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 虫の声(2)

 明日から10月に入る。庭の隅にはまだ彼岸花が咲いているが、盛りは過ぎたようだ。代わりに、数日前からキンモクセイの花が香り始めた。

 夏の終わりに何となく寂しさを感じるのは、万人の認めるところだろう。ツクツクボーシが鳴き始め、田んぼの色が黄みがかってくる。あらゆるものの影が少し伸びて、空も今までより高く見える・・・。だが、本当に寂しくなるのはそのあとだ。

 数年前の秋のことだ。ある夜、コオロギの声がすっかり聞こえなくなっていることに気付く瞬間があった。その時僕は、今までに無い寂寥感を感じた。勿論実際にはそんなことはないが、今年の生命の営みは今日終わったんだと、そんなふうに思えたからだ。科学技術に裏打ちされた人間社会ではほとんど感じることのできない感覚。それをなぜかその時に限って強く感じた。

 日本の「二十四節気」には「啓蟄」というのがあって、これは冬ごもりしていた虫たちが再び姿を現すことを意味する。そういえば毎年、「おお、蟻がでてきた!」なんて日があって、変に心が躍る。これらは目で見て初めて認識される変化だ。一方虫の声は、その対象が目の前にいなくても認知できる。ある意味、「環境音」に近い。

 日本人はなぜこうも虫の生態に心引かれるのだろう。先ほど僕は「虫の声が途絶えると今年の生命の営みが終わったように感じる」と書いた。実際には鳥のさえずりは年間を通じて聞こえているし、植物の世界ではこれから実りの秋を迎えるというのに。多分これは、虫たちのほとんどが短期間でその活動を終えるように見えることに起因しているのだろう。その儚さが、日本人の心情にマッチしている、ということだ。例えば夏の虫の代表である蝉は、羽化してから1~4週間でその寿命を終え、夏の終わりにはその屍をさらす。ところが、実際には幼虫時代を土中で数年過ごすと言われていて、長いものでは5年を超えるそうだ。それを知ってしまうと、確かにちょっと興ざめする。

 あらためて考えてみると、「鳴く(というか音を出す)虫」はそれほど多くない。日常的に聞くことができるのは蝉やコオロギ・バッタなどの類(たぐい)だろうが、僕としてはもう一つあげておきたい。それは「ケラ」だ。一般的に「オケラ」と呼ばれている、コオロギの仲間だ。初夏の頃に夜のあぜ道などで聞くことができる「ジー」あるいは「ビー」と表記できる鳴き声(というか音)で、思いのほか大きな声で鳴く。毎年その時期になると、うちの家族は「オケラが鳴き始めたね」などと言って話題にする。

 初夏から初秋にかけての、1年の1/3に当たる期間を、人はこうした虫の声をそれとなく聞きながら生活している。それが中秋の頃にぱったりと途絶えてしまうわけだから、寂しく感じるのも道理と言えば道理だ。だが、こうした季節の変化を感じ取れる生活をしている人は、もしかしたら今ではそんなに多くはないのかも知れない。僕はどちらかと言えば幸せな部類なのだろうと思う。

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 アニメの薦め

 今年の夏はアニメ三昧だったような気がする。きっかけは前に1度書いたことがある「からかい上手の高木さん」第3期が今年の上半期に放送されたことだった。最終回に心が動かされて、第1期からあらためて全てを視聴することに。その後、夏に公開の劇場版を2回見た。なぜそこまでのめり込んだのかは今だによくわからない。そのあと「古見さんはコミュ症です。※」2クール分を鑑賞。これも良かった。いずれもいわゆる「ラブコメ(ディ)」なのだが、僕にとっては他のアニメとはちょっと印象が違う。

 この夏も「彼女、お借りします」だの「カッコウの許嫁」だのと、ラブコメアニメはあまた放送されはしたものの、これらはどうも心の琴線に触れてこない。というのも、これらは同じ「ラブコメ」というジャンルでありながら、主人公の男子が優柔不断で、それ故関わる女子が何人も現れる。要するに男子1人を複数の女子が取り合う、俗に「ハーレムもの」という構図だ。どうしたら良いのかわからなくて主人公がパニックに陥る様が面白いのだろうが、この状況が僕にはどうも楽しくない。「お前がもっとしっかりしていれば、こうはならないだろう?」的ないらだちすら覚える(多分こういったアニメを楽しむにはいささか歳をとり過ぎているのだろう)。その点、前に挙げた2作品は主人公であるカップルの関係に(多少の波乱はあっても)ブレがない。そしてここがポイントなのだが、良き友人たちに助けられながら、人間として着実に成長していく。特に「古見さんは・・・」の古見さんはタイトルどおり「コミュニケーション障害」を持っていて、超絶美少女でありながら、それ故「お高くとまっている」などと誤解されることも多く、劇中、中学校では孤立して、悲しい思いをしてきた過去が語られるのだが、高校入学時にある事がきっかけで、お人好しで優しさの塊のような只野君と友人関係(後に恋愛関係に発展)になり、少しずつ心を開きながら前に進もうと努力するようになる。特に1クール第1話の、誰もいない教室で、背面黒板をいっぱいに埋めて二人が筆談するシーンは、BGMも手伝ってとても感動的。1クールの1話でこれやっちゃったら、後どうするんだよ、と心配になるほど。

