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 レコードの復権

 レコードが再び注目されている。数日前、夕方のニュース番組で特集していた。往年のレコードマニアは勿論、若い人にもファンが増えているという。そういえばレコードショップやレコード売り場が以前より目につくようになってきたような気がする。

 番組では、インタビューを受けた若者が「パソコンを通してではなく、目の前にある『もの』から音が出ているので、アーティストとの距離が縮まったような気がする」と言っていた。ウンウン、意味はわからんけど気持ちはわかるよ。「レコードの方が音が良いような気がする」という意見もあった。これは理論的に正しい。また、ある女性などは、「DJを趣味とする父親の影響で、長年レコードに親しんできた」という。この人、「音が出るまでの手続き(操作)が好き」とも言っていた。これは僕もよくわかる。あれは音楽を聴くための、一種の儀式みたいなものだから。

 ところでそのあと、その女性が自宅でレコードを聴く様子がVTRで紹介されたのだが・・・えっ!?レコードプレイヤーに手を掛けて聞いている?しかも指でリズムを取っている?ダメだよそれは。絶対振動を拾ってるって。僕の知り合いの一人など、家の構造物から独立させて、ターンテーブル(レコードプレイヤー)を置くための土台をコンクリートで別に作ったぐらいだ。昔の超級マニアにはそういう人が多かった。これは通常の生活で生じる建物の振動をレコード針が拾わないようにするためだ。レコード針を含む「カートリッジ」というパーツはとてもデリケートな構造で、状況によっては2階を歩く振動を拾い、雑音として再生することだってあるんだよ。しかも過大な振動は針やレコード盤を痛めてしまうこともある。何しろレコード盤と針の物理的接触で音を出しているわけだから無理もない。

 それから、意外と無視されているのが、オーディオ機器の電源コードのプラスとマイナス。コンセントにプラスとマイナスがあるのを知っている人は増えてきたと思うけど(差し込み穴の長い方がマイナス)、コードの方はまだまだ意識していない人が多い。普通、電化製品、特にオーディオ機器の電源コードにはマイナス側に必ず何か目印が付いている。多くの場合、プラグそのものにアース記号が打ってあるとか(そうなんです、アースの働きもしてるんです)、マイナス側のコードに沿ってラインや文字がプリントされているとか(いろいろと複雑なので、詳しくはネットで検索のこと)。それを確認し、プラグを正しくコンセントに差し込むことで初めて、安全に本来の音質が再生できるわけだ。ただし、ここまで書いておいて何だけど、その音質の違いを聞き分けられる人はほとんどいないだろうとのこと。ごめんよぉ。でもノイズが減ったり、音の立体感が増したりするのは事実らしいし、安全面や気持ちの問題を考えても、大事なことだと思いません?

 というわけで、レコードを聴くなら、ハードウエアについてもしっかり学んでおいて欲しい。扱いを間違えると、本来の性能を生かせないばかりか、貴重なレコード盤やレコード針も痛めてしまうからね。

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 映画の中の食事(2)

 前回に引き続き、映画のなかで妙に美味そうだった場面や、これはちょっと・・・という食べ物を集めてみた。

 まずはヒューマン映画「グリーンブック(2018)」。時は1962年、演奏旅行中の黒人ピアニスト、ドン・シャーリーが、人種差別の色濃く残るケンタッキー州に入るやいなや、フライドチキンで歓待されるシーン。「ケンタッキーに来たらこれを食べないとね」というセリフからすると、本当に名物だったんだね。しかし、果たしてこの好意は真意なのか?それにしてもあんなに山盛りにされたら、美味しいものも美味しく見えないよなあ。

 バディものの「48時間(1982)」では司法取引のご褒美としてご馳走を期待したチンピラのエディ・マーフィーに、刑事役のニック・ノルティーが「ほら、今日のディナーだ」と自販機のスニッカーズ(だと思う)を投げてよこすシーンがある。思えばあれがスニッカーズを知るきっかけだったかもしれない。ついでに言うと、この映画には「ラップ愛好家」なるセリフが出てくるが、日本ではまだ音楽としてのラップが広まってなくて、「(食べ物を包む)ラップを、どうやって愛好するんだろう?」なんて思った記憶がある。

 サスペンス映画の傑作「夜の大捜査線(1967)」では、これまた人種差別の残るミシシッピ州の小さな町で、拘留中の囚人から情報を得るために、シドニー・ポワチェ扮する黒人刑事がハンバーガーの差し入れを約束する。現物は出てこないのだが、刑事が「タマネギも入れるんだろ?」と聞き、囚人が「わかってるじゃねえか」と嬉しそうに笑うシーンがある。会話が美味しそう。同じく現物は出てこないが、SFの金字塔「2001年宇宙の旅」の続編「2010年(1984)」では、木星の軌道上で宇宙船のクルーが、ヤンキースタジアムのホットドッグを懐かしんで語り合うシーンがある。「カラシは茶色か?それとも黄色?」「茶色」「そう来なくっちゃ」この会話も妙に美味そうだ。要するに辛い方が通好み、ということですね。確かに、そのへんで売ってる黄色いマスタードって、全然辛くないもんな。

