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 続 昔はみんな旅に出た

 以前、若者が旅に出る話を書いた。今日はその続編。というのも、前回触れなかった曲で、やはり若者が旅に出る歌をもう一つ思い出したからだ。きっかけは旧車のオーナーを訪ねてレポートするTV番組。日産のスカイラインGTRが紹介されていた。

 スカイラインといってもいろいろあって、現行は13代目。昔は年代別にニックネームをもっていた。ハコスカ、ジャパン、鉄仮面・・・そして「ケンメリ」。車に詳しい人ならご存じだと思うが、この「ケンメリ」は正式に言うと「ケンとメリーの愛のスカイライン」ということになる。長ったらしく、口はばったい感じだが、これはTVコマーシャルに登場した男女のカップル、ケンとメリーに由来する。当時のキャッチフレーズも「ケンとメリーのスカイライン」あるいは「愛のスカイライン」。このスカイライン・ケンメリのCMに使われていたのが「BUZZ(バズ)」というフォークデュオの「ケンとメリー~愛と風のように」という曲だった。この曲の存在をすっかり忘れていた。

 この曲はもともと4代目スカイラインのCMのために作られたようだ。だからシングルでリリースされたものとCMで使われたものの二つの歌詞があり、CMソングにはしっかり「愛のスカイライン」という言葉が入っている。ところで、僕がこの曲をとても気に入っていたにもかかわらず、前回思い出せなかったのにはわけがある。ここに登場する二人は恵まれすぎているのである。何しろリア充で(歳のいっている人のために説明すると、しっかりおつきあいしている)、自分の車を持ち(しかも○ニーや○ローラではなく、スカイライン!)、お金に余裕があって、しかも暇を持て余している(日本中を巡る旅に出る。ロケ地の一つ、北海道には二人が撮影のために訪れたポプラの大木があって、今でも「ケンとメリーの木」と呼ばれている)。神田川の見えるアパートに住み、横町の風呂屋に通うカップルとは大違いだ。つまり、前回紹介した曲とは主人公たちの住む世界が違いすぎるために、記憶の網に掛からなかったのだ。

 「ケンとメリー~愛と風のように」は当時としてはとてもハイソな、お洒落な曲だ。後のJポップの走りのような曲調。歌詞を読んでも、「もうここにはいられない」といった悲壮な雰囲気は微塵もなく、「今こそ希望に満ちて出かけよう、新しい何かが見つかるかも知れない」といった前向きな内容だ。まあ、CMソングだから当たり前か。実際、スカイラインに乗って横町の風呂屋へ行くリア充カップルなんて誰も想像できないよな。駐車場とか無さそうだし。ところでその歌詞だが、これがまたなかなか詩的でかっこいい。

いつだってどこにだって 果てしない空を風は歌ってゆくさ  今だけの歌を 心はあるかい 愛はあるのかい

見慣れた時計を部屋に残して 今が通り過ぎてゆく前に    朝が来たら 出かけよう 今が通り過ぎて行く前に      愛と 風のように      

                (歌詞カードより抜粋)

 ちょっと良いでしょう?曲自体のアレンジは時間とともに変わっていくのだけれど、やっぱり最初のオリジナルが好きかな。

 前回紹介した曲とはかなり毛色が違うけど、こういう旅も、まあ、アリということで。 

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 大規模ワクチン接種会場にて

 先日二度目のワクチン接種をしてきた。接種したのはモデルナ製ワクチン。カミさんも娘も同じワクチンで、接種したタイミングは僕より少し早い。二人とも副反応として発熱と頭痛、それに接種部位のかゆみ(いわゆるモデルナアーム)があったが、僕は「風邪でもひいたかな?」といった程度で済んだ。やはり男女で差があるようだ。

 一度目の接種は若い女医さんで、この時は注射そのものが結構痛かった。今回はおばさん(失礼!)の女医さんで、これが全然痛くなかった。状況的に違っていたのはただ一点だけ、投げかけられた「肩を落として」という一言だった。女医さんが言うには、注射をする時にはほとんどの人が無意識に「構え」るので、筋肉が緊張するんだそうだ。そしてそれは、肩が上がっていることでわかる。その状態で注射針を刺すと痛みが増す。実際僕も肩が上がっていたらしく、それで「肩を落として」と声をかけられたわけだ。上手い言い方だ。「肩を下げて」じゃなくて「落として」。自(おの)ずと力が抜ける。そういえば前の女医さんは何も言わなかった。なるほど、だから痛かったのか。