 同じく成長譚でありながら、ちょっと毛色が変わっているのが「・・・高木さん」で、この作品の良さは、中学生である主人公カップル(友達以上恋人未満的な?)のやることがほぼ昭和の小学生みたい、という点にある。純朴で、何となく懐かしい。駄菓子屋でポットからお湯を注いでもらうカップ麺を食べながら、「二人でご飯食べるの、初めてだね」って、いつの時代の話だよ(中学生なんだから、せめてフードコートとか行けよ)。それが理由かどうかはわからないが、劇場版を上映中の映画館には中年以上の男性が半数近くいた。なかには70代とおぼしき白髪の男性まで・・・。いったいどんなきっかけがあって映画館に来たのだろう?

 普通アニメといえば子どもからせいぜい若者が鑑賞するものだったが、「オタク」やスタジオジブリの擡頭を機に、いつの間にか大人も鑑賞できる時代になってきた。僕もこの歳でアニメにのめり込むのは多少後ろめたいのだが、よくできたアニメは僕のような視聴者に大事なことを思い出させてくれたり、懐かしい過去へと誘ってくれたりすることがある。そもそも長いこと人間をやっていると、疲れたり汚れたりで大事なことを見失っていたりするものなのだ。そんな時、こうしたアニメに出会うと、何となく気持ちが若返るような気がするのは、きっと僕だけじゃないだろう。勿論思うことは人それぞれだから、受けつけない人もいるだろうが、一度試してみるのも良いと思う。

※「コミュ症」あるいは「コミュ障」という言葉には、専門用語からスラングまで、いろいろな解釈の仕方があるようなので、使用には注意が必要かも。

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 映画の中の食事

 映画を見ていると、よく食事のシーンが出てくる。文学でも同じで、以前、スタインベックの「朝めし」という短編に出てくる、焼きたてのパンとベーコン、それに珈琲だけの食事を家で再現した話を書いたと思う。実はこれ、映画でもやったことがある。

 1968年公開の「2001年宇宙の旅」に登場する木星探査船「ディスカバリー」号のクルーが食べていた宇宙食(開発と提供はNASAだそうだ)。4つの四角いパレットにパテ状の料理が詰まっている。色はオレンジ、グリーン、ブラウン、白だったかな。同席していたもう一人は違う組み合わせだったような・・・。パレットごとに数種類のメニューから選ぶと、温められた状態で調理マシーンから出てくる。これが妙に美味そうで、大学時代にSF好きの仲間と再現に挑んだ。といっても、手に入る食材には限りがあるし、何も資料がないので完璧に「なんちゃって」料理。マッシュポテトをベースにニンジンやほうれん草を練り込んでそれらしいものを作った。ブラウンのものは挽肉でハンバーグ状のものを平らに焼いて容器に詰めてみた。白いのはまんまマッシュポテト。味は・・・まあ、材料から容易に想像がつくので面白くも何ともない。だが見た目にそれらしいものが出来上がったというだけで大いに満足した。

 次に西部劇でカウボーイたちが野外でよく食べている、いわゆる「ポークビーンズ」。といっても、アメリカの家庭料理として紹介されているようなもの(豆と肉以外にもいろいろ入っていて、トマト味で煮込む)ではなく、豆に干し肉とかベーコンを加えて煮込んだだけのもの。味付けはどうなっていたんだろうねえ。想像もつかないし、塩コショウだけで美味しいものができるとも思えないので、これについては再現は断念。映画でもコック長が「これはホントに人間の食い物なのか?」などと文句を言われているシーンをよく見かける。映像で見ると美味そうなんだけどなあ。一説によると、南の方では後述するチリコンカーンなんかも食べていたみたい。あ、あとですね。1968年公開の「ウィル・ペニー」という西部劇では、カウボーイたちが当時の主食であったであろうホットビスケットらしきものをポークビーンズと一緒に食べているシーンがあった。僕はこの映画でしか見たことがない。ちょっと感動した。でもKFCみたいにメイプルシロップをかけたりはしてなかったな。もっと北の方(カナダ寄り)ではかけていたかも。

 さて、チリコンカーンなんだけど、これはTVシリーズの「刑事コロンボ」でコロンボ警部(日本語版では警部と呼ばれている)がよく街角のスタンドで食べてたっけね。これもやけに美味しそうに食べているんだが、自分で作るまでもなく、教師時代に給食で散々食べた。でも何だか釈然としない味。本物はもっとスパイスがきいているんだろう。トマトで煮込んだ野菜たっぷりの方のポークビーンズもよく給食に出たな。

