を深く考察し、描いている。以前僕は、中島みゆきの「ファイト!」という曲について触れた時に、「人は勝つためというより、負けないために戦い続けることがある」と書いたことがあったけれど、まさにそんな感じだ。

 実際、ヘミングウェイにも長いスランプに悩んだ時期があった。その末に書き上げたのが、この「老人と海」だった。彼はこの作品がきっかけで1954年にノーベル文学賞を受賞したが、後の航空機事故に起因する精神的な病のために、1961年、自ら命を絶ったという。彼を知るものにとっては、なんとも残念な終わり方だったと言うほかは無い。

 バーテンダー佐々倉はエピソードの中で、若い社員にフローズン・ダイキリというカクテルを振る舞っている。これはヘミングウェイが好んだカクテルの一つで、糖尿病を患っていた彼はレシピにアレンジを加え、砂糖を抜いてベースのラムを2倍の量にしていた。これはパパ・ダイキリもしくはパパ・ドブレ(パパのダブル)と呼ばれていて、彼が晩年を過ごしたキューバでは今もバーのメニューに載っているそうだ。ちなみに彼は当時、地元住民から親しみを込めてパパ・ヘミングウェイと呼ばれていた。

追記 TVアニメ「バーテンダー」は現在新作を制作中とのこと。2024年春に放送の予定らしい。前作と同じような雰囲気で作ってくれるとありがたいのだが。

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 趣味と実益

 よく「趣味と実益を兼ねる仕事」なんて言う。だが僕に言わせればそんなものは存在しません。まあ、例外はあるだろうけど。

 最近の子供たちに将来何になりたいかを聞くと、その答えは大きく二つの傾向に分かれるようだ。一つは「会社員」。昔の「公務員」と同じで、毎月決まった額の給料がもらえるから、というのがその理由だ。もう一つは「Youtuber」。これは80年代の「ミュージシャン」に近い。「なりたい人」に対する「なれる人」の割合(「Youtuber」だったら「稼げる人」の割合)が微妙に少ない、という意味において同等、という気がする。

 そういえば、僕の知り合いにプロのミュージシャンになった人がいる。最初、彼は自分のバンドを作ってデビューしたんだけど、結果的にはアルバムを1枚出しただけで終わった。でも彼のドラマーとしての技術は本物だったので、その後長らくアン・ルイスのバックバンドのドラマーをやっていた。僕の住んでいる街にアン・ルイスが来たとき、コンサート後に、たまたま僕の行きつけのカフェ・バーに、彼がバックバンドの面々を連れてきたことがあった。それは単なる偶然だったんだけど、昔話に花が咲いたことは言うまでもない。今はどうしているのかな。あ、そういえばもう一人、プロドラマーの知り合いがいた。自己申告で知ったのだが、何しろステージの上では動物の頭をかぶっているので、真偽の程は定かではない。

 それはさておき、若者に将来の夢を聞くと、たまに「趣味と実益を兼ねる仕事」なんて答えが返ってくることがある。でもねえ、さっきも書いたけど、そんなものはまず存在しませんよ。

 僕は絵が描けるので、若い頃絵を売ったことが何度かある。売れるのは嬉しいのだけれど、その頃よく「お金は必要なんだけど、この絵は売りたくないなあ」とか、「この人に頼まれたモチーフを、描きたくもないのに金のために描くのか」などと思いながら絵を描いていた。つまり、その時点ですでに趣味の範疇じゃなくなっていたんだね。

 趣味というのは、やりたい時にやる、自分の楽しみのためにやる。そういうものだと思う。例えば絵を描くのだったら「この風景を描きたいから描く」とか、「このモチーフを絵にしてみたいから描く」ということだと思うんですよ。それが、金のためであるとか、依頼主に対する責任から描くとかであれば、それはもはや趣味じゃない気がするんだよなあ。要するに僕の中では、お金の問題もさることながら、趣味と仕事の一番の違いは、趣味には他人に対する責任がないことなんですよ。

 しっかり稼いで時間も確保。その両方を上手く使って趣味を楽しむ。そう考えると、自(おの)ずから理想の仕事は限られてくる。だからといって、たとえ理想的な仕事に就けたとしても、そう上手く行くとも限らない。そんな状況で、自分がどう工夫して収入と時間を確保するか。問題はそこだろう。

