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 夏といえば…貞子再び

 古い話で恐縮だが、1998年に公開され、日本の幽霊のイメージをあっという間に塗り換えたホラー映画、「リング」。ビデオ映像として現れ、さらにTV画面を通り抜けて現実世界に出現するという、提灯お岩も真っ青の貞子の登場は、文字通り一世を風靡した。これ以降、インチキ心霊動画に登場する霊は洋の東西を問わず、ほとんどすべてが白いワンピースに長い黒髪という姿に統一されたといってもいいぐらいだ。そんな貞子だが、僕にはいまだに答えが出ない疑問がある。

 映画「リング」の終盤で、貞子がTV画面を抜けて出現するシーンがあるが、その時使われたTVの画面サイズは26インチぐらいだろうか。貞子はもともとビデオ映像の中の存在なので、そのサイズは画面の大きさに比例して大きくなったり小さくなったりするはずだ。そこで問題。もし仮に、身近にワンセグ携帯しかなかった場合、出現する貞子のサイズはどうなるのだろうか。あるいは逆に街頭のパブリックビューを通して出現したら?

 もう一つ、映画で貞子が出現したTV画面はどう見てもスタンダードサイズだ。それがもしビスタサイズやワイド画面に対応したTVから出現すれば、横幅が強調されるだろう。その場合、少し太めの貞子が現れるのだろうか。

 原作によれば貞子は半陰陽(睾丸性女性化症候群?)ながら「見たこともないような美人」で、19歳でこの世を去っているようだから、横幅の強調された太めの姿で出現することを嫌うかもしれない。もしこの憶測が当たっているとすれば、貞子から身を守る一つの方策が得られるのではなかろうか。つまりTVの画面選択を「ワイド」に設定しておけばいい。口裂け女の「ポマード」と3回唱える撃退法よりはるかに現実的だろう。ちなみにレターボックスサイズは無効です(我ながらしょーもないことを論じている気がしてきたぞ)。

 こうした視聴者の心配(?)をよそに、映画を見る限りでは、貞子は今のところ常にリアルサイズで出現しているようだ。現実の世界ではネット環境が整い、TVよりもパソコンやスマホで動画を見る世代が増えてきたこともあって、後発の貞子関連のホラー映画、特に海外版では呪いのビデオ(というか動画)がパソコン等に保存されたり、ネットを通して拡散したりしている。もし貞子がリアルサイズで現れるとしたら、一般のパソコン画面やスマホから出現するのはサイズ的に不可能だろうが、そのあたりは出現シーンを割愛したり出現方法を変更(髪の毛だけとか黒い水だとか)したりしてうまく誤魔化しているようだ。ところで呪いのビデオ(動画)がネットで拡散した場合、その伝達速度や到達範囲を考えると、死の宣告である無言電話をかけるのも大変だろうなあ。AIとか導入するんだろうか。それともいっそのこと、DM一斉送信か?

 こうした世の中の進歩を考えると、もしかしたら呪いを成就させるためにこういったシステムを採用してしまった山村貞子さんは、今になってものすごく後悔しているかもしれない。

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 夏といえば怪談 2023「貞子の落日 その2」

 (前回からの続き) 「リング」では、貞子の姿を見たものは助からない。逆に呪いを解くことが出来れば、そもそも貞子は現れない。つまり、貞子の行動パターンを報告できる生存者はいないはずだ。しかし「貞子」シリーズではそれらについて詳細に語る都市伝説が存在する。これはどう考えてもおかしい。「呪いのビデオ」の新バージョンが存在するのも変だ。新たな呪いが発動したということなのだろうか。だとすればいつ、どこで念写が行われたのか。こうしたベースとなる設定があやふやだと、ストーリー全体が説得力に欠けるものになってしまう。

 「リング」ではウィルスとの融合という設定は割愛されていたはずなのに、今更原作の設定を引っ張り出してきて、「ウィルスと同様に変異を起こす(能力が変化する)」というのも、ご都合主義としか思えない。しまいにはバッタのような形に変化したり、増殖していっぱい出てきたりする。こんなシーンを要求した監督の意向の方が恐ろしい。前回も触れたように、怨霊の物理攻撃をあからさまに描写して見せたことも、怖さが半減してしまった原因の一つだろう。そこには人間特有の心の動きが大きく影響している。

 ある日突然、高熱を発し、倒れる人が続出する。なかには呼吸困難になって死ぬ人まで出た。いったい何が起こっているのか。これは一種のホラーだ。だが、その原因はコロナウィルスという病原体であることがわかる。こうなると状況が変わらなくても恐怖は半減する。人間は既成概念に同定できるものはそれほど怖がらないのだ。ここはやはり、「何があったのかわからない、説明のつかない恐怖」がキモだ。ベースとなる事柄をきちんと設定して説得力を持たせ、隠すところは隠して恐怖心を煽る。これについては良い例がある。

