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 何としても食う

 土用干しというのか、先日、つけ込んでいた梅を干した。今年も良い感じに梅干しができそうだ。

 ここ数年、毎年のように自家製梅干しを作っているのだが、そこそこ面倒だし、それなりに時間もかかる。その手順も、どうしたらこんな発想が生まれてくるんだと思うようなことの連続だ。そんな作業にいそしんでいると、必ず思い出すことがある。それは「日本人って、何としてでも食うよな」ということ。

 皆さん、ヒジキの煮付けは好きですか?あの海藻は出荷前の下処理がとても大変。そのままだと、アクが強くて食べられたもんじゃないんだそうだ。昔ながらの方法だと、まず収穫したヒジキを鉄鍋で3~4時間炊く。しっかり噴きこぼし、それを一昼夜放置して蒸らす。よく水洗いして、網の上で1~2日天日干しし、波板の上に移して仕上げ干しをこれまた天日で半日。こうしないと食えないものを、こうまでして食おうとする情熱って、いったい何なんだ?しかも途中で諦めなかったところが凄い。

 茨城県北部名産の凍(し)みこんにゃくは製造にほぼ1ヶ月かかる。そもそも、アクが強くて食べられないこんにゃく芋からこんにゃくそのものを作るのも、「マジか」レベルでとても面倒。しかし、そのままでも食えるこんにゃくをなんで凍らせたかねえ。多分誰かが冬に出しっ放しにしちゃったんだろうな。そんでもって、食べてみたら美味しかった、と。始まりはそんなことだったんだろうと思う。それを「あーしたら」「いやこーしたらもっと・・・」なんていろいろやってみるうちに、今の製法ができあがったのだろう。しかも厳寒の季節に20日間、野外に放置して、水をかけては凍らせ、天日で解凍してはまた凍らせ、これって、今で言うフリーズ・ドライじゃないか?誰が思いついたか知らないが、その発想が凄い。

 極めつけはフグの卵巣。ご存じのように、フグはその内臓に致死性の毒をもっている。テトロドトキシンといって、ハイチでは例のゾンビを作るときに、このテトロドトキシンを・・・フグの話でしたっけね。

 フグを料理する料理人は特別な免許を取らなければならないが、それでも毎年中毒者が10人以上、死者も数年に1人の割合で出ている。縄文時代の住居跡から、家族とみられる遺体(もちろん白骨化)とともにフグの骨が発掘されたことは、その筋では有名なお話。ところで、特にフグの卵巣にはテトロドトキシンが多く含まれているのだが、その猛毒の卵巣を何とかして食おうとしたやつがいる。

 「フグの卵巣のぬか漬け」、これは石川県の名物で、まずフグの卵巣を1年以上、30パーセントほどの塩漬けにする。その後ぬかに漬けてさらに1年あまり。要するに最低でも2年、長いと3年近くかかるわけだ。そこまでして食うかねえ。肝心のお味のほうは良い意味でかなりの珍味とか。これを製造するのにも免許が必要で、製品は石川県の予防医学協会の検査を経て出荷されるそうだ。だが、解毒のメカニズムはいまだによくわかっていないという。

 ヒジキもこんにゃく芋もフグの卵巣も、アクが強すぎたり毒があったりで、本来であれば食べられない素材だった。それを知恵と勇気(特にフグは)で、何とか食べられるように加工したわけだ。だがこうした食品は、食うものがなかったから何でも食べるしかなかった、というだけの理由では絶対生まれてこないと思う。さても、日本の食文化の、何と奥の深いことよ。

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 夏と言えば怪談(その3)

 教師時代の修学旅行などにまつわる怪異譚を思い出したので紹介する。

一人多い

 ある修学旅行で、1日目、京都に向かう新幹線の中で発熱した女子生徒がいた。彼女は養護教諭とともに宿に直行、その足で病院に連れて行った。夜になって一行が宿に入ったところで合流。夕食を済ませ、熱も下がったので、グループとともに客室で就寝させた。

 翌朝、その生徒がぼくのところに来て言うことには、1日目のほとんどを宿で休んでいたために、寝付けなくて夜中に何度も目が覚めたそうだ。ふと気付いて、寝ているグループのメンバーを数えてみると8人いた。だが、彼女のグループは7人だ。もう1度数えてみたが、やっぱり8人。その生徒は部屋の入り口に一番近いところに寝ていて、室内は窓から入る街灯の光で照らされ、寝ている友人たちはシルエットになってよく見えたそうだ。怖いので入り口に向き直り、いつの間にか眠ってしまった。夜が明けてもう一度数えたときには、7人に戻っていたとのこと。

赤い橋

 3年生が修学旅行から帰ってきた。違う学年の担当だったぼくに、ある女子生徒が話してくれた土産話。

 2日目の班別タクシー行動で、あるグループがよせば良いのに、タクシーの運転手に心霊スポットに連れて行ってほしい、と頼んだらしい。運転手もその気になって、その筋では有名なトンネルに連れて行ってくれたそうだ。トンネルの手前には赤い橋があって、自殺の名所になっている、といえばわかる人にはわかる場所だ。メンバーがタクシーを降りてその橋を渡り始めると、1人が立ち止まって泣きだした。どうしたの?と聞いても、泣きじゃくるだけで何も言わない。そのうちその場にしゃがみ込んで放心状態に。これはまずいと、みんなでその生徒を抱え、タクシーまで戻った。赤い橋から離れてすぐ、その生徒は落ち着いたという。本人曰く、なぜ泣いたのか自分でもわからないそうだ。タクシーの運転手も凄く心配していたとのこと。そりゃそうだろうなあ。

