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 昭和が良いのは・・・

 最近昭和家電がブームだという。昭和の旧車(絶版車)も大人気だ。どこぞには昭和のテーマパークもお目見えしたらしい。なぜそれほどまでに今、昭和?

 昭和という時代には太平洋戦争(第二次世界大戦)があって、敗戦国である日本は、一度は墜ちるところまで墜ちた。しかしその後、朝鮮戦争やベトナム戦争の軍需景気もあって、日本は奇跡の復興を果たした。ここで言う昭和とは、それ以降の時代を指すのだろう。

 この時期はちょうど高度成長期に当たっていて、人々の暮らしが上向きに転じ、明るい兆しが見え始めた頃。国産の家電や自動車が行き渡り始め、それが改良に改良を重ねることによって世界レベルの品質となり、やがてメイド・イン・ジャパンは最高品質の代名詞となった。高度成長期が一段落した後も生活を豊かにするための技術は進化し続け、明るい未来が待っていることを誰もが信じて疑わなかった。ところが、時代が平成となり、半ばも過ぎる頃になると、明るいと思われていた未来に陰りが見え始める。地球温暖化の問題だ。

 それ以前にも排気ガスや産業排水等の問題はあったが、こればっかりはスケールが違う。一国の努力で何とかなるレベルじゃない。しかも今ある生活を切り詰めないと今後の生活自体が危うい。こうして明るい未来の後ろ盾だった科学技術は、今や明日の我が身を救うための手段となった。とは言うものの、そもそも地球温暖化の原因は科学技術の進歩そのものだし、二酸化炭素の排出量削減のために電気自動車が量産されたとしても、その電気を作るためには、やはり燃料を燃やす必要がある(日本は火力発電が8割)。原発なら二酸化炭素は出さないが、その立地や安全性、使用済み核燃料の廃棄方法など、まだまだ問題が多い。さらに最近では電力不足をカバーするために計画停電まで行われるようになった。これって、今ある科学技術では問題を早期に解決できないから、とりあえず人間が我慢しろってことだよね?つまりここに来て初めて、科学技術が万能じゃないってことを思い知らされたわけだ。

 こうしたある種の閉塞感、言い換えるなら「未来への不安」が日常生活に重くのしかかり、人をして憂鬱にさせたり、自暴自棄にさせたりしている可能性は十分考えられる。加えて、科学技術に依存した手抜きの人間関係により、人を傷つけることに抵抗を感じない輩(やから)が増え、便利な素材が色々と開発された結果、ゴミの分別やリサイクル等の制約も増えた。ルールを守る人ばかりではないことは周知の通りだ。

 振り返ってみれば、昭和の人々は「これからもっと良くなる」という期待を糧にして、当時の生活でも十分満足していたし、多くを望まず、足りないところは地域内で補い合うすべも持っていた。物事がもっと単純だったから、生きるのも今よりずっと楽だった気がする。そんな昭和の大らかさが、現代人の目には眩しく映るのかも知れないなあ。

 今でも覚えているんだけど、あの頃のパン屋は食パンを切り売りしていて、ジャムやピーナツバターを塗ってくれた(もちろん別料金)。ジャムやピーナツバターの量なんて特に量るわけでもなく、パン屋のおじさんとおばさんでは量が違ったりするんだけど、そこは運の善し悪しで片付けて、誰も苦情なんて言わなかった。パンと一緒にファンタを1本買うと、当時はビン売りで40円、飲み終わってビンを返せば10円戻って来た。4本買って1本タダになる計算だ。だから、子どもはビンをそのへんに捨てるなんてことは絶対にしなかった。

 肉屋でコロッケを買うと、たまに一つおまけしてくれたが、今のスーパーやコンビニではそんなことはまずあり得ない。チェーン店やフランチャイズ契約の店は、上からきちんと管理されているからだ。あの頃は個人商店がほとんどだったから、采配は店主の自由で、そこに「気持ち」というものが働く余地があった。だからあの頃は物がなくても人の心は豊かで自由だった。今では物は捨てるほどあるが、かえって飽くことのない欲求が生じる。世の中が複雑化しすぎて制約も多い。これでは心が窮屈になるのも当たり前だ。 

 明るい未来への展望とささやかな満足感、そして束縛されない心。それが昭和という時代を理解するキーワードかも知れない。