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 三輪車の置物 

 お彼岸の日に墓参りに行った。僕の家はキリスト教なので、お彼岸に墓参りはしないが、カミさんの実家は仏教なので、そちらの墓参りに行く。家はキリスト教と書いたが、それほどこだわっているわけでもなく、むしろお盆やお彼岸といった日本の風習の方が興味がある。そういった時期に墓参すると、普段は寂しげな墓地がたくさんの花や提灯で華やいで見える。その雰囲気が好きだ。

 いつものようにカミさんの実家の墓がある墓地に出向くと、下の娘がある事に気付いた。「パパ、あれ・・・。」娘の指さす方を見ると、墓地の入り口にあるゴミ捨て場に、針金細工の三輪車の置物が捨てられていた。それは僕たちにとって見覚えのあるものだった。

 カミさんの実家はいわゆる「本家」というやつで、その墓地には同じ姓の墓がたくさんある。それらを巡りながら歩く道すがらに、小さな墓がある。普段は草も伸び放題で、アーチ状の、赤みを帯びた花崗岩でできた小さな平たい墓石が、むき出しの地面に直接設置してある。高さも20㎝に満たないので、墓誌や名前などは一切彫られていない。墓石の前にはステンレス製の線香皿と、花を生けるための樹脂製の竹筒。そしてその傍らにあの三輪車の置物があった。初めて見た時、僕たちは色々と勝手な憶測を巡らせた。「子どものお墓・・・?」「お金はかけられないけど墓石ぐらいは、と思ったのかな。」「墓石がピンクだから女の子かも。」何となく「お線香をあげようか」ということになって、みんなで線香をあげた。以来、毎回欠かさず線香をあげているが、参る人が少ないらしく、手入れもままならない様子で、それが何だか不憫に思える。 

 あれから何年経ったろうか。今日ゴミ捨て場に捨てられていた三輪車の置物は、確かに塗装もはげ、サビが全体を覆い始めていたが、修理すればまだ使えそうだった。墓へ行ってみると、久々に草が綺麗に刈られ、新しい花が捧げられていてちょっと安心したが、あの三輪車の置物が無くなって、何だか寂しげに見えた。娘が「もういらないのかな」と言うので、「もしかすると、生きていればもう子どもじゃない年齢になるんじゃないかな」と答えた。長い年月の後に、いつしか僕たちの間では、あの墓は「子どものお墓」として定着してしまったようだ。そんなわけで今年も線香をあげてきたが、本当はどんな人が眠っているのかは今もわからない。もしかして迷惑な勘違いだったらごめんなさい。 

 あの三輪車の置物、よっぽど持ち帰ってサビを落とし、綺麗に塗装し直してあげようかとも思ったが、それこそ大きなお世話かも知れないし、場所が場所だけに、下手に持ち帰ると、何かあった時に皆が変な気持ちになってしまっても困るのでやめておいた。でも、線香だけはこれからもあげ続けようと思う。

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 知ることの意味 その2

 東欧がえらいことになっている。早いとこ停戦に持ち込めれば良いのだけれど。

 日々明らかになる状況をチェックしているのだが、そんな中で自戒の念にさいなまれる瞬間があった。どういうことかというと、この件に関して、最初は多くの人々と同じように、R国は悪い、U国は良いという単純な公式のもとに物事を判断していた。ところが調べを進めるうちに、事はそう単純ではないことがわかってきた。

 2014年のクリミア問題、U国の歴代大統領の変遷にかかわる政策のブレ(親R路線と親欧米路線を行ったり来たり・・・。)、そんな中で親R派の国民と親欧米派の国民の間で何度も紛争が起き、今回P氏が勝手に独立を認めたU国東部の2地域(親R)は実際に迫害されてきた経緯がある。それどころか、その際ネオナチの極右グループが実働部隊として政治的に利用されていたことも事実だという。

 2014年には現地の親R派が武装蜂起、同時にクリミアでも親R派が独立を宣言し、その後自らR国に併合を持ちかけている。それを受けて起きたのがクリミア併合だ。つまりこれらの地域へのR国の干渉は、U国政府の弾圧に喘いできた一部の地域住民の意志を受けてのものなのだ。ただし、こうした手順はもちろん国際法に違反するし、この時行われた意志決定のための住民投票が正当なものだったかどうかはわからない。今回に限らず、あの辺の地域は情報の隠蔽や操作は普通に行われていることだからなあ。