裸足の脚

 「うちの家族はみんな霊感が強いんです」という男子生徒。修学旅行で宿泊するホテルに着くなり、茶化し半分に、「このホテル、どんな感じだ?」と聞いたら「結構ヤバイっすよ」という。

 翌朝、朝食の時に「昨日は何かあったか?」とたずねると、手招きでぼくを朝食会場の外へ連れ出し、「○○(男子生徒と同室の生徒)には言わないでください」と前置きして、「夜の11時頃、厭な感じで目が覚めたと思ったら、窓側から脚が歩いてきたんですよ。膝から下だけで、多分女。裸足でした。」「なんだって。窓から入ってきたのか?」「いや、窓の下の壁から湧いて出た感じッすね。それで、となりに寝ていた○○のベッドのそばまで行って消えました。残り2日間、やつが気にすると困るから、内緒って事でお願いします。」「お、おう、わかった。もし○○に何か変わったことがあったらすぐに言えよ。」「了解です。」幸い、その後は何も起こらなかった。

盛り塩

 ちょっと毛色をかえて宿泊スキー研修でのお話。2日目のスキー研修で、立て続けにケガ人が3人出た。そのうち2人は大事をとって救急車を要請。1日のうちに救急車を2度も呼ぶなんて初めてのことだった。幸い大事には至らなかったが、宿に戻ってびっくり。ケガをした3人は全員同じ部屋だったのだ。さあ大変。同室の生徒たちが「この部屋何かあるのかも!」とパニックに。仕方が無いので、宿の厨房にお願いしてそれなりの量の塩をもらい、ホテルの担当者にも断った上で部屋にまいた。残った塩は入り口と窓の両側に盛り塩に。気休めだが、とりあえず生徒たちは落ち着いた。翌日は何事もなく、無事研修を終えることができた。

おまけ コックリさんの呪い

 これはだいぶ前のこと。ある日の放課後、柔道部の部長が先生(僕のこと)に相談がある、と職員室にやってきた。柔道マンガに出てきそうな見てくれの大男だ。「なんだ?話してみ?」「ここじゃちょっと・・・。部室に来てほしいんですけど。」「なんだ、穏やかじゃねえな。」歩きながら彼が言うには、部室でコックリさんをやっていたら、どういう加減か最後に「全員呪う」と出てしまった。どうして良いかわからなくて、そのままにして相談に来た。そういうことらしい。まったく、お前らjkか?

 部室に着くとすぐ、僕はコックリさんの盤面(紙)を掴んで破り捨てて見せた。すると1人がそれを見てパニックに。「あっ!ダメだよ先生、コックリさんまだ帰ってないのに!先生も呪われるよ!」こりゃ重症だ。「そんな心配はない。嘘だと思うんならもう1度やって見ろ。オレが呪われたか聞いてみろ。」まさかホントにやるとは思わなかった。そして出た答えは、「先生は呪わない」。それを見た部員一同、「先生、すげー!チョー強ええ!」違う、そうじゃない。やれやれ、僕の株が上がっただけかい。

 結局彼等はその日の深夜に、どこで手に入れたのか、赤い鼻緒の下駄を近所の川に流しに行った(呪いを解く方法のひとつらしい)とのこと。後日よく言い諭して、2度とコックリさんはやらないと約束させた。

 どれも実際に聞いたり体験したりした話。考察は貴方にお任せします。

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 アルファベットの学習か(今日はもう書いちゃうぞ!)

 今回のオリンピックは凄いねえ。まずS氏のシンボルマーク盗作疑惑(採用は撤回)から始まって、組織委員会トップのM氏が女性蔑視問題で辞任。続いて開閉会式の演出統括、S’氏が女性侮蔑問題で辞任。同じく開閉会式の音楽担当者、O氏が過去の障害者等へのいじめ・虐待問題で辞任。さらに関連行事に参加予定の絵本作家、N氏が出演を謎の辞退。とどめは開会式前日の演出担当トップ、K氏の解任。こちらはお笑い芸人時代にナチのホロコースト(ユダヤ人虐殺)をお笑いのネタにしたことがあったからで、波紋は世界中に広がった。よくもまあ、これだけポンコツを集めたもんだと驚嘆してしまう。

 過去に馬鹿をやったことは僕も、おそらく貴方もあるだろう。僕はただの小市民だから、今更誰も問題にはしないだろうけど、それなりの地位や役職にある人物だと、話はそう簡単にはいかない。まさに「ノブレス・オブリージュ(位高ければ徳高きを要す)」。だとすると、任命する側にもそれ相当の責任が生じるだろう。もちろん本人たちも、特にO氏などは「ぼくはこういう過去があるのでふさわしくありません」という対応もできたはずなんだけど、そんな過去のことは忘れてしまっていたのかも知れない。あるいは軽く考えていたのか。それはそれで問題だけど。

