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 僕らの夏を返せ!

 以前海外のメーカーが、プロペラのない扇風機(プロペラがないのだからこの表現は本当は間違いだ)を開発した。初めのうちは、 「へー、どんな原理なんだろう」 と、興味津津だったが、やがてある重大な欠陥があることに気がついた。そして、この欠陥は夏の少年少女たちの夢を壊しかねないものだった。僕らの夏を返せ!

 説明しよう。 僕も、そして貴方も多分、子どもの頃に一度はやったことがあるはずだ。プロペラ式扇風機のスイッチを入れ、その前に座る。そして、おもむろに、 「あーーーーーーーーー。」                と声を出す。もうおわかりだろう。その声はプロペラが空気を叩く衝撃波に影響され、                 「あ あ あ あ あ あ。」 と細切れになって聞こえる。誰に教わるでもなく、経験的に覚えていく遊びだ。だがプロペラがないと、この現象は起きない。もしこの海外メーカーの新型扇風機が、エアコンと相まって擡頭(たいとう)することになった暁には、あの遊びは子どもたちの夏から永遠に駆逐されてしまうことだろう。

 誰もめったに口にしないが、誰もが知っている、あの夏の風物詩がこうしてまた一つ消えてしまうのだろうか。断じてそんなことがあってはならない。今こそ我々は立ち上がる時なのだ。声を大にして、もう一度言おう。 「僕らの夏を返せ!」

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 シャミという名の猫

 シャミという猫とのつきあいは、「おかあさん」(うちに居着いたノラ猫の名前)に次いで長い。そして「おかあさん」が亡くなった(このことについては、後ほど別に書く)今、シャミは我が家と最もつきあいの長い猫となった。多分11歳。それなりにおばさんであるが、なかなか元気である。シャミは2011年、震災の年の6月に家の中で4匹の子どもを産んだ。これは家猫として飼っている。シャミの母親は、とっくに亡くなった(らしい)ノラの「クロ」か、あるいは「おかあさん」で、シャミ自身はその頃庭で遊んでいた子猫のなかでは一番臆病でなつかなかった。他の3匹が遊んでいるあいだ、シャミはいつも物陰から様子をうかがっているのだった。やがて子猫たちは一匹、また一匹と巣立って(?)いき、最終的にはシャミだけが残った。その頃にはさすがにシャミもなつき、家の中にまで上がり込んでくるようになっていた。2011年3月、東日本大震災の後、良くある例にもれず、パニックになって、どこかに姿をくらましてしまった。だが、そろそろ一ヶ月、というときになって、シャミは帰ってきた。初めは警戒して遠くから様子をうかがっていたが、僕の姿を見て一目散に走ってきた。そしてその6月に、シャミはあろう事か、家の中で4匹の子を産んだのだった。その子どもたちも、だからもう8歳になる。かわいこぶってる割にオジン・オバンである。

 シャミは子育てを終えると、家に居着いて外飼いのペットのようになった。シャミは三毛のけっこうな美人猫で、家の中に泊まることも多くなった。時には僕のベッドにまで上がってきたが、美人なのでつい許してしまった。当時は職場でよく、 「昨日は妙齢の美人がベッドに上がってきてさ・・・」 なんてつまらんジョークを飛ばしたものだ。

 そんなシャミとはよく散歩をする。僕の住んでいる地域は地方都市の一角だが、時の流れにおいて行かれたんじゃないかと思うくらいに農地が多い。近くには神社(人のいない小さなもの)もあって、この環境がここに家を建てた理由の一つだった。

 夏の夕暮れ時など、僕は娘とよく散歩に出かける。その神社までの農道を娘たちと一緒に歩き、賽銭をあげて帰ってくるのがおきまりのコースだ。すると待っていたようにシャミがどこからともなく現れ、尻尾をまっすぐに立てながら僕たちのお伴をするのだ。 

