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 クリスマスの奇跡

 「クリスマスの奇跡」というワードで検索すると、必ず引っかかってくる話に「クリスマス休戦」というのがある。これは紛れもない実話で、第一次世界大戦中、1914年のクリスマスイブに西部戦線で起こったこと。簡単に言うと、ドイツの陣地から聞こえてきた「きよしこの夜」をきっかけに、イギリス軍もこれに加わるなどして、双方の将兵が自発的に停戦状態に入った(一説によるとフランス軍も参加?)。彼等は塹壕を出て食べ物や酒を交換し、英語のわかるドイツ兵が多かったことから、親しく交流した。25日には野ざらしになっていた戦死者の合同葬儀を行い、サッカーの試合までしたという。ちなみに2014年にはこの出来事の100周年を記念して、ベルギーで現代の英軍と独軍がサッカーの試合を行ったそうだ。また英国では毎年記念試合を行っていて、会場では当時の軍服を着た観戦者も見られるという。

  詳しいことはネットで簡単に見つけられると思うので割愛するが(クリスマスの奇跡・クリスマス休戦で検索)、最近の映画「戦場のアリア」にも詳しく描かれている。勿論映画なのでかなり脚色されているが、雰囲気はよく出ている気がする。ユーチューブにも関連する動画(もとはCM?)がUPされているようだ。当時撮影された写真も残っていて、これもすぐに見つかる。感動的な話なのだが、ちょっと考えさせられることもある。

 「戦場のアリア」で、イギリス軍の新兵を送り出す神父が神のご加護について言及するシーンがある。神は君たちの味方で、敵は神に逆らうものたちだ、的なことを蕩々と言って聞かせるのだ。多分現実的にも、このような場面はあったに違いない。だが軍事マニアでもある僕は知っている。敵であるドイツ軍の軍服の一部である革製のベルト、そのバックルには「神は我々とともにあり」と書かれている。うーん。じゃ宗教って何なんだろう?ただの便法なんだろうか。

 この休戦のことを聞いた両軍の上層部はかんかんだったそうだ。だが、キリストの誕生日に自らの判断で戦いを止め、祝った現場の将兵たちのほうがよほど筋が通っている気がするんだけどなあ。

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 クリスマス・キャロル

 「クリスマス・キャロル」といえば、イギリスの作家、チャールズ・ディケンズの傑作の一つである。強欲な独り者で、「クリスマスなどくだらん!」が口癖の老人スクルージがクリスマスの霊の力によって改心し、誰よりもクリスマスを愛する善人になっていくお話。これまでに何度も映画化され、スピンオフ的な作品も存在する。コメディアンで喜劇俳優のビル・マーレイが撮った現代劇「3人のゴースト」もそうだし、レアなところでは多分TV映画であろうコメディ「間違いだらけのクリスマスキャロル」もある。特にこの「間違いだらけのクリスマスキャロル」は作りがチープな割に俳優たちの個性が光っていて僕的には傑作といって良い。何しろJ・マーレィ(最初の幽霊)として出てくるのがドレッドヘアーのジャマイカ人(ボブ・マーリー?)で、ジェイコブは先祖だ、とのこと。肌の色については「ご先祖も男だから、いろいろあってさ・・・」なんて言うのだ。とにかく笑いの質が良い。かなり前にWOWOWで一度だけ放送され、録画してあったものを毎年見ている。どこかの会社でディスク出してくれんかなあ。

  本家について言えば、主人公のスクルージを幾多の名優が演じてきた。例えば名優ジョージ・C・スコット(立派すぎて実感がわかない)や、新しいところではクリストファー・プラマー(「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐)、ディズニーのアニメ版ではジム・キャリーが「中のひと」を演じていた。だが、我が家ではそれらを抜いてダントツ1位の評価を得ている作品がある。それがイギリスの映画「スクルージ」である。

 1970年頃、イギリスの映画界がミュージカルを映画化しまくったことがある。その頃の一連の作品の中の1本。内容をかなりいじってあるので「クリスマス・キャロル」というタイトルを使えなかったのだろう。それで原題は「スクルージ」。でも邦題は「クリスマス・キャロル」となっている、見事な出来のミュージカル作品。スクルージを演じるのは名優アルバート・フィニー(1作目の「オリエント急行殺人事件」のポワロを演じた人)。脇を固めるのがケネス・モア、そして何と、J・マーレイ の幽霊をサー・アレック・ギネスが演じている(スター・ウォーズのオビ・ワン・ケノビ)。その他にも戦争映画「史上最大の作戦」や「大脱走」の英軍兵士役で見たことのある人がたくさん出ている。

  原作ではあれほどかたくなに断ってきた甥の家でのクリスマスパーティーに出かけていくところがクライマックスとなるが、この「スクルージ」では12月25日の朝から町に出かけ、町の人々(下流階級)に施しまくる。彼はそんな自分が嬉しくて楽しくてたまらない。人々は彼に付き従い、大道芸人や上流の人々が集う教会の聖歌隊まで巻き込んで、いつしか大パレードに。この盛り上げ方が半端じゃない。絵に描いたような大団円。前半のクラチット家の「お買い物シーン」も良い。下町のイブの雰囲気がひしひしと伝わってくる。そして何よりも、過去の幻影の中で、自分の人格が破綻した理由は心ならずも愛する人去らせてしまったためだったと悟るシーン。「ここから連れ出してくれ、辛すぎて耐えられん。」いやー、はっきり言わせてしまうんですね。

 ミュージカルであるから演技は多少大ぶりだが、俳優たちも皆良い演技をしている。アルバート・フィニーの厭らしい爺さんから好々爺へと変化していく様(クリスマスの朝、「過去を捨ててもう一度始めよう」と歌い踊るシーンは特に好きだなあ)やアレック・ギネスの怪演、忘れてはならない「クラチット(デイヴィット・コリングス)」や「スープ屋のジェンキンス」(役者名がわからない、けど彼の歌う「サンキュー・ベリー・マッチ」最高!)も欠かせない存在だ。それから勿論ティム坊やも。ただし、ティムを演じたリッキー・ボーモンについてはこれ以降の情報がほとんどない。