 U国東部地域では、以来8年間にわたって紛争が続いているが、これまでに死者が14,000人に達しているにもかかわらず、このことは日本ではほとんど報道されていない。さらに調べを進めると、P氏をあそこまで追い込んだのは西側かもしれないという構図まで見え隠れする。

 P氏は侵攻の理由の一つとして、NATOが東方への勢力不拡大の約束を破ったと主張するが、NATO内部でも、東西ドイツ統合の段階でこの約束があったとする一派と、そんな約束はなかったとする一派が存在する。問題は公式文書が存在しないことで、言った、言わないの争いだという。何ともお粗末な話だ。今回の戦争状態は、このように長期にわたる複雑な問題の集積の結果なのだ。だが理由はどうあれ戦争は悪。これは単純明白な真理だ。

 U国の立場で言えば、事の始まりはもっと時をさかのぼる。スターリン政権のソヴィエト連邦時代に冷遇され、特に1930年代前半の世界恐慌下、U国はホロドモールというかなりひどい仕打ちをされたことがある。これについては僕も知っていたし、最近「赤い闇」という映画にもなった。この時の恨みは今もU国の歴史を黒く覆っている。このホロドモール(人為的大飢饉、餓死者は1,000万人を越えるとも言われている。詳しくは「ホロドモール」で検索のこと)の黒幕はスターリンだったが、最近のP氏を見ていると、スターリンの怨念が乗り移ったかのようだ。政敵の粛正を含め、人権無視や情報の隠蔽、虚偽の言動や約束無視などはお手の物だ。(※)

 結論として、P氏のやっていることは擁護すべき理由が1ミクロンも見つからないが、最近のU国情勢をよく知らずにあれこれ考えていた僕は、多少なりとも反省せねばなるまい。どうもこういった大陸的な問題は、島国日本の国民にはそう簡単には理解できないものがあるように思う。だから今は、早く戦争が終わって欲しい、とだけ言っておく。それにしても、P氏は色々と大丈夫なんだろうか。今後が心配で仕方が無い。

※「カティンの森事件」というのを検索してごらん。ついでに「大粛正」も。気持ちが重く沈んでしまうから。

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 幕の内弁当とか

 前回駅弁について書いたが、ある意味今日はその姉妹編。

 幕の内弁当。芝居の幕間(まくあい)、つまり幕の閉まっているあいだに客が食べる弁当であるとか、役者が幕間に食べたとか、由来については諸説あるが、一般的に俵型の白飯に副菜を数種類添えた典型的な弁当を指す。駅弁はその土地の特色を色濃く出した変わり弁当が多いが、もちろん幕の内弁当も無いわけではない。東京駅などでは、一つ一つのおかずに手間暇をかけた素晴らしい幕の内タイプの弁当が販売されている。以前聞いた話だが、日本に来たばかりの外国人に日本の料理を紹介するなら、こうした東京駅の駅弁がうってつけだそうだ。それほどおかずの種類が豊富で、しっかり調理されているということだろう。

 弁当と言えば、忘れられないのが京都・伏見の「魚三楼」の弁当。確か母の日のために特別に販売されていたものだったと思う。たまたま手にした弁当だったが、二段構えの折りには、ひょうたん型にかたどられた豆ごはんと、多種多様なおかずが彩りよく詰められていた。普通この手の弁当は、必ず「これはちょっと・・・」と思うようなおかずがあるものだが、この「魚三楼」の弁当は完璧だった。一つ一つのおかずのどれをとってもそつが無い。何がどうこう、ということでなく、全ての料理が出しゃばらずに引き立て合い、ただただ「美味しい」。TVの食レポでは許されないだろうが、これが正直なところだ。他に言いようがない。ゆっくり味わいながら、ご飯粒一つ残さずに平らげた。世の中にはこんな弁当があるんだ、と感服した次第だ。もう20年近く前のことだが、以来機会があるたびに購入を試みたものの、常に売り切れ(京都駅ビル伊勢丹の食品売り場)で、いまだに再会を果たしていない。