 さて、接種は無事終わった。が、この話には後がある。当日僕はYシャツを着ていたので、肩を出すためにはそれを脱がなければならなかった。すると、下に着ていた黒のTシャツに飼い猫の白い毛が数本付いていた。僕が「すみません、飼い猫の毛が・・・」と言い訳をすると、アシストの看護士さんが「猫飼ってるんですか?」と聞いてきた。「ええ、今は6匹。」「6匹も!」その後話題は保護した猫の話から、アンプルやアンプルカッター(※)が今でも使われていることに驚いた話へと移り、さらに医療用ナノマシンの進化(この話題は女医さんの独壇場だった)やら、モデルナワクチンとファイザーワクチンの違いやら、やれネットのデマには閉口しているだの、この会場では希望して尻に注射した人がいる(仕事で両腕を使うから、だって)だのと、三人で盛り上がり、気がつけば20分近くもおしゃべりしてしまった。その間僕は後続の接種者をそれなりに気にしていたのだが、接種ブースの二人はどこ吹く風といった体(てい)だ。看護士さんはこの20分の間に一度だけブースの外に目をやったが、何も言わずに会話に戻ったので、あるいは時間的に間隙ができていたのかも知れない。

 やがて「あら、待機時間、大分過ぎちゃいましたね。」という看護士さんの言葉を最後にこの語らいは終わった。看護士さんは「楽しいお話、ありがとうございました。」と僕に言った。女医さんも微笑んでいる。もちろん僕も楽しかった。「いえ、こちらこそ。お世話になりました。」僕はいったい何をしに来たんだっけ。そうか、ワクチン接種だった。女医さんが「係の人が混乱するといけないから、一緒に行ってあげてね。」と看護士さんに言い、僕は看護士さんに連れられて接種完了の手続きをした。看護士さんの「この人は待機終わってるから、すぐに書類を作ってあげてください。」という言葉に、何も知らない係の人は「???」といった面持ちだった。僕は看護士さんにもう一度礼を言い、その後の待ち時間無しで会場を後にした。

 二人に会うことは多分もう無いだろう。マスク越しで顔もよくわからず、名前も知らない。でもあの20分間の語らいは久しぶりに楽しかった。単なるおしゃべりではなく、まさに「語らい」という言葉がふさわしい、そんな空気がそこには満ちていた。帰りの車中で、あの二人はいつもあんなふうなのかしら、それともたまたま僕は特別なタイミングに当たったのかな、などと考えていた。コロナ騒動がなければ、出会わなかったであろう人たち。確かに、他愛もない出来事ではある。それでも一生忘れることはないだろう。人生って、本当に不可解だ。ひょんな事で大きな拾いものをしたりする。何だか、久しぶりにスタインベックの「朝めし」を読みたくなった。

※アンプル:薬剤を密閉して保管するためのガラス容器。先が長い首状になっている。 アンプルカッター:アンプルの首の部分を折り取るために、ガラスに傷をつける道具。堅い砂を薄い板状のハート型に固めてある。

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 キャリア教育その他

 だいぶ前のことで恐縮だが、6月頃、SNSのニュースで「文科省はどこまで子どもたちを管理したがるのか」という記事を見た。そこには「高校生たちが自分の将来の夢と、それを実現するための計画を考え、期日までに提出するように求められてうんざりしている」とあった。これは多分、「キャリア教育」、もしくはそれに準ずる授業のことだろう。

 「キャリア教育」とは僕が教師をしていた頃に生まれた用語だ。いわゆる「進路指導」の一種で、自分の将来についてより具体的・現実的に考えさせようとするものだ。だがこれは将来の夢について思いを馳せることとはちょっと違う気がする。「夢」というより単に「予定」を立てているだけだ。意味が無いとは言わないが、まだ将来に夢を持てない生徒は、授業のために夢を考え出さなければならない。そうでもしないと夢を持てない子どもが増えてきたのも事実だが、強制されて紡ぎ出した、現実的な情報に裏付けられた将来設計はもはや夢とは言えないだろう。

 最近の学校教育はよくわからないことが多い。勤務時間の見直し(短縮化)を謳いながら、現実には仕事が増えていく。例えば、近年新しく導入された「道徳」の評価もそのひとつだ。道徳のような抽象的な価値観を評価させられる教師側は、その評価規準を作るだけでも大変だろうし、現場で使える時間は無限ではないから、作業の効率を考えれば、誰でも間違いを犯すことなく評価できる形式的なものを作らざるを得ないだろう。僕も教職経験者なので、現場の苦労はよくわかっている。教育の現場は理論だけでは語れない。それを理論しか知らないセンセイがた(「先生がた」ではない)がいろいろと理想論をぶち上げるもんだから、現場は混乱するし、生徒は追い込まれる。そんな状況で教育が上手くいくわけがないことは、素人目にも明らかだろう。

