昔はみんな旅に出た
愛車が車検で、代車に乗っていた時のこと。その車はカーオーディオが壊れていてラジオしか聴けなかったので、仕方なくつけっぱなしで乗っていたのだが、ある時職場からの帰り道でえらく懐かしい感じの曲が流れてきた。大昔のフォークデュオ、シモンズのような歌声、そして曲調。でも初めて聴く曲だ。この曲欲しい!曲が終われば何らかのアナウンスがあるだろう。耳をそばだてて聞いていると、歌っているのは「チューインガム」というデュオで、曲名は「風と落ち葉と旅人」と紹介された。知らない。チューインガム?なんだそれ。帰宅してすぐ、ネット検索。あった。1972年デビュー。なんだって!13歳と11歳の姉妹デュオ?これはびっくり。でもなかなかいいぞ。即アマゾンで購入。
「風と落ち葉と旅人」。昔の歌では、若者はよく旅に出たもんだ。自分探しの旅、夢を叶えるための旅、出会いを求めての旅。当てがあったり無かったり、得るものもあれば失うものもある。ここで言う「旅」には、今の自分が置かれている境地を離れて新しい世界を目指す、といった抽象的な意味も含まれている。例えば上条恒彦の「誰かが風の中で」は人生に傷つき、疲れ果てながらも、自分をどこかで待っていてくれる人を目指す。「出発(たびだち)の歌」では、自分の中で何かが失われたことによって始まる旅を歌っている。もっと日常的な例を挙げると、「風」の「君と歩いた青春」は二人で上京したものの、女の子は夢破れて故郷に帰ってしまう歌。「なごり雪(もともとは『風』の曲)」も似たようなシチュエーションだ。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」では男の子が都会に出て、その生活に魅了されて戻れなくなり、「ひぐらし」では若いカップルが当てのないバスの旅。「チューリップ」にも「心の旅」という名曲がある。しかもほとんどの場合鉄道が使われているから、駅は旅の始まりや終わり、延(ひ)いては別れを象徴する特別な場所だった。そもそも当時の若者は貧乏で、もちろん車なんて持てなかった。「かぐや姫」の「神田川」なんて、銭湯だもの。それも「スーパー銭湯」とかじゃないよ、横町の風呂屋。そんなだからこそ、支え合ったり、優しさを育んだりできたんだろうなあ。
今では何でも簡単に手に入るから(というより、簡単に手に入るもので間に合わせてしまうから)何かを見つけるために旅に出るような面倒なことは誰もしない。グローバル化とインターネットの普及によって、その必要性も感じない。でも本当にそれで良いのだろうか。これはもちろん観念的な意味だけど、実際の旅行にしても、昔は幹線道路の渋滞を避けようと地図を片手に抜け道をさがしながら走っていたら、なんか良い感じの喫茶店(絶滅危惧種)を見つけましたぜ、なんてことがよくあったもんだ。それが今では高速でひとっ走り、速いことは速いが、どこまで行っても単調な風景で、サービスエリアもみんなで共有。何だか面白くない。
最近、新たな自分探しの旅と言えなくもないものが話題になっている。ぼっちキャンプ。蛇口あり、隣接するスーパーあり、下手をするとベッドまであるという訳のわからないキャンプが流行る一方で、アンチテーゼのように出現し、ブームになりつつあるという。たき火の炎を見つめながら、一人でゆったりと過ごす時間が良いのだそうだ。これはこれでアリだと思うが、どちらかというと「贅沢な時間」であって、昔のような切実さは感じられない。まあ、時代の流れとはそういうものだろう。だが、あの「旅に憧れた時代」があったために、僕の人生が充実しているという実感はある。その一点において、今の若い人たちは豊かとは言えないかも知れない。