 逆の例もある。以前教員をしていた頃に、ある旅行代理店の営業マンに、修学旅行用の弁当を企画したからといって試食を頼まれたことがある。彼は東京から、東海道を通って京都に行くあいだに通過する、各地の名物を詰め込んだ弁当を試作してきたのだ。ところが、アイディアは良いのに、肝心の料理は驚いたことにどれを食べても不味い。こんな事ってあるのだろうか。理由として思い当たったのが、前回触れた「冷めても美味しい調理法」だった。弁当の場合、とりあえずウナギです、とか、とりあえず味噌カツです、とかではダメなのだ。店で食べたら美味しいものでも、それを弁当として食べたらどうなのか。冷めても美味しく食べるにはどうしたらいいのか。そこが肝心だ。長年変わらずに販売されている駅弁には、必ずと言っていいほど開発時の苦労話がある。それを知らない素人が思いつきで手を出すから、こういったけしからんものができあがるのだ。「これ、調理人が弁当として冷めても美味しい、ということを考えないで作ってるんじゃないか?」と突っ込んだら、「なるほど、そうかもしれません」だって。甘いなあ。だいたい、一朝一夕で上手くいくような世界ではないのだよ、弁当とか駅弁とかいうものは。

 この弁当はその後、上司がOKを出したからといって、何も改善されないまま客に提供された。今どうなっているかは知らないし、興味も無い。

 さて、駅弁。僕は現在、前回紹介した「駅弁パノラマ旅行」を含め、何冊かの駅弁に関する本を持っているが、見比べてみると時代ごとに少しずつ変遷していくパッケージのデザインや、価格の変遷がわかって面白い。そして長い間には数多くの新しい駅弁が現れては消えていく。さらに列車のスピードがアップするに従って、寝台列車を含む長距離列車(実際には「長時間列車」?)が姿を消し、駅弁を販売する駅もかなり減ってきていると聞く。だが、そんな駅弁界にあっても常に「幕の内」系は残っている。時にその普遍性は大きな強みとなるだろうし、アレンジのしやすさもあってのことだろう。おかずが1~2品変わったって、「幕の内」は「幕の内」だもんね。こうして生き残った駅弁たちは、今も日本鉄道史の片隅でさん然と光り輝いているのである・・・なんちって。

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 駅弁あれこれ 

 この正月に帰省(といっても一般道で1時間あまり)した時に、あるショッピングモールで駅弁大会をやっていた。僕は駅弁が好きで、こうした催しがあると必ず数種類買い込む。今回は富山の「ますのすし」と鳥取の「かに寿し」、それと名前は忘れたが牛飯などを購入。実を言うと「かに寿し」は今回初めて購入した。「あんな有名なものを初めて?」と、ディープなマニアには驚かれそうだが、売り切れていたり、ラインナップになかったりで、なかなか巡り会えなかったのだ。でも、森の「イカめし」とか横川の「峠の釜めし」とかは散々食している。「峠の釜めし」など、たまった容器をわざわざ横川の店舗まで返しに行ったこともある。

 実を言うと最近の駅弁には少々疑問がある。例えば、ひもを引っ張るとあっという間に加熱されるものなど、何を考えているんだ、と言いたい。もちろん反論されるのは覚悟の上だが、昔の駅弁は、冷めても美味しい食材や調理法など、色々と工夫がなされていた。そういった努力をたった1本のヒモで台無しにするというのは、言語道断ではないか!(落ち着け落ち着け!)さらにもう一つ言うならば、最近駅弁というカテゴリーにしては豪華すぎるものが増えてきた。牛飯なんて、コマ肉とそぼろで十分。そこへ大きな牛肉の薄切りが並んでいたりすると、なんか違うぞ、という気がする。で、多くの場合味わいもたかが知れている。わかってる、わかってるって。そういうのを求める人が多いことも十分承知している。だがこれを言っているのは僕だけではない。駅弁はあくまでも駅弁だ。行楽弁当でも、折り詰めでもない。贅沢である必要は無いし、温めて食べるべきものは弁当にしなくていい。要するに、下手に駅弁の範疇を超えようとすると、無理が祟るということだ。

 とうの昔に鬼籍に入った僕の爺ちゃんは、本の虫であり、収集家でもあった。そんな爺ちゃんの書庫で、子どもの頃見つけた一冊の本。それは「駅弁パノラマ旅行」という本だった。発行は昭和39年、見るからに人工着色的なカラーページを含む、当時としては凝った作りの書物だ。ソフトカバー228ページ、前半は有名な駅弁についての記事を写真入りで掲載し、後半は詩人から評論家、作家からグラフィックデザイナーまで、各界のトップクラスによる評論が。さらに簡単な観光ガイド、宿泊ガイド、当時としては珍しいカロリー表まで記載されている。「ますのすし」「イカめし」「峠の釜めし」「かに寿し」等はすでに有名な駅弁として掲載されていて、「いかめし」は三つ(今は二つ)入って70円。「ますのすし」は130円。「峠の釜めし」は150円と紹介されている。件(くだん)の「かに寿し」はパッケージが大小あって、それぞれ150円と100円。今売られているのは100円のサイズの方だ。嗚呼、何おか言わんや。100円って、10円玉10枚ですぜ。想像してみてくださいよ、「かに寿し」と引き替えに、売り子さんに10円玉10枚を渡す自分を。

