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 忘れられない二人の女性

 今までに出会った女性の中で、恋に落ちたわけでもないのに、どうしても忘れられない人が二人いる。

 一人はその昔、行きつけのカフェ・バーで出会った。当時20代後半の僕は、仕事帰りに必ずと言っていいほどこの店に立ち寄っていた。雰囲気も良く、ちゃんとしたカクテルを出す店なので、それなりの人々が一人ずつ集まってきてはカウンターを埋め、趣味の話や酒へのこだわりの話などで毎晩のように盛り上がっていた。そんな常連客のなかに彼女がいた。なかなかにチャーミングで、お酒が好きという彼女は、やはりお店の雰囲気に惹かれて常連になったという。

 その年の2月14日。僕は独身で、付き合っている女性もいなかったから、バレンタイン・デーなんて関係ない、といった体(てい)で、その日もマスターと車の話で盛り上がっていた。するとそこへ彼女がやってきた。「こんなところでアブラを売っていて良いんですか?バレンタイン・デーなのに。」「大きなお世話。そっちこそどうなの。」「こっちは大忙しです。これから義理チョコ配りだから。でもその前に・・・」彼女は抱えていた大きな紙袋から綺麗にラッピングされた箱を取り出した。「ガトーショコラ焼いたんです。これ、○○さん(僕の名前)に。一番綺麗に焼けたやつ。」「あ・・・ありがとう・・・?」「いつもお世話になってしまって。駐車場に○○さんの車があると、安心してお店に寄れるんです。じゃ、他にも寄るところがあるので、今日はこれで。また今度。」「あ、ああ、気をつけてね。」

 あまりお世話した記憶など無いのだが、彼女曰く、僕の隣で飲んでいると誰も言い寄ってこないので、安心してお酒が楽しめるのだそうだ。ここで皆さんに聞きたい。これって、喜んで良いのだろうか。マスターは「すごいじゃないですか!」とか言っていたが、あれはどう考えてもからかい半分だ。何がどうすごいのか説明してみろ、と言いたい。でも僕自身、ちょっとふわふわした気持ちになったことは白状しておく。

 もう一人はゲレンデで出会った。これも20代後半の頃だったと思う。出会ったとは言っても、話したのはほんの10分ほど。長い人生の中で、たったの「10分ほど」だ。

 その日、男同士で日帰りスキーに来ていた僕は、平日で空いていることもあって、1日リフト券の元を取ることを目標に、集合時間と場所だけを打ち合わせて個別に滑ることにしていた。何本目かを滑り終えた僕が再びリフトに乗ろうとしたとき、その人はどこからともなく現れ、ペアリフトの僕のとなりに何気なく座ったのだった。

 いかにも「滑りに来ているんです」といった雰囲気に気圧されながら、でもよく見ると綺麗な人だった。間違ってもウブな男ではなかったが、不意を突かれた僕はちょっと動揺していた。リフトってこんなに遅かったっけ。相手は嫌がるかも知れなかったが、何とか間を持たせたかった僕は、煙草を1本取り出して火をつけようとした。ところが、ご存じのようにリフトの上は吹きさらし。愛用のジッポをもってしても、なかなか火をつけることができない。すると隣に座っていた彼女が何も言わずに両手を伸ばし、グローブをはめた掌をかざして風を遮ってくれたのだ。これも不意打ちだった。いや、むしろ反則技だろう。その時の僕の気持ちを表現する言葉がいまだに見つからない。

 無事に煙草に火がつくと、僕は礼を言い、それをきっかけに僕らはリフトを降りるまでのつかの間、他愛もない会話をした。「煙草、嫌じゃないですか?」「大丈夫。平気です。」「どちらから?」「○○です。」「僕はΔΔから。」「わりと近くですね。」名前は聞かなかった。すごく聞きたかったけど。

 リフトを降りるとすぐ、僕は言った。「先に行ってください。僕は人に見せるほど上手じゃない・・・。」彼女はすぐに察したようで、アハハと笑い、わかりました、と言ってくれた。僕は最後にもう一度、お礼を言った。「煙草の火、ありがとう。」「なんとか火がついて良かったです。・・・それじゃ。」笑顔でそう言い残すと、彼女は颯爽と滑り出し、現れたときと同じように、あっという間に視界から消えていった。思った通り、彼女の滑りは、僕なんかより遥かに上手だった。

 この二人のことは今も忘れることができない。あれからだいぶ経ったから、とうに結婚して、大きな子どももいるはずだ。どこかで幸せな人生を送っていてくれたら良いんだけどな・・・。そんなことを考えながら、スタインベックの短編「朝めし」の冒頭の部分を思い出した。

 「こうしたことが、私を、楽しさでいっぱいにしてくれるのである。どういうわけか、小さなこまごまとしたことまでが目の前に浮かび上がってくる。ひとりでに、いくどとなく思い出されてきて、そのたびごとに、埋もれた記憶の中から、さらにこまかなことが引き出され、不思議なほど心のあたたまる楽しさがわきあがってくるのだ。」

