衝動的・・・?
8月の後半に起きた2件の傷害事件が気になっている。どちらもその場にあったハンマーを兇器として使用していて、はじめから用意していたものではない。要するに現場でいきなり激高し、衝動的に事に及び、手近にあったものを使ったということだ。犯人はどちらも男性で、1人は21歳、もう1人は67歳。21歳の犯人に至っては、「殺そうと思ってやった」と、殺意を認めている。僕みたいな呑気な人間には、衝動的に殺意が芽生えるという心理的プロセスがまったく理解できない。あ、勿論じわじわと殺意が湧く、という経験も無いです。念のため。そもそも、誰かを心の底から憎んだことがほとんど無くて、仮に憎たらしいと思っても何だか長続きしない。なぜかというと、僕には、相手が「なぜそんなことを言ったりやったりしたのか」を考えてしまうという、悪い癖(?)があって、上から目線のようで申し訳ないんだけど、結果的に相手に同情してしまうんだよね。僕や、僕と同様の精神構造をしている人間なら絶対やらないようなことを、なぜこの人はやってしまったのか。そこには何か深い訳があって、むしろこの人は気の毒な人なのではないか、というような。勿論命に関わるようなことであればそんな悠長なことは言ってられないけどね。
もう一つ、疑問に思うことがある。こういった人たちは、「自分がそれをしたら、その後どういう結果が待っているのか」を想像できないのだろうか、ということ。まあ、「衝動的」だから、そんなことを考えている余裕なんて無いのだろうけど、だとすればあまりにも大人げないと言えないだろうか。
そもそも大人になるとはどういうことだろうか。人は子ども時代に親から愛情を注がれ、養護されながら育つにつれて世界が広がっていき、それとともに他者との関わりも増える。そんな中で傷ついたり癒やされたりしながら耐性というものが身につくと同時に、他者の気持ちを理解できるようになり、優しさや強さが生まれる。並行して、学校という疑似社会のなかで、他者と上手に関わっていくノウハウや組織の中での責任感が養われ、いわゆる社会性が育っていく。やがては人間的に独り立ちし、自己肯定感とともに他者と折り合い、容認する能力も身についていく。キーワードは「自立」と「自律」かな。勿論実際にはもっと複雑だろうが、ざっとこんなところだろうか。だが、何らかの理由によってこのプロセスが大きく阻害されると、僕らが普通に考えているような大人にはなれない。以前は当たり前のようにできていたことだが、現代ではこういったプロセスを阻害する要因が山のようにある。その大半は育てる側(単純に「親」という意味ではない)の問題だが、差しさわりが多くて列挙できない。そんな時代だから子供じみた大人が増えてきたんだろう。こうした「大人になりきれない大人」たちが、また次の世代を育てていく。
「自分の都合」と「他人の都合」の食い違い、これは社会生活を営む上で避けては通れない問題だ。そこに折衷案を見いだそうと努力するのが大人なのであって、ネット社会でよく見られるように、味方を集めて主張を通そうとするのは子どものやり方だ。そんな現状に気付いている識者は少なくないはずだが、なぜかそういった人たちの主張は聞こえてこない。「大人しい(おとなしい)」と漢字で書けば一目瞭然だ。大人はむやみに自己主張しないから、その考えが表面化しづらい。上手くいかないなあ。
今回の事件に話を戻すと、普通に考えれば他人に対して殺意を抱くまでには長いプロセスがあるはずで、通常ならそのどこかで理性や洞察力が働くので、結果として実行には至らない。いや、むしろ殺意を抱くに至らないと言った方が良いか。しかし衝動的な事件ではそのプロセスを飛び越えて実行に至るから厄介だ。しかも最近では血気盛んな若者だけでなく、人生の達人であるはずの高齢者にもその傾向が見られる。となると、こうした傾向の「始まり」は相当過去にさかのぼるはずだ。
今ならまだ間に合うかも知れないが、このまま放っておいたら、次の世代は間違いなく、もっと訳がわからなくなると思う。そしてこの問題を何とかするのは、紛れもなく「大人」の仕事だろう。