 この本のコラムに、駅弁の作法として「経木(ごく薄い木の板)の蓋にくっついた飯粒をはがして食べるところから始める」と書かれていて、思わずウンウン、わかるよ、と頷いてしまった。原体験というか、僕も覚えがある。昔の駅弁は経木の箱が当たり前だった。経木がごはんの余分な水分を吸ってじっとりと湿り気を帯び、反対にごはんには木の香が移って、それも味わいの一部になっていた。つまりそんな次元のものが僕にとっての駅弁なのであった。

 あの時代からほとんど変化することなく販売され続けている、素朴なスタイルの駅弁も無いわけではないが、そういう観点からすると、最近の駅弁はどうもよろしくない。そんななかで「これは」と思ったのが、仙台の「鮭はらこめし」。最近と言っても販売開始からかなり経つが、これは美味いよお。

「かに寿し」を紹介している山陰・山陽のページ。右のペーには古書特有の「焼け」が・・・。

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 東風吹かば・・・

 「どこかで春が」という唱歌がある。僕ぐらいの年齢の人なら小学校で習っているだろう。「どこかで春が生まれてる どこかで水が流れ出す」と続く。サビの部分は、「山の三月 そよ風吹いて・・・」という歌詞だが、現代の言葉に置き換えられる前の原曲では「そよ風」ではなく「東風(こち)」だった。菅原道真の和歌「東風(こち)吹かば にほひをこせよ梅の花 主人(あるじ)なしとて春な忘れそ」の「東風(こち)」のことだ。「東風(こち)」とは、春を運んでくる暖かい東風のことだ。

 今日の昼下がり、柔らかな陽射しに誘われて、飼い猫とともに庭に出てみると、片隅にオオイヌノフグリが2,3輪咲いていた。道の向こうの畦にはホトケノザが濃いピンクの花を咲かせ始めていて、すでに盛りを迎えているロウバイの、あの独特の黄色と良いコントラストを紡ぎ出している。こうして花々が一斉に咲き始めるのを見ていると、ああ、やっぱり春は始まりの季節なんだな、なんて今更ながらに思う。

 古い唱歌に「冬の夜」というのがあって、これはさすがに僕の時代では教科書(音楽の)には載っていなかったが、「灯火(ともしび)近く衣(きぬ)縫う母は 春の遊びの楽しさ語る」という歌詞からは、当時の雪国の、冬の厳しさを容易に想像することができる。冬の間雪に閉ざされ、遊ぶ場所もない。春になって雪解けを迎えれば、いろいろな遊びができるよ、おそらくそんな話をしているのだろう。遊びったって当時のことだから、野遊び、山遊びの類いだろうけど。今の子どもは暖かくなっても、外に出て遊んだりはしないんだろうなあ。

 皆さんご存じのクリスマス。キリストの誕生を祝う日だ。ただし「祝う日」であって「誕生した日」ではない。キリストがいつ生まれたかは、今もよくわかっていない。ではなぜこの日、12月25日を「誕生を祝う日」にしたのか。それは当時のヨーロッパですでに定着していた「冬至祭」と重ね合わせたかったからだ。要するに、手っ取り早く、多くの人々に祝ってもらうための手段だったんだね。

 冬至祭というのは、次第に弱まる太陽の輝きが、一転して勢いを増し始める、その「太陽の復活」を祝う祭りだ。冬至を過ぎれば、程なくして春が訪れ、世界は活気を取り戻す。長い冬をしのぎ、春を待ちわびる気持ちは万国共通ということだろう。農業に関する技術が未熟だった昔であればなおさらのことだ。あの頃はまだ、人間もかろうじて自然の一部だった、と言っても間違いじゃないかも知れないね。

 ところで、猫と一緒に庭をうろうろしていて気付いたことがある。ある方向に歩くと寒さを感じるのだ。逆に進むと陽射しが暖かい。どうやら微風が吹いているらしい。それに逆らうように歩くと風がより強くあったって寒さを感じる。何度か試すと、風は東から吹いていることがわかった。それで思い出したのですよ、「東風(こち)」という言葉を。そこから「どこかで春が」を連想したという次第。「山の三月」は訪れが遅いだろうから、平野部に置き換えたら今日のこのぐらいの感じなのかな、なんて考えながら、小一時間ほど猫と戯れていた。まあそんなわけで、他愛もない話です。