 お次はホラー映画。ゾンビが喰ってる人肉を・・・じゃなかった、もっと高尚な「シャイニング(1980)」のなかで、取り憑かれておかしくなる前のジャック・トランスが、朝食にウェンディ(奥さん)が焼いたベーコンを目玉焼きの黄身に浸しながら食べるシーンがある。フォークを使わずに指でつまんで食べるのだが、これがとても美味しそうだった。

 ゾンビと言えば一昔前、駄菓子屋で「ゾンビ肉」なる商品を売っていた。着色料で青く色づけしたビーフジャーキー(・・・だよね・・・?)なのだが、色のイメージからか、何だか不気味に感じた。しかし、人間がゾンビの肉を食うって、よく考えてみると逆だよな。最近見ないけどまだあるのかね?・・・そう思って調べてみたら、とんでもない記事がヒット。中国あたりで、冷凍庫に売れ残っていた賞味期限がもう歴史、といった肉(もともとが密輸品。最長で40年ぐらい前のもの)を何も言わずに販売して食中毒が発生、という事件があって、それもゾンビ肉と呼ばれているらしい。こっちの方がよっぽどホラーかも知れない。

 「青い食べ物」については、「羊たちの沈黙(1991)」で主人公がFBIアカデミーを卒業したときのパーティーにとんでもない色のケーキが供されていた。FBIの紋章をデザインしたケーキで、ベース色は濃紺。何をどうすればあの色が出せるのか、料理好きの僕にしても見当がつかない。一目見ただけで「食べたくねぇな」と思った。いつぞやTVで見かけた「青いカレー」も同様で、どうも青という色は、食欲を減退させる効果があるようだ。

 最後はかの有名な喜劇王チャップリンの「黄金狂時代(1925)」のお話。金の鉱脈を探して雪山に入り、遭難して何日も山小屋に閉じ込められたときに、食料がなくて仕方なく革靴を柔らかくなるまで茹でて食べるシーンがある。皿に盛りつけ、ナイフとフォークで優雅に食べる。靴紐はパスタのようにフォークに巻き付けて・・・。一応言っておくと、これについては今のところ家庭で再現する予定はないです。

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 衝動的・・・?

 8月の後半に起きた2件の傷害事件が気になっている。どちらもその場にあったハンマーを兇器として使用していて、はじめから用意していたものではない。要するに現場でいきなり激高し、衝動的に事に及び、手近にあったものを使ったということだ。犯人はどちらも男性で、1人は21歳、もう1人は67歳。21歳の犯人に至っては、「殺そうと思ってやった」と、殺意を認めている。僕みたいな呑気な人間には、衝動的に殺意が芽生えるという心理的プロセスがまったく理解できない。あ、勿論じわじわと殺意が湧く、という経験も無いです。念のため。そもそも、誰かを心の底から憎んだことがほとんど無くて、仮に憎たらしいと思っても何だか長続きしない。なぜかというと、僕には、相手が「なぜそんなことを言ったりやったりしたのか」を考えてしまうという、悪い癖(?)があって、上から目線のようで申し訳ないんだけど、結果的に相手に同情してしまうんだよね。僕や、僕と同様の精神構造をしている人間なら絶対やらないようなことを、なぜこの人はやってしまったのか。そこには何か深い訳があって、むしろこの人は気の毒な人なのではないか、というような。勿論命に関わるようなことであればそんな悠長なことは言ってられないけどね。 

 もう一つ、疑問に思うことがある。こういった人たちは、「自分がそれをしたら、その後どういう結果が待っているのか」を想像できないのだろうか、ということ。まあ、「衝動的」だから、そんなことを考えている余裕なんて無いのだろうけど、だとすればあまりにも大人げないと言えないだろうか。

 そもそも大人になるとはどういうことだろうか。人は子ども時代に親から愛情を注がれ、養護されながら育つにつれて世界が広がっていき、それとともに他者との関わりも増える。そんな中で傷ついたり癒やされたりしながら耐性というものが身につくと同時に、他者の気持ちを理解できるようになり、優しさや強さが生まれる。並行して、学校という疑似社会のなかで、他者と上手に関わっていくノウハウや組織の中での責任感が養われ、いわゆる社会性が育っていく。やがては人間的に独り立ちし、自己肯定感とともに他者と折り合い、容認する能力も身についていく。キーワードは「自立」と「自律」かな。勿論実際にはもっと複雑だろうが、ざっとこんなところだろうか。だが、何らかの理由によってこのプロセスが大きく阻害されると、僕らが普通に考えているような大人にはなれない。以前は当たり前のようにできていたことだが、現代ではこういったプロセスを阻害する要因が山のようにある。その大半は育てる側(単純に「親」という意味ではない)の問題だが、差しさわりが多くて列挙できない。そんな時代だから子供じみた大人が増えてきたんだろう。こうした「大人になりきれない大人」たちが、また次の世代を育てていく。 

