ちょっと悲しい
あれから40年にもなろうかという昔、当時の仲間と奈良の斑鳩の里をレンタサイクルで回ったことがある。あの頃の斑鳩は本当に田舎然としていて、いかにも「里」という呼び名が似つかわしい佇まいだった。
お地蔵様がいらっしゃる以外何の変哲もない道ばたに自転車を止め、一休みしたとき、その傍らに小さな物干し竿のようなものがあるのに気付いた。よく見ると干し柿を括った紐が2、3本ぶら下がっている。干し柿の大きさも、縛ってある間隔も不揃いだが、どの紐にも同じ数の干し柿が結びつけられていた。なんだろうと思ってさらによく見ると、値段を油性ペンで書いた四角い缶が石の上に置いてある。持ち上げて振ってみると、硬貨が何枚か入っているようだった。要するに、いわゆる無人販売所の類いなのだろう。しかし、いかにお地蔵様が見ているとはいえ、そこまで人を信じて良いものかと正直驚いた。僕の地元にはそのような販売形態はなかったし、当時の僕はそういった販売形態の存在すら知らなかったから。
今では地方へ行くと野菜や果物の無人販売所をよく見かけるし、町中でも、例えば冷凍餃子の無人販売所などが増えているという。その存在が外国人には日本人の美徳と映る、という話も良く聞く。だが、最近そういった日本人の美徳が危うくなってきた。支払いをせずに品物を持ち去ることを何とも思わない輩が増え、果ては神社仏閣の賽銭まで盗み出す不届き者もいる。なぜだろう?コロナ禍による経済の停滞や、追い打ちをかけるように家計を襲った値上げラッシュにより、お金に困っている人が増えるのはわかる。だがニュースを見る限り、それだけで説明できるほど、事は単純ではない気がする。無人販売所の問題は単なる一例に過ぎず、ネットやスマホを利用した「汚い金儲け」の話は後を絶たないし、一時は外国人が中心だった悪質な「転バイヤー」も、最近では日本人の例も多い。彼らは決してお金に困っているわけではない。ただただ貪欲なだけだ。他人のことなど気にもしない。これはもう、品位とか良心とかの問題だろう。
その昔、江戸時代末期に日本を訪れていた外国人が、江戸市中での庶民の生活を見て、「江戸の街にも貧乏人はいるが、貧困というものは存在しない」と賞賛したそうだ。長屋住まいをするような下層の人々は、自然発生的な共同体を築いて助け合っていたらしい。実際昭和の時代でも、うっかり切らした醤油や味噌の、隣同士の貸し借りはよくあった。お礼にその日のお総菜を返したり、茶菓子を届けたりしたものだ。それが今では、隣に住んでいる人の顔も知らない、といった状況が当たり前になっている。コミュニケーションの機会がなければ、助け合うことなど不可能だ。そんな中で、無人販売所の存在は良心のバロメーターでもあったはずだ。だが今では、そうした信頼関係が易々と裏切られていく。いったい日本人はどこへ行こうとしているのか。
外国人に言わせると、こうした無人販売所は海外では成立しないそうだ。品物があっという間に盗まれるというのだ。ある意味、日本も国際社会に準ずるようになってきたということなのだろうか。でも、こんな「グローバル化」は嫌だなあ。