 自分の置かれた立場で言っていいことと悪いことの区別がつかない、こういうのを認識不足というのだろう、多分。だが例えばK氏の場合、確かに言動には問題があったかもしれないが、本人が人種差別主義者というわけではなく、過去のことでもあり、誤解を恐れずに言うなら、もとは一般人の「失言」というレベルのものだろう。問題を大きくしているのは、もしかすると告発する側の人間かも知れない。さらにこういう「ふさわしくないかもしれない」人たちを話題性や忖度でそういった地位に就けてしまう、これもまた認識不足。問題だと思う。おまけに一度外されたM氏なんて、今になって組織委員会の名誉職に就けようなんて話もあって、各方面から総スカンを食らった。まったく想像力に欠けるというか、こんなのが今の日本なのだろうか。そう思うとがっかりだが、一番がっかりしているのは多分あのSさんだろう。嫌いなタイプではあるが、同情を禁じ得ない。さらに気になったのが、あるアスリートのコメント。「相手の心を折りにいくつもりで」ってなに?細かいことかも知れないけど、これはスポーツマンのコメントじゃないと思うんだけど。さらにネットでは結果を出せなかった選手に対する中傷が後を絶たないとか。みんなして、そんなに他人の心を折りたいのか?まさかこの雰囲気、最近のジャパニーズ・スタンダードじゃあるまいな。もしそうだとしたら、今後がとっても心配。

 IOCのB氏の言動も大分話題になったが、ごく最近では№2のC氏が開会式の欠席を表明していた2032年(だったかな)の開催地である、クイーンズランドのトップ(女性)に「東京大会の開会式に行け」と圧力をかけたとかで、IOC自体の問題も浮き彫りに。いったい何様なんだ。さらにK氏のホロコースト問題を米ユダヤ系団体に言いつけたのは日本の防衛副大臣、N’氏。もー、訳わからん。「副大臣」が政府を飛び越え、国際的な舞台でスタンドプレーって、いったい何なんだ。ついでに言うなら、開会式も「世界のワンマンショー」みたいでひどい出来。ビートTが怒るのも無理ないよ。だって彼は映画監督だもん。下手な演出には我慢できないでしょう。一つ一つの演目には見るべきものがあったわけだから、これはやはり統括する側の責任だよ。おまけに日本選手団の入場時のスマホ禁止って、気の利かない高校の校則か?ほかにもっと、やることあるでしょうが。開会式以来、関係者のコロナ感染は増加の一途だし、プレイブックも形骸化。ルールを守らない人続出。そしてそれを規制できない関係者。そうこうするうちに首都東京の感染者は3,000人を越え、すでに呪文も効果無し。呪文って、ほら、あの「安全~安心~」てやつだよ。唱える回数がまだ足りてないんだ、きっと。さらにさらに、コロナウイルスが原因で食事すらままならない国民がたくさんいるのに、まだ食べられる弁当を4,000食分捨てたとか、もー、あげ始めたらきりが無い。いくら何でも、不手際多すぎ。高校の文化祭のほうがまだマシかも。これじゃ頑張っているアスリートたちがあまりにも気の毒だ。前出のSさんも、世界に向かって胸を張るのはもうムリなんじゃない?

※「ノブレス・オブリージュ」フランスの格言のようなもの。文学者、開高 健が愛したことばでもある。

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 日本語の語感 

 今日、初めて蝉の声を聞いた。と言っても、ミンミンゼミやアブラゼミのような王道ではなく、明け方どこからともなく聞こえてくる単調なあれだ。

 七夕が過ぎたばかりで、関東はまだ梅雨も明けていないが、蝉の声を聞くと一気に夏を感じるのは僕だけではないだろう。この後梅雨が明ければ太平洋から白南風(しらはえ)が吹き込み、本格的な夏がやってくる。

 南風(はえ)というのは、夏に太平洋高気圧が南から運んでくる熱風のことだ。梅雨時期の湿った風を黒南風(くろはえ)、梅雨明け以降の乾燥した風を白南風(しらはえ)と言う。こうした日本独特の語感が何とも好きだ。だいたい、南風と書いて「はえ」と読ませるなんて、当用漢字ではあり得ない。そう言えば、「城ヶ島の雨」という歌曲の歌詞に「利休鼠の雨が降る」というのがある。別にネズミが雨のように降ってくるわけではなくて(それはほとんどホラーですね)、あの有名な茶人、利休が好みそうな渋い灰色の雨が降っている、という意味だ。この「利休鼠」という色を実際に利休が好んだという事実はなく、「好みそうな」と、勝手に判断しているところが面白い。色としては緑がかった灰色で、「りきゅうねず」と読むのが正しいそうだ。しかし、なぜ「ねず」で切ったんだろうねえ。

 昨年2月にプチ入院したエピソードでも触れたが、「東雲(しののめ)」とか「暁(あかつき)」などといった語感も好きだ。色の名前にも「浅黄(あさぎ)」とか「萌黄(もえぎ)」など、良い語感を持つものが多い。面白いのは、同じ「あさぎ」でも、「浅黄」だと黄緑系なのに、「浅葱」と書くと青系の色になる。そういえば、20年以上前にある通販サイトで「500色の色鉛筆」というのを買った。今もリビングに飾ってあるが、この色名も凄かった。「クレオパトラの朝食の蜂蜜」だの「ジュラ紀のアンモナイト」だのと、よくもまあ500通りもこじつけたものだと感心してしまう。別に茶化しているわけではない。実際そのセンスはなかなかオシャレだった。ただし、鉛筆自体は「この色とこの色、どこか違うか?」なんていうこともあってちょっと笑える。