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 大寒ってホントに寒いんだよね

 前回ちょこっと触れた二十四節季。それによると、ついこのあいだ「大寒」という時期に入った。1年で最も寒いとされる、今がまさにその時期。今年は1月20日から2月4日だって。これがホントに寒くなるんだよなあ。

 そもそも二十四節気というのは、四季、すなわち季節をさらにそれぞれ六つに分けたもの。今でも「春分」とか「冬至」とか言う、あれのことだ。これが24あるわけだ。「立秋」なんてのもあって、「もう秋ですぜ」という意味だが、カレンダーの上ではだいたい8月上旬。一番暑い盛りで、「ふざけたこと言ってんじゃないよ」となっちゃう。でもこれ以降はどんなに暑くても残暑であって、もう暑中見舞いは書けない。つまり、立秋以降は残暑見舞いということになる。 

 この「立秋」を旧暦で見ると、なるほど、今で言う9月上旬になってるなあ。じゃ「大寒」はどうかというと、2月中旬以降。こちらは新暦のほうが当たっている気がする。参考までに言うと、旧暦の「七夕(たなばた 7月7日)」は新暦では8月に入ってからの時期になるから、梅雨時で織姫と彦星がなかなか会えない、ということもないわけだ。

 そこでもう一つ、この時期に気になってくるのが「節分」。節分って、年に4回あるの知ってた?これは文字通り季節を分ける、という意味で、立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日を指す。だから4回。それがなぜか今では、立春の前のものだけがもてはやされている。一説によると、江戸時代以降のことだそうだ。この「節分」は「雑節」と言われるものの一つで、「節分」の他に「入梅」とか「八十八夜」とか「彼岸」とかがある。

 話を戻して、二十四節気はさらに「七十二候」に分けられる。これは節気をそれぞれ初候・次候・末候に分け、短文で表している。例えば、立春の初候は「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」といった具合に。その短文の一つ一つに趣があってなかなか良いのだが、どうやら何度も時代に合わせた改変がなされて今に至っているようだ。オリジナルは古代中国のもので、ウィキペディアによると「雉(きじ)が海に入って大蛤(はまぐり)になる」なんていうものまであったそうだ。古代中国恐るべし。それにしてもよく作ったよなあ。他にやることはなかったのかしら。もっとも、紀元前数千年も前に、西暦2012年まで使えるカレンダーを作った人たちもいた(おわかりですね、一時「人類滅亡か?」と話題になったマヤ文明の暦のことです※)ぐらいだから、農業との関連もあって、暦はとても大切なものだったんだろうね。

 日本では今もこうした季節の節目を大切にしている人が多い。特にお年寄りや俳句に携わる人たちはそうだろう。季節感に関する話題は、まだまだ奥が深そうだなあ。あらためて、詳しく調べてみたくなってきたぞ。

※マヤの暦はとてつもなく長い周期で考えられていて、西暦2012年はそのサイクルが一段落する年に当たっていたらしい。つまりこれ以降は最初に戻って同じ暦をもう一度使えるので、ここで暦が終わっている、という説が有力。

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 思い出の石焼き芋

 コロナウイルスが猛威をふるう中でも、人の所行に関係なく正月はやってくる。当たり前といえば当たり前。今年も七草がゆを食べ、鏡開きも済んだ。何だか歳を重ねるたびに、日本古来の風習(二十四節気とか)に興味が湧いてきたようだ。そんな生活の中で、ふと思い出したことがある。昔よく利用した焼き芋屋さんのことだ。

 あれからもう17~18年にもなるだろうか。毎週土曜日の昼近く、どこからともなく、あの笛のような音が聞こえてくる。窓から外を眺めていると、「石焼き芋」の看板を掲げた軽トラックがやってくるのが見える。当時としてもこうした行商はすでに珍しく、懐かしさも手伝って、僕と下の娘は500円玉を握りしめて外に出、家の前で焼き芋屋さんを待つ。必ずおまけをしてくれるので、500円でも二人で食べるには十分すぎる量が買えた。時にはがっつり残して、仕事から帰ったカミさんに「食べられる分だけにしなさい!」なんて怒られることもあったぐらいだ。言っておくけど、これ、平成の話ですぜ。やってることがまるで昭和。

