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 喫茶店哀歌(2) ブレンドの魅力

 以前豆にこだわって珈琲を飲む話を書いたが、今回はその番外編。

 通常喫茶店のメニューは一番上に「ブレンド」が記載してある。ほとんどの場合、価格が一番安い。(昔は次が「アメリカン」だったけど、今では絶滅してしまったようだ)そしてこの後に各種のストレート珈琲が続く。もちろん逆の場合もある。通を気取るスノッブな人たちのなかには、ブレンド珈琲には目もくれない、なんて人もいるようだが、ちょっと待て。ブレンドにはブレンドの魅力というものがある。

 ブレンド珈琲には二通りあって、一つはその店に豆を卸している業者があらかじめブレンドして納入しているもの。つまり同じ業者が入っている店はみんな同じ味。これはまあ、それでよしとしましょう。侮れないのはもう一つのほうで、これはこだわりを持つマスターが自分で豆をブレンドして作り出した、その店オリジナルのものだ。その店の顔と言ってもいい。しかも可能性は無限大。だから、店によってはブレンド珈琲を試してみるのは大いに意味のあることなのだ。そう考えてみると、「ブレンド探しの旅」あるいは「ブレンド行脚」などという楽しみ方もできそうだ。これって、すでに実践している人がいそうだな。僕はやらないけど。

 うちの近場にある店などは、マスターが豆の産地までわざわざ出かけていくほどの凝り性で、マスターがそんなふうだからブレンドも数種類あって、それぞれに特有の味わいがあり、固有の商品名までついている。価格もそれ相応で、こうなるともう「作品」。行く度に違うブレンドを味わってみたくなる。

 話は変わるけど、京都には昔、独自のブレンドを注文できる店があった。例えば「コロンビアとモカとブルーマウンテンを5:3:2で。」などと注文すると、そのブレンドを作ってくれた。今もやっているかどうかはわからないけど、なかなかに楽しい趣向だった。当時はインスタント珈琲にも同じようなシステムの商品があって、ストレート珈琲から作られたインスタント珈琲の小瓶を3本セットにして販売していた。これがあれば家でブレンドが楽しめるというわけだ。まだ結婚したての頃で、カミさんと面白がって購入したのはいいが、所詮はインスタント珈琲、残念ながら味は釈然としなかった。余談だが、このブレンド用インスタント珈琲の空き瓶の1本(グァテマラの瓶でした)は今、「出しの素(顆粒)」の入れ物になっている。

 使っている豆自体を売ってくれる店や豆を売るだけの専門店は以前からあったし、市販の豆や器具もかなり充実してきているので、今では自宅でオリジナルのブレンドを本格的に楽しむことも可能だろう。ただし、のめり込むと地獄を見るかも知れない。それほど奥が深いのが「ブレンド」の世界。ブレンデッド・ウイスキーに詳しい人は、よくおわかりのはず。

 さて、僕ぐらいの歳になれば、ほとんどの産地(コーヒー豆の)はすでに試している。焙煎方法や店の個性によってバリエーションは無限だから、味わい尽くしたなどとは言わないけど、最近では「もう凝らなくても良いかな」という気持ちが働くこともよくある。そんな時は何も考えずにその店のブレンドを注文することにしている。あるいは、ごくたまに脱線して、一緒に注文したバニラアイスをフロートにして飲んだりすることもある(要するに、やることがなくなってきたんだね)。アイスクリームが溶けるに従って味わいがマイルドになっていくその変化や、熱さと冷たさのコントラストが楽しい。浮かべたアイスクリームが漂ってきて唇に触れる感触は・・・おお、まさに氷の口づけ!(いい年して馬鹿言ってんじゃないよ)まるで「エンジェル・キッス(※)のようだ。家庭でも簡単に作れるので、ぜひ1度お試しあれ。

※ カクテルの名称。欧米では「エンジェル・チップ」。クレーム・ド・カカオとフレッシュクリームで作る、女性向きのカクテル。仕上げにカクテル・ピンに刺したマラスキーノ・チェリーをグラスの縁に渡す。グラスを傾けるとピンを軸にしてチェリーが転がり、唇に触れるので、日本では「エンジェル・キッス」と呼ばれている。

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 現代珈琲事情

 ジャン・レノというフランスの映画俳優がいる。少し前に、とあるCMでリアルドラエモンを演じていた人、と言えばわかる人も多いだろう。彼は初のアメリカ版ゴジラ(1998年 ※1)に準主役として出演していた。その役柄はゴジラの被害を調査する保険会社の調査員。だが裏の顔はフランス特殊部隊のリーダーだ。どうもこの映画では、ゴジラは南太平洋におけるフランスの核実験によって、海イグアナが巨大化したもの、という設定のようだ。ゴジラがマンハッタン島に上陸した後、彼等は慌てふためくアメリカ軍を尻目に独自の調査活動を始める。