  うちではクリスマスが近づくと色々なクリスマスムービーを見るのだが、「スクルージ」はいつも最後までとっておく。そしていよいよ、という段になって初めて家族で鑑賞する。映画としてもミュージカルとしても傑作なので、まだ見ていない人はぜひともご覧あれ。おすすめです。

追記                                                           折角だからもう一本ご紹介。「エルフ」。キャストが凄いよ。主人公のエルフ(妖精、本当は人間の子)に有名なコメディアンのウィル・フェレル、その父親に何とジェームズ・カーン!母親にはメアリー・スティーンバージェン(バック・トゥ・ザ・フューチャー3のドクの奥さんになった人)。おとぎ話ながら、よくできたクリスマス・ムービー。映画のラスト、セントラルパークでの「サンタが町にやってくる」の大合唱は嬉しくて泣ける。これはいつも「スクルージ」のちょっと前に鑑賞する。どうでも良いか。

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  JTBのAさん

 以前、僕は教員をしていたことがあった。そのほとんどの期間は中学校に勤めていたから、何度も修学旅行の引率をした。僕の住んでいる地域では、修学旅行といえば京都・奈良方面と決まっていて、京都なんて、プライベートを含めると20回近く訪れていると思う。そんな修学旅行の世話は旅行会社が請け負っており、毎回各社のプレゼンを聞いて担当する会社を決定する決まりだった。ある年、僕が主任をしている学年の修学旅行にJTBがつくことになった。担当はAさん。打合せのために何度も学校を訪れた。この人はまだ若いので腰が低く、いつも笑顔を絶やさず、それでいてちっとも嫌味な感じのしない好青年だった。僕は「せっかく高い金を払わせて行くんだから」と、無理難題を押しつけるのが常だったが、彼はいやな顔ひとつせず、むしろ自分も面白がって、いろいろな提案をしてくれた。夕食を宿で取らず、外食にしたこともあったし、東京駅から地元までの帰りのバスを地元の会社ではなく、あえて「はとバス」を使ったこともあった。どちらもAさんと僕で考えたアイディアで、この二つのアイディアはしばらく僕の務めていた地域のスタンダードになったが、僕らが発案者であることは、多分誰も知らないだろう。本当のことを言うと、はとバスに関してはほぼAさんのアイディアだ。そしてこれには訳がある。実はその前にやはりAさんと組んだときに、僕がとんでもない提案をしたことがあって、それをAさんが覚えていたのだ。

   2泊3日の修学旅行。当時3日目の昼食は新幹線のなかでとることになっていたのだが、その弁当の予算は高くても1,000円が相場だった。しかしその時、僕は2,600円の弁当を出すようにお願いしたのだ。Aさんはその型破りの指示に驚き、予算について心配していたが、当時はおおらかな時代だったので、何とでもなった。言っておくが、もちろん合法的に、だ。ではなぜそこまで弁当にこだわったのか。理由はその弁当の味と、体裁にあった。おいしいことは絶対条件だったが,その弁当箱は12升に区切られており、その一つ一つに京の12ヶ月に関する料理が詰め込まれていた。お品書きがついており、その料理がどこそこの寺や神社と関係することや、料理の由来が説明されていた。僕はAさんにこう言った。                   「帰りの新幹線に乗ってからも京都の余韻に浸れるし、自分の行った寺社の説明があれば良い復習になると思ってさ。修学旅行はうちに帰るまでが修学旅行って、よく言うだろ?」     このことを覚えていたAさんは気を利かしてはとバスを選んだらしい。彼はこう言ったのだ。                「先生は以前、家に着くまでが修学旅行だと言っていましたね。だからはとバスなんです。この意味、わかります?」    「どういうこと?」                                                    「バスが東京を抜けるのに30分はかかります。その間に東京の有名な場所をいくつか通ります。はとバスのガイドさんなら、その全てをきちんと説明することができるんです。」                               そこまで考えてくれたのか!やっぱりこいつはたいした男だ。仕事の枠を超えている気がする。しかし、本当のサプライズは最後の最後にやってきた。

 Aさんと組んだ最後の修学旅行。その時、彼は出世していて、普通の添乗はしない立場になっていた。僕が頼んでも答えは同じだった。噂ではほかの学校も同じように添乗を依頼したようだが、もちろん彼は、その全てを断っていた。まあ仕方のないことだ。そう思いながら当日集合場所に行くとAさんがいる! ・・・あ、そうか。上役が見送りに来るのはよくあることだ。それはそれでありがたい。僕は彼に近づき、声を掛けた。                   「見送り?大変だね。」                  すると彼は、にっこり笑ってこう言ったのだ。       「いえ、僕が行きます。何とか調整しちゃいました。」 「・・・えっ!それってまずいんじゃないの?だってほかの学校、みんな断ったんでしょう?」             「いえ、大丈夫です。多分。」               多分ってなんだ?こっちは嬉しいけど、本当に大丈夫なのか?修学旅行は地域の中学校の日程が何校か重なる。現地で、いや修学旅行専用列車でも他の学校とバッティングする。バレバレだ。全く心配させてからに。案の定、1日目から見つかって、となりの車両(他校)に呼ばれて「なんで他校にいるんだよー。」なんて言われているのが通路越しに聞こえてくる。ナンだかなあ。しかし、この旅行が僕たち二人にとって最後なのはわかっていた。僕は来年、他の学校へ異動することがほぼ決まっていたし、彼は東京にご栄転の噂があった。お互い、特別な気持ちで臨んでいたんだと思う。

 2日目、ホテルで本部待機していた僕のところへAさんがやってきた。                      「先生、お昼どうします?」              「え?まだ何も考えていないけど。」           「寿司とりましょう、寿司!僕おごりますよ。」       「え?いいよいいよ、自分のぶんは出すよ。」       「いえ、おごらせてください。」              彼はポケットマネーで代金を支払ったようだ。領収証をもらわなかったのを僕は見ていた。だが、旅行会社の職員が教師に昼飯をおごるなんて聞いたことがない。でもあの笑顔で言われちゃ断れないよなあ。