 西部劇「リオ・グランデの砦(1950)」では、偵察か何かで疲れ切った騎兵隊員に、待っていた仲間が「これしかないんだ」と豆の缶詰を渡すシーンがある。あんなんで戦えるのかと心配になってしまう。もらった方も「豆かよ」なんてぼやいていた。何よりも舞台となる1800年代後半に缶詰があったことにびっくり。調べてみたら発明されたのは1810年(日本だと文化7年。江戸時代ですね)。日本でも1877年(明治10年)には量産が始まったそうだ。わりと早い時期からあったんだね。ちなみに缶切りが発明されたのは1858年。それまでは映画にもあるようにナイフを使うか、専用のノミや斧、時には銃で撃ったりもしてたんだってさ。一方「ワイアット・アープ(1994)」ではステーキを食べるシーンがやたらと美味そうだ。やっぱ金持ってるヤツは違うな、なんて思ってしまう。現実のワイアット・アープは結構汚く稼いでいて、1929年(昭和4年)まで生きていた。

 さて、アニメ映画では、まず「レミーの美味しいレストラン(2007)」に出てくる「ラタトゥイユ」をあげておこう。あの冷酷な評論家、イーゴの心を氷解させた思い出の味。何より盛りつけが素晴らしい。うちでも時々作るけど、見かけはまったく別の料理になっちゃう。そういえば映画の始めの方で、レミーが屋根の上で調理するキノコも妙に美味しそうだったなあ。どちらもちょっと食べてみたい。一方「ラマになった王様(2000)」では、レストランの「本日のスペシャル」として長さ50㎝はあろうかというダンゴムシが提供されていた。古代の中南米にあんなのがいたとも思えないが、その食べ方がまたすさまじい。どろどろの内臓だか身だかをストローで啜った後、残った殻をバリバリとかみ砕く。こっちは絶対食べたくない。

 次はホラー・サスペンス、「ハンニバル(2001)」。終盤で宿敵(?)に自分の脳を食べさせるシーンは置いておいて、ここでは映画のラストに注目だ。旅客機で逃亡中のレクター博士がディーン&デルーカ(※)のディナーボックスを開けた時、近くにいた子どもがじっと見ているので「どれが食べたい?」と聞くシーンがある。子どもが「これ」と指さしたのは、何かの脳みそ料理。レクター博士は「新しい味に挑戦するのは大事なことだね」なんて言いながら、口に入れてやる。直前に人間の脳を食べるシーンがあるので、勘弁してって感じ。

 最後は黒澤映画の傑作「七人の侍(1954)」に出てくる握り飯。ただの白い握り飯(時代背景から言っても、まだ海苔は出回っていない)なのだが、炊きたての白米の匂いまでしてきそうだ。この感覚がわかるのは日本人だけだろうねえ。

※ 米国の有名な高級食材店(現在は閉店)。映像で確認したところ、ボックスの中身はフォアグラ1切れ、ベルーガ(大粒)キャビアの小瓶、小さなタッパーウエアに入った何かの脳が3切れ、他にクラッカー3枚、ベークドポテトに見えるものが半個、各種フルーツ、チョコレートとおぼしきもの。ワインはシャトー・フェラン・セギュール(フランス・サンテステフの銘醸赤ワイン)の1996年(ハーフボトル)。ご丁寧なことに、これらの情報を克明に読み取れるカットがある。

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 「マザアグウス」子どもの唄

 前回最後に少しだけ触れた童謡集「マザーグース」。家にちょっと面白いものがあるので紹介したい。

 そもそも僕がなぜこんな古い書物を知っているのか。確かに有名な書物だし、初出は1780年ながら、現在でもいろいろな出版社から発行されてはいる。だが僕が初めてこの本を知ったのは幼少時、たまたまうちにあった古書を目にしたからだった。今その現物が手元にあるが、タイトルは「マザアグウス 子どもの唄」となっている。表記が何とも古くさい。ページを開いてみると、文章は全て旧仮名遣いだ。それもそのはず、奥付によれば発行は大正(!)14年12月15日。こういう本が何気なく存在するから、本好きの家系は恐ろしい。

 大正14年といえば今は亡き母が生まれた年だ。おそらく本好きだった母方の祖父が、娘に買い与えることを口実に半趣味で買ったのだろう。というのも、ハードカバーの、今でもきちんと開いて読めるほどしっかりした作りで、挿絵も海外の素晴らしいものが、そのページだけ紙質まで変えておごられている。定価が「貳圓五拾銭」というから、ある試算を基に計算すると、今なら7,000円ぐらい。子どもに買い与えるような価格ではない。むしろコレクター向けのものだったに違いない。だいたい子どもが512ページ(厚さ45㎜)もあるハードカバーの本を読む姿なんて誰が想像できるだろうか。

 背表紙のごく一部が破れてなくなっているのが残念だが、98年前の書物である事を考えれば、良く保っている方だろう。特に売却する気もないしね。ところで中身は純粋に西洋の童謡を和訳してあるだけで、前記したものの他にも、所どころに素晴らしい挿絵がちりばめられている。例の「ハンプティ・ダンプティ」はこんな訳だ。

 ハンプティ・ダンプティが塀の上、ハンプティ・ダンプティがすってんころりん。王様の兵隊とお馬を皆(みんな)くり出しても、ハンプティ・ダンプティをもとの通りにやできなかった。

