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 たまに聞くラジオも良いもんだ 思いがけない発見がある

 先日、カミさんと二人で買い物に出た。最近、車でよくFM放送を聞く。その日も「Jウェーブ」を聞きながら車を走らせていたのだが、曲の合間に突然、男女の語らいが始まった。「先生、笑ってるのを見られるのって、恥ずかしくないですか?」「面白いことを言いますね・・・思春期ですか」「先生、私もう28です」ここまで読んでわかった人、いるでしょう。そうです。これはCMだったんです。一瞬だけ、商品を匂わせる唐突かつ不自然なセリフ(※1)があるので、それとわかります。

 その後も会話は続く。「先生、マスク後の世界はどうなるのでしょう」「28歳ですか・・・いいなあ・・・マスク、取ってみませんか?」「・・・良い匂い・・・先生、私本当は29なんです、ふふふふ・・・」「知ってます はははは・・・」これが何と、キンチョーの蚊取り線香のCM。何を今更、という人もいるだろうが、ラジオを聞く習慣がなかったものだから、今までその存在すら知らなかった。

 ネットで調べてみたら、このCMは「マスクを外して」というシリーズ。他にもいろいろなパターンがあって、しかも何年も前から続いているらしい。それをまとめた動画(勿論画面は静止画)もあって、キンチョーのCMはその筋では有名なのだそうだ。以前「よくできたいにしえのTVCMは一種の名画(映画)であった」などと書いたことのある僕だが、ラジオCMの世界は盲点だった。こんなにも楽しい世界があったとは。

 こうしてみると、ラジオCMにはラジオCMならではの味がある。たとえば「思春期ですね」「私もう28です」というやりとりの面白さは、登場人物の容姿が視覚的に確認できないから成立するものだ。これがTVだったら、冒頭から視覚的な多くの情報を認識できてしまう。仮に「思春期の女の子に見えなくもない28歳の女性」を具現化したとしても、セリフの前に視覚情報が提供されているわけだから、セリフのインパクトは弱くなる。女子生徒と教師の会話かと思いきや、実は(多分)相談者とカウンセラー(※2)でした、というどんでん返しについても、ビジュアルはものすごい情報量を持っているから、意図的かつ部分的にそれを操作しようとすれば、要らぬ演出ばかりが増えてしまうだろう。やはりこの筋書きは、視覚情報が無いために、聞く側が勝手に想像を膨らませてくれるラジオの世界でなければ実現できないものだと思う。そんなわけで今回、ラジオCMの奥深さをあらためて認識したのであった。

※1 このまったりとした会話のなかで唐突に「蚊取り線香をつけましょう、蚊がいる」という「先生」のセリフがある。女性の「良い匂い」というセリフは、蚊取り線香の香りのことだ。

※2 僕はカウンセリングの講習を受けたことがあるのだが、この「先生」の受け答えは典型的なカウンセラーのそれに近い。カウンセラーは通常、自分の意見や相手に対する指示は口にせず、聞き手に徹する。この会話にはもう一つ、カウンセリングの手法が使われているが、説明が面倒なので割愛する。とにかく、このCMが、おそらくはカウンセリングのパロディであろう事が、わかる人にはわかるのだ。そう考えれば、この会話のもつ不思議な違和感もそれなりに納得がいく。

付記 キンチョーのCMにはきわどすぎて大炎上したものもある。下ネタぎりぎりのTVCMなのだが、このCMの場合、逆に視覚情報があるから安心できる。何について話しているのかが画面からの情報で理解できるからだ。仮に音声だけを聞くと、もう大変。ネットに動画があるので、商品名だけお伝えしておく。「キンチョー太巻」。後は自分で調べてください。

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 ワン。ワンワン。

 以前「ピーピー。」について書いた。今回は「ワン、ワンワン。」これは何かというと、僕のスマホの着信音だ。どんなときにも人があまり違和感を感じないようにと、(僕としては)考えに考えて設定した。音量も遠くで犬が吠えている、といった体(てい)のレベルにしてある。おかげさまで多くの場合、僕のもくろみは当たったと言っていい。着信しても誰も気付かない。だが、ある特定のシチュエーションでは逆効果になる場合もある。

