夏の終わり
僕のように、生徒としての学校生活が終わった後も、教師として学校という場所で生活し続けた経験のある者にとっては、8月の末は大人になっても特別な意味を持っている。つまるところ、8月の終わりは夏休みの終わりでもあるわけで、子供だった頃に誰もが抱いた「ああ、学校が始まってしまう」というあの切なさが、「ああ、定時で帰れて、しかも有休を取りやすかった期間が終わってしまう」という形でよみがえってくるのだ。
そんな僕にとっては、温暖化によって9月になってもまだ夏、というような昨今の状況があっても、やっぱり夏休み(の期間)の終わりはイコール夏の終わり。でも考えてみると、夏休みの話は別としても、この時期にセンチメンタルな気持ちになるのは誰でも同じらしくて、その証拠に巷に流れるJポップを聞いていても、夏の終わりの感傷的な感情を歌った楽曲って結構多い。
そんな夏の終わりに、今年は台風10号が日本列島付近を1週間近くもうろうろしたりなんかして、この大事な期間を台無しにしてしまった。まったくもって忌々しい。いつもなら次第に少なくなっていくツクツクボウシの声を聴きながら、入れ替わるようにして鳴き始める秋の虫たちの声に耳を傾け、季節の移ろいを感じたりするところだが(と言っても最近は7月からミンミンゼミもツクツクボウシも秋の虫も同時に鳴いていたりするんだが)、これでは行く夏を惜しんで感傷に浸ることもできないではないか!と、台風の進路予想図をにらみながらそんなことを考えていた時、ふとあることに気づいた。
「夏の終わり」。この言葉は普段の生活の中でも、「もう夏が終わっちゃうね」であるとか、「今年の夏は何もせずに終わってしまったな」などというように、あまり意識せずに使っているけれど、よく考えてみると季節の中で「終わる」のは夏だけかもしれない。例えば「春が終わる」「秋が終わる」といった表現はあまり使わないような気がする。
春や秋は大抵の場合、終わるというより、次の季節がやってきて徐々に取って代わられるイメージだ。冬については「長く厳しい冬が終わり…」などと言う場合もあるけど、「夏の終わり」ほど一般的ではなくて、むしろ冬の厳しい地域限定という気がする。つまり四季のなかで夏だけが、日ごろから季節の終わりを妙に意識されているということだ。なぜ夏は、こうも特別なんだろうか。
これは誰でも思うことだろうが、その理由はまず第一に、夏に感じる強い生命力。ことに植物が猛暑、酷暑と表現されるような強い日差しの中で生い茂るさまは、人間の領域さえ凌駕しかねない力強さを感じさせる。さらにそれをたたえるかのように響き渡る蝉の声、そして輝きながら湧き上がる入道雲。自然のそんな様子を見ていれば、人間の意識も少なからず高揚するだろう。こうした高揚感は、他の季節にはないものだ。そして盛夏を過ぎると、それは目に見えて衰えていく。
もう一つ、これは僕の個人的な考えだが、夏休みの記憶というものが、人にとっての夏を特別なものにしているのではなかろうか。おそらく日本人で夏休みを経験したことのない人はいないだろう。しかもその始まりと終わりは暦の上で明確に線引きされた、言うなれば日常と非日常の境目みたいなもので、実際夏休み中には、お盆がらみの家族旅行などのほかに、夏祭りや花火大会といった催しも目白押しだ。盆や祭りといえば先祖の霊や神様とかかわる機会でもある。まさに非日常。
考えてみると、子供にとっては夏休み自体が非日常的なイベントみたいなものだ。そしてイベントには必ず終わりがあり、子供たちは日常に戻っていく。この特別なイベントの終わりを惜しんだ少年時代の記憶が、夏の終わりを特別なものにしているとは考えられないだろうか。
今年も夏が終わる。今は心寂しい限りだが、夏は来年もやってくる。夏っていいよな。最近ではあまりの猛暑に外出するのも億劫だし、エアコンの電気代も馬鹿にならないけど、それでもやっぱり夏はいい。僕はあと何回、体験できるだろうか。台風一過の青空を眺めながら、ふとそんなことを考えてしまった。