  そして3日目。東京駅からは例によってはとバス。今では一つの楽しみになっている。地方都市にある学校近辺をはとバスが6台連なって走るのを見て、地域住民が目を見張る。それを車窓から見ているのが何とも面白い。やがてバスが学校周辺の大通りに停車した。生徒が全員安全に降車したことを確認した直後、Aさんが振り返って僕を見た。あの笑顔だ。                          「先生!お疲れ様でした。無事終わりましたね。ありがとうございました。」                       そう言って彼は、右手を差し出してきた。思わず僕はその手を握った。握手?業者と職員が?これも聞いたことがない。普通じゃあり得ない。彼が続ける。              「いや、楽しかったです。先生と組むと仕事が楽しいです。本当にいろいろなことを教えていただきました。」        それはお互い様だ。あんまりびっくりしてしどろもどろに何を言ったか、今ではもう思い出せない。とにかくそんなわけで、僕には何から何まで驚きだらけの修学旅行になったのだった。  僕の異動が確定した頃、彼が再び学校を訪れた。彼の方も「ご栄転」が決まり、その挨拶に来たのだ。僕は彼を見つけると声を掛けた。                         「あのあと、大変だったろう?」             「はあ、支店長にこっぴどく叱られました。」       「大きな声じゃ言えないが、僕も異動が決まったよ。そっちも東京だって?」                      「はい、おかげさまで。いよいよ添乗はできそうにないです。」                                                                         そしてこう続けた。                   「先生と、もう一度京都に行きたかったです。本当にお世話になりました。」                       それは僕も同じだよ、Aさん。              「ほかの学校も回らなきゃならないんで、これで失礼します。先生もお元気で。」                    「ありがとう。Aさんもがんばってね。」          これが最後の会話だった。

  打合せのために彼の携帯電話の番号を聞いてあった。迷惑を考えてあれ以来かけたことはない。だが僕は今でもそのナンバーを保存している。もしかしたらもう繋がらないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。なにはともあれ、僕にとっては大事な宝物なのだ。

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 一味違う「潜水艦」映画

 「ハンター・キラー」という映画を初めて見た。「潜行せよ」なんて副題が付いていたので、B級くさいイメージだったのだが、これが大間違い。脚本もしっかりしていたし、カメラワークも一級品。俳優陣も渋くてかっこよくて、特に主役のジェラルド・バトラーが少し陰りを帯びているのが何とも・・・。この人って、ホワイトハウス二部作(と勝手に呼んでいる)のうちの、シリアスな方に出てた人だよね?

 正直、ストーリーは「こんなにうまくいくわけ無いじゃんか」みたいなところもあるんだが、描き方が上手いとそれが許せてしまうんだなあ。誰かがツイッターで「ダイ・ハード」になぞらえていたけど、確かにそんな感じもあった。ただし、こちらは笑うところは一切無し。アクションと心理戦でぐいぐい押してくる。ところで皆さん、他の潜水艦ものとして「クリムゾン・タイド」をあげていらっしゃるようだけど、「レッド・オクトーバーを追え!」はもう古いんですかね?あれもなかなか良かったですよ。特に、事が終わった後の敵国(と言っていいのかどうかわからんけど)同士の艦長たち(ショーン・コネリーとスコット・グレンもしくは同乗していたアナリストのアレック・ボールドウイン)が良い雰囲気で会話するところも似ていて、僕なんかはそっちがすぐに頭に浮かんだんだけど。ただ、最近の映画ばかり見ている若い世代には、CGの出来が物足りないかもしれない。

  話は戻って、この「ハンター・キラー」の新機軸は、陸軍(かな?)の特殊部隊による地上戦が絡んでいるところで、潜水艦という密室の中でアクションがこじんまりしそうなところを、派手な戦闘シーンでうまく補っている。そして双方にきちんと見せ場が用意されているので、飽きることなく最後まで一気に引っ張られた。その中で人間模様もちゃんと描いているし、特筆すべきは名脇役たるロシアの駆逐艦の扱いがとても上手で、久々に文句なしの映画を見た気がして、とても満足できた。

  ところで、潜水艦ものの戦争映画の古典に、「眼下の敵」というのがあるのを知っています?これは第2次世界大戦もの(1957年制作)で、アメリカの駆逐艦(長)とドイツのUボート(艦長)の心理戦を描いた秀作なんだけど、孤立無援の一騎打ちなんだよね。今でも潜水艦映画のベスト10には必ず入ってくる。この映画のなかで、老練のUボート艦長が、「今回の戦争は(第1次世界大戦と比べて機械化が進んだために)人間味のかけらもない」みたいなことを言うシーンがあって、「第2次世界大戦でもうすでにこれじゃあ,リアルタイムで中継すらできる現代の戦争はどうなってしまうんだろう」と思ったのを覚えている。だが主人公である二人の艦長は、クライマックスで見事に「人間味のある戦争」を見せてくれる。人間味があれば戦争しても良い、という意味ではない。戦争のなかでさえ人間味を失わない事の大事さを描いている、という意味だ。今の若い人が見てどう感じるかはわからないが、潜水艦映画に興味があったら、ぜひ一度見てみて欲しい。ラストシーンの会話がとても良い。