 そもそもこの映画は娯楽度が高く、コミカルなシーンが多い。なかでも印象的なのが、ジャン・レノ率いるフランス特殊部隊が特殊車両の中で朝食をとるシーン。部下がこれしかなかった、とドーナツとアメリカン・コーヒー(※2)を買ってくる。ジャン・レノは「クロワッサンはないのか」などと文句を言いながら珈琲をひと口啜り、うぇーっと顔をしかめる。「これが珈琲なのか!?」それに答えて部下の一人が言う。「アメリカではそうです。」

 場面が変わって、今度は本拠地にしているホテルか何かで、再び部下がいれた珈琲を啜るジャン・レノ。またも顔をしかめ、「これがフランス焙煎のコーヒーなのか!?」それに答えて部下の一人が、今度は買ってきたコーヒー豆の缶を見せる。その缶にはでかでかと「フレンチ・ロースト」の文字が。「うーん。クリームくれ。」

 一口に珈琲といっても、地域によって味は様々だ。トルコに行けばトルコ珈琲、イタリアに行けばエスプレッソがあるように、各地にそれぞれのスタイルの珈琲がある。現在、日本では国内に居ながらにして様々なタイプの珈琲を味わうことができるが、こうなると、普段飲んでいるヨーロピアンよりは焙煎が浅く、アメリカンよりは深煎りの、あの珈琲とはいったい何なのだろうか。

 ウイスキーの世界ではその産地や原料の違いによって色々な種類がある。有名なところではスコッチ、バーボン、アイリッシュウイスキー、カナディアンウイスキーなどがあげられるが、今ではそのカテゴリーのなかに「ジャパニーズウイスキー」というのもある。日本のウイスキーが国際的に認められるようになった証しだ。それにならえば、ジャパニーズ珈琲というのがあってもまあ、おかしくはない。多分、そういうことになるのであろう。何しろカレーでもラーメンでも、あっという間にジャパナイズしてしまう日本人のやることだから。でもアメリカの映画にフランス人が納得しない「フレンチ・ロースト」珈琲が出てきたりするのを見ると、度合いの差こそあれ、アメリカでも事情はあまり変わらないのかもしれない。言うなれば、アメリカン・フレンチ・ローストだ。訳すと「アメリカ風フランス式焙煎」。なんだそれ。

※1 厳密に言うと、初期の「ゴジラ」は「海外版」が制作されている。語り部としてアメリカ人俳優の出演シーンを付け足したもの。アメリカ版、と言えなくもない。 

※2 「アメリカン・コーヒー」は日本だけの呼称のようだ。浅めに焙煎した豆を使い、多めの水を使って抽出するアメリカタイプの珈琲のことだ。「アメリカーノ」とは別物で、こちらはエスプレッソを湯で希釈する。

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 喫茶店哀歌 

 僕は珈琲が好きだ。一般的な意味で、マニアではないけれど。今でも豆にこだわって、たまに豆の種類で注文できる店で珈琲を飲む。ブルマンとかキリマンとかの略語を理解できる人は多分同世代。「ラテ」と聞いてイライラするならもう間違いなし。

 さて、そんな僕がスタバとかドトールとかに行くことはほとんど無い。理由は主に二つ。まずメニューに妙なバリエーションが多く、煩雑すぎること。そもそもこれらは「珈琲飲料」であって、「珈琲」ではないというのが僕の解釈だ。今は亡き志村けんが初老のサラリーマンを演じ、こういった店で注文に四苦八苦するコントがあったが、現実味がありすぎて笑えなかった。彼は一杯の珈琲を飲みたいだけなのだ。仕舞いには哀愁さえ漂っていた。

 往時の喫茶店では、むしろ飲み方のバリエーションを自分で楽しむのが通のやり方だった。例えば今日は砂糖を使おうかな、とか、ミルクを入れようかな、とか、砂糖とミルクを沈めておいて味変を楽しんだり、ミルクを浮かして先にまろやかさを楽しんだり。ミルクの注ぎ方一つでミルクを沈めたり浮かせたりすることができて、これが上手だとほんの少し尊敬されたりもした。要するに、運ばれてきた珈琲を自分でアレンジする楽しさがあった。そしてもう一つのこだわりが、珈琲カップ。

 凝った体裁の喫茶店では、豆ごとにカップの柄が決まっていたり、一目でブランド品とわかるカップを使用していたりしたものだ。だから使いたいカップを考えて豆を選ぶ、なんていう楽しみ方もあった。そして何よりも大事なのが飲み口、つまりカップの縁の厚み。モノの本には理想的な厚みが記載されていたりするが、これは個人の好みに負うところが大きいと思っている。ちなみに僕は飲み口の薄いものを好む。