 だいぶ前に学校の教科書がB版からA版に変わった時もそうだった。変更の理由は「世界基準に合わせるため」。大人の理屈でランドセルが一回り大きく、重くなり、小学校の1年生にとっては大荷物となった。後ろから見ると、まるでランドセルが歩いているようだ。教師時代に中学生のリュックを何度か持ったことがあるが、これも信じられない重さだ。今の子どもにどれだけ腰痛持ちがいるか、知ってます?文科省。最近のランドセルのCMを見ても、お兄ちゃんが「たくさん入るのを選んだ方が良いよ。」違う!問題はそこじゃない。この期に及んで何を言ってるんだ。 

 教育の無償化だって矛盾している。義務教育では授業料や教科書はもともと無償だ。だが副教材というものがある。問題集や資料集のことだ。一括購入して学校が集金する。しかも学校によって使用するものが異なるので、一律に無償化というわけにはいかない。さらに学習塾のこともある。今の状況では、結局多額の出費は避けられないのだ。

 文科省が教職員志望者を増やすために、教師のやりがいなどを書いてもらおうと、ネット上に「教師のバトン」というページを開設した。しかし書き込まれた内容は苦労話や苦言ばかりで、現場のブラックぶりが明らかになっただけだった。教育の総本山である文科省が、現場の状況や、そこで働く教師の心情を理解できないのだから、上手くいくわけがない。子どもの心情を理解しようなんて、夢のまた夢だ。

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 都市伝説の誕生?

 NHKの「アナザストーリー」というドキュメンタリー番組で、「口裂け女」を取り上げたことがある。先日、その再放送を見た。

 口裂け女といえば、1970年代末、岐阜県で語られるようになった怪異譚だ。当初、それは地域的な噂話に過ぎなかったが、時間の経過とともに全国区の都市伝説へと成長。様々なエピソードが付け加えられ、地域によってバリエーションも生まれた。番組によれば、その過程で大きな推進力となったのが、塾などの子どものコミュニティー、もう一つがラジオの深夜放送だという。

 ネットが無かった当時、ラジオの深夜放送は若者が自分を主張する唯一の場だった。はがきによる投稿には、恋の悩みや社会に対する怒りに加えて、楽しいエピソードや自作の小咄までもが含まれていた。そしてそこには、口裂け女についての情報も数多く寄せられた。

 言うまでもなく、噂話というものは一種の伝言ゲームみたいなもので、伝わる過程で変化し、省略されたり、逆に誇張されたりする。さらに語り手には、より面白く興味深い話をしようとする心理が働くらしく、例えば最初の定型化した物語に「いや、オレはこんな話も聞いたぞ」といった尾ひれが付く。始めは個人の憶測だったものが時間とともに物語に取り込まれ、定説化することもある。こうしたことがラジオの深夜放送を介して起こっていた節がある、というのだ。さらに興味深いことに、もともと包丁(あるいは鋏)だった兇器が平家の落人(おちうど)伝説のある地域では日本刀に、鬼婆伝説のある地域では鉈(なた)に変化するなど、地域色も大いに影響しているそうだ。参考までに言うと、そもそも初期の口裂け女はマスクをしていなかった。「美容整形手術の失敗が原因」という要素も、大分後になって付け加えられたものだ。 

 もう一つ、こうした噂話の特徴として、話が全国に広がるにつれ、その出所の特定が困難になっていくことが多い。「○○から聞いた話」から「ΔΔが知り合いから聞いた話」、さらに「そういう話があるらしい」となり、物語が一人歩きするようになるのだ。こうしてオリジナルのイメージが曖昧になり、多くのバリエーションが生まれることになる。そこで一つ気付いた。これは、今問題になっているネット上のデマとよく似ている。

 政府が推奨しているコロナワクチンの接種。ネットではその副反応として、スプーンが身体に吸い付くようになるとか、不妊症になるとか、果てはナノチップが入っていて、個人情報を盗まれるなどというデマがまことしやかに囁かれている。逆にそういったデマを集めて紹介しているブログもあるから目を通してみるといい。面白いよ。 