 神社に着くと、シャミは境内の大木によじ登ったり(いいのかなあ)、賽銭箱の前でごろごろ転がったり(本人としては砂浴びのつもりなのだろう、家族はこれを「奉納の舞」と呼んでいる)して、気が済むと僕たちと一緒に家まで帰ってくる。このとき一緒に家に入ればお泊まりコースになる。入らないときは翌朝まで夜遊びコースだ。 そして夜明けとともに入れろと騒ぐ。こんな生活を8年も続けているわけだ。近頃では、年齢のせいかシャミも気むずかしくなり、尿路の病気もあって扱いにくくなってきた。が、「おかあさん」がそうであったように、この関係はお迎えが来るまで続くだろう。ちなみに、シャミという名前は三味線に由来している。つきあいが始まった頃に、家の中のそこかしこで爪研ぎしているのを見て、 「こら!馬鹿やってると三味線にするぞ!」 と叱ったのがきっかけだった。我ながらすさまじい名前をつけたものだ。今ではすっかり慣れっこになってしまい、家の中にはシャミの爪研ぎ場が4~5カ所ある。

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 プジョー505という車

 僕はプジョー乗りである。初めて乗ったのは80年代の505GTIだった。406のページでも書いているが、ピニンファリーナによる流麗なデザインが第一の動機だった。504から受け継いだ吊り目の異形ヘッドライトにも魅力を感じていた。つまり、形で選んだのだ。

 資金難ではあったが、無理を承知で中古車を購入し、実際に乗ってみて驚いた。何この車。まず足回りが良い。まあプジョーのことだからこれは当然と言えば当然か。次にハンドリング。遊びがほとんどない。にもかかわらずスムーズに操舵する。絶妙なフィーリングだ。形から入ったので乗るまで知らなかったことが山ほどあった。調べていくうちに色色なことがわかってきて、惚れ直してしまった。特にタコ足の配管(マフラー)やノンスリップデフなど、説明書には何の記述もなく、ディーラーも知らなかったぐらいだ。

 当時、車の評価に関しては辛口の部類(と思われる)のCGにも記事が載っていて、その中に次のようなことが書いてあった。

 「レストランでオリーブの実が皿にのって出てきた。何の変哲もないオリーブの実である。しかし、食べてみてその真価がわかった。」

  そしてその後に、そのオリーブの実がどれほど手間を掛けて調理されたものかが説明されている。505はそんな車だ、というのである。そういえば僕の乗っていた505もオリーブグリーンのメタリックだった。関係ないか。

 こんな記事も読んだ。「もう少しで家に着くというときに、もう一回り走ってこようかな、と、そんな気分にさせてくれる。」つまり運転していることが心地よい、というのである。これは僕自身、何度も経験した。そして極めつけは、あるワインに関する本に書かれていた一文。ちなみに本の題名は「ワイン通が嫌われるわけ」。

 これは面白い本で、架空のワインスノッブたちが蘊蓄(うんちく)を語り合うなかで、ワインの知識が読者に紹介されていくという凝ったスタイルなのだが、このスノッブたちがフレンチレストランに集まり、「もっとも味のある車は何か?」というテーマで議論するくだりがある。ベンツだ、いやジャガーだろう、サーブも捨てたもんじゃない、などと話が尽きない。そしでこう書かれている。「ようやく話がプジョーの505だろう、というところに落ち着いた。」 ほーう!ここに出してくるわけね。

 これだけワインスノッブを集めて会話させているのだから、そこに505を出してくるからには、筆者はよほどのこだわりがあったに違いない。しかし、残念なことにこの本の主役はワイン。従って、それ以上505に関する記述はない。だが何か嬉しい気がする。もっとも、この話にはオチがある。この場面の最後に、一番のスノッブ、嫌われ者だが誰もこの男を論破できないので一目置かれている、という人物が遅れて店にやってくる。メンバーの一人がすかさず彼に聞く。「ところで、君はいったいどんな車に乗っているんだい?聞かせてくれないか?」すると、彼が答えて曰く「うん?ロールス・ロイスさ」