 この石焼き芋屋さんは60過ぎの人で、正規の職を定年で退いた後、半分趣味のようにして商いをしているとのことだった。隣の県から泊まり込みで、冬場だけやってくる。「出稼ぎですよ、出稼ぎ。」彼はそう言って笑っていた。毎回、「今年も来ましたよー」だとか、「今年は今日が最後です」だとか、そんな挨拶を交わしていたが、ある年姿を見せなかったことがあって、翌年訳を聞いたら「ちょっと病気してしまったもんだから・・・すみませんでしたね。」と謝っていた。娘ともすぐ馴染み、僕も彼とはいろいろと立ち話をしたものだったが、4,5年してぱったり来なくなってしまった。「そう言えば名前も聞いてなかったなあ」なんて言いながら、娘と二人、妙に寂しい思いをしたことを覚えている。

 今ではスーパーで石焼き芋が買える。自宅で作れる家電もある。あれ以来、あの笛の音(昔の石焼き芋屋は遠くからでもやって来たことがわかるように、蒸気で笛を鳴らしながら商売をしていた)も、とんと聞かなくなった。

 最近は近場のショッピングモールに週末にやってくる、これまた隣の県の総菜屋さんと親しい。「梅しそヒジキ」や「イカの塩辛」が逸品で、よく足を運ぶ。支払いはモールと共通のレジなので、彼がたまたま不在でもパックをカートに入れれば商品は買える。だが彼のスタイルである、その場で内容量を増やしてくれるという恩恵にはあずかれない。ある時、彼の留守中に買い物をしたら、会計を済ませた僕を見つけ、わざわざ追いかけてきて「おまけ」を渡してくれたっけ。これだから足が向いちゃうんだよな。そんな彼は新年には帽子を取って深々と頭を下げ、挨拶をしてくれる。もちろん僕も丁寧に挨拶を返す。周りの人がびっくりしてこっちを見ているのがなんだか楽しい。そう言えば今年はまだ挨拶してないな。今週末にでも顔を出そうかな。

 考えてみると、こうしたおつきあいは昭和では当たり前だった。あの頃は「行きつけの店」は店員さんの人柄で決まることも多かった。つまり人間関係の上で商売が成り立っていた。近頃は店員さんにアルバイトやパートが多いせいか、親しくなる前に人が入れ替わってしまったりする。それどころか、「店員と直接かかわらずに買い物ができる店」や「無人の店舗」が頻繁に話題に上るようになった。違うでしょ、と言いたい。もちろんコロナ過のこともあるのだろうが、それが過ぎてももとには戻らないんだろうなあ。

 あの焼き芋屋さんは、今ではもう80歳近いはずだ。元気でいるだろうか。できることなら、もう一度お会いしたいな。

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 今年のクリスマスケーキ

 クリスマスの準備をしている。ドイツの風習にちなんで、毎年4週間前から始める(アドベントという)。ネットで確認したところ、北米防空司令部(NORAD/ノーラッド)も今年のサンタ追跡の準備を始めたようだ(「ノーラッド サンタ追跡」で検索)。僕は僕で、現在ケーキに使う食材を買い集めているところだ。

 以前は既製品を買っていたのだが、「去年のあれ、美味しかったよね」の、「あれ」が翌年にはなかったりするので、ここ数年は当時のカタログを参考に、自分たちで作るようになった。大学生の娘はバタークリームケーキとショコラムースのケーキを、僕はダークチェリーとピスタチオのブッシュドノエルを作るのが定番だ。娘は今年、ショコラムースにフランボワーズムースを組み合わせてアレンジしようと計画しているらしい。僕は生クリームとショコラの2本立てに挑戦してみようかな。そんなにたくさん作ってどうするんだ、と言われそうだが、今年のイブには親族が9人集まるので、結構はけてしまう。お土産に持ち帰る人もいるし、翌日までは美味しく食べられる。ただし右腕の筋肉痛は必至だな。どうも電動泡立て器は性に合わないのですよ。生クリームのホイップは人力のほうが早いしね。

 参考までに言うと、今年はメインディッシュとしてラムチョップの赤ワインソースを作る。ソースはクックパッドにあるようなケチャップを使ったものではなくて、フォンドボーと蜂蜜を使ったもの。よりフレンチっぽく、ね。

 定番の鶏モモのローストとローストビーフは行きつけの精肉店の既製品。オードブルには市販のテリーヌを用意した。もちろんサラダも作るが、ケーキのことを考えると、どう見ても栄養バランス的に不健康なメニューだ。でも家族全員が太らない体質なので、うちの場合は問題なし。