せっかくだから、もう少し紹介しよう。まずは「ゴサムの三利口」。

 ゴサムの利口者三人が、丼鉢にのって、海へ行った。丼鉢が丈夫であったら、私のお話も長いんだが。

意味はおわかりですね。お次は「ジャックや、急用だ。」

 ジャックや、急用だ。ジャックや、かけろ。そこでジャックは蝋燭立てをとび越えた。

どうです、何とも言えない良い感じでしょう?長いからここには書かないけど、あの有名な「誰がクックロビンを殺したか」もこの童謡集で紹介されているんだよ。

 ちなみに「ゴサムの三利口」は、王様の道路建設用地に村の土地を取られるのを嫌ったゴサムの村の利口者3人が、視察に来た使いの者のまえでわざと愚かしい行動を見せつけて、王様をもっとましな土地を選ぶ気にさせた、という逸話がもとになっている。ところでゴサム(ゴッサムとも)とは本当にあったイギリスの地名で、後にアメリカの作家アービングが、ある記事でニューヨークを前述の逸話に照らしてゴッサム(衆愚の街)と記述したことがあった。このことから映画「バットマン」シリーズでは、本来ニューヨークであったバットマンの住む街を架空の都市ゴッサム・シティと設定したらしい。

 ついでにちょっといいですか?ついこのあいだ、WOWOWで「アラモ(1960)」という西部劇を見た。なにぶん古い映画なので、情報が欲しくて月刊「映画の友(廃刊)」臨時増刊「西部劇読本」を引っ張り出した。表紙には「1960年(昭和35年)10月号」とある。おまけに月刊「スクリーン」臨時増刊「西部劇特別号(昭和36年8月15日発行)」なんていうのもある(これも祖父のもの)。さらにちょっと悪ノリすると、「婦人生活(廃刊)6月号付録 今晩のおかず」では料理研究家の故土井勝氏が「茹でたスパゲティは冷水にさらして締めます」なんて平気で書いている。土井勝氏が悪いんじゃないよ、当時はこれが当たり前だったらしいから。何せ発行日は昭和36年6月1日(これは母のもの)。それから憶えているかなあ、以前に紹介した「駅弁パノラマ旅行」は昭和39年発行だった。僕の日常には、こういった書物が当たり前のように存在しているのですよ。ずっと昔から、ね。

春秋社刊 訳 松原至大 装丁 宍戸左行。この表紙絵は日本で描かれたものだろう。挿絵とは雰囲気がかけ離れている。
見よ、マザーグース婆さんの勇姿(口絵)! カラーはこの1枚だけ。
「ゴサムの三利口」のページ。実在する「ゴサム」の説明が・・・。
「ハンプティ・ダンプティ」。同様のモノクロ挿絵が全部で5枚ある。
このクオリティ。多分原画はどれも彩色。カラーで見たかったなあ。文字ページとの紙質の違いがわかるだろうか。(「マフェットお嬢さん」)
文字ページにも挿絵がたくさん入っている。これは「駒鳥のお葬式(誰がクックロビンを殺したか)」のページ。

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 時間差と情報量の問題

 どこぞのコラムニストが、ネット上でJリーガーの容姿を中傷したとかで炎上したそうだ。やれやれ、またかいな。いつも言っていることだが、ネットでの発信には相当な注意が必要だ。特にレス(ポンス)に時間差があることは十分配慮すべき問題だ。これが普通の会話だったら、発信者のコメントを遮って「その言い方は誤解されるぞ」などと意見することも可能だろう。もしかしたら、発信者自身もそれを聞いてコメントをあらためるかもしれない。それがリアルタイムのコミュニケーションというものだ。だから会話しているなかで、主張がより適切なものになっていく可能性がある。だがネット上ではほとんどの場合、主張は全て書かれるか撮影されるかしてからUPされる。この場合途中で他人の意見が反映される機会はないから、レスが返ってくるまでそれを見た人たちがどう受け止めたかわからない。修正の機会がない以上、全ては発信者の良識にゆだねられることになる。そしてご存じのように、最近のネットユーザーにはその「良識」が欠如している人も少なくない。

 ネット上では、長い文章はあまり歓迎されないそうだ。最近のネットユーザーは長い文章を読むのも書くのも苦手だからだ。だからほとんどのネットユーザーはツイッターに代表される短文のアプリを使う。だが他人に何かを伝えようとする時に、特に誤解を避けようとすればなおさら、十分な説明のためにそれなりの長さの文章が必要だ。これは言葉によるコミュニケーションでも同じ事だが、対面なら表情や身振り、言葉の調子などで補うことができる。だが文章だけのやりとりではそれもできない。ましてや短文では主張を正しく言い尽くせるとは思えない。もともと真意が伝わりにくい短文でのやりとりを良識的な配慮もなしに行ったとしたら、結果はそれこそ火を見るよりも明らかだろう。

 以前にも書いたが、ツイートとはつぶやくことだ。人がつぶやく理由は、その他大勢、特にその対象者に聞かれたくないからだ。それを不特定多数の人々が閲覧可能なネット上に書き込むこと自体、大きな矛盾だと思う。僕はこのブログをエッセイのつもりで書いているが、原稿をUPするまでには最低でも5回、多いときは10回以上の推敲を行っている。しかしそれでも不安は残る。本を出版するのとは違い、ネットには「編集者」という、他人の目を介してのチェック機能がないからだ。おかげで何度推敲しても納得がいかず、UPするタイミングを失したり、内容がふさわしくないと判断したことで、ネットへの掲載を諦めたものもいくつかある。そもそも本にして出版することとネットにUPすることでは、まったく次元が異なる。同じように、気心の知れた友人間の会話程度の意識で、ネット上に自分の意見を書き込むべきではないと思う。読む側はあなたをまったく知らない人たちなのだから。