 「自分の都合」と「他人の都合」の食い違い、これは社会生活を営む上で避けては通れない問題だ。そこに折衷案を見いだそうと努力するのが大人なのであって、ネット社会でよく見られるように、味方を集めて主張を通そうとするのは子どものやり方だ。そんな現状に気付いている識者は少なくないはずだが、なぜかそういった人たちの主張は聞こえてこない。「大人しい(おとなしい)」と漢字で書けば一目瞭然だ。大人はむやみに自己主張しないから、その考えが表面化しづらい。上手くいかないなあ。

 今回の事件に話を戻すと、普通に考えれば他人に対して殺意を抱くまでには長いプロセスがあるはずで、通常ならそのどこかで理性や洞察力が働くので、結果として実行には至らない。いや、むしろ殺意を抱くに至らないと言った方が良いか。しかし衝動的な事件ではそのプロセスを飛び越えて実行に至るから厄介だ。しかも最近では血気盛んな若者だけでなく、人生の達人であるはずの高齢者にもその傾向が見られる。となると、こうした傾向の「始まり」は相当過去にさかのぼるはずだ。

 今ならまだ間に合うかも知れないが、このまま放っておいたら、次の世代は間違いなく、もっと訳がわからなくなると思う。そしてこの問題を何とかするのは、紛れもなく「大人」の仕事だろう。

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 流行ってわからない

 ワイドショーで興味深い話をしていた。なんでも、この夏フィッシングベストがファッションとして流行ったという。そのポケットの多さと、ちょっとしたワンポイント的なアクセント効果が評価されたらしい。特に今年は女の子が注目していて、街角のインタビューでも「かわいい!」とか「機能的!」という声をよく聞いたとか。

 僕は記憶力が良いのか、それとも性格が悪いのか(多分後者)、いろいろなことを人よりよく覚えていたりするのだが、確かフィッシングベストは、若い男性の間では2~3年前にも流行ったと思う。当時もワイドショーなどで取り上げられていたが、取材のポイントはまったく違っていて、「フィッシングベストをファッションに取り入れている若い男性をどう思うか?」という観点で街行く若い女性にインタビューしていたと記憶している。しかも、インタビューの結果は「ダサい」「おじさん臭い」という意見がほとんどだった。見事に惨敗。それから2~3年経った今、女の子たちが「かわいい!」と言ってファッションに取り入れるようになったわけで、ホントに流行ってよくわからない。

 昔「ザ・フライ」という、人間がハエに変身してしまうホラーSF映画(1986年)があった。その主人公(男性)のクローゼットには同じジャケット、同じスラックス、同じ靴が幾つも収納されていて、「これなら何を着るかで悩まないだろ?」と言うシーンがあった。合理的。いや、これは冗談ではなくて、実は僕もこの方式をワードローブの一部に取り入れている。ウケの良かったコーディネートをいつでもできるように、同じアイテムを複数購入するのだ。一番多いのはドイツ連邦軍のセーターと茶のコーデュロイのスラックスかな。どちらもへたれてくると買い足して、多分5着ずつあると思う。夏用の麻のスラックス(黒)も多分3本ある。黒のタートルは毎年2着は買い込んでいる。これらは、ごくたまに「いつ洗ってるの?」なんて聞かれるほどのヘビーローテだった。種明かしをしてみせると、「こだわり方がお洒落ですね」と言われるか、「・・・」とあきれられるかのどちらかだ。

 問題はお気に入りのコーディネートが他人をも納得させられるかどうかであって、僕は流行なんか気にしないので、確かにこの方式は楽。そのへんにあるものを適当に組み合わせても結構マッチするので(そもそもがマッチするように選んでいるので)、「今日のコーデ、良いですね」なんて言ってもらえる。不思議なもので、こうしてイメージが確立してくると、たまに新しいアイテムを導入しようものなら、「らしくない、いつもの方が決まってる」なんて意見も飛び出して、ちょっと寂しかったりする。

 ファッションについては、特に男の場合はフォーマル・カジュアルを問わず、ベーシックなポイントさえ押さえていれば間違うことはほとんど無い。女性の場合は・・・こんな話がある。

 「ある女性とフレンチ・レストランで食事をした。その夜、彼女は素晴らしいドレスを着ていた。趣味の良いハンドバッグを携え、イヤリングとセットのネックレスがとても素敵だった。・・・つまり、彼女のコーディネートは失敗だったということだ。」 

 勘の鋭い人はもうおわかりだろう。ファッションというものは基本、脇役であって、個々のアイテムが強く印象に残ってはいけない、というのだ。今の話で言えば、「その時の彼女はとても素敵だった」でなければならない。なぜ素敵に見えたのか、その演出が相手に悟られてしまうようではダメだ、ということだ。これはある有名なブランドのデザイナーの言葉として、その筋では有名な話だ。ちなみに本意は個人のファッションセンスについて言及したものではなく、デザイナーとしてのポリシーを語ったもの。確かに、一般論としてはちょっと極端な言い回しではある。まあ、参考程度にしていただければ、ということで。