  知らない人もいると思うが、水中ではレーダーが使えないので、敵の位置を知るにはソナー(アクティブ・ソナー)を使う。ただし、これはこちらが出した音波(あの、コーンと響くやつですね)が反射して返ってくるのを聞いて相手の位置を特定するので、こちらの位置もわかってしまうから、むやみに使うことはできない。むしろ足の速い水上艦艇が優位な立場で使うことが多い。もうひとつの方法が「水中聴音機(パッシブソナー)」。潜水艦ものには、かならずヘッドホンをつけっぱなしの人が出てくるけど、あの人たちがソナーの係員ですね。要するに相手のスクリュー音とかを聞いて位置を割り出す方法。推進機関こそ今では原子力によるタービンエンジンなんてものが当たり前になっているし、海上自衛隊のようにいまだにディーゼルエンジン+バッテリー(モーター)でも、相当長い間潜行したままでられるようにかなりの進化を遂げているわけだが、この水中索敵能力だけはどうも新しい技術が開発されていなくて、洗練されてきてはいるものの、いまだに音に頼っているというのが何とも・・・。だから、よくあるでしょう、窮地に追い込まれて「期間停止!総員、音を立てるな!」というシーン。で、やらんでも良いことをやって手を滑らせ、何か落とすヤツが必ずいる。そこのお前!余計なことするな!もう一つ。ハンター・キラーでも出てくるが、近い距離で真後ろに付くと、前にいる潜水艦には気付かれない。これは、前の艦の機関音やスクリュー音に邪魔されて、後の艦の音が聞こえなくなるためらしい。追尾していて、離れたくなった時には機関停止すれば無音で離れることができる。ロシアの潜水艦は、追尾する艦がいないか確かめるために定期的に急旋回するんだそうだ。進路に角度差ができると相手の音をキャッチできるというわけだ(この操艦をクレイジー・イワンと言う)。さらに無線で連絡をとるにも、ある一定の深度まで上がらないと通信できないということで、水の中は思った以上に勝手が違うようだ。

 ちなみに、前記したように海上自衛隊の潜水艦はいまだに原子力は使用していないのだが、これはこれですごくメリットがあるらしい。第一に原子炉という熱源がないので、赤外線探知衛星に探知されにくい。第二に、原子炉の運転音がないので、機関を停止すると文字通りの無音潜行が可能になる。聞くところによると、アメリカの太平洋艦隊と模擬戦闘をした時に、海上自衛隊の潜水艦隊はその隠密性を生かして待ち伏せ攻撃をかけ、何回か全滅させたことがあるらしい。やるなあ、海上自衛隊。

レッド・オクトーバーを追え!
眼下の敵

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 ホラー映画とは?

 ホラー映画が好きだ。「そんなことあり得ない」と思いながら、「もしあったらどうしよう?」とも思う。その狭間の感覚というか、中途半端に不安定な気分にさせてくれる。現実逃避的な意味合いもそこにはあるのだろう。そういった意味ではSF映画も好きだ。ただし、最近のSF映画は特殊効果(CG等)を見せるためだけのものになってしまっているような気がする。これは×かな。

 アメリカでは最近マーヴェルレーベルのコミックスを映画化するのが流行っているが、あれは僕はダメだ。「何でもあり」すぎるからだ。その点、50年代のSFは良かった。クモが巨大化したって?そりゃ大変だ!でもなんで?それはね・・・と、多少無理矢理ではあっても、種明かしがある。これが楽しい。なかには「ウッソー!」みたいなこじつけもあるが、とりあえず説明はされている。ホラーではこうした科学的な説明はいらない。ただし、多少なりとも起こった出来事の因果関係というか、原理的なものは説明されることが多い。時には「だってそうなってんだから仕方ないだろ」とか言われて「そっかー、怖いわー」で終わってしまうようなものもあって、「なんで祟るんだよー」とか「なんでこの人が死んじゃうんだよー」とか言っても、悪魔とかその一党なんて、そもそも何考えてるかわかったモンじゃないから、中近東の悪魔がいきなりニューヨークの少女に憑依したりする。その人知を越えた不条理さが怖いのだ。

 最近のホラー映画を見ていると、いやホラー映画に限らず、「こういうことがありました。後は自分で考えてネ」みたいな丸投げ的なものがあって、あれはちょっと感心しない。80年代の、血糊の量を競うような風潮もあまり好きではなかった。その後、しばらくして現れたのが「リング」に代表されるジャパネスクホラーと呼ばれる一連の作品群であった。「リング」のなかの「何があったかわからないけど、ひどい死に顔なのでなんかものすごいものに遭遇したに違いない」的なシチュエーションはなかなかいい。見る側が勝手に一番怖いことを想像してしまう。これは説明不足ではなく、想像をかき立てるための技法だから許せる。そもそもアメリカンホラーはどちらかというと「痛い」怖さ。しかも恐怖の対象を視認できることが多い。日本には「気配」という素晴らしい言葉があって、これは最終的に恐怖の対象を視認できるとしても、そこへ行くまでにじわじわと見る者を締め付けてくる。こういう作品が好きだ。最近の洋画では、「ジェーン・ドゥの解剖」がこれに近かった。古くは「ブレアウイッチプロジェクト」あたりか。「ジェーン・ドゥの解剖」の、最後のセリフなんていかにも意味深で、ちょっと投げた感じもするが、あれは許す。

 邦画では「回路」がわりと好きだ。ストーリー的には酷評もあるようだが、あの見せ方は特筆ものだ。だが、なぜかアメリカがリメイクすると同じシーンでもあまり怖くないから面白い。これは多分、下着のカタログに外国人女性を使うとあんまり・・・いやいや、話を続けよう。

  つまり、何が怖いかというと,理解できなかったり、理不尽であったりすることなのだろう。「なんでオレが!」と思うその恐怖。これは怖いぞー。例えば悪魔が憑いたのなら「ああ、悪魔憑きね」でおさま・・・らないかもしれないけど、まあ、理屈はわかる。すでに概念があるからだ。ところが、「リング」のような話になると、「ビデオ見ちゃいました」が死ぬ理由になる。身に覚えがなくても、ぜんぜん悪いことしていなくても死ぬ。これはいやだなあ。しかも黙って死なせてやればいいのに、「何日後に死にます」なんて電話がかかってくる。嫌味なことこの上ない。そういえば原作を読んだときに「本を読むのは大丈夫なんだよな?」なんて気持ちになったことを思い出す。続編ではこれもアウトな設定だったような・・・。いずれにせよ、そういう日常ではあり得ない不条理の中に身を置くことで、現実からつかの間逃避できるのが、ホラー映画の魅力のひとつだろう。あまり健全な方法とは言えないが。