 ところで、この曖昧とも言える日本語の語感の形成は、いったい何に起因しているのだろうか。僕が思うに、ひとつは四季の変化。狭い国土であるにも関わらず、その変化が比較的大きいこと。そうした変化の中で夏に憧れたり、春を待ちわびたりするうちに感性が磨かれ、「歳時記」や、俳句における「季語」などという季節感を大事にする文化が育まれていった。そして同時に「うるさいな。まるで5月のハエみたいだな。よし、五月蠅と書いて『うるさい』と読ませちまおう」などという訳のわからないセンスが育まれた・・・かどうかはわからないが、そんなレベルの思考の流れが多分あったのだろう。そしてもう一つがアニミズム。

 日本では八百万(やおよろず)の神がいるだけでは事足りず、なんにでも魂が宿ってしまう。使い古した道具を粗末にすると祟られる、なんていう話もあるぐらいだ。つまり何にでも容易に感情移入できる特質。こうした要素が相まって、初夏を麦秋(麦にとっての収穫期=秋)と読んだりする独特の感性や価値観が形成されていったのではなかろうか。他に考えられるとするならば、まあ適当なんだろうね、良い意味で。だって「南風=はえ」とか、当て字にもなってないもの。

 これから盛夏を迎え、8月下旬になるとミンミンゼミやアブラゼミの声が次第にツクツクボウシに変わっていく。空にはトンボが目立ちはじめ、水田は黄色く色づいていく。こうした微妙な変化を無意識のうちに感じながら生活してきたのが日本人なのだろう。

 僕の愛読書に「一度は使ってみたい 季節の言葉」というのがある。著者は長谷川櫂という現代の俳人。俳句の季語を、それにまつわるエピソードを紹介しながら解説している。お堅い本ではなく、気軽に読める体裁だ。水野克比古という写真家の写真が添えられていて、これもなかなかいい。後に続編も出版された。ちょっと気分を変えたいときなどに重宝している。残念ながら今は絶版だと思うが、どこかで見つけたら、ぜひ目を通してみて欲しい。こんなに多種多様な日本語があったのか、と驚くこと請け合いだ。

 2ページでひとつの言葉を解説している。それぞれに写真が1枚。このページでは「端居(はしい)」という言葉について触れている。「夏の夕暮れ、縁に腰かけて一抹の涼を探るのが端居である」とある。

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 夏と言えば怪談(その2)

 前回触れた不思議な体験について。まず断っておくが、僕は「見える人」ではない。ホラー映画や心霊番組は好きだけど、実のところほぼ信じていないタイプだ。そこんとこ、よろしく。

 それは8年前、僕がまだ中学校の教員をしていた頃のことだ。その時僕は、3年生を引率して京都に修学旅行に来ていた。僕たちが宿泊したのは、京都御所の西側にあるそこそこ立派なホテルだった。通りに面する窓からは京都御所の木立が目の前に見え、交通の便を考えてもなかなかいい立地だった。ただ、ホテル内は全館禁煙だったので、喫煙者の僕はその都度正面玄関脇の喫煙コーナー(屋外)まで足を運ばなければならなかった。

 その夜、生徒を就寝させ、1回目の巡視を終わったところで、僕は一服するために喫煙コーナーまで下りていった。時刻は11時を過ぎていたと思う。煙草に火をつけてすぐ、目の前の堀川通りに目を向けると、歩道の右手、ずっと先の方に、こちらに向かって歩いてくる、夜目にも白い半袖のワンピースを着た女性が目に入った。別に不穏な感じはなく、こんな夜更けに若い女性が歩いているなんて、さすがは京都、などと脈絡のないことを考えていた。その女性、歳の頃は20代半ばぐらいか。ショルダーバッグを肩からさげ、ワンピースはベルテッドで、裾が膝丈ぐらいの上品ななりだったのを覚えている。となりの男性(その時は漠然とそう思った)と話をしながら歩いているようだが、暗い色の服を着ているのか、この距離ではよく見えなかった。だが彼女が目の前を通り過ぎる頃になって気付いた。一人だ。その女性は一人で歩いている。だが顔を右方向斜め上(僕から見て向こう側)に向け、両手で身振りを加えながら楽しそうに話し続けている。一瞬「スマホに話しかけているのかな?」とも思ったが、その顔はまるで身長180センチの男性が右どなりにいるかのように中空に向けられていて、両手を動かしながら話しているので、例えイヤホンを使っていたとしてもスマホはあり得ない。一番近い正面に来たときには、女性と僕の間には車寄せの植え込みと、喫煙所の格子状の目隠しがあったので、見間違いかもしれない。そう思った僕は女性が通り過ぎた後、何食わぬ顔で歩道まで出てみた。すると左手にすぐ交差点があり、信号待ちしている女性が僕からほんの10メートル足らずのところに立っていた。間違いなく生身の人間だ。街灯に照らされて、歩道に影も落ちている。だが、今度は真後ろから見ているにも関わらず、やはりとなりには誰もいなかった。それでもその女性は、相変わらず会話し続けている。中空に向かって、楽しげに。これっていったい何?僕には見えない誰かがそこにいるのか?それとも、この女性がそういう人なのか?それはそれで怖いぞ。やがて信号が青になると、女性はそのまま遠くの闇の中に消えていった。