     (新潮文庫「スタインベック短編集」より抜粋)

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 世界の料理ショー

 かなり昔のことになるが、「世界の料理ショー」という番組があった。何を思ったか、2012年に再放送されたので見た人もいると思う。グラハム・カーというイギリス系(?)の料理研究家が出演していた。前半は世界の有名なレストランの食レポと、ちょっとした小咄。後半はスタジオで、レポした料理を、時にアレンジを加えながら観客の前で調理してみせるのだが、この調理がすさまじい。あれで料理が本当に美味しく出来上がるのか、不安でたまらない。そんなふうだから失敗することもある。だがグラハムはいっこうに動じない。カットもされずに放送されている。もしかしたら、オリジナルは生放送だったのかもしれないが、大胆としか言いようがない。まあ、良い時代だったのだろう。時代といえば、グラハムは調理しながらワインを飲んでいたが、放送で「ワイン」という言葉を聞いたことがない。全て「葡萄酒」という言葉が使われていた。時代がわかろうってもんだ。加えてグラハムの語りがすごい。今制作しようとしたら、多分「ピー」だらけで何を言っているのかわからなくなってしまうんじゃないかな。いや、むしろ同じ内容では制作の許可すら下りないかも。何しろ品のないジョークの連発なのである。先ほど「何を思ったか、再放送された」と書いたが、どんな形態で再放送されたのかは確認していない。その理由は後述するが、おそらく例の、「制作者の意図を重んじて・・・」などというテロップが入ったに違いない。

 その再放送の少し前に、職場でこの番組のことが話題になった。同年代の中には覚えている人もいて、大いに盛り上がったものだ。あまりに懐かしくて、うちに帰るとすぐ、ダメもとで検索してみた。するとどうだ。DVDのBOXがヒットしたではないか!いったいどんな大馬鹿者がこの企画を立ち上げたのだろうか。それを考える前にカートに入れていた。ここにも一人いた、大馬鹿者が。

 届いたBOXは作りもしっかりしていて、立派な解説書まで付いている。大馬鹿者が作ったようには見えない。その解説書を読んで驚いた。あの料理研究家、ケンタロウ氏が文章を寄せているではないか!当時声を当てていた有名な声優(故人)のコメントも紹介されている。そして、あのグラハムの下品な語りが日本独自の脚本である事が説明されていた。何と、大馬鹿者は日本人だったのか!声優も、「僕は当時二枚目の声を専門に当てていたので、この仕事はある意味ショックだった。」とコメントしていた。ちなみにケンタロウ氏は「当時、こんな料理番組があったのかと驚くと同時に、とても感動した。」と語っている。ケンタロウ氏といえば、交通事故に遭遇し、残念ながら今は療養中だが、あの「男子ご飯」をやっていた人である。実はこちらも欠かさず見ていたのだが、こんなところに原点があったとは・・・!考えてみると、構成や語りぐさが似ている。勿論、ずっと上品だけど。

 さて、本編を見て驚いた。記憶以上にいい加減だ。スタジオでタオルが燃えたり、フランベのために温めていたブランデーが温めすぎて吹き出したりしている。よく放送したな、と思う。水の量を量るのに手のひらを使ったり、ワインの分量を、鍋に直接注ぎながら「1、2、3・・・6オンス!」なんて数えて計ったり。塩コショウの量に至っては目分量そのもの。「ちょっと塩が足りない」なんて言いながら、仕上げ直前に足したりしている。「ああ、あんなんで良いんだ」と思ったことを今でもよく覚えている。

 他にも、整髪料でセットしたであろう髪の毛を手でなでつけ、その手で肉を触ったり(その逆も)は当たり前。今では絶対苦情が来ること間違いなし。さらに番組では、「スティーブ」というディレクターがいろいろといじられて笑いを取るのだが、この「スティーブ」というキャラは、日本語版のオリジナルとのこと。勿論画像にもそれらしい人物は登場するのだが、それをうまく利用して作り出したらしい。これはこれでなかなかのアイディアだった。さらにカメラワークなどを見ると、ある意味この番組は傑作かも知れない。下品な傑作。ちなみに再放送をチェックしなかった理由はもうおわかりだろう。僕は事前にディスクで全部見てしまっていたので、その必要が無かったのだ。だがあのタイミングからすると、DVDの発売と再放送の時期はわりと近かったのかも知れない。つまり、DVDの発売を記念して再放送が企画されたのではないかと、今ではそう考えている。

 僕は料理を趣味の一つにしていて、暇さえ有れば料理をしていると言っても過言ではないが、今思えば、小さい頃に見たこの番組の影響は大きいと思う。そんなこんなで、今も僕はビールを片手に料理にいそしんでいる。最近人間ドックで肝臓の数値が引っ掛かったので、多少控えめにはしているけど。だから娘たちにもよく言われる。「パパの料理は美味しいんだけど、見ていても作り方がまるでわからない。分量で教えてよ!」そう言われても計ったことがないのだから、教えようがない。さらに厳密に言えば、二度と同じ料理は作れない道理だ。僕のせいではない。全てグラハムが悪い。