 ちなみに505GTIを12年乗ったあと、406を20年乗り続けている僕は、今でも505について調べることがある。あるとき、ネットでこんな書き込みを見つけた。彼は酔った勢いで,ネットオークションに出ていた505を落札したのだが、僕と同じように乗ってみて惚れ込んでしまったらしい。特に彼が納車後友人を乗せて帰宅する時に、「おい、おまえちょっと運転してみてくれ。」「なんで」「いや、この車なんかすごいんだ。」みたいな会話があって、これが僕にはすごくよくわかるのだ。

 505に惚れ込んだ彼は、この後しばらくこの車に乗り続けるのだが、次第にあちこち不具合が出てきて手放すことになったらしい。(ちなみに僕の505は205オーナーの友人が怒りだすほどノントラブルだった。)505と別れるときに「ごめんね、505」と書き込まれていて、この気持ちもすごくよくわかった。実は、2016年に406クーペを購入するまで505はうちにあったのだ。つまり、406セダンに乗っている20年間のうち、18年間は505を維持していたわけだ。ナンバーはすでになかったが、エンジンは動かし続けていた。今でも4カ国語の取扱説明書だけは大事に所有している。ちなみにストリートビューでは駐車スペースに今も505が映っている。 さすがに3台を維持するのは無理だし、第一もう部品もないということで、結構悩んだ末のことだった。今でも機会があったら、もう一度所有したいと思う。特にネットで綺麗な車体を見つけたりすると「おー!」とか思う。そして「SOLD OUT」の記事を見て「くそっ!」とか思うのだ。僕が乗っていたのは505GTIの前期型だ。時代に合わせて変な装飾を付け加えた後期型より遥かにエレガントな車体(室内も)だった。もうあの感覚は二度と味わえないのだろうか。ちなみに、505はプジョー最後のFR車であった。

 505 GTI 1984年式 2.2Lモスグリーン・メタリック 2012年の写真。タイヤの空気が抜けてしまっている。この車にタコ足とノンスリップ・デフだなんて、信じられます?

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 プジョー歴

 プジョー406V6という車に乗っている。セダンタイプの前期型だが、故障らしい故障もなく、乗り始めてもう21年になる。9年前に、一度オールペンしてドアの内張を貼り替えた。ついでに曇っていたヘッドライトも交換した。その他にもいろいろやって、80万円ぐらいかかった。でも当時出たばかりの407に乗り換えるより遥かに安かった。そんなわけで、知っている人が僕の車を見ると、 「綺麗な車体ですねえ。」 と、褒めてくれる。まあ、当たり前だ。  

