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 セカイノオワリ

 ネットで読んだ話。原宿だかどこだかで、新しいコンセプトのカフェがお目見えした。なんでも「友達カフェ」とかいって、店員さんが客に対してみんなタメ口(ぐち)で対応するそうだ。それどころか、友達を演じてくれるというんだからびっくりだ。店に入ると店員さんが、「久しぶりじゃん」なんて言ってくれる。これが好評なんだって。

 遙か昔、遠い銀河の彼方のアキバ帝国で、入店すると「お帰りなさいませ、ご主人様!」とか言ってくれるお店がその勢力を広げ、後に「お帰りなさいませ、お嬢様!」なんて言ってくれる店まで現れた。こうした店が大繁盛していると聞いた時は「世も末だな」と思ったもんだが、よく考えてみれば、歴史の古い「スナック」や比較的新しい「ホストクラブ」などもこの部類だろう。基本的に男女の交流をポジティブな形でバーチャル体験している、つまりそういうことだよね?それがいよいよ、お友達までバーチャル体験で間に合わせることができるようになったわけだ。そうか、世も末だと思っていたら、すでに世界は終わっていたのだな。

 この記事を読んで、僕の脳内で一つリンクした話題がある。それは「バカの壁」等の著作で有名な養老孟司氏の主張だ。僕はNHKの「養老先生 ときどきまる」という番組が好きで、いつも「養老先生」という言い方をしているのだが、その先生が、著書の中で特に強調している「身体で学ぶ」という言葉が浮かんできたのだ。

 先生曰く、世の中は「情報」に満ちあふれていて、人間まで「情報」として捉えようとしているという。情報なら脳だけで処理できるからね。でも、人間は単なる情報ではないし、一般論的な「人間とは何か?」という情報を処理できたとしても、一個人となると正確に情報化することは不可能だ。なんとなれば情報量が多すぎるし、人間は刻々と変わっていくからだ。それを手軽だからと言って、変換可能な範囲で情報化して、それを処理しようとしても、そりゃあ無茶ってもんですぜ。そんでもって、処理できない(=わからない)から得体の知れないHow to本なんかが売れまくる。例えば「上司と上手くやる方法」という本があったとしても、その本が想定している上司はあくまで「上司とは何か」という情報であって、読者が対峙している生身の上司とは食い違うこともたくさんあるはずだ。それ以上は現実に上司と相対して、感覚で覚えていく(つまり身体で学ぶ)しかない。勿論ある程度時間もかかる。だけど今の若い人はその時間を辛抱することができず、さっさと転職していくそうだ。

 バーチャルって、確かにお手軽ではある。でも現実と比べればそれを構築するための情報量なんて取るに足らない。何かの判断材料とするにはあまりにも脆弱だ。しかも現実は刻一刻と変化する。人間と同じだ。その書き換えは自分で実地に行うしかない。感覚を駆使して、現実の世界でだ。それを面倒に思ってバーチャルに依存するなら、いつまでたっても「本物」は手に入らないと思った方がいい。

 お友達カフェの店員はすべて演技・演劇の経験者。エンタメ業界の経験者もいるらしい。メニューも凝っていて、「何だっけ、あの丸いお菓子の・・・」という名前のクッキーとかが並んでいる。注文するだけで自然な会話が成立する脚本のようなものだ。遊びに行くのにはいいだろうし、ある意味体験型の演劇と言えないこともない。だが心理的にどっぷり浸かってしまったら・・・これはちょっと怖いよなあ。