 その後は何事もなく、無事に修学旅行を終えて帰ってきたのだが、不思議なことは自宅へ戻ってからも続いた。まず寝室の雰囲気が不穏になったこと。先に述べたように、僕はあまり信じない人なので、うちの奥さんのドレッサー(当然大きな鏡つき)があっても、よせば良いのに持ち込んだフランス人形があっても、怖いと思ったことは1度もなかった。それが修学旅行以来、何とも不思議な気配を感じるのだ。こんなことは初めてだった。それだけではない。当時まだ同居していた長女が「パパ、なんか変なもの連れて帰ってきたでしょう」と言いだした。自室の空気が変わったというのだ。僕が京都であったことを話すと、「あー、それだ、多分。」

 さらにある晩、リビングでテレビを見ていたときに、次女が突然僕を振り返って「止めてよ!」と言いだした。だが言った本人が僕の座っている場所と姿勢を見て、えっ!という顔をした。「なんだよ」と聞くと、「今・・・背中をつつかなかった?」と聞くので、「この体勢で手が届くわけ無いだろう」と言うと「だよね・・・えっ!じゃ今の誰?」と、軽いパニック状態に。すると長女が「ほらァ。やっぱり何か連れてきてるよ。」と笑った。この間、うちの奥さんはうたた寝をしていて何も気付いていない。一番幸せなタイプ。不思議に思うかもしれないが、うちはいつもこの程度の反応で終わる。脳内のどこかで、常に「まさかね」という思考が働いているからだろう。 

 次女の一件以来、家の中はもと通りになったようだ。その間、2週間ぐらいかな。実際に何か見たわけでもないし、おかしな事が続くこともなかったので、全部「気のせい」ということで一件落着。しかし、僕が京都で見たあの女性のふるまいは謎のままだ。女性自体は間違いなく生身の人間に見えた。そもそも、「見えない人」である僕に見えたのだから人間のはずだ。だが、あるいはもしかして・・・。 

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 夏と言えば怪談(その1)

 教員をしてた頃、学校出入りの旅行業者に聞いてみた。「あのさあ、仕事柄答えにくいかもしれないけど、ここだけの話、出る宿って本当にあるのかい?」僕としてはかなり気を使ったつもりだった。だって旅行代理店が特定のホテル等の営業の妨げになる話をするのはまずいだろうと思ったから。しかし彼はにっこり笑うと、こちらの気遣いも顧みず、めいっぱい明るい声で「ああ、ありますよ!」                      まるで「ご希望のホテルには、まだ空きがありますよ!」みたいな感じだった。どういう感覚してんだ、この人。

 彼が言うには、大きな温泉地などには必ず1軒や2軒はそういう類いの宿泊施設があるという。「そんなの当たり前じゃないですか」といった体(てい)だ。さらにこう付け加えた。「霊感の強いスタッフが添乗員としてそういう宿に入ると大変なんです。大騒ぎされて、こっちも眠れませんからねえ。」ホントかよ。そして彼は興味深い話を聞かせてくれた。「ヤバイ部屋の見分け方があるんですよ。部屋番号を見るとだいたいわかるんです。」彼の話はこうだ。

 通常部屋番号はきちんと並んでつけられているが、宿によっては「4(し=死)」を嫌ってとばすことがある。例えば 302-303-305 といった具合で、これは良くある事だ。ところが希に、もっと不自然なならびの部屋番号があるというのだ。 305-306-リネン室-308。「リネン室」は「プライベート」の場合もある。普通なら 306-リネン室-307-308 と続くはずだが、この場合はもともとあったはずの「307号室」が何らかの理由で「リネン室」等に変更されたことになる。しかもほとんどの場合、そこはリネン室などではなく、室内は通常の客室のままであるという。つまり、「リネン室」の表記は何らかの理由で一般客に提供できなくなった客室のカモフラージュ、というわけだ。ここまで来れば、もうおわかりですね。

 彼が言うには、「一番困るのは修学旅行などの大所帯の添乗の場合、部屋が足りなくて添乗員がそういった部屋をあてがわれることがあるんです。僕なんかはあっても金縛り程度なんですが、霊感の強い女性スタッフなんかはもうパニックですね。次の日は仕事にならないこともあります」とのことだ。「こういう『リネン室』の両隣や向かいの部屋は、できることなら避けた方が良いです。」だから業者顔で普通に言うなってば。

 他にも、飾りロープでうやうやしく人止めのしてある階段などは近づかない方が無難だそうだ。そう言えば、僕も一度だけそういう階段を見たことがある。立派な作りの階段なのに人止めがしてあって、照明まで落としてある。不思議に思ったので良く覚えている。当時はどこか壊れかけているのかなと思ったのだが、あるいはそういうことだったのかもしれない。

 彼は仕事のできる男だし、顧客からもかなり信頼されている。そんな彼が、いつもの打合せと変わらない笑顔で、口調で、こんな話をするのだ。しかもリアルだ。なんだか聞くんじゃなかったな、という感じ。だけど、実を言うとある修学旅行の引率で、僕も不思議な体験をしたことがある。(つづく)

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 ホラーには外連味の効いた演出が欲しい

 ホラー映画には「外連味(けれんみ)」が欠かせない。前にもちょっと書いたが、本当に幽霊というものが存在するとしたら、普通に考えて、相手が誰かを認識できるようにわかりやすく、生前の姿で現れるだろう。それは状況によっては少しも怖くない。映画はエンタティンメントである以上、そこには怖さの演出が必要になる。つまり「外連味」だ。ただし、ここで僕が言いたいのは、「エクソシスト」のリーガンや各種ゾンビのような「人体破壊」的な演出ではない。いわゆる「様式美」的な演出のことだ。良い例がある。ジョン・カーペンター監督の「ザ・フォッグ(1980)」だ。