 こうしたこだわりのある人が、チェーン店やコンビニでスチロールのカップに入った珈琲を注文するなんてことはまずあり得ない。厚みの問題以前に、その質感が許せない。紙コップもダメだ。仮に珈琲が美味しく入れられていたとしても、紙の匂いがして美味しいと感じられないからだ。一番腹が立つのは、あの蓋だ。小さな飲み口がついていて、そこから啜るようにできている。こぼさずに持ち歩くための工夫なのだろうが、あんなの珈琲の飲み方じゃない。プジョーのディーラーで1度、これで珈琲を出されたことがある。新形コロナ対策とかで、陶器のカップから切り替えたんだそうだ。面白がって試してみたが、やはりダメだ。何を呑んでいるのかよくわからない。仕方なく蓋を外して呑んだが、あの蓋はカップの縁の形状をキープする役割も果たしているらしく、スチロールのカップがフニャフニャ歪んで何とも心許なかった。

 スタバやドトールでは陶器のカップも使っていると聞いたことがあるが、もちろん店内用。だからといって長居するのに居心地が良いとも思えない。客席の距離感が密すぎる。この距離感の問題を3番目の理由としても良いぐらいだ。

 お気に入りの店で今日の気分に合わせた豆で注文し、今日の気分に合わせてアレンジしながらお気に入りのカップで珈琲を飲む。そしてそれを気兼ねなくできる適度な距離感。それが本来の喫茶店。悲しいことに、僕の住む地方都市では絶滅危惧種に等しい。だが店舗数が減ってきたことが幸いしてか、ノウハウに長けた店は現在も栄華を極めている。こうした現状を喜ぶべきか、悲しむべきか。難しいところだ。

 今では市販の豆も質が向上し、それなりの味を家庭で楽しむことができる。しかしながら、あの喫茶店という「場所」の持つ雰囲気はやはり独特のものだ。家でくつろぎながら飲む珈琲も良いが、実のところ家で珈琲を飲むためだけに時間をつぶすことは逆に難しい。家は日常を過ごす場所だからだ。たまにはその「日常」を離れて特別な場所に赴き、人任せの時間を楽しむのも宜しかろう。

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 406クーペのブロガーたち

 僕がプジョーの406クーペを手に入れてからもう6年になる。その間、トラブルが無かったわけではないが、今はとりあえず元気に走ってくれている。この車は知られざる名車で、以前からたくさんのオーナーがブログを立ち上げていた。だが今ではそのほとんどの更新がストップしているようだ。 

 僕がずっとチェックしていたブロガーがいる。「カーくる」というポータルコミュニティに所属している「きーさん」という人なのだが、その文章がとても上手で面白い。それに話の内容が多岐にわたり、この手のブログにありがちな鼻持ちならないこだわりといったものがあまり感じられない。もちろん故障や修理についての情報はあって、重宝したこともしばしばだった。一読して気に入ってしまい、アーカイブを2010年までさかのぼって全ての文章を読破した。それが2015年のこと。ところが彼の406クーペ、「猫パンチ2号車」は2018年3月、ZF社製ATミッションの重大なトラブルで走行不能に陥り、泣く泣く手放すことに・・・。それ以降もしばらくはブログの更新が続いたが、次第に途切れがちになり、2019年の7月を最後に更新がストップしてしまった。ページはまだあるので、今でも時々チェックしてはいるのだが・・・。

 さらに不思議なことに、前後してきーさんの「カーとも」たちのブログも更新されなくなっていった。なかには車を乗り換えた人もいる。406シリーズの時代が終わってしまうようでちょっと寂しい。特にきーさんは、僕と同様クーペの前に406セダンに乗っていたこともあって(これが猫パンチ1号車)、親近感があった。彼のオーナー歴はセダンが1997年から12年間、2004年式のクーペは2010年から8年間ということだ。ちなみにセダンを降りた理由もATミッションのトラブルだそうだ。僕は今のところ2台持ちの状態で、セダンは1999年から23年目、2003年式のクーペは前述のとおり、2016年から数えて6年目。さらにさかのぼって、1999年以前に乗っていたプジョー505は、故障はなかったが12年目で車検を切った。3台ともZF社製のATミッションを搭載しているが、35年にわたるプジョー遍歴のなかでトラブルが発生したことは1度も無い。どれをとっても良い個体に当たったということだろう。

 商品管理の体制が改善してきたとはいえ、いまだに外国車には当たり外れの問題がある。さらにメーカーは、お客が知らないうちに細かな改良・改善を当たり前のように行っている。例えば406クーペは前期型と後期型があるが、実は中期型というのも少数存在し、それぞれに仕様変更による部品形状の違い等がある。つまり前期型・中期型・後期型の他にも細かなバリエーションが存在しているのだ。部品を発注する時に車台番号や初年度登録年が必要になるのも道理だ。このように、外国車に長く乗るには慣れと知識と覚悟が必要で、ネットからの情報はそれを支える大きな力となる。それが最近、更新されなくなってきたわけで、楽しみが無くなると同時に不安が募る。