 SFホラーとか、SFアクションといったクロスオーヴァーものも最近多い。「エイリアン」シリーズや「バトルシップ」なんかがそうだ。「エイリアン」シリーズなんていまだに続いているし、あれこそクトゥルフ神話だ!なんていう人まで出てくる始末だ。H.R.ギーガーの画集「ネクロノミコン」がデザインのもとになったからって、少々考えすぎだろう。「バトルシップ」については、「そんなことあるかーい!」の連続で、あれくらいやってくれると逆に快感だ。戦艦ニュージャージがあんなに簡単に始動できる状態にあるとは思えないし、投錨して進路を急カーブさせるなんて、何十年も前に宇宙戦艦ヤマトがすでにやっている。そして多分どちらも無理だろう。しかし、無理を通さないと地球が危ない。その無鉄砲さ加減がかえって「やるなあ、ニュージャージ!」とか思わせてくれるのだ。あのレベルの侵略がもし現実に起こったら、一週間で地球は占領されてしまうに違いない。

 ところで、「イベント・ホライズン」というホラーSFをご存じだろうか。天文学が好きな人なら、イベント・ホライズンという言葉がブラックホールに関する専門用語であることはすぐわかると思う。日本語では「事象の地平線」などと訳される。ブラックホールのこちら側とあちら側を分ける境界のことを指すらしい。あちら側では何が起こっているのか観測できないのでこう呼ばれている。

 深宇宙探査船「イベント・ホライズン」が、特殊な推進力を使ってブラックホールの向こう側への旅に出る。そのまま消息を絶ち、数年ぶりに帰ってきた「イベント・ホライズン」には生存者は一人もいなかった。クルーは全て残忍な方法で殺害されており、クルーのかわりにそこにいたものは?・・・謎解きの手がかりは、航宙日誌に記録されたラテン語(!)の音声のみ。では、イベントホライズンがたどり着いた場所とはなんだったのか?                           アレだよアレ。                    じゃ、宇宙船にとりついていた存在とは?          カレだよカレ。                      そういうお話。何しろアイディアがいい。ネタばらしになるが、この世界ではない別の世界へ行く能力を持った宇宙船が行った先は地獄だった、とか、よく思いついたなと思う。各キャラクターの絡みやドラマ部はイマイチだが、この荒唐無稽さはアリだと思う。

 過去にスタンリー・キューブリックとA.C.クラークのコンビが同じようなデザインの宇宙船で神(科学的な概念としての)のもとへ行ってみせたが、それから何十年もたってから、今度は悪魔のもとへ行く映画が作られるなんて、思ってもみなかったに違いない。まあ、作品としてはこじんまりとしているが、特殊効果やセットについてはかなり凝っていたと思う。

 付け足しだが、「メッセージ」もなかなか良かった。異星の巨大宇宙船が現れたときの人々の生活の様子がリアル。授業を中断して学生を帰宅させる大学のシーンなんて、「ウンウン、こうなるだろうなー」と思わせてくれる。その後の展開も、難解さはあるものの(時系列が妙に混乱している)、最後にきて「ああ、そうだったの!」と、しっかり回収してくれる。ちなみに原作は短編集で、他の作品もひねりがあってなかなかのもの。 よくこんな話を映画にする気になったな、と思う。短編集は全体としては例の、「そんなことあるかーい!」の連発で、作者は「ここではこれが普通なんです」みたいな顔をして一歩も譲らない。とにかくこの作者は頭がいい。その思考実験に無理矢理つきあわされている感じ。好き嫌いの分かれる作風だが、僕は嫌いではない。ちょくちょく読み返す気にはならないが、読後感を一言で言うなら、「すげー。よくやるよ。」といった感じか。興味があったら読んでみるといい。だが、ダメな人は一話目の終わりまですらたどり着けないだろう。

 というわけで、ホラーやSFは僕にとっては現実逃避のためのツールである、ということを言いたかったかったのだが、なんだか脱線ばかりしてしまった。この埋め合わせはまた今度。

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 T飯店のチャーハン

 チャーハンが好きだ。あまりいじられていない普通のやつがいい。子どもの頃、近所に町中華の原体験となった店があって、それがT飯店だった。僕の住んでいたT市にも本格的な中華料理店はあったが、入ったことは一度も無かった。その店のショーケースには鶏の丸焼きが飾ってあって、その店の前を通るたびに、いつかあれを注文してみたいと子どもながらに思ったものだった。ただしこの話にはオチがあって、鶏の丸焼きに見えたのは実は北京ダックであって、肉を食べる料理ではないことを知ったのは大人になってからのことだった。北京ダックを出すぐらいだから,相当本格的な店だったのだろう。

 その当時T市にあった「T名店街」という名のアーケード街には、もう一件、名前は忘れてしまったが小さな街中華の店があって、そこで僕は肉団子とカニ玉の味を覚えた。だが、ほとんどの街中華的な料理は、出前を頼めるT飯店で初体験したのだった。  

 T飯店は僕が小学生の頃にオープンし、ご主人が亡くなった今も健在である。今では奥さん(というか、もうばあちゃんだ)が一人で切り盛りしており、多少薄味になったものの、あの頃とほぼ同じ味付けを楽しむことができる。僕は27歳の時にT市を離れたが、今でも帰省する折にはT飯店の営業日に合わせてスケジュールを決め、家族を連れて店を訪れたり、実家で出前を取ってもらったりしている。ただし、出前と言ってもおかもちを運ぶのは我々だ。ばあちゃん一人の店なので、多人数の注文の時は我我が運ぶのである。娘たちはT飯店の味がとても気に入っていて、すでに家を出て一人暮らしをしている長女など、T飯店のご飯が食べたいがために個人的に実家に遊びに行っているぐらいだ。下の娘も時折、うなされたように「T飯店のチャーハンが・・・」とつぶやく。  