 何しろ口裂け女にしてもワクチンにしても、例えば口裂け女は時速100キロで走り、日本刀と鉈と包丁を地域によって使い分け、赤いドレス(血が目立たないように)や白い着物(血が目立つように)を着ていて、姉(妹)がいる。それどころか、実は三姉妹。ニンニクが好きで嫌い、べっこう飴が好きで嫌い。金平糖は嫌い。ポマードの匂いも嫌い。美容整形手術の失敗によって口が裂けたが、韓国では整形し直すと怒りが収まる。で、実はCIAの心理実験でした。よし、だんだんはっきりしてきたぞ(そんな馬鹿な)。あるいは、コロナワクチンを打つと不妊症になり、遺伝子情報が書き換えられる。ナノチップが入っていて情報を盗まれ、スプーンやフォークが身体に吸い付くようになる。いやいや、くっつくのは磁石だよ。接種から5年後に死亡する。5G接続が容易になり(それは便利)、マインドコントロールされる。5Gが普及する2021年7月に死亡する(5年後じゃなかった? 7月、もう過ぎてるよ?)。孫の代で不妊症を発症する(どうやって検証したんだろうなあ)。いくら何でもこれら全てが真実だなんてあり得ないし、矛盾も多い。言った本人は「我こそが真実を語っている」と主張するだろうが、全員集めて討論させたらどんな結論が出るか、興味津津だ。是非ともやらせてみたい。

 番組では、当時の小学生に口裂け女がいると思うかを問う場面があって、3人のうち2人が「いないと思う」と答えていた。一方ネットでは今年、ワクチンを接種した大の大人が、自分の腕にスプーンをくっつけて「ほら、ほらあ!」みたいな顔をして動画をUP。マジシャンにでもなった方が良いよ。子どものほうがよっぽど冷静。問題なのは、深夜のラジオ番組で放送されたはがきの内容と違って、ネット上の投稿は文章や画像として長期間残るということだ。つまり、より多くの人々の目に触れる。そうなればこのご時世、妄信する人の数はラジオの比ではないだろう。ただ、こうしてみるとコロナワクチンに関するデマは、詰まるところ都市伝説の域を出ない。ということは・・・そうか、つまり口裂け女が目の前に現れて、「コロナワクチンは接種しちゃダメよ?」と言ったら、接種を止めれば良いということだな。

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 昔はみんな旅に出た

 愛車が車検で、代車に乗っていた時のこと。その車はカーオーディオが壊れていてラジオしか聴けなかったので、仕方なくつけっぱなしで乗っていたのだが、ある時職場からの帰り道でえらく懐かしい感じの曲が流れてきた。大昔のフォークデュオ、シモンズのような歌声、そして曲調。でも初めて聴く曲だ。この曲欲しい!曲が終われば何らかのアナウンスがあるだろう。耳をそばだてて聞いていると、歌っているのは「チューインガム」というデュオで、曲名は「風と落ち葉と旅人」と紹介された。知らない。チューインガム?なんだそれ。帰宅してすぐ、ネット検索。あった。1972年デビュー。なんだって!13歳と11歳の姉妹デュオ?これはびっくり。でもなかなかいいぞ。即アマゾンで購入。

 「風と落ち葉と旅人」。昔の歌では、若者はよく旅に出たもんだ。自分探しの旅、夢を叶えるための旅、出会いを求めての旅。当てがあったり無かったり、得るものもあれば失うものもある。ここで言う「旅」には、今の自分が置かれている境地を離れて新しい世界を目指す、といった抽象的な意味も含まれている。例えば上条恒彦の「誰かが風の中で」は人生に傷つき、疲れ果てながらも、自分をどこかで待っていてくれる人を目指す。「出発(たびだち)の歌」では、自分の中で何かが失われたことによって始まる旅を歌っている。もっと日常的な例を挙げると、「風」の「君と歩いた青春」は二人で上京したものの、女の子は夢破れて故郷に帰ってしまう歌。「なごり雪(もともとは『風』の曲)」も似たようなシチュエーションだ。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」では男の子が都会に出て、その生活に魅了されて戻れなくなり、「ひぐらし」では若いカップルが当てのないバスの旅。「チューリップ」にも「心の旅」という名曲がある。しかもほとんどの場合鉄道が使われているから、駅は旅の始まりや終わり、延(ひ)いては別れを象徴する特別な場所だった。そもそも当時の若者は貧乏で、もちろん車なんて持てなかった。「かぐや姫」の「神田川」なんて、銭湯だもの。それも「スーパー銭湯」とかじゃないよ、横町の風呂屋。そんなだからこそ、支え合ったり、優しさを育んだりできたんだろうなあ。