 以前からお伝えしているとおり、うちでは五匹の猫を飼っている。そのうちの3匹が10歳を超えていて、持病をもっているものもいるので、動物病院に行くことが多い。そのタイミングで誰かが僕に電話をかけてくると、待合室で「ワン、ワンワン」という着信音が鳴る。猫をつれている飼い主の近傍で犬の鳴き声がするわけだ。いくら音量が絶妙とは言っても、そりゃあ、みんなこっち見るわなあ。仕方がないから駐車場の車で待つ。すると今度は動物病院の近所で飼われている犬が吠える。これがまたよく吠える。しかも吠え声や吠え方が着信音にそっくりなのだ。さらに夕方の診療時間は、娘が仕事の帰りに、買い出しの内容を確認するために電話してくる時間に当たっている(※)。さらにさらに僕は、これも前からお伝えしているとおり、メールやラインが大嫌い、ときている。というわけで、動物病院ではしょっちゅう、周囲の人々を翻弄したり、自分が翻弄されたりしている。そして困ったことに、こういったシチュエーションを、僕はわりと楽しんでいる。

※ うちでは夕食は僕の担当なので、どんな食材を使うかは僕が決める。

付記 そういえば昔、僕の知り合いで同じようなことをやっている人がいた。まだスマホが一般化する前のことだ。彼の携帯の着信音は「ホー ホケキョ」。なかなかにリアルで、僕はまんまと騙されたことがある。今思えば、特に初夏から夏にかけては、彼も今の僕と同じように混乱することがあったに違いない。面白いヤツだったが、今はどこでどうしているのやら。

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 今日の空

 梅雨の合間に、久しぶりに青空が顔を出したので、育てていた朝顔とひまわりの苗の植え付けをした。

 朝顔については、一昨年まいた種が綺麗なライトブルーの花をつけ、10月頃まで咲き誇っていたのを見て種を取っておいたのだが、去年は何の加減か失敗。今年は新しい種を買ってきて再挑戦している。ひまわりは「夏といったらこれでしょう」という子どもっぽい発想で、3年ぶりに苗を育てた。ただ、発芽してすぐ日照が少ない時期があって、苗がひょろひょろなのが気がかりだ。

 昼前に作業を終えてふと顔を上げると、そこには理想的な夏空が拡がっていた。気温が上がるにつれて、先ほどはなかった見事な積雲が育っている。しばらくはただ眺めていたのだが、そうしているうちにある事を思い出した。

 このブログのタイトルは「あの時と同じ空」。我ながら青くさいと思う。しかし一方では、これほど的確な表現はないとも思っている。ここで言う「あの時」とは、僕が思春期を過ごした時代のことだ。

 人は成長するにつれ、良いことも悪いことも身についていく。いわゆる「世間の垢にまみれる」というやつだ。そうして人は変わっていく。文明が自然を駆逐していく話もよく聞く。以前書いた、墓地の横にあったケヤキの大木や、NHKのドキュメンタリーで見た、送電線を通すために丸裸にされた山林などはその良い例だ。最近では神宮外苑の木々までもが伐採の対象になっているという。こうしたことは、実はたくさんの人々の思い出をも破壊しているのだということに気付いているのだろうか。いったい人は、どこまでやれば気が済むのだろう。

 世の中が変化していくのは仕方の無いことだ。人間の成長だって同じだ。無垢な子どもも、いつかは薄汚れた大人になっていく。人の心が時代とともに移ろうことも、歴史が証明している。だが、そんななかでも変わらないもの、変わってはいけないものがあると思う。あの頃と変わらない空がそのことを僕に思い出させてくれる。

 先ほど僕が「理想的な夏空」と表現した空、それは僕がまだ若かった頃に見た空を思い出させてくれるような空のことだ。友人と見上げた空や一人自転車を走らせながら見た空、幼い頃、実家の八畳間で兄とプラモデルを作りながら、ふと窓越しに見上げた空。どれもほんの一瞬の記憶なのだが、いまだに鮮明に覚えている。空が変わらずにいてくれるおかげで、僕は今も、そしていつでも、そこに帰って行くことができる。

 あの頃何を見、何を感じ、何を思ったかを、記憶の中で追体験することは誰にでも可能だ。そのことが世間の垢を洗い流し、生きていく上で大きな力となることもある。昔あるCMで聞いたセリフのように、「時は流れない それは積み重なる」と思う。流れると考え、失ったと思っていたものは、今も僕の中にある。普段は忘れているだけだ。ただ思い出すだけで良い。きっかけさえあれば、あなたにもそれができる。

 あの時と同じ空。そうだ、僕は今も、青くさい自分を心のどこかに持ち続けている。しかも自分が思っているよりも遥かに近い場所に。今度買い物に出たら、もう少し夏の花の種を買ってこよう。花の手入れのために外に出る機会が増えれば、また今日のような空に出会えるかも知れない。

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 走馬灯じゃないんだから。

 別に死にかけたとか、そういった類いの話ではない。先週、夏の庭に何か咲かせようと、久しぶりに近くの「花木センター」に行ってきた。25年ほど前に家を建てたとき、庭に植えた木々はほとんどここで購入した。その時お世話になったHさんは、あれ以来20数年会っていなかった。