 今一番困っているのが、我が家のクリスマスには欠かせないシャンパンを含む、ワイン類の価格が高騰していること。その昔4~5,000円で買えたシャトー・カロン・セギュールが20,000円超とか、ふざけんじゃないよと言いたい。昔は無理すりゃドン・ペリニョンのロゼだって買えたんだよな。それが今では40,000円前後、とても手が出ない。かといって、さすがにシャンパンは自前で作るというわけにはいかない。仕方が無いからモエ・エ・シャンドンのロゼで我慢する。と言っても、これだってそこそこ良いシャンパンではある。そう言えば「めぐり逢い」という映画(1957年)で、デボラ・カーが「ピンク・シャンペィン」なんて言ってオーダーしていたっけな。そんでもってちょこっと耳の後につけたりして(香水代わりかと思ったら、縁起担ぎのおまじないらしい)。なかなか粋ではないですか。あーあ、シャンパンの値段にしろ、映画にしろ、昔は良かったなあ。

 さて、ケーキであるが、娘は今回、なぜかケーキ作りに例年にない意欲を見せている。イブに向けて二つのケーキを作るだけでなく、今までに4回作ったがいずれも満足のいく出来にならなかったムースケーキに、25日(クリスマス当日)に再挑戦するという。娘は大学の4年生、卒論も大詰めだ。こりゃあれだな、ほら、テスト勉強をしているとなぜか部屋の模様替えをしたくなるという・・・。まあ、それも良いか。就職も決まったし、来年からはそうそうケーキ作りにいそしむこともできないだろうから。だが待てよ。ということは、来年からはその分も僕に回ってくるということか?

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 ゲテモノ?それとも美食?

 熊の肉をもらった。鹿やイノシシはもちろん、マガモやワニなども食べたことがあるが、熊は初めてだ。くれたのは懇意にしている保険会社の女性。映画好きで、真っ黒のボルボに乗り、知人にはヤバイものが見える人がいるという何とも魅力的(?)な人。この人は何か面倒な食材が手に入ると、僕に電話をかけてくる。この前は「ヒナが入っていたら食べないでくださいね」とか言いながら、合鴨の卵(生)を持ってきたっけ。恐ろしい話だ。想像してみてください、ゆで卵からヒナの死体が出てくるところを。ちょっとしたホラーじゃありませんか。多分監督はデビッド・リンチあたりだな。心理的にぐいぐい来そうだ。

 幸い全てが無精卵だったのだけれど、実を言うとぼくはこういうタイプのおつきあいが少なくない。「マガモのロース。散弾が入ってたらよけて食べてね(昔の同僚)」であるとか、「アブラボウズ(魚です。僕もその時初めて知りました。)の切り身です。脂がすごく多いから食べ過ぎると腹を壊しますよ(教え子の親)」であるとか。今回の熊肉は「○○さん(僕のこと)料理できるし、珍しいもの好きそうだから、食べるでしょ?」何を根拠に言っているのだろう。

 その昔、職場の食事会とかで(ごくたまに)高級な日本料理店に行くのが楽しみだった。アワビのツノだとか白子だとかが出ると、みんな僕のところに回ってくるからだ。食べてみれば美味しいのに、イメージや見た目だけで食材を嫌う人の何と多いことか。なにしろ言い訳が良い。「僕は庶民で良いんです」だって。僕だって立派(?)な庶民なんですけど。いやその前に、アワビのツノや白子は庶民が食べてはいけないものなのか?だいたいこういう人たちはウニやイクラは喜んで食べるんだよね。卵巣は良くて精巣はダメ、これは明らかに性差別であろう。違うか。

 それで熊の肉なんだけど、上手く下処理しないと臭みが強いというのは知っていた。が、今回の肉は獲った直後に上手に処理(血抜きとか)されたらしく、そのままステーキ(味付けは塩・コショウのみ)として食べても美味であった。残りの半分は鍋にして食べたが、アクらしいアクも出ず、歯ごたえはあるがすっと噛み切れ、繊維が残ることもなく、家族で美味しくいただいた。正直なところを言うと、もう少し獣肉っぽい癖があっても良かったような気がする。でもこれはリピートしたいぞ。保険屋さん、またよろしくね。

 うちに「珍(めずら)かなるもの」が集まってくることは前記したとおりだが、よく考えてみると件(くだん)の保険屋さんもすごい。そのルートの一つになっているわけだから。しかも頻度としては一番だ。いったいどんな人脈をお持ちなのだろうか。熊肉についてはどこぞのジビエ料理店経由(だから下処理済みだった?)ということだったが、前回の合鴨の卵はどのようなルートで入手したのだろう。何にせよ今後も期待が膨らむばかりだ。保険屋さん、これ読んでます?次はカラスが食べてみたいです。

 いやー、解約しなくてホント、良かったなあ。

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 女は強いぞー。

 マサヨばあちゃん ムツばあさん 両方とも知ってる人!