 日本の怪談には珍しく、凄惨な結末を迎える「吉備津の釜(※)」。ここに登場する磯良(いそら)の怨霊は、物語の終盤で物理攻撃に及んだと思われるのだが、その手口については明らかにされない。さらに犠牲者以外、誰も磯良の姿を見ていない。読者に伝えられるのは、家の周りで聞こえる「ああ憎らしい、こんなところに護符なんか貼って」という磯良の声と、隣人が聞いた犠牲者の悲鳴、そして血にまみれた現場の様子だけだ。そこには死体さえ残っていない。そのことがかえって恐怖心を倍増させている。加えて冒頭の、浮気が発覚した後も夫を信じ、献身的に尽くす磯良の姿が、怨念の強さに説得力を持たせている。執筆された江戸時代には、すでにこうした演出方法があったわけだ。

 「リング」の成功の理由は、正しく怪談の作法に則り、人間の持つ根源的な恐怖心にアクセスできたことだろう。だが「貞子」シリーズはそれを切り捨ててしまったように見える。CG技術の発達を良いことに、ビジュアルに依存しすぎたのだ。

 「貞子」シリーズ、あんなにお金をかけて何本も作ったのに、どの作品も評価は散々だった。いくら基本がしっかりしていても、アレンジで失敗すれば、すべてがダメになる、ということだ。なんとも恨めしい話ではないか。

※ 有名な「雨月物語」の一編。自分を捨てて女と逃げた正太郎を、その妻磯良の怨念が祟る。一読の価値あり。注目すべきは、江戸時代の書物でありながら、磯良が恨めしい言葉を吐くと同時に障子に赤い光が射すなど、現代のホラー映画にも通じるような描写があることだ。そしてもう一つ、磯良は初めて出現した際には正太郎を手にかけていない。予告した後に時間をおき、散々おびえさせた上で取り殺している。「リング」における貞子は、この手順を踏襲している。

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 夏といえば怪談 2023 「貞子の落日 その1」

 そろそろ夏ということで、WOWOWでは「貞子」シリーズを一挙放送した。今回「貞子DX」を見たことで、おそらくすべての「リング」関連作をコンプリート。ただし、あまり意味は無かった。結局どれをとっても「リング」を超える作品には巡り会えなかったからだ。確かに続編が駄作、というのはよくある話だけど、「貞子」シリーズ、ちょっと酷すぎないか?

 今では長い髪に白いワンピース姿で両手をだらりと下げた貞子の姿は、国の内外を問わず定番となっている。でも一つだけ確認しておくと、実は原作では、貞子は一度もその姿を現していない。勿論TV画面から出てくる描写もない。あの姿は映画「リング」のオリジナルだ。

 映画では終盤、映像の中の井戸から現れた貞子が画面を抜けて出現。狂気の眼差しで犠牲者の傍らに立つ。そして絶叫する犠牲者のアップでカット。この演出が上手いな、と思う。この映画、冒頭から一貫して、見る側は結局何があったのかを知ることが出来ない。犠牲者のすさまじい死に顔から、「何か恐ろしいものを見たらしい」という推測だけが語られる。見る側は自分が最も恐ろしいと思うことを勝手に想像して恐怖する、という仕組みだ。

 古来、日本の怨霊は相手の命を奪う際、「取り殺す」という方法をとってきた。「取り殺す」とは、「取り憑いて殺す」「祟って殺す」という意味だ。かなり抽象的。そういった意味で、「リング」における貞子は典型的な日本の幽霊であると言える。たとえば、事後に尋常ではない状態の死体が発見される。人々がつぶやく。「一体何があったんだ?」この得体のしれない死に様こそが、西洋人の震撼するJホラーの怖さなのだ。日本の幽霊は、いくら効率が良いからといって、決してチェーンソーなんか使わない。だってそうでしょう。「貞子に取り殺されたらしい。傷口の状態からすると、凶器はチェーンソーだな。」「警部、血のついたチェーンソーが見つかりました!少し離れた茂みの中に!」いったい何の映画だよ。

 「貞子」シリーズを見ると、あの黒髪が伸びて犠牲者に絡みつくシーンにすごく違和感を感じる。襲い方が具体的に描写されているからだ。しかも、これがあまり怖くない。まるで、貞子がちゃちな妖怪か何かのように見える。ここは是非とも、中川信夫監督の「東海道四谷怪談(1959)」に学んでいただきたい。この映画では、お岩は何もしない。ただ「伊右衛門どの~」と呼びかけながら出現するだけだ。だが演出が際立っているので(?)、伊右衛門はその姿を見て錯乱し、血迷い、自滅していく。