 花木センターには、最近でもたまに草花の種や球根を買いに行ったりするのだが、庭木のコーナーに足を伸ばしてもHさんを見かけることはなかった。もしかしたらもうここにはいないのかも知れないな、などと思いながら育苗のためのポットなどを買い込み、今回もダメ元で庭木のコーナーに行ってみたが、やはりそれらしい人影は見当たらない。買ったものを車に積み込んで、最後にもう一回りだけ、と庭木のコーナーにとって返した。すると先ほどは気付かなかったある看板が目に入った。あれ、この店の名前、Hさんと同じだ。以前はHさん、どこぞのお店の店員だったよな。でもあれからすでに20数年。もしかして・・・?

 この庭木のコーナーには複数の業者が出店していて、当時Hさんはそのなかの一店で働いていた。今日、気がついてみると、今ある店舗の一つがHさんの名字と同じ店名になっている。あの頃にはなかった店だ。ものは試しと思い、そのコーナーに入っていくと、奥の方で年老いた店員さんが木々の手入れをしていた。声をかけられても面倒だと思い、距離を取りながらハウスの中を覗いたが、他には誰もいないようだ。その時、その店員さんがこちらを振り向いた。屋外なので、彼はマスクをつけていなかった。何と、それはHさんその人だった。年老いて見えたのは白髪の混じり始めた頭髪と、彼独特の猫背のせいだったのだ。「Hさん・・・ですよね?」「はい・・・?」おっと、マスクをつけたままだった。マスクを外して名を告げると、彼もすぐに思い出してくれた。「いやあ、懐かしいなあ。あれから何年になります?」「多分20年以上ですね。」「ちっとも変わらないじゃないですか。」「いやいや、そんなことは。Hさん、独立したんですね。」「まあ、いろいろありまして・・・。」そんな会話から始まって、かれこれ1時間近く立ち話をしただろうか。話の内容は省くが、最後に僕は「いるとわかったから、またちょくちょく遊びに来ますよ。」と告げてその場をあとにした。

 その日の午後、かねて懸案となっていた電話を1本かけた。下の娘が京都に一人旅をしたい、というので、僕が以前懇意にしていた旅行代理店のプランナー、Tさんを紹介すると約束していたのだ。こちらは多分10年ぶりぐらいか。僕が持っている名刺の携帯番号は営業用なので、今も当人に繋がるかどうかはわからない、という不安があったが、とりあえずかけてみた。出ない。だが10分と待たずに折り返しの着信があった。Tさんだった。「先生、お久しぶりです。」そうか、あの頃僕はまだ教員をしていたんだった。「ご無沙汰です。元気?」「おかげさまで。先生もお変わりなく?」「うん。教員は辞めたけどね。」「そうなんだ。先生と修学旅行に行ったの、懐かしいですね。」ああ、そんなこともあったなあ。彼女が添乗員を務めてくれたんだっけ。彼女の中では、僕はまだ先生なんだな。それにしても相変わらずの姉御肌というか、女性にしては珍しいしゃきしゃきしたしゃべり方が懐かしい。

 ひとしきり思い出話に花が咲いた後、僕は娘の立てた旅行計画の概要を説明し、「娘の勤務予定が確定したらまた連絡するよ。」と伝えた。「わかりました。連絡、お待ちしています。」

 今日1日で、10年以上連絡を取っていなかった二人の人物と、久しぶりに話すことができた。人の関わりとは不思議なもので、こうして話してみれば、過ぎた時間など存在しなかったかのようだ。おかげであの頃の記憶が幾つも思い出されてきた。今日は良い日になったなあ。

 意味合いは少し違うが、僕が「走馬灯」という言葉を使ったわけは、つまりそういうことだったのですよ。

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 カメラ趣味

 前回「オーディオ趣味」の記事で「他にも欲しいものがあって・・・」と書いたが、これはニコンのミラーレス一眼レフカメラ、Zfcのこと。このカメラは何が良いかというと、往年のフィルムカメラである、ニコンFMあるいはFEシリーズのデザインを踏襲しているところだ。だからミラーレスであるにもかかわらず、軍艦部(上面)にはあたかもペンタプリズムが内蔵されているかのような三角形の突起があり、さらにダイヤルが幾つも並んでいる。これがかっこいい。ということで、満を持して購入。またしてもローン・レンジャーと成り果てた。今時ローン・レンジャーなんて誰も知らないか。