 T飯店は看板も落ち(文字通りの意味である)、斜めに立てかけてあって、なじみの客以外はそこが現役の飲食店であることすら気付かないであろう、といった外見である。暖簾も色あせ、近づいてみないとそれが暖簾であることすら気付きそうにない。 中に入ると、今時こんなテーブル売ってるのかいな、という感じの古ぼけたテーブルが並んでおり、その上には雑誌や新聞が置いてあって、食事の邪魔になることこの上ない。椅子に至っては何度買い足したのか、同じデザインのものは二つと無い、と言っていい。テレビはいつもつけっぱなし、壁に貼ってあるお品書きは一度だけ値段の部分を貼り替えてあるが、いずれも油を吸って茶色く変色し、10年以上値上がり等は一切無かったであろうことがわかる。加えてラインナップも、僕が子どもの頃とほぼ変わらない。ただし、今は一人で全てをまかなっている都合上、その日の仕入れによっては「今日はできません」というものもあるようだ。少し前までは店の隅で老犬が寝ていたが、残念なことにその犬は昨年亡くなったと聞いた。そんな店構えであっても、近くにある法務局や司法書士会館の人たちが昼食を食べに来るので、客足が途絶えることが無い。安くて美味いのだから無理もない。

 僕がいつも頼んでいたのはチャーハンと餃子の定番の組み合わせかオムライス。時々麺類を頼むが頻度はそう多くはない。このチャーハンがとても美味で、今まで食べた中ではT飯店のチャーハンが一番だと思っている。だから、中華料理の店では必ずと言っていいほどチャーハンを頼んで味を比べてしまう。しかし、他の店でチャーハンに満足したことは今までただの一度も無い。勿論T飯店のチャーハンが誰が食べても世界で一番美味、と言っているわけではない。要するに、僕の好みの味なのだ。さらにこのチャーハンについてくるスープが、これまた絶品なのである。レシピはとても単純だ。刻んだネギと醤油の入った小椀に豚のバラ肉(多分)で取ったスープを注ぐだけ。これがすこぶる美味い。これが飲みたいがためにチャーハンを頼んだこともある。 勿論その他のメニューも頼んだことはある。特に肉もやし炒めや肉ネギ炒めなど、いつ食べてもおいしいし、ラーメンは勿論もやしそばも捨てがたい味付けだ。残念なのは、餃子の皮が以前より薄い物に変わってしまったことで、元々僕は、餃子については皮が厚くてもっちりしているものが好みだったので、この変化はかなりショックだった。

 僕は料理好きで、一度食べておいしかったものはその味を家庭で再現を試みるという悪い癖がある。たいていの料理は何となくそれに近いレベルまでいけるのだが、このT飯店の味だけはどうしてもうまくいかない。料理に合わせてラードを用いたり、化学調味料の力を借りたりしてみても(中華料理ではけっこう使うらしい)、なかなか近づけない。T飯店のばあちゃん曰く、「家庭用のガステーブルではどうしても火力が足りない」のだそうだ。

 さて、僕たちはいつも土曜日にこの店を訪れる。土曜日は近くの職場がお休みなので、店は貸し切り状態で、気兼ねなくT飯店を満喫できる。ばあちゃんはいつも卵スープをどんぶりに2杯サービスしてくれる。その代わり、最近はチャーハンを頼んでも、例のスープは出てこなくなった。ある時、意を決して聞いてみた。                         「いつもチャーハンについてたあのスープは、もうできないの?」                              「えー、できるけど卵スープの方がおいしいじゃん。」    確かに、卵スープは一品としてメニューに載っているぐらいだから、そちらの方が手が込んでいる分、ありがたみはある。だがしかし・・・。                       「いやあ、俺、あのスープが好きだったんだけど・・・」  「ああ、そう。いいよ、つくったげるよ、簡単だから。」   そりゃそうだ。スープで醤油を薄めるだけなんだから。 ばあちゃんももう年だ。だがチャーハン作りに欠かせないあの腕の振りは今も健在だ。あと何年、このチャーハンが食べられるだろうか。いつもそんなことを思いながらチャーハンの味を噛みしめるようにして食べている。娘たちも同じ気持ちのようだ。 また来るから、長生きしてよね、ばあちゃん。

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 町のブラックジャック

 数年前の夏、僕はブラック・ジャックに出会った。といっても、べつに黒いマントは着ていなかったし、顔の半分の色が違ってもいなかった。メスを忍ばせていたりもしなかったな。そもそも道具らしい道具は使わなかった。

  その時僕は、ケガをしたなじみの(?)野良ネコを何とかしてやろうと、動物病院に連れて行った。そしてその治療中、慣れない環境におびえたそのネコが、僕の左薬指を本気で噛んだのだ。かなりざっくりいったので血がしばらく止まらなかった。ぼくの見立てでは3~4針縫うキズだった。獣医さんでキズ絆をもらったが、止血するのに5枚ぐらいは使っただろうか。獣医師は法律上人間の治療はできないので、ネコをうちに連れ帰ったその足で、僕は緊急夜間の外科医を訪ねた。受付で「どうされましたか」と聞くので、僕は事の一部始終を説明した。そして最後に、 「何針か縫う様だと思います。」              と付け加えた。

 しばらくして名前を呼ばれ、診察室に入ると、ちょっとロン毛の白髪の老医師がいた。ケガをした顛末を聞いた後、彼は僕に尋ねた。                         「消毒はしてあるんだね?」               「いえ。ですがあれだけ出血すれば問題ないと思います。」 「ふむ。」                        彼はヨードか何かの液体で傷口をあらためて消毒し、    「ちょっと痛いかもしれんよ?」              と言って、いきなり傷口を左右からつまみ、締め上げた。              「!」                         びっくりしたが、特に痛みは感じなかった。そのまま1分足らずじっとしていた。すると医師がいきなり、         「ほら!テープ巻いて!もたもたしてんじゃない!テープ!」 これは医師から看護士への指示だ。老医師にあるまじき迫力。まるで罵倒しているようだ。               「は、はい!」                      看護士は慌てて傷口をそれ専用らしいテープで巻き、これまた締め上げた。医師が、こんどは僕にむかって、        「痛くないかな?あまりきついと血が止まっちまうからね。」                          「大丈夫なようです。」                 「よし。明日また来て。キズを確認して消毒するから。」 「は、はい。」                    えっ?終わり?つまんでテープを巻いただけなんだけど。でもまあ、縫うよりは時間はかからないな。抜糸の手間もないし。いやいや、そういう問題か?その後、看護士さんに       「結婚指輪はしばらく外しておいてください。もし化膿して腫れ上がると、外れなくなって指が壊死したり、指輪を切り取ることになったりするんで。」                  などと恐ろしいことを言われ、テーピングの上から包帯を巻いてもらって(やっと治療してもらった気分になった)会計をして帰った。