 「四谷怪談」や「リング」では、犠牲者は恐怖のあまり死に至る。つまり「死ぬほど怖い」。それに比べて、欧米のホラーの怖さは痛い怖さだ。「死ぬほど痛い」。その結果、首が飛んだり血がいっぱい出たりして死に至る。そしてその過程をこれでもかと言わんばかりに描写する。これらは恐怖の質という意味では全くの別物だ。心理的か物理的か。この差は大きい。

 近年ベストセラーとなった「山怪」という本に興味深い実話エピソードがある。何人かで山道を歩いていると、道ばたでしゃがみ込んでいる女がいた。一人が声をかけると女が顔を上げ、その男だけがその顔を見たのだが、とたんに男は惚(ほう)けたようになり、高熱を発し、数日後に息を引き取る。その間、男は「あれはものすごい顔だった あんなものすごい顔は見たことがない」とうわごとのようにつぶやいていた、という話。見ただけで死に至る顔なんて、想像がつかない。だからこそ怖い。

                      (つづく)

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 ホラー映画とは?

 ホラー映画が好きだ。「そんなことあり得ない」と思いながら、「もしあったらどうしよう?」とも思う。その狭間の感覚というか、中途半端に不安定な気分にさせてくれる。現実逃避的な意味合いもそこにはあるのだろう。そういった意味ではSF映画も好きだ。ただし、最近のSF映画は特殊効果(CG等)を見せるためだけのものになってしまっているような気がする。これは×かな。

 アメリカでは最近マーヴェルレーベルのコミックスを映画化するのが流行っているが、あれは僕はダメだ。「何でもあり」すぎるからだ。その点、50年代のSFは良かった。クモが巨大化したって?そりゃ大変だ!でもなんで?それはね・・・と、多少無理矢理ではあっても、種明かしがある。これが楽しい。なかには「ウッソー!」みたいなこじつけもあるが、とりあえず説明はされている。ホラーではこうした科学的な説明はいらない。ただし、多少なりとも起こった出来事の因果関係というか、原理的なものは説明されることが多い。時には「だってそうなってんだから仕方ないだろ」とか言われて「そっかー、怖いわー」で終わってしまうようなものもあって、「なんで祟るんだよー」とか「なんでこの人が死んじゃうんだよー」とか言っても、悪魔とかその一党なんて、そもそも何考えてるかわかったモンじゃないから、中近東の悪魔がいきなりニューヨークの少女に憑依したりする。その人知を越えた不条理さが怖いのだ。

 最近のホラー映画を見ていると、いやホラー映画に限らず、「こういうことがありました。後は自分で考えてネ」みたいな丸投げ的なものがあって、あれはちょっと感心しない。80年代の、血糊の量を競うような風潮もあまり好きではなかった。その後、しばらくして現れたのが「リング」に代表されるジャパネスクホラーと呼ばれる一連の作品群であった。「リング」のなかの「何があったかわからないけど、ひどい死に顔なのでなんかものすごいものに遭遇したに違いない」的なシチュエーションはなかなかいい。見る側が勝手に一番怖いことを想像してしまう。これは説明不足ではなく、想像をかき立てるための技法だから許せる。そもそもアメリカンホラーはどちらかというと「痛い」怖さ。しかも恐怖の対象を視認できることが多い。日本には「気配」という素晴らしい言葉があって、これは最終的に恐怖の対象を視認できるとしても、そこへ行くまでにじわじわと見る者を締め付けてくる。こういう作品が好きだ。最近の洋画では、「ジェーン・ドゥの解剖」がこれに近かった。古くは「ブレアウイッチプロジェクト」あたりか。「ジェーン・ドゥの解剖」の、最後のセリフなんていかにも意味深で、ちょっと投げた感じもするが、あれは許す。

 邦画では「回路」がわりと好きだ。ストーリー的には酷評もあるようだが、あの見せ方は特筆ものだ。だが、なぜかアメリカがリメイクすると同じシーンでもあまり怖くないから面白い。これは多分、下着のカタログに外国人女性を使うとあんまり・・・いやいや、話を続けよう。