 この全面改修は、そもそも10年目で買い換えようかと思っていた僕に、二人の娘が抗議の声を上げたのがきっかけだった。慣れ親しんだ車を、まだ十分走るのに買い換えるのは嫌だというのである。407シリーズのラインナップにグリーンのボデイカラーがないことも大きかった。僕の406は綺麗なグリーンで、娘たちはそのグリーンがとても気に入っていたのだ。先にも書いたように、この車を購入したのは21年前。初めて新車で購入した車だった。もうほとんど見かけないが、逆に目立っているかもしれない。なにしろ、今どき33(2桁ですぜ、2桁!)ナンバーである。ささやかな自慢のネタだ。この車が齢19歳を迎える頃、ふと考えた。あと10年は乗りたいな。だとしたら、セカンドカーが必要かな?妻に了承を得てディーラーに相談に行き、退職間際のKさんという販売員に406クーペを探して欲しいと頼んだ。実を言うと、もともと考えていたのは、次の世代の407クーペだった。セカンドカーなら新しい車体の方が適当と思われたからだ。しかし、発売してすぐに実車を見た時、デザインがあまり気に入らなかったことを思い出した。気に入らないデザインの車に、義理で乗るというのはいかがなものか。お互いに辛いものがあるのではないか。そこで、思い切って406クーペ。こいつはもとよりピニンファリーナによる素晴らしいデザインだ。だがしかし、馬鹿かお前は。21年車のセカンドカーに、どんなに新しくても14年オチの車?うーん、確かにそうだよなあ。税金だって高いし、修理だって大変だし。しかし、実は根底に、それを補って余りあるほどの大きなモチベーションが働いていたのだった。 そもそもメインとなるセダンを買う時に、クーペのことはすでに知っていた。カタログも手に入れ、そのサイドビューを眺めてはうっとりしていたものだった。ブレーキにはブレンボ、シートにはレカロが標準装備され、何よりも車体側面とダッシュボードにはピニンファリーナのバッジが(製造もピニンの工房だから)・・・。おかげで車体価格はセダンに上乗せ100万円。おまけに子ども二人のファミリーユースを考えるとどうしたって4ドアの方が使い勝手が良い。誤解されないように言っておくが、セダンはセダンでとても気に入っている。かの505から受け継がれたウエストラインの処理など、見事なものだ。下の娘なんか、クーペより美しいと言っているぐらいだ。だから、セダンはセダンでもう10年を目標に考えている。それぐらい気に入っているのだ。問題はその車齢と部品の供給だ。

 プジョーというのはフランスの自動車メーカーで、平凡な車を作ってチューニングで魔法をかけてくる。チューニングが限界なら装備で性能アップ。良い実例がある。そもそも僕のプジョー歴は34年。最初に乗ったのは505GTI。デザインはピニンファリーナが担当していた。エレガントだが、504から受け継いだ吊り目のヘッドライト以外、これといった特徴の無いセダンだ。しかし、この車がすごい。詳しくは別のところで書くので割愛するが、ヨーロッパではかなりの評価を得ていて、タコ足とノンスリップ・デフが標準装備されていた。これは日本のディーラーも知らなかったことだった。何しろカタログデータには何も記載が無いのだから仕方が無い。そういうことを何食わぬ顔で普通にやってしまうのがプジョーなのだ。505シリーズはプジョー最後のFR車だったこともあって、ドライブフィーリングは群を抜いていた。カミさんの車を含めるとかなりの車種に乗ってきたが、505GTIを超える車には出会ったことがない。(家族の所有していたベンツやジャガーを含めても、だ。)ああ、今からでももう一度乗りたいなあ。

 話がそれた。406である。クーペのデザインを手がけたのは、ダビデ・アルカンジェリというデザイナーで、ピニンファリーナでは若手の新進気鋭だったそうだ。残念なことに彼は406クーペを仕上げた後しばらくして急性白血病で急逝してしまった。彼は406クーペを最後まで妥協せずに、しかもほぼ一人で完成させた。当時ピニンで一緒に働いていた奥山さん(著書「フェラーリと鉄瓶」参照)に言わせると、「だからデザインにブレがない」のだそうだ。どうせ手に入れるなら、そんな曰くのある406を、と思ってブルーライオンのKさんにお願いしたのだ。何しろ希少な車で、総輸入台数で1,000台ぐらい(という記述をどこかで見た)、それが販売終了から14年たっているのだから、状態の良い車体はそう簡単には見つからないだろう。そう考えた僕は、「1年待つ覚悟で」とKさんにお願いした。すると、Kさんが言うには、たまたま紹介できる車体が今2台あるというのだ。なんというタイミングだろうか。しかも2台。しかし現実はそう甘くない。こちらの条件は前期型の 左ハンドル。ところが紹介してもらったのは前期型の右ハンドル(60,000㎞)と後期型の左ハンドル(90,000㎞)。 僕は505の時から数えると34年間左ハンドルに乗っている。今更右では左の間隔が危うい。さらに後期型はフロントのエアインテークの形状がマイナーチェンジで少々下品になっている。もっと言うと、ブレンボのブレーキシステムは前期型のみ。結論から言いましょう。両方買ってしまった。だって安かったんだもん。30万と60万。そういったわけで、後期型(こちらの方がコンディションも良かった)に前期型のフロントバンパーとブレンボのキャリパーを移植して、なんちゃって前期型の左ハンドル(程度:良)が完成したのである。しかも部品取り車のおまけ付き。それにしても今回の、このタイミングは奇跡に近いなあ。しかも後期型を購入した時はほんとに嘘みたいな状況で、見せてもらいに行った時に、もとのオーナーさんが「見てると売りたくなくなるかもしれないから、買う気なら今日持って行っちゃって」というので、持ってきてしまった。「1年待つから探して」とお願いしてからわずか1週間後のことであった。ちなみに右ハンドル車はKさん自身のコレクション。だから余計安く買うことができたわけです。  