 流行は刻一刻と変わる。その全てが自分に似合うとは限らない。大事なのは、自分にはどんなアイテムが似合うのかを知るということだろう。

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 虫の声

 異常気象というのか、今年の夏も何だか変だった。梅雨の前に猛暑日が続いたり、梅雨そのものがあっという間に明けてしまったり。これでは動植物もたまったもんじゃないだろう。かく言う人間の社会においても、熱中症の話題が後を絶たず、各種メディアが「できるだけ外出を避け、寝るときもエアコンは付けたままで・・・」などと警告を流し続けた。30~40年前には「寝るときにはエアコンを切り、扇風機も風が直接当たらないように・・・」というのが普通だったのに。昭和の時代には全盛を極めた虫取りの少年たちも、今では絶滅危惧種だ。地球温暖化って、こんなにも急激な変化をもたらすんだねえ。

 そういえば日々の生活の中でも如実にそれを感じることがあった。例えば蝉の声。盛夏にはアブラゼミやミンミンゼミがやかましいほどに鳴くのだけれど、盆が過ぎ、8月も下旬になるとツクツクボーシがそれにとって変わるのが例年だった。それを聞いて「やべえ、宿題終わってねえ」なんて焦った記憶がいまだにあるぐらいだ。さらに、これまた夏の終わりを告げる、一般的に「秋の虫」として認知されているコオロギなどの声。今年はこれらが全部ひとまとめになって、盆前から聞こえている。なんだこれ。情緒も季節感もあったもんじゃない。今に思えば、昨年もそんなふうだったような・・・。

 最近、南洋の魚が日本近海で網に掛かったり、サンマが日本近海から居なくなったり、という話をよく聞く。つまり伝統的な食材が手に入りにくくなっているということだ。このまま温暖化が進めば、野山の植生までもが影響を被りかねない。これは日本の風景が変わることを意味する。これでは日本が日本でなくなってしまいそうだ。 

 日本の文化、特にその精神性においては季節感に負うところが大きい。俳句の世界には季語というものがあるし、日本料理や和菓子の佇まい、服飾のモードにも四季の変化が大きく影響している。ところが最近では季節の変わり目一つとっても、春や秋といった季節があったのか無かったのか、あっという間に夏や冬になってしまうような気がする。近年衣替えで悩んだ人も多いと思う。京都の町屋なども、「夏のしつらえ」などと言っている場合ではなくなってきているはずだ。このまま行くと、日本の文化そのものの存続すら危ういんじゃないか。海水面の上昇や異常気象に比べたら些細なことと言われてしまいそうだが、こんなところにも、温暖化を止めるべき理由がある。

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 夏といえば怪談 2022 偶然って怖い?

 この夏、あのNHKがまた変な番組を放送した。「ホラー短歌の世界へようこそ」だって。よくもまあ、いろいろと考えるものだ。全6夜構成で、放送時間は10分。毎回テーマが決まっていて、第5夜は「画面の中」。様々なモニター画面に現れる怪異を取り上げている。その中で、ネットのフリマに出品されていた瓶詰めの幽霊の話が紹介されていた※。語り手が面白がって問い合わせてみると、「幽霊は家の中の『隙間』に潜んでいるので、粘着テープでとらえる」のだという。まるで「G」みたいじゃないか。それにしても、発想が奇抜で面白い・・・いやいや、本題はそこじゃない。毎回読んでくれている人はもうお気付きですね。少し前にこのブログで紹介した「こっくりさん」の話にも「隙間」が出てきたということに。僕もこれだけならあまり気にもしなかっただろう。しかし、話はこれだけじゃない。この夏、WOWOWで見たホラー映画のタイトルの一つが「隙間女」だったのだ。文字通り、隙間に潜む幽霊の話。こんなこともあるんだねえ。

 「こっくりさん」が隙間にいるという話は、ひょんな事から20年ぶりぐらいに思い出して、UPしたのは7月8日。映画「隙間女」は2014年の作品をこの8月(多分18日?)にWOWOWが放送した。NHKの「ホラー短歌の世界へようこそ」は今年初お目見えの番組で、第5夜「画面の中(隙間の幽霊の話)」は8月22日放送。つまり、この1ヶ月ほどの期間に、数十年にわたる時間をまたいで「隙間」に関わる怪異譚が三つ揃った、ということだ。これって、偶然という一言で片付けて良いのかなあ。多分良いんだよね?