 今では何でも簡単に手に入るから(というより、簡単に手に入るもので間に合わせてしまうから)何かを見つけるために旅に出るような面倒なことは誰もしない。グローバル化とインターネットの普及によって、その必要性も感じない。でも本当にそれで良いのだろうか。これはもちろん観念的な意味だけど、実際の旅行にしても、昔は幹線道路の渋滞を避けようと地図を片手に抜け道をさがしながら走っていたら、なんか良い感じの喫茶店(絶滅危惧種)を見つけましたぜ、なんてことがよくあったもんだ。それが今では高速でひとっ走り、速いことは速いが、どこまで行っても単調な風景で、サービスエリアもみんなで共有。何だか面白くない。

 最近、新たな自分探しの旅と言えなくもないものが話題になっている。ぼっちキャンプ。蛇口あり、隣接するスーパーあり、下手をするとベッドまであるという訳のわからないキャンプが流行る一方で、アンチテーゼのように出現し、ブームになりつつあるという。たき火の炎を見つめながら、一人でゆったりと過ごす時間が良いのだそうだ。これはこれでアリだと思うが、どちらかというと「贅沢な時間」であって、昔のような切実さは感じられない。まあ、時代の流れとはそういうものだろう。だが、あの「旅に憧れた時代」があったために、僕の人生が充実しているという実感はある。その一点において、今の若い人たちは豊かとは言えないかも知れない。

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 好きなジャンル 

 よく聞かれる質問に、「音楽で好きなジャンルは?」というのがある。答えるのがとても難しい。というのも、そもそも好きなジャンルなんてないからだ。僕は音楽を「曲」で選ぶことが多い。例えば、映画音楽で好きな曲とか、ジャズで好きな曲とか、クラシックで好きな曲とかはある。だが、「ジャズ一辺倒です」とか、「クラシック以外は音楽じゃないと思う」なんてことは口が裂けても言わない。このへんは、以前知り合い(年上)に散々厭な思いをさせられたこともあって徹底している。昔、僕がビル・エヴァンス(僕の好きなジャズピアニスト)について話していた時に、「あんなの入門編だよ。本当のジャズはもっと奥深いもんだ」と言われたり、バンド活動をしていて「ロックをやるんならブルースから勉強しないと本物になれない。まずブルースを聴け」と言われたり。おまけに散々蘊蓄(うんちく)を語られて閉口した。確かにそれはそうなのかも知れないが、良いじゃんか、気に入って聞いているんだから。そもそも世代が違うんだから、古い考えを押しつけないでほしい。まるで頑固オヤジとケンカしているようなものだ。音楽なんだから、その時代の解釈があって当然だ。そうでなければ、パンクロックやプログレッシブロックなんて生まれてくるわけがないのだ。それに、ジャンルやルーツにこだわることで、それにそぐわない音楽の良さを認めようとしない態度も納得できない。

 僕はバンドでハードロックを演奏し、カラオケでJポップを歌い、家で飲みながらジャズを聴く。時にはポールモーリアに代表されるようなイージーリスニングや、アメリカン・オールディーズも聴く。さらに太田裕美や吉田拓郎、オフコース。好きなジャンルなんて決められるわけがない。アーティストにしても、例えばマービン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」は大好きな曲だが、彼の他の曲についてはそれほどでもない。むしろテンプテーションズやスタイリスティックスのほうが好き、といった具合だ。もちろん、「この人の作る(歌う)歌には好きな曲が多い」という理由で、好きなアーティストというのはいる。以前言及したハリエット・ショックだとか、アート・ガーファンクル、国内だと吉田拓郎やオフコースなどがこれに当たる。 

 だいたい音楽というものは一種の嗜好品であって、かつ自分の人生のそれぞれの時代とシンクロしたりしているので、センチメンタルな話題として言及することの方が多く、少なくとも僕の中では、「音楽性を追求する」ような対象にはならない。せいぜい「ベートーベンの『田園』は、カールベームが指揮を振ったやつがいい」といったレベルだ。理由?だってカラヤンとか速いんだもん。

 あまり聞かないジャンルというのはある。演歌。でも、北酒場とか好きだなあ。襟裳岬もいい。もっとも、あれは吉田拓郎の曲だよね?自分でも歌ってるし。 

 そんなわけで、知らない人がうちのCDラックを見たらびっくりするだろうなあ。何せ「賛美歌集」から「世界の国家」さらには「おかあさんといっしょ ベストソング集」まで揃っている。ちなみに「おかあさんといっしょ」で歌われた歌の中には、大人が聞いても感動する良い歌が結構あるんですよ。「みんなの歌」に至っては何をか言わんや、という感じ。以前、何かのTV番組で、広瀬すずが「一人カラオケで中高生の頃の合唱曲を歌いまくるのが好き」と言っていたが、これもすごくわかる気がする。

 いまだに「好きなジャンルは?」と問われることは多い。以前はきちんと説明していたが、最近は面倒になってきて、ただ単に「ない。好きな曲がいっぱいあるだけ」と答えることにしている。

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 ワクチン接種!