 大分前にDfという、やはり同じようなコンセプトで作られたフルサイズ一眼レフカメラが発売(2013年)されたときには、金もないのに勢いで購入して、その後金銭面で1年間苦しんだ覚えがある。今はこのDfが僕のメインカメラなのだが、デザインはかなり無理矢理感があって、ボディもでかい。いつかもっと古くさいデザインのデジタルカメラを作ってくれないかな、と思っていたら、2021年にこのZfcが発表された。なるほど、ミラーレスという手があったか。それならサイズ感も何とかなりそうだ。

 このZfc、見かけはおおむねFMもしくはFEと同様のデザインだが、あえて言うなら、細かいところで「これはちょっと・・・」という部分も無いではない。たとえば往年のニコンカメラは、レンズマウントが上から見てかなり左に寄っているのだが、これはボディ右側を空けることによってグリップしやすくしているのだと聞いたことがある。確かにFM・FE系はこの余裕があるおかげで右手のホールド感が良い。だがZfcはボディそのものがほんの少し小さくて、このスペースが犠牲になっている。ホールド感に余裕が無いだけでなく、前面のfnスイッチに指が触れ、それだけでは実害は無いものの、僕がよく使うプログラムモードでは、余計な表示がファインダー内に現れてうっとうしい。部品を詰め込むのに苦労した、と言うぐらいなら、この部分はオリジナルどおりのサイズで良かったような気がする。画質向上のために大きくなったというレンズマウントも何となく違和感。ボディがより小さく見える。だが、総合的に言えばよくやったと思うよ、ウン。

左 FMシリーズ最後の機種、FM3A。  右 Zfc。ちょっと小さい。ホント、よく作ったと思う。 

 次に期待するとすれば、個人的にはF3コピーのフルサイズ一眼かな。実を言うと、DfのボディはどちらかというとF3のそれに似ている。というか、全体が初期デザインのC案に似ている。そのことに初めて気付いたとき、「まさかニコン、やる気か・・・?」なんて思ったものだ。実際、Dfをちょこっといじれば、F3コピー、できないことはなさそうだ。あれって確か、ジウジアーロのデザインだったよな。それが障害になったりすることはあるのだろうか。もし発売されたら、またしてもカミさんに頭を下げてお願いしなくちゃならんなあ。

左 Df。でかい。   右 Fシリーズ最後のマニュアル・フォーカスカメラ、F3。よーーーく見ると、グリップの上の部分とボディ向かって右側のショルダーストラップ取り付け部の下の部分の曲面処理がとても似ている。この画像で確認できますか?

追記 「ニコン一眼レフのすべて」というMOOK本(2016年 GAKKEN)に面白い記事が載っている。何でも、Dfの開発段階で「デジカメって便利すぎてつまらないから、もっと不便な設計にしようか」という意見があったそうだ。その一例として、「36枚撮ったら1時間使えない、とか」なんて言っている。知らない人のために説明すると、通常フィルムカメラのフィルムは最大で36枚。1時間というのは、撮影済みのカラーフィルムを現像・焼き付け(プリント)するのに必要な最短時間を目安に考えたらしい。勿論採用されなかったが、作る側の楽しんでいる様子や、写真を撮ることへのこだわりが伝わってきて良いなあ。

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 オーディオ趣味

 先日、オーディオ機器の一部を買い換えた。高校の頃からこの手の機械をいじることは好きだった。2トラサンパチのオープンリールデッキや真空管アンプなどに憧れて、ショールーム(当時はそこかしこにあった)を巡ってはカタログを集めたものだ。教員をしていた頃には、音楽室や放送室の備品を廃棄したと聞けば、人知れず物置に行って、とっくにカタログ落ちした往年の高級機(廃棄手続き済みの機材)を持ち帰ったりしたこともある。今はもうそんなことできないだろうけど。良い時代だったよなあ。 

 皆さんよく知らないと思うけれど、学校のこういった備品って、それなりに高級機が使われていることが多い。そしてそれ故、普通の教員では使い切れなかったり、操作がわからずに変なスイッチを入れたりして「音が出ないんだよね」なんてことがままあった。新しい機材の接続や調整を頼まれたことも結構あったなあ。そんなふうだったから、「古いの欲しかったら、いいよ持っていっちゃっても」となるのだ。勿論その手の機材はどこか調子の悪い部分があるので、そのままでは使い物にならないことが多いんだけどね。

 そんなわけで、うちにはヤマハの名スピーカー「NS-1000(いわゆるモニター1000)」があったり、同じくヤマハのA級プリメインアンプ「CA-1000Ⅲ」があったり、テクニクスのダイレクトドライブカセットデッキ「RS-2760U」があったりする(NS-1000はすでに廃棄)。いずれも1970年代に10万円超え(NS-1000は1本の価格)という高級機。これらの機材を知識のない教師や使いの粗い生徒が使うために備品として導入していたわけだ。もっと使い勝手の良い安価な製品はいくらでもあるというのに。今考えても納得がいかないよなあ。

