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 羽虫

 今日は気温がわりと高めだったので、煙草を買いに歩いて出かけた。すると道に出たとたん、顔に小さな羽虫の群れがまとわりついた。「うわお。」こんな春の訪れは嫌だなあ。

 目指すコンビニまでは約700歩。大通りに出ると、もう人が住まなくなった家の庭に、紅梅と白梅が仲良く並んで花を咲かせていた。人の眼差しがないところにも、春は平等にやってくる。

 買い物を済ませ、帰りは来た時とは違う道をたどり、近所をぐるりと回って帰ることにした。この道もだいたい同じ歩数で家に帰り着く。以前、暇に飽かして数えたことがある。

 僕の住んでいる地域は、一級河川の、昔の河川敷の外れに当たる。支流が網の目のようにそこかしこを走っていて、それが地名の由来になっているそうだ。そんな支流の一つが暗渠になっている上を歩いて通る。ここは昨年重機が入って、細い支流を広げる工事をしていた場所だ。またそうやって景観を台無しにして・・・そんなことを思った。というのも、この場所は唱歌「春の小川」に出てきそうな風情で、娘たちがまだ小さかった頃、よく土筆を摘みに来た場所だったからだ。だが今日、久しぶりに歩いてみて驚いた。春の雑草が生い茂り、ホトケノザやオオイヌノフグリが花を咲かせ始めている。それに隠されて、土手が無残に削り取られた跡はもうどこにもない。ただただ小川の一部が不自然に拡がって見えるだけだ。何と自然の力の偉大な事よ。だが、もう取り返しのつかない変化も無いわけではない。

 以前に触れたことがあると思うが、今歩いているこの場所からも見える近所の墓地、その傍らにあった樹齢は100年に近いであろうケヤキの大木が、宅地造成のために切り倒された。あれから大分時が経ったが、かつてケヤキの梢が見えたあたりは、今も空だけが空しく拡がっている。かの養老孟司氏の言葉を借りるなら、「あと千年、見るものの心を癒やし続けたかも知れない」のに。

 物事が変化することそれ自体は悪いことではないと思う。だが1度失ってしまえば取り返しのつかないものも、世の中にはたくさんある。人という存在は、その目的のために自然を破壊して文明を築き上げてきた。そうやって、かつては人が住めなかった場所にも生活圏を広げてきた。それによって野生動物は住処を追われ、地形が変わり、自然災害を誘発する原因を作ることもしばしばだ。それでいて地方では廃村が散見され、都市部では空き家が問題になっているという。これはいったい、どういうことなのだろう。

 今日僕の顔にまとわりついた羽虫は確かに心地よいものではなかったけれど、地球という「しくみ」の一部である事は間違いない。たかだか100万年しか歴史のない「人」は、言ってしまえば新参者に過ぎない。それが今、生態系の命運を握っている。物事には目先の都合だけでなく、長い目で見た判断が必要なときもある。何はともあれ、後々後悔しなくて済むようにしたいものだ。

作成者: 835776t4

こんにちは。好事家の中年(?)男性です。「文化人」と言われるようになりたいなあ。

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