 先日コロナウイルスワクチンの1回目を接種してきた。通常からすると1ヶ月以上の遅れだ。なぜそんなことになったかというと、僕がファイザー社製のワクチンを嫌ったことがその主な理由だ。

 そもそも僕はワクチン接種反対論者ではないが、ワクチン接種後によくわからない理由によって500人以上の死者・急死者が出ているという事実は、そう簡単に目をつぶれるものではない。しかもコロナワクチンの接種と死亡例の因果関係は不明。かといって、新型コロナも怖いッちゃ怖い。そこで折衷案として、ファイザー社製よりは死亡者の報告が遥かに少ないモデルナ社製のワクチンを使用している接種会場を選んだ。ところがモデルナ社製のワクチンはご存じのように8月から供給が滞り、接種の予約開始が遅れた、というわけだ。

 ニュース等でも「因果関係は不明」という表現が何度も使われ、もう半年以上になる。そう。いまだに「因果関係は不明」。これはいささか無責任ではあるまいか。「打て打て、世のために打て。死ぬかもしれないけど確率は低いから。因果関係?それはまだよくわからないんだけどね」つまりそういうことでしょう?これじゃ亡くなった人やその家族はたまんないよね。この500超という数字は、当事者にとってはただの数字じゃないわけだから。

 国や自治体はワクチン接種を積極的に薦めているけど、「たまに死ぬ人がいます」とは絶対に言わない。しかも因果関係が明らかになっていないということは、逆に言えば「ワクチンが死因とは言えない」という逃げを打てるわけだ。このへんが何とも納得がいかない。因果関係をさっさと解明してくれれば、僕のような、あるいは僕より神経質な人でも安心してワクチン接種を考えることができるんだけどなあ。

 ところで、1回目の接種を終えて気付いたことがある。副反応の一つとされる「接種部位の痛み」というやつなのだが、これって妙に懐かしい感覚だ。僕ぐらいの年齢の人だと、子ども時代に風邪をひいたりすると、病院で必ず注射をされたものだ。この注射はワクチン接種と同様に筋肉注射で、打った後もしばらくは痛みが残った。あれに似ているのだ。今では風邪などで筋肉注射をされることは少なく、その代わりに内服薬が山のように処方される。インフルエンザのワクチンなどをよく打っている人をのぞけば、筋肉注射の痛みを経験したことのある人はほとんどいない。だから今回はコロナワクチン接種の副反応の一つとされているのだろう。僕からすれば「なーんだ、これか」という感じ。そういえば、20年以上前にお世話になっていたK医院、ここの大(おお)先生は初老の医師で、僕が風邪をひいたりしてK医院を訪れると必ず尻に筋肉注射をされた。そんなの古い映画でしか見たことがなかったので、初めての時はびっくりした。だってこれ、平成の話ですぜ。1~2日、堅い椅子に座れなかったのを思い出す。大先生、元気かな。今ではかなり高齢のはずだけど。白髪にもみあげの、レックス・ハリソン※みたいなダンディーな人だったっけ。閑話休題。 

 幸いにも1回目接種の副反応は接種部位の痛みだけで済みそうだ。それにしてもコロナワクチンの接種で長いこと忘れていた昔の記憶がよみがえるなんて、思いもしなかった。   ・・・待てよ。これって、一種の副反応か?

※レックス・ハリソン(1908~1990) イギリスの俳優。ミュージカル「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授、と言ったら、わかる人はわかる?

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 秋の食卓

 なんだかんだ言っているうちに、もう9月も半ばを過ぎた。今年の中秋の名月は見事だったなあ。庭に勝手に生えたススキに、今年は今見頃の萩と、近所の藪で見つけたカラスウリを添えて飾った。何を隠そう、僕は生け花の師範免許を持っている。今も時々TVで見かける金髪の生け花作家、假屋崎氏とは若い頃一緒に学んだ間柄だったりする。今は昔。

 この時期になると何となく和食が食べたくなる。五目混ぜご飯とか、桜でんぶの入った太巻きとか、いなり寿司だとかが特に恋しくなる。もしかすると小さい頃の運動会の、お弁当メニューの影響かも。その他にものっぺい汁とか里芋の煮っ転がしとか。これらはおそらく僕の生育歴によるもので、誰もがそうとは限らないだろうけど。