 さて、近頃ではフルサイズのオーディオ機器はマニアの世界のものになってしまった感がある。そんな中で、僕のように家庭で音楽を楽しもうとするだけなら、DENONの製品が一番お手頃感があるような気がする。それ故うちのオーディオ機器もいつの間にかDENONで統一されつつある。スピーカーだけはデンマークのDARIの上位機種をおごってあるが、次に買うときはもう同じレベルのものは買えないだろうなあ。

 今回はここ数年調子の悪かったアンプとCDプレーヤーを刷新したが、やっとの思いで中級機。他にも欲しいものがあるし、カミさんの表情を見る限り、これが精一杯だわな。でも根が好きだから、久しぶりに鼻歌交じりで、面倒な配線を1日がかりで済ませた。実を言うと、前に使っていた機器が故障したのは、どうも紙製の猫砂(うちには猫が5匹いる)の微粒子のせいらしい。そこで今回は、アンプとCDプレーヤーをラックの高い位置にセットし、下半分の使用頻度の少ない機材とレコードプレーヤーの棚にはビニールまたは布製のカバーを取り付けることにした。そんなわけで配線と同時にオーディオラックの清掃や各種機器の配置換え、ついでにCDラックの整理も行った。だから1日がかり。でもオーディオ好きの人ならわかってくれると思うが、こういった作業は結構楽しいんだよな。

 一通り作業が終わったので、久しぶりにレコードをかけてみた。ところがここで問題発生。何となく左右のバランスが悪い気がする。CDを再生したときにはそれが感じられないし、プレーヤー自体そんなに古いものではないので、もしかするとカートリッジの問題かな。だとするとインサイドフォース・キャンセラーの再調整が必要かも知れない。何しろ長いこと使ってなかったからなあ。ただの接触不良なら良いんだけど。とりあえず接点を磨くことから始めてみるか。

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 春の庭仕事

 今年もあっという間に5月。ついこの間、藤の花が終わったところだ。今は庭の木々にも若葉が生い茂り、もう初夏の風情だ。ところでここ数年気になっていることがある。一体春はどこへ行ったんだろう。

 以前だったら、春という季節を楽しむ期間がそれなりにあったのだが、最近ではチューリップや遅咲きの水仙の開花と同時に立木の新しい葉が芽吹き始める。春になったな、なんて思った矢先に初夏が始まる感じだ。そういえば、昨日ある番組で、「入学式のイメージだった桜の花が、今では卒業式に咲く」と言っている人がいた。

 秋についても同じ事が言える。いつまでも残暑が続くなあ、と思っているうちに突然冬がやってくる。純粋に秋を楽しむ期間がとても短い。地球温暖化の影響なのだろうが、四季の変化を楽しむ文化をもつ日本人としてはちょっと物足りない。平安時代がこんなふうだったら、あんなに多様な和歌や文化(たとえば和菓子とか)は生まれてこなかったんじゃないか、とさえ思う。多分、同じ事を感じている人は多いんじゃなかろうか。

 さて、そんな春の間に大仕事を一つこなした。庭木の1本が予想外に大きくなってしまって、ここ数年隣家の庭に落ち葉を大量に落としていた。毎年出向いては掃除をさせてもらっていたのだが、今年思い切って大規模な剪定をしたのだ。僕は巨木が好きなのだが、人様に迷惑を掛けているとなれば話は別だ。それに伐採ではなくて、あくまでも大規模な剪定だから、樹木そのものは残る。だがその作業はプロに頼めば数十万円かかるらしい。かといって安価なホームセンター等ではあまりに大きくなりすぎた木を見てドン引きされる。仕方がないので、ものは試し、と思って自分でどこまでできるかやってみることにした。

 まずは必要な機材の入手。高枝用チェーンソーを考えていたのだが、ここ数年で起きた死亡事故(そのうち一件は太ももの大動脈を切断したらしい)のことを考えると僕のようなド素人には危なさそうだ。おまけにヘッドの部分も重そうだし。そこでレシプロソーを購入することにした。この判断は正しかったと思う。ヘッドが比較的軽量なので、支持ポールを最長の3メートルまで伸ばしても取り回しがきく。ただしバッテリー駆動なので20~30分ほどしか連続使用ができない。もっとも、モーターが過熱すると電流が遮断されるので、どのみち長時間の使用はできない。そんなわけで、高さ8メートル弱まで成長したコナラの木を半分の高さまで剪定するのに3週間かかってしまった。だが延べ時間は大したことはない。おそらく、剪定で出た枝葉を細(こま)切れにすることも含めて1週間ほどだろう。その気になれば、けっこうできてしまうものだなあ。これで数十万円浮いたと思うと、なにやら気分も良い。