 話は変わるが、市販されている録画用ブルーレイディスクのほとんどは外国製だって知ってました?国産品は今ではパナソニック製のものだけだと聞いている。僕が普段使っているものも外国製だ。この製品は過去のある時期にやたら不具合があった。おそらく製造ロットにまつわる不具合だろう。録画した映像に突然ブロックノイズが現れ、フリーズしてしまうのだ。最近の製品ではこの症状は改善されているが、ごくたまに同じ症状が出ることがある。ついこの間、このディスクに録画したホラー映画、「シライサン(2020年)」を見ていた時のこと。この映画は僕にとっては久々のヒットで、とくに「シライサン」の姿のおぞましさ(ビジュアル的にはそれほどでもないのに、何だか長く見ていたくない感じ)も良いし、映画では描ききれていない部分(ノベライズあり)まで含めるとわかるのだが、田舎の失われた風習というかタブーが、時を越えて現代社会に生きる人間に災いをもたらすという展開も僕好みだ。実は出てくる化け物が「シライさん」なのではなくて、漢字で書くと「死来山」。化け物はここからやって来るらしい。この化け物が現れるときには鈴の音がどこからともなく聞こえ、絶妙な距離感(10メートルぐらい?)でいつの間にか目前にしゃがみ込んでいる。この「シライサン」を見ていたら突然画面がフリーズした。今までこのディスクがフリーズしたことは1度も無い。しかもそのシーンというのが、薄暗がりの中でしゃがんでいる化け物が、その長い髪の隙間から異様にでかい目でこちらを見ているシーンで、なぜかノイズも皆無。長く見ていたくないのに、よりによってこのシーンでフリーズ・・・まるで自分が次の犠牲者で、化け物に魅入られたような気がしてぞくぞくしてしまった。

 こういった偶然性は時に人を恐怖に陥れることがある。昔読んだマンガの主人公が、友人の「偶然ってホント、怖いなあ。」というセリフに答えて曰く、「偶然なら怖くない。」まあ、そういうことなのだろう。さてさて、時を同じくして僕の前に提示された「隙間」というキーワードといい、「シライサン」の化け物がこっちを見ているシーンでフリーズするディスクの不調といい、これは果たして偶然なのでしょうか?それとも違う理由があるのでしょうか?あったら怖いなあ。

※ そう言えば80年代のTVシリーズ、「ヒッチコック劇場(リメイク版)」にも「瓶詰めの魔物」なんてエピソードがあった。何とも薄気味悪くて、よく覚えている。ちなみに今回調べてみたら、なんと原作はかのレイ・ブラッドベリ、演出はティム・バートン!すげえ。

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 クリスマスが楽しいぞ!

 上の娘が「そろそろ結婚しようかと思って。」と言うので、「良いんじゃね?」と答えた。別に驚きもしない。付き合っている男性がいるのは知っていたし、長いことその事実を知っているのは父親である僕だけ、という状況が続いていたからだ。なに、普通の家庭と逆だって?うん。うち普通じゃないから。最近ではむしろ、「さっさとケリをつけたらどうだ?」などと、結婚を促すことも多かった。それがやっとこさ、重い腰を上げたというわけだ。「大げさな披露宴とかやるつもりはないんだけど、結婚に当たって何かこれだけは、という希望はある?」と聞くので、「子どもは作れ。」と言っておいた。

 上の娘は今年28歳。下の娘は23歳になる。この長い子育て期間の中で僕が心がけたのは、僕が親にしてもらったことは全部してやろう、ということだった。これは口で言うのは簡単だが、時代や性別の違いからいろいろと実現しづらいこともあった。だが今思うに、+αのほうが多かったような気がする。カミさんの実家がもともと兼業農家ということもあって、娘たちは田植えや味噌造りの手伝いなど、僕が経験してこなかったことも経験できたし、畑を手伝っている最中ににわか雨に遭遇した下の娘が、大きな里芋の葉っぱを傘がわりにして帰ってきたこともあった。

 最近毛嫌いする人が増えているようだが、学校の子供会や地域の夏祭りは僕にとっては楽しい経験だった。もし子どもがいなかったら、あれはやらなかっただろう、あ、これも多分ここまで本格的にはやってないだろうな・・・そんなことがたくさんある。正月の餅つきに始まって、節分にお盆、七夕なんていうのもあったな。そして我が家の年末最大の行事であるクリスマス。この行事の醍醐味は子どもがいればこそのものだ。ここ数年は下の娘がケーキ作りにハマって、既製品のケーキを買うことはほとんど無くなった。その娘も今年就職したので、今までみたいには行かなくなるのだろうなあ。

 世間では子どもを虐待し、事もあろうに死に至らしめる親がいると聞く。悲しいことにそういったニュースは年々増えているようだ。だが、これはあくまで例外であると確信している。もう一つ、これは世の男性諸君に伝えたいことだが、父親にとっても子育ては楽しいものだ。子どもがいたおかげで経験できたこともたくさんある。育児を嫌う父親のほとんどは食わず嫌いのようなものだろう。加えて、仕事が忙しすぎて、育児に費やす時間が取れない場合もある。だが、時間とは作り出すものだ。近年ではそれができる環境も整いつつある。事実、以前は娘から「洗濯物を一緒にしないで」とまで言われていた世の父親たちも、大分威信回復してきていると聞く。