 こうして406クーペはめでたくうちの車の仲間入りをした。運命を感じる出会いだったなあ。でもその後は苦労の連続で、結局その後の2年間で90万円ぐらいはかかった計算だ。救われたのは車検が交互に2年おきということ。この古さの輸入車を1年に2台ではさすがに通帳がパンクする。 ついでにエピソードをもう一つ。Kさんから購入した前記型右ハンドル。実は後期型だということがわかった。マイナーチェンジの時にほんの短期間だけ、前期型のブレンボ装備の車体に後期型エンジンを積んだ車体が販売され、希少な存在として中古市場では大人気だった。僕の手に入れたのはこの車体だったのだ。えー、もうバンパーとブレーキばらしちゃったよー。でも右ハンドルだからまあ仕方ない。シートもかなり傷んでたし(後期型のシートはほぼ無傷だった)。ちなみにこのことを知っていたらKさんは売らなかったのではなかろうか。その翌年Kさんは退職し、今は趣味の庭いじりに精を出しながら元気にやっているそうだが、会う機会にはまだ恵まれていない。もし会うことがあっても、このことは内緒にしておこうと思う。

406クーペ(後期) ブレンボとバンパーカバーを中期型から移植。後にいるのがセダン。
406クーペ(中期?希少車)左:コチャ(うちの猫)  右:そのBF
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 シャミとその子どもたちについて

 シャミとは半ノラの猫の名前である。うちと関わるようになって10年になる。半ノラといっても、最近は高齢のためか外に出ている時間がめっきり少なくなった。  東日本大震災の直後、シャミは家の中で4匹の子どもを産んだ。家族で相談し、2匹を残して2匹を里子に出そうということになった。ところが、である。家人一人一人がそれぞれ気に入った猫がバラバラで、話が全く進まない。確かに、どの子猫もそれなりの個性があって、捨てがたいものがあった。そんなこんなでずるずると月日がたち、「かわいー!」と言ってもらうには少々無理がある様相を呈してきた。結果、なし崩し的に4匹を飼うことになってしまった。娘たちが小遣いからエサ代の一部を捻出することが条件だ。その頃には何となく呼び名も決まってきた。しかし正式な命名ではなかった。ゆくゆくは家から出て行くかもしれない猫に名前をつけるのもどうかと思ってのことだった。

 三毛のメスがタイショー(軍人の階級の方だ)。すごく甘ったれで、光の反射や飛んでいる虫を追うのが大好き。 それよりでかいツラをしているいたずら好きの白猫がゲンスイ。オス。白といっても耳と尻尾にうっすらと茶がかかり、「トースト」でも良かったかな、なんて思っている。 いつもグータラなわりにはイケメンのヘタレ。オス。耳のあたりと尻尾に黒い班がある。なぜか異国情緒のある毛並み。 そしてグレイ。オス。小さい頃は掴み所の無い灰色だったが、成長するにつれて上品なグレーの毛並みに。