 マサヨばあちゃん・NHKのドキュメンタリー「マサヨばあちゃんの天地(1991)」の主人公。

 ムツばあさん・同じくNHKのドキュメンタリー映画「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道(2020)」の主人公。

 この人たちはご主人が先に逝ってしまった後も、自分たちの土地(農地)を守りながら生きていく。その姿がけなげでもあり、力強くもある。NHKは時々こういう番組作るよね。何か約束事でもあるのだろうか。

 生物学的に言っても始めにメスありきで、オスは交配によってより良い子孫を作るための道具として自然界が発明した、という話を聞いたことがある。要するに「オプション」だ。だから自然界には用済みになるとポイされたり食べられちゃったりするオスもいる。寿命を比べても女性のほうが長生きだ。ところが人間には文化というものがあるから、男どもはその中で男尊女卑のしきたりを作り、押さえつけてきた。おっかなかったんだろうねえ、いろいろと。実際、日本の古い禁忌などをひもとくと、とにかく女性を卑下するものが多い。女人禁制の神域とか、生理中や妊娠中の女性を生活圏から遠ざけるとか。柳田国男がそういった禁忌を全国から集めた本があるから、一度読んでごらんよ。今ではあり得ないことだらけだから。極端な例では嫁が生理中(妊娠中だったかな)の旦那まで遠ざける習慣もある。一種の「ケガレ」ととらえられていたんだね。それでいて天照大神や卑弥呼を神と崇めたり、女王として敬ったりしてきたのが日本人なんだよな。もっとも、日本開びゃくの、つまり国産みの時のイザナギとイザナミの逸話には、契りを交わすに当たって女神から声をかけたら上手くいかなくて、あらためて男神から声をかけたら上手くいったとあるから、ある意味徹底しているとも言える。でも結局何が言いたいのかは実のところよくわからん。

 今回のオリンピックの前後に、この女性蔑視の問題が大きくクローズアップされた。時を同じくして、韓国ではフェミニズム運動が巻き起こった。ただしこちらはちと脱線のきらいがある。が、この際難しいことは置いておこう。結局は女のほうが根っこは強い。多分それが真実であろう。認めたまえ。かのジョン・レノンにも「WOMAN」という名曲があるではないか。

 マサヨばあちゃんはご主人亡き後も仏壇に手を合わせ、時にはご主人との思い出に涙ぐみながらも、二人で切り拓いた土地に死ぬまでただ一人住み続けた。急斜面の荒れた土地を耕し、自前の味噌を仕込みながら。子どもたちがいくら引き取ろうとしても家を離れなかった。多分、男には理解できない理由があったのだろう。

 ムツばあさんは、年老いて畑が耕せなくなったら、せめて花いっぱいにして山にお返ししようと、仲間とともに花木の苗を植え始める。この仕事はご主人が亡くなった後も続き、やがて誰もいなくなった庭先には鹿や野ウサギが帰ってくる。なんだか自然の一部としての人間の、正しい生き方を教わったような気がする。

 余談だが、スタインベック原作の映画「怒りの葡萄(1940)」に出てくる主人公トムの家族は、1930年代のアメリカで、砂嵐による干ばつをきっかけに資本主義に押し流され、土地を追われる貧困農家。故郷オクラホマを捨て、新天地カリフォルニアを目指して旅立ったは良いが、行く先々で逆境にさいなまれ続ける。娘婿は逃げだし、祖父母は病死。トムも人を殺(あや)めて姿をくらましてしまう。それでもトムの母親はくじけることなく前を向く。そして映画のラスト、「ワシはもうダメだ、疲れちまったよ」と弱音を吐く旦那に、「男は何かあるとすぐ立ち止まる。女は川みたいなもんでね、渦巻こうが滝があろうが流れ続けるのさ。それが女の生き方なんだ」と微笑みながら語りかける。女性の強さとは、男性には計り知れない自然との一体感から来るものなのかも知れない。