 最近市街地を走っていて406シリーズを見ることはほとんど無い。我が家の2台は今のところ元気だが、ディーラーのトラブル検知ソフトのバージョンが進んだために、地元のディーラーではトラブルチェックに掛からなくなってしまった。僕としては、新車からのつきあいであるセダンについては、オーナー歴30年を目指したいと考えているのだが・・・。

 きーさんは今、どんな車に乗っているのだろうか。素敵な車に巡り会えていると良いのだけれど。 

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 ニュースを見ていて気付いたこと

 今ウクライナが大変なことになっているのは周知の通り。僕も毎日のようにニュースをチェックしている。少し前のことになるが、ちょっと気になることがあった。当時は首都キーウであったり、ハルキウであったりの惨状がよく映し出されていたのだが、ミサイルや弾頭が形状を維持したまま地面に刺さっていたり転がっていたりする。それも結構な数だ。これっていったいなぜなんだ?

 砲弾の弾頭とかミサイルとかは通常、弾着して炸裂するので、原形をとどめているはずがない。にもかかわらず、原型がわかる状態で墜ちているというのは、それが炸裂しなかったということだ。つまり不発弾だ。しかし、本当に?だって、あんなに不発弾が多いとすれば、兵器としては失格だ。連日の状況を鑑みれば、ロシア軍の武器が品質やその管理において問題が多いのは容易に予測できる。だが、原因がわからない。世界有数の軍事力を誇る(はずの)ロシアが、あんなに不発弾を出すものだろうか。それともそれ相応の弾数を使ったということなのか。

 別のニュースによると、ロシアの上層部では、軍部も含めて汚職や横領が盛んに行われているという。その関係で国が戦力の維持に十分な予算を計上しても、それが途中でピンハネされて、現場で使われるまでに目減りしてしまっているというのだ。国家予算を上層部がピンハネするというのは、日本では考えられない(そうでもないか?)ことだが、現在のロシアでは当たり前のことのようだ。現代の兵器は精密機械のようなものだから、有事に備えて定期的に古い部品を交換したり、行き届いた管理をしたりしないとへそを曲げる。もし予算不足を理由に現場がそれを怠っているとすれば、額面通りの軍事力を発揮するのは確かに難しいだろう。そもそもロシアの地上部隊の主力を担っているT-72戦車は、時代に合わせて改修されてはいるものの、基本設計は1970年代のもので戦後第2世代というカテゴリー。言うなれば時代遅れの代物だ。ちなみに西側陣営や日本では現在第3.5世代戦車の配備が進められている。ロシアでは少数の第3世代(と言っても相変わらずT-72の延長線上にある)がやっと配備されたところ。開発の遅延の原因は・・・あー、やっぱりお金の問題ですか。これって、現場が本当に戦争になるとは思っていなかったとしか思えない。

 戦争、あるいは戦争に備えることには莫大な金が掛かる。例えば戦車が搭載している120㎜戦車砲の砲弾は、日本では1発がほぼ100万円と言われている。陸上自衛隊の90式戦車に搭載できる数は軍事機密として明かされていないが、世界の平均は40~50発。50発として5.000万円。90式の生産数は350両近いので、仮に350両として、フルに搭載すれば175億円。もちろん撃ち尽くせば補充するからこれだけでは済まない。そもそも90式戦車1両が10億円超、航空自衛隊のF-15戦闘機は約30億円で、配備数は約200機だそうだ。さらに、先に述べたように、戦うにはこれらが完璧に整備されていなければならない。第二次世界大戦中最強と言われたドイツのタイガー戦車は、まるで高級車のような最新技術(当時)の塊で、ミッションはセミオートマチック。おまけにパワーステアリングハンドルまで備えていた。構造が複雑かつデリケートなために故障も多く、タイガーがあそこまで活躍できたのは、それを稼働させるために優秀な整備兵が部隊について回り、全力でサポートしたからだと言われている。何しろ当時のドイツには、今で言うハイブリッド戦車まであったんだぜ(ちなみに開発したのはポルシェ社)。