 ツイッターやインスタグラムを使うユーザーは、その場で感じたことをリアルタイムで書き込むことが多いようだから、勿論十分な推敲などしていないだろう。年齢が若いと、周囲に友人などがいても同じテンションで火に油を注いでしまう可能性が高い。それを何気なくUPする。もちろん、差しさわりのない内容ならそれでもいいだろう。しかし、時にその内容は、今回取り上げた例のように何気なくUPして良いようなものではないかもしれない。そしてそれは発信者の知らない間に、その意図にかかわらず拡散する。そうなったら状況はもうもとには戻らない。ハンプティ・ダンプティだ(※)。前述したように、レスは時間差でやってくる。そこで初めて、発信者は何が起こっているのかに気付くのだ。

※ ヨーロッパの古い童謡集「マザーグース」に登場するキャラクターの一人。挿絵では擬人化されたタマゴの姿で描かれる。ずんぐりした体型や、危うい状況を意味する。

「ハンプティ・ダンプティ、塀の上に座った ハンプティ・ダンプティ、すってんころり 王様のお馬や兵隊がいくら繰り出しても、ハンプティ・ダンプティをもとに戻せなかった」

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 運転、するかさせられるか。

 カミさんが車を買い換えた。前の車は十数年乗り続け、走行距離も18万キロに近い。車種はトヨタのNOAH。新しい車はその新型だ。とうに付喪神がついているであろう旧NOAH様は大きなトラブルもなく、長いあいだ家族に貢献してくれたが、最近オートマの感触に微妙な異常が生じ、始動時の音も以前に比べて大分危なっかしくなっていたので、こればかりは仕方がない。言うなれば大往生だ。そんなわけで、廃車になることはわかってはいたが、最後の日にはいろいろな意味を込めて車体や室内を綺麗にしてやった。

 さて、久々に新車を購入するにあたって驚いたことがある。この十数年での技術の進歩というのか、「使用上の注意」の説明を何とほぼ1時間にわたって聞かされたのだ。率直な印象は「こりゃ最新家電だな」というものだった。さらに聞いたこともないような安全装備が満載だ。何しろABSの説明で、やっと知っている略語が出てきたぞ、という感じだったもんな。さらに「視線を前方からそらすと警告されますよ」であるとか、「白線からはみ出すと警告されますよ」であるとか、とにかく気を抜くと車に叱られるらしい。そしてさらにさらに、ナビがやたらと情報を提供してくる(最新ニュースって何だよ)。人によっては便利なんだろうけど、僕みたいなタイプには少々うっとうしい。おまけにフロントガラスに現在のスピードと制限速度、それに何とかと何とか(いまだによくわかっていない)が表示される。だがちょっと待て。おお!何とこれは、かの松本零士氏が涙を流して喜ぶであろうヘッドアップディスプレイではないのか!?確かこのシステムと同じものがWWⅡ時、メッサーシュミット(ドイツの戦闘機)の照準器に使われていたはずだ。松本零士氏のコレクションの展示会で実物を見たことがある。ここに来てやっとお互いに理解し合えそうな気がしてきたぞ、新NOAH君。ところで機銃の発射スイッチはどこにあるんだい?

 実際に走ってみて思うのは、車を運転している実感があまりないことだ。ハイブリッド車を選んだので、エンジン音で車の状況を把握できないのもちょっと物足りない。それでいて気を抜くと叱られる。ピーだのピッピッピだのと、いろいろな音がするのでどの音が何を警告しているのかよくわからん。これじゃあまり意味が無いな。おまけにやたらとしゃべるし。ハル9000の自己認識機能を命がけでカット・オフしたボーマン船長の気持ちがよくわかる(※)。結論を言うと、車を自分が走らせたいように走らせるというより、車の要求に従って運転「させられている」という感じだ。うーん、これも時代か。

 話は変わるが、昨年12月からどうもクーペ(プジョー406)のミッション(オートマ)の調子がおかしい。ディーラーに相談すると、乗らない方が良い、という。では部品取り車のミッションは使えるかと聞くと、7年放って置いたミッションは信頼性に欠けるとのこと。何十万円も掛けて載せ替えても、すぐに乗れなくなるのでは割に合わない。実は僕にとっては、新車で購入して23年間乗り続けているセダン(こちらもプジョー406)の方が思い入れがあるので、クーペは思い切って処分しようかと考え始めている。そしてその後は406スポーツ(マニュアル)を探そうかな、とも。30年以上オートマに乗ってきたが、このへんでもう一度、車を運転ならぬ「操縦」してみたい、という気持ちが頭をもたげてきたということもあってのことだ。それにマニュアルのミッションなら故障も少ないし、将来アクセルとブレーキを踏み間違えるようなことがあっても致命的な状況にはならない。せいぜいエンスト(死語?)するぐらいだ。そんなことを考えていた矢先だったから、新NOAH君の過剰な貢献(?)ぶりによって、406スポーツへの気持ちがさらに高まったことは言うまでもない。僕の方の車事情も、そろそろ真剣に刷新を考えるときが来ているようだ。

※ 映画「2001年宇宙の旅」で、木星探査船ディスカバリー号のコンピューター、HAL9000が人間に対して反乱を起こしたときに、船長が宇宙船の運航に必要な最小限の機能以外(自己認識回路、言語中枢等)をカット・オフするシーンがある。

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 引き寄せる・・・?