 うちには「聞き書き ふるさとの家庭料理(全20巻 農文協)」なる全集があって、今は卓上に「13巻 秋のおかず」が出してある。これは単なるレシピ本ではなく、土地土地の古老などから聞いた料理のいわれや作り方を、写真入りで紹介している。だから材料は書いてあってもその分量などは書いてなくて、どちらかというと文化的な内容の全集だ。近所の書店でこれを注文した時、店長に「あの・・・図書館の方ですか?」と聞かれたのを思い出す。そりゃあね、個人でこれを注文するような物好きはそうそういないだろうからね。

 以前に紹介した「一度は使ってみたい 季節の言葉」と同様、時々引っ張り出しては眺めている。季節のおかずの他にも、「餅 雑煮」「寿司 なれ寿司」「日本の正月料理」等、テーマ別に料理を紹介している巻もあって、なかなか面白い。

 実際に料理を作ろうとするならば、うちで最も心強い味方は、学研の「食材クッキング辞典」であろうか。この本は大判で、食材ごとにその料理法を数多く紹介している。ある時この本のレシピできんぴらゴボウ(ただし竹輪の代わりに鶏肉を使用)を作ったら、亡き母の味とほぼ同じものができた。それ以来この本に頼ることが多くなった。特にブリの照り焼きのたれや、煮魚の煮汁の味は、僕の人生経験と照らし合わせて何の違和感もなかった。この味のマッチングは本当に奇跡的。長いこと人間やってると、そんなこともあるんだねえ。 

 さて、今夜は五目混ぜご飯を作るとしよう。近々予定しているのは例の鶏肉入りきんぴらゴボウ。里芋の良いのが出回ったら、のっぺい汁(これまた鶏肉入り)にひもかわ(群馬県あたりのうどんの一種)を入れて食べよう。クリご飯も良いな。夏の終わりは寂しいものだが、それもつかの間、今は実りの秋の楽しさでいっぱいだ。

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 話題が無いわけじゃなくて・・・

 この夏はブログの更新という意味ではあまり筆が進まなかった。

 このブログは少し浮き世離れしたイメージを目指しているところがあるのだが、この夏は腹の立つ政策や理解しがたい事件が多く、それについて書くと内容がすさんでくるだけでなく、一気に現実的になってしまうわけで、それは僕の意図に反する。しかし、そう言いながら覚え書きはそれなりにため込んでいる。そういった文章は書いていてさほど面白いわけでもなく、後で読み返すと何となく不愉快だ。言ってしまえばその時々の個人的な感情の記述といった体(てい)のものだ。そんな文章誰も読みたくないだろうから、あえてUPせずにいるというのが本当のところだ。だから今回は久しぶりに、この夏覚えた遊びについて書く。その遊びというのは、蝉の抜け殻集め。

 事の始まりは、ある夜、下の娘がリビングから見えるところで羽化しようとしている蝉を見つけたことだった。翌朝確認すると、この蝉(アブラゼミだった)はまだ飛び立ってはいなかったが、立派な成虫になっていた。事のついでに庭の中を探してみると、あちこちに蝉の抜け殻がぶら下がっていて、集めてみたら7~8個はあったかな?何となく、うちの庭からどれだけの蝉が羽化するのか知りたくなった。そこで朝起きるとすぐ庭を一回りし、抜け殻を探すことが習慣に。見たこともない小ぶりの抜け殻があったりしてなかなか面白い。今までにも蝉の抜け殻は幾度となく目にしてきたが、大人の目でこんなに真剣に探すのは初めてだった。結果、うちの庭には少なくとも5種類の蝉が生息していることがわかった。ネットで調べてみたところ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシ(多分)、そして1匹だけクマゼミとおぼしき抜け殻が。さらに、ちゃんと成虫になれない蝉がいることも実感としてわかった。羽根の奇形が2匹、殻から抜け出せなかったものが2匹。自然って、きびしいなあ。

 抜け殻が110個を越えたところでパンツァーカイル(WW2時のドイツ機甲師団の陣形)を編成し、写真を撮って他県在住の長女(蝉が大嫌い)に送ってやった。頭を抱えた女の子のスタンプを貼り付けた返事がラインで返ってきた。このコロナ禍の中、元気そうで何よりだ。

 今では抜け殻の総数は146個。最大で1日17個の記録がある。我が家は地方都市の外れに位置し、農地転用で安く手に入れた敷地はそれなりに広い。そこに雑木を植え、庭はちょっとした雑木林のようになっている。だから虫や野鳥がたくさんやってくる(ノラ猫や、時には狸も)。あちこちの藪の中にはいまだ発見されていない抜け殻がまだまだあるに違いない。それにしても140個超とは。