 そういえば、理想の職場を追求するためかなんか知らんけど、昨今、転職するのが当たり前、といった風潮がある。これってどうよ。あんまり煽らない方がいいと思うんだけどなあ。今いる職場がよほどのブラック企業、というのなら話は別だが、そうそう理想的な職場なんて見つからないと思う。さっさと慣れちまった方が手っ取り早い気がする。だいいち、職場を転々として退職金を目減りさせるのがオチ、というのでは話にならない。それにまだ社会というものをよくわかっていない若い人たちもいるわけだからね。もっとも、転職が趣味です、というのならその限りでもないけど。

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 素人の浅はかさ

 最近TVを見ない人が増えたんだって。特に若い世代にその傾向が強いそうだ。どうも彼らの間ではネットで画像を楽しむことのほうが普通になっているらしいんだよね。勿論アニメやドラマなどのネット配信のことを言っているんだろうと思ったら、Youtubeなんかも含むそうだ。でもねえ、それってどうなんだろうか。確かにTV番組なんかでも、もはややることがない観のあるドラマの世界や、ちっとも笑えないお笑い番組なんかを見ていると、「世も末だな」なんて思うことはある。でもドキュメンタリー番組はまだまだ頑張ってる。

 TVの場合は放送倫理というものがあって、問題のある番組とかとてつもなく馬鹿げた番組とかは最低限淘汰されている。しかも作る側だってプロ集団だから、良い番組もまだまだたくさんある。Youtebeとかは発信者のほとんどは素人だから、そもそも出来を期待するものでもないのだろうけど、なかには奇をてらった内容を流すだけで閲覧回数を稼ごうとするような輩(やから)もいて、犯罪行為に認定されるものまであることはご承知の通りだ。素人の動画には発信前のチェックなんて無いからね。ネットの良さは素人が自由に発信できるところだと言ってしまえば確かにそうなんだけど、だからといってあまりくだらないものばかりに慣れ親しむようでも困るわな。

 同じようなことは写真の世界にも言える。例えば最近よく話題になる自己中な「撮り鉄」の記事なんかを見ると、プロのアプローチとは違ってマナーもへったくれも無い。そもそもプロはホームなんかで写真撮らないもんね。それに、アマチュアだってその列車が走る路線を事前に踏査して、ポイントを見つけておくぐらいのことはするもんだ。だいたい混み合うのがわかっているホームで報道カメラマンみたいに脚立使うなんて、僕に言わせれば愚の骨頂だ。あれではただの野次馬だし、鉄道ファンの印象を悪くするだけだ。さらに鉄道業務に支障を来すような行為を平気でするに至っては、もはや鉄道ファンとは言えないだろう。

 最近では似たようなことが動物園でも起こっていて、脚立を立てて陣取ったカメラマン(じゃないよなあれは。ただの素人だから。)が邪魔で、並んでいた子供が動物見られなくて悲しい顔してた、なんていうニュースが流れていた。お前らそれでも人間か?人間的な行動ができないなら檻の向こう側に行けよ。多分そうやって粘って撮った写真や動画を、これまたネットで発信したいんだろう。「これ撮るのに何人もの人に迷惑掛けました。おまけに子供を泣かせました。最低の作品です」ぐらいのコメントはしてくれるんだよな?

 昔は動画にしろ画像にしろ、アマチュアがそれを発表したり発信したりできる機会は限られていたし、専門誌への投稿やコンテストには必ず審査があったから、人の目に映る作品はそれなりに質の高いものだった。だが今では、誰もがネットを通じて発信できる。そこには他者の「審査」がないから、「自己満足」だけで作品を発表できる。この安易さが、先に挙げたような素人のエスカレーションを招いているんじゃないのかなあ。

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 「赤とんぼ」

 「赤とんぼ」。言うまでもなく、日本人なら誰でも一度は聞いたことがあるであろう、有名な童謡。この歌の歌詞は作詞者である三木露風の幼い頃の記憶によるものだそうだ。

 露風は5歳の時に両親が離婚し、母親と生き別れている。ある日幼稚園から帰ると、すでに母の姿は消えていたんだって。その後は祖父の家に引き取られ、奉公に来ていた「姐や」が面倒を見てくれた。だがその姐やも1年後、歌にもあるように十五で嫁に行ってしまう。幼くして大事な人との別れを2度も経験したわけだ。寂しかったろうなあ。

 背負われて一緒に赤とんぼを見たのは姐やということらしいが、桑の実を摘んだのは、「まぼろし」というぐらいだから母親との記憶かもしれない。ネットには三木露風や曲自体を分析しているブログがたくさんあるから、ここでは詳しくは触れない。今日取り上げたいのは歌詞の「山の畑の桑の実を 小籠につんだはまぼろしか」という部分。