   昔教師をしていた経験上、どう見ても3針以上は縫うだろうと思っていた。(綺麗に治そうとするならもっとかな。)それがつまんで1分、テープを巻いて終わり。翌日も腫れはなく、包帯がキズ絆に変わった。格下げかーい!結局2週間ほどで、わかりにくい傷跡だけを残して治ってしまった。今ではその傷跡も、言わなきゃわからない程度である。近代医学とは何かが問われる出来事であった・・・?

傷跡がわかるように撮影。薬指の先にうっすらと溝が・・・。

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 ベスト・ムービー

 今まで見たなかでベストの映画は?と聞かれたら、迷わず「我が谷は緑なりき」と答える。古い映画で、モノクロ作品である。監督は今は亡きジョン・フォード。出演者で名前がすぐ出てくるのはウォルター・ピジョンとモーリン・オハラぐらいか。といっても、今の若い人には全くわからないだろうなあ。子役としてはのちによく見かけるようになるロディ・マクドウォール。大人になった彼が、73年の有名なホラー映画「ヘルハウス」の主人公の一人をやっていてびっくりしたことがある。

  ジョン・フォードといえば「男を描く西部劇」というイメージだが、この映画は、イギリスはウェールズの炭鉱の村が舞台。そこに住む一家族を中心にストーリーが展開する。そして「男」というよりは「父親」が主役か。母親は名脇役といったところ。言ってしまえば「そのへんの普通の人々」なのだ。 炭鉱で栄えていた頃のふるさとの記憶と、しだいに変わっていく人の心が錯綜し、それを末息子の目を通して語っている。家族の離散や母親の病気、父の死等、翻弄されながらも力強く生きていく姿が何とも美しい。ちなみに題名の「我が谷は緑なりき」とは、「今では人の心も、あのぼた山(捨てられた石炭がらの山)に黒く覆われたふるさとのようになってしまったが、あの頃はまだ、緑に覆われた美しい谷だったんだよ」という意味。

 いつも思うのだが、ジョン・フォードの映画は、モノクロなのに記憶のなかでは総天然色、ということがままあって、この映画でも森の緑や谷に咲く水仙の黄色がすごく印象的。ジョン・フォードには「荒野の決闘」という西部劇の大傑作があるが、ラストのいよいよ決闘の日の朝まだき、指定された場所に向かうワイアット・アープ(演じているのはヘンリー・フォンダ)をあおりで撮った、その背景の空の青さったら(いや、モノクロなんだけど)・・・! 忘れられないシーンのひとつですね。

  さて、話は戻って、じゃあこの映画の何がそんなに良いのか。それは・・・よくわからない。だがそれが良い。あのシーンが良かったとか、このセリフが良かったとか、それはいくらでもあげられるのだが、この映画の魅力はそういったこまごました美点を超越したところにあるような気がする。見終わった後に残る余韻とか、登場人物への共感とか、たとえると「一緒にあの村で成長したような感じ」とか。

   ある時、僕より10歳は若いアメリカ人(これがまたすごい人で、出身がハイチ、ばあちゃんはブードゥーのまじない師だったとか言っていた。彼も映画が大好きなので、よく二人で盛り上がっていた)に、思うところあってこの映画を見せてみたところ、数日してディスクが帰ってきた。そして「すごい!こんな映画があったなんて知らなかった!間違いなく僕にとってベストワンだと思う!」てなことを英語でまくし立てていた。やっぱり映画好きにはわかるのか。それまでの彼との話題はB級SFやホラー映画ばかりだったから、ちょっと嬉しかった。そういえばこれを見た日本人の知り合いも「見る前と後では世界が違って見える感じ」と、考えようによっては、ちょっと怖くなるようなことを言っていたっけ。

   僕は90年代以降の映画には物足りなさを感じている。こうした映画がなかなか現れてこないのだ。何かこう、物足りないというか、作り物くさいというか。そんな話を長女と話していて気がついた。そうか!文学だ!

 昔の映画には文学とイコールで繋げることのできる作品がたくさんあったのだ。実際、ベスト・ムービー文学の映画化なんてざらだった。もちろんそのその全てが成功したわけではないけれど。そういう観点で見ると、今の映画はいわゆる三文小説どまり、下手をするとパルプ小説やコミックスレベルのものまである。だから、スタインベックの「怒りの葡萄」なんかをジョン・フォードが映画化したりすると、ぜんぜん格の違う名作ができあがるのは当然と言えば当然だろう。勿論人間ドラマもしっかり描かれているので、例えば「我が谷は緑なりき」の主人公たちは十分人生のお手本になり得る。だが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパローは、当然人生のお手本にはならないのである。おわかり?

 日常の延長上にあって、実際に起こりうる出来事。これが大事だ。変にいじくり回して「いやー、無い無い」と思うようなことを「あったら面白い」という観点で描くと、あり得ないけど映画としては面白い作品が出来る。そう、面白いのである。これはこれで良い。僕も娯楽映画は大好きである。だが、所詮はそれだけのことだ。たまには文学的な作品が見たい。いや、見なければいけない気がする。人の心に一生残り続け、時にその人生を左右するほどの影響力を持った映画。だがちょっと待てよ。ここまで書いて気付いた。「文学的な映画」は今でも時折見受けられるが、「映画になる文学」を書く人がそもそももういないのではないか?