 さすがにお盆過ぎにはピークを過ぎ、1日2~3個に。それに反比例して蝉の亡骸が目立つようになってきた。そういえばここ数日、トンボもよく見かける。明け方聞こえてくる虫の声はヒグラシからコオロギに変わった。庭で見つかる抜け殻の数の推移、これも季節感というやつだろうか。かなりマニアックだけど。

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 アメリカ従軍カメラマンの良心

 「トランクの中の日本」という写真集をご存じだろうか。もし知らないなら、是非とも一度、現物を手に取ってみてほしい。

 僕がこの初めてこの写真集を知ったのは、発売当時の、雑誌か何かに掲載された広告だったと思う。紹介されていた1枚の写真に強烈なインパクトを受けた。それは国民服を着た少年が、眠っているように見える赤ん坊を負ぶいヒモで背負ったまま「きをつけ」の姿勢をとっている写真だった。写真集が発表された後も、単独であちこちに掲載されたから、見たことがある人も多いだろう。撮影者はジョー・オダネルという若者。終戦直後に占領軍の一員として長崎県佐世保に上陸。軍のカメラマンとして戦後の日本を撮影するのが彼の任務だった。ご存じのように、長崎は原爆で壊滅的な被害を受けた直後だったので、その周辺はかなりの惨状だったという。

 彼の仕事には厳しい禁止条項があって、後々米軍が非難されるきっかけとなるような、あるいは原爆投下という蛮行の証拠となるような写真を撮ってはいけないことになっていた。しかし、彼は撮影中に様々な人たち(日本人)と出会い、次第にその意識が変化していく。彼は仕事の枠を越えて、「人間として、ここで何が起こったのかを記録するべきだ」と考えるようになり、独断で写真を撮り続けた。帰国時には厳しい検閲があったので、問題となりそうなフィルムは未使用と偽って持ち出したそうだ。このようにして撮影されたうちの1枚が、あの少年の写真だった。あの写真は、後に「焼き場に立つ少年」と呼ばれるようになり、2017年にはローマ法王とのエピソードもあって、近年あらためて注目されるようになった。

 この写真集が最初に発表されたのは1995年。なぜこれほど出版が遅れたのか、それには深いわけがある。撮影してはいけないものも写っているから、見つかれば写真がネガもろとも没収されてしまう恐れがあった。それは絶対に避けたい。そこで彼は、帰国してしばらくはネガもプリントも、トランクに入れて隠していたのである。そうして発表できる時期を思惑するうちに、長い年月が過ぎてしまったとのことだ。このことが、「トランクの中の日本」というタイトルの由来にもなった。実際にアメリカで写真展を行った際には、高い評価を受けた一方で「自国の恥部を暴くようなマネをした」という理由で彼を非国民呼ばわりする人たちも少なからずいたそうだ。だが、ジョー・オダネルの「全ての人々に見てほしい、あの時、何が起こっていたのか知ってほしい」という態度は揺るがなかった。

 ジョー・オダネルはすでにこの世を去ったが、その数年前に幾度目かの来日をしている。その様子を追ったTV番組があって、その中で彼は思い出の地を訪れ、あの時出会った人々との再会を果たした。しかし、一番会いたかったあの少年に再会することはとうとうできなかった。あの時、あの少年は、亡くなった幼い弟の亡骸を背負い、臨時に設営された焼き場(といっても野火)で火葬の順番を待っていたのだ。下唇を噛みしめ、「きをつけ」の姿勢で微動だにしなかったそうだ。ジョー・オダネルは「声をかけてやりたかったが、そうすることで我慢している涙が堰を切ってあふれ出しかねず、それは彼の尊厳を台無しにしてしまう気がして、一言も声をかけられなかった」というような内容のことを書き残している。

 他にも原爆の熱線に背中を焼かれた傷病者や、きちんとした服装をした老紳士(英語が堪能で、「写真でこの惨状を世界に訴えてほしい」と語ったそうだ)との出会いについて、写真に手記を添えて掲載しているので、その時の彼の感情の揺らぎが手に取るようにわかる。読んでいて涙がにじんでくる。そこには歴史の中で、けっして風化させてはいけない記録が詰まっている。

 世界で唯一核兵器が使用され、多くの犠牲者を出した日本。しかし、政府はいまだに「核兵器禁止条約」を批准していない。ジョー・オダネルは2007年8月9日、85歳でこの世を去った。それは奇しくも、長崎の「原爆投下の日」であった。