 久しぶりに保険屋さんが来た。憶えてます?黒のボルボに乗り、霊感のある知り合いがいて、よく変な食材を持ち込んでくる(最近ないな)、あの人です。今回は貸し付けの制度について聞きたいことがあって来てもらったんだけど、たまたま心霊現象の話で盛り上がっていたときに(え?貸し付けの話は?)宅配便が届いた。ドアチャイムの音でえらくびっくりしたみたいで、「鳥肌が、鳥肌が」と大騒ぎだったんだけど、届いた品物は別に奇怪なものではなくて、送り主もオフ・モールというんだったかな、要するに大手のリサイクルショップ。で、届いたのが中古の榴弾砲のプラモデル。マニアの方のために詳しく言うと、タミヤ1/21アメリカ155㎜M2GUNロングトム(第2版1966年発売)という代物。優先順位の関係で、当時は結局購入せずに終わっていた。このプラモの箱絵がかっこよくて、いつかは手に入れようと思っていたんだけど、なかなかモノがない。たまたま去年ネットで見つけたものは箱が壊れていて、それでいてなぜか値が高い。そんなわけでこれは見送って、その後ずっと忘れていたんだけど、つい最近久しぶりに別の件で検索したら、そのオフ・モールとかいうショップに青天の霹靂のようにUPされていた。長いこと利用しているのに、このキットを見るのは初めてだ。何だかすごいタイミング。説明書欠損、ゴムタイヤに劣化があったが、それが故に相場より安く、箱はほぼ無事なので、思わず購入してしまった。それが今日、届いたわけだ。

 保険屋さん、始めはあきれ顔で話を聞いていたが、箱絵を見てその力量に気付いたようだ。「プラモって、こんなにリアルな絵を使ってたんですね。写真みたい。」確かに、この絵を描いたのは箱絵の第一人者、高荷義之画伯だから、鉄の質感の表現などは文句なしのレベルだ。だが正直なところを言うと、時々デッサンが狂っていることがある。僕は絵描きの端くれであるから、そういった箱絵は敬遠するのだが、この「ロングトム」に関してはとても良い出来だ。箱の平面寸法はおよそ390㎜×185㎜。わりと大きい。それが当時500円。なんて良い時代だったのだろう。ただし、このことが直ちに、当時の子どもが易々と購入できたことを意味するわけではないんだけどね。たとえば1958年生まれのあるプラモオタクライターに言わせると、小学生の時の小遣いは1日10円だったそうで、このプラモを買うには単純計算で2ヶ月弱を何も買わずに過ごさなければならないことになる。友だちづきあいを考えると、そんなことは不可能に近い。何しろ当時の小学生は外遊びの最中に駄菓子屋に寄り、きな粉棒だのよっちゃんイカだのファンタだのを購入するのが常だったからだ。そんなわけで、いかに500円といえども、結果的にクリスマスや誕生日、あるいはお正月(お年玉)を待つことになるのだった。

 保険屋さんは女性ながらプラモデル(車)を何度も作ったことがあるという変わり種の人なんだけど、このキットとの巡り合わせについて、「ホントに、滅多にお目にかかれないのに、久々に検索したら、それを待っていたかのようにそこにあったんだよね。」と話すと、「なるほど、引き寄せたんですね。」とつぶやいた。引き寄せる・・・?そうだった。この人、そっち方面にも造詣が深いんだっけ。うん、何となくニュアンスはわかる。実はこうした経験は1度や2度ではない。何年かぶりにダメもとで検索した商品が、1回でヒットして「残り1点、お早めに」だったりしたことも何度かある。そんな状況にぶち当たったときに、人は「ああ、引き寄せたな」などとつぶやくのだろう。勿論偶然なのだろうが、100回検索しても当たらない人は当たらないらしいから、「そうか、引き寄せたのか」と思って幸せな気分に浸っている方が精神衛生上も良さそうだ。だから今では、素直に「僕は多分引き寄せる力がほかの人より強いんだろう」と考えることにしている。

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 サンドイッチと鯛焼きの尻尾

 以前何かの記事で読んだんだけど、外国人観光客にはコンビニの弁当やサンドイッチが不評なんだって。「えー、サンドイッチなんて、結構美味しいのに・・・」と思いつつ読み進めていくと、どうも味の問題とかじゃなくて、たとえばサンドイッチについては「表の断面は具がいっぱい詰まって見えるのに、裏側は尻つぼみでごまかされた気分になる」ということらしい。じゃあ、弁当はどうかというと、多少上げ底になっているのが気になるんだそうだ。でもあれって、樹脂の容器に詰めた温かいご飯が冷めるにつれて出てくる水分を逃がす工夫でもあるよね?その証拠に、全面が上げ底というわけではなくて、周囲が雨樋のように余分な水を逃がす(ためる?)構造になっていたりする。昔はご飯をわっぱに詰めて、素材の木に水分を吸わせていたようだけど、樹脂の容器じゃそうはいかないもんね。要するに米が主食の文化ならではの工夫なんだろうけど、どうもパン食で合理主義の欧米人にはそのへんが理解できないらしい。サンドイッチについては説明がもっと面倒だ。

