偽善
時々、「オレはとんでもない偽善者だな」と思うことがある。それはどんな時かというと、TVなどで食肉に関する番組を見ている時だ。
歳をとったせいか、最近食肉用の家畜を出荷するシーンを見ていられない。業者の人は「愛情を込めて育てた」と言うが、家畜たちは最後には食肉になる運命だ。勿論それは立派な職業だし、社会の仕組みの一部でもあって、今更どうこう言う問題ではない。理屈ではちゃんと理解しているつもりだ。それでも目をそらしたり、早送りしたりしてしまうのだ。それでいて、食肉になってしまえば、何も考えずに「この肉は柔らかくて美味そうだ」なんてことを平気で言う。矛盾している。
大分前のことだが、「豚のいる教室」という映画があった。ある小学校で子供に豚を育てさせ、最後にはその豚を食肉センターに送る。勿論、子供たちはその豚がどうなるか理解している。子供たちはその豚をPちゃんと名付け、とても大事に育てた。豚は賢い動物だから、子供たちによく懐いた。1年後、そのPちゃんを子供たちは泣きながら見送った。この映画は実話をもとに、ほぼ実話通りに制作された。実際に行われた授業については賛否両論あったそうだが、僕個人としては「なんて授業だ!」と腹が立ったのを憶えている。だが僕が豚肉を食べるのをやめたかといえば、そういう事はなかった。
こうした問題は一種のタブーであって、誰もが知っているにもかかわらず目をつぶり、口に出して言わないことで社会が上手く回る。それをあえて、しかも教育現場でここまでする必要があったのだろうか。これは授業の一環だったから、当然参加を拒否することなどできない。多くの子供たちがトラウマを抱えたであろう事は想像に難くない。
亡くなった父の兄弟には、鶏肉を食べられない人がいたそうだ。幼い頃に、飼っていた鶏を潰すところを見てしまったからだ。僕は昔から、旅先などで出される活き作りの刺身がダメで、骨だけになった魚が(あれ、飾る必要があるのか?)口をパクパクしたりするだけで食欲が失せる。だが食べるのをやめたかといえば、これもそんなことはなかった。
僕が一番見ていられないのが牛の出荷シーン。あの柔らかそうな睫毛に覆われた優しい目を見ていると、何ともやるせない気持ちになる。幸いなことに、子羊(ラム)の出荷シーンというのは見たことがない。さすがに子羊については、例のタブーの原則が働いているのだろうか。
ご存じのように、僕は料理を趣味にしている。特に肉料理が得意だ。そんな僕が、出荷される牛から目をそらさずにいられない。やっぱりこれって、偽善的だと思う。だから普段は気付かないふりをしながら生きている。