 ところで日本の自衛隊は、装備は最先端だが砲弾・ミサイル等の備蓄は一週間戦える程度と言われている。世界情勢を見ていると、ロシアを笑える立場じゃないかも。

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 付喪(つくも)神の話

 昨年ガステーブルをリニューアルした。それまでのものは25年間使い続けた。料理好きの僕の酷使によく耐えてくれたと思う。業者も「よく持ちましたねぇ」と驚いていた。

 こういう買い換えなどの時に少し困ることがある。どうやらうちは付喪神がつきやすい家系らしく、なかなか先代がダメにならないのだ。だから、いざ買い換えてみると操作方法が違っていたり、新しい馴染みのない機能が備わっていたりして、扱いにくいことこの上ない。ものによっては2世代ぐらい違っていたりする。例えば炊飯器。買い換えるまでに30年以上使った。以前娘の友人が来た時に、ふと目をとめて「これ、何の機械?」と聞いているのを耳にしたことがある。それほどデザインが今の炊飯器とかけ離れている(単純な円筒形)。買い換えの理由は液晶表示がダメになったからで、炊飯機能自体はまだ生きていた。だから今も捨てずに床の間に飾ってある。娘たちも「炊飯器パイセン(先輩)」と呼んで崇めている。いったいなんの宗教だ。

 前にも書いたように、車もなかなか壊れない。今乗っているプジョーの406(セダンのほう)は23年のつきあいだ。その間故障はほとんど無し。他に電気ストーブ45年超、ジッポライター(一番古いもの)40年超、今使っている腕時計はかれこれ32年になる。扱いがそれなりに丁寧であること、ものによっては修理やオーバーホールをかけたことなども長持ちの理由だろう。しかし、一番の理由は「気に入っている」ということかもしれない。

 僕は間に合わせの買い物を滅多にしない。いつもしっかり吟味して、納得した上で気に入った品物を購入するようにしている。だから一つ一つに愛着がある。最近では後から買ったもののほうが早くダメになるということも多く、つくづく昔の製品はよくできていたと思う。つまり、こちらの愛情にしっかり答えてくれるということだ。しかも単純な構造で、機械いじりに慣れた人なら自分で修理できるものも多かった。余談だが、娘たちが初めて僕に尊敬の念を抱いたのは、動かなくなったオモチャを目の前で直してやった時だったそうだ。もちろん電子部品が多いオモチャはそう簡単にはいかなかったけれど、機械的な故障や配線の問題ならお手の物だった。

 そんなわけで、うちには付喪神がたくさんいる。安易に捨てると祟られるかも知れない。だから下の娘は今でも、ご飯を炊く時に「炊飯器パイセンの臓物(こともあろうに内釜をそう呼んでいる)」で米とぎをする。手に馴染んでとぎやすいのだそうだ。まさか、嫁に行く時に神様ごと持って行ったりはしないだろうな。

炊飯器パイセンさまであられまする。
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 オードリー

 オードリー・ヘプバーンのドキュメンタリー映画が公開されるんだって。いいね。僕の最も好きな女優。エレガントな役でも、コケティッシュな役でも、何でもござれ。何故なら彼女は例えようもなくチャーミングだから。あー、言ってることがさっぱりわからない。

 面白いエピソードがある。彼女が名エンタティナーであるフレッド・アステアと共演した「パリの恋人(1956)」という映画。その原題は「ファニー・フェイス」、直訳すると「おかしな顔」。本屋の店員だったオードリーがプロのファッションカメラマンに見いだされ、一流のファッションモデルに育っていく話なのだが、カメラマン役のフレッド・アステアが、「面白い顔をしている、これからの時代はこれだ!」と叫ぶ場面があった。これは現実世界でも同じ事で、それまでの女優は絵に描いたような美人が多かったのだが、オードリー・ヘプバーンはコケティッシュかつボーイッシュで、ある意味色気がなく、だからこそいざとなると純粋な美しさを表現できる新しいタイプの女優だった。事実上のデビュー作と言ってもいい「ローマの休日(1953)」から映画の流れが変わったと言っても過言じゃない気がする。何しろ「パリの恋人」に先立つ「麗しのサブリナ(1954)」という映画では、黒のスリムパンツにヒールのないぺったんこのシューズで登場し、足を開いてズカズカ歩いて見せた。こんな女優、それまで誰も見たことがなかった。ちなみにこのスタイルはその後全世界で大流行し、サブリナパンツ・サブリナシューズという言葉まで生まれた。今でも通用している。

 こうして女優として大成功を収めた彼女は後年、ユニセフ親善大使としても精力的に活動した。女優の仕事よりもそちらを優先して、この時期に映画に出演することは希だったという。彼女を突き動かす原動力となったのは、第二次世界大戦中、ナチス占領下のオランダでの経験だった。オランダが解放された時、まだ少女だった彼女は重度の栄養失調に陥っていて、それを救ったのが後のユニセフとなる組織だった。この時彼女は、食事のありがたさや重要性を文字通り痛感したという。

 オードリーがユニセフ親善大使を引き受けたのは1988年。何しろ大女優であるから、画像がたくさん残っているが、難民の子どもたちと接する彼女の笑顔は、銀幕で見せるそれよりも遥かに美しい気がする。人間誰しも歳を経るにつれて肌が衰え、皺が増えていくものだ。オードリーのように表情の豊かな人ならなおさらだ。だけど、そんなことは彼女の魅力を少しも曇らせない。他者を救おうとする精神性と、豊かな表情がそれを補って余りある。 