 実はもう1本、剪定したい木があるのだが、前記した藤が絡んでいて、今年はいつになく見事に咲いたので切るのが惜しくなり、機を逸してしまった。どーすっかな、これ。葉が茂ってから剪定するのは木には良くないそうだが、台風シーズンが心配なので少しでも切るか。実はこの木(確かニレケヤキ)は数年前の台風で幹の一部が裂け、フェンスをぶちこわした経緯がある。うん、やっぱりこれからでも少し切っておこう。

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 映画の中の食事(4)

 4回目にして重要な映画を忘れていたことに気付いた。このコーナーを作ったからには、「ティファニーで朝食を(1961)」を取り上げねばなるまい。何しろタイトルに朝食、と謳っているんだからね。

 オープニング・シーン、朝まだきのニューヨーク、フィフス・アヴェニュー。「ティファニー」の前でタクシーを降りた、夜を徹してのパーティー帰りとおぼしき主人公ホリー(オードリー・ヘップバーン)が、紙袋からテイクアウトのデニッシュ(と珈琲、多分)を取り出して囓る。その囓った跡がとっても可愛い!・・・まあ、それはどうでもいいんだけどね。そんなことより、1961年に簡易カップ(蓋付き)のテイクアウト用珈琲があったことに驚く。そういう商品を扱う店がすでにあったってことだもんね。やっぱりアメリカってすごいわ。

 戦争映画の名作「レマゲン鉄橋(1969)」では冒頭、小競り合いの末に敵の拠点を占拠した米軍の中尉が、ドイツ兵の食べ残したチキンを囓るシーンがある。あれは多分手羽元だな。ここでなぜか僕の脳内では、KFCの味が再生される。KFCの一般的なセットは手羽元は1本だけ。全部手羽元だったら狂喜乱舞するところなんだけどなあ。それはともかく、このシーンでは誰とも知れない他人の食べていたものをよく食えるな、といつも思う。でも戦争ってそんなものなんだよな。

 戦争映画にしてホラーという変わり種、「ビロウ(2002)」では、敵艦から逃れるために無音潜行中の米潜水艦内で、士官の一人がオイル・サーディンの缶詰を頬ばるシーンがある。以前に紹介した「眼下の敵」とは真逆の状況だ。さすがは米軍というか、勝手に物を食っていても上官がとがめる気配もない。缶から手づかみで食うのだけれど、これが美味そう。現在そのへんで売っているオイル・サーディンは身が小さくて大して美味しくもないが、ここにでてくるものは鰯が丸々と太っていて、ちょっと食べてみたくなる。なにしろたった1尾で「頬ばれる」大きさだ。

 さて、以前にも取り上げたことのある「2001年宇宙の旅(1968)」では、月面を移動するムーン・バス内で、正体不明のモノリスを調査するためのチームが腹ごしらえにサンドイッチを食べる。その時の会話が楽しい。「これはチキンサンドかな。」「味はそうですよ。もと(原料)がどうであれ、ね(笑)。」さりげなく未来を示唆するシーンだったが、2001年はもはや過去。現実にはそこまでいかなかったなあ。宇宙食とは言っても、いまだに合成食品までは開発されていない。もしかして、原料は大豆ミートだったりして。ついでに言うと、月までの旅客便(客は1人だけの特別便だけど)の中でも食事するシーンがあるが、ストローで吸うタイプの宇宙食が、ストローから口を離すとストンと落ちる。無重力という設定なのに、だ。さすがのキューブリック監督も見落としたか、とマニアの間で話題になった。しかし、調査チームが月面でサンドイッチを食べているのに、月ー地球間の航路を運行する旅客便(キャビン・アテンダントが乗っている)が流動食というのはどうも解せない。無重力ゆえの制限があるのだろうか。確かにパンくずとかが客室を舞っていたりするのは嫌だけど。

 最後はノーベル賞作家、スタインベックの原作を映画化した「怒りの葡萄(1940)」。1930年代のアメリカ。土地を追われた小作農一家がカリフォルニアへの移住を決意するが、それを拒むちょっとボケの入った爺様(主人公の祖父)を車に乗せるために、好物のスペアリブで誘って鎮静剤入りの珈琲を飲ませ、家から連れ出すシーンがある。ここでは実際に食べはしないが、前日の食卓には確かにそれらしいものがあった。スペアリブといえば味はいいが、所詮は余り物のような部位だ。だが、当時の小作農にとってはご馳走だったに違いない。「(まともな)豚肉が食えるのはクリスマスだけ」というセリフがあるぐらいだ。この爺様、旅の疲れからか次のシーンでは卒中で亡くなってしまう。天国で、スペアリブはたらふく食えただろうか。