  つまり、何が怖いかというと,理解できなかったり、理不尽であったりすることなのだろう。「なんでオレが!」と思うその恐怖。これは怖いぞー。例えば悪魔が憑いたのなら「ああ、悪魔憑きね」でおさま・・・らないかもしれないけど、まあ、理屈はわかる。すでに概念があるからだ。ところが、「リング」のような話になると、「ビデオ見ちゃいました」が死ぬ理由になる。身に覚えがなくても、ぜんぜん悪いことしていなくても死ぬ。これはいやだなあ。しかも黙って死なせてやればいいのに、「何日後に死にます」なんて電話がかかってくる。嫌味なことこの上ない。そういえば原作を読んだときに「本を読むのは大丈夫なんだよな?」なんて気持ちになったことを思い出す。続編ではこれもアウトな設定だったような・・・。いずれにせよ、そういう日常ではあり得ない不条理の中に身を置くことで、現実からつかの間逃避できるのが、ホラー映画の魅力のひとつだろう。あまり健全な方法とは言えないが。

 SFホラーとか、SFアクションといったクロスオーヴァーものも最近多い。「エイリアン」シリーズや「バトルシップ」なんかがそうだ。「エイリアン」シリーズなんていまだに続いているし、あれこそクトゥルフ神話だ!なんていう人まで出てくる始末だ。H.R.ギーガーの画集「ネクロノミコン」がデザインのもとになったからって、少々考えすぎだろう。「バトルシップ」については、「そんなことあるかーい!」の連続で、あれくらいやってくれると逆に快感だ。戦艦ニュージャージがあんなに簡単に始動できる状態にあるとは思えないし、投錨して進路を急カーブさせるなんて、何十年も前に宇宙戦艦ヤマトがすでにやっている。そして多分どちらも無理だろう。しかし、無理を通さないと地球が危ない。その無鉄砲さ加減がかえって「やるなあ、ニュージャージ!」とか思わせてくれるのだ。あのレベルの侵略がもし現実に起こったら、一週間で地球は占領されてしまうに違いない。

 ところで、「イベント・ホライズン」というホラーSFをご存じだろうか。天文学が好きな人なら、イベント・ホライズンという言葉がブラックホールに関する専門用語であることはすぐわかると思う。日本語では「事象の地平線」などと訳される。ブラックホールのこちら側とあちら側を分ける境界のことを指すらしい。あちら側では何が起こっているのか観測できないのでこう呼ばれている。

 深宇宙探査船「イベント・ホライズン」が、特殊な推進力を使ってブラックホールの向こう側への旅に出る。そのまま消息を絶ち、数年ぶりに帰ってきた「イベント・ホライズン」には生存者は一人もいなかった。クルーは全て残忍な方法で殺害されており、クルーのかわりにそこにいたものは?・・・謎解きの手がかりは、航宙日誌に記録されたラテン語(!)の音声のみ。では、イベントホライズンがたどり着いた場所とはなんだったのか?                           アレだよアレ。                    じゃ、宇宙船にとりついていた存在とは?          カレだよカレ。                      そういうお話。何しろアイディアがいい。ネタばらしになるが、この世界ではない別の世界へ行く能力を持った宇宙船が行った先は地獄だった、とか、よく思いついたなと思う。各キャラクターの絡みやドラマ部はイマイチだが、この荒唐無稽さはアリだと思う。

 過去にスタンリー・キューブリックとA.C.クラークのコンビが同じようなデザインの宇宙船で神(科学的な概念としての)のもとへ行ってみせたが、それから何十年もたってから、今度は悪魔のもとへ行く映画が作られるなんて、思ってもみなかったに違いない。まあ、作品としてはこじんまりとしているが、特殊効果やセットについてはかなり凝っていたと思う。

 付け足しだが、「メッセージ」もなかなか良かった。異星の巨大宇宙船が現れたときの人々の生活の様子がリアル。授業を中断して学生を帰宅させる大学のシーンなんて、「ウンウン、こうなるだろうなー」と思わせてくれる。その後の展開も、難解さはあるものの(時系列が妙に混乱している)、最後にきて「ああ、そうだったの!」と、しっかり回収してくれる。ちなみに原作は短編集で、他の作品もひねりがあってなかなかのもの。 よくこんな話を映画にする気になったな、と思う。短編集は全体としては例の、「そんなことあるかーい!」の連発で、作者は「ここではこれが普通なんです」みたいな顔をして一歩も譲らない。とにかくこの作者は頭がいい。その思考実験に無理矢理つきあわされている感じ。好き嫌いの分かれる作風だが、僕は嫌いではない。ちょくちょく読み返す気にはならないが、読後感を一言で言うなら、「すげー。よくやるよ。」といった感じか。興味があったら読んでみるといい。だが、ダメな人は一話目の終わりまですらたどり着けないだろう。

 というわけで、ホラーやSFは僕にとっては現実逃避のためのツールである、ということを言いたかったかったのだが、なんだか脱線ばかりしてしまった。この埋め合わせはまた今度。