 これは僕の持論だが、人間というものは、いくら整った顔立ちであっても、表情が豊かでポジティブな心がそこに現れている人の方が数段魅力的に映ると思う。オードリーはその両方を兼ね備えた女優であり、人間だった。晩年のオードリーの笑顔を見て、「いやー、皺がすごくて・・・」なんて言う人はいないだろう。もしいたらこの僕が許さん!・・・とまでは言わないにしても、彼女が好きだったという詩を読ませてあげたい。

優しい言葉を語れば、その唇は魅力的になる。        他人の良いところを見つけようとすれば、愛らしい瞳を持つことができる。                        空腹な人に食べ物を分け与えれば、健全な体型でいられる。

貴方が大人になれば、二本の手がある事に気付くだろう。   1本は自分を支え、1本は誰かを支えるために。

 断っておくけど、これは意訳。これがその詩の全編かどうかもわからない。題名はわかっていて、「時の試練によって磨かれる美」という詩。サミュエル・レヴェンソンというアメリカのユーモリストが書いた。オードリーは死の直前のクリスマスに、この詩を家族の前で朗読したという。

 プライベートでは波瀾万丈と言ってもいい人生だったが、オードリーは晩年、「どう表現すれば良いのでしょう、とにかく私の人生はとても幸せなものでした」という言葉を残している。

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 昭和が良いのは・・・

 最近昭和家電がブームだという。昭和の旧車(絶版車)も大人気だ。どこぞには昭和のテーマパークもお目見えしたらしい。なぜそれほどまでに今、昭和?

 昭和という時代には太平洋戦争(第二次世界大戦)があって、敗戦国である日本は、一度は墜ちるところまで墜ちた。しかしその後、朝鮮戦争やベトナム戦争の軍需景気もあって、日本は奇跡の復興を果たした。ここで言う昭和とは、それ以降の時代を指すのだろう。

 この時期はちょうど高度成長期に当たっていて、人々の暮らしが上向きに転じ、明るい兆しが見え始めた頃。国産の家電や自動車が行き渡り始め、それが改良に改良を重ねることによって世界レベルの品質となり、やがてメイド・イン・ジャパンは最高品質の代名詞となった。高度成長期が一段落した後も生活を豊かにするための技術は進化し続け、明るい未来が待っていることを誰もが信じて疑わなかった。ところが、時代が平成となり、半ばも過ぎる頃になると、明るいと思われていた未来に陰りが見え始める。地球温暖化の問題だ。

 それ以前にも排気ガスや産業排水等の問題はあったが、こればっかりはスケールが違う。一国の努力で何とかなるレベルじゃない。しかも今ある生活を切り詰めないと今後の生活自体が危うい。こうして明るい未来の後ろ盾だった科学技術は、今や明日の我が身を救うための手段となった。とは言うものの、そもそも地球温暖化の原因は科学技術の進歩そのものだし、二酸化炭素の排出量削減のために電気自動車が量産されたとしても、その電気を作るためには、やはり燃料を燃やす必要がある(日本は火力発電が8割)。原発なら二酸化炭素は出さないが、その立地や安全性、使用済み核燃料の廃棄方法など、まだまだ問題が多い。さらに最近では電力不足をカバーするために計画停電まで行われるようになった。これって、今ある科学技術では問題を早期に解決できないから、とりあえず人間が我慢しろってことだよね?つまりここに来て初めて、科学技術が万能じゃないってことを思い知らされたわけだ。

 こうしたある種の閉塞感、言い換えるなら「未来への不安」が日常生活に重くのしかかり、人をして憂鬱にさせたり、自暴自棄にさせたりしている可能性は十分考えられる。加えて、科学技術に依存した手抜きの人間関係により、人を傷つけることに抵抗を感じない輩(やから)が増え、便利な素材が色々と開発された結果、ゴミの分別やリサイクル等の制約も増えた。ルールを守る人ばかりではないことは周知の通りだ。

 振り返ってみれば、昭和の人々は「これからもっと良くなる」という期待を糧にして、当時の生活でも十分満足していたし、多くを望まず、足りないところは地域内で補い合うすべも持っていた。物事がもっと単純だったから、生きるのも今よりずっと楽だった気がする。そんな昭和の大らかさが、現代人の目には眩しく映るのかも知れないなあ。

 今でも覚えているんだけど、あの頃のパン屋は食パンを切り売りしていて、ジャムやピーナツバターを塗ってくれた(もちろん別料金)。ジャムやピーナツバターの量なんて特に量るわけでもなく、パン屋のおじさんとおばさんでは量が違ったりするんだけど、そこは運の善し悪しで片付けて、誰も苦情なんて言わなかった。パンと一緒にファンタを1本買うと、当時はビン売りで40円、飲み終わってビンを返せば10円戻って来た。4本買って1本タダになる計算だ。だから、子どもはビンをそのへんに捨てるなんてことは絶対にしなかった。