 グラハム・カーは今も存命で、BOXでは解説書と映像で日本のファンに向けて挨拶している。その後しばらくして新たな映像が発見され、BOX2が出たのでそれも買ってしまった。「世界の料理ショー」を知っている知り合いが、「確かにあの番組はすごかった。でも、DVDBOXを二つとも買い込んじまうお前もすごいよ。」と言っていた。そうかな?・・・そうかも。

youtubeでも見られます、多分。

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 カリスマの危険性

 カリスマ。最近あまり聞かなくなった言葉。一般大衆を魅了するような資質を持った人のことを言うそうだ。

 こういった人たちは今でも存在していて、特に価値観が確立していない世代から絶大な支持を得ている。だがどんなにカリスマ性を発揮している人でも、人間である事に変わりは無い。だから、長いこともてはやされているうちにボロが出てくることがある。特にたちが悪いのはうぬぼれというやつだ。

 うぬぼれ(自惚れ)とは、文字通り自分に惚れることだ。惚れた相手の欠点が見えなくなるというのはよくある話だ。自信を持つのはいい。自分を信じるのは大切なことだ。僕の知っている「自分を信じている」人たちは間違いを犯すと素直にそれを認めることができる。そんな自分も含めて客観的に自己評価をしているからだ。しかも価値観を自分の外に置いている。常識というやつだ。良識と言ってもいい。それが「自信」の裏付けにもなっている。だがひとたびうぬぼれの状態に陥ると、価値観は自分の中でだけ成長するようになる。つまり独断だ。この手の人たちは大抵常識に反発しようとするから、始めは格好良く見える。だが長続きはしない。ほとんどの人はついて行けなくなるからだ。ネットの記事などでよく目にする○○氏やΔΔ氏などはこのパターンだろう。始めは的を得たコメントを言っていたのかも知れないが、今では「何を言っても支持される」という傲慢さがにじみ出ている気がする。困ったことにこうした人たちには、常に一定の支持者がいてもてはやすので、本人たちも何がおかしいのかわからなくなってしまっているのだろう。支持者も支持者で、違和感を感じた人は早々に離れていくので、ほとんどの場合、少しずつ入れ替わっている。

 支持する側には選択の自由があるからまだ良い。だがカリスマの側はそう簡単に主張を覆せない。支持者に対する見栄があるからだ。さらに自分が正しいとうぬぼれていれば、その必要性すら感じないだろう。こうした人たちが対立すると面白いよ。まるで子どものケンカだ。声ばかり大きくて、中身は有るんだか無いんだか。大人は見向きもしないだろう。

 良識のあるカリスマは、自分の主張が単なる「一個人の見解」に過ぎないことをよく知っているから、常識を踏まえた上で意見を言う。そもそも「常識」とは、本来そう簡単には揺るがないものであって、易々と論破されるようなら、それは始めから「常識」などではなく、何か別のものだったということだ。彼らはそのへんをよくわきまえている。だから主張に無理がない。目立ちはしないが、じんわりと浸透する。そもそも本当のカリスマはカリスマに見えないというのが僕の持論だ。先のお二人には、是非ともナサニエル・ホーソーンの短編「人面の大岩」をご一読いただきたい。

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 映像を早送りで鑑賞する人たち

 最近映像を早送りで鑑賞する人が増えているという。単に鑑賞時間の短縮に留まらず、なんでも、時間はかけたくないが、友人との(映画の)話題にはついて行けるようにしておきたい、というのも理由の一つなんだそうだ。

 僕は気に入った映画は必ずソフトを購入するかディスクに落として保存している。いつでも見られるようにしておきたいからだ。そんなふうにして20年以上にわたって親しんできた映画でも、今更ながらに新たな発見がある事も少なくない。「あいつ、後ろでこんなことやってたんだ」とか、「あ、ここで伏線しいてたじゃないか!」とか。こうしてみると、早送りでは気付かない演出も多く、逆に言えば、早送りで作品を鑑賞するのは、こうした監督の意図や俳優の表現をないがしろにすることにもなるだろう。それは絶対にやるべきではないと思う。とは言っても、何度も見てきた映画の一部を飛ばすことはたまにある。タルコフスキー監督の旧ソヴィエト映画、「惑星ソラリス」が良い例だ。冒頭の未来都市を延々と映し出すシーンは、さすがの僕も早送りする。なぜかって?だって、東京でロケしたシーンだもん。制作当時(1972)のソヴィエト人には、立体的に交差する首都高速は未来の交通機関に見えたかも知れないが、日本人には日常の風景。「あー、赤坂だこれ」なんて言いながら日本語の看板や個人タクシーなんぞを見ている必要は無いだろう。いやいやもしかして、ストーリーを左右する重大な伏線が潜んでいたりして・・・(無い無い)。