 映画のラストシーン、教会の中で過去の幽霊たちと対峙する主人公たち。幽霊たちは光る霧を背景にシルエットとなって浮かび上がる。その目だけが真っ赤に光っている。これですよ、これ!これぞ様式美。だって、幽霊の目が赤く光るなんて、理屈に合わないもの。必然性も無いし。でもやっちゃうんだよ。これだからカーペンター大好き!なんだよなあ。

 そもそも「外連味」というのは歌舞伎などで言う見た目重視の演出のこと。これが上手くいくと、「怖い!」という感情よりも、「待ってました!」みたいな満足感が湧いてくる。「こういうのって、やっぱり歌舞伎なんだ」とか思う。このパターンは1983年の映画「ザ・キープ」でも使われていて、邪悪な存在の目と口が映像処理で赤く光っていた。ハレーション効果で赤をのせているらしく、シルエットでなくても光っている。こちらは1種の妖怪(悪魔?)だから、理屈も必然性もあったものではない。こういうものなんだ、で納得。ただし、映画の出来は散々だった。前半はすごく好調(実物のドイツ軍のハーフトラックとか出てきちゃうし)だったのに、いったい何があったのだろうか?同名の原作(ポール・ウィルソン著)はナチスドイツの親衛隊と国軍の拮抗とか、ユダヤ人の学者さんとかが絡んでとても面白かっただけに残念でならない。

 そう言えば、最近スティーブン・キングの「IT」が再映画化されて話題になったが、僕は前作(初映画化のもの。TV映画)のほうが好きだ。確かに新作は映像技術も素晴らしいし、キャスティングもなかなかいいのだが、いかんせんペニーワイズが怖すぎる。何しろ普段から怖い。そこへ行くと前作のペニーワイズは、普段は陽気で楽しいピエロそのものなので、そのクレイジーさ加減がより際立っている。特に図書館での悪ノリというか奇行ぶりは必見。

 「外連味」の話だった。さすがに赤く光る目は時代遅れなのか、最近では新しいパターンが採用されている。例えば白目のない真っ黒な眼球。それと、人間離れした歩き方、かな。真っ黒の眼球は、欧米では悪魔が乗り移ったときのイメージとして、昨今よく使われている。変わった例としては「フロム・ヘル」(※)で使われた、切り裂きジャックの真っ黒なキャッチライト(反射光)のない瞳があげられる。あれはあれでかなり邪悪な感じだった。奇異な歩き方は日本のオリジナルと言っていいだろう。ちなみに、ゾンビの歩き方は、あれは死体なので文字通り神経が行き届かない故のものと解釈している。死後硬直もあるだろうし。そういう見方をすれば、伽耶子(呪怨)の四つん這いは生前最後の、傷を負って這いずりまわる姿、と言えなくもない。そうなるとやっぱり貞子(リング)は別格か。いやいや、「回路」に出てきた女性の幽霊の歩く姿もなかなかのものだった(颯爽と歩く、が、途中でよろける。これが妙に怖い)。ただし、これらの例は根源的な違和感を感じさせるもので、すでに歌舞伎を超えたところにあると言えるかもしれない。

(※)「フロム・ヘル」2001年制作 ジョニー・デップ主演(ただしギャグは一切無し)。切り裂きジャックの正体についての新解釈を映画化。厳密にはホラーではないが、十分ホラーっぽい作品。でも根幹はメロドラマかなあ。 

〈追記〉 外連味とはまるで関係ない恐怖描写をひとつだけご紹介。イギリス映画「回転」のワンシーン。舞台となる豪邸の庭園にある東屋(あずまや)から、大きな池の向こうにたたずむ女性の幽霊を目撃するシーン。真っ昼間で、遠い。顔などは判別できない。彼女は黒衣をまとっている。視線をそらしてもそこから消えず、動きもなくたたずみ続ける。実際に幽霊を目撃するときはこんな感じなんだろうな、と思う。何しろ消えてくれないのが怖い。陽の光を浴びて存在し続ける確かな存在感が怖い。このシーンを初めて見たとき、「あれって、幽霊なんじゃ・・・」という困惑から始まって、「やっぱりあれ、幽霊だよ」という確信に至る心境の変化を、知らず知らずのうちに登場人物と共有してしまっていた。「○○、うしろうしろ!」どころの騒ぎではない。監督が上手いんだろうなあ。原作は「ねじの回転」。ヘンリー・ジェームス著。映画は1961年制作、モノクロ作品です。

 

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 ハリエット・ショックのデビューアルバム

 ハリエット・ショックとの出会いは1970年代。アメリカの女性シンガーである。今も活動しているようだが、日本ではあまりその名を聞かない。ネットで調べてみたら、何と音楽活動をしながら、何処ぞの大学で作曲や詩(歌詞?)について教えているという。映画音楽にもちょこっと関わったりしているようだ。ジーンズの上下(しかもベルボトム!)を着て歩道に座っていたレコードジャケットの写真からは想像できない話だ。