 日本には鯛焼きという軽食(?)があるが、大分前に「尻尾にも餡を入れるべきか?という論争があった。あの時は「最後は口直しとしてさっぱりと皮だけを食べる、そのために尻尾には餡を入れない」という考え方と、「みみっちいことは言わずに尻尾まで餡を入れた方が贅沢で良い」という考え方が真っ向からぶつかった。どう結論が出たかは定かではないが、今売られている鯛焼きを鑑みるに、「尻尾まで餡」派に軍配が上がったんだろうなあ。実を言うと僕は「尻尾は皮だけ」派なんだけど。

 「お口直し」の文化はどちらかというと感覚的で、とても日本的だと思う。たとえば寿司屋で大トロを食べた後、あがり(お茶ですね)を飲めば、魚の脂肪は融点が低いから、綺麗に洗い流されて口の中がさっぱりするし、同じような意味でガリを囓るという手もある。実はフランス料理の世界にも「口蓋洗浄」なる用語があって、これは食事の最中に新しいワインのボトルを注文したときなどに、そのワインの味を確かめるために水またはパンを飲食することで口蓋(要するに口の中)を洗浄して、前に食べたものの後味を消し去ることを言うんだな。やってることは似てるのに、どちらかというと理論的。それを考えると、ハムサンドなんかを食べた後、タマゴサンドに移る前にパンの割合が多い部分を食べることで同じような効果が期待できる・・・事も無いか。そもそもサンドイッチって、口蓋洗浄が必要なほどの料理でもなさそうだし。1パックまとめて頬ばれば、何はともあれミックスサンド、なんちゃって。何だか理屈が破綻してきたな。

 いずれにせよ、フレンチのコースディナーの後にこってりしたデザートを食べるような文化からすれば、日本の「お口直し文化」は理解できないかもしれんよなあ。でも僕なんか、コンビニのサンドイッチを食べて「ごまかしだ」と思ったことは一度もない。だいいち、今の体裁は具もこぼれず食べやすいし、手も汚さずに済む(多分それもねらいの一つ)。家で作ってもだいたいあんな感じになるし、全体のバランスで言っても、具が少ないと感じることはほとんど無いなあ。

 結論から言って、コンビニのサンドイッチや弁当のパッケージにはそれなりの工夫がなされているわけだから、文化論は置いておくとしても、ちゃんと説明した方が良いような気がする。ホント、誰か言ってやってくださいよ(テメーで言えってか?)。

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 プラモデルの箱絵

 長いことご無沙汰してしまった。昨年下の娘が就職したんだけど、これが不定期休の仕事で、クリスマスも餅つき(カミさんの実家でやる)も正月も今までとは大分勝手が違ってしまって、てんてこ舞いしてたものだから、文章を思いつく暇もなかった。やっとここに来て、一つの話題ができたので久々にペンを取った(実際にはパソコンを開いた、という感じか?)。

 昨年の夏、ひょんな事から高校時代のことを思い出して、変にセンチメンタルになってしまったことがあったが、この冬はなぜか昔のプラモデルが恋しくてしょうがない。正月といえば、お年玉を握りしめてプラモ屋さんに走るという遙か昔の記憶が、今になって鮮明に思い出されてきたのだ。そんなノスタルジックな感覚の、今回のきっかけはアニメではなく映画。「頭上の敵機(1949)」と「眼下の敵(1957)」だ。どちらも戦争映画だが、古い映画なので現代のように戦争の実体をリアルに再現するというよりは、戦争という極限状態のなかでの人間ドラマを描いている秀作だ。この2本は、なぜか僕の精神構造のルーツとなっていて、自分を取り戻したいときによく見る。今回で言えば娘たちが二人とも独り立ちしたことによって、長年続いてきた年末年始のルーティーンに変化を余儀なくされたことが、この2本の映画を引っ張り出してきた理由の一つになっていると思う。そしてさらに、このことが呼び水となって、長年ため込んだ古いプラモデルに手を出すことにもなったわけだ。ただしそれは単に「映画に出てくる爆撃機のプラモデルを作ろう」などという単純なことではなくて、「その映画を初めて見た頃のプラモデルについて調べ直そう」といった、実にマニアックな作業から始まったのだった。こうなると、一時期美術教師だった僕としては、「箱絵」に言及しないわけには行かない。

 前にも書いたように、僕は美術の専門教育を受けていて、それなりの美大に合格するだけの技能は持っていた。その技能習得の大きなきっかけを作ったのが何とプラモデルだったのだ。と言ってもプラモデルそのものではなく、その「箱絵」なんだけどね。僕は小学生の頃からその箱絵を模写するのが好きで、鉛筆画オンリーだったけど、今思えばあれは良い修行になったなあ。