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 またしても老医師にしてやられた話。

 先日、人間ドックで引っ掛かった肝臓の再検査に行ってきた。人間ドックを受診した昨年10月以降、アルコールの摂取量は3割ほど落としてきたつもりだ。その結果がどう出るかが今回のキモだ。

 そもそも僕はかかりつけの病院というものがないので、大腸ポリープの時にお世話になった総合病院を4年ぶりに訪れた。例によって紹介状があるので、今回の受診もサクサクと進む。診察室1、担当医は・・・関西の大都市のような名前の先生だ。入室すると、見事な白髪の、僕より二十は年上であろう老医師が椅子に座っていた。何だろう、この感じ。前にもこんな経験をした覚えがあるぞ。

 簡単な問診のあと、血液検査に回された。予想どおりの展開だ。結果が出るまで45分ほど待ち、再び診察室へ。椅子に座ると、老医師はおもむろに語り始めた(言っておくが、僕は今、意図的に「語り始めた」と表現したんだよ)。「今日の結果には異常は無いね。でも去年の10月の頃は問診票に書いてあるよりも飲んでたよね?」「はあ、1.5倍ぐらい・・・」「でしょ?そうじゃないかと思ったんだ。しかもビールだけじゃないでしょ。」「まあ、ジンとかテキーラとか・・・」「うん、そうだろうねえ。でも、生活習慣の改善でここまで数値が戻ってるから、今の飲み方を続けるといいね。肝臓そのものには異常は無いようだから。それでね、この、血圧なんだけど、いつもこんなに高いの?」「そうですね。でも、ドックで再検査とか言われたことは一度も無くて・・・」「うん、医者もいろいろだからねえ。」「・・・いろいろ、なんですか。」「うん、そう。それで、仕事のほうは?」「今は在宅ですかね。」「在宅かあ。いいなあ。家に居て、特にストレスとかは溜まってたりしない?暇をつぶす趣味とか持ってるの?」「ストレスは別に感じてないですね。趣味はむしろ多い方で、たとえば料理とかプラモデルとか。」実は僕がこう答えたことでその後の会話の流れが変わってしまったんだなあ。老医師の目が急に輝きだして、「料理するんだ。僕もやるんだよ、料理。どんな料理作るの。」「結構時間のかかる、凝った料理もやりますね。」「いいねえ。でも本見て作るばかりじゃダメだよ。家にある材料で、いかに美味しいものを作るか、とか。そうするとね、頭使うから脳が活性化して、ボケがこない。」「あ、僕もそれ、よくやりますよ・・・先生、もしかしてハイカロリーバーナーとか持ってます?」この問いかけは火に油を注いでしまったようだ。「勿論あるよ。1万キロカロリーの(聞き違いでなければ、彼は確かにそう言った)やつが。中華料理には必需品だから。」彼はそう言うとおもむろに自分のスマホを取り出し、画像データをスクロールし始めた。何だか嫌な予感がする。

 何回も何回も指を動かした末に、「これ」と差し出したスマホの画面には、確かにごついハイカロリーバーナーが映っていた。さかんにスクロールしていたのは作った料理の画像だろうか。ここでスライドショーとかは勘弁して欲しい。ふと気付くと、後ろに立っている女性看護士が、「また始めやがったよ、こんにゃろめが。患者も患者だ、アホなネタ振りやがって」という顔をしている。これはヤバイ。このままでは敵の術中にはまる。何とかしないと。「と、ところで、血圧の方なんですけど・・・」「ん?ああ、血圧か。血圧ね。これ、ちやんと受診して降圧剤もらった方がいいよ。降圧剤飲むと、寿命が5年延びるからね。あー、煙草も吸うんだね。そろそろやめたら?やめてもいい歳だよ。煙草やめると寿命がさらに1年延びる。」どうやら軌道修正は成功したようだ。老医師は話し足りないような顔をしていたが、こうして僕は、這々の体で診察室をあとにしたのだった。

 この記事は会話の部分をかなり端折っていて、実際には料理に関するご高説を他にもたくさん拝聴した。肝臓の話をどのくらいしたかは憶えていないが、それ以外の話題の3割にも満たなかったと思う。またこれかよ。僕はこうした状況を引き寄せる何かをもっているんだろうか?