 この人の日本デビューは多分1970年代の後半(具体的な情報がほとんど無い)で、デビューアルバムは「ハリウッド・タウン」というタイトルだった。当時の僕の小遣いではアルバムを買うのは至難の業だったが、このアルバムは当時の僕の感覚と何か通じるものがあって、絶対欲しいと思っていた。街の大きなレコードショップで見つけたが、持ち合わせがなかったので、とりあえず一番気に入っていた、アルバムタイトルでもある「ハリウッド・タウン」のシングルを購入し、アルバムは次の小遣いまでお預けということに。ところが、このアルバムは日本ではあまり有名にはならなかったらしく、その店にあった1枚がなくなると、2度と入荷することはなかった。しかもハリエット・ショック自体が日本の音楽シーンではウケなかったのか、以後ハリエット・ショックのアルバムを店頭で見たことがない。

 時が流れ、教職に就いていた頃になると、ネットでいろいろな物が購入できるようになった。だがネットでも「ハリウッド・タウン」は見つからなかった。あきらめかけていた頃、僕の勤めていた中学校のAET(アシスタント・イングリッシュ・ティーチャー、外国の方です)にこの話をすると、「カリフォルニアに住んでいる友人に米国アマゾンで探してもらってみようか?」と言ってくれた。僕は英語が少しできるので(といっても映画や音楽についてのボキャブラリしかないのだが)、AETとはいつも仕事以外の話をしていて、仲良くなることが多かったのだ。

 早速連絡を取ってもらったところ、カリフォルニアの中古レコード店に1枚あることがわかった。しかもそのレコードはデッドストックで、まだ一度も針を落としていないとのこと。なんという幸運!だが話はそう簡単ではなかった。その店は海外発送をしていないというのだ。彼はこう提案してくれた。「友人にそのアルバムを買わせて、僕のところへ送ってもらうよ。君は僕を通じて彼に代金を支払えば良い。これでどうだい?」おお、それは願ったり叶ったり。「よろしく頼むよ。ご友人にもよろしく伝えてよね。」しかしここでまた問題が。全ての手はずが整うか整わないうちに「東日本大震災」が発生したのだ。勤めていた中学校は避難所となり、授業のないAETは出勤の義務がなくなった。最後に聴いたレコードに関する情報は「日本への個人の空輸便は大幅に遅れる」というものだった。そして4月。顔を合わせることもないまま、彼は別の学校に配属となった。震災のどさくさで連絡先も聞けず、万事休す。というより、関東東部に位置する僕の住む地域は、実のところ震災の後始末でそれどころじゃなかった。4月に学校が再開して、初めてレコードのことを思い出したぐらいだ。ああ、僕のあのレコードは今頃何処でどうしているのだろう。

 そんなある日、授業を終えて職員室に戻ると、そこに彼がいた。お世話になった学校に挨拶に来たというのである。日本人の奥さんがご一緒だった。彼は満面の笑みを浮かべながら、手持ちのバッグから薄っぺらな段ボールのパッケージを引っ張り出した。「やっと届いたよ。」

 レコードを受け取りながら、僕はどんな顔をしていただろう。奥さんがにこにこしながら言った。「私たちもネットで聞いてみました。とても良いアルバムですね。特に歌詞が素敵でした。」お世辞とは思わなかった。初めて聞いたFM放送の紹介でも、特に歌詞の内容が注目されている、と紹介していたからだ。彼はささやいた。「本当はこれを届けに来たんだ。挨拶はそのついでさ。」嬉しいなあ。「本当にありがとう。これでまた夢が一つ叶ったよ。それで、いくら払えば良い?」そう聞くと、彼はまたにっこりと笑って、「お金はいらないよ。これは僕からのプレゼント。たくさんお世話になったからね。」

 AETは知らない人ばかりの学校に配属され、会話は授業に関することばかりで、心細かったり、孤独だったりするのだそうだ。だから日常的な話のできる相手がいるととても安心するらしい。奥さんも笑顔で頷いている。当時から僕のことは聞いていたようだ。僕はアメリカの(音楽や映画などの)文化について本場の人間と話をするのが楽しかったのだが、その日常的な、自分の好きなカテゴリーについての会話が彼を少なからず支えていたというのである。

 こうして数十年の時を超え、新品のアルバム「ハリウッド・タウン」が僕の手元にある。今やこのアルバムは自分が若かった頃の思い出であるだけでなく、AETの彼との思い出の品ともなったのである。

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 メロンパンとバタークリーム

 「メロンパンが食べたい」と言えば「買ってくればよかろう」と言われそうだが、事はそう簡単ではない。まずその種類の多さ。製法も多岐にわたっている。そして僕がここで取り上げようとしているのは、昔の、黄色い、あの表面がベトッとした上あごにくっつくやつなのである。

 現代のメロンパンは文字通りのメロンパンで、食べてみるとサクサクした口当たりで、メロンの味がする(当たり前と言えば当たり前)。中がオレンジ色の夕張メロンパン、なんていうのもあるぐらいだ。だが昔のメロンパンは、実はメロン味ですらなかった。前述したようにベタベタで、なぜか表面は黄色。香りはバナナがもとになっていたと聞いたことがある。ではなぜメロンパンという商品名だったのか。これも又聞きだが、表面の黄色い部分に網目模様が刻んであって、それがメロンのようだったから、という説が有力だ。つまり、「メロン型パン」というわけだ。そして、これがなかなか見つからないのだ。もしかして、もう絶滅してしまったのだろうか。