 肉屋でコロッケを買うと、たまに一つおまけしてくれたが、今のスーパーやコンビニではそんなことはまずあり得ない。チェーン店やフランチャイズ契約の店は、上からきちんと管理されているからだ。あの頃は個人商店がほとんどだったから、采配は店主の自由で、そこに「気持ち」というものが働く余地があった。だからあの頃は物がなくても人の心は豊かで自由だった。今では物は捨てるほどあるが、かえって飽くことのない欲求が生じる。世の中が複雑化しすぎて制約も多い。これでは心が窮屈になるのも当たり前だ。 

 明るい未来への展望とささやかな満足感、そして束縛されない心。それが昭和という時代を理解するキーワードかも知れない。

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 「五番街のマリーへ」

 この前「昔はみんな旅に出た その3」で言及した曲なんだけど、原稿を起こすにあたって、あらためて聞いてみた。やっぱり、良い歌だなあ。良い時代の、良い歌。だけどこの曲には謎も多い。その一つが「五番街とはどこにあるのか」。同じ疑問を持つ人は多いらしく、ネットでも質問やらアンサーやらが相当数ヒットする。だが、五番街=京都の映画館の旧称、横浜にあった娯楽街、佐世保の大規模商業施設・・・。どれをとっても「昔からの人が住んでいる」ような環境じゃない。だいいち、商業施設に定住って、それはむしろホームレスであろう。

 そんなわけで、あれは作詞者阿久悠氏の心の中にだけ存在する、架空の街としておいた方が無難な気がする。例えばその街はマンハッタンの下町のような風情で、ハイソサエティとは縁遠く、小汚いが、かといってスラム街というほどでもない。地に根を生やしたような住人(マリーも含め、なぜか日本人)が多く、年寄りは昼間から酒を飲み、遠い昔の自慢話に花を咲かせている。けっして裕福ではないけれど、皆、心優しい人ばかり。そんなふうに、僕は想像している。

 この曲がヒットした1970年代は日本の経済成長が一段落して、人心にゆとりができはじめた時代。国際的にも一流国の仲間入りを果たし、洋楽や洋画が盛んに輸入されていた、そんな時代だ。「五番街のマリーへ」はペドロ&カプリシャスというグループの曲で、彼等が先立ってヒットさせた「ジョニーへの伝言」のアンサーソングとも言われている。この2曲はどちらもアイドル歌謡やフォークソングとは一線を画していて、洋風の大人びた曲調を持ち、アダルト層にも受け入れられてロングヒットとなった。ちなみにペドロ&カプリシャスのリーダーはペドロ梅村。この時期にはこうした和洋折衷のネーミングの実力派アーティストが少なからず存在していて、僕のお気に入りの柳ジョージ(本名 柳譲治)もその一人だった。余計な話だが、彼が年老いた在日アメリカ人女性の思い出を歌った「青い目のステラ 1962年夏・・・」という曲は、カラオケでは僕の十八番(おはこ)だ。こちらは「五番街のマリーへ」とは違い、どうも実話らしい。心にしみる歌だから、一度聞いてみて。

 話は戻って、「五番街のマリーへ」なのだが、歌詞の中で好きなのが、昔に言及する部分。古い街で昔からの人が住んでいる、とか、マリーという娘と遠い昔に暮らしていた、とか。特に良いのは、ここに住んでいた頃、マリーは長い髪をしてたんだよ、というくだり。今はどうかわからない、それほど時が経ってしまった、と。すごくわかるんだけど、この感情は説明できないよなあ。そして最後は、五番街は自分にとって近くて遠い街、察してくれよ、と終わる。人は歳をとることでしか理解できないことも多い。そしてほとんどの場合、理解できた頃にはどうすることもできなくなっている。ホント、切ないなあ。でも、だからこそ人生ということもある。人はこうしたことを経験するたびに強く、優しくなっていくんだと思う。少なくとも昔はそうだった。

 もう一つ、「ジョニーへの伝言」で、伝言する側の女性が、踊り子に戻ればまた稼げるから大丈夫、みたいなことを言っているのを聞くと、この人も、前に紹介した「逃避行」の女性も、多分夜の仕事なんだろうな、なんて勝手な解釈をしてしまう。もちろん夜の仕事の女性イコール社会的弱者というわけじゃないけれど、ことさら歌の世界では悲しげな人が多いよね。男が馬鹿者で女が悲しげだと一曲できちゃう、というか。でも、「五番街のマリーへ」のマリーはなぜか「夜」系のイメージが感じられない。男の方も「逃避行」の例と違って、若さ故に恋よりも自分の夢を優先してしまったのではないかと・・・。今になってそれに気づき、自責の念に駆られている、これって、根っからの馬鹿者じゃないと思う。自他共に認める切れ者の誰かさんも言ってたじゃないですか、「認めたくないものだな、自分自身の若さ故の過ちというものを」って。そもそも根っからの馬鹿者って簡単には治らないから、自分のしたことに気づきもしないもんね。