 そういえば、実はもう一つ気になっていることがある。ネットについては素人である僕は、このブログを立ち上げる時にいろいろとわからないことがあって、あちこちのサイトを調べてみた。ドメインはどの会社で取るのが良いか、読んでもらうためにはどんな工夫をすれば良いか、等々、懇切丁寧な解説がたくさんあったのだが、その中にこんな記事があった。「今の人は長い文章を読むことに慣れていないので、文章はできるだけ短く、文面は密にならないように・・・」というのだ。確かに、初めて僕のブログを読んだ人が、「こりゃ小説だァ!」と言っていた。これは勿論比喩だろうが、なるほど、それでスカスカのブログが多いのか、と合点がいった。あなたも見たことがあるでしょう、不自然に行間の広いブログのページを。そういえば娘たちの読んでいる「ライトノベル」も、昔の岩波文庫なんかと比べるとページがやけに白っぽい。もしかすると、「今の人」はツイートとブログの区別なんてどうでも良いのかも知れんなあ。もしこの状況が事実だとするならば、相当本離れが進んでいるということだ。いいのかねえ、こんなことで。

 こんな時代だからこそ、せめて映画ぐらいはじっくり鑑賞して欲しいものだ。よくできた映画は人生を変えるほどの力を持っている。前にどこかで書いた気がするが、それは財産になり得る。ホントだって。

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 イラッ・・・ムカッ・・・???・・・はぁー・・・。

 最近ちょっと不満に思っていること。

 某TV局が、ドキュメンタリー番組の再放送を何度もしながら、番組表に一切再放送の表記をしないこと。それでいて1ヶ月のあいだに2回も3回も同じ番組を放送している。ちゃんと仕事しろよ!ちなみにNHKでは「再」もしくは「選」という表示を付けているのでわかりやすい。

 文房具。昔ながらの金属製の画鋲の、針の部分が取れやすくなったこと。画鋲をとろうとすると、頭が外れて針だけが残る。これって結構厄介な状況。もう一つ、輪ゴムの質が悪くなって、すぐに劣化するので伸びたり切れやすかったりすること。文房具には、最近こうした「質の低下」がよくある。皆さん、気がついてます?

 買ったばかりのキュウリの断面が白っぽくて、みずみずしさが感じられないことが、想定外に多くなってきたこと。一昔前なら商品にならないレベルだが、今ではそんなキュウリが普通に販売されている。仕方なくこれを使うと、サンドイッチやサラダが美味しくできない。店舗に苦情を言うべきなんだろうか。

 普通に売っているベーコンの脂身がほとんど無いこと。これじゃ、いくら焼いても揚げ焼き状態にならない。良いベーコンは焼いていると脂がしみ出してきて、その油で揚げ焼きの状態になるので、余分な油が取り除かれるとともにカリッとした仕上がりになる。油は捨てても良いが、僕はこの油にトーストを浸して食べるのが好きだ。

 行きつけのでっかい書店の、マニアックなコーナーが縮小したこと。このパターンはこれまでにも度々経験している。「すげー品揃え!」なんて喜んでいると、いつの間にかそういったコーナーがなくなり、ただの「でっかい書店」になってしまう。近頃ではその空いたスペースにビューティーサロンやブティックが入ることも。・・・書店だよね!?

 スーパーで売られている生麺タイプのラーメンは「昔ながらの・・・」などと謳いながら、一番一般的な鶏ガラスープ味が見当たらないこと。必ずと言っていいほど魚介の出しが含まれている。僕が求めているのは、昔、デパートの「大食堂」で提供されていた類いのラーメンの味なんだけどなあ。

 「新しくなりました!」と言いつつ、頼んでもいないのに味が変わるビール。今年とうとう、長年慣れ親しんできた銘柄に別れを告げることになった。「別れましょう、あなたは変わってしまった・・・」そんな感じ。ビールのTVCMでは、よく出演者が「美味しい!」と言うシーンがあるが、是非とも「個人の感想です」というテロップを入れていただきたい。

 最後は少しマニアックな話題。中国製の、ある戦車プラモ。内部も全部再現されている。が、部品が多く、それ故設計図も絵が込み入りすぎていて、何をどこに接着するのかよくわからない。さらに、内部を設計図どおりに組み立てると、あちこち干渉して車体が組み上げられない。どうなってんだこれ。つくづく、日本のプラモデルメーカーの偉大さを実感する。

 以上、最近ちょっと不満に思っていること、でした。

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 大洗の月

 井上靖の小説に「大洗の月」という短編がある。これが好きだ。書かれたのは昭和28年というから、当然僕の知らない時代だ。ましてや現代の若い人には想像もできないだろう。主人公である佐川が常磐線の水戸駅から大洗まで利用したタクシーは、悪路を予想して「車体の良さそうなの」を選んでいるし、15㎞ほどの行程の途中でラジエーターの水を補給している。どちらも今ではあり得ないことだ。さらに特急とおぼしき列車が、上野から水戸まで2時間近くかかっている(今だと最短で1時間あまり)。  