 もう一つ、大好きなパンがある。これは今でも販売していて、確か○○スイートだか、スイート○○とか言う商品名だったと思う。形は円盤形。細長いデニッシュ生地を直径20センチ程に平らに巻いてあり、シュガーシロップがかけてある。パッケージに「相変わらず売れてます!」なんて書いてあって、もうウン十年になるらしい。今でも良く購入する。渦巻きをほどきながら食べる(♪)。

 ケーキに関して言えば、近頃バタークリームケーキが大分復活してきているようで嬉しい。僕の知っているパティシエなんて、「ケーキはバタークリームのほうが絶対美味しい!」と断言しているぐらいだ。クリスマスケーキといえばバタークリームが主流だった子どもの頃は、生クリームのイチゴショートは高級品だった。当時母は添加物のことばかり気にして(そういう時代だった)、イチゴショートのクリスマスケーキを買ってくれるのだが、バタークリームのケーキはクリームに色がついていて(母はこの着色料を嫌っていた)、バラの花なんぞを型どり、当時は名前も知らなかった銀色の粒(アラザンというらしい)が散らしてあったりして、えらく豪華に見えたものだ。あるときそっちを買ってくれと懇願したら、母は驚いた顔をしていたが、やっと子どもの心理に気付いたのか、それからは色とりどりのクリームで飾られたバタークリームケーキを買ってくれることが多くなった。色つきのバタークリームにしろ、メロンパンにしろ(あの黄色い部分はどのように作っていたのか、考えるだに恐ろしい気もする)、添加物のことを考えると心配も無いではないが、子どもは感性の生き物だから、そんな理屈で納得なんかしないのだ。

 他にもイタリアンパン(「イタリアのパン」ではなく商品名)だの、ラビットパン(今あるものとは別物です)だの、もう一度食べてみたいパンがたくさんある。ものによっては進化した類似品が今もあるようだ。例えば、静岡名物のカニパンは、僕にはとても懐かしい味がする。イタリアンパンってこんな味だったような気が・・・。口当たりはもっとパサパサだったけど。何しろ記憶だけでの評価だから当てにはならないが、一方で黄色いベタベタのメロンパンにはもう20年以上お目にかかっていない気がする。一刻も早い復活を願ってやまない今日、この頃なのである。

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 教育と金

 以前から、人類の行う行為で「最も大規模なもの」は戦争、「最も重要なもの」は教育だと考えている。どちらも金がかかる。

 教育現場がブラック企業になぞらえて言及されるようになってから久しい。教師は多忙を極め、それに見合った報酬もない。行政は設備投資にはそこそこ積極的だが、人的環境の充実にはなかなか出資しない。そんな中で心身を病む教師も少なくない。今の教育現場は文字通り命がけだ。使命感に燃えて、過酷な仕事を快く引き受けるような時代はとうの昔に終わっている。

 僕の住んでいる地域では、教師の定年は60歳だが、近々65歳まで引き上げられる予定だ。現在は定年退職者に対し、「再任用」という枠が設けられていて、希望すれば65歳まで仕事を続けることができる。教育委員会は毎年、定年退職者に「経験豊かなベテラン教師の力を、是非とも本県教育のために・・・」などと美辞麗句を並べて勧誘するそうだ。だが、給与は満額にはほど遠く、状況によっては半減する。近年では「馬鹿らしくてやる気にならない」と、辞退する人が続出しているとのことだ。さらに不思議でならないのは、現場に講師の割合が増えてきていることだ。

 講師は、いわゆる「教諭」ではないが教員免許を持っていて、別枠で契約し、現場で教育活動を行う。それを生業にしている人もいれば、「今年は採用試験に受からなかった」ので講師の契約をする人もいる。だが、採用試験に受からなかった人を講師として現場で使う、というのはどういうことなのだろう。もちろん、こうした講師の中にも現場で十分力を発揮する人は多い。ということはつまり、「使える人」を採用せずに別枠で雇っているわけだ。

 講師にはその勤務形態によっていくつかの種類があって、給与体系も違う。基本は1年契約。昇級もあるが、教諭と違ってある一定のラインでそれ以上の昇級はストップしてしまうようだ。つまり、安く使えるということだ。しかしその講師でさえ近年では状況が厳しく、不足しているのが現状だ。ちなみに先ほどの「再任用」の給与はさらにその下をいくという。「ベテラン」と持ち上げて安く使う。そう思われても仕方がない。もちろん、僕には教育自体を金で計る意図はない。だが携わる人間にはプライドも生活も人並みにある。(※)

 戦争と教育。軍事予算では、使わないかもしれない兵器の開発にも莫大な金が落とされる。だが教育予算では、今必要な金がなかなか下りてこない。例えるなら、一方では罹らないかもしれない病気のために多額の保険料を支払っているが、一方では明らかに病気の人がいるのに治療費が支払われない。「様子を見ましょう」ということだ。その診断は正しいのだろうか。

 繰り返すが、もう使命感だけで教育ができる時代ではない。そんな美談が通用したのは、世の中がもっと単純で、素朴だった頃の話だ。教育現場はすでに疲弊している。行政は労働環境の改善や人員の確保など、いろいろな意味で教育にもっと金を使うべきだ。

※ 実際には公務全般にわたって多くの非正規職員を安く使うという状況にある。地域によってはあの「児童相談所」も同じ状況だという。