 僕自身の子ども時代を振り返ってみると、両親は一緒にいる時間を工夫して作り出し、子どもを楽しませるための努力を惜しまなかった。大事なのは、そんななかで自分たちも楽しんでいたということだ。僕はそんな両親を見ながら育った。今の若い世代は、子どもを作りたがらない人が増えているそうだが、それは親の苦労ばかりを見せられてきたからかも知れない。さらに現代では、個人がスマホ(というかネット)に費やす時間も多い。こういった「自分のための時間」の妨げになる存在はいらない、ということもあるだろう。だがこれについては今後、さらに大きな問題になっていくような気がする。子ども(他者)のために自分の時間を犠牲にすることは子育ての基本だし、延いては人間関係の基本でもあるからだ。子育てはそれを学ぶ機会をくれる。どんなに歳を重ねても、その年齢や状況に応じた成長というものは存在するのだ。だがその機会を嫌い、放棄すれば、結果は「停滞」しかないだろう。娘たちにはそんなつまらない人生を送って欲しくはない。

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 水木しげるの偉業

 もはや知らぬ人はいないであろう、漫画界の巨匠、水木しげる。その代表作の一つである「ゲゲゲの鬼太郎」には数多くの妖怪が登場する。一反木綿、子泣きじじい、砂かけ婆・・・。だが、これらの妖怪の中には、そのビジュアル・イメージが水木しげるのオリジナルであるものが多く含まれていることを知る人は少ない。 

 その昔、鳥山石燕(1712~1788)という絵師がいた。妖怪画集「画図百鬼夜行」を著した事で知られている。石燕は古い文献をひもとき、当時姿のわからなかった、あるいは目に見えない現象だけの妖怪にも姿を与え、数多く紹介している。この仕事を現代に引き継いだとも言える存在、それが水木しげるだ。彼は時代の新しい妖怪や石燕が取り上げなかった妖怪にも光を当て、より多くの妖怪を世に紹介してきた。興味深いのは、彼が描く妖怪画は石燕の作品に代表される古い妖怪画を参考にするのみならず、独自の感性をもって、民芸品や道具、欄間の彫刻などもモチーフにしたことだ。例えば、後述する「砂かけ婆」は佐渡島の「鬼太鼓」の面がもとになっていると言われている。

 水木しげるは点描の手法を多用し、細密画と言ってもいい精緻な図版を数多く残している。特に初期の作品は漫画の作品とは一線を画するもので、画集も早い時期から出版されていた。この時期の作品を新しい時代のそれと比較すると、その感覚の違いがよくわかる。というのも、描かれる妖怪の姿がある時期以降、そのまま漫画に登場させてもおかしくないキャラクター性の強いものに変化してきたからだ。その典型的な例を紹介しよう。

 実は別の原稿(まだUPしていない)を書いている時に、「べとべとさん」について調べていて、面白い記事を見つけた。「べとべとさん 本当の姿は」で検索すると見つかるのだが、この質問に対するベストアンサーに「大きな黒いソラ豆のような・・・」と書かれている。僕はこの「べとべとさん」を知っている。30年以上前に古書店で購入した、水木しげるの「ふるさとの妖怪考」という画集に、この「べとべとさん」が掲載されている。それは何か得体の知れない扁平な形の「モノ」で、一部に隙間が空いていて中が少し覗いている。だが中身が何なのかはよくわからない。確かに、ソラ豆に似ていると言えば似ている。

 一方、ご存じの方も多いと思うが、現在流布している「べとべとさん」のビジュアルは、歯を剥き出し、ニヤニヤした口だけの大きな丸い頭から2本の足が直接生え、裸足か、もしくは雪駄を履いている。怖いというよりかわいらしい。しかし実は、もともと「べとべとさん」には姿など無い。目に見えない足音だけの存在なのだ。つまり、こうした不可視の存在にイメージを与えたのが鳥山石燕であり、水木しげるなのだ。

 こうして水木しげるは数多くの、本来姿のない妖怪に具体的なイメージを与え続けてきた。実は「ゲゲゲの鬼太郎」の準レギュラー、砂かけ婆もその一人(一人?)だ。いにしえの伝承によれば、深い森の中や神社の境内などで突然砂が降りかかるのだが、正体については「その姿を見たるものなし」ということになっている。見た人がいないのに「ばばあ」って・・・というわけで、「ばばあ」という言い回しも、元は「ババ(糞便)」ではないかという説もある。

 おそらく、これらのイメージは定番として、今後も多くの人々から認知され続けるだろう。だが安手のビジュアル情報が氾濫する現代においては、水木しげるのような逸材は、もう現れないのではなかろうか。