 当時の子どもたちにとって、箱絵は単なる完成予想図ではなく、その商品のもととなった戦車なり戦闘機なりが、往時にどんな活躍をしたかを実感させるドラマまでも描き出していた。当時箱絵の第一人者と言えば、挿絵画家の小松崎茂やその弟子である高荷義之などが代表格で、その後に上田信や大西雅美といった作家が続いた。今では「ボックス・アート」というジャンルまで生まれ、画集が出版されたり原画展が催されたりしている。いわゆる芸術作品ではないが、ある意味その枠を越えた自由な演出や揺るぎない技術力に裏打ちされた説得力は他に類を見ないものだ。僕も出版された画集はほとんどもっているが、それらに寄稿した人々が口を揃えて言及するのが、昭和という時代に生きた子どもたちがもっていた夢や憧れについてだ。文面から察するに、執筆者の誰もがあの時代を懐かしく思い、帰りたがっているように思える。欲しいものを買うためになけなしの小遣いを貯めたり、首を長くしてクリスマスや正月を待ったり・・・。勿論ついに果たせずに終わる夢もある。当時プラモ屋さんの高いところにつり下げられていて、触ることすらできなかった高額なキットもあったし、今では見つけることすら困難で、例え見つかったとしてもコレクターズアイテムとして法外な値が付けられていたりするものもある。そういった意味では昔も今も状況はあまり変わらない。

 「還暦」という言葉がある。人は歳をとると子どもに返るという。以前は「もうろくして子どもみたいになることを言ってるんだろう」ぐらいにしか思っていなかったけど、最近考えが変わってきた。近頃どうも怪しくなってきたが、少なくとも当時の僕たちは親の庇護のもと、屈託のない子ども時代を送った。そんなプラモ好きの子どもにとってもっとも身近だった美術作品こそがボックス・アートだったわけだが、ある画集に寄稿した平野克己氏(カー・マガジンライター、モデル・カーズ編集長。現在はフリー)は古いプラモデルについて「ボックス・アートは懐かしき時代への郷愁と追憶のタイムマシーン」とまで言っている。そしてまた、「人生の垢のようなものを洗い流してくれる」とも。勿論ボックス・アートが人生の垢を洗い流してくれるわけではなくて、人生の垢にまみれる前の自分を思い出させてくれる、という意味だろう。それこそが今僕の思う「還暦」の意味なのであって、ボックス・アートの作家たちも、まさか自分たちの描いたプラモデルの箱絵が、今になってこうまでクローズアップされるとは思ってもみなかったに違いない。しかも単なる美術品としてだけではなく、人の心に関わる一つの文化として捉えられているのだから。

 そんなわけで、正月明けからタミヤの1/25パンサーA(リニューアル版、1972年発売)を作り始めた。そんな古いプラモデルを作ってしまうのはもったいないって?良いんです。ラジコン搭載の復刻版だから。当時ものは別にもってるし。でもねえ、去年の夏といい、この正月といい、何だか「昔は良かった症候群」に罹っているようで、何とも先行き不安なんですけど。

 参考文献 学研「小松崎茂と昭和の絵師たち」(復刻版)  

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 どうしても毎年見ておきたい光景

 今年、3年ぶりに秋田の大曲花火大会が催された。例によってNHKが中継した。せっかくの花火大会だったが、風が無かったのか、煙に遮られてその全容をとらえるのはちょっと難しい状況だったようだ。でもね、本編とは別にどうしても見ておきたい光景があるんです。それはフィナーレのあと、客席のペンライト(あるいはスマホライト)と、川を挟んだ対岸の花火師たちが振る赤い発煙筒の「エール交換」の様子だ。いつから始まったのか、詳しくは知らないが、「見せてくれてありがとう」「見てくれてありがとう」という意味がこもっているらしい。これがなかなかに感動的。今年は3年ぶりということもあって、5分間にわたってエールの交換が行われていたが、よりによってゲストに情にもろいギバちゃん(柳葉敏郎)なんか呼んじゃったものだから、彼、涙でボロクソになっていた。でも、TVのこちら側で見ていても目頭が熱くなるんだから、現場にいたら無理もないか。

 もう一つ、紹介しておきたい。それは毎年正月に、これまたNHKが中継する「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」だ。最後のアンコールで、毎年定番の「青く美しきドナウ」と「ラデツキー行進曲」が演奏されるのだが、この時、クラシックの演奏会では考えられないことが起こる。まず「青く美しきドナウ」では、オーケストラがイントロを演奏する。すると演奏中にもかかわらず、客席から大きな拍手がわき起こる。演奏は一旦中断され、オーケストラから新年の挨拶が・・・。その後、あらためて演奏が始まる。そしてこれに続く「ラデツキー行進曲」では、さらにすごい演出が待っている。何と指揮者は登場しながら、つまり指揮台に向かって歩きながら指揮を始め、客席から演奏に合わせて手拍子が加わるのだ。指揮者は指揮者で、楽士たちをそっちのけで客席を向き、観客の手拍子のタイミングや強弱を指揮している。楽士も観客もみんな笑顔。この手拍子はその年の指揮者によってパターンが微妙に異なっていて面白い。まさに会場が一体となって盛り上がる。最後は当然のごとく全員がスタンディングオベーション。拍手が鳴り止むこと無く中継終了。長年親しんできたプログラムなので、最近はもうなんか、これだけ見られれば良いやって気もしてきた。まさに本末転倒。でも、大曲の花火大会といい、ニューイヤーコンサートといい、現場に出向いている人のなかにもそういう人っているんじゃないの?・・・そんな気がする。これはねえ、有名なデザートを食べるためにとりあえずそのレストランのフルコースをオーダーする、そんな行為と似ていると思います。つまり、「アリ!」ということで。

追記 「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」は中継だと元日の夜10時頃、多分ETVかBS。後日再放送もする。放送時間が長いので録画して見ることをお勧めします。