 ある程度の年齢になれば、誰でも「あれは本当にあったことだったのかしら、それとも心が作り出した虚構なのかな」といった曖昧な記憶をもっていることと思う。そしてそんな記憶ほど、いつまでも印象が薄れず、ことあるごとに思い出す。違いますか?かく言う僕も、そんな記憶がいくつかある。なかでも不可解なのが、幼稚園かそれより前、高さ2メートル以上はあろうかという、石碑というか位牌を見た記憶。何かの店舗の一番奥に鎮座していて、天窓から差し込む光がそれを明るく照らし出していた。大きさから「石碑というか位牌」と書いたが、記憶では明らかに位牌のイメージ。というのも、黒の漆塗りで金の文字と装飾が施されているように見えたからだ。でも、仮にその店舗が仏具店だったとしても、徳川家の菩提寺じゃあるまいし、高さ2メートルの位牌はあり得ないだろう。もし宣伝用の張りぼてなら店の外、もっと目立つところに置くはずだ。そして何よりも、クリスチャンであった母が僕を連れて仏具店を訪れる可能性は低い(と言っても、母は宗教に対して強いこだわりを持っていたわけではないので、ゼロではない)。一体どんな思い違いをしているのだろう。 

 もう一つは薄曇りの空の下、どこまでも続くトウモロコシ畑の脇の道を歩いている記憶。これについては「あそこかな?」と思える場所があるのだが、前後の記憶は全くなくて、ただただトウモロコシ畑だけの記憶。誰かに「ここは天国かい?」と聞いたら、「いいや、アイオワだよ」なんて言われそう・・・(※)。たまに、夢の内容がしっかり記憶として定着することがあるじゃないですか。その類いなのかなあ。

 三木露風が母親と別れたのは5歳の時。一緒に桑の実を摘んだのが母親だとすれば、それ以前のことのはずだから、記憶が曖昧なのも無理はない。でも、「あれはまぼろしだったのか」という言い方からすると、「曖昧な記憶」というより「はかない記憶」と表現した方が、露風の心情としては正しいかもしれない。今はもう確かめようが無い、でも本当のことであってほしい母の記憶。これがもし夢の記憶だったらちょっと悲しすぎる。

 後年、露風は生き別れになっていた母親の通夜に現れると、遺族に「母の亡骸のそばで眠りたい」と頼み、同じ部屋で就寝した。67年ぶりのことだったそうだ。

※ 映画「フィールドオブドリームス」の亡くなった父親と主人公の会話。広大なトウモロコシ畑の片隅で交わされる。

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 狂い咲きかな・・・?

 今日は10月23日。晴れ。最高気温21度。うちの敷地を囲むフェンスの一角で、朝顔が咲き誇っている・・・って、今、秋真っ盛りですぜ。何なんだこれ?

 見ての通り、この品種はちょっと変わっていて、お値打ちものではないものの、なかなかおしゃれな花を咲かせてくれている。しかも真っ昼間になっても萎むことがなく、太陽を追って咲き続ける。実は8月から蔓は伸びるものの一向に花が咲かず、不思議に思っていたのだが、他にも植えてあったごく普通の品種が盛りを終えてしばらくの後、9月中旬あたりからやおら咲き始めたのであった。よく見ると葉の形も普通の朝顔とはちょっと違っている。品種名、なんて言うんだったかな。種の袋を取っておくんだった。

 そういえば前にもこんなことがあった。青空のような色の朝顔が大量に花をつけ、9月の末まで咲き誇っていた。あまりに見事に咲くもんだから、通りすがりの人によく褒められた。おそらく今年門扉に絡まって咲いたもう一つの株がそれで、こんなところに植えた覚えはないから、勝手にこぼれた種から芽を出したのだろう。しかし、これって異常気象の影響なのかな。それともある種の狂い咲きなんだろうか。もしかしてそういう品種なのかも?でも説明書きにはそんなこと書いてなかったけどなあ。

今年植えた株。斑入りの花で、所々にピンクも混じっている。色の濃淡も様々。これ、一つの株から咲いているんですよ。
手前の鮮やかなブルーの花が、おそらくこぼれ落ちた種から芽を出したもの。門扉の向こう側にもいくつか咲いている。個人的にはこっちの方が好き。遠くに見える青空と同じ色だ。2枚とも10月23日の正午に撮影した。ちなみに庭のヤマボウシは赤く色づき始めている。晩メシは栗とキノコの炊き込みご飯の予定。