  さて、飼うと決まれば無責任な飼い方はできないので、早速ワクチンを。獣医に連れて行くのも一度に二匹ずつの2往復。ここで問題が発生した。

「カルテをつくるので猫ちゃんたちのお名前を教えてください。」                           「はい?」                       「猫ちゃんのお名前を・・・。」            「・・・グレイ。」                   「はい。それから?」                   「・・・タイショウ」                  「はい?」                       「タイショウ。軍隊の」                  「・・・はい。それから?」               「ゲンスイ。これも軍隊の」                周りにいる人たちがこっちを見ているのがわかった。    「わかりました。それで、最後の子は?」       「・・・ヘタレ。」                 「・・・ヘタレちゃんですね。・・・ありがとうございました。」                          

 冷や汗ものである。とにかくこうして、書類上の名前がめでたくきまっ(てしまっ)たのだった。後に病気をした時など、薬袋に「ゲンスイちゃん」だの、「タイショウちゃん」だの、部隊が全滅しそうな名前が書かれていて、何とも微妙な気持ちになることもしばしばだった。残念ながらもう亡くなったが、晩年ケガをしていたためにうちで保護した老ノラが、子を産むたびにうちに来て子連れでエサをせがむので、「おかあさん」という名前をつけた時など、薬袋に「おかあさんちゃん」と書いてあって、「これ、誰?」みたいな感じだった。皆さん、ペットの名前は真面目に考えましょう。

 それまで知らなかったのだが、動物病院ではペットにちゃん付けで呼ぶのが習わしのようで、会計の時も、 「ゲンスイちゃーん」 とか 「おかあさんちゃーん」 などと呼ばれる事がある。ああ、他人のふりをしたい。 「おかあさん」のエサを買う時のエピソードは別に書くが、人前で「おかあさんのご飯買わなきゃ」などと言いながらペットフードを買うことは、勿論あれ以来していない。

           ・ゲンスイ
              ・タイショウ ・ヘタレ   
       ・グレ(グレイ)               
     (・・・なぜかヤンキーの記念撮影みたいになってしまった。)
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あの時と同じ空

 高校生の時、Kという友人がいて、自転車で遠路はるばるうちに遊びに来てはいろいろな話をしたものだった。 彼が帰るときには、途中まで送っていき(別に変な関係ではない、僕は自転車を走らせることが好きで,散歩?がてらに送っていったのだ)、時には近くの神社でさらに話し込んだ。この神社が気持ちのいい場所で、僕の住んでいた街を見下ろす高台に立っていた。神社にしては珍しく、大きな木が少なく空が広く開けていた。 その日も僕たちは傾き始めた日差しのなか、小さな駐車スペースに自転車を止めると、階段を上って境内の片隅にある草むらに身を投げ出した。その時見た空が今も忘れられない。真っ青な空のとても高いところにうっすらと雲があり、それがゆっくり動いていた。その時、なぜだろう、「ああ、地球は本当に回っているんだなあ」と感じた。もちろん理屈では、単に雲が風にのって動いているのだとわかっているのだが、僕の感性の部分が「地球が回っている」と感じ取ったのだ。 友人には申し訳ないが、その時何を話したかは全く覚えていない。ただ、広い空の高みをゆっくりと動いていく雲のイメージだけが、今も脳裏に焼きついてる。   

   時が過ぎ、僕が実家を離れたあと、あの神社があったあたりに国道のバイパスが通った。あの神社がどうなったか心配だったが、帰省した際に確かめてみると、ぎりぎりまで山が削り取られてはいたものの、神社そのものはしっかり残っていた。そして、山が削り取られたためにその鳥居は遠くからでも望めるようになった。  

   大人になった僕は、今でも自分の住んでいる街の空を見上げることがある。時代が変わり、人の心が変わってしまっても、空はあの時と少しも変わっていないからだ。