 今まではスタインベックやヘミングウエイやトルストイといった文豪の作品が映画化されている。じゃ、今はどうなんだろう? なんだかあやしくなってきたぞ。この続きはまた今度。

       「我が谷は緑なりき」
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  小さな楽しみ

 車での通勤である。遠回りしている。片側2車線の幹線道路があって、距離も幾分近いのだが、どうも風景がつまらない。そこで、水田のなかを通る農道や、用水路沿いの道などを選んで通勤する。すると、季節の移り変わりがとてもよくわかる。あ、山桜が咲いた、とか、稲穂が黄色く色づいたな、とか、ススキが穂を出したな、とか。あぜ道の花などにも気付く。これが楽しい。都市部では絶対に味わえないものだ。

 ちなみに家の庭は結構広いが庭園にはほど遠く、まるで雑木林だ。どこからか飛んできた種が芽を吹き、名も知らぬ花が咲くこともある。これも楽しい。虫なんか、探しに行かなくても、むこうからやってくる。散歩も趣味の一つだが、こういった楽しさを拾い集めながら歩く感じだ。車で走っていては気づけないものも、歩くスピードなら気づくことができる。娘とドングリを拾ったり、土筆(つくし)を摘んだりすることもある。さすがにドングリは食べないが、土筆は毎年天ぷらにして食べる。雑草である「アカザ」もおひたしにして食べたことがある。これがまた美味。京の有名店、摘み草料理「なかひがし」の一品をまねたものだ。こうした小さな楽しさの積み重ねが大きな幸福感に繋がっていく気がする。 だが逆の例もある。いつも見慣れていたものが消えていくのだ。例えば、最近近所の林が一部刈り払われ、カラスウリを見ることがなくなった。緑のなかに映える鮮やかな橙(だいだい)色、それが今は見られない。気がつけば近所の墓地のそばにあった大きなケヤキもいつの間にか見えなくなった。大きな木を見ると、時に宗教的な安心感を覚えることがある。おそらく僕だけではないはずだ。特に日本人は昔から大木を神様の依り代として信仰の対象にしてきた。それが今では何のためらいもなく(いや、ためらいはあったかもしれないが)切り倒される。

 あのケヤキの木があったところは整地され、今では立派な一軒家が建っている。人の土地のことだから何も言えないが、ちょっと残念な気がする。

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 「おかあさん」の一周忌 2

 「おかあさん」の体調の変化は9月1日に始まった。まずエサを食べない。あんなに好きだったマグロもほんの少し口をつけるだけ。2日目に病院に連れて行って点滴。         「これで食欲が戻らなければ血液検査しましょう」      と言われ、1日様子を見た。点滴のおかげで多少元気にはなったが、やはり食べない。結果、再び病院へ。血液検査の結果を知って驚いた。腎臓にかなりダメージがあり、尿毒症みたいな状態らしい。先生のつぶやきが聞こえてしまった。        「この状態でよく動けるな・・・。」           ちょっと覚悟しないといけないか。でも本人はいつもと変わらないように見えるのに。 それから一週間は毎日日帰り入院。動物病院の先生は、                     「多少持ち直しましたが、いつ何があってもおかしくない状態です。特に心臓発作が起こりかねない状況なので。」      と説明してくれた。

 「おかあさん」の送り迎えは僕がやった。仕事は時間休をとり、定時に退勤した。「おかあさん」の体温は次第に低下していった。寝るときには必ずバスタオルを掛けてやったが、明け方にははだけてしまっていた。

   9日は仕事が休みだったが、午前中は台風が近くを通過中で、荒天だった。午前9時には雨が止んだので、「おかあさん」を病院に連れて行った。昨日あたりから足がふらふらで、歩くのが辛そうだった。いつものように「おかあさん」を預けて帰った。

 昼過ぎに病院から連絡が入った。状態が良くないのですぐ来て欲しい、とのことだった。                「わかりました。すぐ行きます。」            10分もかからなかったと思うが、ついたときには「おかあさん」は亡くなっていた。いつもの様に横になって休んでいるようにしか見えない。僕は聞いた。              「これってもう・・・?」                 先生は黙って頷いた。                 「そっか。・・・じゃ、おかあさん、帰ろうか。」      バスタオルで体を包み、抱きかかえてやった。       「もつと思ったんですがね・・すみません。」        先生が謝った。それは別にかまわない。十分良くしてもらえたと思う。 火葬が済み、1週間過ぎても喪失感は消えなかった。悲しみは感じなかった。ただ、 「あ、もう薬はいらないんだ。」 とか、 「あ、おかあさんのエサはもういいんだ」 などと手を止める自分に気付き、空虚感を感じた。こんなにも「おかあさん」のために時間を使っていたんだ、と思い、それでいてもっと何かしてやれなかったのだろうか、とも思った。しかし、現実には起こったことが全てだ。考えたって仕方がない。

  パソコンのデータのなかから「おかあさん」の写真を拾い出してみると、若い頃の写真が見つかった。でかい。人相(?)も悪い。こんなだったっけ、と、思わず笑ってしまった。最後にうちに来た頃はずいぶん丸くなっていたんだなあと(性格や表情の話である)思った。頬をケガで失った後の写真も多い。そのうちの一枚を画像処理して頬をもとに戻してやった。ついでに左目の奇形も何とか処理してみた。前から思っていたことだが、結構な美人さんだ。でもこれはやり過ぎだと思い、もとに戻した。

   最後の半年、「おかあさん」はよく膝の上に乗ってきた。そして必ず、僕を見上げた。                 「ここ、いいんですよね?」                と言ってるように思えた。                「うん、いいんだよ。」                  その瞬間が好きだったんだが、もう二度とないんだよなあ。

   そうそう、「おかあさん」が産んだ最後の子猫たち。あの中の一匹、「コチャ」は今ではうちの飼い猫として元気に暮らしている。「コグレ」は時々庭に現れる。美人さんだった顔が、今ではいっぱしのノラ猫のそれになってきた。それから、「おかあさん」がつけた指の傷跡。多分一生消えることはないだろう。