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 映画とクリスマス

 映画とクリスマス、といっても、いわゆるクリスマス映画はすでにネットで散々紹介されているので、ここではクリスマスがストーリーの背景であったり、クライマックスがクリスマスであったり、ついでにアメリカのTV映画であったり、そういった映画を紹介してみたい。

 まず最初に「素晴らしき哉、人生!(1946)」。人情話を撮らせたら右に出るものはいない往年の名監督、フランク・キャプラの作品。仕事で不幸に見舞われ、自殺を図った主人公(ジェームズ・スチュワート)が、下級天使の助けを借りて何とか立ち直るお話。その日がちょうどクリスマス・イヴだった。なかなか凝った作りで、名作ですね。この映画は2016年にウィル・スミスを主役にリメイクされているが、仕掛けはオリジナルの方が上だな。

 次に「めぐり逢い(1957)」。船上で出会い、結婚を約束した男女が半年間の準備期間の後、再会することを誓い合う。その場所というのがエンパイア・ステートビルの展望台。ところが運命に翻弄されて約束は叶わず、その二人が最後にやっと再会できたのがクリスマスだった、という、傑作メロドラマ。主演はケーリー・グラントとデボラ・カー。これは母が大好きだった映画で、TVの洋画劇場などで何度も見ているうちに、自然と好きになってしまった。さらに言うなら、次に紹介する「めぐり逢えたら」のネタとなった1本でもある。

 「めぐり逢えたら(1993)」は、先に述べた「めぐり逢い」が大好きで、「あんな恋がしてみたい!」と憧れていた若い女性が、あるクリスマスにひょんな事から知った男性との恋に人生を賭けるお語。存在を知ったとはいえ、会ったこともない(一度だけ目撃している)のに、気持ちばかりが高揚して、初めて会うために選んだ場所がエンパイア・ステートビルだった。女性が婚約者を放ったらかしにして駆けつけたときには展望台は閉まった直後だったが、「めぐり逢い」を知っていた老警備員の粋な計らいで無事会うことが出来た。運命の二人を演じるのはトム・ハンクスとメグ・ライアンのゴールデンコンビ。

 古いものばかりを選んでしまったが、新作にもこの手の映画は結構ある。ただし、「クリスマス映画」というよりは「クリスマスに関わる映画」と言ったほうが当たっている気がする。人間ドラマが主体なので、サンタが出てくる類いのクリスマス映画だと思って見るとがっかりしますよ、という意味だ。もっとも、「素晴らしき哉、人生!」にはオッサンの天使が出てくるけどね。言えることは、やはり欧米ではクリスマスは「何かが起こる」時なんだろう。言い換えれば、制作側にとっては何かを起こしやすい時とでも言うのかな。

 それを逆手にとって、なかにはそれがクリスマスの奇跡なのか、それともただの偶然なのかをあえて曖昧にして、見る側にその謎解きを楽しませてくれるような仕掛けの映画もある。「34丁目の奇跡(1994)」がそれで、リチャード・アッテンボローが自称サンタの老人を演じた(「ジュラシック・パーク」のハモンド社長を演じた人ですね)。この映画はそれなりに有名なので知ってる人も多いと思うけど、実はリメイク。オリジナルは1947年制作のモノクロ映画。日本ではこちらは「三十四丁目の奇跡」と漢数字で表記し、区別している(後付けのカラーバージョンあり)ようだ。ラストでニューヨーク州の法廷がなんだかんだとこじつけて、サンタの実在を宣言してしまうあたり、やっぱりアメリカだなあ、なんて思ってしまう。ただし、古き良き時代のアメリカね。

 探してみるとマイナーでも良いクリスマス映画はたくさんある。なかにはTV映画で「間違いだらけのクリスマス・キャロル」なんてのもある。これは有名なチャールズ・ディケンズの小説「クリスマス・キャロル」のパロディ。2000年代にWOWOWで1度だけ放送された。安手の作りながらなかなか良い出来だった。多分今は海外のサイトでしか見ることができない。録画しておいて良かった・・・!何しろ現代のアメリカに(ジェイコブ・)マーレーの幽霊が(ボブ・)マーリーの格好で出てくるんだから困ったもんだ。容貌の違い(ジェイコブ・マーレーはイギリス人、ボブ・マーリーは実在のレゲエ歌手でジャマイカ人)を問い正されると、「爺様が昔、外国の女性と悪さしてさ・・・わかるだろ?」だってさ。

 TV映画といえば、ピーター・フォーク(刑事コロンボですね)がサンタっぽい天使を演じた3本のシリーズも良かった。「25年目のハッピークリスマス(2003)」「天使が街にやってきた!(2004)」「最高の贈り物(2005)」というタイトルで、これも「間違いだらけのクリスマス・キャロル」と同じ頃にWOWOWで放送された。確か、「発掘シネマ」の「ハッピークリスマス特集」という枠だったと思う。どれもTV映画なので、ディスクなどは存在しない。昔のWOWOWは頑張ってたよなあ。最近は海外ドラマばっかりで、こうした粋な計らいが見られないのが残念だ。もっとも、TV離れ、映画館離れの進む現代では、こうした企画も無用の長物かもしれないけどね。

追記 「間違いだらけのクリスマス・キャロル」は原題「Karroll’s Christmas」で検索のこと。他の3本は邦題で検索。日本のウィキペディアにデータがある。