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 昔はみんな旅に出た その3

 こりもせず、例によって何かの理由で旅に出る歌のお話。今回は「悪い男」について。昭和の時代に麻生よう子と言う歌手がいた。1974年、19歳の時のデビュー曲が「逃避行」という名曲で、いきなりその年のレコード大賞を獲得した。しかしねえ、19歳の女の子にあの歌の内容が理解できるんだろうか。その内容というのが、一からやり直すために、人目を忍んで今住んでいる街を出て行こうとするカップルの話なのだ。その街で二人に何があったのか、なぜ人目を忍んでなのかは説明されていない。早朝5時に駅で待ち合わせるが、思った通り男は現れない。女の予想では酔いつぶれているか別の女に引き留められたか。何本かの列車を見送った後、「諦めたわ 私」と、1人で汽車に乗る。これねえ、都倉俊一が作曲していて、とても綺麗な曲なんですよ。だからついだまされてしまう。だって、この男バカじゃん。許しがたいヤツだよね。多分近場にいたら「お前な。」ってなっちゃうと思う。でもだからこそ、そんな男に、最後にもう1度だけ賭けてみようとする女の健気(けなげ)さがじんとくるわけだ。今では男気のある男だの、健気な女だのは顕微鏡で探すような時代になっちゃったけどね。

 ところで昭和の歌謡曲にはこういうアホウな男がいっぱい出てくる。堺正章のデビュー曲、「さらば恋人」なんて、恋人が寝ている間に家を出るんだぜ。そして心の中でつぶやく、悪いのは君じゃない、僕なんだ、なんて。バカヤロウ!石橋正次(今なにやってんだか)の「夜明けの停車場」では、1人で旅に出るオレは悪いやつ、とか、君には罪はない、とか言いながら見送りまでされてんの。時代が進んで狩人の「あずさ2号」なんて、あなたじゃない誰かと旅に出ますって、宣言するなよ!まださようならは言えないけど、貴方から旅立ちますって、いったい何?こうなるともう、ただの言い訳でしかない。それがペドロ&カプリシャスあたりの曲になると、例えば「五番街のマリーへ」とか、遠い昔の話だし、歌詞の内容が非現実的なので、「ウンウン、そういうこともあるよ」なんて、素直に感情移入できてしまったりする。(だって、五番街ってそもそもどこよ?まさかNY?)あー、でも「ジョニーへの伝言」ではやっぱり2時間待たされてるか。結局一人でバスに乗るし。でも取り巻きがいい人そうなのが救いかな。それにしても、マリーだのジョニーだの、なぜ英語名?このへんも非現実的。横須賀あたりの若者のニックネームなのかな。

 思うに、昭和の女性はまだまだ社会的弱者であったということなんだろうなあ。ちなみに「五番街のマリーへ」も「ジョニーへの伝言」も、作曲は都倉俊一。道理で垢抜けている。

 こうした男どもは、自分の罪を認めることで都合の良いシチュエーションを作ろうとしているんだろう。「君は僕といたらきっと不幸になる、だから別れた方が良い」なんてセリフはこの時代、映画やドラマでも掃いて捨てるほど聞かされた。このセリフ、自分で言うのと人に言われるのではえらくニュアンスが違う気がする。何故なら自分で言う時って、ただの自己憐憫でしかないような気がするからだ。そういえば僕の知り合いにもそんなヤツがいたっけ。口癖のように「ごめん、オレバカだからさ。」なんて言うヤツが。ある時そいつが、よせば良いのに僕に向かってこのセリフを吐いたことがあった。僕は真顔で「うん、知ってる。お前本当にバカだもんな。」と言ってやった。その時のそいつの愕然とした表情が忘れられない。誰が庇(かば)うもんか。男たるもの、バカじゃないことを証明するために少しでも頑張って見せろと言いたい。

 実は今回のきっかけは、和田アキ子の「あなたにありがとう」という曲を思い出したこと。貴方に会えて幸せだった。楽しい夢をありがとう、忘れずに生きていくわ。春が来たら会いましょう、思い出話をしたいから・・・と、別れた相手に対して歌っている。これって良いよね。今は別れてしまったけれど、たくさんのものを貰ったんだよって事でしょう?人付き合いはこうありたいもんだ。それが例え男女の仲であっても。メロディーも軽快かつ明るい感じの曲で、調べてみたら何とこれも都倉俊一の曲でした。