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 SFにおける宇宙船のデザインについて(2)

 (前回より続く)ところでずっと気になってたんだけど、「宇宙戦艦ヤマト」のロケットノズルは本当に必要なのだろうか。映像では波動エンジンと連動しているようにも見えるが、設置されている理由がよくわからない。そういえばスター・ウォーズの「スター・デストロイヤー」もロケットノズルがあったっけ。ところで皆さん、知ってます?実はスター・トレックの「エンタープライズ」もノズルをもっているんだよ。通常航行用インパルス・ドライブのためのもので、ちょっと見ノズルには見えないデザイン。噴射するのはプラズマ変換された重水素だそうだ。エネルギーはワープ・ドライブの推進器と共通。合理的。でも後に主機が不調でも緊急航行できるように独立したシステムとなる。

 合理的といえば、映画と言わず小説と言わず、SF作品を作る側は、その世界観に合理性を持たせるために数多くの発明をしてきた。たとえば「機動戦士ガンダム」の世界には「ミノフスキー粒子」なるものが存在する。レーダー等の探知装置を無効化するので、目視による接近戦が必至となる。だからモビルスーツのような白兵戦兵器が重用され、感覚の鋭い「ニュータイプ」が兵士として必要になったわけだ。ここでちょっと突っ込みを入れると、視覚重視、しかも暗い宇宙で戦うのにガンダムやホワイトベースのようなカラーリング(白が基調)って、普通に考えてまずあり得ないよな。

 「レンズマン」シリーズや「スカイラーク」シリーズで有名なSF作家、E.E.スミスも「バーゲンホルム機関」なるものを発明している。これは慣性をゼロにする装置で、これを作動させればどんなに急激に加速、あるいは減速しても、宇宙船の中には何の影響も生じない。つまり、Gを感じない。だから人体の限界を考慮することなく、推進装置の性能いっぱいの加速・減速ができる。逆にこの装置がないと、超高速から何らかの理由で緊急停止した際に、搭乗クルーは前方の壁に叩きつけられて全員死亡!もっと言うなら、船体に固定されていないもの全てが速度を維持したまま船首を突き抜けて飛んでいく、なんてことが起こりかねない。これに近い状況を「シドニアの騎士(※1)」でやってたっけ。

 ところで前出の「エンタープライズ」には、航路上に無数に存在するスペースデブリ(微少なチリ)を除去するための「デフレクター」なる装置がある。いかに微少なチリとはいえ、光速に近い速度で船体に衝突するととんでもない損害を与えるからだ(※2)。さらに面白い話として、ワープ航法では相対性理論の影響を受けない設定だが、通常航行用のインパルス・ドライブではいわゆる「ウラシマ効果(後述)」が発生するため、使用は光速の25%のスピードまで、と制限されているそうだ(システム上は80%まで可能)。「スタートレック」ではこうしたマニュアルが早い時期から細かく設定されていた。それを解説した文献もあるぐらいで、初出は1966年ながら、実にマニアライクなシリーズだったのである。

 要するに、本気で超高速航行を実現しようとすれば、それに付随して解決しなければならない問題が山のようにあって、単に推進器の開発だけでは終わらない、ということだ。たとえば、宇宙では「普通に止まる方法」も考えないといけない。宇宙空間はほぼ真空なので、自動車のようにブレーキをかける(何かとの摩擦によって止まる)ということができないからだ。勿論飛行機のエアブレーキも無効。原理的には船体を180度回転させ、出発したときと同じ加速度で同じ時間「逆」推進し続ければ止まることは止まる。けれど、この方法ではいつ、どこで止まるかをあらかじめ決め、かかる時間を逆算して停止するためのプロセスを開始する必要がある。これではストーリーが成立しにくい。だから最近のSF作品ではこのあたりは良心的(?)にスルーしていて、難しい理論や技術は「解決済みの既成事実」として扱われることが多い。しかも光速を越えて移動しても時間の遅れなんて生じない。相対性理論から何から、全部無視。実際そうでもしないと、たとえば超高速で逃げ出したルーク・スカイウォーカーが、戻ってきてみたらダースベーダーは老衰でとっくに亡くなっていました、なんてことになる(これがいわゆるウラシマ効果)。話が進まないよね。いや、進み過ぎか。だったらもういいやって。一時期考証にこだわりすぎた時代があって、ぐるーっと一回りしちゃったんだろうねえ。

※1 日本のSF漫画作品。後にアニメ化(2014)。全長35㎞に及ぶ植民船「シドニア」が地球外生命体から攻撃を受けた際、緊急に急旋回・急加速等の回避行動を行ったために警報が間に合わず、身体を固定できなかった搭乗員が慣性によって内壁に叩きつけられ、多数が死亡するという場面がある。

※2 直径3ミリの小石が1立方メートルあたり100個浮かんでいるとして、それらが音速で人体に衝突したらどうなるかを想像してみてください。小石がもっと小さくても、衝突速度が大きくなれば同じ事。物体の持つエネルギーは、速度の二乗に比例するからだ。