 40代の主人公、佐川は東京で小さな会社を経営しているが、最近会社にも自分の人生にも「滅びの予感」を感じ始めていた。そんなある日、今日が「中秋の名月」の日である事に気付いた彼は、ふと思い立って、月を見るためにひとり茨城県の大洗を訪れる。そこでの出来事や出会いが静かに、淡々と語られていく。

 初めて読んだのは大分前、まだ若かった頃だが、中年と言われる世代に足を踏み入れてから、ここで語られる「滅びの予感」という言葉が頻繁に思い出されるようになった。40代と言えば、普通は就職し、結婚し、子どもをもうけて、人生の要素をある程度成し終えたあたり。自ずと先も見えてくる。勿論時代も違うし、そもそも僕はそう簡単に滅びるようなタイプじゃないが、なぜかこの作品には不思議と共感を覚えたものだ。そういえば作中、佐川も「滅多なことではくたばらない」と形容されていたから、「滅びの予感」とは誰にでも訪れる老いの兆し、もしくは最盛期を過ぎた者の感じる憂いのようなものなのかも知れない。

 前半、列車が進み、車窓の風景が田舎のそれに変わっていくにつれて、主人公のモノローグが内省的になっていく文章構成が印象的で、さらに後半の登場人物をモブキャラ(その他大勢)を含めて切り詰めることで、一人一人の登場人物が際立っている。何しろ大洗では、主人公が行動するのは夜が更けてからで、街灯に照らし出された通りには人っ子一人見当たらない。今でこそガルパン(「ガールズ&パンツァー」、大洗を舞台にしたアニメ)の聖地として全国区となったが、昭和20年代の大洗と言えば、夏は海水浴客で賑わうものの、普段は小さな漁師町に過ぎなかったのだから無理もない。

 井上靖とその近親者には遁(とん)世(世を捨てる、世間から逃れる)的な心情をもつ者が多かったらしい。その影響か、彼の作品にそのような境遇の人物が登場するものも多い。「大洗の月」の後半で主人公が出会う、年老いた日本画家もまさにそれで、彼は世をすねているようでいながらある種の充足感を感じていて、けっして俗福とは言えない今の境遇に、納得して身をゆだねているように見える。それは本文中の「会った瞬間から、否応なしに好感を感じさせられていた。ふしぎに厭なところがなかった。」という文章からも伝わってくる。こうした印象は、常に競争心や焦燥感をもち、それを充足させようと躍起になっている人間からはなかなか感じ取ることができないものだ。その後に続く「灰汁がすっかり抜けてしまって」という表現も、人生の酸いも甘いも早々に経験し終えた者だけが達する達観した境地を表しているとも考えられる。ここに至って雲間に隠れていた月がやっと顔を出すのも象徴的だ。そこには全てが肯定されたかのような、静かなカタルシスがある。

 井上靖本人は新聞記者時代、競争心旺盛な同業者になじめず、本人曰く「麻雀で言えばおり」た経験をもつ。「おり」るのが少々早すぎた感もあるが、その後の華々しい経歴を見るととても遁世的には見えない。しかし作家として成功しながらも、本心ではこの、隠遁生活送る老画家のような境遇に憧れ続けていたのかも知れない。

           (引用は全て新潮文庫「姥捨」による)

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 虫の声(2)

 明日から10月に入る。庭の隅にはまだ彼岸花が咲いているが、盛りは過ぎたようだ。代わりに、数日前からキンモクセイの花が香り始めた。

 夏の終わりに何となく寂しさを感じるのは、万人の認めるところだろう。ツクツクボーシが鳴き始め、田んぼの色が黄みがかってくる。あらゆるものの影が少し伸びて、空も今までより高く見える・・・。だが、本当に寂しくなるのはそのあとだ。

 数年前の秋のことだ。ある夜、コオロギの声がすっかり聞こえなくなっていることに気付く瞬間があった。その時僕は、今までに無い寂寥感を感じた。勿論実際にはそんなことはないが、今年の生命の営みは今日終わったんだと、そんなふうに思えたからだ。科学技術に裏打ちされた人間社会ではほとんど感じることのできない感覚。それをなぜかその時に限って強く感じた。

 日本の「二十四節気」には「啓蟄」というのがあって、これは冬ごもりしていた虫たちが再び姿を現すことを意味する。そういえば毎年、「おお、蟻がでてきた!」なんて日があって、変に心が躍る。これらは目で見て初めて認識される変化だ。一方虫の声は、その対象が目の前にいなくても認知できる。ある意味、「環境音」に近い。