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 イラストの中の彼女

 以前にもどこかで書いたように、僕はその昔、大学で美術を学んだ。当時、アニメイラストの世界はまだ確立しておらず、作品自体も大人にとってあまり価値観を感じられるようなものではなかった。しかしその後、アニメと並行してライトノベルが一世を風靡すると、その挿絵にかなり凝った作画が見られるようになった。おそらく「吸血鬼ハンターD(1983)」あたりがその先駆けで、さらに近年、作画にデジタル技術が導入されたこともあって、アニメイラストは次第にカテゴリーを拡大しながらその世界を確立させていった。今では本格的なイラスト画集も数多く出版されている。

 現代のこうしたイラストには「情景イラストレーション」というカテゴリーがあって、これらの作品は完成度が高く、中には一枚の絵画と言ってもいいものまである。あるときふと手に取ったイラスト画集が素晴らしく、即購入してしまった。タイトルは「美しい情景イラストレーション」。現在第4弾まで発売されている。第2弾以降はサブタイトルが付けられ、「ファンタジー編」「ノスタルジー編」「ダークファンタジー編」と続く。結果的に全て購入した。ファンタジー系は作者の思い入れが満載で、正直なところ少々鼻につく感じだったが、1冊目と3冊目は自分が高校生だった頃を思い出させるような情緒豊かな情景で溢れていた。特に印象的だったのは、真夏の陽射しと木漏れ日のコントラストや、夕暮れの入道雲と踏切の組み合わせ。つまり夏の風景だ。また、線路がモチーフとして多く使われていることにも驚かされた。描かれているキャラクターの大半が青年男女(高校生が多い)ということもあって、まだ見ぬ土地へと続く人生の象徴のような線路は、その心情を表現するのにうってつけのモチーフではある。ただ、そういった概念が今も健在であることは意外に思えた。だがよく考えてみると、描かれているのが高校生であれば、鉄道は「通学」という日常的な生活の一部でもある。高校時代、自転車やバスでの通学しか経験の無い僕には思いもよらないことだったが、こうした鉄道のイメージは、日常の風景としても普遍的なのかも知れない。

 ところで、こうした情景イラストにはよく女子高校生(以下今風にjk)が登場する。男子高校生とは比較にならない出現(?)率だ。もちろん現代におけるサブカルチャー等がそれを要求しているということもあるだろうが、女性の目にはどのように映るのだろうか。僕にしても、確かにアニメ好きではあるが、けっしてオタクではない。いわゆる「二次元キャラ」に心を奪われるような趣味は持ち合わせていない。だが誤解を恐れずに言うならば・・・いや、やっぱり誤解されそうだなあ。上手く伝わると良いのだが、僕の場合、美しい「風景」に一人jkが配置されるだけで、あっという間にノスタルジックな「情景」になる。もしかするとそれは、自分が一番輝いていた(自分で言うとこんなに違和感を感じる表現も無いが)頃の記憶というか憧れが擬人化したものかも知れない。人は大人になるにつれ、人間社会の表裏というものを理解できるようになる。しかし、そのことが僕を幸福にしたかというと、必ずしもそうとは言いきれない。できることなら知らずにいたかった事柄も少なくない。だがここに登場するjkは、僕がそれらを知る前の時代に呼び戻してくれる、そんな気がする。つまり、イラストの中にいる彼女の目を通して、彼女と同じ世代の頃の自分を見ているということだ。 

 こうした作品はよく「ノスタルジーイラスト」というカテゴリーに分類される。ここで言う「ノスタルジー」とは、脳内に「エロス」という概念が入り込む以前の、純粋な恋心のことでもあるだろう。だとすれば、こうしたイラストでは露出過多の表現はNGだ。さもなくば、別のけしからん世界に誘(いざな)われてしまいそうだ。あまりにデッサンの狂った稚拙なものもダメだ。美術の専門教育を受けたものには一目でそれがわかるので、「背景は良いのに、人物のデッサンが・・・」などと、これまた別のアカデミックな世界に誘われ、情緒どころではなくなってしまう。プロはそのへんをちゃんとわきまえてくれているようだが、素人さんの投稿イラストにはこういった「困った作品」が多く、ネット検索ではごちゃ混ぜになってヒットするので厄介だ。じっくり鑑賞するには、やはり画集を手に入れることをおすすめする。

 「思い出」がそうであるように、全てが美化された世界。こうしたイラストを見た人は、それぞれの人生に重ね合わせて共感することができるだろう。今となっては現実離れした雰囲気も何となく心地よい。そこにはある種の詩情すら漂っている。よく言われることだが、そもそも絵画の良いところはその表現の自由度の高さにある。写真ではできない(今はいろいろできちゃうけど)ことが絵画ならできる。今回話題にした「情景イラストレーション」は、その自由度の解釈をさらに一歩進めたところにあると言って良いのではなかろうか。

「美しい情景イラストレーション」1~4(パイ インターナショナル)