 日本人はなぜこうも虫の生態に心引かれるのだろう。先ほど僕は「虫の声が途絶えると今年の生命の営みが終わったように感じる」と書いた。実際には鳥のさえずりは年間を通じて聞こえているし、植物の世界ではこれから実りの秋を迎えるというのに。多分これは、虫たちのほとんどが短期間でその活動を終えるように見えることに起因しているのだろう。その儚さが、日本人の心情にマッチしている、ということだ。例えば夏の虫の代表である蝉は、羽化してから1~4週間でその寿命を終え、夏の終わりにはその屍をさらす。ところが、実際には幼虫時代を土中で数年過ごすと言われていて、長いものでは5年を超えるそうだ。それを知ってしまうと、確かにちょっと興ざめする。

 あらためて考えてみると、「鳴く(というか音を出す)虫」はそれほど多くない。日常的に聞くことができるのは蝉やコオロギ・バッタなどの類(たぐい)だろうが、僕としてはもう一つあげておきたい。それは「ケラ」だ。一般的に「オケラ」と呼ばれている、コオロギの仲間だ。初夏の頃に夜のあぜ道などで聞くことができる「ジー」あるいは「ビー」と表記できる鳴き声(というか音)で、思いのほか大きな声で鳴く。毎年その時期になると、うちの家族は「オケラが鳴き始めたね」などと言って話題にする。

 初夏から初秋にかけての、1年の1/3に当たる期間を、人はこうした虫の声をそれとなく聞きながら生活している。それが中秋の頃にぱったりと途絶えてしまうわけだから、寂しく感じるのも道理と言えば道理だ。だが、こうした季節の変化を感じ取れる生活をしている人は、もしかしたら今ではそんなに多くはないのかも知れない。僕はどちらかと言えば幸せな部類なのだろうと思う。

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 アニメの薦め

 今年の夏はアニメ三昧だったような気がする。きっかけは前に1度書いたことがある「からかい上手の高木さん」第3期が今年の上半期に放送されたことだった。最終回に心が動かされて、第1期からあらためて全てを視聴することに。その後、夏に公開の劇場版を2回見た。なぜそこまでのめり込んだのかは今だによくわからない。そのあと「古見さんはコミュ症です。※」2クール分を鑑賞。これも良かった。いずれもいわゆる「ラブコメ(ディ)」なのだが、僕にとっては他のアニメとはちょっと印象が違う。

 この夏も「彼女、お借りします」だの「カッコウの許嫁」だのと、ラブコメアニメはあまた放送されはしたものの、これらはどうも心の琴線に触れてこない。というのも、これらは同じ「ラブコメ」というジャンルでありながら、主人公の男子が優柔不断で、それ故関わる女子が何人も現れる。要するに男子1人を複数の女子が取り合う、俗に「ハーレムもの」という構図だ。どうしたら良いのかわからなくて主人公がパニックに陥る様が面白いのだろうが、この状況が僕にはどうも楽しくない。「お前がもっとしっかりしていれば、こうはならないだろう?」的ないらだちすら覚える(多分こういったアニメを楽しむにはいささか歳をとり過ぎているのだろう)。その点、前に挙げた2作品は主人公であるカップルの関係に(多少の波乱はあっても)ブレがない。そしてここがポイントなのだが、良き友人たちに助けられながら、人間として着実に成長していく。特に「古見さんは・・・」の古見さんはタイトルどおり「コミュニケーション障害」を持っていて、超絶美少女でありながら、それ故「お高くとまっている」などと誤解されることも多く、劇中、中学校では孤立して、悲しい思いをしてきた過去が語られるのだが、高校入学時にある事がきっかけで、お人好しで優しさの塊のような只野君と友人関係(後に恋愛関係に発展)になり、少しずつ心を開きながら前に進もうと努力するようになる。特に1クール第1話の、誰もいない教室で、背面黒板をいっぱいに埋めて二人が筆談するシーンは、BGMも手伝ってとても感動的。1クールの1話でこれやっちゃったら、後どうするんだよ、と心配になるほど。

 同じく成長譚でありながら、ちょっと毛色が変わっているのが「・・・高木さん」で、この作品の良さは、中学生である主人公カップル(友達以上恋人未満的な?)のやることがほぼ昭和の小学生みたい、という点にある。純朴で、何となく懐かしい。駄菓子屋でポットからお湯を注いでもらうカップ麺を食べながら、「二人でご飯食べるの、初めてだね」って、いつの時代の話だよ(中学生なんだから、せめてフードコートとか行けよ)。それが理由かどうかはわからないが、劇場版を上映中の映画館には中年以上の男性が半数近くいた。なかには70代とおぼしき白髪の男性まで・・・。いったいどんなきっかけがあって映画館に来たのだろう?

 普通アニメといえば子どもからせいぜい若者が鑑賞するものだったが、「オタク」やスタジオジブリの擡頭を機に、いつの間にか大人も鑑賞できる時代になってきた。僕もこの歳でアニメにのめり込むのは多少後ろめたいのだが、よくできたアニメは僕のような視聴者に大事なことを思い出させてくれたり、懐かしい過去へと誘ってくれたりすることがある。そもそも長いこと人間をやっていると、疲れたり汚れたりで大事なことを見失っていたりするものなのだ。そんな時、こうしたアニメに出会うと、何となく気持ちが若返るような気がするのは、きっと僕だけじゃないだろう。勿論思うことは人それぞれだから、受けつけない人もいるだろうが、一度試してみるのも良いと思う。

※「コミュ症」あるいは「コミュ障」という言葉には、専門用語からスラングまで、いろいろな解釈の仕方があるようなので、使用には注意が必要かも。

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 映画の中の食事

 映画を見ていると、よく食事のシーンが出てくる。文学でも同じで、以前、スタインベックの「朝めし」という短編に出てくる、焼きたてのパンとベーコン、それに珈琲だけの食事を家で再現した話を書いたと思う。実はこれ、映画でもやったことがある。

 1968年公開の「2001年宇宙の旅」に登場する木星探査船「ディスカバリー」号のクルーが食べていた宇宙食(開発と提供はNASAだそうだ)。4つの四角いパレットにパテ状の料理が詰まっている。色はオレンジ、グリーン、ブラウン、白だったかな。同席していたもう一人は違う組み合わせだったような・・・。パレットごとに数種類のメニューから選ぶと、温められた状態で調理マシーンから出てくる。これが妙に美味そうで、大学時代にSF好きの仲間と再現に挑んだ。といっても、手に入る食材には限りがあるし、何も資料がないので完璧に「なんちゃって」料理。マッシュポテトをベースにニンジンやほうれん草を練り込んでそれらしいものを作った。ブラウンのものは挽肉でハンバーグ状のものを平らに焼いて容器に詰めてみた。白いのはまんまマッシュポテト。味は・・・まあ、材料から容易に想像がつくので面白くも何ともない。だが見た目にそれらしいものが出来上がったというだけで大いに満足した。

 次に西部劇でカウボーイたちが野外でよく食べている、いわゆる「ポークビーンズ」。といっても、アメリカの家庭料理として紹介されているようなもの(豆と肉以外にもいろいろ入っていて、トマト味で煮込む)ではなく、豆に干し肉とかベーコンを加えて煮込んだだけのもの。味付けはどうなっていたんだろうねえ。想像もつかないし、塩コショウだけで美味しいものができるとも思えないので、これについては再現は断念。映画でもコック長が「これはホントに人間の食い物なのか?」などと文句を言われているシーンをよく見かける。映像で見ると美味そうなんだけどなあ。一説によると、南の方では後述するチリコンカーンなんかも食べていたみたい。あ、あとですね。1968年公開の「ウィル・ペニー」という西部劇では、カウボーイたちが当時の主食であったであろうホットビスケットらしきものをポークビーンズと一緒に食べているシーンがあった。僕はこの映画でしか見たことがない。ちょっと感動した。でもKFCみたいにメイプルシロップをかけたりはしてなかったな。もっと北の方(カナダ寄り)ではかけていたかも。

 さて、チリコンカーンなんだけど、これはTVシリーズの「刑事コロンボ」でコロンボ警部(日本語版では警部と呼ばれている)がよく街角のスタンドで食べてたっけね。これもやけに美味しそうに食べているんだが、自分で作るまでもなく、教師時代に給食で散々食べた。でも何だか釈然としない味。本物はもっとスパイスがきいているんだろう。トマトで煮込んだ野菜たっぷりの方のポークビーンズもよく給食に出たな。

 お次はホラー映画。ゾンビが喰ってる人肉を・・・じゃなかった、もっと高尚な「シャイニング(1980)」のなかで、取り憑かれておかしくなる前のジャック・トランスが、朝食にウェンディ(奥さん)が焼いたベーコンを目玉焼きの黄身に浸しながら食べるシーンがある。フォークを使わずに指でつまんで食べるのだが、これがとても美味しそうだった。

 ゾンビと言えば一昔前、駄菓子屋で「ゾンビ肉」なる商品を売っていた。着色料で青く色づけしたビーフジャーキー(・・・だよね・・・?)なのだが、色のイメージからか、何だか不気味に感じた。しかし、人間がゾンビの肉を食うって、よく考えてみると逆だよな。最近見ないけどまだあるのかね?・・・そう思って調べてみたら、とんでもない記事がヒット。中国あたりで、冷凍庫に売れ残っていた賞味期限がもう歴史、といった肉(もともとが密輸品。最長で40年ぐらい前のもの)を何も言わずに販売して食中毒が発生、という事件があって、それもゾンビ肉と呼ばれているらしい。こっちの方がよっぽどホラーかも知れない。

 「青い食べ物」については、「羊たちの沈黙(1991)」で主人公がFBIアカデミーを卒業したときのパーティーにとんでもない色のケーキが供されていた。FBIの紋章をデザインしたケーキで、ベース色は濃紺。何をどうすればあの色が出せるのか、料理好きの僕にしても見当がつかない。一目見ただけで「食べたくねぇな」と思った。いつぞやTVで見かけた「青いカレー」も同様で、どうも青という色は、食欲を減退させる効果があるようだ。

 最後はかの有名な喜劇王チャップリンの「黄金狂時代(1925)」のお話。金の鉱脈を探して雪山に入り、遭難して何日も山小屋に閉じ込められたときに、食料がなくて仕方なく革靴を柔らかくなるまで茹でて食べるシーンがある。皿に盛りつけ、ナイフとフォークで優雅に食べる。靴紐はパスタのようにフォークに巻き付けて・・・。一応言っておくと、これについては今のところ家庭で再現する予定はないです。

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 衝動的・・・?

 8月の後半に起きた2件の傷害事件が気になっている。どちらもその場にあったハンマーを兇器として使用していて、はじめから用意していたものではない。要するに現場でいきなり激高し、衝動的に事に及び、手近にあったものを使ったということだ。犯人はどちらも男性で、1人は21歳、もう1人は67歳。21歳の犯人に至っては、「殺そうと思ってやった」と、殺意を認めている。僕みたいな呑気な人間には、衝動的に殺意が芽生えるという心理的プロセスがまったく理解できない。あ、勿論じわじわと殺意が湧く、という経験も無いです。念のため。そもそも、誰かを心の底から憎んだことがほとんど無くて、仮に憎たらしいと思っても何だか長続きしない。なぜかというと、僕には、相手が「なぜそんなことを言ったりやったりしたのか」を考えてしまうという、悪い癖(?)があって、上から目線のようで申し訳ないんだけど、結果的に相手に同情してしまうんだよね。僕や、僕と同様の精神構造をしている人間なら絶対やらないようなことを、なぜこの人はやってしまったのか。そこには何か深い訳があって、むしろこの人は気の毒な人なのではないか、というような。勿論命に関わるようなことであればそんな悠長なことは言ってられないけどね。 

 もう一つ、疑問に思うことがある。こういった人たちは、「自分がそれをしたら、その後どういう結果が待っているのか」を想像できないのだろうか、ということ。まあ、「衝動的」だから、そんなことを考えている余裕なんて無いのだろうけど、だとすればあまりにも大人げないと言えないだろうか。

 そもそも大人になるとはどういうことだろうか。人は子ども時代に親から愛情を注がれ、養護されながら育つにつれて世界が広がっていき、それとともに他者との関わりも増える。そんな中で傷ついたり癒やされたりしながら耐性というものが身につくと同時に、他者の気持ちを理解できるようになり、優しさや強さが生まれる。並行して、学校という疑似社会のなかで、他者と上手に関わっていくノウハウや組織の中での責任感が養われ、いわゆる社会性が育っていく。やがては人間的に独り立ちし、自己肯定感とともに他者と折り合い、容認する能力も身についていく。キーワードは「自立」と「自律」かな。勿論実際にはもっと複雑だろうが、ざっとこんなところだろうか。だが、何らかの理由によってこのプロセスが大きく阻害されると、僕らが普通に考えているような大人にはなれない。以前は当たり前のようにできていたことだが、現代ではこういったプロセスを阻害する要因が山のようにある。その大半は育てる側(単純に「親」という意味ではない)の問題だが、差しさわりが多くて列挙できない。そんな時代だから子供じみた大人が増えてきたんだろう。こうした「大人になりきれない大人」たちが、また次の世代を育てていく。 

 「自分の都合」と「他人の都合」の食い違い、これは社会生活を営む上で避けては通れない問題だ。そこに折衷案を見いだそうと努力するのが大人なのであって、ネット社会でよく見られるように、味方を集めて主張を通そうとするのは子どものやり方だ。そんな現状に気付いている識者は少なくないはずだが、なぜかそういった人たちの主張は聞こえてこない。「大人しい(おとなしい)」と漢字で書けば一目瞭然だ。大人はむやみに自己主張しないから、その考えが表面化しづらい。上手くいかないなあ。

 今回の事件に話を戻すと、普通に考えれば他人に対して殺意を抱くまでには長いプロセスがあるはずで、通常ならそのどこかで理性や洞察力が働くので、結果として実行には至らない。いや、むしろ殺意を抱くに至らないと言った方が良いか。しかし衝動的な事件ではそのプロセスを飛び越えて実行に至るから厄介だ。しかも最近では血気盛んな若者だけでなく、人生の達人であるはずの高齢者にもその傾向が見られる。となると、こうした傾向の「始まり」は相当過去にさかのぼるはずだ。

 今ならまだ間に合うかも知れないが、このまま放っておいたら、次の世代は間違いなく、もっと訳がわからなくなると思う。そしてこの問題を何とかするのは、紛れもなく「大人」の仕事だろう。